2015/02/27

1062【言葉の酔時記】男と女の境目 、トリクルダウンとトリクルアップ、懐かしや日教組、申し訳ない首相、LINEとは電線のこと

<男と女>
 近ごろは男と女の区別は、いったいなんぞやと問われるように、二つの性の境界がなくなりつつある。男女同権というこぶしを振り上げる論理ではなくて、肉体的生態的に男女の境界がぼやけてきているようだ。

 今日(2015/02/27)の新聞には、外国の例だが、男性から女性に性転換した人と、女性から男性に性転換した人とが結婚して、子が生れたという記事がある。この子を産んだのは後者、つまり男性であるという。なにやら法的に揉めたそうだが、まあ、このように現実に男が出産する時代になったのである。
 もうすぐ、男とか女とか区別してはいけない時代が来るかもしれないなあ。風呂屋も便所も脱衣所も産婦人科も、男女を分けてはいけないことになる(だろう)。

 日本の憲法24条には「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、」とあるが、両性とはなんぞやて問われる時代が来ている。自民党の憲法改定論者のなかには、これを「二人の合意のみに基づいて」とせよと唱えている人もいるのだろうか?

<トリクルダウン>
 横浜の寿町は、東京の山谷と大阪の釜ヶ崎に肩を並べる貧困ドヤ街である。そのドヤ街の寿町を久しぶりに徘徊してきた。
 この貧困ビジネス街はますます繁盛しており、建て直された新築高層ドヤ建築が林立し、更に周辺地区へもドヤ街は拡大中である。

 つまり、ドヤ居住の貧困階層は増えるばかりで、それを吸収するドヤ事業は大繁盛であるらしい。ということはアホノミクスは、一方でドヤ住まい者を増加させつつあり、一方でドヤ事業者には良い影響をもたらしているらしい。
 アホのミックス政策では、大企業や金持ちを優遇して儲かれば、そちらから貧乏人にもおこぼれのしずくが垂れ落ちてきて恩恵が及ぶという「トリクルダウン」理論によるのだそうだ。

 でも、寿町の繁栄ぶりを見るとその逆で、貧乏人が増えてきているものだから、貧困ビジネス事業者が儲かっている。こういうのは「トリクルアップ」と言うのだろうか。
 まあ、アホノミクスによるのかどうかは知らないが、眼に見える格差拡大社会の景観がひろがる横浜都心である。 http://datey.blogspot.jp/2015/01/1046.html

<日教組>
 国会の委員会で、安倍総理大臣が野次を飛ばして問題になっている。その野次がなんと「日教組!、日教組はどうなんだ!」というものだそうだ。
 あれまあ、懐かしや日教組、今でも目の敵なのかい、あんたは、古いねえ、若いくせして。

 なんでも、ネットウヨクのあいだでは、「日教組」というのが典型的な罵詈雑言のひとつなのだそうだ。へえ、日本では首相がネトウヨなのかあ、、うん、そう言えばそうだよなあ、これまでの言動から見ると、。
 農林大臣への企業寄付金問題について、首相がかばっているやり取りの最中だったそうだが、日教組が民主党に寄付しているんだから、民主党が農林大臣を責めることはできないぞとの意味のヤジらしい。でも、調べたら日教組と民主党にそういう事実が出てこなかった。

 昔々、吉田茂という総理大臣が「バカヤロウ」とヤジを飛ばして大揉めになって、吉田はついに国会を解散した。世に「バカヤロウ解散」として有名である。
 今回もそうなるのか、首相が辞めるのかと思ったら、なんとまあ、首相がかばっていた農林大臣が辞めちまった、総理大臣じゃなくて、、、へえ~、そういうもんなんですね、今の国会って。

<申し訳ない>
 なんだか変なことをやっているんだなあ、国会って。国会の委員会の動画をネットで初めて見た。https://www.youtube.com/watch?v=jYehyBn1Akc
 面白いというか、アホラシイというか、笑ってしまったが、よく考えたら、この茶番劇にわたしも払う税金が投入されているのだった。
 だから言ったでしょ、去年暮に体制翼賛選挙するもんから、投票した人たちはバカにされてるんだよ。

 それにしても、安倍さんて人は、間違ったことを言っても絶対に謝らないんだね。日教組野次もんだいが、完全に首相の勘違い野次だったと判明しても、「間違ってたから訂正します」といって、ついでに「申し訳ない」と言って済ませている。
 「申し訳ない」と言いながら、「間違ってたから」と「申し訳け」をしているんですよね。「お詫びします」とか「謝罪します」とかって、決して言わないのね。ヘンな人だなあ。
 最近は、安倍さんが大嫌いな朝日新聞は、「訂正してお詫びします」って、訂正記事を書くようになったから、真似したくないんだろうな。

 その安部さんを真似して、東京電力社長が絶対に謝らないのだ。福島原発から汚染水が海に漏れ出していたのを、知っていながら頬被りしていたことがばれて、「申し訳ございませんでした」でお終いである。「お詫びします」なんてひとことも言わない。
 しかも、「でした」と過去形だから、現在ではもう「申し訳け」できる状況にあるらしい、ほんとかよ。
 それなのに、TV画面では「初めて謝罪」と書いてある。テレビ屋も言葉を知らないのだ。
 詫びの仕方、謝り方さえも知らない大人が、こんなにも増えては、ほんとに困ったもんである。

<LINE>
 TVを見ないからカタカナ語を新聞やネットで読むだけなので、そのイントネーションを分らない。たまたまラジオのニュースで、LINEという通信システムのことをしゃべっている。
 わたしはこの発音は「イン」(平かなが強調発音)とばかりに思っていたら、なんと「ラいン↑」と尻上がり発音らしい。

 そういえばコンピューターやインタネット用語の多くは、「ネッ↑」「ワー↑」「エクセ↑」「ツイッたー↑」「ゲー↑」「サーばー↑」「メー↑」などなど、どうして元の英語風とは逆に、東北弁風尻上りイントネーションになるのだろうか? 関東東北方言に引きずられるのだろうか?
 では、そうやって育った若者は、英語でline,net,word,excel,twitter,game,server,mailなどを、どう発音してるんだろうか?

 以上を、face bakaに書きこんだら、知人から「イントネーションが変わると若干、意味が変わるみたいですね」とコメントをいただいた。
 ということは、「イン↓」とは電話で通話することで、「ラいん↑」とはLINEのことなんでしょうかね。

 わたしはわたし流のイントネーションで、よそのお方と会話をしていますが、イントネーションで意味が変るとしたら、実は通じない会話になっているのですね。ボケジジイとおもわれてるだろうなあ、、でも、まあ、もう、いいんだ~、。

そのほかの【言葉の酔時記】
https://sites.google.com/site/machimorig0/datemegane-index#kotoba

2015/02/24

1061東電福島原発事故は浪江町請戸の住民たちを直接に殺していたのだった

福島県飯館村の長谷川さんの話を聴いたときに、同時に上映された映画が「日本と原発」であった。
 この映画は、福島原発被災住民を支援している弁護士たち(河合弘之、海渡雄一)が制作した。福島原発事故の悲惨さと原発なるものの非情さを、論理的かつ平明に伝える。
 
 そのなかで、わたしが昨年の秋に訪ねた福島県浪江町請戸地区が登場して、その被災者や救難活動の話がある。請戸のことは、わたしはここに書いている
 請戸は福島原発の有る双葉町の北に隣接する街で、地震、津波のうえに重ねて、核毒がやってきて3重苦をこうむった。
 その今や核毒の荒野が広がるむこうに、原発の排気塔が3本立っているのが見えていた。
 わたしがそこで余所者として見ただけでは、想像もできず実感もできなかった衝撃的な話が、映画の中で語られた。
福島県浪江町請戸 荒野の向こうに3本の原発排気塔が見える 2014年9月

3月11日、請戸地区の街は地震と津波で、完全に瓦礫の地に変わり果てた。その瓦礫の下には、生きたままに閉じ込められた人たちもおおぜいいた。すぐに救助活動が始まり、夜まで続いた。ある消防団員は、瓦礫の下から助けを呼ぶ合図を聞いいた。
 夜が更け、機材のない、大浪警報も出たので、明日来るから頑張れといって、去った。ほかにも生き埋めの人たちが居たに違いない。
 
 ところが、12日早朝に、原発から10キロ圏内からは避難せよとの指示が出た。救助活動よりも、住民避難誘導を優先せざるをえないので、救助に行けなかった。
 それでも13日までは何とかは入れたが、原発が爆発した14日からは、避難指示地域に指定されて入れなくなった。救助を待っていた人が居ただろうに。


 ようやく入れるようになったのは1か月後の4月14日のこと、それも規制をくぐってひそかに入った人が、意外にも低線量であることを発見したからだったという。
 原発はすぐ隣を超えて核毒を遠くに広くばらまいていたのだった。なにしろ絶対に起きないとされた事故だから、なにが起きるかだれもその対応を考えていなかったのだ。
 腐乱した遺体を搬出する作業になった。それは餓死かもしれないが、助かる命はあきらかに原発のために殺されてしまった。

 地震と津波の2重苦であれば、次の日に救助に行くことができたのに、3重苦めのせいで死が積み重なった。
 あの3重苦の核毒の荒野には、そのような恨みつらみがこもっているのであったか。
 被災地の実情は、眼でみなければわからないが、見ただけでもわからないことだらけである。

2015/02/23

1060東電福島原発核毒バラマキ事件の最悪トバッチリ被災地・飯館村の酪農家の話を聴いた

 東京の青山で、飯館村のこと、福島原発のことなど、見聞きしてきた。
 あの東電核毒バラマキ事件の最大のトバッチリ被災地である飯館村から、酪農家・長谷川健一さんがやってきて、彼が3・11から記録してきたドキュメンタリー映画を見て、話を聴いたのだ。

 わたしは昨年の秋、飯館村を訪れてその実情を見学してきた。そのことはここに書いているhttp://datey.blogspot.jp/2014/09/1002.html
 そのときは余所者として、表面的なことしかわからかったが、地元住民の立場からの映像と実情と意見を聞くことができて有意義だった。わたしが現地を見てきたからこそ、彼の話がよく分った。
飯館村の酪農家・長谷川健一さん
東京青山の東京ウイミンズプラザにて 20150222
村の長谷川さん(左端)
酪農家仲間の板書きの遺書


村長(右)ともとことん話して方針違いで決別
牛舎で餓死した牛のミイラが累々

山林を除染しないから集落にも農地にも核毒は流れ下ってくる

福島県民の初期被曝線量5ミリシーベルト以上の被爆者のうち8割が飯館村民

それでも原発は地震多発地帯にぞくぞくとできるし輸出さえもしている現実は、、

 長谷川さんが描いてくれた映像で、仕事も生活も家族もコミュニティも、そして大地さえもが原発核毒によってどんどん崩壊していく様は、まるで地球が溶解していくようだ。よって立つ大地が核毒汚染で、人間のものでなくなっていく。しかも人災で。
 その加害者は東電と国家という巨大組織であり、被害者は個々人であるという図式の中で、そのあまりの理不尽な仕打ちが続く。
 長谷川さんは、悩んだ末に村長とも決別して、ひとりの人間として、酪農家として、集落の長として、巨大組織に対抗して立ちあがっていくのである。

 なにしろ、よるべき土地が消滅したのだから、未来はもちろん明日さえも見えない先行きである。
 たとえ核毒が去って、よるべき土地がよみがえるころは、もう長谷川さんたちはこの世にいない。もしかしたらその次の世代もいないかもしれない。
 それでどうやって未来を描きうるのだろうかと考えても、暗澹たるものだ。
 未来が見えない被害者には、自死を選ぶ人たちもいるそうだ。長谷川さんの酪農仲間が「原発さえなければ」と壁の板に遺書を書いて自死した。超高齢老人が家族の避難の手足まといにならないようにと、自死を選んだ。

 加害者たちが絶対に起きないと言っていた原発事故が起きて、大量に広範囲に核毒をばらまいたのだから、再び起きない保証は何もない。
 とりあえず未来をみるには、再びこのようなことが起きないように、今の時代に原発を禁止するしかない。長谷川さんが未来のためにできることは、それだけだ。
 長谷川さんだけではなく、それは3・11経験世代がやらねばならないことである。

参照→地震津波核毒おろろ日録
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html

2015/02/18

1059【京の名刹重文襖絵の謎】(5)法然院方丈の狩野光信作と伝える襖絵は実は狩野時信である可能性が高いが、

【京の名刹重文襖絵の謎(4)からつづき

 こうやって見て、法然院方丈の襖絵には、柱の移動のために仕立て直したことが明瞭に分かった。では襖に移動した跡があれば、建物にもそれらしい跡があるはずだ。
 上之間のD柱が、横に4分の1間(約50センチ)ずれる前のEの位置、つまり桐の図の継ぎ目あたりの敷居、鴨居、内法長押、天井長押などを、上から下までしげしげと観察する。

 あった、見つけた。一番上の天井長押のEの位置に、かつて柱がついていた痕跡があるのだ。天井長押はもとの材を使っているのだ。
 こうして襖と長押に同じ位置(E)に痕跡があるということは、建物と襖絵とは同時に移築してきて、どちらも仕立て直したと考えて間違いない。

 では、方丈の次の間につづく、食い違いになった田の字型の4室はどうなのか(その図はこれ)。上の間、次の間とくらべて、作り方のレベルが低く、襖絵は墨絵である。御殿の絵図にはこれにぴったりとある場所は見つからない。
 この部分の実測もしたのだが、柱の太さ寸法とその面取寸法が、襖絵のある中心部と同じであった。柱の寸法は、当時の御所建築の基本的となる尺度であり、同じ建物なら同じ寸法であるから、こちらも姫宮御殿の材を使って建てたと考えてよいだろう。
 
 これで建物と襖絵の出自は、明確になった。
 延宝度の造営時に、指図から設計変更して柱の位置をずらしたのではなくて、法然院に移築時にずらしたのであった。移築時にずらせてくれたおかげで、建物と襖絵が同時に移築されたと分かり、襖絵の描かれた時点もわかった。
 整理すると、1675年に後西院御所に建てた姫宮御殿を、1685年に後西院が没し、1686年に八百姫が没した後に、法然院の方丈として移築したのである。
 移築の年は、法然院では1687年としている。襖絵もその時に一緒の移築された。

 さて、ここからがいよいよ「襖絵の謎」の核心部分である。
 この建物と襖とは、1675年に後西院御所を再建したときに建てた姫宮御所であるあるから、襖絵もその時に描かれた。ではその画家は誰なのか。
 法然院に移築された姫宮御殿が建った1675年の仙洞御所の延宝度造営に関する資料に、その造営の助役にあたった岡山池田藩に伝わる文書(「延宝度新院御所造作事諸色入用勘定帳」岡山大学図書館池田文庫蔵)がある。池田家はこの造営の深くかかわっていたのだ。
 その文書の中の「絵筆功代」に、これに携わった絵師として永真、洞雲、右京、内匠という4人の名が記されている。これ以上詳しい記述はない。
 
 ひとりめの永真とは狩野安信(1613-1685)で、光信(1565-1608)の甥である。光信は徳川家御用絵師狩野派の家系で狩野宗家の5代目にあたる。永真は光信の子の定信の養子になって、狩野宗家を継いだから、光信から言えば義理の孫にもあたる。
 ふたりめの洞雲とは狩野益信(1625-1694)で、光信の弟の孝信の孫にあたり、駿河台狩野家を起した人である。
 3人目の右京とは、狩野時信(1642-1678)のことで、狩野安信の子である。
 そして4人目の内匠とは、狩野家の門人筋のひとつである築地小田原町狩野家の狩野秀信で柳雪と称した。
  これらのうちの誰かが姫宮御殿の襖絵を描いたことになる。
狩野派系図

 ところが21世紀の現在、この襖絵は狩野光信の作とされている。
 だが光信は1608年に没したから、この姫宮御殿が最初に建った、つまり襖絵が最初に描かれた1675年には、この世にいない。
 では光信がこの襖絵の作者でないとすれば、だれか。
 上にあげた4人のうちに、右京と称した狩野時信がいる。実は時信より2代前の狩野光信が右京と称していた。後生になって混同を避けるために、光信を古右京というようになる。
 ということは、この襖絵の作者右京時信を単に右京と伝えているうちに、右京光信と混同してしまったのかもしれない。
 もちろん推測の域を出ないが、この世にいなかった光信よりも、そのとき62歳であった時信の方が、矛盾がない。

 ここから先は、障壁画の鑑定のできる専門家に見てもらわないと、わたしにはまったく分らない。これまでこの襖絵が狩野光信作とされてきているのは、専門家が鑑定して、他の光信の作品と同じような筆致があるからそうしたのであろう。建築史と美術史は別ものらしい。
 ということで、わたしの1960年の卒業研究論文の一部をもとにした古建築探偵エッセイの連載はおしまいである。大学時代の昔へ、更に17世紀の京都へとタイムマシーンにのって旅してきたが、また21世紀に戻った。

 謎は完全に解明されはしなかった。
 襖絵がつぎはぎになった原因は、移築の時に柱位置を移動したからである。それに合わせて仕立て直した襖は、どうも無様になったことは否めない。
 では、なぜ柱を移動したのか、これも推測の域を出ないが、次の間とそろえたかったのかもしれない。しかし次の間を変えずに、格が上位にある上の間のほうを、襖絵が無様になっても変えたのは、何故だろうか。
 建築技術的にはどうにでもなるから、なにか家相とか呪術的なことがあったのだろうか、それは謎のままである。

 ふたたび法然院公式サイトhttp://www.honen-in.jp/の歴史のページ覗く。
『1687年(貞亨4)に、もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿(1595年(文禄4)建築)を移建したものである。狩野光信筆の襖絵(重文・桃山時代)と堂本印象筆の襖絵(1971年作)が納められている』
  「伏見にあった後西天皇の皇女の御殿(1595年(文禄4)建築)」とは、後西天皇も皇女もどちらも生まれる前に建った御殿があったことになる。
 1961年以後の研究による知見であろうが、実に興味深く、ぜひとも詳しく知りたいものである。
21世紀法然院方丈上の間と17世紀仙洞御所姫宮御殿を2秒間で旅する
(この写真はインタネットから拾った複数の画像を加工合成して作成した)

 なお、この襖絵が光信の作であろうと時信の作であろうと、重要文化財指定になるほどの重要な美術品であることを、わたしは否定するものではない。
 また、当初の襖絵を移築の際にきりばりつぎはぎしたので、今の襖絵は不自然であることをもって、復元するべきと思っているのでもない。つぎはぎから330年近くになることもまた重要な文化史である。
 東京駅の赤レンガ駅舎のように、当初形態への復元こそが正しい歴史文化の継承であるとする現今の文化財感には、わたしは大いに疑問を持っている。(完)


(追記2015/03/08)
 2015年3月7日にTVのBSフジで「法然院と知恩院」なる番組をやっていたので、法然院方丈のことがどう出てくるか見た。
 そのナレーションで、この方丈は伏見城の御殿を移築してきたという。
   (参照「法然院と知恩院」の一部学術コピー動画http://youtu.be/dylj3hOXNSs

 法然院の公式サイトには「1687年(貞亨4)に、もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿(1595年(文禄4)建築)を移建したものである」と書いてある、
 「もと伏見にあった」とは、そういう意味なのか。電網検索したら、そんなことを書いてあるサイトも見つかった。 伏見城のことをwikipediaで読んでみた。

 法然院のサイトに書いてあるように1595年の伏見城の建物とすれば、秀吉が造った指月伏見城の御殿のことになる。
 しかし、その伏見城は御殿門も天守も慶長伏見地震で壊れてしまった。でも焼けなかったそうだ。そのあとは伏見城は木幡山に移転した。
 もしかしてその地震で御殿は壊れなかったか、壊れても部材を再利用して、木幡山伏見城に移築したのかもしれない。

 その伏見城が1619年に廃城となり、その建物があちこちに移築された記録があり遺構もある。
 ということは、それを1675年に後西院御所造営時に皇女の御殿として移築し、さらにそれを1687年に法然院の方丈に移築したということになるのだろうか。
 う~む、後西天皇のお姫様は、地震で倒れた80年も前のを移築した建物を、また御所に2度目の移築をしてきたボロ家、いや、エコハウスに住んでいたのか。ほんとかしら。

◆資料
「法然院方丈について」(平井聖、伊達美徳 1961年建築学会関東支部研究発表梗概集)
「遺構による近世公家住宅の研究」(伊達美徳 1960年度東京工業大学理工学部卒業研究論文)
◆参考資料
法然院公式サイト」http://www.honen-in.jp/
「狩野派絵画史」(武田恒夫 吉川弘文館 1995年)
「別冊太陽 狩野派決定版」(山下祐二ほか 平凡社 2004年)
「国宝・重要文化財大全2 絵画下巻)」(毎日新聞社 1999年)
「延宝三年京都大火―日記史料に見るその状況―」(細谷理恵・浜中邦弘 同志社大学歴史資料館館報第13号
BSフジTV「法然院と知恩院

 

2015/02/15

1058【京の名刹重文襖絵の謎】(4)今見る狩野光信作「桐に竹図」は330年前には違う姿でお姫様の部屋にあったのだ

【京の名刹重文襖絵の謎】(3)からつづき

 謎解きは佳境に入ろうとしている。
 法然院方丈は、17世紀の後西上皇のお姫様の御殿だったものを移築したものらしい。どちらの平面図も中心部分は酷似しているが、2本だけ柱の位置が、横にずれている。
 そのずれた柱の1本の左右には襖があり、重要文化財となっている「竹ニ桐図」が描いてある。右は桐の図で幅1間半、左は竹の図で巾1間である。
現在の法然院方丈 上之間「桐ニ竹図」襖絵(ネットから拾った複数の画像を修正合成)

次のモノクロ画像は、卒業研究の現地実測調査の時に撮った写真とそのほかの文献をもとにして、上之間の「竹ニ桐図」の全部を合成、修正、切り貼りして、わたしが作った。現在の「桐ニ竹図」の襖はこのように入っているのだ。
 ローマ字の記号は、平面図と同じ位置にふってある。つまり、は現在の方丈の柱の位置であり、は院御所の姫宮御殿のときの柱の位置である

 右(D-F間)の2枚の襖の桐の図の内、左の襖のの位置に縦に明瞭に見える絵の継ぎ目がある。継ぎ目の位置は、左の柱からから0.25間(約50センチ)であり、移築の前の柱の位置にあたる。
 その継ぎ目から左D-E間の絵は、色が濃いし、右とつながりが不自然であることは、素人でもわかる。切り張りとか、描き足したした感じである。

 では、上之間の柱を、移築前のようにの位置に戻したら、襖絵はどうなるか復元してみることにした。コンピューターの画像の上で、あれこれやっていると結構楽しい。襖絵の偽造画家になっている気分だ。
 D-F間の桐の図の襖は、柱が0.25間右に寄っての位置にきて、その幅は1.25間となり、襖はこれを真半分にした2枚に、画像の上で仕立て直す。
 D-E間の絵を切りとり、残りの幅の襖絵をツギハギして1枚にして、これを縦に真半分に切って、2枚の同幅の襖に分けて貼りつける。
 このときに右の襖の左の方の縦線が、真半分の線と一致することが分かった。つまり移築前の襖はここから左右に2枚だったのだ。
 
 次は柱の左の一間巾の竹の図の襖である。現在はC-D間2枚の襖として入っている。の柱をEに移すと1.25間巾に広がる。これを真半分にした竹の図にしなければならない。
D柱をEに寄せて、左右共に1.25間の襖にしたら、左の竹の図の中央が空白になった
桐の図では、いまある図を切り取ればよかったが、こちらでは今は存在しない絵を復元しなければならない。
 現在の竹の図を観ると、襖の合わせ目の中央に竹がより過ぎて、いかにもせせこましい構図になっている。これは移築の際に、2枚の襖の合わせ目の側をそれぞれ切り取って、狭くなった襖に仕立て直したに違いない。

 では、竹の図で切りとれたほうは、どんな絵だったのか。それは、現在の図からおおよその想像はつく。岩の根元あたりに群生する竹の根元あたりを描けばよいだろう。しかし存在しない絵を復元するのは不可能だ。
 そこをわたしはいつもの「戯造」の手練手管で誤魔化して、一応それらしく偽造したのである。
 こうして「桐ニ竹図」を復元したのだが、まあまあ贔屓目に見れば、現在の方丈の絵柄よりも、この復元贋作襖絵のほうがよろしいようですが、いかがですか。
E柱から左の竹の図の空白部分を適当に描いて、オリジナル襖絵を「戯造」してみた
もうひとつ「戯造」画像をお見せしましょう。
 こんどは復元とは逆に、かつての後西院御所の姫御殿にあった「桐ニ竹図」襖を、法然院方丈に移築する際に、どのように襖絵を仕立て直したか、その過程をgif animationで見てください。330年前の絵師の仕事を、たったの10秒で再現。
法然院方丈「桐ニ竹図」襖を、330年前のオリジナルから、現状へと仕立て直す過程

 まあ、そういうことで、とりあえず、後西天皇の皇女の八百姫が、21歳から36歳で没するまで、眺め暮らしていた襖絵はこうだったのだろうと、オリジナル襖絵を復元してみたのである。このページ最上段の現況の襖絵と比較して見てほしい。
法然院方丈上之間襖絵「桐ニ竹図」を330年前の姫宮御殿時代の姿に復元
さすがにカラーではごまかすのが難しくて、竹の図の偽造部分のできが悪い)
そしてまた、この襖のあたりで次の謎解きのヒントを発見したのだ。(つづく)

2015/02/13

1057【京の名刹重文襖絵の謎】(3)八百姫御殿の古絵図面と今の法然院方丈の平面図はそっくりなのだが、

【京の名刹重文襖絵の謎】(2)からつづき

 この1674年の姫宮御殿の設計図(指図)平面図と、現存の法然院方丈の平面図(1960年にわたしが実測して作った)とを比較してみよう。
 はたして似てるところがあるだろうか、どのように移築して現在のようになったのか。全く似ていなければ前提条件から崩れてしまう。

 現代の法然院方丈(以下「方丈」という)の中心部は上の間であり、10畳の広さに床の間と違い棚があって、襖や床棚の壁には絵が描かれている。実に立派な作りである。
 襖を隔ててその隣りには10畳の次の間があり、ここにも襖絵がある。
法然院方丈上の間 (ネットで拾った複数画像を合成修正)
延宝度の姫宮御殿(以下「御殿」という)の指図に、「姫御殿 四間 六間」と記入のあるあたりが、10畳の間であり、床の間と違い棚があるから、ここが八百姫の部屋であろう。
 現代の方丈の上の間と同じである。隣には、現代の次の間に相当する10畳の部屋もある。
 その両側には広縁があって、これも現代の方丈と同じである。このあたりにちがいない。近づいてきたぞ。

 方丈の中心部と御殿の中心部を白抜きにして示し、柱位置に記号を付けた。


この白抜きの部分は、方丈と御殿とはほとんどぴったりと符合する。つまり、方丈は御殿の南北についていた差出と西側(床の間裏)の広縁を取り払ったものである。
 実測の時に発見して確かめたことだが、現在の方丈の畳縁外側の落縁の柱には、かつて指出の木材が差し込んであったことを示す穴に埋木をしてある跡がたくさんある。つまり移築前は縁よりも外に建物がくっついていたことを示している。
 
 上の間と次の間の柱位置は、御殿のそれとほとんど一致するのだが、実は2本だけ異なる位置にある柱がある。普通に考えると同じ位置にあるはずの、方丈のD柱と御殿のE柱、そして方丈のS柱と御殿のT柱である。
 方丈では、D柱はC柱から1間、F柱から1.5間の位置に立っている。ところが、御殿ではこれに相当するE柱が、C柱から1.25間、F柱からも1.25間の位置にある。すなわちCとFのちょうど中間にある。
 御殿のT柱についても、方丈ではR柱方向に御殿よりも0.25間(約50センチ)ずれて、Sの位置に立っている。
 つまり方丈のDとSの2本の柱は、御殿の設計図のそれぞれEとTの位置から次の間の方向へ0.25間ずれて立っているのだ。

 ええい、めんどうだ、ゴチャゴチャ言うより、インタネットの強みでgif animationにしてお見せする。一目瞭然、赤矢印の2本の柱が、移築で左にずれたことがお分かる。

 これはどういうことだろうか。移築のあたって、なにかの理由で0.25間だけC柱側、R柱側に寄せたのか。どんな理由だろうか。
 あるいは、御殿が設計変更してこうなったのか。
 例えば、この御殿の主となる八百姫は当時20歳、その前に居た寛文度造営の姫宮御殿が焼けて、新しく建てなおすのだから、当事者としてなにか注文つけたかもしれない。
 『前の御殿は畳の線と柱の位置がずれていて、なんだか気持ちわるかったのよ、今度はちゃんとしてたもれ、のお主水よ』。主水とは、作事奉行の中井主水である。

 いやいや、移築してきたのは実は御殿じゃなくて別の建物だったかもしれないとの、疑惑も湧き出るだろうなあ。
 では現地で見ればなにか分るかもしれない。そこで現地実測調査(1960年)の時の観察や写真が役に立ってくる。
 思い出せばあの夏、研究チームは京都の旅館に泊まって、毎日あちこちのお寺に出かけて、御所から移築されたという建物を実測したものだった。祇園祭の山鉾行列もその時初めて見たなあ、見物客の中に美少女がいたなあ、寺で昼寝したなあ、ああ青春の夏のこと、なんて感傷に浸っていては謎解きが進まない。閑話休題。

 部屋の中の写真をみよう。
法然院方丈上之間襖絵 (撮影:平井聖氏 1960年)
これは実測調査したときに撮った方丈の上の間で、右が床と違い棚があり、左の方には次の間がある。
 正面に見えるのは狩野光信作とされる「桐の図」の襖絵である。
 写真の上下に記入したローマ字は、平面図の柱記号であり、各柱はこの位置にあたる。つまり、御殿ではEの位置にあった柱が、方丈ではDの位置にあるのだ。

 ここで襖絵にご注意を!、襖絵のEにあたる位置に、縦に線が入っており、その右と左とでは、なんだか絵の濃さも調子も違うことに気が付くのだ。右の襖にも何本かの縦線が見えるが、なかでも一番左の線が目立つ。
 襖絵は最初に描いたときからこうだったのか。これは何かを物語っているぞ、謎解きの楽しみが始まったぞ。(つづく)


2015/02/12

1056【京の名刹重文襖絵の謎】(2)天皇のお姫様の御殿を探して江戸初期の御所に分け入る

 【京の名刹重文襖絵の謎】(1)から続き 

 さて、法然院の方丈について登場する人物、建物、襖絵についての謎を、どうかんがえようか。
 ここからは建築史を勉強している(正確には、いた)わたしの研究論文によって話を進める。と偉そうにいっても、実は研究室の教授、助手、先輩たちの手とり足とり指導の結果であるし、ここに書くための素人にわか勉強もあることも白状しておく。
       法然院方丈 (平井聖氏撮影1960年
天皇家のお姫様なんて、江戸時代はどこに住んでたのかなあ。公家住宅の歴史を研究しているのだから、皇女の御殿のありかを探ることから始める。
 後西天皇(1638~85年、在位1654~63年)には、わかっているだけで第16皇女、第10皇子までもいたそうだ。女御との間には1男1女、その女御から1654年に生まれた第一皇女は八百姫と言い、誠子内親王とも清浄観院宮ともよばれた。1686年に没した。この八百姫というお姫様に狙いをつけよう。
 法然院方丈の前身が、後西天皇の皇女八百姫の御殿なら、どんなに早くても、彼女が生れた1654年以後に建ったはずで、法然院サイトにある1595年は無理である。

 そしてその御殿が法然院に移築されたとすれば、当然のことながら、それが不要になったからだろう。つまり、いつか分からないが八百姫が御所から出ていったか、あるいは1686年に没した以後のことだろう。
 後西天皇が退位した1653年に八百姫はまだ9歳だから、その御殿は天皇の住む内裏のなかではなくて、退位後に上皇となって住む仙洞御所にあっただろう。その後西院御所の中を探そう。

 後西院御所は、退位の1663年に内裏の南側に建てられた(寛永度造営)。しかし10年後の1673年に焼失した。またすぐに1675年に再建され(延宝度造営)たが、その10年後の1685年に後西院が没した。
 そしてこの延宝度の後西院御所は取り壊され、各所寺院に移築されたことが各寺伝や学者によって既に分かっている。例えば京都山科の勧修寺とか、さらにそこから移築された伏見の大善寺などである。
 このときに八百姫の御殿も法然院に移築したと推測して、その延宝度後西院御所の中に、八百姫の御殿があるかどうか探すことにする。

 宮内庁書陵部には、当時の何回も建て替えられた御所の設計図を数多く所蔵している。そのなかに後西院御所の延宝度の図面(指図、1674年)もある。
 皇女の御殿は「姫宮御殿」と指図には記されるので、それをこの図の中に探すと、あった。
 姫宮の名は書いてないが、女御御殿に接しているので、内親王のうちで女御の唯一の娘である八百姫の御殿と考えてよいだろう。

 その平面図をコピーしたものがこれである。元の図は1間を4分に縮尺(1/150)して書いている。木造建築だから基本は1間(6尺5寸、約2m)をベースにしているから規模は分かる。

 実は八百姫はこの御殿で没していたことが分かった。古図の中に「女御御殿方取抜」と註をつけたもの(「新院御所 院女御御指図)があり、薨去の後に女御御殿が姫宮御殿も含めて取り壊されたことを示している。
 その時期は分からないが、薨去の1686年からそう遠くない時期であるだろうし、それが法然院へ移築されたなら、法然院の公式サイトにある1687年が符合する。

 頭がこんがらかってきたので、年代順に整理する。
1595年 後西天皇の皇女の御殿が建った(法然院サイト)
1608年 狩野光信没
1638年 後西天皇誕生
1654年 後西天皇即位、第1皇女の八百姫誕生
1663年 後西天皇退位して後西院上皇、後西院御所を造営して姫宮御所も建設
1673年 後西院御所が焼失
1675年 後西院御所を再建して姫宮御所も建設
1685年 後西院上皇没
1686年 八百姫没
1687年 後西天皇の皇女の御殿を法然院に移築して方丈にした(法然院サイト)

 この姫宮御殿が法然院の方丈に移築されたのなら、平面的に類似しているに違いない。法然院方丈の現況平面図はこれである。これは1960年夏の実測調査をもとに、わたしがトレーシングペーパーに鉛筆で描いた懐かしい図面である。
 部屋にはすべて畳が敷いてあるから、広さの見当がつくだろう。周りはぐるりと縁側が巡っている。上の間には床の間と違い棚があり、ここと次の間には狩野光信の襖絵と障壁画がある。

 さてこの二つの図のどこが類似しているか。
 ねらいはどちらの図面でも、最も中心的な部屋のあたりの間取りである。中心的とは床の間があり違い棚があり、襖や壁に絵が描かれているあたりだ。移築の時に必要な間取りに変えることは多いが、格式を重んずる部屋のあたりは移築の時もあまり変えないで建てるものである。
 よーく睨んで、それを読み解く作業をこれからやるのだ。(つづく)




2015/02/11

1055【京の名刹重文襖絵の謎】(1)名刹「法然院」公式サイトの方丈に関する紹介文がなんだか不自然だ

 京都の鹿ケ谷に「法然院」という由緒あるお寺がある。美しい風景の寺だ。
その方丈は、江戸時代の初め頃、天皇の姫君の御殿を移築したものと伝えられる。
 そこには狩野光信が描いた襖絵があることで有名である。その絵は今では国指定の重要文化財になっている。
 
 昔は、いまのように家を建て替える時には壊してゴミにするのではなくて、どこかに移築して再利用するのが当たり前であった。木造建築はそうすることが普通にできるのである。
 特に京都では天皇や貴族の御殿のような格式のある建物は、寺院や神社などが下賜してもらって、そんじょそこらの建物じゃないよ、御所の建物だったんだよって、権威の箔をつけたのだった。
 あちこちにそのような言い伝えや文書がある建物がある。中には偽物もある。

 法然院の方丈のことは、法然院の公式サイト歴史のページにこう書いてある。

「1687年(貞亨4)に、もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿(1595年(文禄4)建築)を移建したものである。狩野光信筆の襖絵(重文・桃山時代)と堂本印象筆の襖絵(1971年作)が納められている」

 つまり法然院では、16世紀末に建てた後西天皇のお姫様の御殿を、17世紀の終わり近くに貰い受けて、この方丈にしたというのである。
 この記述は不自然なところがある。後西天皇1638年生まれだから、皇女の御殿ができたとする1595年にはこの世にまだいない。もちろん、皇女もいないはずだ。居ない皇女の御殿とは?
 ではこの古屋敷を、後に皇女の御殿に転用したのだろうか。まさか天皇の娘が古家に住むなんて、そんなことはありえない。

 では、もう一人の登場人物の狩野光信はどうか、光信は1608年に没しているから、その建物が建ったという16世紀末には活躍していた。その建物の襖絵を描いたとすれば、そこはタイミングとしては筋が通る。
 しかし、御殿の建物(法然院方丈)を天皇と皇女の年代17世紀半ばに合わせると、狩野光信が既にこの世に存在しないことになる。襖絵は生れないことになるなあ。
 この方丈には重要文化財となっている狩野光信の襖絵があるのだから、彼が居なくては困る。しかし一方、皇女の御殿を下賜してもらったという格式も大切である。これは困った。あちら立てればこちらが立たずである。
 京の名刹に大きな謎が生れた。

 これが「京の名刹重文襖絵の謎」物語の始まりである。わたしはこの謎解きに挑もうとしているのだ。
 と言っても、わたしは襖絵の専門家ではない。だが、実をいえば半世紀あまりも昔に、わたしはこの方丈の建築の調査をして、それを大学卒業研究論文(の一部)にして、なんとか卒業できたのだ。

 ただいま終活身辺整理中で、その卒論「遺構による近世公家住宅の研究」(なんとまあ、ごたいそうな題名だこと!)を引っ張り出して、ホコリを払いつつ処分を思案しているところだ。
 でもせっかくだから、その論文で試みた謎解きを、ここで紹介しておきたくなった。未練があるのだなあ。
 もちろん論文のままでは無味乾燥なので、多少は面白おかしく脚色を加えるのである。

 この続きは、明日のお楽しみ。(つづく)

2015/02/04

1054中学生の時に作ったクラス文集が出てきて読んで不思議な気分の私がいる

 昔々に自分が書いた文章のある冊子を、ふたつ発掘した。これも終活の一環である。
 ひとつは、55年ぶりにみる大学卒業研究論文であり、もうひとつは64年ぶりにみる中学校クラス文集である。
 懐かしいと思わなくもないが、中身を読むとなんとも不思議な感じで、その中にある文章の書き手のわたしは、いまここにいるわたしと同じ人間とは思えないのである。とくに大学の卒研のほうにその傾向が強い。

 まずは中学校のクラス文集のことである。こちらの方を、大学論文よりもむしろよく覚えているのが、おかしい。
 昭和27年(1952年)12月24日発行、編集人は高梁中学校3年5組新聞部とあり、66ページのホッチキス止め、手書きガリ版刷りの冊子である。
 冊子の名前は『鳩舎』である。
 記憶にはあるのだが、あれからなんども引っ越しをしたのに、まさか自分の家の本棚から出てくるとは思わなかった。

 ひょっこりと本棚の奥から出てきたのは、たぶん、家を出たときから持っていたのではなく、10数年前に亡くなった母の遺品の中にあったのを見つけて、そのときから持っていたのだろう。
 卒業写真アルバム、卒業証書、学業成績表も一緒にあるから、母が保管していたいたにちがいない。
 
 アルバムを見るとそのクラスの人数は51人、担任教師の小野八重子先生は、たぶん新卒で初めての赴任だったような気がする。一学年が5クラスあったから、それなりに大勢の中学校だったことになる。
 その頃は「新制中学」といっていたものだ。戦後の学制改革で、それまであった中学校は新制の高等学校になり、新制度の中学校が生れたばかりの頃の中学生だった。
 街にはこの新制中学校と旧中学校から変わった新制高校の両方があったから、その頃の大人は用事で中学校へ行くとて旧制中学校だった高校へ行って、そこで初めて間違いに気が付くことをよくやっていたものだった。

 旧制中学が移行した新制の高校と違って新制中学は新設だったから、1年生の時は校舎の建設が間に合わなくて、小学校に間借りをしていた。
 新校舎ができても教室数が足りなくて、大学の様に教科ごとに教室を生徒が移動したのだった。まだ戦後のドサクサ時代だった。今では、この場所に中学校はなくて、他に引っ越したようだ。
 この3年5組の小野先生は、生徒たちからおおいに慕われた人だった。まだご健在なので、いまでも訪ねて行く当時の生徒がいるほどである。わたしもこの先生には憧れたものだ。

 文集『鳩舎』は、小野先生の情操教育の賜物のひとつだろう。そういえば「山びこ学校」は、あのころのことだったから、先生もそれを意識していたのだろうか。
 15歳の少年少女たちの、文章が盛りだくさん載っている。小説もあれば詩もあり論文もあり、日記もある。幼い物言いもあれば、ヘンに気負っているやつもある。
 わたしは、この冊子を作る時の担当の一人だったので、よく覚えている。男女仲間7人で、ガリ切りから印刷製本までやった。最後の時は徹夜もやったと、あとがきに書いてある。そうだったような覚えもあるような気がする。
 
 わたしが書いた2編の「随想」が載っているので、ここに転載する。

「あまのじゃく」
 僕は普通よりも違ったことを考えるのが好きだ。また逆の事を考えることも。右と言えば左と、左と言えば右、たてといえば横、上といえば下と全く逆に考えてみることも楽しいものだ。又、普通のことを肯定して今度はその一歩上のことを考えるのも楽しい。この考えることは大きな価値があると思う。異なる事を考えるということは進歩をもたらすことになろう。このことにより何んらかの新らしい道を発見できることもあると思う。しかし、いたずらに考えるだけではならない。

「瞬間」
 僕はある一瞬をたっとぶ。時計の振り子の止まる時、一枚残った柿の葉が落ちる瞬間、勿論、自然にである。めったにその瞬間は見つけだせない。又それだからこそ尊ぶ。知っていてもとらえにくい時だ。化学実験など瞬間をみなければならない時がある。そのような時はなおさら瞬間に価値がある。
 ・生はこの永遠の間に於ける一瞬時なり――――カーライル

 常識的なことを、いかにも気取って書いているのがおかしい。最後の警句なんぞ、どこから取ってきたのだろうか。
 ところでこの文集は第1号とあるので、その後に第2号をつくったのだろうか。記憶がない。
 なんにしても、遠い遠い日となってしまった。こうやって、昔々を懐かしむようになっては、おれもおしまいだよなあ。

追記20150205)これを読んだ当時の仲間のひとりから連絡をもらった。『鳩舎第2号』は出されているとのことであった。次の年の4月4日発行で、中学校卒業記念文集になっているとのこと。