2014/01/27

892横浜都計審傍聴イチャモン(その4)再開発事業都市計画なんだから最低でもこれくらいは審議してほしい

「(その3)審議会は市民と行政を結ぶ役割を果たせ」のつづき
http://datey.blogspot.jp/2014/01/891.html

 大船駅北再開発事業の都市計画審議会の審議について、もう少し書く。
 わたしがもしも審議会の委員だったら、委員会資料と説明を聞いただけでも、最低でもこの議案のもっとも基本的なこれだけは質問をしたい。

●都市再開発法3条要件は満たしているのか?
 まあ、議案になっているからOKなんだろうが、なにしろ市街地再開発事業の都市計画なんだから、この基本のキを一応は確かめるべきだと思う。でも、なんだか大きなビルが建っているよなあ。

●なぜ市施行ではなくて組合施行なのか?
 もちろん組合施行で行うこともできるが、これだけ広い駅前広場整備を行いながら、横浜市を施行主体にしない理由はなにだろうか。戸塚で懲りて、もうやりたくない、とか、、。

●関係権利者数と土地面積について同意率はどうなのか?
 組合施行再開発事業は、実は地権者という市民が共同して行う事業だから、周囲からの反対は、一般市民対地区内権利者市民という対立図式になる。形式上はこの都市計画を決めるのは市長だが、この事業を進めるのは地権者たちである。
 ところが、公聴会に地権者と名乗る人が登場して反対意見を述べている。しかも「わたくしたち」と言っているから複数いるらしい。事情は分からないが、共同するべき地権者たちが仲間割れしているらしい。これで都市計画決定しても、円滑に進むのか気になる。全員同意じゃなくて原則型で権利変換をやるつもりか。
 この「わたくしたち」が説得に乗らずとことん反対したら、今後の道は二つ。ひとつは強制代執行で進める。もうひとつはこの「わたくしたち」の土地を除外するように、都市計画決定をやり直すことで、つまり審議会は振り出しに戻るのである。どちらになっても審議会が「円滑に審議したこと」を問われるかもしれない。

・事業の資金計画はどうなっているか?
 再開発事業ではよくあることだが、事業の外野の地区外市民から巨額公費の投入が無駄だという指摘がされる。スポット的に巨額投資だから目につくのである。
 ここでもそれが意見書に出てきているが、それへの市側の見解書には「関係法令や予算に基づく補助制度が適用される予定です」とある。
 あのなあ、これじゃあ、まったくもって見解になっていませんよ。そもそも補助金は、支給できるものであって、しなければならないものではないのだ。
 無駄だって言ってる人の肩を持つ気はないけど、もうちょっとまともに答えてはどうですか。いや、こういう意見に対してこそ、真剣に公費投入の必要性、その意義をキチンと答えるべきである。
 だから、審議会ではその答えがわかるように、この事業の資金計画(管理者負担金、補助金、保留床処分金、補償金、、、、)について、費用対効果とかその妥当性を審議してはどうでしょうか。
 この都計審の後は、もう都市計画審議会も一般市民も口出しする機会は、ほぼなくなるのだから。

 「事業の都市計画」の審議は実に難しいのである。
 本当にわたしが委員だったら、これまでの調査資料、関係者への聞き取り、現地視認など、事前に調べてから委員会に臨むから、もっと審議したい事項は多くなるだろう。なにしろ13800円の日当をもらうのだからね。貧乏人はつい張り切るのだ。

 でもまあ、都市計画審議会は参与機関ではなくて諮問機関にすぎないので、どうせ審議会の議決が原案通り可決だろうと原案否決だろうと、市長は関係なく都市計画決定できるのだから、審議会は気楽なもんである、ということで、このあとの12もの議案は、発言委員は2名だけで、あっという間に原案通りに可決したのであった。めでたしめでたし。
審議会委員名簿 審議会中に発言したのは21人中たった6人だけ
と言うわけで、今回の都市計画審議会は円滑に審議が進んだのであったが、ちょっとすごいと思ったのは、その円滑審議のために市側の説明者が議案ごとに、10数名がぞろぞろと入れかわりたちかわり登場退場する様子であった。
 あんなに大勢がやってきてなにをしてるのだろうか、万が一、難しい質問が出たら、その中の誰かが答えるための頭数だろうか。そんなに大勢が役所を留守にしてよいのか。
 でもなあ、何回もやってわかってるでしょ、そんなマジメな審議はしないんだって。これじゃあ人件費の無駄でしょ。なんだか公費投入が無駄という意見書に似てきたなあ。
 委員の皆様、せっかく大勢待ってるんだから、なにか質問してあげなさいよ、可哀そうでしょ。

 傍聴席が20人分もあったのに、半分しか埋まっていなかった。そのほとんどがダークスーツの業界人らしく、関係議案が終わるとさっさと退場。わたしと同年輩の男女が最後の議題までいらしたが、こちらは一般市民の感じだった。
 なんにしても、市民の傍聴が少ないのは、意外に都市計画には無関心な市民が多いと、いつも思い嘆くばかりである。

 最後にもう一度書いておく。わたしは議題となっている現場を全く知らないので、議案の内容に賛成も不賛成もない。唯一の現場である審議会を傍聴して、そこの提出資料と委員の審議態度についてだけを書いた。
 審議会の委員は議案の現場の実情を知っているから審議できたのだろうが、わたしには議案の現場を知らないままに議案内容について良し悪しを言うことは不可能である。(おわり)

追記2014/01/28
 横浜市の都市計画審議会のインタネットサイトがある。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kenchiku/kikaku/cityplan/tokeishin/
 そこに2012年11月までは、各審議会の議事録が公開されている。しかし2013年1月の第127回審議会から12月の131回審議会まで、ずっと「作成中」にしたままで非公開となっている。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kenchiku/kikaku/cityplan/tokeishin/singi-25.html
 そのうちに去年一年分をまとめて公開するつもりか、非公開に決めたのか。

 だが、わたしが審議会委員だった時に、議事録公開が2カ月もかかって、あまりの遅いので10日以内にせよと提案し、市当局(都市計画課長)は、それは無理かもしれないが、できるだけ努力すると回答した(2009年8月28日の横浜都計審)。
 また、審議会を休日や夜間開催にして市民が来やすくせよ提案したところ、市当局(都市計画課長)は、それは難しいが、議事録を公開してそれに替えていると回答があった(2009年7月3日の横浜都計審)。
 さて、あの約束はどうしたのか、あのころよりも公開度は悪化しているぞ。


参照→たった一人のキャンペーン「都計審を改革せよ」
http://homepage2.nifty.com/datey/tokeisin.htm

2014/01/26

891横浜都計審傍聴イチャモン(その3)審議会は一般市民と都市計画行政を結ぶ役割をはたせ

「(その2)大船駅前再開発議案をまじめに審議していないぞ」のつづき
http://datey.blogspot.jp/2014/01/890890.html

 大船駅北の市街地再開発事業に関する都市計画案の審議について続きを書く。
 
 
市街地再開発事業は、建物を都市計画で決めるという珍しい制度である。しかも一般に、その建物が民有となる施設であり、巨大高層になものとなることがおおい。そしてその建物に税を原資にした補助金を投入する制度がある。
 であるから、都市計画審議会は、その建物の形態や機能、建設費用や税の投入額などが分る事業計画への視点、そしてその事業が確実に早期に行われる担保もとって、その妥当性を審議するべきである。

 ところが、審議会に出された建築の資料は、配置図、断面図、透視図が各一枚だけである。これだけでどうやってこの都市計画事業の妥当性を判断したのか、審議会委員の天才的な能力に感嘆している。
 地域にどのように役立つ施設内容か、これによって変わる地域の景観はどうなるか、日陰はどう及ぶのかなど、いまどきCGで簡単に作れるだろうに、なぜ見せないのか。
 建物の都市計画決定なのだから、それくらいは審議した方がよろしいと思いますよ。
 
 
施設建築物(これが法律用語)だけではなく、公共施設の駅前広場も、単に位置と広さが分るだけで、それだけでどのように交通処理をするのか、それでできのるか、足りるのか、あるいは必要なのか、わたしにはまったくわからない。地元説明会資料のほうが、むしろわかりやすい。
 交通計画が専門の委員もおられるが、そのあたりについてなにも審議されなかったのは、十分にご存じだからだろう。
 しかし、審議会は一般市民と都市計画行政をつなぐのだから、市民に分らせる審議をしてほしいと思う。
 

 市街地再開発事業の建築物の規模が巨大になりやすいのは、ひとえに事業採算のためである。しかし一般の民間開発事業と大きく異なる点は、道路や駅前広場という公共施設整備と建築物の建設が、連動していることである。
 事業の仕組みが、権利変換によって土地建物の移動を行うから、事業前の資産額と事業後の資産額をどう調整するか、これが大きな事業の柱となる。

 このとき公共施設の建設には税を投入できるが、民有となる建物には共同施設の一部のほかは公費投入はできないから、その建設費を保留床処分金によって生み出すことになる。だから、権利床+保留床となって建築が巨大、高層になりやすい。
 このあたりの仕組みのもたらしたものが、この都市計画案なのだが、なぜこのような規模が必要なのか委員は質問されなかったから、ご存じだったのであろう。

 巨大建築ができるとなると、近隣から日影や眺望などで必ずクレームが出てくる。近くの先に建った巨大共同住宅の住民が、先取特権のように反対を主張することもある。
 今回もその巨大さ高さに対して、反対や疑問の意見書が出ている。それに対する市長の見解、つまり反論が、建築物を高層化すれば、オープンスペースを生み出すことができるし、容積率を有効に活用できるからである、としている。
 それはそのとおりだが、これでは結果だけ書いていて、その原因を書いていない。委員はこれでよく分ったのだろうか。

 そもそも容積率を活用するというが、その容積率そのものをこの都市計画によって、緩和するのだから(300%→500%)、緩和してから有効活用するといっては、論理矛盾が起きる。では緩和しなければよいだろう、となる。
 これでは素朴な疑問は解消されないだろう。なぜ緩和が必要かを、真正面から答えるべきである。
 一般に意見書への対応が、そっけなさすぎる。そこのところを補足するのが審議会の役割と思うのだが、いかがでしょうか、委員のみなさま!

 なぜ緩和が必要かそれをきちんと審議するべきである。緩和しなければ巨大化高層化しなくてもよいかもしれないであろう。
 だが、緩和しないと公共施設や保留床が確保できないから事業ができない。高さ制限の緩和(20m→75m)も、緩和しないとむしろ環境悪化するかもしれない。だから壁面後退や地区施設などをきめているのだ。
 これがこの事業の都市計画決定の核心である。

 ここまで緩和しなければ、事業の権利変換計画が成立しないのか、審議会なのだからこそ、そのあたりを確かめるべきであろう。それが意見書に対する審議会としての最低の誠意であると思う。
 そう、その点から事業計画に踏み込んだ審議が必要となってくるのだ。
 なにしろこの議案は、普通の都市計画ではなくて、都市計画事業の都市計画なのだから。

 このイチャモン連載の最初に書いておいたことを、念のために、もういちど書いておく。わたしはこの再開発計画が悪いとか良いとかいっているのではない。審議をちゃんとやれ と言っているのである。    (つづく)

2014/01/25

890横浜都計審傍聴イチャモン(その2)大船駅前再開発議案をまじめに審議していないぞ

889(その1)伊勢佐木モールで地区計画違反営業か」の続き
http://datey.blogspot.jp/2014/01/889.html

 今回の横浜都市計画審議会での最大の問題審議案件は、「大船駅北第二地区第一種市街地再開発事業」と、それに関連する各種の都市計画決定や変更である。
 ひとつの再開発事業のために、9件もの議題となっている。

 これについて、あれこれと書いていくが、ここでのわたしのスタンスを誤解のないように、あらかじめ書いておく。
 わたしは地元事情をまったく知らないから、この議案内容、つまりこの再開発事業がよくないとか、よくできているとか、そういうことを言うつもりは、まったくない。
 ここでは、「この議案を横浜市都市計画審議会は真面目に審議したか」と問うのみである。

 結論を先に言うと、まったくと言ってよいほど審議しないままに、原案通りに可決した。審議会の役目を果たしていない、審議能力が無いのだろうとさえ思った。
 もちろん原案通りに可決して悪いって言ってるんじゃなくて、なんてったって審議会なんだし、日当13,800円わたしが委員のときの受領金額)もらってるんだしもうちょっとはマシな審議してから可決してはどうよ、ってことです。

 一般に市街地開発事業、なかでも市街地再開発事業の都市計画は、かなり専門的知識がないと、都市計画図書を見ただけでは内容の判断はほとんどできないものである。いや、専門的知識があればあるほど、分らないことがおおいと分かると言った方が正しい。
 つまり、都市計画図書に記載してあることから、諸課題を発見する能力がないと、その審議をすることは不可能といってよい。横浜都計審の委員にはひとりもその専門家はいないようで、素人的な質問はあったが、専門的な質疑は行われることはなかった。
 専門バカだけではなくて素人の眼も必要であるが、素人ばかりで審議とは、いかがなのものか。

 市街地再開発事業の都市計画は、他の地域地区や道路のような都市計画と違って、都市計画決定から短期間に実際の事業にとりかかる必要があるから、その事業性の担保をきちんと審議するべきである。
 事業の確実性をいい加減に審議して原案可決して、その後に事業が行き詰まってしまったところは各地にある。そうすると決定した形の再開発のほかはしてはならないという都市計画制限はかかったままだから、街は凍結した姿のままで周りの発展から取り残されてしまうことになる。

 横浜市内の前例では、横浜駅西口の相鉄駅前の市街地再開発事業は、1977年という大昔に都市計画決定しているが、いまだに実施できていない。だから制限だけかかっているので、あのようなゴチャゴチャの街が駅前にあるのだ。まあ、あのゴチャゴチャが好きなわたしには、それもよいか。
 
京急の日ノ出町駅前再開発も、都市計画決定から着工までずいぶん長い期間があった。
 2008年にその日ノ出町再開発都市計画案の審議会を傍聴したが、そのときも本質的な審議はなくて、それでいいのかと思った。決定したとたんにリーマンショックで大変だったに違いない。去年やっと着工した。

 今回の議題の大船駅前についても、鎌倉市側の大船駅前地区に、1973年という大昔に再開発事業の都市計画決定をして、半分だけ実施したが、半分はいまだにできないままである。
 だから、駅は再開発でビルができたが、道路は広がらず、昔からの狭い道に市場的な雰囲気の街がずっと続いている。そこもわたしは好きなところだが、都市計画は宙ぶらりんである。
 
再開発事業ではないが市街地開発事業のひとつである土地区画整理事業について、隣の戸塚駅前周辺地区に都市計画決定したのが、半世紀も前のことである。これも行き詰まって、途中で縮小に縮小を重ねる変更をして、いまだに事業中である。

 そういう経験を経て、最近では再開発事業の都市計画決定は、その決定にあたって地元合意が既に完了し、公共施設や施設建築物の中身がほぼ決まり、事業計画、権利変換計画の案も出ており、今後の事業スケジュールもめどが立ち、事業後の管理計画までも見込みがほぼ立っているものである。

 市街地開発事業の都市計画決定は、慎重に見極めて行うべきである。昔のように、都市計画決定さえすれば、あとはなんとか事業が前に進むだろう、なんて思って決定する時代ではない。
 そこのところを、審議会でなぜ確かめないのか。再開発事業の都市計画決定ならば、それは常識である。事業の中身に立ち入らないで、どうして審議ができたのか。

 まさか、それらは全部わかっていたから審議しなかったということではあるまい。
 いや、知っていて審議をしなかったとすれば、審議会は市民の代わりに審議しているのだから、市民への公開義務があるのに、それをサボったことになる。
 (つづく
 

2014/01/24

889久しぶりに横浜都計審傍聴いくつかイチャモン連載(その1)伊勢佐木モールで地区計画違反営業か

 久しぶりに横浜市都市計画審議会を傍聴に行った(2014年1月24日)。
 「大船駅北地区再開発」の都市計画案を、審議会がどう審議するか、審議できるのか(審議能力があるのか)と興味があったからだ。
 ほかにもたくさんの議題があったので、何回にかに分けて連載して書くことにする。

 改めて書いておくと、わたしは横浜市都市計画審議会の委員を、2008年から2年間務めたことがある。そのことはここに書いたので、ご覧ください。
●エッセイ版「あなたの街の都市計画はこんな会議で決めている」
https://sites.google.com/site/matimorig2x/essay-cityplanning
●本編「あなたの街の都市計画はこんな会議で決めている」
https://sites.google.com/site/matimorig2x/tokeisin

 いろいろ書きたいこと(もちろんイチャモンである)はあるのだが、まずはわたしの日頃の散歩コースの「伊勢佐木モール」の地区計画のことを書こう。
 かつて横浜都心一番の繁華街だったが、どうもこのところ振わない。なんだかチェーンの安売りやばかり増えている感じがする。風俗営業も増えているようだ。
 関内駅に近い伊勢佐木1、2丁目あたりが老舗として頑張らななくてはならないが、横浜随一の松坂屋百貨店が店を閉じて、ますます凋落気味だ。

 今日の議題に、「伊勢佐木町1、2丁目地区地区計画」の変更があった。もともと、この伊勢佐木1、2丁目地区には地区計画があり、変な店づくりを禁止してきている。
 地区計画だけでは精神規定みたいなものなので、その区域の中の伊勢佐木モールに面する店については、地区整備計画という厳しい規定をきめて、法的規制をしてきている。

 一番大きな規制内容は、モールに面する建物は、1、2階は住宅禁止で店舗にしろ、しかもその店舗も風俗営業や倉庫業はダメと言う規制である。
 マージャン屋、ぱちんこ屋、射的場、勝馬投票券発売所、場外車券売場、キャバレー、料理店、ナイトクラブ、ダンスホール、個室付浴場業(ソープランド)等はダメである。

 今回の変更は、地区整備計画の範囲を地区計画の区域全部に広げて、モールに面する建物だけでなく、裏通りに面する建物にもその規制を広げたのである。
 この都市計画変更案は、なんの審議もなくてアッという間に原案通りに可決した。
 でもねえ、わたしは案の中身には異議を唱えないけど、審議をもうちょっとやってはどうですか、と言いたい。

 伊勢佐木モールあたりはしょっちゅう徘徊しているが、店をひとつひとつ調べてるのではないにしても、この1、2丁目の地区整備計画の区域内には、違反している店が少なくとも2軒ある。
 ひとつは「PIA」というパチンコ屋で、もうひとつは「JRAエクセル伊勢佐木」という馬券売り場である。
 

どうしてこれらが営業しているのかと、審議会の委員のだれも質問しないのがふしぎであった。
 審議案件と資料は事前に委員にわたっているから、当然のことに事前に現地を調べているはずだ。わたしが委員のときは、毎回の審議会の前に現地視察をやったものだ。
 もしかして、事前に見ていないので、現地を知らないのだろうか。それは委員として手抜き審議である。

 で、地区計画の文章の中に、もしかして例外規定があるのかと、しげしげと読んでみた。
 もしもこれらが地区計画を決めるよりも前からあったのなら、例外的に許されることがある。そのためには、地区計画の文章の中に、「この地区計画を定める以前に存したものは、この限りではない」みたいなことが書いてあるはずだが、それもない。
 そこで地区計画条例を読んでみたら、こちらに例外規定があった。
参照「伊勢佐木1,2丁目地区地区計画」
 http://www.city.yokohama.lg.jp/toshi/tikukeikaku/c-074.html
参照「横浜市地区計画条例」
http://www.city.yokohama.lg.jp/kenchiku/guid/kenki/chiku/honbun.pdf

 でも、例外としても、どうして、パチンコ屋も馬券売り場も、あんな大きなビルで堂々といつまでも営業しているのだろうか。
 都市計画審議会の委員さんたちは、その実情をご存じないのか、そして例外規定があることをご存じなのだろうか。
 もしこれらが違反行為であって、取り締まっていないのならば、あるいは違反でないとしても地区計画の趣旨にいつまでも反していることに対して何らかの是正手当てしているのか、行政にその不作為を審議会として問うべきだろう。
 このままだと、既得権の既成事実の積み重ねが、せっかくの地区計画をないがしろにしてしまう恐れがある。     その2へつづく

2014/01/23

888年賀状の季節が終って寒中見舞いの葉書をようやく出した

 あ、そうだ、と思いついて、今年のお年玉付き年賀状の抽選がもう終わっているはずだなと、ネット検索をしたら、あった。
 毎年あたるのは最下等の切手であるが、今年も例外ではなくて、それもたったの2枚。でもどちらも故郷の同級生からだったのが嬉しい。

 で、参考までに1等賞は何が当たるのかを見て、エッとおもった。たったの1万円である。
 まさか、そんなことないでしょ、昔は海外旅行とかあったよ。もしかして、今見ているこの当選番号のページは、いたずらかもしれないと、他のページを見ても同じだった。
 へ~、そうなんだ、まあ、お年玉はそれくらいがちょうどよろしいともいえるよなあ、でも、いつの間にそうなったのだろうか?

 ウィキペディアには、2010年の1等賞は、液晶テレビ、国内旅行、パソコンセット、ビデオカメラ、オフィスグッズセットから1点選択とある。
 どうせ当たらないからどうでもいいのだけど、1等賞がたったの1万円になって、当り数が多くなったのだろうか。それでもあたらなかったぞ。
 まあ、年賀はがきをもらうばかりで、自分で買って送らないものには、当らないのでしょうよ。

 年賀はがきなるものを、こちらから出すことをやめて、6年目になる。こちらからは1月末頃に出す寒中見舞いにしている。
 それにはわけがある。自分が年寄りになると、年賀はがき交際範囲の方々も年寄りになって、年の暮近くなると喪中のお知らせの数が増えてきた。人によって年賀状を出す出さないの判別がめんどくさくなってしまったのである。
 1月に出す寒中見舞いなら、全部に出すことができる。

 それをやって変ったことは、いただく賀状の数が減少したことである。ある時期は250枚くらいだった年賀状が、いまでは120枚ほどである。
 それはそれでよいのである。まったく実際の付き合いがないのに、年に1回の賀状だけのやり取りを続ける意味がどれほどあのだろうか。
 親戚とは血縁つながりは消えないし、故郷の人たちとは場所つながりが消えないからつづける意味はあるが、もう戻ることはない仕事つきあいの縁きれは許されると思う。

 その一方で、おかしいのは何十年も全く会っていないし、専門分野としても接点がないし、こちらも寒中見舞いを出さないのに、年賀状だけは毎年いただく人たちもいる。
 ありがたいようにも思うが、それらは勤め先から来ることがほとんどなので、どうやら事務的機械的に出しているらしい。宛名を間違っても、そのまま毎年やってくる。
こういう方には、お断りの賀状を書くべきだろうか?

 インタネットの普及で、例えばフェイスブックやメーリングリストで、数年も全くあっていない知人とでも、日常的に挨拶や情報やり取りできる。だから年の初めだからと、あらたまって賀状交換の意味が無くなる。そうなった知人もずいぶん多い。
 お年玉葉書の賞金が大きければ、それでも年賀状だす意味もなくはないような気がするが、1万円ではなあ。




2014/01/21

887叔父が他界した太平洋戦争激戦地フィリピンルソン島の渓谷からのメールに今の平和を想う

 フィリピンのpinsanという方からメールがやってきた。知らないお方である。
 わたしのインタネットサイトに掲載したこの記事を読んだとある。
    父の十五年戦争  付・田中参三叔父の戦場

 メール全文を引用する(個人情報をはずした)。

 投稿された父の15年戦争読ませていただきました。私はフィリピンケソン市に住み、毎週土曜日か日曜日には散歩にワワ渓谷に出向いています。
 wawa渓谷近郊には通いなれたせいか住民たちと良い関係です。気軽に声をかけあう存在です。
 貴殿が書かれた文書を参考に、現在のワワ村落と日本軍心魂記の写真を主にして、書かせていただきます。
 いい加減なグロブですが(笑)
https://blogs.yahoo.co.jp/takeshi_pinsan/folder/1590979.html


 
 このpinsanさん紹介のフィリピン渓谷と山々の写真は、わたしの母方の叔父が1945年に戦死した地の今の姿である。あの悲惨な太平洋戦争の激戦地のひとつであった。
 叔父のいた軍隊は、この山中で連合軍とゲリラに追われて、食べ物も武器もなくなって、ジャングルと渓谷を逃げ回りさまよい、敗戦で投降した。

 だが、叔父はその前の5月5日に、小高い山の上で戦いの中で亡くなった。1948年4月15日にそう書いた戦死公報がきたが、何もその死を証拠づけるものはなかった。
 戦いの混乱の中で本当にその日でその場所であったか、確かめようもない。

 pinsanさんのブログに載せられている今の平和な姿に、長い日々が過ぎたことを想うだけである。
 叔父が戦場に行く前に別れたきりになった乳飲み子のひとり娘は、すくすくと育ち、いまは年老いた媼となって、更に老いたその母親、つまり叔父の妻を守りつつ、静かに暮らしている。

 インタネット時代だからこそ、このような海を隔てた地の見知らぬ方からの便りがやってきて、亡き叔父と父の戦争、そして今もどこかでやっている戦争への想いをかき立てられることがあるのだ。
 あのような悲惨な戦いで叔父はなぜ死なねばならなかったのか、そしてまた、巻き込んだフィリピンの膨大な非戦闘員市民たちをなぜ死なせねばならなかったのか、想いは広がる。

 pinsanさん、ありがとうございます。
 これからも、良いご関係を保って、平和にお過ごしください。

これはgoogle earthからわたしが探し出した叔父の戦場だった地
(叔父はの千秋山で死んだと公報が来た)

 わたしは太平洋アジア戦争でのもうひとつの悲惨な戦場物語を採集している。悪名高いインパル作戦に参加して、奇跡的に生還した農民のオーラルヒストリーである。
大橋正平さん戦場を語る(法末集落長老の回想)

2014/01/20

886名護市長選挙で辺野古移転反対市長当選とて政府の札びら選挙干渉は効かなかった


 沖縄の名護市長選挙で普天間問題が争点となって、昨日、辺野古移設反対の現職が当選した。政府の露骨な札びら選挙干渉は成功しなかった。
 
 それにしても沖縄の人たちは、きちんと態度を示すものである。この前の参議院選挙でも、沖縄独自の意志を持つ人を国会に送り込んで、基地問題二枚舌候補者をみごとに落としたのであった。
 その点、福島の人たちの態度はいい加減であった。県会では明確に原発NOとしているのに、衆院選挙も参院選挙も国会議員は原発YES党って、どうなってるんですかねえ、なにが沖縄とは違うのですかねえ。

 名護市長選挙結果についての主な新聞社の社説を読んで、彼らの態度を比較してみた。
 下記に各新聞社社説で言っている要点を引用しておく。
 印は、選挙結果はほっとけと言う新聞社、▲印は、選挙結果に中途半端な態度の新聞社、印は、選挙結果を真摯に受け止めろという新聞社である。
 いつも各紙を読んでいるのではないので、よくわからないのだが、なんだかそのまま原子力発電政策への態度と連動しているような感があるのだが、どうだろうか。

琉球新報社 2014年01月20日 社説
 選挙結果は、辺野古移設を拒む明快な市民の審判だ。地域の未来は自分たちで決めるという「自己決定権」を示した歴史的意思表明としても、重く受け止めたい。
  日米両政府は名護市の民主主義と自己決定権を尊重し、辺野古移設を断念すべきだ。普天間の危険性除去策も、県民が求める普天間飛行場の閉鎖・撤去、県外・国外移設こそ早道だと認識すべきだ。

沖縄タイムス社  2014年01月20日 社説
 米軍普天間飛行場の辺野古への移設に対し名護市民は「ノー」の民意を、圧倒的多数意思として示した。国の露骨な圧力をはね返して勝ち取った歴史的な大勝である。同時に仲井真弘多知事が、辺野古埋め立てを承認したことに対し、市民が明確に拒否したことも意味する。
 移設問題を明確に市民に問うたのは、1997年の市民投票以来である。市民投票では、条件付きを合わせた反対票が52・8%と過半を占めた。住民投票的な性格を帯びた今回の選挙で市民は再び移設反対の意思を明確にしたのだ。日米両政府は辺野古移設計画を撤回し、見直しに着手すべきだ。

読売新聞社 2014年01月20日 社説
 選挙結果にとらわれずに、政府は、米軍普天間飛行場の辺野古移設を着実に進めるべきだ
 1998年以降の5回の市長選で、最初の3回は容認派が勝利し、前回以降は反対派が当選した。民主党政権が無責任に「県外移設」を掲げ、地元の期待をあおった結果、保守層にも辺野古移設の反対論が増えたことが要因だろう。
 そもそも、在沖縄海兵隊の輸送任務を担う普天間飛行場の重要な機能を維持することは、日米同盟や日本全体の安全保障にかかわる問題だ。一地方選の結果で左右されるべきものではない。

日本経済新聞社 2014年01月20日 社説
 移設への市民の抵抗感が改めて浮き彫りになった。政府は移設の重要性を市民に丁寧に粘り強く説き続けなければならない
 名護市辺野古が移設先に浮上してから5回目の市長選だった。最初3回は移設推進派が勝ったが、その後2回は反対派が連勝した。民主党政権が「県外移設」というパンドラの箱を開けた影響が大きいと言わざるを得ない。
 ただ、きっかけは民主党でも、市民が心の内に不安を抱えていた事実は無視できない。騒音や事故で迷惑を被るのではないか。なぜ沖縄はこれほど重い基地負担を強いられるのか。こうした疑問を放置すべきではない。

産経新聞社 2014年01月20日 主張
 稲嶺氏は市長の権限を盾にとって名護市の辺野古沿岸部への移設工事を阻止する考えを示している。だが、移設が滞り、日米同盟の抑止力に深刻な影響を与える事態を招くことは許されない。
 仲井真弘多知事は昨年末、辺野古沿岸部の埋め立て申請を苦渋の判断の末に承認した。この流れを止めてはならない。市長選は移設にとって厳しい結果となったが、政府は名護市にいっそうの理解を求める努力を重ね、移設進展に全力を挙げるべきだ

東京新聞社 2014年01月20日 社説
 沖縄県の名護市長選で、市民の意思が明確になった。政府はこの事実を重く受け止め、米軍普天間飛行場の同市辺野古への移設を強行してはならない
 それでも日本政府は、米海兵隊普天間飛行場(宜野湾市)の辺野古沿岸部への「県内」移設を強行しようというのだろうか。
 安倍内閣が強力に推進し、仲井真弘多沖縄県知事が追認した辺野古移設に反対する、名護市民の明確な意思表示である。

毎日新聞社 2014年01月20日 社説
 政府は昨年末、仲井真弘多県知事から辺野古沿岸部の埋め立て承認が得られたため、選挙結果にかかわらず、予定通り移設を進める方針だ。しかし、基地受け入れの是非が真正面から問われた地元の市長選で、反対派が勝利した意味は極めて重い
 地元の民意に背いて移設を強行すれば、反対運動が高まるのは確実で、日米同盟の足元は揺らぎ、同盟はかえって弱体化しかねないだろう。

朝日新聞社 2014年1月20日 社説
 名護市辺野古への基地移設に、地元が出した答えは明確な「ノー」だった。
 沖縄県の仲井真弘多知事は辺野古沖の埋め立てを承認したが、市長選の結果は移設計画や政府の手法への反発がいかに強いかを物語る。強引に事を進めれば大きな混乱を生む。政府は計画を再考すべきだ。

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 それにしても、ちかごろのTVやラジオでは、男女が平気でヘノコヘノコとのたまうのだが、紳士たるわたしはどうにもはずかしくて聞いていられない。
 どうかヘノコヘノコって聞かなくてもよいように、できるだけはやくヘノコ問題を取り下げていただきたいものである。
 ご参考までに『広辞苑』にはこう書いてある。
『へ‐の‐こ【陰核】 ①陰嚢中の核。睾丸。〈和名抄三〉 ②陰茎』

  

2014/01/15

885越後の豪雪山村の小正月行事「賽の神」と「初釜茶会」に行き雪道で転んで捻挫

 

 毎年恒例の越後の山村・法末集落での「賽の神」と「初釜お茶会」行事に参加してきた。
 仲間でチャーターした小型バスは、雪の谷道をさかのぼっていく。今年は去年の今頃よりも積雪は少なかったが、それでも2mくらいは積もっているだろう。今日は雪が降り続いている。
 わたしたちの活動拠点の民家に入るには、道路から玄関まで深い雪をかき分けて通路をつくることから始まる。このあたりでは雪かきとは言わずに、雪掘りと言う。それくらい深い雪ということだ。
 この地に住む人たちの冬の毎朝は、玄関から道まで出るための雪掘りである。

 
2004年の中越震災の翌年から復興支援でここに来るようになって、今年で足掛け10年、いまでは震災復興は終わったが、集落の存続が懸念されている。
 わたしたちの仲間で、せめて村の行事に景気をつけてあげたいとて、小正月の「賽の神」行事に参加し、これにくっつけて「初釜お茶会」をはじめたのであった。
 春か秋には花づくり見学にやってきて、夏には盆踊に参加している。そして、棚田でコシヒカリ栽培の米つくり体験を毎年重ねてきている。

 着いてまずは仲間と一緒に、昨暮れに亡くなられた方の家に、弔問にいく。この方には、米つくりの世話と指導をしてもらって、お世話になった。のこされた奥方は、来年は村を離れざるを得ないだろうと言う。耕していた棚田は休耕の手続き済みだそうだ。
 毎年、こうして休耕や耕作放棄の棚田が増えていく。棚田は人間のための米つくり工場だから、経営者が亡くなり後継者がいないと、それは仕方のないことだ。
 去年の法末人口移動は、自然減3人、社会増1人であったようだ。
 今、この集落の定着人口は何人だろうか。震災前は約110人、震災で全村避難して戻ってきた人は約90人、今は60人もいるだろうか。最も人口が多かったのは、1960年の577人だった。19世紀末でさえ360人ほどがいたのに、今や限界を超えた集落となった。

 久しぶりに囲炉裏を囲んで鍋料理を食べようとなった。鍋は「ピエンロー」、白菜鍋である。
 囲炉裏には炭火である。昔のように薪を燃すわけにはいかないのは、煙出しをふさいでしまったからである。
 この囲炉裏だって、わたしたちがこの家を使うようになった時は、床の下にふさがれていた。その長く使っていなかった囲炉裏を復活して、はじめは物珍しく使ったが、そのうちに面倒になって飽きてしまった。今夜は久しぶりに囲炉裏を囲んだ。
 この家の名称を「へんなかフェ」と言う。「へんなか」とは、このあたりのいい方での囲炉裏のことで、そのうしろに「フェ」とくっつけた洒落である。

 寒い夜を炬燵に足を突っ込んで寝た。わたしがこのまえに炬燵で寝たのは、もういつのことだったか忘れたくらい昔のような気がする。炬燵そのものが、うちにはない。
 このあたりの民家はどこも古い茅葺民家を改造してきているものだから、主な部屋は天井が高い。だからストーブを焚いても、寒い。
 実は、考えるとゾッとするのだが、外部の窓やガラス戸は、雪囲いのために頑丈な板で外から囲ってある。積もる深雪に外から押されても、壊れないようにするためだ。
 だが、もしも中から燃え出したら、逃げ出せるところは玄関入口しかない。そこも、夜中に積もった雪で簡単には開かないかもしれない。ようするに監獄の中に寝ているようなものだ。

 次の朝、雪はやんで、今の時期には珍しい晴れ間も時々見える。集落内徘徊に出かけた。靴には滑り止めの簡易アイゼンをつけた。
 まったくもって、色の白いは七難隠すで、どこもかしこも真っ白で、なだらかな曲線を描いていて、美しい景色だ。
 夏は目につく赤いトタン屋根も、いまは真っ白な布団をかけている。道の両側には、除雪車が盛り上げた背丈よりも高い雪の壁がどこまでも続く。


 まずは今日午後の行事「賽の神」会場の、夏のキャンプ場に登る。もう藁の塔の賽の神本体はできがっている。今年のそれは姿はよいが、ちょっと小ぶりである。
 降りてきて、集落最長老に道でであって新年挨拶、今年92歳とて元気なものである。この方には、戦争中の話を聞いてオーラルヒストリーとして記録した。

 村境の峠まで登って引き返した。その下り坂道で、ア~ッ、左の靴が路面の氷に滑って転倒、後ろに残った右足の上にドンと正座した。
 イテテテ、しばらく道に腰を下ろしたまま唸る。ひねった右足首が痛む、果たして歩けるか、人も車も通らない。
 そろそろと四つん這いになり、ストックを支えにヨロヨロと立ちあがる。こわごわ、そろそろ、小さな歩幅でビッコ引きつつ拠点の家まで戻った。
 なお、帰宅後の医者の診断は、骨に損傷なし、靭帯損傷して内出血、テーピングで患部固定、全治3週間であった。久しぶりに杖突き生活をやってみるか。

 昼飯を食ってから、さて「賽の神」会場に行けるだろうかと思案したが、ここまできて第1の目的を達しないまとは悔しいので、そろそろと登る。幸いにして珍しく太陽が出ている。
 村人とその子や孫、わたしたちなど40人ほどが集まっている。藁で作った「賽の神」にお神酒をささげ、お飾りやだるまをぶら下げてある。やがて、年男年女たちが点火すると、もくもくと煙が立ち上る。

  集落最長老が毎年恒例の音頭で、参加者がこっをそろえて祝唄「法末天神囃」を合唱すれば、火と煙が雪をかぶる林にかかっていく。
遅れてやってきたのが、10数人の子供の集団で、手に手に藁を抱えている。東京の小金井で活動している集団で、昨日やってきて雪遊びをして、この行事を最後に戻るのだそうだ。毎年やって来ている。

 賽の神の後は、集落のセンター施設である「やまびこ」の食堂で、お茶会である。立礼ながら本式にお茶をたてて、集落民一同が楽しむ会である。
 震災後にやってくるようになった私たちの仲間がはじめた行事だが、これも恒例行事となって今年で10回目を迎えた。
 集落の人たちもわたしたちも神妙に抹茶をいただくと、雪の山村に季節が一巡りした心地になってくる。
 お茶会でのわたしの役目は、お菓子やお茶のお運びである。足が痛いのを隠して、転ばぬようにそろそろと運んで、なんとか役目を果たしたのであった。

 
 こうして今年の正月もやってきた。わたしは2005年以来、ここに何回やってきただろうか。初めのころは月に2回も来ていた。毎土日にきていた仲間もいた。はじめは10数人だった仲間も、復興が一段落したころから次第に減り、来る回数も減った。
 米つくり作業に年に3、4回、お茶会、盆踊、花見などの行事がある。わたしはもう、そのどれにも参加というわけにはいかなくなった。
 電車やタクシー交通費の懐具合もあるし、米つくり短期決戦重労働作業は体力的に限界になってきた。年に2回ほどになってしまった。
 春から夏は実に気分が良いのだが、真冬にここに来ることも泊まることも、寒さや足場の悪さにもう体力がついて行かない。
 そろそろ、わたしにとっても限界集落になってきた。このあたりがシオドキか。雪国育ちでないわたしの泣き言である。



参照
・法末集落の四季
http://homepage2.nifty.com/datey/hosse/hosse-index.htm
・法末集落へようこそ
https://sites.google.com/site/hossuey/

2014/01/05

884【五輪騒動】都市計画談議(その10)東京って権威的景観がご自慢なのね

その9からの続き)

 「東京都都市景観計画」(2011)なる行政計画があり、そのなかに「首都東京の象徴性を意図して造られた建築物の眺望の保全に関する景観誘導」という項がある。
 その眺望保全には、4つの場所の建物がとりあげられている。国会議事堂、迎賓館(赤坂離宮)、明治神宮聖徳絵画館、東京駅丸の内駅舎である。
 それらを真正面から眺めるにあたって、その後ろあたりに見える高い建物をつくると邪魔だから建てるな、と規制をしている。

 おいおい、どいつもこいつも権力の権化の建物だぞ、近代日本を築く途中に必要だった権力の象徴としての建築である。だから保全するのも権力の景観ってことかよ、よくまあ、こういうものだけを選ぶもんだよなあ。
 もっと庶民の象徴、そうだなあ、例えば東京タワー、あ、そうか、今はスカイツリーか、あるいは浅草観音とか、そういうのじゃ「首都東京の象徴性」にはならないのか、そうかもねえ。

 国会議事堂は、計画開始は明治政府の時までさかのぼって古いが、できたのは1936年である。
言わずもがなの権力の館であり、その姿のまあ権威主義的なことよ。国民の代表が会議をするのに、いまどきこんな姿でいいのかよ。
 その景観を保全しようってのも、なんともはや。こういうのは、本当は街の中にあるべきだろうと思う。あ、デモ隊がやってくるから、街なかじゃあまずいのか、。

 迎賓館は、元赤坂離宮だからまさに王権の館、1909年の竣工で、背伸びする日本の精一杯のコピー建築である。
 でもねえ、正門から眺めると、既に後ろに超高層建築がいくつも建ってますよ。そうか、だからこれからは建てさせないぞってことなのか。
権威景観保全の意味もあるだろうが、迎賓館の要人をビルから狙撃されないようにする対策かもなあ。

 さて、今話題の新国立競技場がらみの明治神宮聖徳記念絵画館は、1926年の竣工であるが、これもまさに王権の象徴である。

 1911年の明治天皇の死によって、明治新政府があわてて発明した明治神宮という王権装置のひとつである。
 江戸時代までは一般民衆はほとんど知らない「雲上人」だった天皇を、明治政府が京都から拉致してきて雲の上からおろして、多くの仕掛けでカリスマ性を付与し、世に見える天皇として新政府の権力集中の核にしたてあげた。
 ところが59歳で急死、その後継の大正天皇は病弱でとてもカリスマ性には欠ける。

 民権運動が盛んになる中、王権利用の統治政策が揺らぎそうだと心配した明治政府が考え出したのが、明治天皇を神様にして祀って、王権のカリスマ性の継続を図った装置が明治神宮である。
 内苑が森の中に隠れて見えない天皇の装置だとすれば、外苑はオープンな西洋式庭園のなかで民衆に見せる天皇としての装置である。

 新国立競技場計画について、明治神宮外苑の歴史的文脈をもって景観問題をとりあげる建築家が多いようだが、まあ、あのような一点透視図画法の模範のような銀杏並木から絵画館を望む景観は、建築家が透視図を習うお手本みたいで、お好きであろう。
 もちろん、その一点透視の視線の集まる先には、権力装置の求心力としての王権の象徴たる絵画館が、待ち受けている。

 あれこそ明治大帝のカリスマを継続する装置としてつくりあげた景観である。
 似たような景観づくりですぐに連想するのは、建築家になれなかったヒトラーがお抱え建築家シュペーアにやらせようとしたベルリン改造計画である。こちらの方が外苑、絵画館よりも後だが。
 大きさはかなり違うが、視線の先の絵画館のあの坊主頭は、ベルリンでヒトラーが大ホールのドームとして議事堂を真似したのかもしれない、と、冗談にしても面白い。

 それにしても絵画館の建築の造型の無骨さは、もう下手としか言いようがないのだけど、たぶん佐野利器のせいだろうなあ。明治の終末を告げる施設としての記念的意義はあるだろうが、造型的には二流である。
 あまつさえ、その建物周りは全部が駐車場になって、聖なる場所としてしつらえられた葬場殿址の楠のまわりも、かつては玉砂利の広場だったのが、今では無粋なアスファルト舗装に白線が引いてある駐車場である。

 芝生と花園であるべき前庭は草野球場となっているし、隣には神宮球場や第2球場そして国立競技場の建物が森の上に頭を出し、無粋な照明塔や金網が高くそびえる。
 管理者の明治神宮は、かつての造られた当時の景観を、それほど大切に保全する気はないらしい。これだけ広大な土地建物の維持費を稼ぐためには、あれこれスポーツ商売に手を出さないわけにはいかないだろう。

 考えてみれば、王権の時代はとっくに終わって、ここを明治天皇の故地と知らない民衆たちが、草野球やテニスやゴルフ打ちはなしに興じる風景は、まさに民主主義の世の中である風景になって、これはまことに好ましいことなのである。
 面白いのは、それらの大衆スポーツの場としての普及に大きな貢献をしたのが、ここを太平洋戦争終結直後に接収したアメリカ軍であったことだ。かれらがつくって、接収解除後も取り壊さずに使ったものが、軟式野球場とテニスコートである。絵画館前の芝生広場は変身して、戦後の大衆スポーツ普及に大いに役立った。
 ときにはデモ行進の拠点にもなって、王権発揚の場は民主主義発揚の場となった。アメリカさんは大衆スポーツと民主主義的風景(権威主義的景観の破壊)を外苑占領の置き土産にし、明治神宮はそれをそのまま戦後の外苑に継承したのであった。

 いまとなっては、絵画館のまわりになにがそびえようが、もうよいではないか。昔の王権的、権威主義的な象徴空間が良かったなんて、アナクロニズムはよしましょうよ。
 そもそも、ここは神社の境内である。境内には昔から露店が立ち並び、サーカス小屋やお化け屋敷があり、門前街には猥雑な土産物屋や旅館街があるのが、日本の伝統風景である。そう、これこそが「神宮外苑の歴史的文脈」の延長線上にあるものだ。
 
 まあ、日本近代における王権空間形成史の記念として、建築あるいは造園史のメルクマールの保全をするならば、あの小判型の道路の内側を徹底的に復元することだろう。
 そのほかは現代の都市公園として。国立競技場も含めて総合的な計画のもとに再開発すればよろしい。同じ都市公園である後楽園遊園地を、よい意味でも悪い意味でもお手本にしてはいかがかな。

 まあ、これはわたしの与太話のように聞こえるだろうが、実は外苑では昔こういうこともあった。
 アジア・太平洋戦争が終わり大きく体制が変り、国営神社だった神宮は宗教法人となり、外苑の土地の帰属が問題となった。国は外苑は宗教に関係ないから国に帰属すると主張した。
 これに対して神宮側は、いやこちらだと争い、民俗学者の折口信夫に理論武装を頼んだ。折口が主張したのは、日本の神社境内は昔から力比べ、弓術、相撲、流鏑馬、競馬、競艇などの遊びをして奉納する場であったから、運動施設のある外苑は宗教の場だ、というものであった。
 そして外苑の土地は神宮の所属になった(時価の半額で売買)。境内地とはそういうものである。もっとも、今では運動施設の経営は宗教活動とはみなされず、課税対象だそうだ。

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追記20151105 ところが今や絵画館の後ろには、なにやら高いビルが建ってしまっているのは、どうしたわけだろうか。やはり明治帝国の権威は、現代商業主義社会には及ばないらしい。
2015年11月3日撮影
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 おっと、忘れそうになったが、東京駅丸の内駅舎は、1914年の竣工である。

 明治政府が全国統治の道具とした鉄道網の「上り」の終点であり、「下り」の出発点である。王権専用の駅舎として、当時の繁華街の京橋に背を向けて建てたのだった。
 この景観計画で保全する眺望の視線の持ち主は、皇居を出てくる天皇であることにご注目を。

 東京駅の後ろに建てるなって言ったって、京橋のほうが東京駅ができるよりずっと前から江戸の中心街として繁栄していたんだぞ。京都からやってきて、江戸城にいつの間にか居ついてしまったお方から、あれこれ言われて一等地にビルを建てさせないって、そんなことはこちとらには通じませんぜ、なんて江戸っ子は言わないのかしら。 
 ついでにこちらもお読みくださいな。 ◆東京駅復原反対論から考える風景の記憶論考

(都市計画ではまだいろいろあるけど、10回も書くとさすがに飽きた、やっぱり景観論のほうがだんぜんおもしろい)

これまでのあれこれ書いてきた一覧はこちらを参照
【五輪外苑騒動】国立競技場改築騒動と神宮外苑再開発騒動瓢論集

2014/01/04

883戦後復興期の都市建築をつくった建築家 小町治男氏にその時代を聴く

 建築家の小町治男氏は、戦争直後に出発した建築家への学業と修業の同時進行の道程において、建築家で東京大学の池辺陽のもとでの実験的住宅設計からはじまり、戦後の不燃都市づくりに貢献した建築家の今泉善一のもとでの防火建築帯づくりに携わった。


 ここに戦後復興期の都市建築づくりについて聞きたくてインタビューをした記録を、小町さんのご了解を得て公開する。その頃の建築界のひとつの貴重な断面を興味深く見せてくれる。

 なお、建築家小町和義氏の弟であり、わたしは以前に建築家山口文象の弟子としての和義氏に、戦中と戦後のその周辺のことを聞くインタビューをしたことがある。それも戦後復興期にかかわる貴重な証言である。

                   インタビュアーと記録:伊達美徳
                    立会:横内啓氏(小町治男氏の甥・建設会社設計部員)
                   場所:浦和市内の喫茶店
                   日時:2013年11月9日14:30~17:00

●以下、インタビュー記録全文は
戦後復興期の都市建築をつくった建築家 小町治男氏にその時代を聴く
https://sites.google.com/site/dateyg/komachi-haruo