ラベル 山口文象 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 山口文象 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2024/01/23

1784【黒部峡谷探訪】峡谷の山口文象モダンデザイン建築やダムにはTV放送のタモリは無関心

 富山県の黒部川における電源開発事業の軌跡の現在を、現地探訪で紹介するTV放送番組をPCで見た。「ブラタモリ秘境黒部峡谷」と題して、黒部川を発電所とダムを下流から開発の順に順に訪ねて遡り、黒部ダムまでたどり着く行程の映像紹介だった。
 開発した当時は日本電力といったが、いまは関西電力が所有して運営管理している。そこの専門家の案内はなかなかに適切でよく分かった。紅葉の黒部峡谷は美しい風景だし、その急峻な山岳と峡谷の地形に挑んだ先人たちの意気込みも面白く、秘境探訪として楽しんだ。

●建築家山口文象の秘境の仕事

 実はわたしがそのTV放送番組を見た目的は、秘境を見たいのではなかった。わたしがその生前に師事した建築家の山口文象が、この秘境でひとつの発電施設に関わっていたからだ。それは1936年に完成した黒部川第2発電所とそこに黒部川を渡る目黒橋、そこに水を送るために取水する小屋平ダム、そして送る水から砂を取り除く施設の小屋平堰堤沈砂池の設計などである。山口は日本電力の嘱託技師であった。

 わたしは1993年にこの発電所までは見に行ったが、そのほかは見ないままであるので、TVに登場を期待した。しかし結果は、第2発電所と目黒橋がほんの少し登場したが、その他はまるきり出てこなかった。

山口文象設計の黒部川第2発電所と目黒橋 19930731伊達撮影

 わたしはこれまで山口文象のこの仕事については、このブログにも掲載している(参照:1936黒部川第2発電所・小屋ノ平ダム等)。竣工当時1938年には土木系や建築系の雑誌に大きく掲載されて、ドイツの建築雑誌にも載っているのは、ベルリンでW・グロピウスのもとで働いていた縁であろうか。わたしが編集担当し一部著述した『建築家 山口文象 人と作品(相模書房1988)に、戦前の代表作品として大きく載せた。

 TVで黒部川第2発電所とネズミ返し岩壁の映像を見て、そうだこれと同じシーンの山口文象によるスケッチがあったと思い出した。山口は第2発電所のデザイン途上で、その得意なコンテによるパースをいくつも書いている。

NHKTVブラタモリのワンシーン 背後にネズミ返し岩壁、
手前に山口文象設計の第2発電所と目黒橋

 山口文象設計の第2発電所の前に高い塀ができて、半分以上も見えなくなってしまった。

設計時の山口文象によるコンテパースのひとつ(1930頃か) 
背後にネズミ返し岩壁、手前に第2発電所と目黒橋

 山口の仕事はほんの少ししか登場しなかったが、この番組で目黒橋について新たに二つの知見を得たのが収穫である。一つは目黒橋の竣工は、第2発電所よりも2年早い1934年であったことだ。同時にできたとばかり思っていたが、考えてみれば建設資材を運ぶための橋が先行するのは当たり前である。
目黒橋の鉄骨に昭和9年とある記録

 もうひとつつは、目黒橋の橋台となっている構造物は再利用であったこと。実は建設前のこの位置には、下流の柳河原発電所の取水堰堤があり、その構造物の一部転用であったそうだ。だからコンクリートの橋台構造物の方が、橋の鉄骨本体より幅が広すぎるのだ。なるほどすでにあるものを活用は、資材運搬が困難な地であるだけに重要なことであろう。

 ところで目黒橋のデザインも転用であるのだ。実は東京の隅田川支流の日本橋川にかかる豊海橋とそっくりデザインである。その豊海橋は、関東大震災復興で1927年にできたのだが、復興局に在籍していた山口文象がデザイン担当していたのである。フィレンデールという構造体だが、若干プロポーションを美しく変えて、ほぼ同じ形で目黒川に援用したと、山口がそう述べているから確かである。

 全く異なる環境にもちこんで、しかも豊海橋が落ち着いた白系統の色であるあるのに対して、こちらは鮮やかな朱色である。この色に対して何か論争があったかもしれない。そもそも第2発電所のデザインについてはあれこれとあったらしいのだ。当時も自然と人工物の取り合う景観について、あれこれとやかましかったことを、山口は語っている。
黒部川の朱色の目黒橋(1934年)とその大きすぎる橋台

隅田川支流にかかる豊海橋(1927年)

 TV放送番組を見ていて欅平の手前の小屋平ダムがでてくると期待していたら、通り過ぎてしまった、残念。このダムについては、山口文象がドイツ遊学時に水理学の専門家を訪ねて形態について指導を得て設計に生かされているようだし、ダムのデザインスケッチもあって、今の姿を見たかった。
小屋平ダムと沈砂池 コンテパース山口文象

小屋平ダム コンテパース山口文象

●1957年このルートを辿った大学山岳部

 1957年の夏休みに、わたしの大学の山岳部はこのトロッコルートを阿曽原まで通り抜けて入山して、北アルプスの劔岳に夏山合宿に行った。残念にもわたしはこれに不参加だが、当時の記録がある。そのころは関電の工事専用ルートであり、そこを無理に頼み込んで乗せてもらったらしく、珍しい体験をしたものだ。

 参加した山岳部16人のうち、わたしの同期生だった一年生は10人である。その10人のうちで今も生き残りは、わずか5人のみである。この時の不参加のわたしも含めて山岳部同期仲間8人の生き残りが、今も親しく付き合っている。このTV放送を懐かしく見た者もいる。

山岳部仲間1958年夏山合宿下山時の写真 左から5人目が私、いま何人が生き残るか

 
 最後にテレビ番組なるものに小言を。
 わたしは日常でテレビ放送なるものを見ない。もう40年くらいは見ない。もちろん大災害時の現場の放送だけは見ているから、能登地震の発災当時も見た。
 今回も知人から教えてもらって、見逃しネット配信なるものをPCで見たのである。黒メガネの案内役というか狂言回し役のタモリという人は、昔にTVを見ていたころにお笑い芸人だった記憶がある。今はこのようなことをしているのか。
 それにしても、今回の主役はタモリではなく、関電の案内役の人であった。場所ごとにクイズ形式にして、タモリがどんどん正解をして、毎度毎度「おっしゃる通りでございます」と案内役が褒める。台本がそうだろうが、実に詰まらん、オウム返しと同じである。タモリと一緒の女性もなぜそこにいるのか、二人は有名芸人で客寄せパンダかしら。
 これって単発番組なのかしら、あるいは連続番組でいつもこうやっているのかしら、TV放送番組とはなんとつまらないものとあらためて思った。あ、そうだ、途中に広告がひとつも出てこないのが実によかったと褒めておこう。

(2024/01/23記)
本ブログ関連記事
建築家山口文象+初期RIAアーカイブズ
1936黒部川第2発電所・小屋ノ平ダム等
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

2024/01/12

1779【中西利雄アトリエ】山口文象設計の木造モダンデザインの最後で唯一の現存建築か

  久しぶりに建築家山口文象の話題である。

 今朝(2024年1月12日)の東京新聞に、彫刻家の高村光太郎が戦後に東京でのアトリエとしていて、ここで終焉した建築が今も建っており、イサム・ノグチも滞在したことがあるという記事が載っている。それが元は画家の中西利雄のアトリエ(1948年竣工)であったという由緒もあるので、文化的記念建築の意義が深い。これを何とかして活用できるように保全したいと、活動している人たちもいるという話題である。
 参照→●東京新聞記事20240112 高村光太郎ゆかりのアトリエ残したい@中野

旧中西利雄アトリエ 現況 google street

 たいていのこういうたぐいの新聞記事に、その建築設計者の名が出てくるのはかなり稀であるが、この新聞記者はそこまで取材して書いている。「設計は近代日本建築運動を先導した建築家山口文象(1902~78年)」と書き、建築史家の内田青蔵氏の「戦前から戦後に活躍した山口文象による貴重な事例で、オリジナルが残っている。モダニズムを象徴する無駄のない空間を創る思想が現れた建物だ」とのコメントもある。

 ここで文化的著名人として高村光太郎、イサム・ノグチ、中西利雄そして山口文象の名が出てきて、それらの人たちの文化的足跡の記念として、この建築を保全したいという活動が起きているという。さて、これらの名が世間の人々にとって、どこまで記念すべき文化人に値するのか、それが保全が可能かどうかの尺度になるだろう。

 わたしが言えるのは、山口についてのみであるが、日本の近代建築史における重要な一角を占める建築家山口文象の現存する作品としては、中西アトリエは貴重な位置にあるといえる。それは山口のモダンスタイル木造住宅作品として、唯一現存するからである。
 山口はグロピウスのもとから帰国(1934)してきて、日本へのモダンスタイルの導入で世に名をあげ、多くのそのスタイルの木造住宅も設計した。例えば山田智三郎邸小林邸あるいは番町集合住宅(いずれも1936)がある。

 山口は1920年半ばからの建築運動の関係から画家たちとの付き合いがあり、彼らのアトリエをいくつも設計している。私が作った山口年表から拾うと菊池一雄(1931)、藤川雄三、仲田菊代(1933)、安井曾太郎(1934)、前田青邨(1936)、林芙美子(1940、一部に画家の夫のアトリエ)、佐々木象道(1941)そして中西利雄(1948)に至る。

 これらのうちで現存するものは、前田青邨、林芙美子そして中西利雄の各アトリエのみである。前田と林のアトリエは純粋に和風建築であり、比べると中西アトリエのモダンさがよくわかる。山口は中西アトリエのような、庇のない木造板張り壁で勾配の緩い屋根のモダンデザイン木造建築を多く設計しているが、雨の多い日本の風土では保全が難しかったので、いまや中西アトリエのみ現存する。

 中西アトリエは戦後建築で戦災に遭わなかったことも幸いしている。山口の渡欧の作品だが、モダンデザインそのものの菊池一雄アトリエが、戦災を逃れて数年前まであったが今は消えた。実は、わたしは中西アトリエが現存するとずいぶん前に仄聞してはいたが、今はもう消えただろうに思っていたので、よくここまで保全されたと驚いている。

 山口作品で、文化的な施設として現在保全されている二つの木造建築がある。そのひとつは「林芙美子邸」(1941)であり、現在は「新宿区立林芙美子記念館」として公設の展示施設となっている。復元して原型をよくとどめており、管理も行き届いている。住宅建築としての本来的な活用ではないのが少し残念であるが、著名小説家を記念するためだからやむを得ない。

 もうひとつは「旧関口邸茶席」(1934)であり、現在は「北鎌倉宝庵」として、積極的な利用による保全をされている。この茶室建築と庭園は、もともとは北鎌倉の名刹浄智寺の境内地の一部を借地して建てられた民有の住宅の一部であった。そのオーナーは評論家であり、趣味の茶人であった。大工棟梁の息子として和風に通じている若い山口に、本格的な茶室の設計をさせた(参照:宝庵由来記)。山口はその近くに同時並行的に、モダンデザインそのものの山田知三郎邸を作っているのが面白い。

 1970年頃にこの茶室建築と庭園の部分を鎌倉の建築家榛沢敏郎氏が取得し、永らく主が不在で荒れていたのを修復復元してアトリエとして活用していた。これもアトリエ建築であったのだ。それが2017年に地主の浄智寺に建物付きで返還され、この美しい庭と茶室は才気ある住職と能力ある運営者を得て、新たな出発をする。

 2018年から浄智寺の「北鎌倉宝庵」と名付けられて、公開運営されるようになった。多くの茶人たちの道場となり茶会の席として、時に展覧会場や撮影会場となり、月に1回の茶席一般公開日もある。運営管理に利用者たちも関わり、その本来的な活用が積極的になされていて、山口作品の中では最も幸福な建築である。名建築保全策としても理想的であろう。

(20240112記)

このブログ筆者の山口文象関連ブログ記事
建築家山口文象+初期RIAアーカイブズ
https://bunzo-ria.blogspot.com/p/buzo-0.html

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
伊達の眼鏡 https://datey.blogspot.com/
まちもり通信 https://matchmori.blogspot.com/p/index.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


2023/03/26

1678【創宇社建築会創設百年】関東大震災の余燼の中に立ち上った若者たちの建築運動グループ

 1923年9月1日の関東大震災、今年はそれから100年、天災は今も盛んになるばかり、関東大震災100年で何か大きなイベントがあるだろうとは予想できる。
 その大震災の余燼がくすぶる中の東京駅前、中央郵便局裏の掘立小屋で若者建築家たちが、建築運動のグループ「創宇社建築会」を立ち上げた。それから百年目になるので、誰かが何か記念行事をやるのかなと、ちょっと期待を持っていた。

 3年前の2020年に「分離派建築会100年展」なるものが分離派100年研究会によって、開催された。建築史界では、創宇社建築会をその分離派の亜流のごとくにを位置づけているようだ。
 創宇社建築会が創設100年目にあたるなら、こちらも研究会を作って何か展覧会とかシンポジウムをやるだろう。どうせなら研究を推し進めて、亜流説を脱するような展開があると面白いだろうと思っているのである。

 そんなところにドンピシャ、『創宇社建築会100年研究会 第1回シンポジウム「建築運動」を語る  アーカイブズをめぐって』への参加お誘いが、名古屋市立大学の佐藤美弥さんから来た。3月25日、東京都市大学世田谷キャンパスである。


 おお、やっぱりこちらも100年目イベントがあるか、分離派ほどに有名エリート建築家グループではないので、世間が知らないのは当たり前としても、建築界、建築史界でもどれほど興味持つのだろうか、特に若い建築家たちが知っているだろうか、それがわたしの興味の一つでもある。第2回、第3回へと期待する。

 分離派が東京帝大出の石本喜久治、堀口捨巳、山田守らの、後に有名建築家になるメンバーたちに比べると、創宇社は帝大出は一人もいない。後に有名建築家になった海老原一郎がエリート学校といえばそうである東京美術学校出であるのみ。
 会のリーダーの山口文象は後に有名になったが、東京職工徒弟学校出であったし、多くが実業専門学校出であった。これらの出自のせいであるということもできないだろうが、これらふたつの会の活動の展開方向がおのずから異なっていったのが、実に興味深い。

 コロナでこのところシンポジウムとか会合参加はZOOMやU-tubeばかりで、参加度合いが浅いままに終わるから不満がたまる。たとえ自分の発言がなくても、実際にその場の雰囲気で面白度合いも理解度合いも大いに異なる。ズームやっててムズムズしてきた。
 そんなところにこのお誘いで、ちょっと顔を出して知ってる人たちに会うかもしれないなと、久しぶりにちょっとうれくなって参加した。この3年間ロクに遠出していないから、子どもの遠足の気分でもある。

 せっかくだから久しぶりに会った旧知のお方たちを書いておく。会場参加者は全部で20人ほど、ネットではどれほどか知らない。
 挨拶した順に、岡山理香さん、佐藤美弥さん、鈴木進さん、山口勝敏さん、山口麗子さん、小町和義さんである。
 4年ぶりの小町さんには驚いた。山口文象の最後の弟子で95歳のはずだ。こういう会合に参加するとほとんどの場合、わたしが最高齢になってひそかに当惑するが、今回は小町さんにその地位を奪われた。小町さんから「北鎌倉の宝庵に一緒にまた行きたい」と誘われてしまった。う~む、元気すぎるお方だ。

 さてシンポジウムの内容である。「アーカイブズをめぐって」京都大学の西山卯三、東京都市大学の蔵田周忠、建築家竹村新太郎が、それぞれ遺した資料についての各報告、次いで討論や質疑であった。
 いずれの資料も近現代の建築や社会を語る歴史的資料として貴重であると分ったが、その膨大な数をどのように評価し、どう整理して、世にどう公開するか、課題はいっぱいらしい。特に公開するときのプライバシー問題が深刻らしい。

 わたしは研究者でも学者でもない趣味人だから、聞いていて気楽なものである。わたしが建築家のアーカイブズらしきものにかかわったのは、建築家山口文象が遺したRIAにある資料である。山口は西山や蔵田と違って資料を積極的に保存する性格ではなかったが、それでもかなりの点数がある。

 それらをアーカイブズとして保存し、時に外部からの閲覧に対応するには、それなりの組織体制と人材が必要である。
 わたしがRIAにいるころに、その基礎的な仕掛けは作っておいたが、大きくもない民間組織でアーカイブズ化をどこまで可能か。わたしがRIAを出てから収集した紙資料類は、RIAの文象アーカイブズに数年前にエクセル目録と共に全部納めた。
 この創宇社建築会100年という節目で、また山口文象資料への需要が出るかもしれない。シンポ会場にRIAの若い人が3人来ていたから、文象アーカイブズに取り組むらしく、頼もしくも楽しみだ。

 わたし個人としてもアーカイブズがある。ほとんどデータ化してネット空間とPCディスクに入れてある。そのうち山口文象関係に関しては、そのサイトでわたしに自主研究遊びとして公開しているが(山口文象+初期RIA)、個人趣味のサイトだから勝手なものである。
 しかし、大学あるいは企業のような立場でのサイトでは、わたしのような勝手な個人と違って、著作権や版権あるいはプライバシーに厳重に配慮しなければならないから、半端では公開できないだろう。

 実を言えば、わたしの山口文象関係のサイト掲載分もPC内データ分も、勝手な言い分だがどこかに引き取ってもらいたい気がしている。わたしはこれらの維持管理が不可能になる日が、もうすぐくるに違いないからだ。
 その時にすべて消滅させてもわたしはかまわないのだが、ちょくちょく院生や学生から問い合わせがあるように(最近は東北大のドクターコースの人から高松美術館についてのインタビューを受けた)、もしかして誰かが研究用に使うこともあるなら、どこかのアーカイブズに今のうちに引き取ってほしいとも思う。

 シンポジウムの主催者側の佐藤美弥さんが、創宇社建築会の本「創宇社建築会の時代 戦前都市文化のゆくえ」を今月末に上梓するとのことである。最上の創宇社建築会創立100年記念になった。http://yoshidapublishing.moon.bindcloud.jp/pg4784863.html

 そういえば思い出したが、創宇社建築会リーダーの山口文象にその出世作となる黒部第2発電所とダムの設計にあたらせた人は、日本電力技師長の石井頴一郎だった。後に関東学院大学の教授になり、その遺した資料が大学の図書館に寄贈されたと聞いたことがある。山口が関わった黒部川や庄川のダムや発電所などの資料があるはずなので、閲覧したいものである。寄付されてしばらくはまだ整理されていないので非公開だったが、もう10数年たつからアーカイブズとして公開されているだろうか。
                      (20220326記)






2021/12/13

1599 【山口文象作品探訪】旧前田青邨邸・アトリエにようやく出会いその健在を喜ぶ

●ようやく出会った前田青邨邸

 山口文象設計の前田青邨邸(1936年)については、「建築家山口文象 人と作品」(1982年刊行)の年表に小さな写真を載せているが、それ以上のことを知らなかった。
 鎌倉市内に現存すると鎌倉の知人建築家にずいぶん前に聞いていて、まだ現存するかなあと思いつつ、いつか出会いたいと思いながら今日まで来た。
 そして昨日(2012年12月12日)、紅葉の鎌倉でついに出会う機会に恵まれた。

「建築家山口文象 人と作品」(1982年刊行)掲載の前田青邨邸

2021年に出会った旧前田青邨邸の健在姿

衛星写真による旧前田青邨邸 右から居住棟・アトリエ棟・茶室棟

 簡単に近づくことも眺めることも難しい山中の寺院の奥深くにあり、今も住居として昔の姿で生きていた。一部に改変もあるようだが基本的には当初のままらしく、さすがに元の住人の画家・前田青邨に敬意を払った使われ方をしていた。

 建築学的には、案内していただいた建築史家の小沢朝江さん(東海大学教授)の資料に下記の様にある。

・居住部、アトリエ、茶室の3棟で構成
・関与した大工・山田源市は、三渓園白雲亭、西郷邸(原三渓長女の住宅)、和辻哲郎邸などを手掛け、田舎家を得意とする
・切妻造・桟瓦葺で、妻側に梁組を見せる、ただし、柱や梁は細めで簡素。
・居住部:応接間は椅子座。長押や鴨居を略して壁で構成。作り付けの棚も幅が狭く瀟洒。
アトリエ:面皮柱や大面取の長押、間隔が狭い竿縁天井、簡素な板欄間など、すっきりとした構成。床の間は高さの無い踏込床。落掛を間口いっぱいに掛け、床板を内側にずらす。
茶室:古材を利用、古材や煤竹に合せて新材や障子も古色をつける。なぐりや丸太を多用。壁床・長炉・野郎畳も田舎風。山田源市の好みが強いか。茶室だが内椽を持つ点、点前座に付書院と仏壇を儲ける点が異例。

●前田邸・林芙美子邸・山口文象自邸

 山口文象の1940年の作品に、小説家林芙美子邸と自邸がある。
 林芙美子邸の居住棟とアトリエ棟の2棟を並べて建て渡り廊下でつないだ配置と姿は、前田青邨邸によく似ている。
 前田邸には東から居住棟、アトリエ棟そして更にその西に茶室棟が付くのだが、この茶室は見えがかり材に古色を施し、一部に古材も使っていて田舎民家風であるのが興味深い。

 実はその4年後につくった山口文象自邸が、全くの田舎民家風であった。もちろんプランは近代建築そのものだが、意匠は内外ともに見えがかり材には黒く古色を施し、連子格子窓や民芸風照明器具もあった。この民家風デザインが前田青邨邸にもあったことにちょっと驚いた。山口に民家風デザインはこのほかには無いはずだ。
 岐阜県中津川出身の青邨が、故郷の田舎家風デザインをリクエストしたのだろうか。

 山口の言によると、富山でダムや旅館の仕事をしていたころに現地で民家デザインに惹かれたとのことだが、前田邸も自邸も建築系の雑誌に発表することは無かった。
 そもそも幾つも設計しているはずの和風住宅を、ほとんど発表をしなかった。大工棟梁の家に生まれて身にしみこんでいた和風建築は得意だったが、モダニズム建築家として売り出したからには裏芸としておきたかったのか。

●前田青邨と山口文象の縁

 前田青邨と山口文象との関係は、たぶん、創宇社建築会建築会活動で、多くの美術家たちに出会ったことによるのだろう。安井曾太郎のアトリエの設計もしているから、そのあたりから前田につながったのかもしれない。

 山口文象が帰国して日本歯科医専校舎でデビューして売り出したころに、前田の長女と結婚したという深い因縁にある。有名画家の娘と新進建築家の結婚として、今でいえば女性週刊誌で当時の女性月刊誌がインタビュー記事にしているのが面白い。
 ブルーノ・タウトの日本日記に山口文象と前田青邨の名が何度も登場するが、山口から前田の長女との結婚式に招かれておおいに困惑する話がある。

 山口建築事務所の最初の所員だった河裾逸美さん(創宇社建築会メンバー)から直接に聞いた話だが、結婚して芝白金に事務所と住まいを構えて、夫婦は日中はいつも遊びに出かけ、夜に戻る所長に仕事の指示を受ける生活であったとのこと。
 3年半で破局するのだが、それは山口の才能を見込んだ青邨が跡取りにしようとして山口が反発したことが原因らしいと、これも河裾さんと山口の弟の山口栄一さんから聞いた話。

●山口文象作品木造住宅の現在

 山口文象作品で今も存在する和風住宅建築は4件あるが、このほかに昔の姿のままの建物は、寺院の茶席になった「宝庵」(旧関口邸茶席)と、行政の博物館施設となった「林芙美子記念館」(旧林芙美子邸)の3件のみ。
 もう1件は「山口勝敏邸」(旧山口文象邸)だが、これは山口自身によって大幅に改造されている。
 数多くあった木造洋風住宅は今や一軒も存在していない(と思う)。軒出が無くて勾配の緩い屋根は雨の多い風土では無理だったらしい。

 前田青邨邸の現状については、今も生活の場だから詳しくは書けないので、どうでもよい周辺のことを忘れないうちに書いておいた。
 70年代から続けてきたわたしの山口文象追跡は、これで遂に終わりを迎えたらしい。

(2021/12/13記)

参照:・建築家山口文象+初期RIA
   ・前田青邨邸







2020/01/22

1439【バウハウス100年映画祭】ミースとグロピウスそして山口文象たち世代の戦争責任は

●『バウハウス100年映画祭』
 めったに映画館に行くことはない。わたしはTVを見ないから、映画ってものはうちの中でPCで見る。映画館やTVと違って、中座するときは一時停止すればよいし、眠くなったら止めてしまい、後で続きから見ればよい。
 それでも年に2、3回は映画館に行く。それがこの1月中に寒いのにわざわざ近所の映画館に、もう2回も行ってしまった。今年はあとは一度も行かないで済むかも、。

 見た映画は、「バウハウス100年映画祭」として合計6作品を下記4つのプログラム構成で上映しているうちのAとCである。
A「バウハウス 原形と神話」
B「バウハウス・スピリット」「バウハウスノ女性たち」
C「ミース・オン・シーン」「ファグス グロピウスと近代建築の胎動」
D「マックス・ビル 絶対的な視点」

●バルセロナ・パヴィリオン
 最初にCプログラムを見た。『ミース・オン・シーン』は、ミース・ファン・デル・ローエの設計になるバルセロナ・パヴィリオンの復元事業を中心に据えて、かかわった来た人たちへのインタビューと、新旧の映像で構成咲いている。
 わたしはこの名作を実際に見てはいない。これまで実物を観たミースの作品は、シーグラムビル、ベルリン国立美術館・新ギャラリー、IITクラウンホールであり、いずれもガラスと鉄の分りやすい空間である。
(映画予告編からコピー)
あの有名なバルセロナ・パヴィリオンは、ベルリンのギャラリーと同じようなものと思っていたのだが、かなり異なるもので驚いた。
 これは建築空間の構成そのものを見せる作品であり、しかもガラスと石によるのだ。石目模様の色彩豊かな大理石が重要な役割を占めている。単に透明な空間ではなくて、その変幻自在な空間の展開を楽しませてくれる。
 多彩な登場人物の語りで、この建築の歴史、空間の構成、力学的構造など、なかなか興味深い映画であった。そうか、安藤忠雄はこれをまねしていろいろと展開しているのだな。

●ファグス靴工場
 「ファグス グロピウスと近代建築の胎動」のほうは、ファグス靴工場である。これも私は実物を見ていないいし、そもそもグロピウスの作品は、ニューヨークでパンナムビルを遠望したことがあるだけだ。この人の作品は少ないが、教育者としては素晴らしい。
 バウハウス創始者のグロピウスのバウハウス以前の作品であり、その後の近代建築への最初のステップを見せる作品として紹介している。
 この工場は今も現役工場として靴を作っているのが素晴らしい。工場の労働環境の改善という目的と、建築デザインを商品宣伝の目的にするという、いかにも近代産業社会到来への対応としての出自を、しっかりと見せてくれるのが面白い。

 現代の建築生産の目から見ると、平凡というか下手くそな感もあるが、1911年という時代相から見るとこの明快さが、時代を突き抜けているのだろう。
 それは1926年デッサウバウハウス校舎についても同じように言える。とにかく近代建築史の視点で観ないと、この映画はわからないだろう。そこがミースのバルセロナパヴィリオン(1929年)とは大いに違う。
 グロピウスのファグスとデッサウを下敷きにしてみると、ミースはグロピウスよりもはるかにデザインの名手とわかるだろう。

●バウハウスの人々
 次に見たのがA「バウハウス 原形と神話」で、これはバウハウスの創立からその運営、影響、そして終焉までを、多くの卒業者たちに語らせるものである。
 盛りだくさんに詰め込んで消化不良気味だが、かかわった人々の熱のようなものが伝わってくる。昔は建築史フリークアだったわたしだが、読み漁った近代建築史上の登場人物の名前が次々に出てくるのを懐かしく聞く。

 オスカー・シュレンマーが出て思い出したが、もう20年以上も前だったか、東京のどこかのイベントホールで、シュレンマーの舞台作品を見たことがある。
 ロボットのような姿のダンサーが行進のようなダンスを、どこかの劇団だったかが演じた。ほう、これがあのシュレンマーのダンスかと、興味深かったが、あれは何だったんだろう。

●バウハウスの影響
 バウハウスの活動が、世界の各地各界にもたらした影響は大きい。
 バウハウスのモダン住宅の例として、ドイツのジードルングらしきものも少し出たが、イスラエルのテルアビブ住宅地が詳しくとり上げれれていて、知らなかったがそれなりに興味深い。

 日本にはどうだったのかは何も出てこなかった。4人の日本人留学生のことも出ない。グロピウスの弟子になった山口文象のことも出ない。
 仲田定之助が訪れて日本に初めて紹介したのが1925年で、山口文象は仲田と親交があったから、当然にグロピウスのことを聞いたであろう。山口文象がグロピウス事務所で働いたのは1931年から11か月ほどだが、ただし山口が渡欧したバウハウス校長をやめていた。

●ナチスとバウハウス
 こうやって1時間以上もぶっ続けで観せられると眠くなってしまう。最近はPCで短時間しか動画を続けて見ないからだろう。それがハッと目を覚まさせられたのは、バウハウスとナチスの話になった時だった。

 例の有名なフォトコラージュも出てきて、ナチスがバウハウスを弾圧した話になった。バウハウスはナチスに強制的に閉鎖されたのではなく、実はミースが路線をナチスと対立しないように左翼系たちを放校し、閉鎖も自発的に行い、それなりの補償も受けたという。ハンネス・マイヤーの後を引き受けたミースは、なかなかの政治家でもあったようだ。

 そして、バウハウスの学生たちにもナチス親衛隊がいたとか、のちに強制収容所の設計をした者がいたとか、一時はグロピウスさえもナチ宣伝出版物にかかわっていたとか、初めて聞く話になりすっかり目が覚めた。
 ただし、その話題はあまり長くはなかったし、どうもまだ明確にし難いこともあるらしい口ぶりが、語る研究者から聞こえた。さすがにナチに対して厳しいドイツの映画であると思ったが、映画はそのあたりで終わった。バウハウスの戦争責任についてはどうなのだろうか。

●日本の建築家と戦争責任
 となると自然に日本の場合はどうなのだと思う。晩年の山口文象が建築家の戦争協力に厳しい言葉を述べていたのを思いだした。
 有名な話は建築家・内田祥三の戦争協力についての糾弾である。今の話題の国立競技場で1943年に、学徒出陣を送り出した時の東京帝国大学総長であったからである。山口は何度か講演会でしゃべっていた。

 山口文象は戦争加担は一切しなかったと語っているが、細かく見ればそうとも言い切れない。山口文象自身の戦争責任をどう考えるか。
 戦争関連の仕事でなくては建築家は食えなかった戦時中、山口の仕事も全国各地の軍需工場の工員宿舎の設計がほとんどであった。山口に言わせると、工員の生活環境を良くするために設計をしたのであり、戦争協力ではないというのだ。
 だが弟子の小町和義さんが語るように、軍需工場の設計もわずかではあるがやっているし、工員宿舎だって軍需工場の一部だから、まったく戦争非協力というには無理があるだろう。

●ベルリンを出るグロピウスと山口文象
 これはバウハウスと直接関係ないが、関連して気になるので書いておく。
 ウィキペディアのグロピウスの記事に、「バウハウス閉鎖後、事務所にいた山口文象とともにドイツを脱出、自身は1934年イギリスに亡命する。」とある。
 だが、山口文象がベルリンを出て帰国したのは1932年であり、イギリスに立ち寄ってはいないことは、山口文象自身が書いた当時の日記手帳によって明確である。
 グロピウスがベルリンを出てイギリスに渡ったのは1934年であることは、山口の評伝を編むときに問い合わせに答えたイーゼ・グロピウス夫人の手紙にその記述がある。

 wikiのこの誤った記述の原因は、晩年になっての山口の話で、1932年にベルリンを出発して日本に帰国の旅に出るとき、ナチスの手を逃れて脱出するグロピウスとともにイギリスに渡ったと、佐々木宏さんに語ったのが公刊されているが、その山口の座談によってwiki執筆者が書いたのだろう。
 わたしはこれまでも著書やネットでこの齟齬矛盾を指摘しているが、もう山口文象よりも長生きしたから、生き残り末席弟子としてはっきり言っておこう、それは虚言であると。なぜそれを言ったのかわからないが、老残のなせる業と思いたい。

 山口文象は晩年には座談の記録をいくつも残しているが、佐々木宏さんも指摘しているように、間違いというよりも虚言としか思えない発言も諸所にある。
 今やわたしも老残の日々だからひとごとではない。バウハウスの話が妙なことに及んだものだ。

2018/10/11

1166【山口文象作品追跡:都橋】横浜大岡川にかかる関東大震災復興橋梁の「都橋」は山口文象デザインと判明

 横浜の建築家の笠井三義さんからメールをいただいた。
「都橋の当初の図面が横浜市の橋梁課で見つかりました。そのなかに設計者 岡村龍造 名がはいっており、製図 古川末雄とあり、創宇社の同人の中に古川さんも入っておりました」
 おお、山口文象作品新発見だ、うれしい。笠井さんは、横浜の復興橋梁や防火建築帯について研究をされていて、これまでいろいろと教えていただいている。
 
 山口文象は関東大震災後の内務省復興局橋梁課で、橋梁の設計に携わっていた。もちろん構造本体の設計ではなくて、高欄、親柱、照明器具などのデザインであるが、橋全体の透視図を描いているから、景観的検討に加わっていたかもしれない。
 隅田川の橋梁と御茶ノ水の聖橋は、山口の手になるスケッチパースがある。山口のサインがある橋梁図面は、「八重洲橋」だけを確認しているが、他には見つかっていなかった。
 
 横浜の「都橋」(1927年竣功)と「平岡橋」(帷子川、1926年竣功)の、当時の写真が山口の所蔵していた資料の中にあるから、何らかの関係しているだろうとは思っていた。
 ずっとまえに横浜市の都市発展資料館で、復興橋梁の資料はあるかと聞いたことがあるが、戦災で資料はなくなってしまったとて、確かめる方法がなかった。
山口文象が所蔵していた竣功当時の都橋の写真
その都橋の図面が見つかった、しかも山口のサインがあるというのである。喜んで見せていただきに笠井さんのオフィスに伺った。
 A2版コピー図で、「都橋竣功圖」とタイトルがある図面である。その中の5枚が高欄、燈柱、ランプ(照明器具)の図であり、「設計岡村」とある。
 例えばその一枚には、右下に「復興局橋梁課」「技師 成瀬」「照査 成瀬」「設計 岡村」「製図 古川末雄」「大正十五年九月十四日完了」と記入がある。
都橋竣工図のサイン欄
 

 横浜市内にある橋であるが、都橋は内務省復興局で施工した。「成瀬」とは復興局土木部橋梁課課長の成瀬勝武のこと。
 「岡村」とは当時の山口文象の姓である。図面によって岡村、岡村滝造あるいは岡村瀧造となっているが、本名が「岡村瀧蔵」であったから、このように記していたのだろうか?。それにしても自分のサインを同じときに滝と瀧の使い分けをするものだろうか。

 これまでにみた八重洲橋の設計図面のサインは「岡村」であるし、その頃に書いた建築図面が多くあるが、滝造あるいは瀧造なんて見たことがない。岡村ばかりである。
 このサインは、その下にある古川末雄が書いたものかもしれない。古川は山口文象たちと一緒に活動した「創宇社建築会」の創設メンバーのひとりである。
 でも古川が書いたとしても、なぜ戸籍名の瀧蔵じゃなくて滝造、瀧造なのか、ちょっといいかげんすぎるよなあ。
八重洲橋設計図の山口のサイン

 当時山口文象が住んでいた大井町の家は、創宇社建築会会員たちのたまり場であり、山口の橋梁設計を手伝って欄干や親柱、照明器具の図面書きをしていたと、創宇社建築会メンバーの竹村新太郎から聞いたことがある。
 竣工図の製図を古川がやり、もとの設計は山口文象だから岡村のサインであることはおかしくはないにしても、このサインの筆跡が古川と同じだから、古川が自分のサインついでに書いたのだろう。図面の筆跡も、もちろん山口のそれではない。
 いずれにしても、都橋が山口文象の設計であることが判明して嬉しい。

 山口が描いた原設計図が見つかるともっと嬉しいが、たぶんそれは戦争で焼けてしまったのだろう。
 橋梁管理のためには設計図がなくても、竣工図があれば十分だろう。この図面が見つかったのも、都橋を戦後に大修理した時の関連図面として出てきたのだそうである。
 今の都橋は戦前の姿ではないから、山口文象デザインは消えている。そのあたりの詳しいことは、笠井さんがよくご存じなので、いずれ発表されるのを期待している。
現在の都橋の親柱、高欄、照明は山口文象デザインではない

 わたしは長年やってきた山口文象追っかけをもうやめたとして、三年前に蒐集資料一切をRIAに寄贈してしまった。
 ところが昨年末に、「関口邸茶席」(1934年)の図面発見、そしてその茶席が今年4月から公開されるという連続する偶然が起きて、なにやらまた山口文象虫が騒ぎだしたのが、やっと治まったと思ったら、都橋の図面発見とてまた虫が起きてきた。面白い。

●関連
山口文象+初期RIAアーカイブス
https://bunzo-ria.blogspot.com/p/buzo-0.html
山口文象と橋梁
https://bunzo-ria.blogspot.com/p/bridge.html

2018/06/01

1336【山口文象作品遍歴:北鎌倉「宝庵」】ゆったりと流れる時の中で関口泰と山口文象が仕組んだ空間を味わう

初夏の午後、緑したたる北鎌倉・浄智寺谷戸の奥、山口文象設計の茶室「宝庵」を旧友たちと訪ねた。いずれも山口文象の謦咳に接した弟子たちであり、中には40年ぶり訪問の者もいる。
2018/005/31 宝庵露地
2017/12/13 宝庵露地
わたしは40年前、去年、今年に訪ねているから、これで4度目の訪問である。今回は贅沢にも、わたしたちだけで借りきりである。
山口文象事務所が描いた設計図を広げて、実物を見まわし、例えば炉の位置、あるいは天井竿縁の方向とか、図と現物の違いを発見し、それは当時の現場変更か、後世の修復時の改変か、それは誰のどんな意図か、などと謎解きを楽しむ。
 正方形ばかりで数寄屋を構成するとはさすが山口文象だ、などと作品論も交差する。写した高台寺遺芳庵のほかにも京都には遺芳庵があるが、どちらが本物だろうか、などと京都に話が飛ぶ。
 そして今日の締めとして、一同は茶室に座り、静かにゆったりとくつろぎながら、茶をたてて喫してきたのだった。

 常安軒の4畳茶室で、開け放った広縁の向こうに庭を眺めながら、仲間のお点前で茶を楽しむ。この茶室からの庭の眺めは、京都大徳寺孤篷庵・忘筌の写しである。
 上を軒から吊る障子で見切り、広縁の横長の額縁の中に、野趣に富んだ草花に蝶が舞い、林から鶯が鳴き、時には霧雨のお湿り、風景の明度と彩度がわずかに微妙に変化する。
 ゆったりと流れる時の中で、抹茶を喫する贅沢な時間、関口泰と山口文象が意図したこの空間を、身体で味わう豊かな午後だった。お世話いただいた島津さんたち宝庵メンバーに感謝。
2018/05/31 宝庵 常安軒4畳茶室から忘筌写しの庭の眺め
茶室前の広縁に座れば、左向うの梅の実のなる葉隠れに、大きな真ん丸真っ白障子の吉野窓の夢窓庵が見える。この茅葺草庵は丸ごと、京都高台寺・遺芳庵の忠実なる写し茶室である。ただし、左右反転の鏡写し。
 そのまん丸吉野窓障子を左右に一尺ばかり引き分けて、吉野太夫が美しいかんばせをチラとのぞかせる風景を夢想する。
茶室広縁から遺芳庵鏡写しの夢想庵の吉野窓を眺める



鎌倉の谷戸に居ながらにして、京都の忘筌と遺芳庵をひとつところで楽しもうと、なんとも粋な写し茶室を企画した数寄者オーナーは、朝日新聞論説委員だった関口泰氏、それに応えたのがモダニスト建築家山口文象であった。
 二人はこの構想を1931年にベルリンで語り合った。その頃のベルリンでは近代建築の潮流が大きく渦巻いていた。そこで日本伝統茶室建築を企画する。

 そして、関口亡き後いっときは荒れていたこの茶室を取得し、復元修復して昨年まで保ち伝えた後継オーナーは、鎌倉の名建築家榛澤敏郎氏でああった。
 そして今のオーナーは、この谷戸の地主である名刹浄智寺(金宝山浄智禅寺)に移り、今春から公開されて、茶会の場はもちろんのこと、各種の市民文化活動の場になった。
 山口文象の戦前作品で、いまも当初の形態を保ち、かつ当初の機能のままに生きる建築は、これのほかには黒部川と箱根湯本の発電所がある。

詳しくは下記を参照
・「宝庵由来記https://bunzo-ria.blogspot.com/p/houan1.html
・「宝庵 北鎌倉」https://www.houan1934.com/

2018/03/26

1326・2018年4月に開く茶席「北鎌倉 宝庵」は山口文象作品では「黒部川第2発電所」と並ぶ幸せ建築だ


初代オーナー関口泰氏自筆の夢窓庵の図(色紙)
●春の谷戸に茶席「宝庵」を開く

 北鎌倉の浄智寺谷戸の奥に、「宝庵」(ほうあん)と名付けた茶席が、このたび公開された。1934年に山口文象設計で建った茶室建築2棟、一般公開して茶会等の催しに貸し出すことになった。
 2018年4月1日からの正式オープンに先駆けて、3月25日プレオープンに招かれて行ってきた。
 昨年12月に40年ぶりに訪れた時は、紅葉が美しかったが、今は若葉が芽吹き時、椿の花が美しいから、「椿茶会」と名付けてのプレオープンイベント、天候も絶好の春日和、もてなしが行き届き、招いてくださった島津克代子さんに感謝。

2018年3月の宝庵
2017年12月の宝庵

 常安軒の四畳茶室で、久しぶりに抹茶の席に連なった。ところが、謡の稽古経験20数年だったから、普通にできていたはずの正座をしようとしたら無理無理、謡いを止して長いからなあ、しょうがないから椅子を使ったのであった。なさけない。
 この四畳間は、初代オーナーの関口泰氏が、書斎として使っていたようだ。広椽に出ると左向うに、梅の古木を透かせて吉野窓の夢窓庵を見る。
 あの丸窓から吉野太夫のような、美しい女性が顔を出すことを妄想したのは、その日のわたしではなくて、昔日の関口氏だった。この日は、多くの美しい女性がいたから、待っていれば関口氏に代って、その願望をかなえたかもしれない。
夢窓庵

●山口文象ファンという乙女に出会い喜ぶ

 午後には常安軒の8畳間で、煎茶のお点前を鑑賞し、味わったのであった。こちらは立礼だから脚の問題はないのがありがたい。
 煎茶の席は初めてだったが、このような茶道の流儀もあるのだと、歳のゆえに遠慮がないから、興味津々の質問を宗匠にしたのであった。同席の女性客たちに哂われた。
 それにしても、客も裏方も女性ばかり、男はわたしの連れが3人、他にチラホラ見えたが、圧倒的に和装アマゾネス軍団であった。茶会とは今やそういうものなのか。
 たしかに、歌舞伎も能楽文楽も見物やお稽古には、圧倒的に女性が多いから、日本伝統芸能文化は女性によって支えられていると言って過言ではない。

 その和装アマゾネスのひとりに、山口文象ファンがいたのには驚いた。デザイン系の学生という可愛い乙女は、久が原の山口邸を訪れる機会があって、それを契機に文象ファンになったという。
 建築家山口文象そのものが忘れられるときに、これはまた通の好みだねえ、良い趣味だねえと、一緒にいた山口文象高弟の小町和義さんと共に、老爺ふたりは嬉しくなり、大いに褒め讃えたのであった。ゴホウビにわたしが作った冊子「宝庵由来記」(まちもり叢書別冊)を差し上げた。

●実はこの茶室建築にも変転があった

 昨年暮に来たときと比べて、季節の変化は当然だが、庭師が入って谷戸がずいぶんさっぱりしていた。斜面に繁っていた蔦や潅木類が切り払われて、切り岸とよばれる岩壁も現われたら、俄然、鎌倉谷戸風情になった。
 関口氏のときの作庭らしい崖途中の横井戸、そこからの滝、そして庭に引き込む小川などの跡が現れた。でも、滝も小川も一日で枯れてしまったとの話だそうだ。

 庭師の松中さんからいろいろと聞いた話が面白い。松中さんは、2代目オーナーだった榛沢さんと少年時から親しく、この茶席の話をいろいろと聴いている。
 初代関口氏による配置は全体に東よりだったが、関口氏亡き後、今の別棟を関口夫人が建て、また敷地の南東の一部を他に分割のため、常安軒だけを西寄りの現在位置に移築したとのこと。
 1970年頃に2代目オーナーになった榛沢さんは、常安軒の南西の今の位置に夢窓庵を移築し、どちらも解体修理して、復元修復を1972年頃に完成したしたとのこと。
 つまり、二つは対の関係にあるのに、アサッテに向いた状態がしばらく続いたらしい。それを関口氏が常安軒から眺めたように夢窓庵を移して、配置関係を復元したとのことで、これには驚いた。
これは当初の2棟の配置(位置は変わっても配置は今も保たれている)
この茶席建築は当初のままにここに建っているとばかり思っていたが、この谷戸小宇宙の中で移動して、かなりの変転の運命を辿っていたのであった。
 だが、わたしが1976年に当初設計者の山口文象さんについてここに来たときに、彼はそのことにまったく気が付かなかったらしいのは、その訪問時に言わなかったし、後に雑誌に喋っている記事からもわかる。
 それは一方では、榛沢さんの渾身の復元手腕のものすごさを物語るものである。
 例えば、解体移築修理となれば、当初材料は傷んだものも多いから、あちこち似たような材を探して入れ替えるのが当たりまえ。
 山口が見つけた時の苦労話をしている四畳茶室の赤松の床柱は、榛沢さんの時には傷んでいて使えなかったので、実は同じようなものを苦労して見つけてきて替えたものだそうである。
 そうやって、山口作品は今に伝わっているのであった。
常安軒四畳茶室の赤松床柱

●山口文象作品では黒部と並ぶ幸せ建築だ

 プレオープンイベントで大勢の人たちが茶室に出入りする風景を観ていて、ここの建物のスケールが、実はかなり小さいことに気が付いた。
 人がいないときには、普通の大きさに見ていたのだが、人がいると普通の建物よりも軒が低く屋根もずいぶん低く見える。実際に建物の脇を歩くと、分っていながらも軒先やら雨どいやらに頭をしょっちゅうぶつける。
 別棟も入れて3棟とも、全体プロポーションとしては普通の大きさに見えるのだが、実際はかなり小さな建築であることを知った。大きいと思ってみていた夢窓庵の茅葺屋根も、実はプロポーションから見て大きいのであり、現物としては小さなものだ。
 わたしは常安軒四畳茶室に椽から入ったのだが、入る時はよかったが、出るときに吊り障子に頭をぶつける無作法をやってしまった。 

左:常安軒    右:夢窓庵
それにしても、これは幸せな茶室建築である。
 1932年にベルリンで関口泰氏がこの茶室づくり構想を山口文象氏に語り、1934年に完成してから84年、初代オーナー関口さんと2代オーナー榛沢さんに愛され、大切に維持され使われてきた。
 それが、このたび3代目のオーナーとなった浄智寺の朝比奈恵温さんもこれを愛し、日本の伝統文化の活動の場として、鎌倉古民家バンクの島津克代子さんの運営で一般に公開して活用される。
 山口文象の戦前木造作品で現在も当初の姿の建築は林芙美子邸があるが、今はその小説家の記念館となっている。もちろんそれは意義のあることだが、本来の使い方ではない。
 それに比べてこちらは、こちらは茶室本来の使い方が続くのだから、山口文象建築作品の中では、いちばんの幸せ建築と言えるだろう。木造ではないが当初の姿で本来用途が今も続く建築には、黒部川第2発電所もある。

参照関連ページ
宝庵由来記 https://bunzo-ria.blogspot.com/p/houan1.html
山口文象アーカイブス https://bunzo-ria.blogspot.com/p/buzo-0.html

2018/01/01

1313【更に・山口文象設計茶席常安軒】北鎌倉浄智寺谷戸に関口邸茶席を創った人守ってきた人未来に伝える人

北鎌倉浄智寺谷戸関口茶席由来記 その6
伊達 美徳

北鎌倉浄智寺谷戸の旧関口邸茶席が公開されるとて、
その80余年の由来を建築家山口文象を軸に記すことにした(6回連載)
その5】のつづき

●関口邸茶席を創った関口泰

 この茶席をつくった関口泰(せきぐち たい 1889~1956)は、朝日新聞論説委員だったジャーナリストであり、評論家として政治や教育論の著作を多く世に問い、加えて旅と山歩きを趣味として随筆や短歌俳句もよくした。
 著作の公刊書も36冊と多く、『民衆の立場より見たる憲法論(1921年)から始まり、『軍備なき誇り(1955年)が最後であった。没後に関口を惜しむ人々や近親者が編集刊行した『関口泰文集(1958年)と『関口泰遺歌文集 空のなごり(1960年)に、主な著作が収録されてその足跡がよく分る。
 この浄智寺谷戸を愛した関口は、『金寶山浄智禅寺(1941年)なる深い歴史考証の著作を出版した。その「後書」に、関口が浄智寺谷戸に居を構えた1930年頃の風景や人物の状況を細かに記している。それらを瞥見して関口のことを記す。 
浄智寺の庭の関口泰 引用元:『空のなごり』1960年

2017/12/29

1312【又々・山口文象設計茶席常安軒】鎌倉に居ながら京都の大徳寺忘筌の庭に高台寺遺芳庵吉野窓を眺めようと欲張り技の茶室写し

北鎌倉浄智寺谷戸関口茶席由来記 その5
伊達 美徳

北鎌倉浄智寺谷戸の旧関口邸茶席が公開されるとて、その80余年の由来を建築家山口文象を軸に記すことにした(6回連載)


その4】のつづき
さて、ようやく関口邸茶席の本館とも言うべき
数寄屋会席について述べる。

どこか別のところで見たことあるような


 
●関口邸茶席の数寄屋会席今と昔

 浄智寺谷戸の道から草屋根の門をくぐり路地を歩めば、最初に出会うのがこの数寄屋建築の会席である。吉野窓茶席はその裏に隠れて、やがてやってくる客を待ち受ける。

 吉野窓茶室が小面積なのに大きな髙い屋根を載せて、ボリュームを大きく見せているの対して、数寄屋会席の方はその大面積をできるだけ小さく低く見せようとしている。屋根を小瓦一文字葺きと杮(こけら)葺き(いまは金属板葺き)の奴(やっこ)葺きで薄く軽く見せる。
左に数寄屋会席、右に吉野窓茶室

2017/12/25

1311 【又・山口文象設計茶席常安軒】北鎌倉には三角茅葺屋根とまんまる吉野窓が浄智寺谷戸にも明月院谷戸にも古雅な姿を見せる

北鎌倉浄智寺谷戸関口茶席由来記 その4
伊達 美徳

北鎌倉浄智寺谷戸の旧関口邸茶席が公開されるとて、その80余年の由来を建築家山口文象を軸に記すことにした(6回連載)

【その3】のつづき

●大工棟梁山下元靖の回顧譚

 この茶席常安軒の工事をしたのは、大工棟梁の山下元靖であり、『工匠談(1969年 相模書房刊)という本を出して、自分のいろいろの仕事を語っているが、その中でこの茶席の想い出も35年も前のこととして語っている。
 この本には、山口文象による「山下さん」という序文があり、関口から設計を依頼され、山下と「毎日浄智寺の現場で……けんかをしながら楽しんで仕事に没頭した」と記している。どちらも30歳そこそこの若者だった。


 山下はその本の「北鎌倉の関口邸の茶室」という章で、数寄屋会席については何も述べず、吉野窓茶室と離れの工事についての自慢話をしているのが興味深い。
 その吉野窓茶室について、草ぶき屋根の小屋組み仕口の仕事を茅葺屋根専門の職人から褒められたこと、吉野窓を貴人口にも使うように工夫したこと、土庇柱の沓石に寺院の向拜の沓石を転用したように古びて見せる工夫をして関口を感心させたことなど、職人肌が面白い。
窓は吉野窓にし、直径を京間の六尺の大丸窓にしました。
それは貴人口にも使用する関係で、丸窓の下部を半紙幅の半幅、
つまり下から約四寸の高さのところを図のように水平に切り、
掃き出しも兼用できるようにしました
」(『工匠談』)

2017/12/21

1310【続々・山口文象設計茶席常安軒】ベルリンでの関口と山口の話で始まった浄智寺谷戸への京都高台寺遺芳庵の写し茶室「吉野窓由来」

北鎌倉浄智寺谷戸関口茶席由来記 その3
伊達 美徳
北鎌倉浄智寺谷戸の旧関口邸茶席が公開されるとて、その80余年の由来を建築家山口文象を軸に記すことにした(6回連載)

【その2】のつづき 

●京都高台寺遺芳庵の鏡写しの茶室

 この茶席をつくるにあたっては、関口泰があの茅葺の茶室をつくりたいことからはじまったらしい。京都で見たある茶室の姿に惚れて、浄智寺谷戸の持ってきたい、そして山口文象も関口よりも前にそれを見て、素晴らしいデザインだと知っていたというのだ。
 だから、この茶室は既存の茶室のコピーである。ただし、コピーするときに左右逆転の設計をしている。
 なお、昔から茶室の建物は、「写し」といってコピーをつくることが普通に行われていたから、特に不思議でもない。

 さてそのコピーされたほうの京都の茶室は、高台寺ある「遺芳庵」である。
 この茶室については、なんだか俗受けする由来があるようだが、ここではそれはおいといて、関口茶席としての由来を書いておく。
 だがわたしは茶室建築には暗いから、興味だけで書くから間違っているかもしれない。

 まずは本家(本歌か)の京都高台寺の遺芳庵と、こちらの鎌倉の浄智寺谷戸の茶室の写真である。左は1922年頃の山口文象撮影の遺芳庵、右は2017年にわたしが撮った旧関口邸の吉野窓茶室である。なんだか屋根のプロポーションが違うようだ。


 平面は左右(下図では上下)をひっくり返したから、茶道のお手前から言うと本家の遺芳庵は逆勝手(左勝手)だったのが、こちらでは本勝手(右勝手)になっている。

では、もしもそのままコピーして建てたらどんな姿であるか、遊びでやってみよう。左が現物の遺芳庵、右が左右逆転した旧関口邸の吉野窓茶室、当然ながらそっくりである。

山口の談には「敷地の条件に合わせて(『住宅建築』1977年8月号)左右反転したという。茶道に暗いわたしにはそれがなぜなのか分らないが、茶庭の構成上でそうなったのだろうか。茶道に通じていた関口あるいは夫人が本勝手を望んだのかもしれない。
 その山口の談には、「丸窓の位置がなかなか決まらないので、会席のほうもずっと後れまして」ともあるから、茅葺茶室の位置決めが最初であり、ここでは茶室を要としてその他の配置を決めたのだろう。実はこの時は、母屋の南に渡り廊下で結ぶ「離れ」も建てたが、それは今はない。
 
●関口泰の遺芳庵への想い

 関口泰の著作のひとつに『吉野窓由来(1940年)があり、「遺芳庵」と同じものを建てた由来を書いている。吉野窓とは遺芳庵の丸窓で、これを好んだ吉野太という女性に因むという。
 関口は浄智寺谷戸に居を構えてから、日夜まわりを眺めているうちに、この谷戸の風景の中に塔を欲しくなった。
夏に家が建ち上っての秋である。道を隔てて刈り残した薄原には、赤穂を吹いた尾花がなびき、上の段へ上る所に檜の小さな森がある辺が、一つの絵をなしてゐる。どうしてもあの辺に塔がほしい所だ。室生寺の五重塔をもって来ようと空想した程、室生寺の塔は小さく愛すべきものだ

 だが費用的に無理と分って、次に思いついたのが遺芳庵だった。
義弟の旭谷左右に案内されて京都の茶席を見物してまはってゐる時に、高台寺の中の佐野画伯の家にある「遺芳」の席を見て、これはいいと思った。無論茶道の方からではなくて、私の庭における絵画的効果からの話であるが、二坪か三坪の小さい家に比較してトテッもなく大きい三角形の屋根と、伽藍石を踏まへた大きな丸窓は、それだけで絵だ

 そしてこれを建てたいと山口文象に言う。
分離派の新建築家ではあるが、早く茶室建築に目をつけて、ベルリンで修業してゐる間に私と茶室建築の約束をした山口君であるから、変に型にはまった茶の宗匠や、高い金をとりつけた茶室建築家と相談するよりは、余程話がつきやすいわけである

 なんとベルリンで山口と話したのだそうが、山口文象がベルリンのグロピウスの下に居たのは1931年春~32年の6月、関口が朝日新聞のベルリン特派員だったのは1932年4月~11月である。
 山口の滞欧時に記入していた手帳があるので見ると、1932年2月14日と3月3日に関口の名がある。関口の滞在時期より少し前だが、手紙とか電話連絡のメモだろうか。

●山口文象の遺芳庵への出会い

 そうやって関口は山口をつかって浄智寺谷戸に、丸い吉野窓の茶室を設ける相談をしたのだ。
 関口の文中に、山口が「早くに茶室建築に目をつけて」いたとあるが、逓信省の製図工であった頃に、大阪市内の局舎工事現場監理の仕事で1921年から22年にかけて大阪に住んだのだが、休日には京都、奈良、堺などの茶室建築を訪ねたことを指している。

 山口はこの時に写真を撮り実測もしたが、その多数の写真プリントがRIAにある。その中には高台寺の遺芳庵もある。だから関口に遺芳庵を持ってきたいと言われたときに、既にそれを知っていた。
 「これがすばらしいデザインなんです。屋根のヴォリュームの大きさ、それら全体のプロポーションが実にすばらしい、その話を関口先生にしたら「じゃあ見に行こう」というわけで見に行きました。そこで決まったわけです(『住宅建築』1977年8月号)

 そのような二人が好きになった遺芳庵だが、その頃それはどうであったかというと、関口が書いている。
 「それに何よりも、一畳大目の茶室と二畳の水屋は、建築費からいっても、宝生寺の五重塔の如く空想に終らずに実現の可能性をもつし、長く茶室につかはれずに暴風雨に壊されたまま蜘蛛の巣だらけの物置のやうに、庭の隅に抛り放しになってゐる此の可憐なる茶席は、柱や床板の一つひとつに高価な正札のつけてあるやうな富豪の茶室とは事変り、私に消極的自信をつけてくれるに十分なものがあったからだ(『吉野窓由来』)
 山口が撮った写真は、「蜘蛛の巣だらけの物置」状態だったのだろう。
山口文象の茶室写真帳とその中の高台寺遺芳庵と傘亭

 それにしても、ナチスの暗雲漂う1932年のベルリンで、吉野太夫の遺芳庵の話とは、粋な二人である。
 その年に山口文象は帰国したが、翌年にブルノ・タウトがナチスを逃れてアメリカ亡命を目指して日本にやってくるし、翌々年には師匠のグロピウスがイギリスに逃れてアメリカに亡命する。
 そのブルノ・タウトは山口文象と何度か出会っていて、この関口邸茶席を褒めているのである。

 1934年6月に山口文象はその建築作品個展を銀座資生堂ギャラリーで開いたが、観に来たタウトが6月15日の日記に書いている。
建築家山口蚊象氏の作品展覧会を観る(同氏はドイツでグロピウスの許にいたことがある)。作品のうちでは茶室がいちばんすぐれている、――山口氏はここでまさに純粋の日本人に復ったと言ってよい。その他のものは機能を強調しているにも拘らずいかにも硬い、まるでコルセットをはめている印象だ。とにかくコルビユジエ模倣は、日本では到底永続きするものでない(『日本ータウト日記 1935-1936』篠原英雄訳 岩波書店刊)

 タウトが書く「茶室」とは、関口邸茶席のことである。ほかにも出世作の日本歯科医学専門学校など8件のモダンデザイン建築を展示したのに、タウトがほめたのはこれだけであった。
 タウトの評価をどうとるか難しいが、桂離宮を称賛し日光東照宮を貶した鑑識眼でみた関口邸茶席であった。彼が日本で褒めたモダンデザイン建築は、東京駅前にある中央郵便局舎(吉田鉄郎設計)だけだったようだ。
 つづく

・たからの庭