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2023/12/31

1772【階段や梯子の最後の段を踏み外す話】太平洋と七百年の時空を超えて響きあう警句

 学生時代からの親友のが、もう半世紀以上もカリフォルニアに住みついている。その頃の山岳部仲間8人で作っている同期会があり、会誌を毎年1回作っている。何を書くか自由であり、いわば、まだ生きている証拠を残すためのようなものである。

2023年の会誌

 2023年12月31日発行日付の今年の会誌に、が書いたエッセイは『「歩くこと」に関する考察』というタイトルである。要するに年とって来て、歩くのが下手になったことを、エンジニアらしくあれこれと自己検証する方法を考え出したという話である。

 その中の一つの項に「階段や梯子の最後の段を踏み外す」との話がある。ちょっと長いが、その要約を載せる。なぜそれをここに載せるかは後で述べる。

ーーーーー引用(一部省略)ーーー

 階段や梯子の最後の段を踏み外すという問題は、かならずしも老人だけに起きる問題ではない。実際、私は二度ほど経験しているけれど、いずれも、不幸中の幸いで、50代60代に起きている。ただ、足を捻挫して1~2週間痛めただけだった。

 日本のプロ野球のある監督が、自分のチームが首位で戦ってきたペナントレースの終わりに近づくも負けに負けが続いたのを見て、「試合は最後に強くプレーせよ」と叱咤激励したとか。これはアメリカのMBA のクラス等で引用されている。

 今から20年も前、頻繁に訪日していた頃、ある床屋で時間つぶしに取り上げた柳生連也斎の文庫本の一節・・・武芸者AとBは、小雨の降る夜の河原にもう小一時間も対峙している。技能は5分と5分。ふっと雨がやみ雲から月が顔をのぞかせた刹那、武芸者Aは目を瞬き、武芸者Bは「しめた!勝った!」と切り込んだ、が、切られたのは武芸者Bであった。勝つ前に勝ったと思ったほんの一瞬に奢りの隙が生じた・・・と書かれてあった。 

 上記の2例は、事が成就する前に成就したと思ってしまう態度の顛末が書かれている。実際、私が梯子の最後を踏み外した時も、暑い日照りの中、家の修理を終え、やれやれと思いながら梯子を降りてきて、最後の一歩での不注意、即ち最後の一歩を完成せずに、仕事は終わったと思ってしまった事が原因して、足を捻挫してしまったのである。不幸中の幸いは、まだ若かったので老人によく起こる複雑骨折を免れたことであろう。 

 武士の時代の真剣勝負の教えが、AI時代の今日にも通用するということらしい。この梯子の例を前述のバランスで考えると、ただボケ~ッと前を見ていただけで、仕事が本当に終わるまで視線ベクトルを安定させていなかったからなのである。(後略)

ーーー引用終わりーーーーー

 は柳生連也斎の時代の昔話を持ち出しているが、わたしは似たような話を読んだ記憶が脳の端っこにひっかかってきた。それは柳生連也斎がいた17世紀後半よりもはるか昔の話だったような、おぼろげな記憶をあれこれ本棚やらネットやら探したら、あった。

 それは有名な「徒然草」(吉田兼好 1283-1350)の中ににあった。徒然草は1330年頃に書かれたとあるから、柳生連也斎よりも350年くらいは昔の話になる。
 「徒然草第百九段」に「高名の木登り」という話がある。その全文を引用する。

ーーーー引用ーーーー

 高名の木登りといひし男、人を掟(おき)てて、高き木に登せて、梢を切らせしに、いと危く見えしほどは言ふ事もなくて、降るる時に、軒長(のきたけ)ばかりに成りて、「あやまちすな。心して降りよ」と言葉をかけ侍りしを、「かばかりになりては、飛び降るとも降りなん。如何にかく言ふぞ」と申し侍りしかば、「その事に候ふ。目くるめき、枝危きほどは、己れが恐れ侍(はべ)れば、申さず。あやまちは、安き所に成りて、必ず仕(つかまつ)る事に候ふ」と言ふ。

 あやしき下臈(げろう)なれども、聖人の戒めにかなへり。鞠も、難き所を蹴出して後、安く思へば必ず落つと侍るやらん。

ーーーーー引用おわりーーーー

 わたしがここに徒然草を引用したのは、の話の補強になるかもしれないが、まあ、単に老人の記憶を探した思い出話にすぎない。
 だが、700年ほども隔たる超有名な日本古典随筆の一部と、太平洋を隔てるアメリカ人の親友の筆が、時空をはるかに超えて響きあうことを、嬉しがってもいるのだ。ちょっとオーバーだが、。

(20231231記)

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2023/02/23

1673【未来へのバトン】熊本の歴史的都市生活空間を次世代へ継承するNPO活動がすごい

1993年撮影 旧第一銀校熊本支店

 上の写真は、わたしが1993年に熊本市内で撮った赤煉瓦ビルである。1919年に旧第一銀行熊本支店(設計者は西村好時)として建てられた。この時は「熊本中央信用金庫」の看板がかかっている。

2022年 PSオランジェリ (「未来へのバトン」よりコピー)

●NPO熊本まちなみトラストの活動記録が来た

 そして先日送られてきた熊本市のまちづくり活動団体のNPO「熊本まちなみトラスト」(KMT)による冊子「未来へのバトン」(2023年)に、上の写真のような現在の姿が載っている。「PSオランジェリ」の名で民間企業の施設として、立派に生きて使われている。

 その冊子には、この建物の二つの写真の間におきた社会変動や地震災害(2016年)による取り壊しの危機をくぐりぬけて、継承に成功した市民活動の歴史が語られる。
 そしてその保全と活用の活動は、ひとつの建物から複数へ、そして地域まちづくり活動へと、熊本市中心街全体にわたる歴史的な生活空間の保全と活用に展開する。これは日常生活空間の記憶を未来への継承である。

KMT活動年表の一部
 
 その多様な歩みの報告を見ることができるが、それらはこの建物の様に成功したものもあれば、あえなく消えたものもある。熊本市の中心部の歴史的な生い立ちと経緯を踏まえつつ、次の世代に街を継承していこうという、市民の自発的な活動である。

 NPO設立からちょうど四半世紀、そのまえの任意活動団体時代も入れると、37年も続いてきている。その25周年記念誌が、事務局長の冨士川一裕さんから送られてきた。A4判でカラー刷り、100ページ近い立派な書籍である。
 記念誌のタイトルは「未来へのバトン」とある。まさに記憶の継承」を基本コンセプトにする、このNPOの人たちが愛する歴史ある熊本の街を、豊かな形で次世代市民へ手渡していこうという、活動の心根がこもる言葉である。

 その活動について大勢の活動参加者たちが文を寄せている。城下町の生活と生業を支えてきた歴史ある都市空間を、時代に対応させつつ生かして、次の世代も使っていくことができるように伝えていこうと、その当事者として動いた市民たちの寄稿である。
 特に熊本市は2016年に巨大地震で、次世代に伝えるべき都市の歴史や生活資産の多くが被災したために、その継承に多大多様な活動をして困難を乗り越えた貴重な体験を持っているのが、大きな特徴である。そこにはそれまでの20年にわたる活動の蓄積があったからできたのであろう。

 都市の歴史的資産の継承に、いわゆる伝統文化保存の面からだけではなく、都市生活の継続という面からも評価して取り組む活動がすばらしい。都心市街地における保全と再開発の軋轢は、古くて新しい問題であり、このNPO熊本まちなみトラストの活動の動きが、全国各地の先導となるものであろう。

冨士川さんからの送り状と25年記念活動振り返り講演記録のページ

 この記録集が上梓された裏には、活動の資料をきちんと整理保全していた冨士川事務局長の努力とその能力がある。それこそが記憶の継承の基本である。

●冨士川一裕さんとわたし

 さてこの冊子を送って下さったのは、KMT事務局長の冨士川さんである。ここからはわたしと冨士川さんと熊本をめぐっての回顧譚である。わたしの覚書として記しておく。なお、わたしは富士川さんよりも一回り年上である。

 冨士川さんは都市計画家である。実質的にはこのNPOをとりしきって来られた大番頭さんらしい。修業時代の後は生まれ故郷の熊本に腰を据えて活動して来られている。わたしはその地域密着主義に大いに敬服している。
 同じ都市計画家として私は根無し草で、冨士川さんのように生まれ故郷の地域に足を付けて活動しては来なかったので、彼を畏敬し、引け目を感じている。

 実は冨士川さんとわたしとは、時期は違うが若い時の数年間を、藤田邦昭さんという同じ師匠のもとにいたことがある。日本の都市再開発の草分けであった藤田さんは、まさに地域に入りこみ、地域の人々とひざを交え語りこむ地域第一主義の人であった。弟子の端くれのわたしもそれを心がけたが、冨士川さんには及びもつかない。

 わたしは冨士川さんとはいつから知己となったか、覚えていないほど老いてしまった。そこでPCの中の写真ファイルを探したら、1993年6月が熊本で最初の撮影で、冒頭はその1枚である。それが初めて熊本訪問であったようだ。
 その後にも96年と98年に訪ねているので、3回とも冨士川さんに世話になっているはずだ。どんな用事だったか当時のメモ手帳を繰ってみた。

 93年は熊本には九州の他の地から(臼杵、久木野など)の寄り道であって半日いただけだから、冨士川さんには会っていないかもしれない。会っていれば初対面である。
 だがこの時に、この冒頭に載せた赤煉瓦建物の写真を撮っている。記念誌の冊子によれば、この保存問題に取り組み始めたのは97年からとあるが、それは冨士川さんの案内であったからだろうか。当時は単に美しい赤煉瓦建築だから撮ったのだろうか。

 メモ手帳によると1996年5月と6月に熊本訪問しており、どちらも1泊して冨士川さんと会っている。
 6月には熊本ファッションタウン協議会の講演会に、冨士川さんと一緒に参加している。「ファッションタウン」とは、そのころ経産省と国土庁の政策の中に、産業振興計画(ものづくり)と都市計画(まちづくり)を融合して地域振興を行おうとするもので、「ものまちづくり」とも言った。全国のいろいろな都市を対象に調査計画を策定していた。熊本市もその一つであり、冨士川さんもわたしも関係する委員だった。

1996年5月23日撮影 住友銀行 現在は民間企業施設として保全再生

 この時は打ち刃物職人の街・川尻にも案内してもらった。伝統的な職人町は伝統的な町家の連なる景観で、これは熊本ファッションタウンそのものだと思った。今も川尻はその伝統が続いているのだろうか。
 ファッションタウン計画を策定して進めようとした都市は、熊本、今治、倉敷(児島)鯖江桐生、墨田区など多くあったが、多くは目に見える成果は少なかった。むしろ各界の市民参加の計画策定の過程そのものが地域振興活動であった。産業政策と都市政策の融合はむつかしい。熊本はどうなったのだろうか。

 98年1月の熊本訪問は、「まちなみ・建築フォーラム」という雑誌の編集者として、冨士川さんに取材したのだった。古町の街づくりについて記事を書いてもらった記憶があるが、手元にその雑誌が見つからない。
 その雑誌は、創刊から5号まで発行して休刊した。建築とまちづくりを融合した専門誌と一般誌の中間雑誌にしたかったのだが、失敗した。その原因は、専門家船頭が多すぎたことで内容が専門的な方向になりがちで、一般読者を得られなったことだと私は思う。

1998年1月17日撮影 清永産業 地震被災後に修復保全再生

1998年1月17日撮影 富重寫眞所 現在もあるのか

 その後はわたしは熊本に一度も行っていないが、冨士川さんとは日本都市計画家協会の共に理事としての付き合いは続いた。その2021年の協会主催の全国まちづくり会議を、冨士川さんは熊本に誘致して開催したが、その手腕と意気込みに驚嘆した。

 冨士川さんは最近はカフェ「雁木坂」のマスターになり、ますます地域との密接な関係を築くべく空間を創出して、日常としてのまちづくりへの歩みを進めているようだ。
 実は、私と彼とはもう10年以上も会っていないが、フェイスブックを通じて氏の日常をなんだか知っている感がある。同様に氏もわたしを知るに違いない。
 私は横浜都心隠居して約10年、足腰維持のために街を徘徊して眺めるだけの日々である。冨士川さんの活動を自分のものとして勝手に置き換えてみる楽しみがあり、フェイスブックを今日も開く。

 ところで、ここまで書いて気がついたのだが、冨士川さんは霞を食ってNPO活動に身を捧げてこられたのではあるまい。あ、もしかしたら大富豪だろうか。
 冨士川さんは熊本に根差す都市計画家として建築家として、人間都市研究所主宰者としては、どんな仕事をなさってきているのだろうか。それをほとんど知らないし、ネットにも情報がない。それを知りたい、そうだ、熊本に生きる都市計画家として本を書いてもらいたいものだ。

(20230223記)
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2023/02/16

1671【小説読後感想】久しぶりに面白い戦争小説『同志少女よ、敵を撃て』/積読退治終活

『同志少女よ、敵を撃て』2021年 逢坂 冬馬 早川書房

 久しぶりに面白い長編小説を読んだ。感想を書いておく。
 合法的殺人を許す戦争において、普通は集団としての戦いの中で人を殺すものだろう。多くの兵員が団体となって殺しあう戦場においては、敵も味方も個人としてではなく集団の一員として殺人を行う。

 集団だから誰を殺したか分からないから、兵員たちは殺人に麻痺してくる。個人的な殺戮は原則としてないのだろうと思うが、かなり特殊な場合としてスパイ潜入とかで、個人を殺すことも合法的なのだろう。

 ところがこの戦争小説の主人公たちは、狙撃兵という地位にあって、戦場で大勢の中から一人を選んで打ち殺すという、顔の見える戦争を行うのである。しかもその数をカウントして、殺人数の実績を競うのである。もちろん多いと勲章に値する。
 その戦争殺人を戦争時の社会が許しても、個人の中の葛藤を克服するのは、狙撃兵として訓練を受けてもなかなかに難しい。その人間としての葛藤がこの小説の底流にある。

 この小説は、第2次世界大戦のドイツ・ソ連戦争(ソ連では「大祖国戦争」と言った)が舞台になっているから、ロシアもウクライナもソ連という一つの連邦国家であった時代のことである。
 しかし小説そのものが書かれた時は、ソ連は崩壊してロシアと幾つかに分かれた国家になっていたし、更にまた今起きているウクライナ危機が始まる前年に発表されたことが、読者には興味深いことになっている。

 今のロシアとウクライナの関係を知っているわたしたち読者がこれを読むとき、敵国同士となっている両国のことを文中に探してしまう。そして、その期待に応えてくれるシーンがあるのだ。もちろん著者はそれを予測していたのではないのだが、逆に言えば著者が予想しなかった深読みを読者にさせるのである。

 ソ連が多様な民族を抱え込んだ人工的な国家であったので、兵員の出身地による民族間の差別や軋轢が、戦いの中にも浮かび上がってくる、そこにウクライナの民族的位置の話もあり、それもまたこの小説の読みどころである。

 民族差別とともに、もっとも主要なテーマの一つに、戦争と女性の関係がある。
 古来、戦争は男の仕事とされてきたが、この小説は若い女たちが、銃による狙撃という特別技能を持つ兵員となって戦うのだから、男たちから畏敬と侮蔑がないまぜになった標的にされる。その内部の戦いは現代の問題である。
 基本的には、第2次大戦の独ソ戦争の中での一人の少女の復讐戦物語であるが、独ソ戦争歴史物語であり、多くの伏線と回収で起伏ある冒険小説として、読者を飽きさせない。

 これまで読んで超面白かった長編戦争小説は、Ken Follet[The Century Trilogy]三部作であった。それとはスケールは異なるが負けない面白さである。わたしは一度読んだ小説を読み返すことはしないのだが、これは2度読みしておおいに満足した。歳とって一度では理解不能になったのかもしれない。

●積読本退治の老後

 ところでわたしはこの本を県立図書館から借りてきて読んだ。予約してから借り出すまでに、なんと4カ月も待ったのであった。暇だからいいようなものだ。
 予約するときに市立図書館も検索したのだが、県立の何十倍もの予約者がいた。図書館利用はもう10数年やっているが、このような借り方をしたのは初めてであった。新本2000円ほどで本屋にたくさん積んであるから、いつでも手に入るのに買わないで我慢した。

 実は10数年前に、わが人生でもう新本も古本も一切購入しないと決断したのであった。人生終末期に近いのに増えるものがあり、その一番は本であると気がついたのだ。うちの本棚にある書籍をもう増やさないどころか減らすことにしたのだ。いわゆる終活である。

 それよりも前に、東京に構えていた小さな仕事場と仕事用住まいを閉じるときに、たぶん千冊以上はあった本を処分してしまったが、幾分かは自宅に持ってきた。
 その自宅にあるおおくの本を、友人たちに押し付けたり差し上げたり、チャリティ寄付したりしてきたのだが、それでも300冊くらいだろうか書棚にまだある。

 それらをうちに残しておいたのは、時間がたっぷりとあるが体力がなくなる老後の暮らしのなかで、毎日読み耽ろうと考えたのだ。買うときにいつか読むぞと積ン読にしておいた本が多くあるのだ。老後の楽しみは積読本退治である。

 からだの方は徐々に積読退治体制になってきたのだが、その現実の道程はいっこうにはかどらない。それはついつい品ポン古本を買うからだったので、十数年前のある日のこと自らに新旧本とも購入禁止命令を下した。
 だから調べものは本の購入でなくて、市や県の図書館に通うようになった。ただし問題は、そのついでに面白そうな本をついつい借りてきてしまうので、一向に積読本の消化に至らない。この小説の様に4カ月も待って借りるよりも、うちにあるものを先に読めよと、われとわが身に言い聞かせるているのだが、。

 実のところ、うちの本棚にある本の冊数はどれくらいだろうか、数えたことはない。一冊づつ勘定するのは面倒だ。
 そこで今、本棚にスケールを当てて、本が並んでいる背中の総幅を計ってみることにする。そして背幅というか本の厚さ合計は約2690cmとわかった。
 一冊当たりの平均値はわからないが、1.5cmとしたら約1800冊となる。え、300冊なんてものじゃないのかあ、そんなにあるのかあ??、本当かなあ?、これじゃあ死ぬまでに読み切れないなあ、、、まあ、いいけど、、。

本棚の一部
 この今勘定した蔵書数1800冊が正しいとすれば、東京に仕事場を持っていたころは、この5倍くらいは本を持っていたから、え、1万冊??、そんなにあったのかあ、。。
 今はほとんど処分してしまった専門書や、自分が作成した報告書類、行政関係書類などの書籍があったからなあ、思えば読みもしない読めもしない読む気にならない読めばよかった本もたくさんあったなあ、もったいないことしたなあ、いやいや、だれかれに押し付けて貰っていただいたから、無駄ではなかったと思うことにしよう。

 今ならばネットから多くの情報を得られるから、本を買うことは少なくなっているのだろう。でも、本を集めるという趣味に陥っていた可能性もあるからなあ、それが今は本を作るのが趣味になっている。

(20230217記)

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