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2025/08/17

1905【少年の日の戦争】80年前の少年の記憶の戦争は小さな城下町盆地の鎮守の森に

中国侵略日本軍の父(1939年保定にて)
  今年2025年の夏は、1945年8月15日に当時の裕仁天皇が、太平洋戦争に負けたことを、ラジオ放送を使って、国民に直接知らせた日から、ちょうど80年ということらしい。それをなんだか特別に雰囲気が世の中,特にジャーナリズムにある。80年だろうが79年だろうが変わりはないだろうが、なぜか。たぶんそうやって戦争を忘れないようにする仕掛けであろう。それは故人をしのぶ法事のようなものだろうか。

 でもまあ、わたしも88歳という覚えやすい年齢だから、せっかくの敗戦80年に協賛して、幼年時少年時に出くわした戦争の、いかにもそれらしい出来事を、記憶から引っ張り出すことにした。実はこれまでもばらばらにこのブロブに書いている(参照:まちもり通信「戦争の記憶」)のだが、 まだボケないうちに、ここでまとめて書いておくことにする。

 たまたま、今年いっぱいかけて月間として私的発行している歌集に挟み込む栞に、少年時を過ごした生まれ故郷故郷高梁盆地での戦争の記憶を書いたので、それに少し手を加えたものをここに載せる。

故郷高梁盆地の戦争の記憶   伊達 美徳

 この文を藤本孝子第五歌集「碧空へぽかりぽかりとんでゆけ」の8月版栞原稿として書いている日は2025年8月14日です。80年前の明日15日は、日本が太平洋戦争に負けたことを、当時の天皇がラジオ放送で国民に伝えた日です。この日を日本では敗戦記念日としています。夏八月は今でも戦争を思い出します。

 わたしは日本の十五年戦争(1931~45)の真っただ中の1937年に生れ、敗戦の時は国民学校初等科3年生でした。高梁盆地は空襲という直接的な被害はありませんでした、住民の生活には深い被害がありました。わたしには戦後の貧窮で空腹の日々こそが最大の戦争被害でした。8歳の夏に敗戦の日を迎えたわたしの戦争の記憶を書きます。

●80年前の8月15日のこと

 1945年8月15日は、いかにも夏らしい晴天でした。わたしの生家は御前神社です。その社務所の大広間座敷には、その1か月半前から芦屋市の精道国民学校初等科六年生女児20人と職員1名が、集団学童疎開でやってきて滞在していました。盆地内のほかの寺社などに児童51名が戦争避難しており、その子どもには戦場でした。

 そのころはラジオのある家は限られていましたが、その疎開学級にはありました。その社務所の玄関口に近所の人々十数人が集まってラジオを囲んでいます。その横でわたしは大人たちを見ていました。ラジオからヒロヒトさんの分かりにくい言葉と雑音がながれていました。それが敗戦の詔勅放送でした。もちろん8歳のわたしには内容を分りません。その場の情景の記憶のみです。

 放送を聴き終わると誰もみな声もなく散会して、誰もみな黙りこくって一列になって、参道の長い石段をトボトボと下って行くのを、わたしは社務所縁側から見送っていました。緑濃い社叢林の上空あくまで晴れわたり、森の中はいつものように蝉の声に満ちていました。

沈黙の湖になりたる盆の地よ昭和二十年八月真昼 

           (2014年藤本孝子第二歌集あとがき掲載の拙詠) 

 それから数日の後に疎開児童たちは芦屋に戻ってゆきました。ところが芦屋はその数日前に空襲を受けており、中には親を亡くした子もいたのでした。あの女の子たちはその後どのような人生だったのでしょうか。
 その半月後、父が参道の石段を登ってきて、3度目の戦争からの帰還をしました。

●父を戦場に送り出して号泣する母

 わたしの父は、日本の十五年戦争中に三度も招集され、最初と2回目は中国へ赴き、3回目は国内に居ました。延べ7年半も兵員として過ごしたのでした。その三度目の太平洋戦争への招集礼状は1943年12月に来ました。これについて強烈な記憶があります。

 戦争に出かける父の出発を、備中高梁駅で母と共に見送りました。家に帰りついて玄関を上がり、畳の間に入ったとたん、母は前に倒れ、両手で顔を覆って畳に押し付け、号泣し始めました。その慟哭の大声はやむことなくつづきます。目の前で大人に泣かれる5歳の幼児のわたしは、そばに座りこんでおろおろ、号泣に合せて母の背にある帯の結び目が大きく上下するのを、ただただ見つめているばかりでした。

 やがて誰かがやってきたらしく勝手口の方から案内を乞う声が聞こえました。母は急に泣き止み、今泣いていたことを誰にも言ってはいけないと、わたしに厳しく言いつけて立ちあがりました。その時に母の胎内には半年後に生まれる第三子がいましたから、その慟哭は当然でしたが、世間で表向きには、戦場への出征を嘆くのは非国民でした。

 父は南方戦線に送られるのを姫路城内にあった兵営で、しばらく待機していました。何回か母と共にそこに面会に行った記憶があり、幼児には楽しい遠足でした。だが、負け続ける日本軍は制海権を失い、輸送船もなくなり南方行きは取りやめになりました。母とわたしたちには幸運でした。

 1945年春に父の隊は小田原に移駐しました。湘南海岸に上陸するであろう連合軍を迎え撃つべく、本土決戦準備をしていました。小田原はその敗戦記念日となった日に、アメリカ軍の空襲を受けたのですが、父は仰撃陣地づくりの山中に居て無事でした。敗戦の月末に帰宅したときは、家族が一人増えていました。

 こうして幸いにも母の嘆きはむなしいものとなり、戦争が終わると同時に夫を無事に取り戻すことができました。しかし母の実弟は、その年の5月にフィリピン・ルソン島山中のジャングルで戦死し、その若妻と乳児が母の実家に残されたのでした。思えば敗戦時に、父母はともに35歳でしたが、3度の戦争兵役を経て夫婦ともに健在は、奇跡的だったかもしれません。

●国民学校初等科の戦中戦後 

 戦争教育については、国民学校初等科の低学年ですから、あまりそれらしい記憶はありません。修身の時間に校長先生が教室にやってきて、神話の話をしたような気がします。広くもない校庭でグライダーを見た記憶があります。

 本館に天皇の写真があるという奉安殿があり、前を通るときに「奉安殿に礼!」の号令で一礼しました。ある時、悪ガキ上級生が「オオアンゴウに礼!」と怒鳴って逃げて行きました。岡山方言で大馬鹿者の意味です。

 校庭で毎日の朝礼の時に、壇の上に立った先生か上級生かが、モールス信号の機械でなにか文を打ち、分かった生徒は手をあげて答えます。今のクイズのようで面白く「イトー」「ロジョーホコー」と信号を覚えたものです。こうして「銃後の少国民」が育っていました。

 戦争が終わると、月に1回ぐらいの割合で、学級に編入生がやってきました。ほとんどが引き揚げ者、つまり中国や朝鮮半島からの帰国者のこどもです。はじめは転校生に違和感をもっていても、子どもはすぐに仲良くなりました。田舎の子には刺激になりました。隣町の小学校に、満州の奉天(現在は審陽)からの引き揚げ少女が編入しました。ずっと後にわたしの連れ合いとなる人です。

 敗戦の年は教科書が問題でした。教育方針が180度転換して内容を変える必要があるけれど、紙がないし印刷も間に合わない。学校からの指示にしたがって、それまで使っていた教科書のあちこちの文章を、母と一緒に筆で墨塗りしました。教科書は大切にして汚さないようにといわれ、使い終われば知り合いに譲っていたものでした。それをこんなことしてもよいのか、と思ったものです。

  でもそれは、なんだか面白い作業でもあり、あちこち消すために終わりのペー ジまで読むことになり、ちょっと勉強した気になりました。消すところは国語に多くて、どういうわけか理科にもあったような気がします。なぜここを消すのか不思議に思ったところもありましたが、母がそういったのかもしれません。

 次の年、印刷した新しい教科書がきましたが、それは製本してありませんでした。8ページ分が1枚になったままの数枚でしたので、それらを切りはなしてページ順にそろえて、自分流の表紙をつけて1冊の書物に作り上げました。自分が教科書を作ったような気になりましたが、それは今のわたしの「本づくり趣味」のルーツかもしれません。

 大人たちは価値観の大転換に直面してとまどい右往左往でした。小学校の教育のやりかたも変わり、教室の席の並び方が何度も変わった記憶があります。黒板に向いて先生の話を聞く授業から、みんなで話し合って考える方式になったらしいのです。でも、教師もよく分かっていないらしく、グループに分けたり、丸くならべたり、四角にしたりと、あれは実験していたのでしょうか。

 時には、教師が授業中に黒板に書きながら、「こんなやりかたをしてはいけないんだけど、」と、弁解していた記憶があります。それは戦時中の教育方法で、これからはやってはいけないと教育委員会あたりからでも言われていたのでしょう。どこがいけないのか子どもには分かりませんが、教師が学童に弁解するのもおかしなものだと思いました。大人たちは狼狽していました。

●新制中学校へ

 そんな中から、戦後民主主義教育は着々と進んできました。戦後の教育改革でわたしが出会って当惑したのは、1947年に新制度になって新しい中学校が誕生したことです。盆地内には旧制の中学校がありましたが、これを新制の高等学校としたので、新制中学校は盆地内の別の場所に建てられました。

 ところがその新制中学校の急造校舎は狭くて、生徒が入り切らないのでした。そこで二年生からそこに入ることにして、進入の一年生は盆地内の南端にあった南小学校の空き教室に仮住まいしました。わたしたち小学校を卒業してまた別の小学校へ通うのでした。

 わたしの家は盆地の北の方でしたから、通学路は盆地を北から南まで縦断する遠距離でした。2年生から急造校舎の本校へ通うようになりましたが、校庭は狭く、校舎は粗末、鉄道騒音や工場悪臭など、酷い環境でした。だからでしょうが卒業数年後に他に移転しました。

 でも、ここでよかったと思うことは、新制中学校には戦後の新しい高等教育を受けた教師が赴任してきて、素晴らしい教育に出会ったことでした。わたしは戦後民主主義教育の最前線を歩んで来て、「民主主義スクスク世代」と自負しています。教育は敗戦がもたらした良いことでした。

●空腹の日々 

 敗戦は飢餓をもたらしました。幼い少年にとってはここから戦禍が始まりました。盆地内の別のところに、神社経営を支えていた広い小作の水田がありましたが、農地改革でなくなりました。長期割賦支払いの補償金は、戦後の超インフレにより紙屑同然になりました。

 神社の小作米収入が消えて、父母は食糧の調達に苦労をしていたようです。5人家族が食べていくのは大変なことだったでしょう。神社の広い境内広場は、戦中は武道鍛錬の野外弓道場でしたが、戦後は芋畑に転じました。子どもにはただただ空腹の記憶ばかりです。

 なによりも、戦争推進の末端組織の一つでもあった神社への信仰が、敗戦で地に落ちてしまいました。父の神社神主という職業自体がなりたたなくなり収入の道が絶えたようです。 教科書も給食も有料でしたから、学校への支払いについての親の態度で、わが家の経済状態が児童のわたしにもよく分かりました。数年後に父が高等学校に事務職を得るまでは、家計は大変だったようです。

 大人たちは、どこでもいつでも食糧調達の話ばかりしていました。それが大人の通常の会話なのだとわたしは思っていたのですが、あるとき伯父が誰かとの会話で、こんな食い物の話ばかりして世の中困ったものだ、というのを聞いて、これは大人にも異常な状況なのだと気がついたことがあります。

 小学校で給食が始まりました。脱脂粉乳を湯に溶いたミルクと、マイロ粉という輸入トウモロコシ粉の黄色コッペパンがメインで、たまに干した果物がついたりしました。当時でも美味だったとは言えませんが、空腹のこどもには嬉しかったものです。多分、一番嬉しかったのは、一食分を食べさせなくてもよくなった親たちでしょう。

 まともな主食はなくて、朝早く行列して買った水ぶくれこんにゃく、麦のほうがはるかに多いお粥、野菜たくさんの雑炊、薄いうどん粉団子のすいとん(団子汁といいました)、蒸したさつま芋(これはご馳走)などが主役でした。もちろん、これらが同時に食卓に並ぶことはなく、一人あたりの量もすくなく空腹でした。あの頃の親たちは、自分の分を減らし、時には食べないで、こどもに食べさせていたはずです。思い出したくない食い物の恨みです。

●神社に今ものこる戦争の傷

戦争に行った釣り鐘の帰還を待ち続ける御前神社鐘撞堂
 生家のあった御前神社は、今も境内の山林も広場も変わりなく存在しています。戦前からの社殿建築の本殿、拝殿、御輿蔵、鐘撞堂もそのままに建っています。変わったのは老朽化した社務所が建て替えられたことと、宮司の社宅(わたしの生家)が消滅したことです。

 実は神社建築にはいまだに癒えない戦争の傷跡があります。それは17世紀から鐘撞堂に釣られていた時の鐘(1651年設置)が、鋳潰されて兵器となるために1940年に金属供出され、いまだに不在のままであることです。鐘のない鐘撞堂は鐘の帰還を待ちくたびれて、今や立ち腐れしようとしています。

 この鐘は城下に時刻を知らせる「時の鐘」の役目で、当時の藩主により設置されました。藩政期には鐘守役の人たちの住む長屋が近くにあり、毎朝夕の定時につきました。維新以後は神社に帰属して宮司が守役となり、父も撞いていました。父が不在の時は母が撞いていました。高い楼閣に上る急な階段は、結構怖いものでした。

●またもや戦争の気配

 今、世界各地で国家間や国家内部で紛争や戦争が起きて、止みそうもありません。欧米諸国でも日本でも、あの戦争を忘れた言説を唱える極右政党が台頭しつつあります。理解できない奇妙な言動をする大国リーダーたちもいて、力を振り回しています。
 なんだか世界戦争の再来の気配です。戦後90年、戦後100年には、第三次世界大戦になっているに違いない雰囲気です。しかしそうなるにしても、その時にはわたしは存在していないので、安心です。その前に「絶対究極安全圏」へ、早急の避難しておきたましょう。もう88年も生きたので人間生活は十分に体験しました。

(2025年8月14日記、補綴2025/0817)

このブログの関連ページ
戦争の記憶
父の十五年戦争

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2025/08/11

1903【都市漂流人生】人生19番目、最後から2番目の住み家へ、わが都市流浪はついに漂着するか

 わたしは八十八回目の夏を迎えており、それなりに元気で過ごしている。

    願わくは熱に中りて夏死なむ文月葉月の真昼真中

と、西行法師をもじって、今年も夏の狂歌を詠むのだ。それにしても暑い日々だ。

●人生19番目にして最後から2番目の住まいへ

 国際紛争の多発そして内外ともに極右台頭の世界情勢で、どうやら、わが人生で二度目ので戦争に出会うことになりそうな気配だ。そこでそろそろ、"究極の安全避難地"へ早期移転したいと考えているところだ。

 そんなときもとき、今年(2025年)7月半ばに、わたしの住まいを移した。生まれた家から数えると、19番目の住まい(一年以上継続)である。これまで西から東へまた西へ東へと、日本列島の都市を漂流した。これが人生最後から2番目の住まいだろう。

 と言っても、同じ共同住宅ビル内の2階分上に移っただけにて、これまでと変わらぬ生活環境である。もう88歳という歳も歳だから、当然のように高齢者施設に移ることも検討ししたが、結局はこうなった。

同じ共同住宅ビルの7階から9階へ縮小移転

 ここ横浜都心部に移転してきた時は65歳だったから、それから23年も経った。それまでは鎌倉の谷戸の中で、一戸建ての木造住宅に23年間住んでいた。そこは緑豊かだが、街までバスで15分のところだった。買い物不便が一番問題だった。

 だから、高齢者の仲間入りした時に、その生活環境を考えて、ここ横浜都心部の公的借家(県住宅供給公社)の共同住宅を選択したのだった。鎌倉では静かな森の中で鳥の声ばかりだったが、こちら横浜都心住宅街は交通騒音に溢れている。それを凌駕する環境は、あらゆる都市施設が歩ける範囲にあり、生活には便利なところであることだ。

 ここを選んだもう一つ重要なことは、ひとつのビル全部が公的機関による運営の「賃貸借方式の共同住宅」であることだ。鎌倉の小さな庭の小さな家でも、一戸建ての住宅の管理は面倒なことであった。自分で管理しなくてもよい公的借家を探した。

 ここ横浜都心では、歩ける生活圏に医療や福祉の施設も数多くあり、図らずも遭遇した3年にわたる病妻の在宅介護も、それらを目いっぱい活用して円滑にできたのだった。ここに来た時は介護までも予測できなかったが、ここに老後の住まいを選んだことは、正しかったと再認識したのであった。

 ここを選んだ時に、もう一度の引越しがあるだろうと妻は言っていた。それは高齢者施設のことを指していたのだが、彼女はこの家で3年の在宅介護ののち、昨夏に独りで最後の移転をして行った。

 さて、独居老人となったわたしは、このままここにいるか、どこか他に移るかといろいろ検討した。自分の年齢と体調と懐具合そして初老の息子と相談しつつ、高齢者向け施設をいくつか見分にも行ってきた。しかし、どれも帯に短し襷に長し状態で、唯一移りたいと思い入居仮申込した近所の「サービス付き高齢者住宅」は、満員状態が続いており、1年たってもお呼びが来ない。

 そこで、現住居の同じ共同住宅ビル内で、独居老人には広すぎる4LDK住戸から、相応の1LDK住戸に移ったのである。掃除も簡単だし、2階分上なので眺望も開け、家賃もそれなりに安くなった。

 これまで22年間を住んだ横浜都心で、今の公的借家生活の継続が、わたしの身体がまだ動くから、ある程度の期間はこのビル内で暮らせるだろう。いずれ介護が必要になるとしても、病妻の在宅介護体験から、超高齢者にも住みよいと分かったから、ある程度は生活可能だろう、高齢者施設でなくてもよいだろう、という判断である。甘いかもしれないが、、。

 たぶん、これがわたしの人生で最後から2番目の引っ越しであろう。いや、ホスピスに移るかもしれないが、そうなると最後から3番目になるのか、、。
 ともかくも、今は9階からの広くなった空を眺めつつ、これまでと同様に街なか徘徊をして、日本の都市がどう変わっていくのかを弥次馬として眺め楽しむ日々である。

●わたしの住宅漂流一覧

 今回の引っ越しは、わたしの人生で19件目の住まいである。ただし1年以上を継続して暮らした住居であり、単身赴任等で家族とは別の住まいもある。
 実はこれまでのわたしの住宅漂流記は、このブログに既に書いている(参照:2000年2月~2008年7月 賃貸借都市の時代へ-体験的住宅論)。
 それに今回の引っ越しを加えて書くと、わが人生住宅漂流は一覧は下記の通りとなる。

持家:1937~56戸建て2階建:生家、高梁市御前町御前神社内 漂流以前      

漂流以前の高梁盆地の生家があった神社(矢印の位置)(google earth)

間借:1957~58大学寮木造2階建て長屋2階、川崎市高津 漂流開始

間借:1958~60大学寮木造平屋、目黒区大岡山東京科学大構内 

間借:1960~61大学寮木造平屋、目黒区緑が丘東京科学大構内 向岳寮

東京科学大学大岡山キャンパス内の学生寮があった位置(矢印) (google earth)

間借:1961~62公団賃貸借10階建て共同住宅4階、大阪市西区靱本町

借家:1962~63民営木造2階建て共同住宅2階、寝屋川市平池

借家:1963~65民営木造2階建て共同住宅2階、名古屋市東山区園山町

借家:1965~66公団営RC造5階建て共同住宅2階、名古屋市鳴海区鳴子団地

借家:1966~68民営ブロック造2階建てテラスハウス、太田市西矢島

借家:1968~79公団営RC造5階建て共同住宅2階、横浜市港北区南日吉団地

借家:1973~74公団営RC造14階建て共同住宅12階、堺市?、単身赴任

借家:1975~76民営RC造10階建て共同住宅3階、大阪市新大阪駅近、単身赴任

⑬持家:1979~2002木造2階建て戸建住宅鎌倉市十二所 

鎌倉の谷戸の中の自宅(矢印)(google earth)

借家:1991~94民営RC造3階建て共同住宅2階、品川区戸越銀座駅近、仕事用別宅

借家:1994~96民営RC造14階建て共同住宅2階、大田区梅屋敷駅近、仕事用別宅

借家:1996~98民営RC造14階建て共同住宅7階、品川区大崎駅近、仕事用別宅

借家:1998~99民営RC造14階建て共同住宅8階、目黒区目黒駅近、仕事用別宅

⑱借家:2002~25 県RC造公社営10階建て共同住宅7階、横浜市中区山田町

⑲借家:2025~現 県公社営RC造10階建て共同住宅9階、横浜市中区山田町

横濱関外の自宅がある共同住宅ビル(矢印)(google earth)

●わたしの住宅漂流以前:故郷の生家

 わたしのこのような都市漂流の旅も、そろそろ終わりの時が来そうである。だから、ちょっと振り返ってみよう。
 わたしの都市漂流が始まる前の19年間の出発地は、88年前の初夏、小さな盆地の街にある神社の森の中であった(上記①)。これは普通の家庭のそれと比べると、かなり異なる環境であったと言えよう。
 
 その神社の境内地は、盆地の中の街と山林の境界あたりにあったが、背後の神社山林も含めて広さは5ヘクタールくらいはあった。少年時代は、一般的にみると、かなり広い土地に暮らしていたことになる。

 そこには山林と森と広場と社殿群があり、戦前と戦中は盆地内の別のところにも、広い小作田を神社は所有しており、ここからの小作代金が神社運営の基礎を支えていたらしい。だが戦後に農地改革政策で小作田は小作人に譲渡(その割賦債権金額は戦後インフレで紙屑同様となった)させられてて消滅した。父は宮司と高校事務職の二股で家族を支えていた。後になって気がついたのは、普通ではない環境に育ったということだった。
石段を登った広場の森の中に社殿と生家があった

 街の山際の道路から参道の石段を昇った。参道脇には高楼の鐘撞堂(かつては時鐘があった)が建っている。高さにして20mほど登ると最初の広場があり、そこにわたしの生家社務所があった。そこから直角に方向を変えてまた石段を高さにして10mほど登ると上段の広場に至り、拝殿、本殿,御輿蔵等の社殿が建っている。

 広場の周りは高木群竹林で囲まれた森である。今もその景観構成はほとんど変わらないままである。変わったと言えば、参道の石段が坂道となってアスファルト舗装され、自動車で登れるようになったことと、神社境内の南にあった人い畑地が住宅地になったことだ。 (参照:→境内図、→社殿・生家

 この生家のあった高梁盆地は、気候は温暖だし、歴史のある城下町の小さな街だったが、生活の場としても教育の場としてもほぼ何でもそろっている暮らしよいところであった。そのような街を都市計画で「コンパクトタウン」というが、まさにそれであった。

 だが、少年のわたしには、周りを山々に囲まれた街にも、鎮守の森の中に閉じ込められた生家にも、その閉鎖的環境に辟易していた。この盆地を抜け出すのが少年時代の夢であった。実際に空に舞い上がり飛び出す夢を何度も見たものだった。その閉所恐怖症は今もある。

●わたしの都市漂流住まい
 
 19歳の終わりころ東京の大学に入ることで、盆地脱出という少年の願望をようやく叶えることができた。その後は、日本列島本州南部を東西の都市へ、そして都市の中でもまたあちこちの街へと、まさに漂流してきたのであった。

 敗戦後の日本がようやく高度成長に足をかけようとする頃に社会に出たが、そのころは住宅難の時代にも突入していた。仕事の都合で東京、大阪、名古屋、横浜など、日本の大都市で、多種多様な住宅に暮らしてきた。住宅難の荒波をかぶった。

 それはポットでの田舎少年が、身一つで日本の高度成長期の荒波を泳ぐ漂流の旅であった。あらゆる生活環境を巡った感がある。それは、まさに日本の成長期の居住環境政策の欠如そのものの荒海であった。都市計画家として自身の身を都市住宅政策のモルモットとして生きてきた感がある。実際に実験的に3年ごとに仕事場別宅を移転して、多様な都市居住を体験していた期間もあった(上記一覧表の⑭~⑰)。

 そんな中でも生活拠点として家族と共に住んだのは、鎌倉郊外)に23年、そして今も継続中の横浜都心⑱、⑲)に今年で23年である。生家に住んだのが19年だったから、今や東男になってしまった。ふりかえるとこれら3つの拠点的な暮らしの場は、どれも共通していることは盆地であることだ。(参照:3つの盆地

 一覧に見るように、わたしはこれまでに一寧以上住んだ住まいは計18件を数えるが、そのうちで家族と住んだのは計8件、単独で住んだのが10件である。この単独住まいの10件は企業所属時代の転勤での大阪単身赴任と、フリーランス時代の東京での仕事別宅である。

 フリーランスの都市計画家となってからは、仕事時間が不規則であるし、仕事先は日本全国各地に出かけた。そのために東京品川区内に小さなオフィスとその近くに寝泊まり別宅として小さな共同住宅を借りた。その別宅は実験的にいろいろな場所とタイプを選んで住んで、都市住宅を身をもって研究した。鎌倉の家から息子たちが巣立ってからは、拠点自宅に戻ったが、更に漂流は続く。

●老いを見据えた横浜都心借家

 これらの数多い居住体験により、わたしは都市住宅について、ひとつの信条を持つようになて来た。それは、都市住宅は土地を個々に所有し個々に建設するのではなく、計画的に共同して作り暮らすべきものとすることである。総有という考えかたがあるが、たぶんそれである。

 それは具体的には、区分所有方式の共同住宅(世間では<名ばかり>マンションという)をさけるばかりか、それに反対するのである。必然的にわたしの住むのは賃貸借型の共同住宅で、しかも公的な所有と運営管理下にある住宅選択となった。
 その理由は数多くあり、このブログに別に「くたばれマンション」)として多くの論を載せて来ているので、そちらに譲る。

 だからいよいよ老いを見据えた時が来た2002年、鎌倉の自己所有の小さな戸建て住宅を出て、おそらく最後になるであろう住み家として選んだのは、共同住宅の借家であった。神奈川県住宅供給公社が所有し賃貸運営している、横浜都心部にある共同住宅ビルの中の住戸を賃借したのであった。

 県公社運営住宅は郊外部も都心部も数多いが、わたしが選んだのは横浜都心部の伊勢佐木町に近くて、都市施設が歩ける範囲に充実している立地にある。病院も診療所も数多く、商業施設も文化施設も多様で数多く、大小の公園も多い。興味ないが野球スタジアムもある。もし生活保護世帯になれば一泊1700円の寿町ドヤ街もある。さすがに横浜都心部である。

 特に病院が多さが予想通りに、大いに役立った。介護施設も数多くあり、それは思いがけなく直面した病妻の長期在宅介護に、この立地が大いに役立った。近隣の専門家たちの訪問による看護、診療、リハビリテーション、入浴などと共に、近隣に立地するデイサービス施設などを、効率的に利用できたのであった。

 その共同住宅規模は3ブロックに3棟が建ち計381戸という大規模であるので、それなりの管理体制が整っている。住戸の規模も1DKから4LDKまで各種ある。2002年から住んできたが昨夏に独り者になったので、それまでの4DK住戸から1LDKに移り、面積も家賃も6割になった。同じ生活環境内での移転は、高齢者には迷いが少ない。
左は2002年から2025年まで住んだ7階の住戸、右は2025年移転後の9階の住戸

 こうしてわたしの人生は、緑の森の中の神社境内から出発して、ビルの森の中の空中陋屋で終わりを告げようとしている。ここにどれほどの期間を今後に暮らすだろうか。現在88歳だから長くはないはずだし、長くここに住む願望もない。だが、幸か不幸かたぶん同年配の男と比べると健康な方であろうから、やむを得ずに長くなるかもしれない。困ったことだ。
 
 世界の情勢はきな臭い。わたしが生まれた88年前は、日本は十五年戦争の真っただ中であった。ところが今、またもや世界戦争になる気配だから、不幸にも人生で2度もの世界戦争経験者になるかもしれない。その前にあの世という「究極の避難地」に移転したいものである。そこは最後の引っ越し先として20番目の住み家になるはずだ。
                (2025/08/11記)

ーーこのブログ内の関連する記事ーー
●まちもり通信サイト「くたばれマンション
●「体験的住宅論」賃貸借都市の時代へ-2000年2月~
 ●【片想いの賃貸住宅政策】住宅供給公社よがんばってくれ 2010/02/28
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伊達美徳=まちもり散人
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2025/06/23

1895【六本木美術徘徊その2】タヌキに化かされながら国立新美術館に行き着いたが・・・

六本木美術館徘徊その1】からの続き


●新美へのでタヌキに化かされた

  篠原一男展のギャラリー間(下図の①、以下同様)のあとは、国立新美術館に行こうと、受付の人に道を聞く。地下鉄乃木坂駅に沿う地下通路を行けば、直線で近いし日も照らないから熱くない近道だと教えてもらった。礼を言ってまた階段を地下の通路に降りたが、地下自由通路はなくて、駅内を通り抜けねばならないと分かった。

ギャラリー間から国立新美術館への”遠い近道”

 では地下鉄ホームを通り抜けようとチケットを買おうとして傍らに張り紙に気づいた。地下鉄では同じ駅で入ってまた出るのは禁止とある。ケチな地下鉄だ。しょうがないから地上にまたえっちらおっちら昇って、地下鉄の上になる道路上をてくてく歩く。

 だがこの広い道はバタッと行き止まりになった。左横にある細道に入った。左の金網の中のすぐそばに新美の建物が見えている。これを行けば何とかなるだろう。細道はいつの間にか歩道橋になっている。右下に見える道に並行している。変な道だ。

 歩けどもすぐそばにある新美の敷地に降りる階段がない。だんだんと離れるようだ。おお、なんだか白昼夢になってきたぞ。空には夏の日が輝く。歩けど歩けど人2人がやっとすれ違えるほどの狭い歩道橋から降りる階段がない。

 熱中症で頭がおかしくなってきたか。そうだ、昔このあたりの森に棲んでいて開発で追い出されタヌキが、歩くやつを化かしに来たのか、なんて思う。え~い、それならそれで面白い、とことん化かされてみよう。

 どんどん歩く。何の案内標識もない、だれも通らない。おかしいなあ、地下鉄乃木坂駅から直結する入り口があると聞いたから、このあたりに新美に導く階段があってもよさそうなものを・・・。新美が遠ざかる。

 ようやく左に細い階段を見つけた。階段の向こうに車が通る広い路が見える。ここでタヌキと別れることにして階段を下りれば、目の前に左矢印の先に新美術館との標識がある。やれ嬉しやと広い歩道を歩けどまだ新美は見えない。スガさんが大嫌いな学術会議ってこんなところにあるんだ④。

 大回りしてやっと新美西門、入ってさらに正面入口へ坂道をよろよろと登れば、ようやく新美玄関に着いた。いやはや近道と聞いていたから余計に遠かった。だっての出入り口そばまで真っ直ぐに来たのに全くつながっていない。ぐるりと正面迄も大回りさせられたのは、どういう計画で作った道だろうか。タヌキに化かされたみたいだ。暑かった、でもまあよいリハビリ運動になった、ありがたや。歳取ると心も広くなる。

左に新美術館に西門がようやく現れた 正面には六本木ヒルズのドデブビル

●久しぶりの国立新美術館で見たのは、

 久し振りの新美だ。今、このブログを検索したら2016年3月に、大学同期仲間5人とともにここを訪れた記録がある。倉敷の大原美術館の出張展示を見に来たのだ。思えば、その時の5人の内の2人はもういない。(そのブログ記事

 まずはかつての東大生産技術研究所の建築の残骸を眺める。美術館別館となっているが今日は土曜日は閉館中、ここだけ見て帰ってもよい気もしていたが残念。この生研には何度か訪ねてきた記憶がある。思い出せば訪問先は池辺陽、村松貞次郎などだった。新美設計者の黒川がほんの少しだけ残してくれた歴史建築だが、今では誰も覚えていないだろう。


 新美術館に入り、昼なのでロビーでサンドイッチと紅茶を買って昼食。そばのTV画面にこれから見ようと思う「リビングモダ二ティ展」の映像が流れている。見ても興味が湧かない。でもせっかく来たのだから見ようと展示ホール入り口に行くと長い行列、さすがに篠原展とは大違いだ。

 わたしはなんでも行列して待つという行為を大嫌い。2階の出口に行って会場内をのぞき込むと、モダンデザインらしい家具や照明器具などが並んでいるのが見える。とたんに、なんだまた例のモダンリビングかと、もう展示を見るのが嫌になった。菊竹も藤井もミースも土浦もカーンももういいやという気になった。早く言えばもう建築はいいやという気分だ。

 でもせっかくここまで久しぶりに来たのだから何か見ようと探す。書の展覧会が二つもあるが、同じようなものがいっぱいぶら下がる。マンガアニメゲーム展という私には最も縁が薄い展示がある。これでも見ようと入った。興味がわかぬままに一応見て出てきた。

●六本木徘徊目的は、、

 さあ、これであとは六本木の街を見て帰ろうとしたら、美術館から地下鉄乃木坂駅に直結している出口を発見、なんだ最初からこちらに来れば、階段の昇り降りしなくてよかったのだ。とたんに疲れがどっと出てきて、地下鉄駅にエレベーターでスムースに入って帰宅した。

 久しぶりの六本木行きは街を全く見なかったが残念だ。この街には夜の遊びには行かなかったが、六本木駅につながる共同ビル計画で1年くらい通ったところだ。あのビルはまだ建っているだろうか。アークヒルズにも社会人相手のまちづくり塾講師として毎週通った。あの辺りも建て替えが進んでいるだろうな。

 無事に帰りついたが、かつてあの辺りを何度もうろうろしているから、そのころの自分を思い出して比較すると、わが身体の衰えを知るのだ。
 街歩きは街の変化を楽しむのだが、同時にわが身体の衰えを自覚して悲しむことにもなる。いやいや、これもリハビリになった運動だったと慰める。

(2025/06/22記)

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2025/06/22

1894【六本木美術徘徊その1】久しぶりに六本木徘徊しようとまず建築家篠原一男展に行った


  昨日(8月21日)、急に思い立って久しぶりに六本木に出かけた。六本木あたりの美術館巡りと街の変化も見てこようと思う。4年ぶりくらいだろうか。

 まず「ギャラリー間」の「篠原一男展」を訪問。ここは初めて来る美術館だが、TOTOという陶器製品屋のショールームがあるビルの3階である。その前に地下鉄乃木坂駅からのアプローチでひどい目にあった。このあたりは坂だらけの地形だから、階段だらけである。今や杖付き老人のわたしはエレベータやエスカレータのお世話になっている。だが、ここではヨタヨタと急な階段を昇るしか行きようがないのであった。

 ビル3階の展示場に入ると、大勢の外国人らしい人たちがいる。おお、こんなにも人が来るのかと見まわす。この篠原一男という建築家は、建築系の人たちには知られていても、一般にはほとんど知られていないだろう。大勢を前に男が2人英語でしゃべっている。解説のようだ。どうやら団体客らしいが普通の観光客ではあるまい。このひとたちは何者だろうか。

 小さな展示場で住宅模型と原図そして写真類が展示してある。寡作の篠原にふさわしい規模だ。展示が「から傘の家」から始まる。今ではドイツのどこかに移設保存してあるらしい。先日死んだ詩人谷川俊太郎の家もある。傾いた土間で暮らすのは面白そうだと記憶がある。

 「から傘の家」で思い出したが、篠原の先輩にあたる人で「番匠谷暁二」という都市計画家がいた。この人は主にヨーロッパを拠点として中東やアフリカの都市計画の仕事をした。その若い時に日本での建築作品に「正方形の家」があり、まさに「から傘構造」そのものであった。この家のことは松原康介氏の論文に詳しい。

 わたしは東工大1年生(1957年)の時に、篠原に図学を教わった。その内容は忘れたが、図学演習にはけっこう面白く取り組んだことは記憶の底にある。在学中はそれ以上のことは無いのだが、その後に建築の雑誌に発表する作品には興味を持ったものだ。

 だが、わたしが直接に接したことがある篠原の作品は一つだけ、東京工大百年記念館である。今は東京科学大学博物館というらしい。そういえば、この建築は図学の演習課題の実物のようである。東科大正門横にワニ口頭を振りかざすメカゴジラ姿は、かたわらに隈研吾設計の草叢建築を従えて好一対になっている。

篠原一男設計・東工大百年記念館(東京科学大博物館)

 80年代初めに、東工大の研究室に篠原に会いに、近藤正一と一緒に訪ねた記憶がある。わたしは当時はRIAに在籍しており、建築家山口文象の作品と評伝(「建築家山口文象 人と作品」)を制作編集作業中だった。

 山口は晩年に東工大非常勤講師をしていたので、山口と篠原に接点があったかと聞きに行った。篠原の口から一般的な話は出たが、山口との接点は特になかった。

 篠原直筆の原図の展示がある。その木造住宅は小屋組みなんてものはなくて、どれも垂木構造のようだ。あの詳細圧縮表現とでも言うのだろうか、木造住宅の1/20の詳細平面図を懐かしく見た。わたしも昔々にこんな図面を真似して描いた覚えがある。

 混んでいる3階を避けて4階に行き、見終わって3階に戻ると、もう誰ひとりいない。土曜日でも、篠原展を見に来る人はまれなのだ。ゆっくりと鑑賞して、辞したのであった。
 この後に行こうする国立新美術館の「リビングモダニティ展」もそうだろうか。

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2025/06/14

1893【歌集をつくる】今年は友人の歌集を毎月発行しているが多分これが最後の本づくり趣味遊びだろうな

 家庭用プリンターのインクが高価なのにイヤになる。購入して5年になるが、もうプリンターを何機も買えるほどにもインク代を費やしている。プリンタメーカーの商売策策略だろうが、その手に乗らざるを得ないのがしゃくだ。

2014年からの発行歌集と最近のプリンターインク残骸

 わたしの趣味は、本の手作りである。基本的にはPCを使って自分で原稿を書き、編集し、本のデザインをして、家庭用プリンタで印刷し、机上の紙工作で本を製作するのだ。
 できあがった本の具合を眺めて満足し、知り合いに読め読めと押し付けるのである。これが趣味である。たぶん、陶磁器つくり趣味と同じだろう。

 今年は、歌人である幼馴染の友人が詠む歌を、毎月選歌して、個人歌集として、わたしが制作発行している。これには更に共通の友人二人が加わって、それぞれの趣味の花と絵の写真を添えるのである。こうして歌詠み、花づくり、絵描き、本づくりそれぞれ趣味の4人の仲間による共同制作である。なんと典雅な遊びであろうと、密かに自負している。

 毎月の発行部数は、原則として10部である。今年3月に第1回目を発行して、4,5,6月と毎月発行して、現在のところ56冊まで来ている。
 歌人が毎月に詠む歌は数十首あるが、そのうちから数種を選歌して、毎月発行の歌集に載せる。第五歌集最初の3月発行分は90ページだったが、毎月の歌の追加により、来月分は100ページを超え、このぶんでは年末にはどうなるだろうか。

 本づくり趣味のわたしは、毎月の歌集を制作することを楽しむ。同じ歌人の歌集だから、毎月の歌集の基本的なデザインは変えないが、変えないままだと趣味としては面白くないから、ところどころ手を入れて楽しむ。これって盆栽趣味に似ているだろうか。

 実はこの歌人の歌集つくりをわたしが始めたのは、最初は2014年であった。この人の第一歌集発刊は2007年で、この時は歌集出版のプロによる商業出版だったから、広くゆきわたり、わたしも近所の市立中央図書館でこれを手に取った。

 次の2014年第二歌集からは、わたしの本づくり趣味で発行してきて、今年は第五歌集である。これまでは一度に100冊くらいを制作発行していたが、この第五歌集は毎月10部発行10カ月続けるという、長期プロジェクトにした。

 そうしたのには、それなりの理由がある。これまでの第二から第四歌集まではソフトカバー本であった。だが、今回はハードカバー本にした。歌人の希望でもある。
 それは4人の仲間はみんな米寿を迎えて、たぶん、これが最後の歌集になるだろう、だから手間がかかろうとも、見栄えのするハードカバーにすることにした。中身は同じでも、手に取ればそれがよく分る。

 ハードカバー本の制作は費用はたいして増えないが、手間が10倍くらいはかかる。本の製作はあくまで趣味だから、数冊ならともかく、100冊以上もとなると、制作には時間がかかって、趣味を超える。そこで今回の歌集づくりは、1年がかり長期プロジェクトとしたのである。製本を外注外注しようかとも思ったのだが、それでは趣味にならなくなってしまう。

 一年がかりならば、わたしのハードカバー本つくりもマイペースでやることができるし、歌人の歌詠みもいつものペースで進めつつ、歌集に採録できるのである。途中で老いが行く手をふさぐかもしれないが、少なくともそこまでの歌集はできあがる。

 もっとも、最初の歌集と最後のそれとは、収録する歌の数が異なるが、それもまたよろしい。ついでに毎月発行には、と称する小冊子を織り込み、そこには花と絵と本をつくる仲間の随想を載せる。

 そうやって現在は3月から6月発行号迄の毎月発行で4か月分で計56冊となり、予定よりは多く発行できている。実費支出は今のところで4万円余り、一番の支出はプリンターのインク代であることは冒頭で述べたとおりだ。

 暇な年寄りの遊びであり、歌人たちもわたしも楽しんでいる。もしかしてこれによって老人ボケ進行が遅延しているかもしれない。歌人も本つくり人も老いは待ってくれない。詠み人と本づくり人のどちらが衰えても歌集発行は止まるが、それはそれでよし、そう言う記録がっても面白い。

 だが、このところ1カ月ほど忙しくなって、本づくりペースをちょっと下げなくてはなるまい。これも締切がないも同然の長期プロジェクトだから調節できると分かっって良かった。じつはわたしは今、棲み家の引っ越しを目論んでいる。人生17度目にして最後から2番目になるはずだ。それはそれでぼけている暇がない。これについては別に書くことにする。

                         (2025/06/14記)

このブログ内で関連する記事
2024/03/06【歌集プロジェクト】歌詠む人花咲かす人絵描く人本作る人・・https://datey.blogspot.com/2024/03/1801.html

◆自家製ブックレット「まちもり叢書」シリーズhttps://datey.blogspot.com/p/machimorisosyo.html

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2025/06/01

1891【戦後復興期都市建築研究】昔々担当した都市建築プロジェクトが研究対象になるほど古老になった

  先日のこと、K大学の旧知のN教授から、60年代後半に担当した某市駅前の防災建築街区造成事業について、当時のことを聞きたいとの連絡をいただいた。ではヒマツブシにキャンパスを久し振りに訪ねて、変わり様を見たいと思い出かけて行った。出歩くのがボケ遅延策でもあるのだ。

 久し振りに大学院生の若い男女たちと面と向かいながら、専門的なレクチャーのようなことをした。気持ちよく話をできたが、。院生の反応がもうひとつだったのはこちらのせいだろう。筑波大、東工大、慶応大、東京理科大と非常勤講師を渡り歩いていたから講義には慣れている。

 しかしもう歳が歳だから以前のようにレクチャーは無理だろうと思っていた。研究室で何か質問してくれればボチボチ話そうと思っていたら、意外にもゼミの場に連れていかれた。しかも十数人の若い男女の院生たちがいる。

 彼らは日本各地の戦後復興期の都市建築作りであった建築防火帯や防災建築街区の研究をしているという。実は数日前に別の大学の学生からも、全く同じ件について問い合わせメールもあったのだ。

 それはつまりわたしが現場でやっていたことが歴史的事実として研究対象になったということ、つまりそれほどもわたしが老いたということだ。別の言い方をすれば、いわゆるわたしは古老になったのだ。複雑な気分だが、聞かれて答えるのは気分よろしい。

 これまでも他の複数の大学の学生や院生から、同様な問い合わせは何回かあって、メールで答えたことはあった。それで済んでいたから今回もその程度のことだろうと思ったのだが、こんなにも大勢の若者たちが熱心に取り組んでいるのには、ちょっと驚いた。

 問われた防災建築街区プロジェクトについては、これまで何度か専門的出版物に書いているし、わたしのインタネットサイトにそれに関するページもある。またわたしのPCの中には、防火建築帯も含めて、それに関する雑多の資料が蓄積されている。

 今回の研究現場状況にちょっとわたしは反省した。これまでもっと真摯に対応するべきであったと。そこでわがPCの中のこの件に関する資料の発掘に取りかかった。ざくざくと出てきたので、ざっと見ていたらいろいろと忘れたことも思い出してきた。

 ゼミで話が足りなかったのを反省して、それらを重いフォルダーにまとめて教授にEメールで送ったのであった。もっとも、古い資料がどれほど役に立つのか分からぬし、わたしだけしか判読できないかもしれない。研究者たちの熱意で跳ね返ってくるかもしれない。

 わたしはPCの中に仕事関係や独自研究等の資料がかなり多く蓄積しているはずだし、整理の仕方は自分流だがまあまあ良いはずだ。紙資料は他に寄贈したり廃棄して全部処分した。 思い出せばほかの件でもネットを見たからと、いろいろな人から問われることもある。

 今回のことから考えると、けっこうな量の資料があり、有名なプロジェクトもある。例え

ば40年くらいも前にやった東京駅の再開発調査は、いまの赤煉瓦駅舎復元を決めるまでの紆余曲折の実に面白い仕事だった。

 これは世間的にも有名なプロジェクトで、わたしのネットサイトにも多くの駄文を載せているのだが、これに関して研究者から問い合わせを受けたことがない。それはまだ研究対象になるだけの時が経っていないということだろう。

 もっとも、わたしのスタンスが、都市計画中心だし、東京駅復元に反対の論、つまり敗北した主張だから、興味をひかないのはもっともである。個人的には出自の建築史から専門としていた都市計画にまたがる仕事だったので実に面白かった。

 問い合わせが比較的多いのは、建築家山口文象についてである。これについては、その主人公が日本近代建築史の特定の位置にいるから多くなるのは当然だろう。わたしがたまたまその人のそばにいる時期があったので、その評伝を出版物にまとめる仕事をする機会があり、それだけではなく独自研究も合わせて、わたしのネット掲載したのである。

 さて、わたしももうこの世から消える時期が近い。それで近頃思うのだが、わたしのサイトに載せる様々の公開駄文と、その裏にあるわたしのPCに蓄積の資料類を合わると、かなり重いデータ量であろう。それらがわたしが消えるとともに消える。同じ様なことは地球上のあちこちで多くの人々に日々起きているだろう。

 これをあれこれ考えると実に面白いので、次の論考にしよう。(つづく)

(2025/06/01記)

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2025/05/26

1888【大阪駅で浦島気分】大阪駅乗降プラットホーム上空大屋根の巨大架構による大空間が凄い

 ●西方旅行の途中で大阪駅へちょっと途中下車

 5月半ばに西への旅の帰りに途中下車して、1時間ほど大阪駅から街を眺めてきた。
 大阪へは、市内に住む伯母の家を、少年時からよく訪ねたものだ。
 長じて、社会に出てすぐの60年代に2年ばかり、70年代も2年ほどを大阪駅近くの勤務先に通ったことがある。

 その後はめったに大阪に用もなかったので長いご無沙汰である。だから今度の米寿記念ともいうべき旅で、大阪へも最後かもしれないと、大阪駅あたりだけでも見ることにした。何年振りだろうか、大きく変わっているに違いない、浦島太郎気分が高まる。

●全く見も知らぬ大阪駅表口風景

 大阪駅の表口とでもいう南側の駅前風景は、昔と全く違う見も知らぬ風景になっていた。超高層ビル林立で空を見るには首が痛くなるほどに風景は大きく変わっていた。

 昔はせいぜい30~40mくらいの高さのビルばかりだった。丸ビルと名付けた円筒状のホテルがちょっと高かったくらいのものだった。そういえば駅前でよく入った店は「旭屋書店」だったと思い出したが、どこにも見えない。

大阪駅南の駅前で西方面街並みを眺める

大阪駅南口前から東方を見る 左に阪急?、右に阪神?

大阪駅東口前の阪神百貨店はこんな形になっていた

 少年の頃に伯母の家を訪ねるためには、大阪駅南口から阪神電車に乗り替えた。それには阪神百貨店の地下に入った。阪神電車駅は今もその位置らしいが、百貨店ビルは超高層に建て替わっていた。そういえばその地下にあった全国名産品店街とか薄暗い飲み屋街はあるかしら、階段横の串カツ屋はどうだろう?
 とにかく駅前の広場や道は、昔の通りの位置や広さらしく見えるのだが、どこもかしこも超高層ビルが道路際までいっぱいに建っていて、緑や空が見えなくて実にうっとうしい風景になっていた。

 緑らしきものは御堂筋にある梅田吸気塔の周りの樹木群だけのようだ。この村野藤吾デザインの吸気塔が今もその形で立っているのが、なんだか不思議であった。まさかこれも超高層にはなるまい。

村野藤吾デザインの梅田吸気塔と樹木

 歴史的近代建築としてどうなったかちょっと気になっていた大阪中央郵便局も、超高層建築に建て替わっていた。東京駅前のそれと同じKITTEとネーミングだそうだから、同じように下半身には元のデザインを生かしているかとみれば、つまらぬビルになっていた。遠目で見て、近くに行く気にはならなかった。

大阪中央郵便局舎が建て替えられてKITTE大阪に

 そんな大阪駅前に建って左右を見渡していたら、東京のKITTEのように昔の姿を継承しているビルがひとつだけあった。かつての阪急百貨店が超高層ビルになっているが、その下半身にはかつてのビルのイメージをかなり上手に生かして継承している。その阪急百貨店うめだ本店だけは、そこに昔は何が建っていたか、わたしにも思いだすことができて、浦島太郎気分ひとしおであった。

阪急百貨店が建て替えられて阪急梅田本店ビル

●大阪駅北側の操車場跡地開発もチラリ眺めた

 そうやって懐かしい表口をながめ、かつては無かった裏口(北口か)も眺めてきた。こちらは広大な鉄道操車場があったこと、その一部が開発されて梅田スカイビル(原広司設計)だけが建っていたころの風景までは知っているが、その後は全く知らない。

 しかし最近その再開発ができ上ったらしく、ネットにその風景がちょくちょく登場する。それには巨大商業ビル群、超高層ビル群、広大公園緑地空間が見える。なんだかよくある開発風景で、もう実物を見なくても分かった気になってきている。

 ここは再開発といっても事実上は新開発だから、昔の姿を思い出して、浦島太郎気分を楽しむことができなくて、つまらないのである。そこが表口とは大きく違うのだ。駅裏(北)に建った駅ビルから、チラリと眺めて見て引き返した。

大阪駅北の操車場跡地開発をちらりと遠望

●大阪駅プラットホーム空間再開発が素晴らしい

 実を言えば裏口の操車場跡地開発を見る前に、大阪駅そのものの再開発に大いに惹かれてしまったのだ。結論を先に言えば、大阪駅あたりの再開発で、もっとも感銘を受けたのが、大阪駅そのものの再開発であった。表も裏もホンのちょっとだけ見てそう言うも気が引けるが、いや、まったく大阪駅こそ物凄い再開発だった。

 大阪駅の沢山の列車乗降プラットホーム全部を、はるか上空に大屋根をかけて覆ってしまうとは、じつに大胆である。京都駅のコンコース大屋根もすごいと思っていたが、こちらはプラットホーム全部だからすごい。

鉄骨の架構がダイナミックに上空をよぎる コンコースのしつらえがチャチに見える


コンコースが中間にあるためにプラットホーム迄全体を見下ろせないのが残念


 外国の鉄道駅では、大きな鉄骨ドームをかけた駅は、ハンブルグ駅やミラノ駅などいくつか利用した経験はあるが、日本では初めてだろう。なんと2011年完成だそうだから、14年もわたしはそれを知らなかったのだ。浦島太郎である。

 上記の例のような外国のそれと違うのは、こちらはホームと大屋根の間に広いコンコースが架かっていることだ。だから鉄道の出入りや乗降客の動きが、大屋根の下に一目で見渡せないのが惜しい。あの大空間であの頻繁な鉄道列車の動きがあると素晴らしいダイナミックな風景になると思う。ヨーロッパで見たあのおおらかな空間ではないのが惜しい。

 それでもホームとコンコースを全部まとめて上空に架かる大屋根の架構のもたらす空間のダイナミックさにほれぼれした。文章でも写真でもとても表せない。体験するしかない。
 ともかくもこ こに途中下車して眺めた大阪駅とその周囲の景観ベスト3ランキングをしよう。もちろん駅とその周りでわたしが1時間ほど眺め体感した範囲の偏見と独断である。

 第1位:JR大阪駅プラットホーム上の大屋根空間(設計:JR西日本)
 第2位:阪急うめだ本店ビル(設計:日建設計)
 第3位:御堂筋の中に建つ梅田吸気塔(設計:村野藤吾)

(2025/05/26記)

このブログ掲載の西への旅日記

・2025/05/20・1887【故郷の浦島気分】もう30年も唱える「高梁盆地≒アルトハイデルベルク説」は故郷に通じなかった https://datey.blogspot.com/2025/05/1887.html

・2025/05/18・1886【わが設計の父母旧宅】築60年モダンリビング木造小住宅が今は古民家民泊施設として生き残るとは! https://datey.blogspot.com/2025/05/1886.html

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2025/05/18

1886【わが設計の父母旧宅】築60年木造モダン小住宅が今は古民家民泊施設として生き残るとは!

 久し振りに旅先に宿泊する長距離の旅に出てきた。本当はそんな気はないのだが、歳相応にこれが故郷見納めの旅というと、いかにも格好がよろしい。
 横浜ー三原ー備中高梁(2泊)ー岡山・庭瀬ー大阪駅ー横浜だった。予定通りに円滑に終えたのは、介護役の息子がいっしょに行ってくれたからだ。もう、一人旅は無理かもしれないと、浦島太郎気分でもあった。

 ちょっと面白かったのは、岡山市内のかつて父母が住んでいた家が、なんとまあ古民家民泊として今も生きていることだ。今回の旅のためにホテルをネット検索していて発見した。
 あの1966年にわたしが設計して建てたのだから、いまや古民家と言っても嘘ではない年代物だが、イメージとしては古民家ではない。その当時のモダン小住宅として設計したものを、幾分かの増築と改装がなされている。

父母の旧宅が民泊の広告としてフェイスブック登場

 この小住宅の顛末をこのブログに書いているから、ここに簡単に書く。
・1966年 高梁盆地内の神社宮司で高校職員だった父が退職、岡山市西郊に小住宅を建てて移り住んだ。その設計は駆け出し建築家の私だった。父は岡山市内の神社の権禰宜となった。
・1993年 老齢のために権禰宜を退職し、息子がいる大阪市内の共同住宅に移転、岡山の家は空き家となった。日本の高齢化と空き家問題の典型的事例となった。
・2015年 岡山の空き家を不動産業者に売却した。業者は取り壊さずに改装して賃貸住宅にしているようであった。
 
 今度の旅でこれを訪れる予定はなかったが、ネットで発見して急に興味が湧いて途中下車して、外観だけ見てきた。岡山西郊の駅から徒歩十分ほどの住宅地は、それなりに整備されてきており、大学もあって若い者たちも多く住む街の雰囲気だった。

 父母の旧宅は、細い路地を入ったところにある。路地手前の右側の家は建て替えられていたが、左側のアパートと住宅は昔のままだった。父母の旧宅は板張り外壁を黒く窓枠を白く塗った程度、庭の植栽がなくなった程度の変化で、その他は特に変わりはない。家の西側の水路もそのままである。

 こうすれば民泊としてネット宣伝になるものかと、ちょっと奇妙な気もする。路地に立って眺めていると玄関引き戸が開いて、幼い少女が出てきた。金髪の外国人のようだ。つづいて男児らしい赤んぼが這いながら出てきた。これは泊り客かしらとみていると、その子らの母親と思しき女性が出てきて這う子を抱き上げて、こちらにちょっと会釈して3人ともに中に入った。

 わたしたちも親子だが、その親子をあっけにとられてみていた。空いたままの玄関戸の向こうの板の間で、大きなおもちゃで幼女が遊んでいたし、庭には子供の洗濯物がたくさん干してあり、雰囲気としては旅行者ではなくて長期滞在者のようだった。もともと住宅だから、一戸貸しの民泊は長期滞在者には向いているだろう。なるほどそのような使われ方もあるのかと、何となく納得して引き返した。

 あの当時のモダン小住宅が、こうして今も使われているとは、それなりにわが設計が良かったからだと勝手に思うのである。わたしは当時の住宅金融公庫の木造住宅設計仕様に忠実に、基礎や木組みを設計しておいたのだ。
 建築当時に父が工事業者から、「高梁の方は基礎をこんなにも頑丈に作るんですね」と言われたという言葉を思い出す。更に、建って50年後にわたしが不動産業者に売った時にも、「この家は珍しくこんなに古くても傾いていませんねえ」と言われたことも思い出す。

 これがいまだに取り壊しも建て直しもされずに未だに建っている理由を、実はわたしは知っている。それはこの土地が狭い路地の奥の旗竿敷地だから、破却ゴミや建設資材を運ぶ自動車が直接に入れないため、人力運搬を余儀なくされるから、一般よりも余計に多くの費用がかかるからだ。壊さずに修理して使えるならその方が有利なのだ。

 それにしても外観の変わらなさと比べて、内部のプランの変わりようが興味深い。民泊にするにはこのような妙なプランが好まれるものなのかしら、面白い。

  現在の民泊の平面図(ネット広告から)    父母が住んでいた当時の平面図

1966年の建設当初の姿
2025年5月父母の旧宅は改装されて民泊に。玄関前に泊り客らしい幼児二人

路地入り口から見る

水路から眺める 両隣はどちらも建て替え済、左は戸建て住宅、右は2連戸2階建て住宅

 この地は近世の庭瀬城がすぐそばにある歴史的には古い町らしい。さすがに岡山駅まで2駅の山陽本線の駅前で便利な地だからだろうか、住宅地の整備が進んでいるようだ。特に何○○メゾンと名付ける低層共同住宅がたくさん建つ傾向だ。○○マンションと名付ける高層共同住宅ではないところが、こちらの流行だろうか。他にも古民家民泊があるのだろうか。
(20250418記)

ーこの住宅に関するこのブログの記事ー
・2025/04/263【西方への旅に】久しぶりにホテル宿泊を電話予約https://datey.blogspot.com/2025/04/1883.html
・2014/11/11いま日本中で起きている空き家問題にわが身が直面
・2015/05/01【父の家を売る】日本の空き家問題がひとつ解決かも https://datey.blogspot.com/2015/05/1083.html

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2025/04/26

1883【西方への旅に】久しぶりにホテル宿泊を電話予約すればなんだかひっかかる言葉遣い

●西方への旅に 

 久し振りに泊りがけの旅に出かけることにして、ホテルに予約電話を入れた。今どきはネットで予約するのが普通だろう。それをわざと電話にしたのは、近ごろネット予約業者にトラブルがあるとニュースを読んだからだ。

 生まれ故郷の街にある国際ホテルと銘打った宿である。代表電話に出てきた女性が予約を受け付けるという。

「宿泊予約お願いします。5月14日と15日の連泊で、大人二人ツインをお願いします」

「はい、ありがとうございます。その両日とも空き室がございます。おとなお二人さま、ツインですね」

「はい、お願いします」

「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」

(え、名前を言わなくて予約できるのか?)え、伺ってもよろしいかどうかと、わたしにお聞きになるということは、よろしくないと申し上げてもよいのでしょうか」

(へんな客だなあ)お名前をおしゃらないと、ご宿泊を受けることができません」

「それならば、お名前を教えてくださいと、普通におっしゃいよ、はい、ダテヨシノリと申します」

(なんだか面倒な客らしい)はい、ダテヨシノリ様ですね。なお、ツインのお部屋は禁煙ですが、よろしかったでしょうか」

(おお、懐かしき過去形会話だ)えー、まだ禁煙希望とも何とも何も言ってませんが、はい、禁煙でお願いします」

「はい、では禁煙でよろしいですね」

「いやいや、禁煙でよいのではなくて、禁煙のほうよろしいのです(意味が通じたかしら)

「は、(ヘンな客だなあ)、ハイ分かりました」

 この後、朝食付きとか、料金とか、キャンセル条件とか教えてもらって、ようやく予約完了、ほっとした。さて当日はちゃんと泊めてくれるのだろうなあ。
 ネット予約手続きも、あちこち飛ばされたり余計なこと書かされたりして面倒くさいけど、電話会話予約も、言葉にひっ掛かってけっこうめんどくさい。こういうのを年寄りというのだろうなあと、近ごろつくづく思う。

●私の設計の古民家が宿泊施設に

 その地域あたりのホテルをネットサーフィンしていたら、意外な宿泊施設のサイトを発見した。古民家一棟貸しの民宿と言うのか民泊と言うのか、岡山市内にあるそれは、なんとまあ、昔々1966年にわたしが設計した今は亡き父母たちが住んでいた木造の小さな家である。まさに築60年の古民家であるが、あれが宿屋になるものかしら。

 父母が出て行ってから20数年もの空き家のままだったのを、10年前に地元の不動産業者に売却した。それを修復して貸家にしていたらしいのは知っていた。その小さな古家が壊されるのではなく、内外共にきれいに改修されて今は宿泊施設になっているを発見して、驚いた。

 あの住宅地の周りの家々は建て替えられているのに、これだけは改修されながら生き続けているのは、元の設計がよかったので、傾いたりしていないからだな、えへん。
 今度の西への旅では数少なくなった幼馴染に会うのが目的だが、旅目的をもうひとつ加えて、泊ろうとは思わないが見てみたいので途中下車しようかな。
 そのことは現地訪問できまたここに書きたいが、とりあえずそれが建った当時の写真(右)と、現在の写真(左、宿泊施設のネットページから引用)をのせておく。

(20250426記)

(20250605追記)
 2025年5月16日に、この民泊となった父母の旧宅を外から眺めてきた。
・参照:2025/05/18・1886【わが設計の父母旧宅】築60年木造モダン小住宅が今は古民家民泊施設として生き残るとは!https://datey.blogspot.com/2025/05/1886.html

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2025/03/31

1875【大岡山恒例花見これが最後】願わくは花のもとにと来てみればあはれ花こそ先にゆきけれ


●毎年恒例の母校へ花見に

 花見に大岡山に登ってきた。満開ではなく八分咲きというところであろうか、まあ、よろしい、毎年恒例の大岡山花見登山も、これでおしまいだな、わが年から言っても、今やそんなころ合いだな。

 そもそも母校の名前が変わったし、何よりも学んだ建築意匠系(歴史)の学科が、田町キャンパスに移転して出て行ったそうだから、もう余所だよなあ。さすがに卒業後66年も経つと、ソフト面もハード面も大きく変わってしまい、ほぼ縁がない場所になった。

 そんなことで桜の花見も、これが最後と思って見れば、もうヨレヨレ真っ黒デブデブコブコブの老木が、わが身に似て見えるのもつらいものだ。ついつい花よりも老幹を見る。そしてとうとう次世代の若木に交代する現実も見た。では、最後の花見報告を書いておこう。

 大岡山駅を出て見回すと、左に百年記念館(篠原一男設計)という大岡山のランドマーク、右に蔵前会館(坂本一成設計)の風景は変わらない。あのワニ口のような半円筒の突出は、まさにこちらの駅に向かっており、招いているらしい。


正門前からキャンパスを眺める。百年館のキャンチレバー飛び出しがすごすぎるが、これはカメラのせいだな。

 正門から振り返って駅前方面を眺める。左の草に覆われたビルが大岡山駅舎だが、上に病院が乗っている複合建築(安田幸一設計)だ。昔はこういうビルを下駄ばき建築といったが、要するに下駄の歯が駅である。いまは死後になったようだ。

 正門を入ろうとするとこんなキャンパス図がある。オヤ、去年の花見の時とは違うぞ、東京工業大学から変わって東京科学大学とある。
 もちろん知ってはいたがこうやって見ると、よその大学に見える。工業よりも科学の方が格が上だな、だって科学を基礎にして工業があるんだもんね、ちょっと大学の格が上がったかも、なんて考える。

 Institute of SCIENCE TOKYOとあるから、略称はIOSTだろうか、それともISTかしら。改称前の東工大はTOKYO INSTITUTE of TECHNOLOGYであり、わたしが在学していたころは略称をTIT としていた。所属していた山岳部はTITーACといった。
 なお、英語のスラングでtitとは女性のおっぱいのことである。それかあらぬか、いつのころからか略称をTokyo Techというようになっていた。
 
 さて今年もキャンパスを通り抜けて帰ろう。結果としては大岡山から緑が丘を経て、裏門からキャンパスの外へ出て(赤い線は実際に通ったところ)、更に九品仏川緑道を自由が丘まで歩いてしまった。マイペースでノロノロだが、昔よく歩いた道を今も歩くことができたのが、われながらエライもんだ。これでもう終わりにする。

 正門を入ったところから構内を見る。
 右に図書館(安田幸一設計)、左に滝プラザ(隈研吾設計)。滝プラザの屋根の緑が育たないらしく不細工な姿のままである。早く森に埋もれてほしい。これはもしかして、周りにある百年館や図書館や七十年館の引き立て役としてのデザインをしたのかもしれない、なんて思う。

●老木は断末魔のごとく必死に今年も花を

 では本館前広場の定番写真である。まだ枝の先の方まで咲きそろってはいないが、あのよろよろ桜が今年も咲いた。その齢は70年にもなるはずだが、偉いものだ。ヨレヨレと曲がる枝がすごい。

 左正門から右の図書館まで、本館前のパノラマも定番。滝プラザが緑の中に隠れるのはいつになるのだろうか。

 では桜の花の下に入ろう。上を見上げればいつもの用の本館の時計台が見える。あの時計のあたりに山岳部の部室があった。そこまで平気でスタスタ昇り降りしたし、それどころか塔の屋上に出て、外壁をアップザイレンの中吊りで降りたこともある。

 花は咲いているが、それを支える幹を見れば、その超老木のあまりのヨレヨレさに、かえって興味をそそられるほどだ。
 昔々、わたしがここを卒業するころに、ようやくちらほらと花を咲かせだして、片手で握れるほどの細い幹だった若木が(参照→1960年のキャンパス風景)、今やこんなに老い木になってしまった。それはもう、わたし自身の身体そっくりであると、感慨と嫌悪とを交互に催すのであった。 

 もう立てなくなって横になったまま花を咲かせる木もある。無理やり花を咲かせているらしい。

●ついに世代交代が始まってしまった

 この断末魔のごとく悶えつつも、無理やり花を咲かせる老い木どもが、いつ死んでもよいように、この桜並木の背後には若木の列が並んで、それらは既に花を咲かせつつ交代を待っているのである。交代がいつ起きるか楽しみであるが、、。


 老い木と若木の花との饗宴であるが、明らかに老い木の劣勢がみえている。

 ややっ、ここの老い木はついに世代交代しているぞ、う~ん、既に若木に植え替えられてしまった。たしか去年はここにあった老い木がまだ花を咲かせていたが、あれは断末魔の姿であったか。
 
 眺め渡すと交代したのはまだこれ一本だけらしいが、来年はさらに増えるだろう。いや、どれも断末魔模様だから、全部植え替えられているかもしれない。これはまさにわたしたち年代のことである。そうかそうか、悲しむことではない、後継がいることをむしろ喜ぶべきだが、さてさて。

 では世代交代桜への感慨を書いておこう。それには歌を詠むのが格好よろしい。ここはやはり桜の花を大好きだった先人の西行法師についていこう。
  
 願はくは花のもとにと来てみればあはれ花こそ先にゆきけれ

●花のキャンパスをゆく

 右に七十年講堂(谷口吉郎設計)を眺めつつスロープを下っていく。この季節は花とともにこの名作を眺めるのを大好きだ。
 昔々山岳部の訓練で、このスロープにあった洗濯板状の坂道をうさぎ跳びで登ったものだったが、あれはひどかった。今も足だけは丈夫なのは、そのお陰でもあるまいが。

 スロープ下の花越しに眺める本部の建物は清家清の設計である。こちらにも敬意を表しておこう。

 ちょっと戻って、東急線路上の橋から眺める景色。手前の空き地は昔々水力実験室(谷口吉郎設計)があったところで、水銀汚染で建物撤去したのちも、土地も汚染で使えないらしく空き地のまま。(参照:かつての水力実験室の姿
 その向こうに見える丸屋根の建物が新築で、ここに建築系学科が緑が丘の上から移ってきたそうだ。ただし、建築意匠系は田町キャンパスに出て行ったそうだ。ということは、わたしは意匠系の建築史の研究室だったから、もうここには縁がなくなった。

 よく知らないが、科学大学と銘打った限りは、文理融合の教育と研究の場とするためだろうに、建築意匠系といういわば人文科学系だけを追い出してよいのかしら。まさかと思うが、工業大学の中では建築意匠系という人文科学系が邪魔だったのだろうか。さらに思うのは、リベラルアーツ系も田町に移ったのかしら、まさかねえ、そうなら文理融合どころか文理分離であるよなあ、まあ、何も知らないのだけど、。

 このあたりが新築された建築で、緑が丘から移ってきた土木・建築系の入る棟らしい。スカイラインが円弧を描いているのは、近くの七十年講堂に倣った景観デザインだろうか。

 東急線のガードをくぐる前にグラウンドに行ってみた。地面が見えなくて緑の人工芝であるようだ。向こうに見える白い低層建築は体育館であり、東急設計コンサルタント設計(実は建築同期の後藤宜夫と笠原弘至の設計)である。
 わたしが在学の頃は体育館は大岡山駅前にあり、どこかの飛行場の格納庫を映して持ってきたと聞いたことがある。わたしは入試をそこで受けた記憶がある。東急が駅改良のためにその土地が必要となって移転してここに来た。だからこれは東急の寄付によるもので、設計も東急設計コンであり、その社員だった笠原が担当し、親しい後藤を外注の相棒に選んだと、これは笠原から直接に聞いたことだ。

 大岡山地区から緑が丘方面への線路トンネルは、歩行者専用となっているが健在である。去年もこうだったが作り直すのであろうか。

 心字池のあるあたりは、キャンパス内では珍しく建築が入りこんでいなくて、公園のように緑が濃い。実を言えばそれもそのはずで、このあたりは都市計画で公園に指定されているのだ。いずれ公共公園整備がされて、公開されるだろう。

 心字池は無粋にも金網で囲われている。もったいない。

 森の中にはワグネル先生の碑がある。ここにはしょっちゅう来たことがあるが、実はワグネル先生とはどんなお方か全く知らないし、知ろうともしないできたが、この碑文を読んでみればわかるだろう。

●昔々住んでいたあたりの今は

 池のほとりを歩いてゆけば、昔々に2年間を暮らした如月寮があったところだ。キャンパス内だから教室にちかくて便利だった。今は自動車部の部室が建っている。

 中学校グラウンドとの間を抜けると向こうに、呑川を渡る木橋が見えてきた。昔々は橋はなくて、流れの上に板をかけて向こう岸にわたり、崖を昇ったものだ。

 橋の上から呑川沿いの桜を眺める。

 橋を渡れば、昔々はこの丘の上の全部が向岳寮で、わたしは1年間住んだ。どこかから移築してきたという古い木造平屋の寮室群が2棟、ほかに食堂とホール棟が建っていた。全国からやってきた大勢の学生たちが住んだ。けっこう住みよかった。

 火が出ると全滅だなと思っていたが、わたしが出てから何年か後に燃えてしまった。寮は再建されることなく、跡地には建築、社会工学、土木系の教室研究室が建った。それらも今、建て直されている。

 ここには田町にある付属科学技術高校が移転してくるそうだ。建築・土木棟、社会工学棟が建っていた敷地はきれいさっぱり空き地になり、ただいま高校校舎工事中である。
 掲示を見れば、その設計は石本建築事務所である。たぶんプロフェッサーアーキテクトのどなたかが監修しているのだろう。


 もう見るべきほどの桜もつきたし、懐かしい場所の風景もがらりと変わったので、裏門から緑が丘の街に出た。昔々出入りしていた裏門は粗末なものであったが、今はそれなりに堂々としている。

 緑が丘の街にある例の市場風店舗の緑が丘百貨店は健在だったが、今日は日曜日で休店日だったようだ。すぐ隣は空き地になっているしその隣は建築中だし、この記念的百貨店も来年もあるかどうか怪しいものだ。

●さらに自由が丘までよろよろ歩く

 さてここでもう電車で帰宅しようかとも思ったが、日はまだ高いし、そうだ、昔々よく通ったみを自由が丘まで歩こうと思いついた。学生の頃に家庭教師アルバイトで、自由が丘の駅近くにあった商家の家庭に通った。そのころどぶ川沿いに歩いて往復した道が、川が暗渠となって桜並木の遊歩道になっている。これまで大岡山花見に来て何度か通っているが、そこも懐かしい路だ。問題は脚力が耐えるかどうかだ。
 
 その桜並木の道(九品仏川緑道)は健在だったが、桜の木がここもかなりの老化で、よれよれであった。道路上に張り出さないように強剪定されて可哀そうだ。どうやら椿の花の道にとって替わりつつあるようだ。ここでもわが身と比較するのであった。


 自由が丘の街は相変わらずにぎわっている。昔と比べるとおしゃれな店ばかりのようだ。昔よく来た飲み屋街のあのうまい魚を食わせる店はまだあるかなと探せば、今日は日曜日でお休みだが健在であった。

 自由が丘駅前広場に出て驚いたのは、ここでも巨大再開発事業が始まっていることであった。広い板囲いの中に工事用タワークレーンが建っている。
 写真の右側に東横線駅があり、その線路沿いに自由が丘デパートだが、その向かいの道を挟んだ大きな街区全部が再開発とはねえ、自由が丘の一番の場所だ。でもここには何があったったけか、そうだモンブランというケーキ屋があったなあ。飲み屋街の裏路地もあった。


 自由が丘デパートとその向こうのひかり街という、懐かしい二つの共同店舗ビルは、再開発から外れている。何となくほっとするのは齢のせいか。
 あの昭和時代感覚に満ちた共同店舗ビルが今も営業を続けているのは、それなりに理由があるのだろうが、こここそ自由が丘で最初に再開発事業になりそうな気がしていたので、ちょっと意外だ。

 というわけで、久しぶりの自由が丘は、変わっているようで変わっていないが、駅前再開発が出来上がると大変化が来るはずだが、それをわたしが見に来ることはもうないだろう。
 そして、ほぼ縁が切れた感じの大岡山母校花見にも、もう来ることもないだろう。
 2025年けっこうな最後の母校花見徘徊であった。
(2025/03/31記)
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伊達美徳=まちもり散人
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