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2025/10/09

1914【老酔録⑤】米寿と米呪、老衰と老酔 

 米寿と米呪、老衰と老酔  伊達 美徳

 わたしの郷里に住む歌人藤本孝子さんの第五歌集『碧空へぽかりぽかりとんでゆけ』に、こんな歌が載っています。

 「もう飽きた人生の盆地を飛び出したい」十八の頃と同じこと言ふ

 歌人によると、これはわたしのことだそうです。

藤本孝子歌集『碧空へぽかりぽかりとんでゆけ』 2025年10月版

 そのとおりで、わたしは少年時には、閉鎖環境の高梁盆地を飛び出したいと思い続けていました。少年は誰もそうだったことでしょうが、わたしのそれは十九歳の時にようやく叶いました。飛び出したままのそれから60年後、八十歳になったわたしはこんなことを書いていました。

「思えば十五年戦争のさなかに生まれ、もの心ついたら戦争が終わり、社会に出ると高度成長期、大きな災害傷病に遭遇もせず、平和な時代の幸運な人生だったが、また盆地脱出願望が湧きつつある。80年余の人生という盆地に、疲れてはいないが、もう飽きてきました」(『鳩舎第三号』2018年より引用)

 それからさらに7年後の2025年秋の今、これを書いています。そうです、いまだに飽きた人生盆地にいて、とうとう米寿になってしまいました。その間も平和であったかといえばこれが大違いで、この人生晩期になって、実は二つの大変な事件に遭遇したのでした。

●人生盆地の中で2重落とし穴に嵌った

 それは新型コロナパンデミック老々介護です。これらは人生盆地の底に潜んでいた、大きな落とし穴でした。前者は2020年初から始まり、後者は次の年の夏からと、二つの事件は重なり続きました。
 それらの二重落とし穴のどちらからも、ようやく抜け出すことができたのは、2024年の夏でした。密かに解放宣言を歌い唱えたものです。 

 だがしかし、この間に取り返しできそうにない大問題が起きていました。コロナは人々に出会うことを制限しました。在宅介護は特殊な世界に閉じこもらざるを得ませんでした。
 だから、わたしはこの5年間は世間から隔離されていたのです。それ以前は仕事の延長などで、社会とのつながりがいくつもあったのに、この間にいずれも断絶したのでした。落とし穴から抜け出したら、周りは荒涼たる世界でした。地獄から戻った浦島太郎です。

 若いうちならばこれを修復して世の中に復帰するのは容易でしょうが、後期高齢者にはそれは容易なことではありません。つながる世間そのものが消えているのです。
 コロナパンデミックという地球規模の事件に遭遇するとは、人間として実に稀有な珍しい経験をしたものです。右往左往の地球と世間を面白がってもいたのも事実です。

 そしてコロナ後には人間世界はどう変わって出現するのか、楽しみにしていました。未曽有の地球的事件を越えた人間の英知が、これを教訓に見事に再構築するに違いないと、ほのかな希望を持っていました。それを見たいために2重苦の苦闘の日々を生きてきたと言っても過言ではありません。

 だが実際にコロナの闇夜が明けた今、現実は見ない方がよかった世界が出現しています。まったく酷いものです。この分断世界はどうしたことでしょう。コロナがこれを生んでしまったのでしょう。またもや二度目の地球規模の戦争に出会いそうです。コロナの前にこの世を去っていった友人たちを羨ましいとさえ思います。

 この二重の落とし穴に嵌っている最中、わたしの世間とのつながりは、ほぼインタネットによるもののみであったと言ってよいでしょう。Eメール、SNS、ズームなどによる旧友たちとの交流や、ブログ書き込みなどなど、これがあったので正気を保つことができたと言ってよいほどです。インタネット社会に、わが人生が間に合ってほんとうによかったと思っています。

 そうです、この冒頭写真の歌集づくりも、インタネットがあればこそできているのです。藤本孝子歌集は、2014年の第2歌集「ぽかりぽかり」から第五歌集の今日まで十二年の間に、歌人とわたし(企画、制作担当)、この間に顔合わせしたのは3回のみ、全てインタネットによるやり取りで協同プロジェクトになりえているのです。インタネットあればこそ、こんな活動ができたているのです。

●歌集出版という知的遊び

 そして今年発行の第五歌集『碧空へぽかりぽかりとんでゆけ』は、2025年3月から、毎月10冊程度を制作発行してきました。この10月で100冊になりました。普通なら一度に多数の本にして、多くの人に同時に渡したいところを、このような悠長な毎月10冊発行としたのはもちろん理由があります。

 これまでの藤本孝子歌集の第二~第四歌集「ぽかりぽかり」シリーズは、ソフトカバーでしたが、今回は歌人もわたしも米寿になった記念として、格好つけてハードカバーにしようとなったのでした。 
 ところがこのシリーズは、わたしの趣味である手作りの本なのです。今どきの市販の本はすべて機械で製本していますから、手作りの本なんて珍しいのです。ソフトカバー本は手づくりでも簡単ですが、ハードカバー本はその10倍以上に手間がかかるのです。

 そこで考えたのです。一度に大量制作出版するのではなくて、毎月10冊づつ、毎月の新作の短歌も順次に載せて、手作りして10カ月で100冊にしよう、さらに続けることができたら来年までも続けようとなったのです。月刊歌集です。
 こうして3月から8カ月目の今月で、初期の目標100冊に達しましたが、このまま毎月発行をこれからも続けます。

 この月刊歌集遊びをいつまで続けるのか、それはわたしたちの老いが決めてくれることでしょう。それにしてもこの遊びは、老いゆくわたしには有意義なものです。
 そこで老いについてちょっと述べましょう。

●ついに八十八歳という米呪になったこと

 わたしは2025年5月5日に88歳になりました。昔から世にいうところの「米寿」です。もっとも、数え歳のそれは前の年になっています。これまで喜寿、傘寿なる齢を通り越すときには、ほとんど年齢のことを気にしたことはありませんでした。何を「壽ぐ」のだよ、今じゃそんな年齢は珍しくもないのに、と反発したものでした。

 ところが今年米寿になってみて、考えなおしました。そうか、これは「米呪」だな、この年齢を迎えたことを呪詛するんだなと、気が付いたのです。
 真実に対して遠慮会釈もなく「呪う」といわずに、同音で「壽ぐ」と迂回して言うことで、呪うべき歳になってしまったことを緩和しようとする、世間の浅はかな知恵に違いありません。

 わたしが米寿となって積極的に、これを米呪とも見立てて使おうと考えが変わったのは、もちろん理由があります。まさに呪うべきことが起きているからです。88年も生きたことがもたらす不幸です。

 その呪うべきことは二つあります。ひとつは前述のような事情で社会と断絶されてしまったこと、もうひとつは老いという不治の病に取りつかれたことに気がついたことです。長生きし過ぎたからです、残念無念。
 コロナと介護が明けたらどんな明るい世が待っているのか、大いに期待していましたが、裏切られました。まさに米呪が待っていました。

●コロナ後の世に失望してわが老酔録を書く

 というわけで、いまわたしは老衰期に入ったことを自覚したのです。もちろん人生はじめてのことです。それならば、自分が日々に老い衰えていく様を、自虐・諧謔・ギャグ的に記録しておこうと思いつきました。そうですわがインタネットサイト「まちもり通信」のなかに『老酔録ー米呪を越えて老いに酔い痴れる日々の記録』ブログを設けたのです。これまではコロナ後世界の観察に目を向けていたのですが、現実には失望してしまいました。

 そこで自分自身に目を向けることにしました。わが身がどのように衰えていくのか、おおいに興味があるので、老いて暇すぎる日常の格好のヒマツブシにしようとの魂胆です。ついでにこのブログ記事をインタネットで読んで面白がる人がいるとうれしいですね。

 米壽を呪詛して米呪と言い、老衰を嗤って老酔とするのです。酒飲み酔っ払い老人のようでしょうが、今や酔っぱらうほどに酒を飲む気力も体力も失せてしまったし、酔いでもって失せさせたいと思うほどの悩み事も過ぎ去ったのです。老いに酔い痴れるしかないのです。

 これが「卆呪」から「白呪」へと進む前に、なんとかしてコロリと逝きたいものです。そう、またもや起きるに違いない世界戦争から、絶対安全安心地帯の「あの世」へと避難しておくのです。

 では、「老酔録」の記事をどうぞごひいきに。
 ●老酔録―米呪を越えて老いに酔い痴れる日々の記録―https://x.gd/c1ANm

(注)この文は、藤本孝子歌集『碧空へぽかりぽかりとんでゆけ』(2025年)の、10月発行分に挟み込む「栞」に掲載した。

(2025/10/08日記)

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ーーー老 酔 録ーーー
米呪を越えて老いに酔い痴れる日々の記録

2025/06/14・1893【歌集をつくる
友人の歌集を毎月発行、
多分これが最後の本づくり
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2025/09/22

1911【老酔録③】ツキツキツキゴトンドガドガドガガラガララ、、これが先端医療技術かしらMRIって

 【老酔録②】からの続き

 ツキツキツキツキ、ゴトン、ドガドガドガドガ、ガラガラガラガラ、・・・いやもう全くうるさいことよ、機械騒音の見本市のようなオンパレードの真ん中に、身を縛られている。眼の前も目の下も目の上も、真っ白な円筒が身体を上から下まで、すっぽり取り囲んでいる。

 ここは発射されたばかりの宇宙船の中か、そっれとも潜水艦の機関室だろうか、どちらも乗ったことは無い、たぶんそうんな感じがする。もう20分も続く。
 そう、ここは近所の大病院の地下の一室にあるMRIなる機械の中だ。ここに入れられてもう10分もなるだろうなるだろうか、騒音は一向に止まないどころか、手を変え品を変え音程を変え、音質を変えて響く。こんなのが最先端の検査機械なのかしら、身動きならぬ身体を、金槌で叩いたり、突っ突いたり、削ったり、釘を売ったりしているらしいが痛くはない。体験的には鉄骨工場みたいだ。

 そこでネットで今どき評判のAI君に、「MRIってなあに?」と質問してみた。
MRIとは、強力な磁石と電磁波(ラジオ波)を用いて体内の臓器や血管などを詳細な断面画像として描写する検査法です

 ふ~ん、なんだかわからないが、その磁石と電磁波が大声でわめくなかを、ようやく30分ほどで解放された。わたしは閉所恐怖症だが、特に困った感もなかった。終わると検査技師が、これの紹介状書いたY医師に渡せと、CD-Rをくれた。

 そうであった。ここに来たのはかかりつけの町医者の内科医Yが、「脊柱管狭窄症の疑いがあるから検査を受けてこい」と、この大病院を紹介してくれたのだった。俺が脊柱管狭窄症だって、、と思いもしなかった医師の言にびっくりした。

 さっそくメールで同期生たちに聞いたが、返事くれたものは、わが日常の歩く具合を読んで、否定的な見解だった。そうだろうなと希望的に思うものの、一方で、またひとつ新たな病気にかかったのか、マッタク年取りたくないと、クヨクヨしている。

 さっそくこのCD-RをもってY医師の下に駆け付けたのだった。
 D(医師)「先生、MRIやってきました。これがそのCDです」
 Y(わたし)「いつ検査しましたか」
 D「はい、一昨日です」
 Y「では1週間ぐらいしたら専門医からの診断が来るはすです。わたしが見ても分かりませんから」
 D「え、あ、そうですかあ」(早く知りたかったのガックリ)

 しょうがないからCDを返してもらって、退出する時にひとこと言っておいた。
 D[ねえ、先生、本当に脊柱管狭窄症ですかねえ、友人に数人いますが、だれに聞いても私の歩きぶりでを見聞きして、おまえは脊柱管狭窄じゃないよ、ほんとならそんなに歩けっこないよ、と言うのですが、、、」
 Y「そう、だからこれで本当に脊柱管狭窄症であるか、そうでないかを診るためなんですよ」 と言うことで、まだおアヅケ状態である。もやもや・・

 実はこれまでに20年前に一回だけMRIに入ったことがあり、これがわたしが医師一般にに対する不信のもとにもなった。さらにもう一度、亡妻が昨年はじめにMRI検査を受けて、それで病因が分かり死因ともなったが、かかりつけ医の対応に不満がある。それらもここに書いておこう。  (20280922記  つづく)

老酔録米呪を越えて老いに酔い痴れる日々の記録
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2025/09/19

1910【老酔録②】2時間連続歩行も可能だが次第に速度低下と言うと医師は脊柱管狭窄症だからMRI検査と

老酔録①のつづき

 かかりつけ医師の定期診察を受けている話の続きである。いろいろ老衰現象課題があるが、まずは、服用させられている4つもの薬のうちのひとつを、停止するに成功した。

●歩行速度が普通の半分になった

 D(わたし)「では次の課題ですが、歩く能力が次第に低下しています。毎朝1~2時間を近所を散歩するのですが、徐々に歩行速度が落ちているようなのです。これは老衰自然現象でしょうね」

 Y(医師)「ほう、毎朝歩くのは素晴らしい。どれくらい歩きますか」

 D「歩く距離は2~3キロ、それを今は時速2キロ程度になっています。普通の人の半分くらいの速度でしょうね。歩きだしはもっと早いでしょうが、次第に落ちてきます。努力すればもっと早く歩けるが、長続きしません。歩幅はヨチヨチ歩きではなく、普通の歩幅です。足元がふらつく感じがあるので、転ばぬように杖を突いています」

愛用の杖(中央)

 Y「どれくらい歩いたら休みますか」

 D「1~2時間をほとんど休むことは無いですが、まあ、1時間くらいでちょっとそこらへんに腰をおろすこともあります。でも、あまり長く休むことは無いですね。ただ、速度が日々だんだんと落ちている感じがするのです。脚が重い感じでね。歩く距離はもっと歩けると思いますが、暑くなってくるので帰宅します。それで足が痛いとか、息が切れるとか、そんなことはありません。歩く気になればもっと長時間歩けそうですが、何しろ今は暑いですから、熱中症が心配でそれ以上歩きません」

 Y「そうですか、それは脊柱管狭窄症のようですから、MRI検査しましょう」
 D「エッ、脊椎間狭窄症ならば、わたしの同年の友人に何人か居ますが、いずれも・・」
 医師はわたしの言を遮るように言った。
 Y「とにかくMRI検査しましょう、F医院に紹介状書きますよ」

脊柱管狭窄症だからMRIをと医師が言う

 大学同期の友人に少なくとも3人は脊柱管狭窄症になったと聞いたが、いずれも100mも歩けなくなったと言っていた。わたしはまだまだ歩けるから、まさか脊柱管狭窄症と言われるなんてぜんぜん思っていなかった。

 医師に反論しようかと思ったが、それ以上のことを知ってはいない。医師はなんだか紹介状を書きたがっている様子だ。まあ、MRIなんてものを22年振りにやってみるか、自分の骸骨を見ようかな、なんて思った。

 基本的にわたしは医師に不信感を持っている。2年前に股関節の痛みの診断で、近所の大学病院の医師が不治の難病と診断してくれたが、1年後に自然治癒したことがある。間違った診断つまり誤診だった(こちらを参照)。以来、医師を疑うようになった。今回もまさか・・。

 とにかくMRIの結果を見てからにするが、もしも誤診ならば、このクリニックからおさらばするかなあ。かかりつけ医師無しにするって無理だろうな、これから介護に転落は確実だからなあ。でも医師を変えるのも、変える先のあてがないし、めんどうだしなあ。悩む。

 とりあえずやることは、せっかく紹介状を書いてくれたのだからMRI検査に行くことと、脊柱管狭窄症先輩友人たちにメールして様子を聞くことだな。
 D[はい、それではF病院にMRI検査に行ってきます、あそうだ、十年ほど前に腰椎のひとつを圧迫骨折しています、関係あるかも」

 さて明日はF病院にMRIやりに行ってくるかな、どんなことが分かるのかな、怖くはないけど気になる。老衰期になるとこうやって次々と検査をするのかしら、そうやって医者は稼ぐのだろうか。

 検査して何かわかったら、それに対応してうまく死なせる方法をやってほしい。あ、そうすると金づるがいなくなるなあ、いつまでも細々と生きさせて、次々とカネのかかる延命策をやって稼ぐのかしら。まさか、、。 

      (【老酔録③】につづく 2025/09/19記)

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2025/09/17

1909【老酔録①】老衰遅延策の薬漬けか、老衰死へ適時促進か、老衰初心者の物語

●「老酔録」ことはじめ

 今日から「老酔録」と銘打って、老衰初心者として、自身の身体の衰えを、つぶさに書き込むことにする。ブログタイトルも「伊達の眼鏡ー米呪老酔録」と変更するのだ。

 88歳の超高齢者が、ブログやSNSに自身の老衰進行状況を書き込んでいるなんて、前例はあるだろうと思うのだが、今のところ私は知らない。自身の衰えぶりの真実を、自虐と諧謔の味つけをして語ろうと思う。目的は単なるヒマツブシである。

 実はこれまでにも「伊達眼鏡」ブログに、時々は「老い逝く自分を見つめる」というラベルの駄文を載せている。だがこれまでは、なんとなく老いへの遠慮、いや敬遠のようなものがあった。

 ここにきていまや88歳と5か月、堂々米寿、いや米呪だ。もういいだろうと遠慮会釈もなく「老酔録」と書くことにしたのだ。老いをあしざまに語っても、それは自身のことだから許されるはずだ。

 米壽を呪詛して米呪と言い、老衰を嗤って老酔と言うのだ。そのままに読めば酒飲み酔っ払い老人だが、今や酔っぱらうほどに酒を飲む気力も体力も失せたし、酔いで失せさせたいと思うほどの悩み事もなくなった。老いに酔い痴れるのだ。老いこそ呪うべきもの、嗤うべきものだ、米呪と言おう。

 じわじわと人生に老いという酔いが回る。ほどよく老いを酔いたいのだが、わたしはまだ初心者で生酔いであるらしい。そのうちに酔いが回ってくるだろう、そして酔いつぶれるだろう、そこまでゆったりと人間をやって行こうか。

●服用薬を勝手に減らす

 9月16日(火、曇) 10時ころ、近所のPクリニックへ、今年になってから生まれて初めて決めたかかりつけ医者(そうなった事情はこちら)の、月1回の定期診察である。なお、わたしは20年ほど前に大誤診された経験があるので、基本的に医師に不信感を持っている。

Y(医師)「いかがですか、体調は」
 この男性医師は循環器専門医のほかに2、3の専門も掲げている典型的町医者であるようだ。70歳代前半のようで、余計なことを言わずビジネス的な人である。医師には言いにくかったが、その処方による毎日服用指示の4種の薬のひとつを、勝手に服用停止したことから始めた。

 D(わたし)「いくつか申し上げることがあります。まずは、今月はフォシーガの服用を勝手に服用をやめました。それは夜間に5回も6回もの頻尿にほとほと参ったからです。この副作用で寝不足不機嫌な日々が続くのでイヤになりました。いまは夜間に1回か2回です」

 Y「5回ともなると困りますね。その薬は夜間に尿排泄を促進して腎機能を保つように働くからです。その薬を服用しないでいると、腎臓機能が次第に衰えてゆき、95歳ころには透析になりますよ」

 D「おお、95歳ねえ、そこまで生きていれば、、ですよね。もう十分に生きたから、その前に死にますよ。医師は長く生かすばかりじゃなくて、適時に死なせることもやってはいかがですか。そういう時代が来ていると思いますよ」

 Y 「ええ、はいはい、ムニャムニャ、では、あなたの腎臓関係データで説明しましょう」

こんなにもたくさんの薬って

 医師はわたしの身体のクレアチニンとかNTーproBNPとかGFRとかの値を見せて、専門的かもしれない解説をしてくれた。例えばGFR値は生誕時は100だったが、今は37.4だそうだ。そりゃまあ、こんなに長く生きてりゃ古物化して、製造初期能力の4割を切るってあたりまえだろ、なんて思ったが口には出さなかった。

 この数値について、あとでネットで調べた。30以上は中程度の機能低下で重度疾患ではではないらしい。でも見せてくれたわたしの実績値は、今年3回の血液検査の度に次第に低下している。それは老衰過程にある人間だから当然のことだろう。

 Y「では、ここであなたが選択してください。ひとつは腎臓薬を飲み続けて透析が必要になる時期を先に延ばすこと、もうひとつは服用をやめて95歳頃には透析になるリスクを背負うこと、どちらにしますか」

 D「はい、それはもう当然に後者ですね、日々頻尿による寝不足で不機嫌な日々を送るなんてこの年になってもう嫌です。95歳の未来に良いことがありそうにない、透析になる前に死ぬことにします」

 Y「はい、わかりました。今後は血圧薬だけにしましょう」
 と言うことで、医師は患者の責任で投薬中止にしたのである。よろしいでしょう。

 これまで朝夕の食事に飲めと処方されていた薬は、血圧と甲状腺対応だけになった。それでもまだ3種類もある。さて、これらをやめることができるか、これくらいは服用続けるべきか、悩む。要するに必要もないし望みもしない延命に過ぎない、と思うのだ。

 さて、これで一つ片付いたから、次の作戦に移ろう。脚のムクミと歩行速度低下の問題である。                  (20250917記  つづく) 

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ーーこのブログの関連記事(今年から始めて医院に通いだしたわけ)ーー

2024/12/16・1857【高血圧事件①】米寿にして遂に本物の病人かhttps://datey.blogspot.com/2024/12/1857.html

2024/12/22・1858【高血圧事件②】八十年を超える運転部品にガタhttps://datey.blogspot.com/2024/12/1858.html

2025/01/02・1859【高血圧事件③】 放哉をきどり「屁をしてもひとり」https://datey.blogspot.com/2025/01/1859.html

2025/01/15・1862【介護保険へ】介護保険適用手続きを・https://datey.blogspot.com/2025/01/1862.html

2025/01/29・1865【ある死亡記事】87歳でも老衰死が・https://datey.blogspot.com/2025/01/1865.html

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2025/09/04

1907【酒屋が薬屋】薬なんて風邪と怪我しか縁が無かったのに今や朝夕4粒も飲まされて年寄り気分に

●酒屋が薬屋ってマッチポンプだぞ

 いつもは新聞折り込み広告なんて見もしないでゴミ箱行きなのに、今朝は捨てようとしてふと目が留まった。そこにはSUNTORYなる文字が見え、何やら瓶に入った薬のようなものの宣伝らしい。眺めてみてもよく分らないが、これがサプリメントというものらしい。

東京新聞のニュースと折り込み広告

 昨日の新聞一面に、サントリーの新浪とか言う社長だったか会長だったか親分が、毒物サプリメントを輸入とか服用とかで警察に捜査されて、”潔白だけど格好が悪いから辞任する”なんてトップニュースがあったことを思いだしたから、目に留まったのだ。

 ふ~ん、サントリーって酒屋と思ってたら、薬屋もやっていたのかあ。確かに酒飲むと身体に良くないことになる確率が高いから、それを薬で治したいことになる。だから薬を売ればもうかるってことになる。これは酷い商売だ。

 いわゆるマッチポンプだな、火をつけて火事にさせ、消防車を呼んで手柄顔をするなんて、つまり往復で儲けようなんて、新浪って悪い奴なんだな、警察にうんと絞られるのがよろしい。そんな奴が経済界のリーダーであってたまるか。

 いや、もしかして、サントリーの経営が悪くなって来たので、親分が身を挺してサプリメントを大々的に売り出そうとの宣伝作戦かもしれない、なんせ、サントリーと言えば山口瞳や柳原良平や開高健などを輩出した宣伝上手なんだからね。

 てなことで、この一件はこの辺で、よろしいでしょうかね。 と思っていたところに、折も折、うちの郵便受けにこんなものが入っているのを見つけた。エッ、これも新浪宣伝作戦のの一部かな、タイミングが良すぎて気味が悪い、開封するかなあ、どうしようかなあ。



●わたしと薬

 薬と言えば、わたしも今年からとうとう毎日朝夕食後に薬を合わせて4粒も飲む身分になっている。薬なんて傷薬には縁があったが、飲み薬にはたまにかかかる風邪薬くらいのものだった。それが毎日4粒も飲むようになるなんて、、。

いったい何の薬かしら

 身体のどこかが痛いとか痒いとかって自覚症状が何もないのに、こんなもの飲んでよいのか、どうも腑に落ちないが、医師の言うままにしている。今年になって足がむくむとか、夜中の小便回数が増えるとか、これらは薬のせいかもという疑念が抜けない。

 そもそも薬を飲みだした、いや、飲まされだしたのは、去年暮れごろに受診した無料健康診断だ。どこも悪くないけど長期にわたって受診しなかったの気がついて、暇だし無料だから行ってみるかと受けたら、すぐ血圧専門医にかかれと診断されたのが契機だ。

 そして専門医にあれこれ有料検査されて、今年正月からめでたく年寄り仲間に入った如くに、朝夕食後に薬を飲む、いや、のまされる日々が来たのだ。

 もう10年以上も前のこと、大学同期生たち数人と、一泊旅行したことがあった。その旅館での朝夕に、誰もが食卓に薬をならべて片端から飲む。遠足のお菓子のようで、羨ましかった。聞けばそれぞれにそれなりの薬であり、わたしは飲む状況になりたくなかった。

 そして今、わたしもそうなったのだが、どこも悪くないのになぜ飲むのか、毎食後に疑問を持ちながらも、医師の言うことだから悪いことであるはずはないだろうと、服用している。でも、たびたび忘れる。

 ついでに血圧を測って薬の紙袋に記録するのだ。毎度同じようだが若干は上下する値いに、だって俺は機械じゃないから当たり前だよと、いい聞かせるのである。要するに食後のヒマツブシである。これからどんどん粒が増えるかしら、医師と薬屋のいうままに。

(2025/09/04記)


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2025/08/17

1905【少年の日の戦争】80年前の少年の記憶の戦争は小さな城下町盆地の鎮守の森に

中国侵略日本軍の父(1939年保定にて)
  今年2025年の夏は、1945年8月15日に当時の裕仁天皇が、太平洋戦争に負けたことを、ラジオ放送を使って、国民に直接知らせた日から、ちょうど80年ということらしい。それをなんだか特別に雰囲気が世の中,特にジャーナリズムにある。80年だろうが79年だろうが変わりはないだろうが、なぜか。たぶんそうやって戦争を忘れないようにする仕掛けであろう。それは故人をしのぶ法事のようなものだろうか。

 でもまあ、わたしも88歳という覚えやすい年齢だから、せっかくの敗戦80年に協賛して、幼年時少年時に出くわした戦争の、いかにもそれらしい出来事を、記憶から引っ張り出すことにした。実はこれまでもばらばらにこのブロブに書いている(参照:まちもり通信「戦争の記憶」)のだが、 まだボケないうちに、ここでまとめて書いておくことにする。

 たまたま、今年いっぱいかけて月間として私的発行している歌集に挟み込む栞に、少年時を過ごした生まれ故郷故郷高梁盆地での戦争の記憶を書いたので、それに少し手を加えたものをここに載せる。

故郷高梁盆地の戦争の記憶   伊達 美徳

 この文を藤本孝子第五歌集「碧空へぽかりぽかりとんでゆけ」の8月版栞原稿として書いている日は2025年8月14日です。80年前の明日15日は、日本が太平洋戦争に負けたことを、当時の天皇がラジオ放送で国民に伝えた日です。この日を日本では敗戦記念日としています。夏八月は今でも戦争を思い出します。

 わたしは日本の十五年戦争(1931~45)の真っただ中の1937年に生れ、敗戦の時は国民学校初等科3年生でした。高梁盆地は空襲という直接的な被害はありませんでした、住民の生活には深い被害がありました。わたしには戦後の貧窮で空腹の日々こそが最大の戦争被害でした。8歳の夏に敗戦の日を迎えたわたしの戦争の記憶を書きます。

●80年前の8月15日のこと

 1945年8月15日は、いかにも夏らしい晴天でした。わたしの生家は御前神社です。その社務所の大広間座敷には、その1か月半前から芦屋市の精道国民学校初等科六年生女児20人と職員1名が、集団学童疎開でやってきて滞在していました。盆地内のほかの寺社などに児童51名が戦争避難しており、その子どもには戦場でした。

 そのころはラジオのある家は限られていましたが、その疎開学級にはありました。その社務所の玄関口に近所の人々十数人が集まってラジオを囲んでいます。その横でわたしは大人たちを見ていました。ラジオからヒロヒトさんの分かりにくい言葉と雑音がながれていました。それが敗戦の詔勅放送でした。もちろん8歳のわたしには内容を分りません。その場の情景の記憶のみです。

 放送を聴き終わると誰もみな声もなく散会して、誰もみな黙りこくって一列になって、参道の長い石段をトボトボと下って行くのを、わたしは社務所縁側から見送っていました。緑濃い社叢林の上空あくまで晴れわたり、森の中はいつものように蝉の声に満ちていました。

沈黙の湖になりたる盆の地よ昭和二十年八月真昼 

           (2014年藤本孝子第二歌集あとがき掲載の拙詠) 

 それから数日の後に疎開児童たちは芦屋に戻ってゆきました。ところが芦屋はその数日前に空襲を受けており、中には親を亡くした子もいたのでした。あの女の子たちはその後どのような人生だったのでしょうか。
 その半月後、父が参道の石段を登ってきて、3度目の戦争からの帰還をしました。

●父を戦場に送り出して号泣する母

 わたしの父は、日本の十五年戦争中に三度も招集され、最初と2回目は中国へ赴き、3回目は国内に居ました。延べ7年半も兵員として過ごしたのでした。その三度目の太平洋戦争への招集礼状は1943年12月に来ました。これについて強烈な記憶があります。

 戦争に出かける父の出発を、備中高梁駅で母と共に見送りました。家に帰りついて玄関を上がり、畳の間に入ったとたん、母は前に倒れ、両手で顔を覆って畳に押し付け、号泣し始めました。その慟哭の大声はやむことなくつづきます。目の前で大人に泣かれる5歳の幼児のわたしは、そばに座りこんでおろおろ、号泣に合せて母の背にある帯の結び目が大きく上下するのを、ただただ見つめているばかりでした。

 やがて誰かがやってきたらしく勝手口の方から案内を乞う声が聞こえました。母は急に泣き止み、今泣いていたことを誰にも言ってはいけないと、わたしに厳しく言いつけて立ちあがりました。その時に母の胎内には半年後に生まれる第三子がいましたから、その慟哭は当然でしたが、世間で表向きには、戦場への出征を嘆くのは非国民でした。

 父は南方戦線に送られるのを姫路城内にあった兵営で、しばらく待機していました。何回か母と共にそこに面会に行った記憶があり、幼児には楽しい遠足でした。だが、負け続ける日本軍は制海権を失い、輸送船もなくなり南方行きは取りやめになりました。母とわたしたちには幸運でした。

 1945年春に父の隊は小田原に移駐しました。湘南海岸に上陸するであろう連合軍を迎え撃つべく、本土決戦準備をしていました。小田原はその敗戦記念日となった日に、アメリカ軍の空襲を受けたのですが、父は仰撃陣地づくりの山中に居て無事でした。敗戦の月末に帰宅したときは、家族が一人増えていました。

 こうして幸いにも母の嘆きはむなしいものとなり、戦争が終わると同時に夫を無事に取り戻すことができました。しかし母の実弟は、その年の5月にフィリピン・ルソン島山中のジャングルで戦死し、その若妻と乳児が母の実家に残されたのでした。思えば敗戦時に、父母はともに35歳でしたが、3度の戦争兵役を経て夫婦ともに健在は、奇跡的だったかもしれません。

●国民学校初等科の戦中戦後 

 戦争教育については、国民学校初等科の低学年ですから、あまりそれらしい記憶はありません。修身の時間に校長先生が教室にやってきて、神話の話をしたような気がします。広くもない校庭でグライダーを見た記憶があります。

 本館に天皇の写真があるという奉安殿があり、前を通るときに「奉安殿に礼!」の号令で一礼しました。ある時、悪ガキ上級生が「オオアンゴウに礼!」と怒鳴って逃げて行きました。岡山方言で大馬鹿者の意味です。

 校庭で毎日の朝礼の時に、壇の上に立った先生か上級生かが、モールス信号の機械でなにか文を打ち、分かった生徒は手をあげて答えます。今のクイズのようで面白く「イトー」「ロジョーホコー」と信号を覚えたものです。こうして「銃後の少国民」が育っていました。

 戦争が終わると、月に1回ぐらいの割合で、学級に編入生がやってきました。ほとんどが引き揚げ者、つまり中国や朝鮮半島からの帰国者のこどもです。はじめは転校生に違和感をもっていても、子どもはすぐに仲良くなりました。田舎の子には刺激になりました。隣町の小学校に、満州の奉天(現在は審陽)からの引き揚げ少女が編入しました。ずっと後にわたしの連れ合いとなる人です。

 敗戦の年は教科書が問題でした。教育方針が180度転換して内容を変える必要があるけれど、紙がないし印刷も間に合わない。学校からの指示にしたがって、それまで使っていた教科書のあちこちの文章を、母と一緒に筆で墨塗りしました。教科書は大切にして汚さないようにといわれ、使い終われば知り合いに譲っていたものでした。それをこんなことしてもよいのか、と思ったものです。

  でもそれは、なんだか面白い作業でもあり、あちこち消すために終わりのペー ジまで読むことになり、ちょっと勉強した気になりました。消すところは国語に多くて、どういうわけか理科にもあったような気がします。なぜここを消すのか不思議に思ったところもありましたが、母がそういったのかもしれません。

 次の年、印刷した新しい教科書がきましたが、それは製本してありませんでした。8ページ分が1枚になったままの数枚でしたので、それらを切りはなしてページ順にそろえて、自分流の表紙をつけて1冊の書物に作り上げました。自分が教科書を作ったような気になりましたが、それは今のわたしの「本づくり趣味」のルーツかもしれません。

 大人たちは価値観の大転換に直面してとまどい右往左往でした。小学校の教育のやりかたも変わり、教室の席の並び方が何度も変わった記憶があります。黒板に向いて先生の話を聞く授業から、みんなで話し合って考える方式になったらしいのです。でも、教師もよく分かっていないらしく、グループに分けたり、丸くならべたり、四角にしたりと、あれは実験していたのでしょうか。

 時には、教師が授業中に黒板に書きながら、「こんなやりかたをしてはいけないんだけど、」と、弁解していた記憶があります。それは戦時中の教育方法で、これからはやってはいけないと教育委員会あたりからでも言われていたのでしょう。どこがいけないのか子どもには分かりませんが、教師が学童に弁解するのもおかしなものだと思いました。大人たちは狼狽していました。

●新制中学校へ

 そんな中から、戦後民主主義教育は着々と進んできました。戦後の教育改革でわたしが出会って当惑したのは、1947年に新制度になって新しい中学校が誕生したことです。盆地内には旧制の中学校がありましたが、これを新制の高等学校としたので、新制中学校は盆地内の別の場所に建てられました。

 ところがその新制中学校の急造校舎は狭くて、生徒が入り切らないのでした。そこで二年生からそこに入ることにして、進入の一年生は盆地内の南端にあった南小学校の空き教室に仮住まいしました。わたしたち小学校を卒業してまた別の小学校へ通うのでした。

 わたしの家は盆地の北の方でしたから、通学路は盆地を北から南まで縦断する遠距離でした。2年生から急造校舎の本校へ通うようになりましたが、校庭は狭く、校舎は粗末、鉄道騒音や工場悪臭など、酷い環境でした。だからでしょうが卒業数年後に他に移転しました。

 でも、ここでよかったと思うことは、新制中学校には戦後の新しい高等教育を受けた教師が赴任してきて、素晴らしい教育に出会ったことでした。わたしは戦後民主主義教育の最前線を歩んで来て、「民主主義スクスク世代」と自負しています。教育は敗戦がもたらした良いことでした。

●空腹の日々 

 敗戦は飢餓をもたらしました。幼い少年にとってはここから戦禍が始まりました。盆地内の別のところに、神社経営を支えていた広い小作の水田がありましたが、農地改革でなくなりました。長期割賦支払いの補償金は、戦後の超インフレにより紙屑同然になりました。

 神社の小作米収入が消えて、父母は食糧の調達に苦労をしていたようです。5人家族が食べていくのは大変なことだったでしょう。神社の広い境内広場は、戦中は武道鍛錬の野外弓道場でしたが、戦後は芋畑に転じました。子どもにはただただ空腹の記憶ばかりです。

 なによりも、戦争推進の末端組織の一つでもあった神社への信仰が、敗戦で地に落ちてしまいました。父の神社神主という職業自体がなりたたなくなり収入の道が絶えたようです。 教科書も給食も有料でしたから、学校への支払いについての親の態度で、わが家の経済状態が児童のわたしにもよく分かりました。数年後に父が高等学校に事務職を得るまでは、家計は大変だったようです。

 大人たちは、どこでもいつでも食糧調達の話ばかりしていました。それが大人の通常の会話なのだとわたしは思っていたのですが、あるとき伯父が誰かとの会話で、こんな食い物の話ばかりして世の中困ったものだ、というのを聞いて、これは大人にも異常な状況なのだと気がついたことがあります。

 小学校で給食が始まりました。脱脂粉乳を湯に溶いたミルクと、マイロ粉という輸入トウモロコシ粉の黄色コッペパンがメインで、たまに干した果物がついたりしました。当時でも美味だったとは言えませんが、空腹のこどもには嬉しかったものです。多分、一番嬉しかったのは、一食分を食べさせなくてもよくなった親たちでしょう。

 まともな主食はなくて、朝早く行列して買った水ぶくれこんにゃく、麦のほうがはるかに多いお粥、野菜たくさんの雑炊、薄いうどん粉団子のすいとん(団子汁といいました)、蒸したさつま芋(これはご馳走)などが主役でした。もちろん、これらが同時に食卓に並ぶことはなく、一人あたりの量もすくなく空腹でした。あの頃の親たちは、自分の分を減らし、時には食べないで、こどもに食べさせていたはずです。思い出したくない食い物の恨みです。

●神社に今ものこる戦争の傷

戦争に行った釣り鐘の帰還を待ち続ける御前神社鐘撞堂
 生家のあった御前神社は、今も境内の山林も広場も変わりなく存在しています。戦前からの社殿建築の本殿、拝殿、御輿蔵、鐘撞堂もそのままに建っています。変わったのは老朽化した社務所が建て替えられたことと、宮司の社宅(わたしの生家)が消滅したことです。

 実は神社建築にはいまだに癒えない戦争の傷跡があります。それは17世紀から鐘撞堂に釣られていた時の鐘(1651年設置)が、鋳潰されて兵器となるために1940年に金属供出され、いまだに不在のままであることです。鐘のない鐘撞堂は鐘の帰還を待ちくたびれて、今や立ち腐れしようとしています。

 この鐘は城下に時刻を知らせる「時の鐘」の役目で、当時の藩主により設置されました。藩政期には鐘守役の人たちの住む長屋が近くにあり、毎朝夕の定時につきました。維新以後は神社に帰属して宮司が守役となり、父も撞いていました。父が不在の時は母が撞いていました。高い楼閣に上る急な階段は、結構怖いものでした。

●またもや戦争の気配

 今、世界各地で国家間や国家内部で紛争や戦争が起きて、止みそうもありません。欧米諸国でも日本でも、あの戦争を忘れた言説を唱える極右政党が台頭しつつあります。理解できない奇妙な言動をする大国リーダーたちもいて、力を振り回しています。
 なんだか世界戦争の再来の気配です。戦後90年、戦後100年には、第三次世界大戦になっているに違いない雰囲気です。しかしそうなるにしても、その時にはわたしは存在していないので、安心です。その前に「絶対究極安全圏」へ、早急の避難しておきたましょう。もう88年も生きたので人間生活は十分に体験しました。

(2025年8月14日記、補綴2025/0817)

このブログの関連ページ
戦争の記憶
父の十五年戦争

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2025/08/11

1903【都市漂流人生】人生19番目、最後から2番目の住み家へ、わが都市流浪はついに漂着するか

 わたしは八十八回目の夏を迎えており、それなりに元気で過ごしている。

    願わくは熱に中りて夏死なむ文月葉月の真昼真中

と、西行法師をもじって、今年も夏の狂歌を詠むのだ。それにしても暑い日々だ。

●人生19番目にして最後から2番目の住まいへ

 国際紛争の多発そして内外ともに極右台頭の世界情勢で、どうやら、わが人生で二度目ので戦争に出会うことになりそうな気配だ。そこでそろそろ、"究極の安全避難地"へ早期移転したいと考えているところだ。

 そんなときもとき、今年(2025年)7月半ばに、わたしの住まいを移した。生まれた家から数えると、19番目の住まい(一年以上継続)である。これまで西から東へまた西へ東へと、日本列島の都市を漂流した。これが人生最後から2番目の住まいだろう。

 と言っても、同じ共同住宅ビル内の2階分上に移っただけにて、これまでと変わらぬ生活環境である。もう88歳という歳も歳だから、当然のように高齢者施設に移ることも検討ししたが、結局はこうなった。

同じ共同住宅ビルの7階から9階へ縮小移転

 ここ横浜都心部に移転してきた時は65歳だったから、それから23年も経った。それまでは鎌倉の谷戸の中で、一戸建ての木造住宅に23年間住んでいた。そこは緑豊かだが、街までバスで15分のところだった。買い物不便が一番問題だった。

 だから、高齢者の仲間入りした時に、その生活環境を考えて、ここ横浜都心部の公的借家(県住宅供給公社)の共同住宅を選択したのだった。鎌倉では静かな森の中で鳥の声ばかりだったが、こちら横浜都心住宅街は交通騒音に溢れている。それを凌駕する環境は、あらゆる都市施設が歩ける範囲にあり、生活には便利なところであることだ。

 ここを選んだもう一つ重要なことは、ひとつのビル全部が公的機関による運営の「賃貸借方式の共同住宅」であることだ。鎌倉の小さな庭の小さな家でも、一戸建ての住宅の管理は面倒なことであった。自分で管理しなくてもよい公的借家を探した。

 ここ横浜都心では、歩ける生活圏に医療や福祉の施設も数多くあり、図らずも遭遇した3年にわたる病妻の在宅介護も、それらを目いっぱい活用して円滑にできたのだった。ここに来た時は介護までも予測できなかったが、ここに老後の住まいを選んだことは、正しかったと再認識したのであった。

 ここを選んだ時に、もう一度の引越しがあるだろうと妻は言っていた。それは高齢者施設のことを指していたのだが、彼女はこの家で3年の在宅介護ののち、昨夏に独りで最後の移転をして行った。

 さて、独居老人となったわたしは、このままここにいるか、どこか他に移るかといろいろ検討した。自分の年齢と体調と懐具合そして初老の息子と相談しつつ、高齢者向け施設をいくつか見分にも行ってきた。しかし、どれも帯に短し襷に長し状態で、唯一移りたいと思い入居仮申込した近所の「サービス付き高齢者住宅」は、満員状態が続いており、1年たってもお呼びが来ない。

 そこで、現住居の同じ共同住宅ビル内で、独居老人には広すぎる4LDK住戸から、相応の1LDK住戸に移ったのである。掃除も簡単だし、2階分上なので眺望も開け、家賃もそれなりに安くなった。

 これまで22年間を住んだ横浜都心で、今の公的借家生活の継続が、わたしの身体がまだ動くから、ある程度の期間はこのビル内で暮らせるだろう。いずれ介護が必要になるとしても、病妻の在宅介護体験から、超高齢者にも住みよいと分かったから、ある程度は生活可能だろう、高齢者施設でなくてもよいだろう、という判断である。甘いかもしれないが、、。

 たぶん、これがわたしの人生で最後から2番目の引っ越しであろう。いや、ホスピスに移るかもしれないが、そうなると最後から3番目になるのか、、。
 ともかくも、今は9階からの広くなった空を眺めつつ、これまでと同様に街なか徘徊をして、日本の都市がどう変わっていくのかを弥次馬として眺め楽しむ日々である。

●わたしの住宅漂流一覧

 今回の引っ越しは、わたしの人生で19件目の住まいである。ただし1年以上を継続して暮らした住居であり、単身赴任等で家族とは別の住まいもある。
 実はこれまでのわたしの住宅漂流記は、このブログに既に書いている(参照:2000年2月~2008年7月 賃貸借都市の時代へ-体験的住宅論)。
 それに今回の引っ越しを加えて書くと、わが人生住宅漂流は一覧は下記の通りとなる。

持家:1937~56戸建て2階建:生家、高梁市御前町御前神社内 漂流以前      

漂流以前の高梁盆地の生家があった神社(矢印の位置)(google earth)

間借:1957~58大学寮木造2階建て長屋2階、川崎市高津 漂流開始

間借:1958~60大学寮木造平屋、目黒区大岡山東京科学大構内 

間借:1960~61大学寮木造平屋、目黒区緑が丘東京科学大構内 向岳寮

東京科学大学大岡山キャンパス内の学生寮があった位置(矢印) (google earth)

間借:1961~62公団賃貸借10階建て共同住宅4階、大阪市西区靱本町

借家:1962~63民営木造2階建て共同住宅2階、寝屋川市平池

借家:1963~65民営木造2階建て共同住宅2階、名古屋市東山区園山町

借家:1965~66公団営RC造5階建て共同住宅2階、名古屋市鳴海区鳴子団地

借家:1966~68民営ブロック造2階建てテラスハウス、太田市西矢島

借家:1968~79公団営RC造5階建て共同住宅2階、横浜市港北区南日吉団地

借家:1973~74公団営RC造14階建て共同住宅12階、堺市?、単身赴任

借家:1975~76民営RC造10階建て共同住宅3階、大阪市新大阪駅近、単身赴任

⑬持家:1979~2002木造2階建て戸建住宅鎌倉市十二所 

鎌倉の谷戸の中の自宅(矢印)(google earth)

借家:1991~94民営RC造3階建て共同住宅2階、品川区戸越銀座駅近、仕事用別宅

借家:1994~96民営RC造14階建て共同住宅2階、大田区梅屋敷駅近、仕事用別宅

借家:1996~98民営RC造14階建て共同住宅7階、品川区大崎駅近、仕事用別宅

借家:1998~99民営RC造14階建て共同住宅8階、目黒区目黒駅近、仕事用別宅

⑱借家:2002~25 県RC造公社営10階建て共同住宅7階、横浜市中区山田町

⑲借家:2025~現 県公社営RC造10階建て共同住宅9階、横浜市中区山田町

横濱関外の自宅がある共同住宅ビル(矢印)(google earth)

●わたしの住宅漂流以前:故郷の生家

 わたしのこのような都市漂流の旅も、そろそろ終わりの時が来そうである。だから、ちょっと振り返ってみよう。
 わたしの都市漂流が始まる前の19年間の出発地は、88年前の初夏、小さな盆地の街にある神社の森の中であった(上記①)。これは普通の家庭のそれと比べると、かなり異なる環境であったと言えよう。
 
 その神社の境内地は、盆地の中の街と山林の境界あたりにあったが、背後の神社山林も含めて広さは5ヘクタールくらいはあった。少年時代は、一般的にみると、かなり広い土地に暮らしていたことになる。

 そこには山林と森と広場と社殿群があり、戦前と戦中は盆地内の別のところにも、広い小作田を神社は所有しており、ここからの小作代金が神社運営の基礎を支えていたらしい。だが戦後に農地改革政策で小作田は小作人に譲渡(その割賦債権金額は戦後インフレで紙屑同様となった)させられてて消滅した。父は宮司と高校事務職の二股で家族を支えていた。後になって気がついたのは、普通ではない環境に育ったということだった。
石段を登った広場の森の中に社殿と生家があった

 街の山際の道路から参道の石段を昇った。参道脇には高楼の鐘撞堂(かつては時鐘があった)が建っている。高さにして20mほど登ると最初の広場があり、そこにわたしの生家社務所があった。そこから直角に方向を変えてまた石段を高さにして10mほど登ると上段の広場に至り、拝殿、本殿,御輿蔵等の社殿が建っている。

 広場の周りは高木群竹林で囲まれた森である。今もその景観構成はほとんど変わらないままである。変わったと言えば、参道の石段が坂道となってアスファルト舗装され、自動車で登れるようになったことと、神社境内の南にあった人い畑地が住宅地になったことだ。 (参照:→境内図、→社殿・生家

 この生家のあった高梁盆地は、気候は温暖だし、歴史のある城下町の小さな街だったが、生活の場としても教育の場としてもほぼ何でもそろっている暮らしよいところであった。そのような街を都市計画で「コンパクトタウン」というが、まさにそれであった。

 だが、少年のわたしには、周りを山々に囲まれた街にも、鎮守の森の中に閉じ込められた生家にも、その閉鎖的環境に辟易していた。この盆地を抜け出すのが少年時代の夢であった。実際に空に舞い上がり飛び出す夢を何度も見たものだった。その閉所恐怖症は今もある。

●わたしの都市漂流住まい
 
 19歳の終わりころ東京の大学に入ることで、盆地脱出という少年の願望をようやく叶えることができた。その後は、日本列島本州南部を東西の都市へ、そして都市の中でもまたあちこちの街へと、まさに漂流してきたのであった。

 敗戦後の日本がようやく高度成長に足をかけようとする頃に社会に出たが、そのころは住宅難の時代にも突入していた。仕事の都合で東京、大阪、名古屋、横浜など、日本の大都市で、多種多様な住宅に暮らしてきた。住宅難の荒波をかぶった。

 それはポットでの田舎少年が、身一つで日本の高度成長期の荒波を泳ぐ漂流の旅であった。あらゆる生活環境を巡った感がある。それは、まさに日本の成長期の居住環境政策の欠如そのものの荒海であった。都市計画家として自身の身を都市住宅政策のモルモットとして生きてきた感がある。実際に実験的に3年ごとに仕事場別宅を移転して、多様な都市居住を体験していた期間もあった(上記一覧表の⑭~⑰)。

 そんな中でも生活拠点として家族と共に住んだのは、鎌倉郊外)に23年、そして今も継続中の横浜都心⑱、⑲)に今年で23年である。生家に住んだのが19年だったから、今や東男になってしまった。ふりかえるとこれら3つの拠点的な暮らしの場は、どれも共通していることは盆地であることだ。(参照:3つの盆地

 一覧に見るように、わたしはこれまでに一寧以上住んだ住まいは計18件を数えるが、そのうちで家族と住んだのは計8件、単独で住んだのが10件である。この単独住まいの10件は企業所属時代の転勤での大阪単身赴任と、フリーランス時代の東京での仕事別宅である。

 フリーランスの都市計画家となってからは、仕事時間が不規則であるし、仕事先は日本全国各地に出かけた。そのために東京品川区内に小さなオフィスとその近くに寝泊まり別宅として小さな共同住宅を借りた。その別宅は実験的にいろいろな場所とタイプを選んで住んで、都市住宅を身をもって研究した。鎌倉の家から息子たちが巣立ってからは、拠点自宅に戻ったが、更に漂流は続く。

●老いを見据えた横浜都心借家

 これらの数多い居住体験により、わたしは都市住宅について、ひとつの信条を持つようになて来た。それは、都市住宅は土地を個々に所有し個々に建設するのではなく、計画的に共同して作り暮らすべきものとすることである。総有という考えかたがあるが、たぶんそれである。

 それは具体的には、区分所有方式の共同住宅(世間では<名ばかり>マンションという)をさけるばかりか、それに反対するのである。必然的にわたしの住むのは賃貸借型の共同住宅で、しかも公的な所有と運営管理下にある住宅選択となった。
 その理由は数多くあり、このブログに別に「くたばれマンション」)として多くの論を載せて来ているので、そちらに譲る。

 だからいよいよ老いを見据えた時が来た2002年、鎌倉の自己所有の小さな戸建て住宅を出て、おそらく最後になるであろう住み家として選んだのは、共同住宅の借家であった。神奈川県住宅供給公社が所有し賃貸運営している、横浜都心部にある共同住宅ビルの中の住戸を賃借したのであった。

 県公社運営住宅は郊外部も都心部も数多いが、わたしが選んだのは横浜都心部の伊勢佐木町に近くて、都市施設が歩ける範囲に充実している立地にある。病院も診療所も数多く、商業施設も文化施設も多様で数多く、大小の公園も多い。興味ないが野球スタジアムもある。もし生活保護世帯になれば一泊1700円の寿町ドヤ街もある。さすがに横浜都心部である。

 特に病院が多さが予想通りに、大いに役立った。介護施設も数多くあり、それは思いがけなく直面した病妻の長期在宅介護に、この立地が大いに役立った。近隣の専門家たちの訪問による看護、診療、リハビリテーション、入浴などと共に、近隣に立地するデイサービス施設などを、効率的に利用できたのであった。

 その共同住宅規模は3ブロックに3棟が建ち計381戸という大規模であるので、それなりの管理体制が整っている。住戸の規模も1DKから4LDKまで各種ある。2002年から住んできたが昨夏に独り者になったので、それまでの4DK住戸から1LDKに移り、面積も家賃も6割になった。同じ生活環境内での移転は、高齢者には迷いが少ない。
左は2002年から2025年まで住んだ7階の住戸、右は2025年移転後の9階の住戸

 こうしてわたしの人生は、緑の森の中の神社境内から出発して、ビルの森の中の空中陋屋で終わりを告げようとしている。ここにどれほどの期間を今後に暮らすだろうか。現在88歳だから長くはないはずだし、長くここに住む願望もない。だが、幸か不幸かたぶん同年配の男と比べると健康な方であろうから、やむを得ずに長くなるかもしれない。困ったことだ。
 
 世界の情勢はきな臭い。わたしが生まれた88年前は、日本は十五年戦争の真っただ中であった。ところが今、またもや世界戦争になる気配だから、不幸にも人生で2度もの世界戦争経験者になるかもしれない。その前にあの世という「究極の避難地」に移転したいものである。そこは最後の引っ越し先として20番目の住み家になるはずだ。
                (2025/08/11記)

ーーこのブログ内の関連する記事ーー
●まちもり通信サイト「くたばれマンション
●「体験的住宅論」賃貸借都市の時代へ-2000年2月~
 ●【片想いの賃貸住宅政策】住宅供給公社よがんばってくれ 2010/02/28
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伊達美徳=まちもり散人
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2025/06/23

1895【六本木美術徘徊その2】タヌキに化かされながら国立新美術館に行き着いたが・・・

六本木美術館徘徊その1】からの続き


●新美へのでタヌキに化かされた

  篠原一男展のギャラリー間(下図の①、以下同様)のあとは、国立新美術館に行こうと、受付の人に道を聞く。地下鉄乃木坂駅に沿う地下通路を行けば、直線で近いし日も照らないから熱くない近道だと教えてもらった。礼を言ってまた階段を地下の通路に降りたが、地下自由通路はなくて、駅内を通り抜けねばならないと分かった。

ギャラリー間から国立新美術館への”遠い近道”

 では地下鉄ホームを通り抜けようとチケットを買おうとして傍らに張り紙に気づいた。地下鉄では同じ駅で入ってまた出るのは禁止とある。ケチな地下鉄だ。しょうがないから地上にまたえっちらおっちら昇って、地下鉄の上になる道路上をてくてく歩く。

 だがこの広い道はバタッと行き止まりになった。左横にある細道に入った。左の金網の中のすぐそばに新美の建物が見えている。これを行けば何とかなるだろう。細道はいつの間にか歩道橋になっている。右下に見える道に並行している。変な道だ。

 歩けどもすぐそばにある新美の敷地に降りる階段がない。だんだんと離れるようだ。おお、なんだか白昼夢になってきたぞ。空には夏の日が輝く。歩けど歩けど人2人がやっとすれ違えるほどの狭い歩道橋から降りる階段がない。

 熱中症で頭がおかしくなってきたか。そうだ、昔このあたりの森に棲んでいて開発で追い出されタヌキが、歩くやつを化かしに来たのか、なんて思う。え~い、それならそれで面白い、とことん化かされてみよう。

 どんどん歩く。何の案内標識もない、だれも通らない。おかしいなあ、地下鉄乃木坂駅から直結する入り口があると聞いたから、このあたりに新美に導く階段があってもよさそうなものを・・・。新美が遠ざかる。

 ようやく左に細い階段を見つけた。階段の向こうに車が通る広い路が見える。ここでタヌキと別れることにして階段を下りれば、目の前に左矢印の先に新美術館との標識がある。やれ嬉しやと広い歩道を歩けどまだ新美は見えない。スガさんが大嫌いな学術会議ってこんなところにあるんだ④。

 大回りしてやっと新美西門、入ってさらに正面入口へ坂道をよろよろと登れば、ようやく新美玄関に着いた。いやはや近道と聞いていたから余計に遠かった。だっての出入り口そばまで真っ直ぐに来たのに全くつながっていない。ぐるりと正面迄も大回りさせられたのは、どういう計画で作った道だろうか。タヌキに化かされたみたいだ。暑かった、でもまあよいリハビリ運動になった、ありがたや。歳取ると心も広くなる。

左に新美術館に西門がようやく現れた 正面には六本木ヒルズのドデブビル

●久しぶりの国立新美術館で見たのは、

 久し振りの新美だ。今、このブログを検索したら2016年3月に、大学同期仲間5人とともにここを訪れた記録がある。倉敷の大原美術館の出張展示を見に来たのだ。思えば、その時の5人の内の2人はもういない。(そのブログ記事

 まずはかつての東大生産技術研究所の建築の残骸を眺める。美術館別館となっているが今日は土曜日は閉館中、ここだけ見て帰ってもよい気もしていたが残念。この生研には何度か訪ねてきた記憶がある。思い出せば訪問先は池辺陽、村松貞次郎などだった。新美設計者の黒川がほんの少しだけ残してくれた歴史建築だが、今では誰も覚えていないだろう。


 新美術館に入り、昼なのでロビーでサンドイッチと紅茶を買って昼食。そばのTV画面にこれから見ようと思う「リビングモダ二ティ展」の映像が流れている。見ても興味が湧かない。でもせっかく来たのだから見ようと展示ホール入り口に行くと長い行列、さすがに篠原展とは大違いだ。

 わたしはなんでも行列して待つという行為を大嫌い。2階の出口に行って会場内をのぞき込むと、モダンデザインらしい家具や照明器具などが並んでいるのが見える。とたんに、なんだまた例のモダンリビングかと、もう展示を見るのが嫌になった。菊竹も藤井もミースも土浦もカーンももういいやという気になった。早く言えばもう建築はいいやという気分だ。

 でもせっかくここまで久しぶりに来たのだから何か見ようと探す。書の展覧会が二つもあるが、同じようなものがいっぱいぶら下がる。マンガアニメゲーム展という私には最も縁が薄い展示がある。これでも見ようと入った。興味がわかぬままに一応見て出てきた。

●六本木徘徊目的は、、

 さあ、これであとは六本木の街を見て帰ろうとしたら、美術館から地下鉄乃木坂駅に直結している出口を発見、なんだ最初からこちらに来れば、階段の昇り降りしなくてよかったのだ。とたんに疲れがどっと出てきて、地下鉄駅にエレベーターでスムースに入って帰宅した。

 久しぶりの六本木行きは街を全く見なかったが残念だ。この街には夜の遊びには行かなかったが、六本木駅につながる共同ビル計画で1年くらい通ったところだ。あのビルはまだ建っているだろうか。アークヒルズにも社会人相手のまちづくり塾講師として毎週通った。あの辺りも建て替えが進んでいるだろうな。

 無事に帰りついたが、かつてあの辺りを何度もうろうろしているから、そのころの自分を思い出して比較すると、わが身体の衰えを知るのだ。
 街歩きは街の変化を楽しむのだが、同時にわが身体の衰えを自覚して悲しむことにもなる。いやいや、これもリハビリになった運動だったと慰める。

(2025/06/22記)

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2025/06/22

1894【六本木美術徘徊その1】久しぶりに六本木徘徊しようとまず建築家篠原一男展に行った


  昨日(8月21日)、急に思い立って久しぶりに六本木に出かけた。六本木あたりの美術館巡りと街の変化も見てこようと思う。4年ぶりくらいだろうか。

 まず「ギャラリー間」の「篠原一男展」を訪問。ここは初めて来る美術館だが、TOTOという陶器製品屋のショールームがあるビルの3階である。その前に地下鉄乃木坂駅からのアプローチでひどい目にあった。このあたりは坂だらけの地形だから、階段だらけである。今や杖付き老人のわたしはエレベータやエスカレータのお世話になっている。だが、ここではヨタヨタと急な階段を昇るしか行きようがないのであった。

 ビル3階の展示場に入ると、大勢の外国人らしい人たちがいる。おお、こんなにも人が来るのかと見まわす。この篠原一男という建築家は、建築系の人たちには知られていても、一般にはほとんど知られていないだろう。大勢を前に男が2人英語でしゃべっている。解説のようだ。どうやら団体客らしいが普通の観光客ではあるまい。このひとたちは何者だろうか。

 小さな展示場で住宅模型と原図そして写真類が展示してある。寡作の篠原にふさわしい規模だ。展示が「から傘の家」から始まる。今ではドイツのどこかに移設保存してあるらしい。先日死んだ詩人谷川俊太郎の家もある。傾いた土間で暮らすのは面白そうだと記憶がある。

 「から傘の家」で思い出したが、篠原の先輩にあたる人で「番匠谷暁二」という都市計画家がいた。この人は主にヨーロッパを拠点として中東やアフリカの都市計画の仕事をした。その若い時に日本での建築作品に「正方形の家」があり、まさに「から傘構造」そのものであった。この家のことは松原康介氏の論文に詳しい。

 わたしは東工大1年生(1957年)の時に、篠原に図学を教わった。その内容は忘れたが、図学演習にはけっこう面白く取り組んだことは記憶の底にある。在学中はそれ以上のことは無いのだが、その後に建築の雑誌に発表する作品には興味を持ったものだ。

 だが、わたしが直接に接したことがある篠原の作品は一つだけ、東京工大百年記念館である。今は東京科学大学博物館というらしい。そういえば、この建築は図学の演習課題の実物のようである。東科大正門横にワニ口頭を振りかざすメカゴジラ姿は、かたわらに隈研吾設計の草叢建築を従えて好一対になっている。

篠原一男設計・東工大百年記念館(東京科学大博物館)

 80年代初めに、東工大の研究室に篠原に会いに、近藤正一と一緒に訪ねた記憶がある。わたしは当時はRIAに在籍しており、建築家山口文象の作品と評伝(「建築家山口文象 人と作品」)を制作編集作業中だった。

 山口は晩年に東工大非常勤講師をしていたので、山口と篠原に接点があったかと聞きに行った。篠原の口から一般的な話は出たが、山口との接点は特になかった。

 篠原直筆の原図の展示がある。その木造住宅は小屋組みなんてものはなくて、どれも垂木構造のようだ。あの詳細圧縮表現とでも言うのだろうか、木造住宅の1/20の詳細平面図を懐かしく見た。わたしも昔々にこんな図面を真似して描いた覚えがある。

 混んでいる3階を避けて4階に行き、見終わって3階に戻ると、もう誰ひとりいない。土曜日でも、篠原展を見に来る人はまれなのだ。ゆっくりと鑑賞して、辞したのであった。
 この後に行こうする国立新美術館の「リビングモダニティ展」もそうだろうか。

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2025/06/14

1893【歌集をつくる】今年は友人の歌集を毎月発行しているが多分これが最後の本づくり趣味遊びだろうな

 家庭用プリンターのインクが高価なのにイヤになる。購入して5年になるが、もうプリンターを何機も買えるほどにもインク代を費やしている。プリンタメーカーの商売策策略だろうが、その手に乗らざるを得ないのがしゃくだ。

2014年からの発行歌集と最近のプリンターインク残骸

 わたしの趣味は、本の手作りである。基本的にはPCを使って自分で原稿を書き、編集し、本のデザインをして、家庭用プリンタで印刷し、机上の紙工作で本を製作するのだ。
 できあがった本の具合を眺めて満足し、知り合いに読め読めと押し付けるのである。これが趣味である。たぶん、陶磁器つくり趣味と同じだろう。

 今年は、歌人である幼馴染の友人が詠む歌を、毎月選歌して、個人歌集として、わたしが制作発行している。これには更に共通の友人二人が加わって、それぞれの趣味の花と絵の写真を添えるのである。こうして歌詠み、花づくり、絵描き、本づくりそれぞれ趣味の4人の仲間による共同制作である。なんと典雅な遊びであろうと、密かに自負している。

 毎月の発行部数は、原則として10部である。今年3月に第1回目を発行して、4,5,6月と毎月発行して、現在のところ56冊まで来ている。
 歌人が毎月に詠む歌は数十首あるが、そのうちから数種を選歌して、毎月発行の歌集に載せる。第五歌集最初の3月発行分は90ページだったが、毎月の歌の追加により、来月分は100ページを超え、このぶんでは年末にはどうなるだろうか。

 本づくり趣味のわたしは、毎月の歌集を制作することを楽しむ。同じ歌人の歌集だから、毎月の歌集の基本的なデザインは変えないが、変えないままだと趣味としては面白くないから、ところどころ手を入れて楽しむ。これって盆栽趣味に似ているだろうか。

 実はこの歌人の歌集つくりをわたしが始めたのは、最初は2014年であった。この人の第一歌集発刊は2007年で、この時は歌集出版のプロによる商業出版だったから、広くゆきわたり、わたしも近所の市立中央図書館でこれを手に取った。

 次の2014年第二歌集からは、わたしの本づくり趣味で発行してきて、今年は第五歌集である。これまでは一度に100冊くらいを制作発行していたが、この第五歌集は毎月10部発行10カ月続けるという、長期プロジェクトにした。

 そうしたのには、それなりの理由がある。これまでの第二から第四歌集まではソフトカバー本であった。だが、今回はハードカバー本にした。歌人の希望でもある。
 それは4人の仲間はみんな米寿を迎えて、たぶん、これが最後の歌集になるだろう、だから手間がかかろうとも、見栄えのするハードカバーにすることにした。中身は同じでも、手に取ればそれがよく分る。

 ハードカバー本の制作は費用はたいして増えないが、手間が10倍くらいはかかる。本の製作はあくまで趣味だから、数冊ならともかく、100冊以上もとなると、制作には時間がかかって、趣味を超える。そこで今回の歌集づくりは、1年がかり長期プロジェクトとしたのである。製本を外注外注しようかとも思ったのだが、それでは趣味にならなくなってしまう。

 一年がかりならば、わたしのハードカバー本つくりもマイペースでやることができるし、歌人の歌詠みもいつものペースで進めつつ、歌集に採録できるのである。途中で老いが行く手をふさぐかもしれないが、少なくともそこまでの歌集はできあがる。

 もっとも、最初の歌集と最後のそれとは、収録する歌の数が異なるが、それもまたよろしい。ついでに毎月発行には、と称する小冊子を織り込み、そこには花と絵と本をつくる仲間の随想を載せる。

 そうやって現在は3月から6月発行号迄の毎月発行で4か月分で計56冊となり、予定よりは多く発行できている。実費支出は今のところで4万円余り、一番の支出はプリンターのインク代であることは冒頭で述べたとおりだ。

 暇な年寄りの遊びであり、歌人たちもわたしも楽しんでいる。もしかしてこれによって老人ボケ進行が遅延しているかもしれない。歌人も本つくり人も老いは待ってくれない。詠み人と本づくり人のどちらが衰えても歌集発行は止まるが、それはそれでよし、そう言う記録がっても面白い。

 だが、このところ1カ月ほど忙しくなって、本づくりペースをちょっと下げなくてはなるまい。これも締切がないも同然の長期プロジェクトだから調節できると分かっって良かった。じつはわたしは今、棲み家の引っ越しを目論んでいる。人生17度目にして最後から2番目になるはずだ。それはそれでぼけている暇がない。これについては別に書くことにする。

                         (2025/06/14記)

このブログ内で関連する記事
2024/03/06【歌集プロジェクト】歌詠む人花咲かす人絵描く人本作る人・・https://datey.blogspot.com/2024/03/1801.html

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2025/06/01

1891【戦後復興期都市建築研究】昔々担当した都市建築プロジェクトが研究対象になるほど古老になった

  先日のこと、K大学の旧知のN教授から、60年代後半に担当した某市駅前の防災建築街区造成事業について、当時のことを聞きたいとの連絡をいただいた。ではヒマツブシにキャンパスを久し振りに訪ねて、変わり様を見たいと思い出かけて行った。出歩くのがボケ遅延策でもあるのだ。

 久し振りに大学院生の若い男女たちと面と向かいながら、専門的なレクチャーのようなことをした。気持ちよく話をできたが、。院生の反応がもうひとつだったのはこちらのせいだろう。筑波大、東工大、慶応大、東京理科大と非常勤講師を渡り歩いていたから講義には慣れている。

 しかしもう歳が歳だから以前のようにレクチャーは無理だろうと思っていた。研究室で何か質問してくれればボチボチ話そうと思っていたら、意外にもゼミの場に連れていかれた。しかも十数人の若い男女の院生たちがいる。

 彼らは日本各地の戦後復興期の都市建築作りであった建築防火帯や防災建築街区の研究をしているという。実は数日前に別の大学の学生からも、全く同じ件について問い合わせメールもあったのだ。

 それはつまりわたしが現場でやっていたことが歴史的事実として研究対象になったということ、つまりそれほどもわたしが老いたということだ。別の言い方をすれば、いわゆるわたしは古老になったのだ。複雑な気分だが、聞かれて答えるのは気分よろしい。

 これまでも他の複数の大学の学生や院生から、同様な問い合わせは何回かあって、メールで答えたことはあった。それで済んでいたから今回もその程度のことだろうと思ったのだが、こんなにも大勢の若者たちが熱心に取り組んでいるのには、ちょっと驚いた。

 問われた防災建築街区プロジェクトについては、これまで何度か専門的出版物に書いているし、わたしのインタネットサイトにそれに関するページもある。またわたしのPCの中には、防火建築帯も含めて、それに関する雑多の資料が蓄積されている。

 今回の研究現場状況にちょっとわたしは反省した。これまでもっと真摯に対応するべきであったと。そこでわがPCの中のこの件に関する資料の発掘に取りかかった。ざくざくと出てきたので、ざっと見ていたらいろいろと忘れたことも思い出してきた。

 ゼミで話が足りなかったのを反省して、それらを重いフォルダーにまとめて教授にEメールで送ったのであった。もっとも、古い資料がどれほど役に立つのか分からぬし、わたしだけしか判読できないかもしれない。研究者たちの熱意で跳ね返ってくるかもしれない。

 わたしはPCの中に仕事関係や独自研究等の資料がかなり多く蓄積しているはずだし、整理の仕方は自分流だがまあまあ良いはずだ。紙資料は他に寄贈したり廃棄して全部処分した。 思い出せばほかの件でもネットを見たからと、いろいろな人から問われることもある。

 今回のことから考えると、けっこうな量の資料があり、有名なプロジェクトもある。例え

ば40年くらいも前にやった東京駅の再開発調査は、いまの赤煉瓦駅舎復元を決めるまでの紆余曲折の実に面白い仕事だった。

 これは世間的にも有名なプロジェクトで、わたしのネットサイトにも多くの駄文を載せているのだが、これに関して研究者から問い合わせを受けたことがない。それはまだ研究対象になるだけの時が経っていないということだろう。

 もっとも、わたしのスタンスが、都市計画中心だし、東京駅復元に反対の論、つまり敗北した主張だから、興味をひかないのはもっともである。個人的には出自の建築史から専門としていた都市計画にまたがる仕事だったので実に面白かった。

 問い合わせが比較的多いのは、建築家山口文象についてである。これについては、その主人公が日本近代建築史の特定の位置にいるから多くなるのは当然だろう。わたしがたまたまその人のそばにいる時期があったので、その評伝を出版物にまとめる仕事をする機会があり、それだけではなく独自研究も合わせて、わたしのネット掲載したのである。

 さて、わたしももうこの世から消える時期が近い。それで近頃思うのだが、わたしのサイトに載せる様々の公開駄文と、その裏にあるわたしのPCに蓄積の資料類を合わると、かなり重いデータ量であろう。それらがわたしが消えるとともに消える。同じ様なことは地球上のあちこちで多くの人々に日々起きているだろう。

 これをあれこれ考えると実に面白いので、次の論考にしよう。(つづく)

(2025/06/01記)

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2025/05/26

1888【大阪駅で浦島気分】大阪駅乗降プラットホーム上空大屋根の巨大架構による大空間が凄い

 ●西方旅行の途中で大阪駅へちょっと途中下車

 5月半ばに西への旅の帰りに途中下車して、1時間ほど大阪駅から街を眺めてきた。
 大阪へは、市内に住む伯母の家を、少年時からよく訪ねたものだ。
 長じて、社会に出てすぐの60年代に2年ばかり、70年代も2年ほどを大阪駅近くの勤務先に通ったことがある。

 その後はめったに大阪に用もなかったので長いご無沙汰である。だから今度の米寿記念ともいうべき旅で、大阪へも最後かもしれないと、大阪駅あたりだけでも見ることにした。何年振りだろうか、大きく変わっているに違いない、浦島太郎気分が高まる。

●全く見も知らぬ大阪駅表口風景

 大阪駅の表口とでもいう南側の駅前風景は、昔と全く違う見も知らぬ風景になっていた。超高層ビル林立で空を見るには首が痛くなるほどに風景は大きく変わっていた。

 昔はせいぜい30~40mくらいの高さのビルばかりだった。丸ビルと名付けた円筒状のホテルがちょっと高かったくらいのものだった。そういえば駅前でよく入った店は「旭屋書店」だったと思い出したが、どこにも見えない。

大阪駅南の駅前で西方面街並みを眺める

大阪駅南口前から東方を見る 左に阪急?、右に阪神?

大阪駅東口前の阪神百貨店はこんな形になっていた

 少年の頃に伯母の家を訪ねるためには、大阪駅南口から阪神電車に乗り替えた。それには阪神百貨店の地下に入った。阪神電車駅は今もその位置らしいが、百貨店ビルは超高層に建て替わっていた。そういえばその地下にあった全国名産品店街とか薄暗い飲み屋街はあるかしら、階段横の串カツ屋はどうだろう?
 とにかく駅前の広場や道は、昔の通りの位置や広さらしく見えるのだが、どこもかしこも超高層ビルが道路際までいっぱいに建っていて、緑や空が見えなくて実にうっとうしい風景になっていた。

 緑らしきものは御堂筋にある梅田吸気塔の周りの樹木群だけのようだ。この村野藤吾デザインの吸気塔が今もその形で立っているのが、なんだか不思議であった。まさかこれも超高層にはなるまい。

村野藤吾デザインの梅田吸気塔と樹木

 歴史的近代建築としてどうなったかちょっと気になっていた大阪中央郵便局も、超高層建築に建て替わっていた。東京駅前のそれと同じKITTEとネーミングだそうだから、同じように下半身には元のデザインを生かしているかとみれば、つまらぬビルになっていた。遠目で見て、近くに行く気にはならなかった。

大阪中央郵便局舎が建て替えられてKITTE大阪に

 そんな大阪駅前に建って左右を見渡していたら、東京のKITTEのように昔の姿を継承しているビルがひとつだけあった。かつての阪急百貨店が超高層ビルになっているが、その下半身にはかつてのビルのイメージをかなり上手に生かして継承している。その阪急百貨店うめだ本店だけは、そこに昔は何が建っていたか、わたしにも思いだすことができて、浦島太郎気分ひとしおであった。

阪急百貨店が建て替えられて阪急梅田本店ビル

●大阪駅北側の操車場跡地開発もチラリ眺めた

 そうやって懐かしい表口をながめ、かつては無かった裏口(北口か)も眺めてきた。こちらは広大な鉄道操車場があったこと、その一部が開発されて梅田スカイビル(原広司設計)だけが建っていたころの風景までは知っているが、その後は全く知らない。

 しかし最近その再開発ができ上ったらしく、ネットにその風景がちょくちょく登場する。それには巨大商業ビル群、超高層ビル群、広大公園緑地空間が見える。なんだかよくある開発風景で、もう実物を見なくても分かった気になってきている。

 ここは再開発といっても事実上は新開発だから、昔の姿を思い出して、浦島太郎気分を楽しむことができなくて、つまらないのである。そこが表口とは大きく違うのだ。駅裏(北)に建った駅ビルから、チラリと眺めて見て引き返した。

大阪駅北の操車場跡地開発をちらりと遠望

●大阪駅プラットホーム空間再開発が素晴らしい

 実を言えば裏口の操車場跡地開発を見る前に、大阪駅そのものの再開発に大いに惹かれてしまったのだ。結論を先に言えば、大阪駅あたりの再開発で、もっとも感銘を受けたのが、大阪駅そのものの再開発であった。表も裏もホンのちょっとだけ見てそう言うも気が引けるが、いや、まったく大阪駅こそ物凄い再開発だった。

 大阪駅の沢山の列車乗降プラットホーム全部を、はるか上空に大屋根をかけて覆ってしまうとは、じつに大胆である。京都駅のコンコース大屋根もすごいと思っていたが、こちらはプラットホーム全部だからすごい。

鉄骨の架構がダイナミックに上空をよぎる コンコースのしつらえがチャチに見える


コンコースが中間にあるためにプラットホーム迄全体を見下ろせないのが残念


 外国の鉄道駅では、大きな鉄骨ドームをかけた駅は、ハンブルグ駅やミラノ駅などいくつか利用した経験はあるが、日本では初めてだろう。なんと2011年完成だそうだから、14年もわたしはそれを知らなかったのだ。浦島太郎である。

 上記の例のような外国のそれと違うのは、こちらはホームと大屋根の間に広いコンコースが架かっていることだ。だから鉄道の出入りや乗降客の動きが、大屋根の下に一目で見渡せないのが惜しい。あの大空間であの頻繁な鉄道列車の動きがあると素晴らしいダイナミックな風景になると思う。ヨーロッパで見たあのおおらかな空間ではないのが惜しい。

 それでもホームとコンコースを全部まとめて上空に架かる大屋根の架構のもたらす空間のダイナミックさにほれぼれした。文章でも写真でもとても表せない。体験するしかない。
 ともかくもこ こに途中下車して眺めた大阪駅とその周囲の景観ベスト3ランキングをしよう。もちろん駅とその周りでわたしが1時間ほど眺め体感した範囲の偏見と独断である。

 第1位:JR大阪駅プラットホーム上の大屋根空間(設計:JR西日本)
 第2位:阪急うめだ本店ビル(設計:日建設計)
 第3位:御堂筋の中に建つ梅田吸気塔(設計:村野藤吾)

(2025/05/26記)

このブログ掲載の西への旅日記

・2025/05/20・1887【故郷の浦島気分】もう30年も唱える「高梁盆地≒アルトハイデルベルク説」は故郷に通じなかった https://datey.blogspot.com/2025/05/1887.html

・2025/05/18・1886【わが設計の父母旧宅】築60年モダンリビング木造小住宅が今は古民家民泊施設として生き残るとは! https://datey.blogspot.com/2025/05/1886.html

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