2024/03/25

1806【ミーハー推し】巨人大鵬卵焼き/阪神柏戸ライスカレー/ラーメン大谷尊富士

 見世物スポーツ嫌のわたしは、新聞のスポーツ欄を飛ばし読みする。そもそもTVそのものをを見ないから、スポーツ番組放送も見ない。
 ところが時々、新聞スポーツ欄から社会面記事へはみ出してくるスポーツ関係ニュースがあるので、そこで知るスポーツニュースがある。それにはちょっと興味を持つ。最近立て続けに2件あった。

 ひとつはUSAプロ野球に「大谷ショーヘー」とかいう活躍する日本人プレーヤーが居るそうだ。この人の専属通訳がギャンブルで大損して、雇い主の大谷のカネを盗んで穴埋めしたとの事件。
 その金額がなんとまあ数億円の巨額、そんな金を大谷は持っているのかあ、わたしはそれ以上にこの事件内容に興味ないが、本場野球でアジア人が活躍して大金を稼いでいるんだなあ。

 ところでそのギャンブル通訳の名が「水原」という。なに?野球で水原だって?、何かが引っ掛かった。そうだ、昔々の1950年代のことだったかなあ、日本プロ野球に「水原茂」という監督がいたなあ、あれは巨人チームだったかしら、なんか常勝の神様みたいな評判だったなあ。何の関係もないがふっと記憶の底から出てきた。

 もう一つのスポーツ欄から社会面にはみ出し記事は、日本の大相撲つまりプロ相撲トーナメント戦での珍事である。なんでも初めてそのトーナメントに参加した新人力士が、なみいるベテランたちを倒しまくって、初登場で初優勝してしまったというのである。そんなことは110年前にあっただけの奇跡的な事件だそうだ。その力士は「尊富士」(たけるふじ)とて、何とも尊大な名である。

 そしてこれについても思い出したことがある。プロ相撲で新人の大活躍と言えば、わたしの記憶には「大鵬」(たいほう)という力士の印象が深い。1950年代の末ごろのある日の午後、学生食堂で遅い昼飯を食いながらなにげなく見ていたTV画面に、まさに新人であった大鵬が映っていた。バタ臭い顔とすらりとした体形に外国人かと思った。外国人力士は全くいない頃であった。

 相撲取組放送を見ていたら、大鵬が相手のふんどしを両腕で掴んで押して土俵際に追い詰めたとたん、両腕をサッと抜きとり相手との間合いを開け、両手をそろえて相手の胸をドーンと突いて倒した。おお、土俵際であんなことできるものかと驚いた。

 そのころは街頭TVなるものがあちこちにあり、わたしはちょうど夕方からの家庭教師アルバイトに出かける時で、自由が丘駅前のそれを時に見たものだが。特定の相撲取組についての記憶は大鵬登場のこれ一つしかないから、かなり印象深かったのだ。若乃花とか栃錦という力士がいたなあ。

 さてその後の大鵬はみるみる横綱へと駆け登ったが、尊富士もそうなるだろうか。あの頃の大鵬の評判は、「巨人・大鵬・卵焼き」と並べられる流行語となり、ミーちゃんハーちゃんが大好きなものの象徴だった。わたしは勝手に「阪神・柏戸・ライスカレー」とひねくれて言ったものだ。となると現代では「ラーメン・大谷・尊富士」なんて言うのだろうか。

(20240325記)

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2024/03/21

1805【震災ミニ訓練】能登の次は関東で大地震があるような気配で今日は断水訓練

●次は房総半島地震だろうなあ

 なんだか最近は関東あたりが震源の地震が多いような気がする。今日2024年3月21日、朝9時頃に地震があった。うちの横浜あたりは震度3だったが、埼玉県では震度5という結構なレベルで揺れたそうだ。

2024年3月21日9時過ぎの地震の震度分布図
 何しろ今年は北陸では元旦から大揺れだったが、そのあたりではそれよりもだいぶ前から子鯰が群発していたそうだ。関東でもこのところ群発しているから、能登のように今にドカンと親玉鯰が登場してくるに違いないと思う。

日本列島過去100日間の震央分布図

 上のここ100日間の日本列島東半分での震央の分布図を見ると、元旦に起きた能登半島大地震のあたりが特に目立っている。それに次いで南関東あたり特に房総半島がにぎやかであるのが、同じ半島として能登並みになる恐れがありそうだ。できればわたしが死んだ後で来てほしいものだ。大地震が来るよりも先に死のうと、ただいま競争状況にある、か。

●計らずも自宅でミニ被災訓練

 能登震災地ではいまだに水道が開通しないところが多いらしい。実は今日はわたし住まいでも、朝9時から上水道が停まっている。なんとなく能登の被災者気分をちょっぴり味わっている感じであった。災害ではなくて、住まいのある共同住宅ビルの上水道給水ポンプ取り換え工事だから、事前通知により昨夜汲み置きの水で十分間に合ったが、ミニ訓練にはなったかもしれない。

能登の震災地では苦境が続く 20230421東京新聞


断水通知チラシ 
文中に「※不足の事態が・・」とあるが、たしかに水不足事態ではある

 給水がないということは、下水に流せないということで、便所の利用が不便であった。使うたびにバスタブに溜めた水を洗面器に汲んで便所まで持って行き便器に流す。その間4mほどだが、途中でこぼさないようにするのに疲れた。そんな震災ミニ訓練していた朝に、本物地震に出くわしたのであった。

 キッチンには薬缶や鍋に汲み置いておいた。今までにまる1日中をこんなことをやった記憶がない。これが災害で長く続くと、それだけのために避難することになるだろう。人間は水がないと生きられない生物である。


●断水、停電、波、断食など

 ふと思ったのは、水が止まると「停水」でなく「断水」というのはなぜかということ。電力が止まると「停電」といい、「断電」と言わぬのは何故か。電波が止まると「断波」じゃなくて「停波」と言うような気がするなあ、ガスが止まると断か停かどっちだろうか?

 そうか、「断」は水のようにそれがないと、すぐに生きられなくなるものに使うのだろう。「停」は、電力のようにそれが無くてもとりあえずは生きられるものに使うのだろう。
「断食」はまさにそうだなあ、でも「断気」とは言わないなあ。

(20240321記)

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2024/03/18

1804【新幹線が伸びても】晩年の貴重な4年間をコロナに奪われて超高齢者は旅する力を失った

●懐かしい加賀と越前に新幹線

 北陸新幹線が東の金沢駅から西の敦賀駅まで延伸して営業することになったそうだ。なつかしいところだが、もう行けないなあ。
 北陸と言えば、1993年から10年余りを、仕事で福井・石川両県にはよく行ったものだ。その伝統的な街と伝統的な地場産業を結ぶ仕事であった。特に鯖江市河和田の越前漆器の里づくり(「うるしの里会館」プロジェクトマネージャー)では、10年のうちの2年ばかりは毎週通った。足の故障で杖を引いていた。そこにはわたしの都市・建築計画の最後の仕事の成果が見える。

「河和田うるしの里会館」2006(設計:サンワコン 担当:林、尾野)

 北陸新幹線がまだないそのころは、こちら東海道新幹線に新横浜から乗り、米原で北陸線に乗り換えたものだ。これからは長野・富山周りの北陸新幹線の方が早いのだろうが、心理的にはむしろ長旅の感じがする。太平洋側から日本海側へと日本列島脊梁山脈を横断というか潜り抜けるのは、まことに厄介な旅の感がある。

 下のルート図を見ると、小松駅から越前たけふ駅までの間には、在来線並みにずいぶん多くの駅があるように見える。長野と富山の間ではなんだかずいぶん大回りをしているのが奇妙である。敦賀から米原に接続しないで湖西を行くのもなんだか不合理に思える。どんな政治的我田引鉄事情があるのかしら、いや、土木技術で乗り越えられない地形的事情なんだろうなあ。

●超高齢者はコロナの4年で旅する力を奪われた

 コロナで謹慎期間中にあれやこれやあって、コロナが終わっても旅行なんぞに行けない身になってしまい、新幹線が通ろうと鉄道経営者が変わろうと、もう関係がないのだ。わたしだけではなくて、超高齢者は誰もかれもが4年間も謹慎していると、足腰が弱ってもう元に戻らない。さらにこの間に介護家庭となる者もかなり多いから、介護する側も旅行に行けなくなる。そういえばコロナ以前から新幹線にもう7年も乗っていないなあ。

 それなのにこのところ「北陸応援割」とか言って、北陸新幹線延伸開業と能登震災復興を合わせ技にして、税金をつぎ込んでの旅行支援で、観光金遣い推奨策が始まったらしい。
 だが、超高齢者にはそういうわけでもう関係がないのだ。これだけだはなく、コロナ期間中にでいろいろあったらしい旅行支援策を、わたしは何ひとつ恩恵にあずからなかった。いま、コロナが明けたが、こんども何ひとつ使うことはないだろう。

えッ、20000円もくれるのかあ、行きたいなあ、けど足腰が、介護が、

日曜日のご近所徘徊は横浜中華街、足の踏み場もない若者の人出

 他人のために納税するばかりの、バカに気前の良い耄碌爺に無理矢理にされてしまった。他人ためと言えば、わたしは医者知らずに過ごしているから、高い高い後期高齢者医療保険代も払うばかりで、保険金としてめったに戻ってこないのも、癪に障るものだ。このあたりで大病して一度に取り戻す策はないものかと、バカな思案をして悩む。

 とにかくコロナによって、超高齢者たちは足腰がまだ立つ人生晩期の貴重な4年間の行動を奪われて、コロナが終わってももう復帰できない。旅行も集まりも飲み会も再開できないから、仕方なくZOOMで遊んでいる。

 若い者に旅行支援だなんて遊びに助成金を出すのなら、その半分でよいから超高齢者にも何か屁理屈をつけて回してほしいものだ、うらめしや~。

(20240318記)

参照:伊達美徳の北陸に関する諸エッセイなど
まちもり瓢論「東海・北陸編」

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2024/03/16

1803【横浜寿町の変化】ドヤビル建て替え進化と一般共同住宅ビルの進入でドヤ街は変わるか

●横浜寿町ドヤ街のこと

 簡易宿泊所が多く集まる街「横浜寿町地区」は、横浜市中区寿町や松陰町などの都心部の一角を占める。ちょっと見ると安ホテルのような高層ビルが立ち並んでいて、普通の街に見える。

 だが、いわゆるドヤ街と隠語で言われるように、ホテルとは段違いに格が下がる超安価な宿屋ビルばかり立ち並ぶ地区である。その安宿に事実上は住み暮らす人々は約6千人、その約8割は生活保護対象の単身高齢男性たちである。その宿賃は標準的には1泊1700円だが、普通の宿屋と違うのは水光熱費は別支払いだ。

 この街がここに生まれたのは、いかにも横浜らしい戦後史を背負っている。かつては横浜港での働き手の若者たちの街であったが、そのまま老いて今は福祉対象の高齢者の街になっている。中層の古いドヤビルは次第に建て替えられて高層ドヤビルになりつつある。それは単に老朽化への対応ではなくて、居住者が高齢者に変化したことでの機能的変化への対応でもある。

 それにつれて街も次第に変化してきている。街路に面しては飲み屋も多いのだが、近年にになって特に増えたのは高齢者福祉関係施設である。これだけ多くの高齢者たちが集中的に住めば、介護関係施設が軒並みに登場するのは当然である。まさに高齢者しかも貧困層の街になっている。

 街の変化はドヤビルの高層建築への更新が顕著な一方で、別の方向も見られるようになってきた。それは一般住民対応とでもいおうか、いわゆる一般共同住宅ビルも登場するのが顕著にもなってきていることだ(参照ードヤ街のマンション)。それは区分所有型分譲共同住宅ビル(いわゆるマンションだが、わたしはこの誤用和製英語を使わない)、あるいは賃貸借共同住宅ビル(1棟の各住戸すべて賃貸借型住宅)である。ドヤばかりでない街に徐々に変わりつつある気配がある。

●ドヤ街に一般共同住宅ビル登場

 立地が横浜都心の一角であり交通も生活も便利だから、一般住宅需要があるということだろう。ドヤビルを立て直すにあたって、一般共同住宅に変化する傾向も見えてきた。寿町のまさに中心部である寿公園の斜め前の街区にあった3棟のドヤビルが、1棟の一般共同住宅に建て替えが進行中である。10階建て61戸とてたぶん分譲だろうがついにここまできたか。

左向こうが寿公園、手前右がドヤビル跡に建設中の一般共同住宅

 そしてつい最近、新しい賃貸借一般共同住宅が、寿町地区の南入り口の長者町通りに竣工した。その近くには新しい高層ドヤビルもあるのだが、明らかに姿が異なり、それがドヤ街地区の外観イメージを一般の街イメージへと変えていくことになるだろう。

長者町に防火建築帯ビル建て替え新築賃貸借共同住宅ビル 背後は首都高高架道路


 それが建つ以前のそこには、戦後横浜復興期の市街地建築である防火建築帯ビルが建っていた。3階建てで1階は店舗で上階は共同住宅であった。長者町通りにはこの種の防火建築帯ビルが軒並みに立ち並んでいたものだが、さすがに70年もたつと、ほとんどが建て替えられて、残るはもう10指にならぬくらいだ。

戦後復興期の防火建築帯ビルとして建っていた従前建築

 この新築賃貸借共同住宅ビルの敷地は、南側を底辺として北東と北西を2辺とする三角形である。そして出来上がった住戸のほとんどが北東と北西向きで、日当たりが実に悪いことだ。なぜ常識的な南向き住戸を避ける配置にしたのか。

左下赤枠が新賃貸借共同住宅ビルの敷地の位置 (上が北)

 それは敷地の南側には首都高速の上下2段2階建ての高架道路があるからだ。南面だから陰になるし、高架道路から騒音と排ガスが昼夜とも押し寄せて、相当にひどい環境である。もしもこの高架道路がなけば、そこには中村川が流れているから、こちらにこそ住戸が向くべきであったはずが、道路に乗っ取られてしまっているのだ。

 この環境では分譲住宅にしても売れないので、賃貸借住宅ビルにしたのであろう。この高架道路は寿街地区の南側を覆うように横たわるのだが、ドヤという底辺居住悪環境にはそれでも耐えうるものであったのかもしれない。いや、それだからこそドヤ街が成立しえたのかもしれない。

 ところが今や、都心部の住宅需要が伸長してして、このような悪環境でも需要と供給が成り立つ関係になってきたということだろうか。たしかに、ここより西部の高架道路沿いにいくつか新しい共同住宅ビルが建ってきている。さぞや、住みにくい住まいだろう。

 ところで、東京の日本橋のあたりの首都高速道路の高架を、地下に入れてしまう工事が進んでいるそうだ。それならば、その次は横浜のここ中村川上空の高架道路を、地下道路に改造するに違いない。そうすれば横浜都心部の居住環境は格段に回復する。おおいに期待をしている。(参照:横浜首都高地下化

(20240316記)

参 照
1690【横浜寿町の変化・1】横浜都心部の関外にある貧困ビジネス街はどう変わりつつあるか2023/06/10 https://datey.blogspot.com/2023/06/1690.html

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2024/03/11

1802【3・11記念日】この13年間に書いた東日本大震災論考・提案・迷言・オチョクリ200件読み返し

 今日は3月11日、つまり東日本大震災が2011年のこの日に発生した災禍記念日である。直接被災したのではないから、それがどうしたと言われればグーの音もない。しかしまあ、人間は何かを思い出すため、忘れたくないために記念日なるものを発明したのだろう。

 わたしはこの日を思い出すためではなく、この災禍についてただただ好奇心で、この13年間にたくさんの駄文記事を【災害日本オロオロ日録】と題して、このブログに書き記してきた。初めは勢い込んで毎日書いていたが、次第に間遠になり忘れそうになっていたが、能登半島震災が呼び覚ましてくれた。

 このブログに書いたのは、真面目な提案・論考・紀行もあれば、迷言・妄言・オチョクリなどなど、約200件もの駄文である。自分でもよくも書いたと思うが、まあ、ボケ防止対策でもある。このような駄文はいくらでも書くことができるのは、下図に見るように種は尽きない地震列島に住むからである。

地震列島近現代歴史図 202403011東京新聞朝刊

 今ここで【災害日本オロオロ日録】を読み返しているのだが、初めは勢い込んで毎日書いていたのでなかなか面白い。特にわれながら面白いと思うのは、発生すぐの3月21日に「福島原発を世界遺産にしよう」と提案していることだ。その後にそんな話もちらほらネットに登場したが、今は忘れられているらしい。

 この地震最大のイベントであった福島第1原子力発電所の水素爆発については、わたしはネパールでTVを見て知り、大いに仰天したものだ。日本はこの地震で停電続きの日々だったが、ネパールでは停電は日常的な電力事情であるのにも驚いた。

 東日本大震災の現地に初めて入ったのは翌年の11月だった。この時は「森の長城」と称する緑の防波堤づくりボランティアとして、どんぐり拾いに行ったのであった。その時に拾ったドングリは、今はどこかの森の長城の一員としてのシイやタブの木となって、防潮堤の上に育っているに違いない。

 現地を知らないのにネット情報だけで、盛んに復興案の批評・論考・提案をしているのが面白い。今読むとどれ一つとして実現した提案はないようなのは、机上の空論だからだ。だがわたしにはずいぶん勉強になる自主作業だった。
 その一つに有名な陸前高田の松原と一本松に関する論考を書いているが、さて、現実はどのような姿になているのだろうか。

 大きな震災地に復興支援の手伝いで初めて入ったのは、2004年の中越震災の時だった。10年ほども継続した現地入り活動については、【法末集落復興日録】と題してこのブログに載せている。しかし東日本大震災現場へは、復興支援ではなくて何回かの野次馬見学であった。それでも中越の時と同じように学ぶことが多かった。

 2013年4月には仙台から釜石までの津波被災地をめぐってきた。津波のエネルギーの強大なことに、既存防波堤や防潮林の破壊ぶりに見て仰天した。机上の都市計画のもろさも知った。2014年9月にはようやく福島核発電所事故被災地へ入ることができた。目に見えない被災を見つめ、発見し、考える旅であった。核発電の恐怖を身近に見て感じて、観念的でない核発電反対を言うようになった。福島県ではいまだに核毒から逃げて大勢が避難している。

今も核の毒から避難する人が大勢いる 東京新聞20240311

ここを最終処分地にするしかない!、ここを福島県から分離すれば県外処分だ!?

 あれから13年、毎年のようにこの前日の3月10日から、人災と天災について考えるのだ。特に今年は元日の能登震災から始まったので、記憶の底になりそうだった東日本震災時にあれやこれやと考えたことの記録を読み返したのであった。われながら面白い。4冊のブックレットも作っているのだ。

 さて、来年もまた読み返して考えることができるかどうか、地震ならぬ自信のない年齢になってしまった。いや、来年早々にも大地震が来るだろうから、きっと読み返すだろうと思う。それは自分が被災してあの世に避難してしまっていなかったならば、、いや、被災の前にすでに自主避難完了かもしれない。

 アッ、そうだ、まさかと思うが大人災が起こって、【戦争の記憶】も読み返すことになるだろうか。ウクライナ、パレスチナ、さて次は東アジアのどこか?、いやだいやだ、やっぱり早期自主避難しかないな。

(20240311記)

参照ブログ記事災害日本オロオロ日録

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2024/03/06

1801【歌集プロジェクト】歌詠む人花咲かす人絵描く人本作る人たずさへつ米寿へ

 今は八十路半ばのわたしたち幼馴染同級生4人が、米寿に完成させようと取り組んでいるプロジェクトがある。完成の日が来るまでは、誰ひとり呆けてはならぬと、ここに覚悟のほどを書いておく。

 そのプロジェクトとは、この4人で歌集を出版しようとしているのだ。まず短歌をつくる「歌詠み人」が中心にいることは言うまでもない。歌集には写真と挿絵を入れて彩る。その花を作って写真を撮る「花つくり人」がいる。挿絵もいれるからその「絵かき人」がいる。それらをまとめて歌集という本の形に編集・装丁・製本をする「本つくり人」がいて、これで4人である。

 出版と言っても、商業出版社が印刷販売の書店に並べるやり方ではない。「本つくり人」の本つくり趣味で、DTP(デスクトップパブリッシング)という机上印刷出版である。それはODP(オンデマンドプリンティング)つまり必要に応じて印刷製本するやり方である。

 この「本つくり人」とはわたしのことである。机上のPCを使って編集デザインして原稿編集し、印刷原稿を作り、家庭用プリンターで必要な毎数を印刷し、それを必要な部数に手作業で製本する。でき上がる本は、A5判のソフトカバーである。数部のハードカバーも作る。豪華本を作ることもできるが、ハンディにして手軽に読める本にする。それを4人それぞれが贈りたい人に贈るのである。これが本づくり趣味の神髄である。

 このプロジェクトは初めてではない。10年前に始めてからすでに3回の歌集プロジェクトをやって出版しているのだ。「歌詠み人」の第一歌集は商業出版として『春楡の歌』を2007年に上梓した。第二歌集からこの仲間プロジェクトにした。というよりも、わたしの本づくり趣味に引きずりこんだのが真相である。

これまでの歌集

 第二歌集『ぽかりぽかり』2014年、第三歌集『またぽかりぽかり』2016年、第四歌集『いまもぽかりぽかり』2021年とやってきたのだ。そして今、第五歌集のプロジェクトに入ってきている。これの出版をいつにするかと考えていて、そうだ、「歌詠む人」が米寿に突入する月にしようと決めた。2026年1月である。

 まだ2年弱もある、というのか2年しかないというのか、ちょっと悩む。そこには、これが4人いずれの人生にも最後の歌集だよなあ、いまでも歌集プロジェクトは無理かもなあ、いや、よし、とりあえずは米寿としておこう、なんとなく区切りは良いし、そこまでなら何とかボケないで生きている可能性もある、いや、そこまではなにがなんでもボケずに行こう、そう、あと2年はボケ禁止だ、というのである。特に本つくり担当のわたしはアンカーだからボケられない。

 もっとも、これは「本つくり人」のわたしの身体能力でそう思ったに過ぎない。他の3人のWIDOWたちは、わたしよりも元気そうだから、大丈夫であるはずだ。歌詠み人は毎月その撞くの歌をまとめてメールしてくれる。それをこの前の歌集以後の歌とともにまとめる。ある程度たまったところで、次の歌集用の選歌をすると、次第に基本原稿が出来上がる。

 しかし油断ならない、コロナのような不可抗力の不測の事態だってありうるのだから、。そこで何かでプロジェクト中断しそうになっても、その段階で出版できるように、毎月末にはそれまでの歌稿を全部見返して選歌し、編集しておくことにした。

 もちろん年末にはまた見直し選歌する必要があるだろう。そうやって次第に絞ってゆけば、2026年初には厳選歌集になるはずだ。
 というようなことでわたしはしばらくはボケ禁止で、本つくりの前に歌読みを楽しむのである。次は年末にでもこのプロジェクトの進行具合を書こうと思う。

歌を詠み花を咲かせ絵を描き本つくる四人たずさえつ米寿へ

 (20240306記)

本づくり趣味関連ページ
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2024/03/03

1800【悲しみの雛人形】男の子ばかりの家なのに毎春なぜか雛飾りした父母

 今日は3月3日、雛の節句である。わたしは男3人兄弟であったが、少年時の記憶では毎春には雛人形の段飾りが、床の間いっぱいにだされていた。もちろん端午の節句には、五月人形の武者飾りが登場したのは、その日がわたしの誕生日でもあるからだ。
 そのどちらも飾られなくなったのは、少年の日のいつのころであるか忘れたが、雛人形の方が先に消えたような気がする。

ネットで拾った画像だが、このような雛段飾りだった

 今日が雛祭りの日とて、それを思い出していたら、急に気が付いた、そうか、あの雛人形の飾りは、父母の悲しみを背負っていたのだ、悲しみの雛飾りであったのだ、と。わたしの2歳上に姉がいたが、3歳で急逝した。その亡き姉のための人形だったのだ。

 わたしにはその姉の記憶は全くないから、雛人形と関連して考えたことがなく、どの家庭でも3月には雛飾りをだすものだと思っていた。思えばあの雛飾りは、父母の悲しい思い出にある姉を祀るためで、雛祭りならぬ雛祀りだったのか。神社の宮司だった神道の父は、家族の死者を霊神として祀った。

 姉は父母には初めての子であったが、3歳半で感染症により急逝した。しかも不運なことに、父が日中戦争の中国戦線で兵役についていて、その不在時の不幸であった。母の嘆きはいかばかりであったろうか。わたしが母から姉のことを聞いたのは、「英子はほんとに可愛らしくて賢い子だった」と、死んだ子の年を数えるような言葉だけだった。あの毎春に出現した真っ赤な雛段のたくさんの人形飾りは、亡き子を偲ぶ悲しい行事であったのかと、今にして思うのである。

わたしと姉 1938年夏
 父母が遺した家庭アルバムには、幼い姉のスナップ写真が数多く貼り付けてあった。この姉が生まれたのでカメラを買ったのであろう。当時はカメラは高価なものであったはずだ。わたしのスナップ写真も多いのだが、姉と一緒の写真はたったの一枚のみであるのは、縁起を担いで他を捨てたのだろう。また、その後に生まれた2人の弟の幼少時写真がないのは、戦争末期になって写真材料が手に入らなくなったからだろう。

 そのカメラは蛇腹式のガラス乾板であり、父の遺品にそれを見つけてわたしが今も所有しているが、もうボロボロで使い物にならない。
 現像と焼き付けも父が自分でやったようで、その道具も一式あった。戦争末期から戦後は乾板も感光紙も手に入らなくなり、わたしの少年時におもちゃになり、カメラを壊し感光紙を露光させてしまった。このカメラのことは、このブログの記事にある。

 だが、あの雛人形や五月人形が父の遺品には無かったのは、定年退職後に故郷を出る時に処分してしまったらしい。さすがにその頃は雛人形に亡き子の思い出を託すほどではなくなっていたのだろう。

遠き日のひいなの飾り赤々とみとせのいのち姉を祀るや

(20240303記)

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2024/03/02

1799【コロナ10波越え房総に地震】願わくは花のもとにて春死なむその房総になゐ振る前に

●コロナ第10波がピークを過ぎたらしい 

 2月から3月へと移行したが、とたんに天候が変わるわけでもないのに、なんだか春になったと感じるのがおかしい。今月は桜の花見できるぞと思うだけで、春になったことは確実だ。そこで毎年詠う本歌取りのうた。

 願はくは花のもとにて春死なむその如月の望月のコロナ

 西行のこの元歌は旧暦2月詠であり、今は3月に詠うべきだから、まだあと1カ月はコロナが消えない限りはこの歌の効力はあるのだ。コロナ以来この4年、毎年毎年詠うのだが、実現しないままだ。

 と思っていたら、どうやらもうこの歌も今年で終わりらしい。それは、コロナ第10波が山を迎えて下り坂に来たからである。もちろん11波も12波のあるのだろうが、このところどうも歌に詠うほどの迫力がコロナに失せてしまったのが、残念、いや、喜ぶべきだな。



●能登半島の次は房総半島か 

 コロナが終わろうとしたところに、能登半島大地震がやってきて、災害日本いや災害地球を如実に感じている。さらにそれを強調するかのごとくに、今度は房総半島の沖で地震が群発しているとのことである。そういえばうちでも昨日も揺れたなあ。房総半島のナマズが能登半島のナマズに負けてはならないと、暴れ出したらしい。

 わたしの住む横浜の東京湾を挟んで東にあるのが房総半島だから、能登半島に対する金沢の立地に似ている。能登並みに房総が揺れたら、こちらも安泰ではない。コロナに続いて、まだまだ心が休まることがない。というか、あれこれと心が忙しくて、これではボケていられないと年寄りは思うのである。もしかしたボケ防止には災害がイチバン効果あり、?

●東京湾の核発電所は大丈夫か

 ところで能登には志賀町に核発電所があるごとく、東京湾にも巨大核発電炉があるのだから心配だ。これって、もしかしたら忘れている人が多いかもしれない。これが大地震が来たらどうなるのかしら。10年前にわたしはこのブログにこんなことを書いている。

 あるネットページにはこう書いてある。
 原子力空母ジョージ・ワシントンは、米海軍の主力空母ニミッツ級の6番艦で、1992年に就役。通常型空母キティホークの後継として、2008年に横須賀港を事実上の母港として配備された。全長332.85m、満載排水量10万2千トンと、軍艦としては世界最大の大きさを誇る。加圧水型原子炉2基で駆動する4基の蒸気タービンを主動力とし、最高速力は30ノットを超える。戦闘攻撃機、哨戒機、ヘリコプターなど約70機の航空機を搭載し、乗組員はおよそ5500人
USA軍横須賀基地と核空母停泊場所

 今はUSAで改造中なの東京湾にはいないが、今年中に戻ってくるらしい。つまり5500人の生活を支えつつ10万トンもの軍艦や70機もの軍用機などを動かすほどの大エネルギーを生産する2基の核発電炉が東京湾上にあるのだ。これが地震で事故を起こさない保証はあるのだろうか。例えば能登のように海底が盛り上がってきて、空母が座礁したらどうなるのか。よくわからぬが、東京圏ではものすごく怖いことが起きるだろう。

 そこで本歌取り狂歌   (注:「なゐ振る」とは大地が揺れることの古語)

願わくは花のもとにて春死なむその房総になゐ振る前に

(20240302記)

参照
2014/08/10/・980福島原発なみの東京湾巨大原発が稼働中https://datey.blogspot.com/2014/08/980.html

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2024/03/01

1798【少子化時代】東アジアの半島国コリアと島国日本は人口減少でも競争するものだろうか

  2023年の日本人口での出生数が、総務省から発表された。毎年のように、今年も減少して記録更新とのこと。今に日本列島は無人になってしまうと思ってしまうのだ。でもたぶんそうなることはなくて、何かが起きて人口減少ストップの時来るのだろうなあと、希望的に根拠もなく思うのである。


 ところが、隣の半島国コリア(大韓民国)でも少子化が進んでいて、その勢いは日本以上だそうである。その出生率の減少傾向は、200年に日本を追い越して、というか日本よりも低くなって、どんどん下がるばかり、いまや072とは、世界一かしら。
 コリアについては、日本との間の歴史的な経緯もあって、何かと日本と競争する話を聞くのだが、こんなことに日本を追い越せと頑張るのではあるまい。東アジアから人間がそのうちに消え去るのだろうか。
 これって、日本とコリアはやっぱり同じ民族だから似ており、少子化も同じように進むのだろうか。チャイナは少子化政策をとっていた時代がずいぶん長かったから、更に少子化問題を抱えているだろう。もちろん高齢化もんだも大きいだろう。とすれば、東アジアから人間はどんどん減るばかりで、どうなるのだろうか。


 もちろん少子化と高齢化は対になっているから、コリアでも高齢化は著しいのだろうかとみれば、全人口に対して22年老年人口比は17.4パーセントである。日本のそれは29パーセントであったから、どうやらこの値は日本に追いついてはいないらしい。ここで「追いつく」という言葉が正しいのかどうか知らないが、そういう現象である。

 ところが14歳以下の2022年の年少人口比率は、コリア11.5パーセントに対して日本のそれは11.6パーセントで、実質的な差はない。つまり年少人口減少は日本に追いついたが、老年人口比率はまだ追いついていならしい。それだけコリアの少子化速度が日本よりも先に進んでいるということだろう。

 上下二つのグラフを見ると、日本の年少人口は11パーセントあたりで減っていかないのだが、コリアでは現在が11パーセントあたりになっており、この後に6.6パーセントにまで減少するらしい。日本の半分とは劇的な感もする。
 老年層も、日本が39パーセント弱で変わらない傾向になろうとするのに。コリアでは48パーセント近くまで増えていくのも、ずいぶん違う。

 何かというと日本と比較してしまうコリアだが、かなrずしも同一歩調でもないし、コリアが日本を何でも追い越しているのでもないらしい。経済の比較では勝ち負けみたいな感情が働くらしいが、人口という社会現象でもこの2国間に競争意識があるものだろうか?

(20240301記)

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伊達美徳=まちもり散人
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