2021/08/31

1586【コロナと戦争の夏】太陽を取り巻き炎のあるごとく地球も負けず渦巻くコロナ

 8月が終わって暑い日ながらも秋らしい日も出現するようになった。この夏は地球のあちこちでいろいろと事件があって退屈しない日々だった。
 日本はもちろん世界中で、新型コロナはますます盛んなる活動をしており、特にデルタ型とか言う変異種の活躍が話題である。ウィルスは状況に応じてメタモルフォーゼするらしい。






 とうとう日本列島は北から南までコロナ王国による占領寸前の危機で、33都道府県が緊急事態とか蔓防措置とかの区域適用となっているありさまだ。感染者だらけで病院がどこも満杯、新感染者は家で療養してろとて、自宅不治療死者があちこちで出ている。これを医療崩壊と言うようだ。千葉では、妊産婦が感染して早産の危機になれども入院できず自宅療養中出産、新生児は死亡との痛ましい事件が起きた。

狂歌<もう勘弁して>
コロナ来てオリンピック来て豪雨来て泣き面を刺すパラリンピック
<火事場で祝祭>
日本にオリパラ国の植民地よ~く分った一国二制度 

 そんなときなのに日本人はすごいというか狂気というか、オリンピックとパラリンピックなんて国際大運動会を、最も感染がひどい東京千葉横浜で開催中である。何万人かを集めるこの行事開催禁止しないばかりか、中央政府も地方政府も庶民も応援している。医療関係資源も多くそちらのオリパラ王国植民地に確保されて、日本国のコロナはますます繁盛。いわば火事場で宴会しているようなもの、宴会させるほうもひどいが、宴会にくる競技者たちはもっと酷い。跳んだり跳ねたり勝った負けたと言ってるだけで、この渦中での愚行を謝る奴はひとりもいないのだ。アスリートのバカさ加減に呆れるばかり。

 コロナに罹らないために庶民ができることは、マスクや手洗い、人同士離間など消極的対応策しかない。積極的対応策はワクチン接種しかない。春頃には十分に確保したなんて首相が言っていたが、接種体制の構築がドジで、市民たち接種したてもなかなか接種に至らない事件が次々と起き、十分確保してある筈のワクチンが供給不足になったりもする。差配する政府のドジぶりがなんとも酷い。接種率がいまだに半分以下の割合だ。
 わたしは7月中に接種を終えたが、息子は昨日ようやく第1回目接種に至る有様。コロナは去年初めから起きていることだから、ワクチンについては十分に準備期間があっただろうにどうしたことか。

狂歌<横浜市長選>
政治家に学者に企業家小説家8択ギャンブル愛有~るか否か
<広島原爆忌あいさつ平然読み飛ばし>
字の読めぬ首相がいたけど今回は読めても意味を知らぬ首相か

 その騒ぎ中に横浜では市長選挙があった。横浜はスカ首相の選挙地盤であるが、見事に大敗した。野党が推す大学教授が当選、すくなくともIRギャンブル場誘致策はボツになり、首相の面目は完全につぶれた。これがコロナ禍の夏の唯一のスカッとした事件だった。もっとも、政治素人学者がこの巨大都市をどう運営するのか市民としては不安はあるのだ。
 9月末頃には自由民主党の総裁選挙だそうだから、ことのついでにスカさんから別の人になって自動的に首相交代を期待する。言葉の通じない人って、何とかしてくれ。もうだれでもいいから、今より少しでもましな人になるに違いない。国民のささやかなる願いである。

 そんな時に国際的大事件も起きるだから生きづらい時代だ。USAが2011年の9・11事件報復とて、タリバン憎しと始めたアフガン戦争で敗北して撤退作戦に入り、今月中に撤退完了するという。かつてベトナム戦争での大敗北があったこと思い出す。日本人とその協力者アフガン人たちを救出のために、自衛隊の航空部隊をカブール空港に飛ばしたけれど、そこに来る方法がないので結局は救出できた日本人はたたひとりだったという。日本大使館関係日本人は、その前にいち早く脱出したそうだ。タリバンに迫害されるだろう協力者だったアフガン人たちを置き去りにしたと非難の声がある。要するに救出作戦は失敗したのだ。比較してコリアの救出作戦成功が賞賛されている。

 ネットでは政府の政治能力欠如が言われている。コロナ対策の稚拙の上に恥の上塗りか。誰がリーダーになろうと難しい時代であることは確かだ。だからこそ信頼のある言動を見せてくれる人がその地位についてほしい。見え見えで官僚の書いたもん切り原稿を読むだけの今のお方って、見て聞くこちらが恥ずかしくなって困惑する。せめてヘタクソな言葉であっても、誠意のある自分の言葉で語ることのできるひとがリーダーの地位についてほしい。
 こんなささやかお願いしてるなんて、それは政権与党が得させるだけだなあ、。

狂歌<地球蝕>
太陽を取りまき炎あるごとく地球も負けず渦巻くコロナ
今、他の惑星から地球蝕を眺めると
日蝕のごとくにコロナ冠が輝いているだろう

(20210831記)

参照:コロナ大戦おろおろ日録
   まちもり通信総合目次/伊達美徳アーカイブ 



2021/08/30

1585【名人能役者野村四郎師逝く】素人弟子として師匠へのオマージュに名を借りて個人趣味記録

 能役者野村四郎(幻雪)が逝った。8月21日午前11時6分、多発性血管炎性肉芽腫症によるという。名人能役者の急逝を惜しむばかりである。

 8月24日には「能を知ろう会(第6回)」で「隅田川」レクチャー案内が来ていて、行きたいなあ、久しぶりに会いたいなあ、でもこんな時だからなあと悩んでいた。その前の会に行っておけばよかったと後悔しているが、もはや遅い。
 この歳になると、何かやりたいと思うときは即実行あるのみ、またいつかと思っていると人生に間に合わない、こう思っているのだが、そうか、それは自分の人生ばかりではなくて、他人でも同じであると気が付いた。

 個人的には野村四郎先生と言うべきである。20年にわたって能謡の稽古をしていただいた素人弟子だから、野村四郎師といってもよいだろう。わたしより1歳年上である。
 わたしが師と呼びたい人は、学業時代には2名、社会に出て仕事関係で5名をかぞえるが、習い事の師はこの野村四郎先生のみである。もともと習い事が嫌いなので、これが唯一である。ちょっと思い出を記録して、野村先生へのオマージュがわりとする。

 能謡を習うことになったのは1992年のこと、大学の先輩から強引に誘われて仕方なく義理で始めたのだった。だが、すぐにこれは面白いと思い、中断しつつも20年ほどもつづけた。稽古場は渋谷の桜ケ丘の坂下の谷間にある共同住宅ビル1階にある貸稽古場だった。

 素人弟子十数人がここで謡と舞の稽古を受けていたが、四郎先生は他にも何カ所か稽古場をお持ちだったようだ。鎌倉の小町通でばったり出会ったこともあるが、稽古の帰りだった。稀に先生の都合が急に悪くなり、玄人弟子が代稽古にやって来た。
 わたしのような素人弟子は100人以上いたのだろう。観世能楽堂での年に一回の素人弟子による恒例の発表会「観生会」出演者が、朝から晩までつづいたものだ。

 稽古日は月に2回で、1回が30~40分の1対1のさしによる伝授であるから、人間国宝(その当時は未だだったが)のこの人を独占する贅沢なものだ。
 もっとも、束脩(入門料)と月謝は安くない。年に一度の「観生会」(おさらい発表会)も結構な額だった。他の稽古事を知らないから、比較しようがないが、当時の手帳を見ると、入門料4万円、月謝1.5万円、会場費月2500円、中元歳暮各1.5万円とある。その後に値上げされた記憶がある。

 書棚にある「観世流初心謡本・上」を出してみる。最初にわたしの書き込み「1992年2月7日より」とあるから、その日から20年ほどの稽古になったのだ。
 この本の最初の「鶴亀」からが始まり、その初めの4ページにもわたって四郎先生による赤ボールペンの書き込みがある。謡本にある記号の謡い方についての最も基礎的解説である。口で説明だけでは忘れるからと、口伝えと筆伝えである。

「鶴亀」謡本への野村先生による赤字書き込み

謡本

 稽古はとにもかくにも口伝えで、師の謡を一生懸命真似するだけである。ヒマな時は半日も稽古場に居て、他の人の稽古もずっと見聞きしている。仕舞の稽古も見ていて、先生の教え方の上手いのに素人ながら感服する。全部終ると近く居酒屋に先生と数人で行くのを数年は続けていたものだ。そんなお稽古だったこともある。

 そうやってつぎつぎと「橋弁慶」「吉野天人」「土蜘蛛」「竹生島」「経正」ときて、秋11月「観生会」がきたのだ。未だろくに謡えないわたしが出演発表するはずがないと思っていたら、「経正」のシテで出演するようにと先生から指示を受けた。
 実のところなにがなんだか分からないまま、先輩方の言われるままになんとか舞台を務めた。相手ワキをやってくださったのは、同じ稽古場のベテラン女性であった。観世会のプロが大勢一緒に出演して素人をひきたてる演出の舞台に驚いた。
 そのとき、わたしは意外に舞台度胸があるのだと気が付いた。間違っても動じないのである。仕事で大勢相手に講演やら大学講義していたから当然かもしれない。

 その時の手帳を見ると先生から指示された当日の費用メモがあり、役料8万円、会費5万円、引き出物5万円、貸衣裳1.1万円、2次会1万円、録音テープ2千円とある。これから毎年の会ではこれ以上がかかった。
 でもこれは初心者だから短時間出演で安い方だろうと思うのは、中には能を丸々やって出演する素人弟子がいて、100万円以上の金額になるらしいのだ。装束もすごいが、プロがあれだけ大勢で支えてくれたら、それはかかるだろう。これもプロの生計の種だろう。野村先生は弟子たちの出演のすべてに一緒に登場だから、その体力に驚くばかりだった。
 月々のお稽古にかかる出費とともに、年に数回の先生公演チケット購入もあるから、その頃の私は何とかこの程度はできたが、20年後には無理になった。

初舞「経正」 1992年11月観生会 観世能楽堂

 わたしは何とか基礎的な謡はできる気がしてきたのは、2年たったころだったろうか。大学先輩たちの謡を趣味とする会に誘われたが、どうも私には向かないと分った。謡そのもののテクニックに凝る人がおおいのだ。
 だが、謡よりも能楽そのものに興味が湧いて来て、わたしは謡テクニックに興味を失い、はじめの頃のように予習復習をしなくなった。能見物に松濤の観世能楽堂や青山の銕仙会能楽堂、あるいは水道橋の宝生能楽堂に通い、一時は毎週のように観ていた。

 そして稽古場での野村先生の能楽に関する雑談を愉しむようになったのだ。その教え上手に喜びながら、話し上手に能楽界のいろいろなことを聞いて楽しみ、自分が習うよりも教える先生の美声を聞くことが、わたし稽古ごとになった。
 これが私が能を観るときのバックボーンとなったのである。自分が謡うためではなくて、能楽鑑賞のための稽古になった。

 教わったのは観世流現行約200曲中の62曲であった。「鶴亀」がもっとも初心の5級(観世流ランキング)であり、結局もっとも上級の重習には至らず、その一つ下の9番習いの「藤戸」がわが謡い稽古の最高級であり、その下の準9番習は「西行桜」で、この2つは観生会出演のために稽古したのであった。

「藤戸」2006年9月観生会 観世能楽堂

 先生の稽古は口移しに真似させることであり、こちらはとにかく先生についていくのが精いっぱいであった。曲の内容とか曲趣に関する教授はほとんど無かった。
 先生は話し上手の話好きであり、わたしもそれを聞くのが楽しみだったが、稽古としてのその謡の場面の謡い方を教えても、謡曲の内容について話されることはなかった。それはこちらは結構な大人だから、必要ないとされたのだろう。

 とにかく、これほどに多くの謡曲を習うばかりか、能楽を200番くらいは見てきたから、日本古典文学や和歌への基礎的素養ができていることに、今となってわかるのである。野村先生のおかげである。短歌を遊びで作るとき、古語の言い回しもそれなりにできる。
 なるほど、昔の年寄りが何やら古めかしい言い回しができるのは、こういうことがあったのか、自分がそうなって気が付く。

 能楽舞台として鑑賞に、稽古での多様なお話が鑑賞の大きな助けになったことは言うまでもない。能楽界の裏話的な話題もあったし、自分の舞台での失敗話、観世家にある能楽資料のことなど、話は尽きないのだった。芸談として公然と録音していたこともあった。
 稽古時の先生の美声のテープがたくさんあったが、ずいぶん前に廃棄した。今いくつかの野村四郎能公演録音テープがあるが、そのころ能楽堂で密かに録音したものである。もうあの美声を聞くことはできないから、貴重かもしれない。
 あの美声の裏に潜む何かが微妙に聞こえてきてそれが美しいのだが、稽古の時のそれを真似しようとしても不可能だった。

 四郎先生は東京芸大の教授に就任されてからは、他の流派とか他の分野とのコラボ舞台を企画演出出演されるようになり、これは実に興味深かった。古典中の古典と言われる能楽でこのような冒険ができるのかと思った。私がまだ能楽に興味なかった頃、先生の師である観世寿夫たちがそのような活動したらしいが、観たことがなかった。
 例えば、村尚也の作・演出、豊竹咲大夫の義太夫によって、「謡かたり隅田川」を能舞台にあげたのは画期的意欲作だった。芸大では音楽学部の他分野も美術学部も入れて、新しい「熊野」公演の企画演出出演もあった。能の新作「実朝」も観た。モンテベルディのオペラ「オルフェオ」も、演出と出演で面白かった。

 私が観た最近の四郎先生の舞台は、去年の横浜能楽堂「善知鳥」だった。その前は2017年5月5日「野村四郎傘寿特別公演」であった。観世能楽堂が渋谷の松濤から銀座に移ったので、それも見たかったのだ。でも松濤の能楽堂のほうがはるかに良かった。こんどはせせこましく地下4階に閉じ込められて、閉所恐怖症のわたしは2度と行かない。
 特別記念だから大曲を出すのかと思ったら、それは息子の野村昌司「安宅」に任せて、野村四郎は「羽衣 彩色の伝」であった。そういう取り合わせの意味するところを知らないが、隠居への道かと思ってしまった。

  その前の2017年1月に国立能楽堂で「隅田川」を観て以来だった。そのときに、さすが年には勝てないのか、あの華麗なる謡にいくぶんかの錆と淀みを聴いたのが、ながくその美声ファンのわたしには寂しいと感じた。その前の2016年11月「横浜能楽堂で観た「六浦」ではそんなことを感じないでうっとり聞いたのだったが、、。
 能謡の稽古をやめてからも、能演を観に行くことはそれなりにやっている。近所の横浜能楽堂にちょくちょく行くのだが、5年前の「六浦」からこちら、おいでがないままに会うこと出来なくなった。

 1998年のこと、そのころ私はある商業出版雑誌の編集に関わっていて、能楽関係の特集号を企画した。そして野村四郎インタビュー原稿「名人能役者に能楽を聞く」を書いた。だが、雑誌の廃刊で日の目を見なかった。この時は稽古仲間の建築家に頼んで、佐渡島に能舞台を訪ねる紀行の企画もあった。要するに遊びを仕事に仕立てるのに失敗したのだった。

 わたしは野村四郎の舞台をかなり数多く観た。そのうちのごく一部についてブログにこんな素人鑑賞記録を書いた。
・【能楽】野村四郎「善知鳥」と25年前の友枝昭世を2020/10/11
・【能楽】
銀座移転の観世能楽堂移転は超便利だが苦手2017/05/06
・【能楽】傘寿人間国宝・野村四郎が演じる「隅田川」2017/01/27
・【能楽】野村四郎「六浦」楓の精に音と姿の構図美②016/11/28
・【能楽】野村四郎兄弟3人そろって人間国宝とは2016/07/16
・【能楽】「仲光」演技は素晴らしいがストーリーが2016/02/20
・【能楽】「檜垣」に演者にも観客にも老いを重ね観る2013/12
・【能楽】「盛久」の英語字幕を見てお経の意味理解2013/11
・【能楽】野村四郎の能「鵺」を観る2009/12
・【能楽】能「摂待」と「安宅」2008/10
*【能楽+義太夫】コラボ能「謡かたり隅田川」2005/12/03

 わたしは「能役者野村四郎」サイトを作っていたが、最近は怠惰になり公演情報も途切れがちだった。勝手に作ったのではなくて、始めるときに先生の了解を得ていた。どうやらこれでもうこのサイトも消えてもよいだろう。
 能楽界での重鎮として大きな貢献されたことは素人には分からないが、個人的にわたしに唯一の趣味を育てくださったことに感謝を申し上げて、ご冥福を祈る。

 能役者野村四郎、そちらの世界でも舞い続けよ、合掌。  (2021/08/30)

参照・能役者野村四郎サイト https://nomura-shiro.blogspot.com/p/at.html
  ・趣味の能楽等鑑賞記録 https://matchmori.blogspot.com/p/noh.html

2021/08/24

1584【日本醜景図鑑】今更ながら地方都市郊外の景観はどこもかしこも醜いけどそれでよいのか

 こんな風景がある。どれがどこの街か説明するほどのこともないが、日本東西南北のいろいろな地方都市の郊外部の景観である。似ているようだが同じ町ではない。












 地方都市の郊外部がこんなに醜い景観になってきたのは、1980年代からだろうか。街によっては、その中心部には観光宣伝する伝統的な美しい街並みがあるのに、その郊外となるとこのように醜い景観の街が出現している。

 自動車でその町を訪ねると、まずこのような醜いところを通り抜けないと、美しい町並みには出会えない。玄関と客間のギャップに驚く。

 ところが意外にも、その街に住む人たちは、その郊外景観を気にしていないらしい。気にしていても、「むしろ、にぎやかになって歓迎している」と言われたりする。あるいはその醜さに気が付かないで、わたしの指摘に困惑する人もいる。賑やかさと醜さは比例するのかと、こちらが困惑する。

 上に載せたのは、わたしがこれまでに訪ねた全国各地の街で採集した「日本醜観図鑑」の一部である。実はこのような画像をかなり多数集めていたので、インタネットサイトに図鑑として載せていた。ところがプロバイダ側で何かあったらしく、消えてしまったことに気がついて、再度制作し始めているところである。ここに一部だけ復元して載せた。

 最近、このことを大学同期仲間のZOOMミーティングで話した。その時の一枚がこの地方都市郊外の景観である。

2009年当時の景観

 そして、これはあまりに醜いので、わたしが画像いじりして、商業看板類を撤去してみたら、こんなにもすっきりした景観になった。向こうの雪の山が美しく登場した。典型的な「山あて」の景観である。

2009年の画像から派手な看板類を削除してみた

 だが、これを見たその地に住む友人が言った。
「この交差点で左折してわが家に戻るのだけど、いつもその角にある派手な看板を目印にしているから、消されては困る。醜くても必要な看板だよ。それにこんな景観になったら、寂しくて嫌だ。あの山なんていつも見ていて、もう見飽きている」

 ごもっともである。でも、しゃくだから、こちらの画像を見せた。

2018年撮影の上と同じ交差点の景観 googlestreet

 そして友人にちょっと反論した。
「これは同じ交差点で、上の写真の10年後のグーグルストリートの画像だよ、わたしが撮った以前の景観と比べると、基本の汚さは変わらないけど、看板類は変っている。看板を頼りに運転してると迷子になる、やっぱり道路交通案内標識を見て運転しましょうよ。それに、せっかく美しい山の姿を、よそ者にも見せてくださいよ、おおいに自慢していいから」
 さて、この論争の行方はどうなるか。これは全国共通の話題だろうか。

 全国各地の困った景観などを面白おかしく見せるページを作っているので、ご覧になってご意見をください。
 景観戯造今昔図鑑https://matchmori.blogspot.com/p/keikangizo.html

(2021/08/24記)

2021/08/20

1583【もの言わぬアスリート】コロナ来てオリンピック来て豪雨来て泣き面を刺すパラリンピック

横浜都心部のオリンピック会場

●オリパラとコロナ感染

 緊急事態措置適用下にある東京なのに、数万人も人集めるオリンピックをやってしまった。何ともなかったはずがない。
 NHKNEWSWEB(8月20日)によると、組織委員会が7月1日から発表している国内と海外を合わせたオリパラ関係の感染者の累計は、オリンピック関連が546人、パラリンピック関連が86人の合わせて632人になっているという。

 普通ならそれが当然に発生しないはずの感染者であり、東京など開催地の医療の余計な負担をかけていることになる。例のバブルの中にコロナ対応病院があるはずもなかろう。
 江川紹子さんのレポートに、墨田区のワクチン接種作戦の成功ドキュメントがあるが、区内の大きな施設はほとんどがオリンピックのために確保されていて、集団接種会場の確保に支障があったと区の担当者の言として書かれている。
 東京都での感染者数は、オリンピック開催中の7日間の平均は、閉幕した8日時点で開幕した先月23日の2.9倍になった。

 先日、IPCパーソンズ会長の談としてこんな報道がある(8月19日TBSNEWS)。
 「東京の感染者数が悪化しても、パラリンピックは安全に開催できます。なぜなら、私たちはパラリンピックのバブルのなかと、その外側の社会で起きたことの間には相関関係が無いと確信しているからです」
 パラリンピックさえよければ、その外との地域社会がどうであろうと知ったことではないなんて、あるまじき発言である。あ他mがおかしい。もしも会長発言とおりならば、パラリンピックは医療関係者を外国から連れてきているから、日本の医療体制に影響しないのだろう、立派過ぎる態度である、ふ~ん、えらいもんだ。

 さて、それでもパラリンピックを22日から無観客で強行開催するそうだ。専門家からも多くの人たちからも開催反対の声が高い。
 もっとも主催者の東京都知事や組織委員会関係者や総理大臣たちは、安全安心な開催を行うと言い張っている。学校生徒たちだけにはこの見世物を見物させようとまで考えているそうだから、なんだか勇気のある人たちだなあと感心している。

●もの言わぬアスリートたち

 わたしはもともとTVを見ないし、その上に見世物スポーツ嫌いだから、当然なことにオリンピック競技を全く見なかった。とはいっても、新聞報道もラジオニュースもスポーツ報道に大きく時間とスペースを割いているから、いやでもオリンピックについて目と耳に入る。同時にそれ以上にコロナに関する報道が目と耳に入る。

 その状況に開催数日前から気が付いたのだが、次第に不思議な気持ちになったのは、スポーツニュースという分野では、競技と競技者の競技に関することしか登場しない。いっぽう一般ニュースでは、コロナ禍の中でのオリンピック開催可否の問題が次第に登場してきた。反対論も出て来た。

 ところが不思議なことにスポーツニュースにはコロナは全く登場しないのである。よその国で競技しているのと変わりない。わたしが特に不思議と思ったのは、オリンピックの主役であるとされる競技者たちのコロナに関する発言が全く登場しないことである。
 これだけ社会問題になっているのに、アスリートときたら何にも知らなくて、ただただ飛んだり跳ねたり勝ったり負けたりのニュースばかりである。何も発言しないというのは、あまりにおバカさん過ぎる

 当然に思うのは、運動部の世界ではファシズム的全体主義的統率があり、うっかりコロナ問題と絡めて発言すると、競技禁止をくらうのだろうか、怖い世界だ。そして報道屋もそういう取材を避けるのだろうか、こちらも全体主義に染まっているのだろう。アスリートだけがバカではなくてスポーツジャーナリズム全体がそうだというのも、怖い。

 これからパラリンピックに向かうらしいが、そちらも同じことに違いない。ぱらりぴっく競技者の声を見聞きしたことが無いし、これからも期待薄である。オリンピック時よりも、コロナ禍は一層ひどくなっているのだが、それでも気にしないのか。

 オリンピックもパラリンピックも、リーダー層はもちろんだが、選手層も同じように考えているから、発言しないのだろう。どうもスポーツ世界、特に見世物スポーツの世界を好きになれない、ますます嫌いになってきた

●商業資本家に囚われたアスリートたち

 考えてみるにオリンピックの主役とされる競技者たちは、じつは商業資本の手ごまに過ぎないから、主役と言うよりも実は使い捨ての端役かもしれない。本当の主役は、アスリートを躍らせている商業資本家であるらしい。あるいは見物スポーツとして見て騒ぐ観客たちがもうひとつの主役であろうか。

 とにかくアスリートは跳んだり跳ねたりしていればよいのである。余計なこと考えたりしゃべったりして世間から批判され、そのお抱え主の商業資本の側に迷惑がかからないようにと、それこそバブルの中に閉じ込められているのだろう。
 これはコロナから守るバブルよりも、思想を閉じ込めるから、怖いものである。アスリートたちは金欲しさに唯々諾々として、あるいは喜んで資本バブルの中に入り込む。そしてものを考えない人間として育てられていく。

 今回のコロナ渦中オリンピックは、はしなくもそれを露呈した。観客が居なくても開催できるのだから、地球上のあちこちを回って開催する必要はないことも分かった。競技ごとに競技者が集まって、それぞれの場所で開催すればよいのだ。TV屋さんが世界中にその様子を届けてくれる。

 わたしのように見世物スポーツに興味ない者には、オリンピックとはわたしの生活圏に入り込んできて不便を強いたばかりか、税金もむしり取っていく悪辣な奴である。そして今回はコロナ感染拡大に直接間接に大いに寄与したという、ほとんど犯罪行為にしか思えない。この上またパラリンピックが同じことをするに違いない。
 いったいこの世界はどうしたのだろうか、これは正気の沙汰なのだろうか

(20210820記)

参照:コロナ大戦おろおろ日録


2021/08/15

1582【寒い敗戦記念日】この前はアメリカに敗れカブレたりこの度はコロナに破れかぶれ

●対コロナ日本敗戦記念日

 今日は8月15日、毎年この日は靖国神社見物に出かけるのだけど、今年はパスした。(去年とその前の見物記はこちら参照
 今日は妙に寒い。8月15日はあの日からいつもカーンと晴れなければならないのに、変な気候だ、日本全国に雨が降り続けて、災害が起きている。

狂歌<寒い敗戦記念日>
秋来ぬと身には寒さに震えつつ雨の量にぞ驚かれぬる

 コロナ猛威は今日も感染者数記録更新、そんな日だから靖国神社に集まる人たちも少ないだろう、見物に行っても仕方ない。
 わたしの靖国神社見物はの目的は、その名の通り見物であり参拝ではない。つまい日本の右傾化の進み具合を、自分の目で確かめるための敗戦記念日定点観測靖国見物なのである。

 敗戦と言えば、只今世界コロナ大戦中であり、どうやら日本国はコロナに敗戦の色濃いから、この際ちょうどよいから8月15日をコロナ敗戦記念日にしてはいかがか。菅首相は東京オリンピック開催の意義を「コロナに打ち勝った証として」と言ったのだが、「打ち負けた証」と言い直すべきだ、何しろオリンピック期間中に見事に爆発感染になったのだから。
 そしてそれも専門家の予想通りだから、スカさんのボロが見事に出てしまった。東京では制御不能でもう打つ手がないから「自助」で療養せよと言うありさま。

狂歌<政策完遂>
就任時発表政治理念のとおり制御不能コロナは自助で

狂歌<寒い敗戦記念日>
この前はアメリカに敗れカブれたりこの度はコロナに破れかぶれ

 これほどにも第5波の急激なる増大とは、予想されていながら止めることはできなかったのは、公衆衛生政策の不手際があったにちがいない。だって、外国では台湾とか韓国のように、一定レベルでの爆発を抑えることができているのだから、できないことではないはずだ。

 その防疫対策をしながら、一方では東京オリンピック開催をして、その最中に感染爆発が起きた。為政者はオリンピックと感染爆発は無関係と言い張るが、本当だろうかと常識的には誰もが思う。
 こんな時に内外から2万員も集める大イベントをやり、そのためにだけにそうでも足りない医師を7000人も投入して防疫対策やったそうだが、それでも関係者に今のところ分かっただけでも600人近くの感染者だそうだ。実はもっといに違いない。

 そちらにそんなに多くの医師が投入されたということは、ほかのところでの医療体制に不備が起きたはずだ。今後オリンピックとコロナ感染との関係をしっかりと検証してほしいものだ。それは今後のパンデミック対策として実に重要な資料となるはずだ。

 ということで8月15日を対コロナ日本敗戦記念日にしたい。そうだ、来年からこの日にコロナによる死者を慰霊する催しを、千鳥ヶ淵で政府主催でやってはいかがか。
 つまり、東京オリンピックは対コロナ敗戦記念大会となる。このような無茶な大会もあったが、見してやってはいけないよと、後世に伝える負の記念碑としての意義があるのだ。

●コロナ大戦ますます盛況

 いまや第5波とされるコロナ感染の上昇カーブ、これまでの波と違って実に急激に上昇する。いつになれば波頭が来るのだろうか。オリンピックと歩調を合わせているのが、何とも皮肉と言うか、いや、相互に影響を及ぼしあっているのかもしれない。

 日本の感染者数は、8月13日に2万人の大台を超えた。緊急事態措置区域適用から1カ月で増え続けて14倍にもなったのだからすごいものだ。毎日毎日のニュースに昨日はこれまでの記録を更新したとばかり言う。

 わたしは横浜に住むから、東京に次ぐ大流行地域なのだが、困ったことには、その流行という現象を目に見ることはできないでいる。近親者に感染者も居ないし、人口密度の高い居住地内でもコロナ騒ぎに出くわさない。
 もちろんそれは幸いなことだが、これは全くのまぐれの幸せで、見えないことはかえって不気味である。

 昨日までのコロナ繁盛の様子。







 欧米先進国ではワクチン接種が8割を超えて、マスク無し社会を再開しようとしているらしい。いっぽう、日本では首相がどこか自慢げにワクチンワクチンとナントカのひとつ覚えのように言うが、まだ4割程度でこれはどうしたことか。
 今に闇ワクチンとか偽接種済みカードとかが出回るかもしれぬ。

狂歌<災害ニッポン>
コロナ来てオリパラ台風豪雨来て地震が来れば完璧な夏

 (20210815記)

参照:コロナ大戦おろおろ日録

2021/08/02

1581【緑の巨人へオマージュを】実践の植生学者・宮脇昭氏逝去を悼み多くの思い出すこと

 宮脇昭さんが逝去されたとのこと、SNSで知った(参照こちらから)。ご冥福を祈る。

 あの不死身の現場主義学者もまた人間であったか、と想う。ここに少し思い出を書いて、その生涯への小さなオマージュとする。そして7年ほどもご無沙汰をながら、見送ることもできないお詫びの印としたい。

 この高名な植生学者と知り合ったのは、1970年代初めだったような記憶があるから、もう半世紀も前であるのか。きっかけはわたしの知人が、宮脇さんが自宅を建てるのでその設計してくれと紹介してくれたのだった。わたしを信用して設計させてくれたゆえんは、その知人も私も宮脇さんも同郷(高梁市)であることだけだった。

中央のさすがに緑の多い敷地の住宅が宮脇邸

 そして1974年にある新聞社主催で、宮脇さんを団長とするヨーロッパの都市緑化に関する調査団をだすことになり、わたしにも参加を誘われた。主にドイツ各地を見てまわったが、北欧や南欧ベネチアやアテネなども回った。(参照こちら
 実に有意義な調査団だった。わたしは自然の緑に対する目を開かされた。わたしは実は神社の森の中で生まれ育ったので、緑の樹林の存在があたり前すぎて、その成り立ちまで考えることは無かったのだった。

宮脇昭(中央)とラインホルト・チュクセン(右端白髪の人)
黒メガネがわたし、1974年調査団のアウトバーン緑化視察風景

 宮脇さんの留学先の師匠ラインルト・チュクセンのもとを訪れて、その業績を知り、緑化事業現場も案内してもらった。余談だが、宮脇さんは師匠や研究仲間のドイツ人たちから、「イシ」と呼ばれているのであった。それは宮脇さんのドイツ語発音で、「ich」(イッヒ:わたし)がイッシになることによるそうだ。でもこれは郷土の岡山訛ではない。

 それを縁として宮脇流植生学をしっかりと聞かされ実際の現地も見たわたしは、すっかり宮脇教に染まり、建築設計や都市計画にその思想や手法を取り入れるようになった(参照こちら)。
 浜国大の宮脇研究室にもよく出入りしたものだ。そう、その緑の濃い大学キャンパスこそ、最初から宮脇方式の実験場として成果の賜物なのだ。(参照こちら

横浜国大常盤台キャンパスは緑の森の中

 1976年からわたしの仕事に、いくつかの大規模な森林開発レクリエーションプロジェクトのマスタープラン策定をやることになり、宮脇流の植生思想を取り入れたものだ。そのひとつについて現地植生調査を宮脇研に依頼した。現地の山の中に宮脇さんとその研究室の人たちが入り込んで植生地図を作り上げた。わたしも加わって現場で植生を学び、開発における植生にあり方のアドバイスを受けた。

 宮脇さんは生態系の理論を現場実践を結び付けたところに大きな業績があったと言えよう。ただし、それまでの緑化事業をリードしてきた造園系の理論と実践派の人たちとの対立があったし、今もあるらしい。わたしから見ると対立よりも協調がよさそうに思うが、学者となると鋭く対立するものらしい。

 90年代から、わたしの仕事の転換で疎遠になっていったが、宮脇さんはある時期から海外での緑化実践に乗り出していった。中国奥地の砂漠化地域の緑化とか、熱帯地域での植生回復とか、その活躍は超人的だったようだ。
 その間、いくつかの一般啓発著書を出版、わたしはいつも入手した。その理論と実践の論展開は地球的規模の環境と歴史と文化に及び、言葉遣いしだいに宗教的な雰囲気さえ持つ感もあった。

 そして俄かにまた日本でジャーナリズムにその名が登場したのは、2011年3月の東日本大震災からである。(参照こちら) 津波に襲われた地域の海岸に宮脇方式の自然植生樹種による「緑の長城」を築けとの提唱である。それは多くの人たちの賛同と支援を得て、プロジェクト実施が進みつつある。

 わたしも一度だけだが、緑の長城づくりプロジェクトの応援ボランティアに行ったことがある(参照こちら)。そのときは植える苗木を育てる多ためのドングリ収集イベントであった。仙台から石巻あたりの自社の森で、落ちている常緑樹のドングリを何万粒も拾い集めた。

 実は沿岸部の緑の長城は、神奈川県の湘南海岸に既に実現しているのである。戦前から形成されてきた長大な防砂防風風致林だが、これを宮脇さんの指導で松林から常緑樹主体の森に変えていった。いまは11キロ余にも及ぶ緑の長城が続く。宮脇さんはこの実績を持って地震津波に対応する提案を唱えたのであった。(参照こちら

神奈川県の湘南海岸に実現している緑の長城

 宮脇さんと最後に会ったのは、2014年に横浜国大で緑の長城づくりに関する講演会があって、聞きに行ったときだ(参照こちら)。終わってちょっと挨拶もしたが、いつもの元気な様子だった。

横浜国大にて 2014

 そして2016年、その長城プロジェクトのウェブサイトで、宮脇さん倒れるの報に接した。病はあの元気な人を車いすに縛り、あの宗教者のごとき滑舌も止んだとのこと、鉄人も歳には勝てなかった。

 宮脇さんから頂いたご著書2冊があるが、終活蔵書処分できないまま。このさいどなたか貰ってくださるとありがたい、希望者はメールをどうぞ。dateygアットgmail.com
・『日本植生誌・九州』1981年至文堂 270×210 484ページ。
    (別冊:九州植生調査票32枚、別図:九州植生図版3枚)
・『日本の植生』1977年学研 270×200 535ページ 


 緑の長城は次第に築かれてきており、宮脇さんの大きな遺産は後世に立派に受け継がれている。合掌。 (20120802記)

参照:わたしはこれまで、宮脇さんの理論を考え、その実践を眺め、わたし自身も小さな実践もした経験について、次のようにウエブサイトに書いてきたので、ここに紹介する。

・【横浜国大】宮脇昭提唱の森の長城づくりの原点の森2014
   https://datey.blogspot.com/2014/03/908.html

・【岩沼市相野釜】宮脇昭提唱の森の長城づくりと行政の現場2014
  https://sites.google.com/site/dandysworldg/iwanuma-ainokama

・【欧州植生調査旅行】震災ガレキによる森づくりで思い出す2012
  https://datey.blogspot.com/2012/04/611.html

・【森の長城づくりに参加】市民プロジェクト森のドングリ拾い2011
  https://sites.google.com/site/dandysworldg/greatforestwall

・【森の長城】津波災害を防ぐ緑の森2012
  https://datey.blogspot.com/2012/04/609.html

・【イオンの森と津波】壊すもの守るもの2012
  http://datey.blogspot.jp/2012/02/583.html

・【福島原発被災地】核毒の森づくりが始まる2011
  http://datey.blogspot.com/2011/12/560.html

・【福島原発核毒地帯】21世紀の「谷中村」は「核毒の森」2011
  http://datey.blogspot.jp/2011/08/47921.html

・【横浜国大キャンパス】ふるさとの森の大学2008

・【うるしの里】小さなふるさとの森づくりをした
  https://matchmori.blogspot.com/2021/08/kawada2009.html

・【アウトバーン緑化】道路緑化の文化史的考察1983