2017/12/29

1312【又々・山口文象設計茶席常安軒】鎌倉に居ながら京都の大徳寺忘筌の庭に高台寺遺芳庵吉野窓を眺めようと欲張り技の茶室写し

北鎌倉浄智寺谷戸関口茶席由来記 その5
伊達 美徳

北鎌倉浄智寺谷戸の旧関口邸茶席が公開されるとて、その80余年の由来を建築家山口文象を軸に記すことにした(6回連載)


その4】のつづき
さて、ようやく関口邸茶席の本館とも言うべき
数寄屋会席について述べる。

どこか別のところで見たことあるような


 
●関口邸茶席の数寄屋会席今と昔

 浄智寺谷戸の道から草屋根の門をくぐり路地を歩めば、最初に出会うのがこの数寄屋建築の会席である。吉野窓茶席はその裏に隠れて、やがてやってくる客を待ち受ける。

 吉野窓茶室が小面積なのに大きな髙い屋根を載せて、ボリュームを大きく見せているの対して、数寄屋会席の方はその大面積をできるだけ小さく低く見せようとしている。屋根を小瓦一文字葺きと杮(こけら)葺き(いまは金属板葺き)の奴(やっこ)葺きで薄く軽く見せる。
左に数寄屋会席、右に吉野窓茶室

2017/12/25

1311 【又・山口文象設計茶席常安軒】北鎌倉には三角茅葺屋根とまんまる吉野窓が浄智寺谷戸にも明月院谷戸にも古雅な姿を見せる

北鎌倉浄智寺谷戸関口茶席由来記 その4
伊達 美徳

北鎌倉浄智寺谷戸の旧関口邸茶席が公開されるとて、その80余年の由来を建築家山口文象を軸に記すことにした(6回連載)

【その3】のつづき

●大工棟梁山下元靖の回顧譚

 この茶席常安軒の工事をしたのは、大工棟梁の山下元靖であり、『工匠談(1969年 相模書房刊)という本を出して、自分のいろいろの仕事を語っているが、その中でこの茶席の想い出も35年も前のこととして語っている。
 この本には、山口文象による「山下さん」という序文があり、関口から設計を依頼され、山下と「毎日浄智寺の現場で……けんかをしながら楽しんで仕事に没頭した」と記している。どちらも30歳そこそこの若者だった。


 山下はその本の「北鎌倉の関口邸の茶室」という章で、数寄屋会席については何も述べず、吉野窓茶室と離れの工事についての自慢話をしているのが興味深い。
 その吉野窓茶室について、草ぶき屋根の小屋組み仕口の仕事を茅葺屋根専門の職人から褒められたこと、吉野窓を貴人口にも使うように工夫したこと、土庇柱の沓石に寺院の向拜の沓石を転用したように古びて見せる工夫をして関口を感心させたことなど、職人肌が面白い。
窓は吉野窓にし、直径を京間の六尺の大丸窓にしました。
それは貴人口にも使用する関係で、丸窓の下部を半紙幅の半幅、
つまり下から約四寸の高さのところを図のように水平に切り、
掃き出しも兼用できるようにしました
」(『工匠談』)

2017/12/21

1310【続々・山口文象設計茶席常安軒】ベルリンでの関口と山口の話で始まった浄智寺谷戸への京都高台寺遺芳庵の写し茶室「吉野窓由来」

北鎌倉浄智寺谷戸関口茶席由来記 その3
伊達 美徳
北鎌倉浄智寺谷戸の旧関口邸茶席が公開されるとて、その80余年の由来を建築家山口文象を軸に記すことにした(6回連載)

【その2】のつづき 

●京都高台寺遺芳庵の鏡写しの茶室

 この茶席をつくるにあたっては、関口泰があの茅葺の茶室をつくりたいことからはじまったらしい。京都で見たある茶室の姿に惚れて、浄智寺谷戸の持ってきたい、そして山口文象も関口よりも前にそれを見て、素晴らしいデザインだと知っていたというのだ。
 だから、この茶室は既存の茶室のコピーである。ただし、コピーするときに左右逆転の設計をしている。
 なお、昔から茶室の建物は、「写し」といってコピーをつくることが普通に行われていたから、特に不思議でもない。

 さてそのコピーされたほうの京都の茶室は、高台寺ある「遺芳庵」である。
 この茶室については、なんだか俗受けする由来があるようだが、ここではそれはおいといて、関口茶席としての由来を書いておく。
 だがわたしは茶室建築には暗いから、興味だけで書くから間違っているかもしれない。

 まずは本家(本歌か)の京都高台寺の遺芳庵と、こちらの鎌倉の浄智寺谷戸の茶室の写真である。左は1922年頃の山口文象撮影の遺芳庵、右は2017年にわたしが撮った旧関口邸の吉野窓茶室である。なんだか屋根のプロポーションが違うようだ。


 平面は左右(下図では上下)をひっくり返したから、茶道のお手前から言うと本家の遺芳庵は逆勝手(左勝手)だったのが、こちらでは本勝手(右勝手)になっている。

では、もしもそのままコピーして建てたらどんな姿であるか、遊びでやってみよう。左が現物の遺芳庵、右が左右逆転した旧関口邸の吉野窓茶室、当然ながらそっくりである。

山口の談には「敷地の条件に合わせて(『住宅建築』1977年8月号)左右反転したという。茶道に暗いわたしにはそれがなぜなのか分らないが、茶庭の構成上でそうなったのだろうか。茶道に通じていた関口あるいは夫人が本勝手を望んだのかもしれない。
 その山口の談には、「丸窓の位置がなかなか決まらないので、会席のほうもずっと後れまして」ともあるから、茅葺茶室の位置決めが最初であり、ここでは茶室を要としてその他の配置を決めたのだろう。実はこの時は、母屋の南に渡り廊下で結ぶ「離れ」も建てたが、それは今はない。
 
●関口泰の遺芳庵への想い

 関口泰の著作のひとつに『吉野窓由来(1940年)があり、「遺芳庵」と同じものを建てた由来を書いている。吉野窓とは遺芳庵の丸窓で、これを好んだ吉野太という女性に因むという。
 関口は浄智寺谷戸に居を構えてから、日夜まわりを眺めているうちに、この谷戸の風景の中に塔を欲しくなった。
夏に家が建ち上っての秋である。道を隔てて刈り残した薄原には、赤穂を吹いた尾花がなびき、上の段へ上る所に檜の小さな森がある辺が、一つの絵をなしてゐる。どうしてもあの辺に塔がほしい所だ。室生寺の五重塔をもって来ようと空想した程、室生寺の塔は小さく愛すべきものだ

 だが費用的に無理と分って、次に思いついたのが遺芳庵だった。
義弟の旭谷左右に案内されて京都の茶席を見物してまはってゐる時に、高台寺の中の佐野画伯の家にある「遺芳」の席を見て、これはいいと思った。無論茶道の方からではなくて、私の庭における絵画的効果からの話であるが、二坪か三坪の小さい家に比較してトテッもなく大きい三角形の屋根と、伽藍石を踏まへた大きな丸窓は、それだけで絵だ

 そしてこれを建てたいと山口文象に言う。
分離派の新建築家ではあるが、早く茶室建築に目をつけて、ベルリンで修業してゐる間に私と茶室建築の約束をした山口君であるから、変に型にはまった茶の宗匠や、高い金をとりつけた茶室建築家と相談するよりは、余程話がつきやすいわけである

 なんとベルリンで山口と話したのだそうが、山口文象がベルリンのグロピウスの下に居たのは1931年春~32年の6月、関口が朝日新聞のベルリン特派員だったのは1932年4月~11月である。
 山口の滞欧時に記入していた手帳があるので見ると、1932年2月14日と3月3日に関口の名がある。関口の滞在時期より少し前だが、手紙とか電話連絡のメモだろうか。

●山口文象の遺芳庵への出会い

 そうやって関口は山口をつかって浄智寺谷戸に、丸い吉野窓の茶室を設ける相談をしたのだ。
 関口の文中に、山口が「早くに茶室建築に目をつけて」いたとあるが、逓信省の製図工であった頃に、大阪市内の局舎工事現場監理の仕事で1921年から22年にかけて大阪に住んだのだが、休日には京都、奈良、堺などの茶室建築を訪ねたことを指している。

 山口はこの時に写真を撮り実測もしたが、その多数の写真プリントがRIAにある。その中には高台寺の遺芳庵もある。だから関口に遺芳庵を持ってきたいと言われたときに、既にそれを知っていた。
 「これがすばらしいデザインなんです。屋根のヴォリュームの大きさ、それら全体のプロポーションが実にすばらしい、その話を関口先生にしたら「じゃあ見に行こう」というわけで見に行きました。そこで決まったわけです(『住宅建築』1977年8月号)

 そのような二人が好きになった遺芳庵だが、その頃それはどうであったかというと、関口が書いている。
 「それに何よりも、一畳大目の茶室と二畳の水屋は、建築費からいっても、宝生寺の五重塔の如く空想に終らずに実現の可能性をもつし、長く茶室につかはれずに暴風雨に壊されたまま蜘蛛の巣だらけの物置のやうに、庭の隅に抛り放しになってゐる此の可憐なる茶席は、柱や床板の一つひとつに高価な正札のつけてあるやうな富豪の茶室とは事変り、私に消極的自信をつけてくれるに十分なものがあったからだ(『吉野窓由来』)
 山口が撮った写真は、「蜘蛛の巣だらけの物置」状態だったのだろう。
山口文象の茶室写真帳とその中の高台寺遺芳庵と傘亭

 それにしても、ナチスの暗雲漂う1932年のベルリンで、吉野太夫の遺芳庵の話とは、粋な二人である。
 その年に山口文象は帰国したが、翌年にブルノ・タウトがナチスを逃れてアメリカ亡命を目指して日本にやってくるし、翌々年には師匠のグロピウスがイギリスに逃れてアメリカに亡命する。
 そのブルノ・タウトは山口文象と何度か出会っていて、この関口邸茶席を褒めているのである。

 1934年6月に山口文象はその建築作品個展を銀座資生堂ギャラリーで開いたが、観に来たタウトが6月15日の日記に書いている。
建築家山口蚊象氏の作品展覧会を観る(同氏はドイツでグロピウスの許にいたことがある)。作品のうちでは茶室がいちばんすぐれている、――山口氏はここでまさに純粋の日本人に復ったと言ってよい。その他のものは機能を強調しているにも拘らずいかにも硬い、まるでコルセットをはめている印象だ。とにかくコルビユジエ模倣は、日本では到底永続きするものでない(『日本ータウト日記 1935-1936』篠原英雄訳 岩波書店刊)

 タウトが書く「茶室」とは、関口邸茶席のことである。ほかにも出世作の日本歯科医学専門学校など8件のモダンデザイン建築を展示したのに、タウトがほめたのはこれだけであった。
 タウトの評価をどうとるか難しいが、桂離宮を称賛し日光東照宮を貶した鑑識眼でみた関口邸茶席であった。彼が日本で褒めたモダンデザイン建築は、東京駅前にある中央郵便局舎(吉田鉄郎設計)だけだったようだ。
 つづく

・たからの庭


2017/12/20

1309【終活余談】あきひとさんの終活でちょうどよい機会だから日ごろ面倒な「元号」をもうやめてちょうだいな

 「終活談義」なるお題を、「現代まちづくり塾」の塾報編集委員からいただいたので、わたしだって終活年齢だが、それを書くにはまだ早い!?、ここではある有名なお方の「終活問題」を書こう。
 そのお方とは、あきひとさん(この人には姓が無いのでこう呼ぶしかない)である。なんでも、歳とって疲れたのでもう辞めるって、つまり終活に入るとTVで宣言したとのこと。

 どうぞどうぞ、ご勝手に終活をおやんなさいよと、庶民のわたしは思うのだが、どうも、その終活のトバッチリが庶民にも及ぶらしいのだ。ほんとに困るのである。
 それは改元とて新「元号」の登場である。まったくもって元号は高齢社会の邪魔ものである。だって、ほら、元号と西暦と換算するでしょ、明治には1867、大正には1911、昭和には1925、平成には1988を、それぞれ加えると西暦になるんだけど、歳とるとその暗算が無理なんだよなあ。それらにまたひとつ計算が加わるともうどうしていいもんか。いちいち計算機を叩くってのもなあ。
 あ、これってもしかして、おカミの国民ボケ防止対策かもしれないなあ、う~む。

2017/12/17

1308【続・山口文象設計茶席常安軒】リベラリスト関口泰が愛でて後半生を過ごした浄智寺谷戸の自然と茶席と庭と

北鎌倉浄智寺谷戸関口茶席由来記 その2
伊達 美徳

北鎌倉浄智寺谷戸の旧関口邸茶席が公開されるとて、その80余年の由来を建築家山口文象を軸に記すことにした(6回連載)

その1】のつづき
大き巌うしろになしてこの梅はことしれうらんと咲きにけるかも  関口 泰

●関口泰が愛でた浄智寺谷戸の風景

 鎌倉は谷戸(やと)と呼ばれる地形に特徴がある。三浦半島特有のデコボコ丘陵ばかりで、海辺の外には広い平地が少ないので、12世紀ごろの昔から丘に切りこむ狭い谷間に宅地をつくってきた。
 谷戸は谷の向きや深さによっては、日中のほんの少ししか日が当たらない。奥になれば坂道は急になり階段になる。歳とると住みにくい。

 浄智寺谷戸は南上りであり、旧関口邸茶席はその奥にある。まわりを緑の丘陵に囲まれていて、豊かな自然風景に恵まれているが、その一方で陽光が照る時間は少ない。
 この茶席をつくった関口泰も谷戸を愛し、短歌「浄智寺谷風景」や随筆「小鳥と花」に自然を描いている。
 そこには、鶯の声で目を覚まし、彼岸桜、紅梅、山桜、染井吉野、大島桜、蝋梅、雪柳、緋桃、芍薬、牡丹、山躑躅、山吹、山藤などの花々を愛でる日常を、優雅な筆にしている。

2017/12/16

1307【山口文象設計茶席常安軒】紅葉の浄智寺谷戸に傘寿越す茶席建築を卒寿の建築家と訪ねる

北鎌倉浄智寺谷戸関口茶席由来記 その1
伊達 美徳

北鎌倉浄智寺谷戸の旧関口邸茶席が公開されるとて、その80余年の由来を建築家山口文象を軸に記すことにした(6回連載)

●北鎌倉に山口文象設計の茶席建築を訪ねる

 秋も深まり初冬になり、北鎌倉に紅葉狩りに行ってきた。いや、実は行ってみたら紅葉が美しかった結果なので、真の目的は山口文象和風建築狩りであった。
 わたしがそれを訪ねるのは2度目だが、1976年以来の40年ぶり、その時の同行者には、設計者の山口文象がいた。そして今回は山口の一番弟子ともいうべき和風建築の名手である小町和義さんが一緒だった。

 40年前に来た目的は、山口文象(1902~78)の作品集をつくるために、評伝を執筆する佐々木宏、長谷川堯、河東義之の各氏たちも一緒だったが、山口はその2年後に急逝した。その本は1983年に刊行になった『建築家山口文象・人と作品』(RIA編)である。わたしはRIAに在籍していて、この本の編集執筆担当だった。
 山口文象がこの茶席を訪ねたのは、その時が40年ぶりと話していた。気が付けば、その時の山口文象よりも、わたしも小町さんも年寄りになっていた。そうか、二人とも山口文象よりも長生きしているのであったか。

2017/12/03

1305【余談:安藤忠雄展雑感談議】直島プロジェクトの模型や映像を観ていて昔々この島に消えた大量の釣鐘を思い出した

安藤忠雄展雑感長屋談議】【】【続々】のつづき
直島は昔から金属工場の島 観光リゾート安藤建築は島の南

●少年のころに直島を訪ねた大昔記憶
 国立新美術館に建築家の安藤忠雄展を観に行ったのだが、大勢の入場者に驚いた。建築家ってこんなにもてるものなのかい?、いいなあ、都市計画家もそうなりたいものだ。
会場の中央に安藤流の卵があって、それは瀬戸内海の小島の直島で長期にわたるプロジェクトを、ジオラマとパノラマ映像で見せる見世物小屋だった。ベネッセという企業と組んでいて、安藤さんの営業力を見る感じだ。
直島プロジェクト見世物小屋
その安藤の建築のことは別に書いているから、ここではわたしが昔々に直島を訪ねた想い出を書くのだ。ほう、いま計算したら、それはもう70年も前のことである、すごいなあ、そんな大昔がこのわたしにあるなんて、どうにも信じられない気持ちだ。

 太平洋戦争が終わった次の年の1946年の夏、わたしは直島を訪ねた記憶がある。草木のひとつも見えない荒れ果てた岩や赤土が剥き出しの島だった。港から坂を登って行き、丘の中腹を切り拓いたらしい広い空き地にでる。
 そこには無数の釣鐘の群れが、土の上に延々と並んでいた。これがこの島訪問の目的である。光景を思い出せば、たぶん2~300個はあったろうだったろう。
 少年のわたしの背よりも高いものがほとんどだったが、中には小さなものもある。夏の太陽に照らされた坊主頭の大群衆が、緑青や茶褐や漆黒の肌を光らせて、黙々と立ち尽くしているのだった。
 想えば、シュールリアリズムの絵画のようであり、子ども心にも異様であり、これだけがわたしの記憶にある直島風景である。

 直島を訪れたのは、その6年前に戦争のために金属供出した釣鐘を探す旅だった。父が連れて行ってくれた。ほかに父方の伯父と1歳上の従兄もいた。
 わたしの生家は神社であり、父は神社の宮司であった。その高梁盆地の御前(おんざき)神社には、17世紀半ばから城下町に時刻を知らせるために、時の鐘として鳴らされていた釣鐘があった。

 それが1940年に政府に召し上げられ、兵器となるために溶かして鋳直す工場がある直島に渡ったのだ。金属鉱山の無い日本が戦うための武器をつくるには、街や家庭にある既製品の金属製品を回収して原料にするほかなかった。
 直島の三菱精錬所には、各地から釣鐘類が集められていたが、戦中に兵器にするべく鋳潰されるはずが、運よく残っていたのがわたしたちが見た釣鐘の群れだったのだ。
 たぶん父は供出した釣鐘の行方を調べて、ウチの鐘も残ってるかもしれないと思って直島に出かけたのだろう。

●少年のころの釣鐘の記憶
 鐘にはこのような銘が鋳てあった。

吾移住当城之後為教城下之士庶十二時候課干冶工鋳鳧金以奉納槨内御前大明神之賽前蓋知時即寺社不忘其勸矣時則四民不勤其業近境順法遠境効焉所冀天長地久国家安全除災與楽将来千億
       慶安四歳次辛卯九月吉祥日
        城主水谷伊勢守勝隆 敬白
          冶工當国小田郡高草
           惣領 彦之丞藤原守重

 慶安4年とは1651年であり、その9年前に転封してきた城主水谷勝隆が奉納したとある。この鐘は供出するまで290年もの長い時を刻んできて、高梁盆地の城下町に時刻を教える鐘の音が響いていたのだった。
 兵器となるべく直島に蝟集した無数の釣鐘群の中には、もっと昔のものもあったに違いない。

 探しているその釣鐘は、岡山県の高梁盆地の丘の中腹にある御前神社の鐘撞堂(かねつきどう)に吊るされ、朝な夕なの時刻を知らせる時の鐘だった。昔は鐘撞き専門の職がそばに住んでいたらしい。
 鐘撞き堂は、木造の高楼建築で高さが3階建てほどだった。撞くべき時刻が来ると宮司の父が撞き、父が不在の時は母が撞いていた。その時刻が何時であったのか記憶にないが、父の不在中の夜中に母が出かけるとき、3歳幼児だったわたしはひとりでの留守番を怖かった記憶がある。夜中の鐘撞堂の梯子のような急階段を、幼児をおぶって登るのは不可能だったのだろう。

 もうひとつのおぼろげな幼児期の記憶だが、家に騒がしく出入りするひとたちがいて、鐘の音が連続して聞こえていたような気がする。しらべてみて、これは1940年紀元2600年記念に、その元日に2600回連続して鐘を撞くイベントの時であったようだ。今に残るわたしの人生最初の記憶である。
 城下町に響く時鐘は町民に愛されていたらしく、1940年の金属供出で鐘が出ていくとき、それを送り出す盛大なイベントがあったことが、当時の写真で分る。このとき父は中国戦線で兵役についていた。金属供出例は1941年に出されているから、これは自主的供出だったのだろうか。
1940年12月 時鐘供出祭
左に地上に降ろされた釣鐘と祭壇
 
 直島の鐘の話にもどる。父は1943年から3度目の兵役についていたが、このときは国内勤務だったので、戦争が終わった1945年8月の末日に帰宅してきた。
 4人で釣鐘群の迷路の中を、夏の日に照らされながら捜し歩いたが、そんなにたくさんありながら目的の鐘を見つけられなかった。父も伯父もガッカリしたことだろう。

 荒涼とした島の風景の中にたたずむ死を免れた釣鐘群は、それまでにもっと大群が兵器となって戦争の泥沼に沈む旅に出ていくのを見送ったことだろう。
 生き残った釣鐘は、その後にそれぞれの故郷に戻って行ったのだろうか。戻るべきところも戦争でなくなっていたかもしれない。故郷を失った鐘は鍋や釜になったのだろうか。

●リゾート観光地の直島に戦争の記憶は
 わたしたちの探していた釣鐘はそのまま帰ってこないが、鐘の故郷の高梁盆地にある御前神社には、いまも鐘撞堂がすっくと立っていて、戻ってくる鐘を待っている。
 だが木造高楼建築は、寄る年波には勝てないらしく、倒壊の恐れありとて、登ることはもちろん近づくことも禁止の注意書き札が立っている。
 鐘が戻ってきても、もう吊るすこともできない。もっとも、いっときのことだが寄付する人がいて、プラスチック製の釣鐘がぶら下がり、テープ録音の鐘の音が響いたこともあるらしい。
1940年末から今日まで鐘の帰りを待つ鐘撞き堂も老いてしまった

 わたしの直島の記憶は上に書いた場面だけなのだが、その帰りにどこかの海辺で海水浴をした記憶が鮮明にある。従兄と2人で泳いだのだが、白砂青松の浜辺がひろがり、泳ぐ向こうの遠くない海上に、可愛らしいお椀を伏せたような松の繁る小島が見えていた(確証はないが、たぶん牛窓の海岸のようだ)。
 この海にそそぐ高梁川の中流部の高梁盆地で育ち、その川で泳ぎを覚えたわたしには、初めての海水浴だった。海の水は辛く苦いものだと、まず舐めて確かめた記憶がある。

 海水浴を楽しむにはまだ貧しすぎた時代だからか、わたしたちの外に誰もいなかった。父と伯父は、たぶん船か列車の待ち時間に、その子たちを遊ばせたかったのだろう。
 それがどこだったのか、直島航路の宇野港に近いあたりの海水浴場を、ネットで探しても見つからない。いまでは小島もろともに埋め立てられて産業地になり、砂浜はなくなったのだろうか。
 もう、父も伯父も従兄もこの世にいない。

 金属産業の直島はいま、企業のベネッセによる事業として、建築家安藤忠雄の建築で有名な観光リゾートの地に大変身して、煤煙で島を丸禿にしていた三菱の工場はエコアイランドの核となっているという。
 かつてこの地が各地から社寺の釣鐘を集めて、兵器をつくるための島だったことは、忘れ去られているだろうか。釣鐘ばかりか、そのほかの多様な金属も来ていただろう。あの頃、各地の金属製の文化財も失われた。
 直島にもあった戦争の記憶を、今の島のどこかに残しているだろうか。直島町史あるいは三菱マテリアル社史に載っているだろうか、あの光景の写真があるだろうか。
 思えば、あの荒野の白日の下の釣鐘群の姿は、戦争直後に幻のように出現して消えた現代美術インスタレーションだったような気がしてきた。
 


2017/11/29

1304【続々・安藤忠雄展雑感長屋談議】歴史建築段ボール模型迫力に吃驚讃嘆、大仏生き埋めラベンダー山景観に感歎爆笑


●模型の段ボールがよかった

長屋の大工の熊五郎:安藤忠雄展を観てきて、ご隠居は褒める作品は無いんですか。
長屋の隠居徘徊老人:うん、模型という作品なら、パリの「ブルス・ドゥ・コメルス」とヴェネチアの「プンタ・デラ・ドガーナ」の古建築活用計画模型がいいね、特にその模型の段ボールがよかったねえ。
:建築じゃなくて模型を褒めてんですか、それも学生たちの涙の結晶ですね。
:だって模型の作品展なんだもの、これがダンボールで作ってあって、その質感と言い量感と言い、なかなかいいんだねえ。

2017/11/27

1303【続:安藤忠雄展雑感長屋談議】独学神話修業伝説など山口文象に似てるけど戦争の有無が大きな違いだな


●“安藤ランド”でもつくるのかしら?

長屋の大工の熊五郎:ありゃ、ネットにこんなこと載ってますよ。安藤さんが「住吉の長屋」のコピー建築をつくろうとしてるんだって。(『ニセ「住吉の長屋」が問うもの』)
長屋の隠居徘徊老人:ほお、面白いねえ、あ、そうか、あの展覧会に出した見世物教会も、展覧会が終ったらその隣に持ってきて移築するのかもなあ。
:そのほかにも昔のものをたくさん再現して建てて、“安藤建築ランド”をつくるとか、やればいいですね。
:そりゃ面白い、明治村ならぬ安藤村か、ヤレ、ヤレ~。
:設計したけど実現できなかった建築とかね、そうだ、安藤委員長が選んだのに安倍首相にボツにされた、ザハ・ハディド設計の新国立競技場もつくるとか。
一等当選でもボツになったお騒がせザハハディド新国立競技場案
:ワハハ、そりゃすごい。でもねえ、住吉の長屋再現で、あのコンクリ箱だけ独立して建てるってのなら、実につまらないね。既存木造長屋の中の一軒を壊して建てるなら面白いけどね。
:新しい三軒長屋を先ず建てて、次にその中央の家を壊す、そしてあのコンクリ箱を建てるとかね。建築イベントだ。
:それも面白いねえ、あの箱の居住機能ばかりアレコレ言われるけど、その本質的なすごさは、密集市街の中の木造長屋の中間に、あれを無理矢理はめ込んだところにあるんだな。
:その無理矢理具合が景観的にも社会的にも実に興味深いですよね。そうだ、今どきの長屋は中高層共同住宅ビルでしょ、ご隠居が言うところの“名ばかりマンション”ですよ、その古いヤツのなかの一戸を壊して、そこにに住吉の長屋を突っ込むと面白いですねえ。
:うん、いいね、あちこちの既存共同住宅ビルの空き家に、ゲリラ的に安藤流の箱やら卵やらが突っ込んである風景を想像すると楽しいね、空き家対策にもなるし。
:そういえば安藤の初期の仕事は、密集木造住宅地の中のあちこちの狭い裏宅地に、小さな住宅をたくさん設計していて、それを「都市ゲリラ」と称していますね。
引用 https://www.pen-online.jp/feature/art/ANDO2017/3/
:おお、ゲリラってかい、そういえば展覧会にそんなゲリラ模型があったな。裏宅地の接道してない違反建築ばかりだねえと、見物仲間と話したもんだよ。
:いまや安藤はゲリラどころか、正規軍の将軍になってしまいましたね、なんせ天皇が呉れる勲章をもらったし、こうやって国立施設で個展やるんですもんねえ。ゲリラ時代が懐かしくて、あんな小箱をまた自分で建てるのでしょうかね。
:あ、そうだ、こんどの展覧会で建てた「光の教会」の原寸模型って、ありゃ都市ゲリラだな。会場の中じゃなくて外の屋上に増築ってところがゲリラっぽいね。
:そうか、生まれながらの正規軍だった黒川記章が設計した国立新美術館に、ゲリラとして殴りこんだ、ハハ、いまに都市伝説というか安藤神話になるかもしれませんね。

●修業伝説独学神話建築家2人のこと

:神話と言えば、建築は独学というのも、まさにそうだね。工業高校出てるし、大阪で都市や建築に幅広く活動していた水谷穎介さんの下で働いたことあるらしいから、完全なる独学かどうか怪しい感もあるけど、なかなか面白いね。
:そういや、ご隠居が追っかけやってた山口文象って建築家も、その出自とか独学とか、彗星のごとく世の出たとか、似たところあるような。
山口文象
:おっ、来たね、うん、そうそう、安藤と山口は40年の差があるけど、なんだか似てるね。山口は職工徒弟学校までの学歴、あとは逓信省のいちばん末席の製図工からオンザジョブで自分の才能を磨いて、時代の潮目をよく見て30歳代であっというまに頭角を現したのだよ。
:安藤はまだ健在だけど、どこか伝説的な感もありますね。
:安藤さんの出自や修業のことをよくは知らないが、山口が語った独学神話とか修業伝説とか似てるらしいね。安藤にはないようだが山口には左翼伝説がある。安藤と比べて山口文象が不利な人生だったのは、40歳代の最も働き盛りに戦争にぶつかったことだよ。学閥も門閥もないから仕事も来ない、その10年余りを逼塞せざるを得なかった。その点では平和が続く時代の安藤は幸せだな。
:山口文象は戦争が終わってからどうしたのですか。
:戦前は個人名事務所だったのを、戦後再起を個人名を排したRIAという協同設計集団に賭けたんだな。小住宅のまさに都市ゲリラとして、50歳代になって再出発したよ。でも戦後に山口文象としての見るべき建築作品は無いね、その集団が都市計画と建築設計の立派な組織となったから、これが山口の戦後最高の作品だね。
:安藤さんは1941年生れの76歳、今も盛りの仕事ぶりですが、作風は個人アトリエそのものですね。大勢のスタッフがいるようだけど、先々どうなさるのかなあ、おおきなお世話だけど気になりますね。
:そうだねえ、おお、76歳と言えば山口文象が他界した歳だよ。そういえば、新国立競技場でひどい目にあって死んだザハ・ハディドも個性的な建築家だったけど、あの事務所はどうしてるんだろね。
:天才の個性的な建築家の場合は、後継者というか組織というか難問でしょうね。
:う~む、丹下健三とか前川国男とか菊竹清訓の事務所は、どうしてるのかなあ。組織事務所として大変身をするのかなあ。

●六甲の集合住宅は環境破壊だな

:ところで肝心の安藤建築については、原寸模型教会の話ばかりだけど、ほかの感想はいかがですか。SNSによると会場でのイアフォン解説が安藤さん自身の録音で評判ですけど、どうでしたか。
:エッ、そんなものあったのかい、そうか、あの行列見物人たちは、みんなその解説を聴きつつ順路を進んでたんだね、あんな大勢なのに静かに整然と歩くのが不思議だったよ。
:え、ご隠居たちだれもイアフォン借りないのか、ケチ、どうしてたんですか。
:仲間5人とね、混んでない面白そうなところを見つけて、あっちへこっちへフラフラと勝手に動いて、勝手に批評しつつ楽しんだよ。
:なんだつまみ食いかよ、年寄りばかりで声も大きいから、喧しいと怒られたでしょ。
:いや、怒られないよ、他の人は耳がふさがってて、わたしたちの声が聞えないんだろ。余計な解説無しだから、仲間それぞれ勝手な解釈を言いあって面白かったよ。あらかじめなにか知ってたら面白くなかったね。
:ふ~ん、まあ、ご隠居にはお祭りの屋台や見世物巡りだから、順序なんていらないですね、面白いのありましたか。
:「六甲の集合住宅」って共同住宅ビル群が、大きな模型で出てたよ。
引用元 http://www.tokai-build.com/blog/archives/7158
上の模型と同じ角度の空中写真 google earth
:ああ、神戸の斜面地に開発した最初の棟から、隣りへ隣りへと増殖して行った共同住宅群ですね。
:そうだ、これの最初のものが建築の雑誌に発表されたのをみて、これはひどい、神戸の自然環境として重要な斜面緑地をこうやって切り取り、背中が崖の風通しの悪い住宅なんてどこがいいのだ、と思ったけど、それにもかかわらずこうも増殖して腹立ったね。
:模型を観つつ大声でそんな悪口を言ってたんじゃないでしょうね。
:もちろん仲間と大声でしゃべっていたよ。でも、最近の安藤さんは緑の回復なんてプロジェクトにも精出してるから、六甲の反省をしてるのかねえ。

2017/11/23

1302【安藤忠雄展雑感長屋談議】安藤神社の秋祭で縮尺模型の屋台が大量出店、原寸模型の見世物小屋もあった

●ミーハーに好かれるようになったか建築家も

長屋の住人・大工の熊五郎:こんちわ、ご隠居、なんだか疲れてるみたいですね。
長屋の住人・隠居徘徊老人:おお、熊さん、いらっしゃい、まあ、おあがりよ。うん、昨日、東京の乃木坂の国立新美術館に徘徊に行ってね、それで脚が痛いんだよ。
:美術館なら徘徊じゃないでしょうに、なにを見て来たんですか。
:安藤忠雄という建築家の展覧会だよ。会場が広くてたくさんの展示があり、2時間余りも歩きまわって疲れたよ。
:ああ、安藤忠雄ね、よかったでしょうね。
:エッ、熊さんでも安藤忠雄の名を知ってるのかい、おどろいたね、どうりで平日なのに観客が多いのでびっくりしたよ、へえ、今どきは建築家もミーハーに好かれるのかい。
:そうですよ、あっしだって知ってますよ、他に藤森照信って名も知ってますよ。ちかごろはミーハーネエチャンオバサンが、そんな建築見物観光旅行に行ってますよ。
:ホントかなあ、そうかい、日本も建築家って職業を世間が認知する時代にやっとなったか。

●原寸模型で現物体験というけれど環境が違い過ぎる

2017/11/17

1301【FACEBAKA掲載与太話】10月後半~11月前半:衆議院選挙、企業犯罪、トランプなどなど

【FACEBAKA掲載与太話10月後半~11月前半】

11月9日・新語・流行語
わたしの聞いたことある言葉は、このうちの6割だけ、
でも意外に多く知っている感もある。


11月7日・トランプ
ふ~ん、、

2017/11/15

1300【癌かもしれない日々・7】日光角化症クリーム塗布治療の後半戦を開始で面倒だけど暇つぶしにはなる

癌かもしれない日々・6】のつづき
 わたしは日光角化症のことをぜんぜん知らなくて、
ある日偶然のきっかけから治療することになったのです。
この報告が、まだ日光角化症を知らない人たちに
役立つことを期待しています。

 顔面の一部が前癌症状の日光角化症となり、ベルセルナクリームを塗る治療を始めて2か月、クリーム塗布休止4週間の後の2017年11が15日、横浜市大センター病院皮膚科(伊藤亜希子医師)の診察を受けた。
 ベルセルナクリームによる治療は、4週間塗布、4週間休止、その後また同じことを繰り返すのだが、うまく行けば前半だけでおしまいになるとて、そうなればいいなと期待しながら診断を受けに行ったのだった。

2017/11/13

1299【黄金町バザール・4】アート制作のために地域に入っていくアーチストたちって街づくりコンサルタントに似て非なるもの

黄金町バザール・3】のつづき

 それにしても、これらわけのわからない作品を、手間と時間をかけて制作し、展示しているアーチストたちは、いったいどうやって日々のおまんまを食っているのだろうか。
 制作費をどうやってひねり出してるんだろうか、みんな富豪の人たちか、それともなにか別に本業を持って稼いでいるのか?

2017/11/01

1298【黄金町バザール・3】みなさ~ん黄金町でも戦争はようやく終りましたよ~

黄金町バザール・2】のつづき

●『みなさ~ん、戦争はもう終りましたよ~』
 おお、そうだ、ここ黄金町でもそう叫んでくれよ。いや、この映像作品が今ここにあるということは、毒山が黄金町でも叫んでるつもりかもしれない。
 毒山凡太郎が、沖縄の各地で『戦争はもう終りました、War is over』と叫んでいる映像をしばらく眺めていて、そう気が付いた。
毒山が「戦争は終わりました」と叫ぶ沖縄各地

2017/10/30

1297【黄金町バザール・2】チョンの間アートの直截すぎる政治的メッセージ

黄金町バザール・1】のつづき
電車の轟音が響く高架下の展示小屋の壁にぶら下がるのは宇佐美雅博「秋葉原」

●「チョンの間」アート巡り
 宇佐美の広島と福島の写真に政治的メッセージを感じながらも、鉄道高架にぶら下がる宇佐美の「秋葉原」の分らなさに頭をかしげつつ、次へ行こう。
 黄金町バザールのアート展示は、特定の美術館建築の中でやっているのではない。寂れた横浜下町の街そのものが展覧会場であるところに特徴がある。

 宇佐美の写真は、京急電車の高架下の小屋で展示している。
 そのウラ寂れさを隠しようもない鉄道高架下という空間に、横浜市が作ったアート活動スタジオとギャラリーが、アート展示の特定施設と言えなくもないが、これとても横浜トリエンナーレメイン会場となっている横浜美術館と比べると、御殿とバラック小屋ほどの差がある。

2017/10/26

1296【黄金町バザール・1】横浜下町の壊滅した青線街でのモダンアート展にハマった

●横浜都心のめでたい地名
 横浜都心部は、19世紀半ばの日本開国から生まれた市街地である。海を埋め立て、山を崩して、人々が活動し暮らすための平地をつくりだした。吉田町とか山田町等の地名が付いているのは、そこを開発した人の姓によるのだろう。
 あるいは、寿町、真金町、黄金町などの地名は、その土地での人々の繁栄を期待したのであろう。

 その寿町一帯は、戦後はドヤ街として名が高いし、真金町一帯は戦前は遊郭として戦後は赤線街として繁栄したし、黄金町一帯は戦後から21世紀の初めまで青線街として栄えた。
 それらは付けられた名の期待に背かずであったかどうかはともかく、それぞれに繁栄をしたことは間違いない。だがとうぜんのことに、時代の大きな変化の中で、繁栄と凋落の波間に浮き沈みの変転をしてきた。

●黄金町青線跡の街でモダンアート展
 いま横浜トリエンナーレの一環で、黄金町の赤線街跡一帯で「黄金町バザール」と名付けて、アートイベントが開催中(11月5日まで)である。これが実に面白いので、わたしはちょっとハマっているのだ。3回も観に行った。

2017/10/19

1295【総選挙】期日前投票理由は地震火事台風急病親の葬式

 今月22日の「投票のご案内」なる紙がやってきた。これまで無投票党だったから、封筒から出したことがなかった。
 今回も投票棄放党(棄放の党)総裁だけど、暇つぶしにとりだして眺めていたら、紙の裏に期日前投票所で投票する方法があると書いてある。ここにサインして持って行けばよいらしい。
 ほお、初めて知った、面白い、好奇心が湧いたぞ、初めてのことだとやってみたい。

2017/10/18

1294【癌かもしれない日々・6】日光角化症の塗り薬はこれでいったん休止してしばらく治癒進行の様子を見る

癌かもしれない日々・5】の続き

 わたしは日光角化症のことをぜんぜん知らなくて、
ある日偶然のきっかけから治療することになったのです。
この報告が、まだ日光角化症を知らない人たちに
役立つことを期待しています。

 日光角化症なる顔面ガンモドキ治療は、9月21日に患部にベルセルナクリーム軟膏を週3回塗りはじめてから、今日10月18日で4週間12回を経過した。
 ここでひとまず薬を休止して、これから4週間様子を見ることになるので、市大センター病院皮膚科に診断を受けに行った。10時半の予約だが11時半に呼び出しあり。

2017/10/16

1293【FACEBAKA与太記事十月前半】大キボーにジコーもシンコーも怪しげな不良品を出荷する秋

【今月前半face baka掲載与太記事】
総選挙神鋼不正や新党にノーベルも加わり騒ぐ秋の日

2017年10月15日
【言葉の酔時記】エッ、幼児までもそう言うのか。
病院とかホテルで、こんなふうに聞かれることが多い。
お名前をうかがっても、よろしいですか
「え?、あなたの気持ちをわたしにうかがわれても、
それがよろしいかどうか、わたしには分りません」
あ、いや、お名前をおっしゃってください
「それなら、はじめからそうおっしゃいよ」




10月14日

今朝の新聞広告の写真って気持ち悪いなあ

2017/10/15

1292【昼下がり電車にて】デジタルの小箱に見入る人々のさなかにひとり鉛筆男

●昼下がり郊外電車内のデジタル群衆模様

 平日の昼下がりの郊外電車のなか、座席はほぼ満員、立つ人はまばら。
 読んでいる新書から目をあげて、前の長椅子に座る7人の人々を眺めると、5人はスマホをいじったり見つめたり、ひとりはタブレットを見入っている。
 そして残るひとりの若い男は、クリップボードの紙に鉛筆でせっせと字を書いている。おお、今どき珍しい若者だと、その鉛筆の動きをついつい見つめて、この唯一のアナログマンが雄々しくて拍手を送りたくなった。

2017/10/06

1291【小町和義の仕事展】建築家・小町和義氏の仕事と宮大工棟梁の小町家に伝わる古文書等の地域文化資料の展示を八王子市民団体が企画

 八王子で11月17日~21日に「小町和義の仕事展」が開催されるそうである。小町さんからお知らせの手紙をいただいた。
 90歳になられてますますお元気である。今回の展覧会は「八王子の宮大工小町家と番匠~小町和義の仕事展~」と銘打って、地域の市民団体「八王子の市民史を記録する会」の企画によるものだそうである。
 (展覧会パンフPDFはこちらからDL

1290【ノーベル文学賞】カズオ・イシグロの受賞で突然に騒ぐ日本ジャーナリズムって、、、

 今年のノーベル賞の新聞報道は、社会面の片隅に乗るばかりなので、ノーベル賞で騒ぐのをやめたのかと思っていたら、今朝の新聞はトップに掲載、え、なんで、それほどカズオ・イシグロの受賞は意外な事件なのかあ?、、、

2017/10/04

1289【日本ちゃんぽん党結成か】大慌てモリカケ解散総選挙、利権民主は規模の党外

 衆議院議員の総選挙だそうである。ふ~ん、そうかい、そうかい。
 で、「総選挙」をググるとこんな画像ばかりでてくるよ、平和でよろしいけど、世の中どうなってるの?

2017/10/02

1288【癌かもしれない日々・5】日光角化症治療患部4か所のうち1カ所だけ症状が異なるけれど治療を続けてよいかと医師に聞きに行く

癌かもしれない日々・4】のつづき 
 わたしは日光角化症のことをぜんぜん知らなくて、
ある日偶然のきっかけから治療することになったのです。
この報告が、まだ日光角化症を知らない人たちに
役立つことを期待しています。

 顔面の両こめかみ、鼻上、右眉中の日光角化症患部に、ベセルナクリームなる薬を火木土と週3回塗る治療を始めて、これまでに5回塗ったことになる。
 この薬を塗ると隠れた患部も出てくるとて、鼻と左こめかみは変わりないが、右こめかみ左上部に新紅斑が現れた。右眉中も下にマブタ上に紅斑がひろがった。

2017/09/25

1287【癌かもしれない日々・4】なんとまあ違う患部に違う薬を毎日塗っていたというお粗末事件は医者と患者の誤解ごっこだろうなあ

癌かもしれない日々・3】の続き
 わたしは日光角化症のことをぜんぜん知らなくて、
ある日偶然のきっかけから治療することになったのです。
この報告が、まだ日光角化症を知らない人たちに
役立つことを期待しています。

日光角化症のガンモドキ診断により、顔の3カ所に薬を塗る治療を開始したのだが、ここに奇妙な笑い話のようなことが起きた。
 なんと、患部を間違えて薬を塗っていたのだ。まったくもってバカみたいだが、病気治療だから笑ってはいられないなあ。

2017/09/22

1286【癌かもしれない日々・3】日光角化症顔面患部皮膚サンプル検査結果報告をもらったけど専門用語だらけなので患者向けにもうひと工夫してほしい

癌かもしれない日々・2】のつづき
 わたしは日光角化症のことをぜんぜん知らなくて、
ある日偶然のきっかけから治療することになったのです。
この報告が、まだ日光角化症を知らない人たちに
役立つことを期待しています。

日光角化症との診断が出たときに医師からもらった「組織診断 最終診断 生研」なる、A4判1枚の紙がある。字が小さくて読みにくいし、今日の話と同じことが書いてあるのだろうと思って、その場では読まず質問しなかった。
 で、今、うちで読み始めたのである。

 おおぜいの名前が書いてある。提出医、診断医、確認が2名、ダブルチェック担当医が2名で、なんと計6名もの医師がわたしのために働いてくれたのであるか。

 判決文はここなのだろう。
病理組織診断 
 Skin Actinic keratosis 悪性
 

2017/09/21

1285【癌かもしれない日々・2】顔面ふたつのピンク斑点サンプル採集検査結果は「Actinic keratosis悪性」日光角化症ガンガンモドキ宣告

癌かもしれない日々・1】のつづき
 わたしは日光角化症のことをぜんぜん知らなくて、
ある日偶然のきっかけから治療することになったのです。
この報告が、まだ日光角化症を知らない人たちに
役立つことを期待しています。

癌かもしれないなんてプライバシーの極みを公開するのは、露悪趣味もないことはないが、格好よく言えば、同様な症状の人たちに何か役に立てばよいと考えるからである。もちろん自分の覚えのためが第1だが。
 なにしろ3,4年も前から起きているに、はじめの皮膚科町医者が気づかず、2度目の町医者が気付いて大病院を紹介してくれたのだから、世には似たような症状の例が多いだろう。
 これまでも「大腿骨骨頭壊死症(誤診)」、「白内障」そして「第3腰椎圧迫骨折」を公開している。それなりに読んでいる人がいるらしく、時に問合せメールが来る。

 やっぱり皮膚癌であるとの宣告だった。2017年8月20日横浜市大センタ病院皮膚科河野真純医師の御言葉である。

2017/09/12

1284【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド.12】超高層建築の東京海上ビルがタブーに触れて起きた美観論争のなれのはてのこの現実はいったいなんだろ


 さて、次はこの広場を北に歩いて、先ほど遠くから眺めた赤い超高層「東京海上火災ビル」に行きましょう。
これまでのガイドコースと今回の位置(赤丸)

●東京海上火災ビルはいまやチビ
 はい、やってきましたこの前に見える道路、左に東京海上ビルと新丸ビル、右に日本郵船ビルと丸ビル、突き当りには東京駅が見えます。
東京駅前道路の行幸通りを東に見る
 

2017/09/03

1283【年金老人ボケ遅延策】役所から書類を書いて出せと指示がきたがこれは高齢者ボケ進行遅延対策なんだろうなあ

●1時間もかけて書いた書類

 「平成30年度分公的年金等の受給者の扶養親族等申告書」と「個人番号申出書(平成29年分扶養親族等について)」の二つを出せ、日本年金機構から手紙が来た。
 1時間かけて書いたのだが、実は書いたのは、姓名と個人番号と〇を2つだけ、ほんのわずかである。なのに1時間もかかったのは、わたしがボケてきたからである。
 けっして書類の記入方法の説明を読んでも、意味が分らなかったからではない。とにかく読んで記入できたのだから、分かったのである。もっとも、正しく記入したかどうかは、わたしにはわからない。

2017/08/18

1283【戦争を思い出す8月】悪名高い大敗北「インパール作戦」から生還した中越山村の最長老の物語

戦慄の記録 インパ―ル」という、つい先日の8月15日にNHKが放送したTV映像をネットで見た。
https://youtu.be/DTsRiFeTOIo
 この映像は海賊版だろうか。海賊版なら早晩消えるだろうが、「インパール作戦」という稀代の大敗北戦の悪名は、その企画段階から反対されながら、実行段階では部下から反旗を翻されても、途中で負けると分っても無理矢理に突き進んだ、牟田口廉也司令官の名と共に消えはしない。

2017/08/15

1282【敗戦記念日定点観測】金モール軍服長靴の若者がスマホをいじる靖国の夏

 なんだか涼しい真夏の日である。今日(2017年8月15日)は靖国神社に敗戦記念日定点観測徘徊に行ってきた。3年ぶりである。

この前の2014年の記録、その前の2005年と2013年の記録もある。

 九段坂の途中にいつもはたくさんの“ウヨク屋台”が出ているのに、今日は雨もよいのためか、なんだか少ないがいつものヤツも見える。
 わたしがギョッとしたのは、若い大学生あるいは高校生とも見える女性たち5人、並んでパンフを配りながら、黄色い声をてんでに張り上げているその声であった。
 「憲法9条を廃止しましょう
 「憲法9条を廃止しましょう

2017/08/10

1281【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド.10】DNタワーの設計者たちと歴史的建築の保存と再生の表現

【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド・9】のつづき

●DNタワーの設計者ー渡辺仁
 この超高層のある「DNタワー21」の設計は、清水建設設計部とアメリカの建築家ケビン・ローチによるものです。
 しかしここで注意したいのは、外観保存した第一生命館は1938年にできたものであり、この設計者は渡辺仁と松本與作でしたから、この人たちも設計者としておかねばならないことです。

2017/08/08

1280【癌かもしれない日々・1】紫外線のせいで顔が癌になりそうな診断だけどさてどうなるか身体ゲームのはじまり

 わたしは日光角化症のことをぜんぜん知らなくて、
ある日偶然のきっかけから治療することになったのです。
この報告が、まだ日光角化症を知らない人たちに
役立つことを期待しています。

●顔癌ガンガンかもしれない
 今日も暑い日々が続く。数年前から顔の3か所(右眉の中、両こめかみ)に、小さな丸いピンク模様ができて、ちょっとかゆい。
 いずれも眉毛と頭髪の陰になるので、人相に影響ないのだが、気にはなっていた。
 近くに長者町ファミリークリニックという皮膚科の医者が開業したので、昨日、そこに行って診てもらった。
 女医さんが言うには、眉毛下の症状には薬を出すが、両こめかみの症状は皮膚がんの可能性があるので、大きな病院で診てもらえと言う。
 エッ、とうとうわたしも癌かよ~、おお、ようやく病気らしい病気にありついたのか。

2017/08/03

1279【日本の家展と超高層建築群】近代美術館で「日本の家」展を見てきたが、なんとも“建築家”好みであったなあ

 暑い日々の中で涼しい日となった昨日(2017/08/01)、突然に思いついて江戸城あたり定点観測徘徊に行ってきた。今日なら熱中症になるまい。
ついでに近代美術館に立ち寄って、「日本の家 1945年以降の建築と暮らし」展を見てきた。結論から言うと、“建築家”好みの企画で、あまり面白くなかった。


2017/08/02

1278【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド・9】キメラ建築DNタワーがになう歴史的景観の背景にある日本の戦争

1278【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド・9】キメラ建築DNタワーがになう歴史的景観の背景にある日本の戦争

【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド8】のつづき

東京駅丸の内独断偏見ガイドは、明治生命館の跡は日比谷通りを南に歩いて、DNタワーに参りましょう。
明治生命館の前の馬場先門から南に日比谷通りを見る
白い超高層ビルがDNタワー(2007)

2017/07/25

1277【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド8】明治生命館は今や丸の内では超一級重要文化財、自社オフィスなのに一般公開しているのがいまどき偉いなあ

東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド7】からのつづき
東京駅周辺ガイドマップはこちら
●東京駅周辺ガイドルート(グーグル画像マップ)

 では、馬場先通りを西へ、堀端の方へ歩きましょう。
 この日比谷通りと馬場先通りの角地に立つのが1934年に建った「明治生命館」です。重要文化財指定の建築です。
 丸ノ内の重文指定建築と言えば、最初の東京駅がそうでした。そして三菱1号館美術館は重文なりそこね、鳥取藩池田家上屋敷表門は今は上野の山にお出かけ中ですね。
明治生命館(馬場先通り側)