2016/06/30

1199【横浜ご近所探検】劇場の壁にあった巨大文字『ストリップ浜劇』が消えて街のランドマークがなくなったような

京浜急行日ノ出町駅前に、再開発事業で超高層下駄履き住宅が完成してもう1年ほどか。駅前風景がすっきりしたような、空が少なくなってうっとおしくなったような。
 中央図書館行き帰り通るところだが、先日通りすがりに、なんだか、なにかが、街の風景から消えたような気がした。
2016年6月撮影の日ノ出町駅前再開発ビル
右の真っ黒な建物に注意
そうだ、この右の黒い建物の壁に書いてあった巨大文字「ストリップ浜劇」が消えている。しげしげと見ると、文字の上から壁の色と同じペンキを塗ってあった。(下は2015年8月の写真)
2015年8月撮影、ストリップ浜劇と壁にペンキ文字

ふ~ん、どうしたのかなあ、営業やめたのかあ、と、正面側も見ると、こちらも壁文字が消えている。

正面から見ても、壁文字がない
 でも、近づいて見れば地上には華やかなお嬢さん舞姫たちの写真入り看板が立っているし、入場料金らしい『5000円なり』とそばには書いてあるから、廃業閉鎖ではなく健在であった。



  この劇場の周りには、再開発ビルも含めて、近ごろ高層共同住宅が建ってきた。低いけれどこの劇場ビルの壁の「ストリップ」の大文字が、このあたりのランドマークになっていた。
 新しい共同住宅ビルに入った人が、訪ねてくる人に場所を教えるときに、「ストリッップって書いてあるビルの隣り」と言えば案内が分り易いだろう、なんて思っていたのだが、その文字が消えてはしょうがない。
 どんな理由があって、消したのだろうか、興味がある。なお、その近くのゲイ映画館「光音座」の壁の文字は消えずに健在だった。

 とりあえず、『B級横浜観光』は健在である。

(追記 2016/07/22)
「ストリップ浜劇」の前を通ったら、なんと劇場名が変って、「横浜ロック座」だそうである。
でもロックのライブハウスになったのではなくて、やっていることは変りはないらしい。


●参照→横浜B級観光ガイドブック(2010)

2016/06/24

1198【横浜都計審:委員はエライ】議題16件もを3時間で片づけて承認し、絵が無くても開発内容が分る能力がすごい

 横浜市都市計画審議会を傍聴に行った(2016年6月23日)。もちろんヒマツブシである。
 それにしても委員さんたちは偉いと思う。議題数16件を原案通りに承認と、3時間ほどで片づけたのだ。
 傍聴しているわたしは、議題の中身が分らないことだらけ、委員の質疑や意見で分るかと期待するも、ぜんぜん分らない発言ばかり。
 委員の方々は、事前に現地を見て、事前レクチャーを受けているのに違いない。そう、わたしが委員の時にやったようにね。そうでなければ、ああも簡単に原案承認となるわけがない。

 特に、横浜駅の北にできる国家戦略特区なんて、都市計画無視の超巨大ゲリマンダー再開発計画を簡単に承認とは、委員はものすごい能力だ。
 あ、いや、わたしは再開発反対を唱えているのではなくて、審議会が審議をしないで承認するのが不審なのだ。
 また3件の開発型地区計画についても、どれも将来像の絵がないのである。地区計画の都市計画図書だけで、どのような姿・形の街になるのかが分る委員たちは、偉いと思う。
 地区計画を作るには、このような街にしたいという絵が前提にあり、それがこの街に正しく適切と判断したからこそ、地区計画として都市計画で実行を担保するのである。
 その前提の絵もみないで、なぜ審議できたのだろうか?
 あ、いや、委員たちだけ事前に絵を見ていたのであろうなあ、、、でも、なんで審議会に出さないんだよ、傍聴者に見せたくないのか、。

 地区計画が形骸化している感がある。ぜんぜん違う地区なのに、なんだか文言内容が同じようなのである。
 要するに地区計画を利用して、高さと容積率の緩和をしたいだけでしょ、って感を免れない。
 しかも、緩和の蓋然性の証明をしないまま、結論だけが登場する。
 そしてまた、地区計画の地区についてのみの内容で、地区計画街区の周辺地区との関係がぜんぜん話に登場しない。景観も地区内だけ。
 その周囲地区との関係については、いきなり都市マスタープランに頼るって、その間が飛びすぎだろっ!
  特に国家戦略特区なんてのは、都市計画完全無視だから、そこのところをきちんと審議するべきなのに、な~んにも質疑も意見も無しで承認とは、やっぱり審議会委員の議事内容理解能力の高いことはオソルベシ、スゴイものである。わたしは審議について行けなかった。

 都計審委員のの市民委員を公募していますよ。任期は2年、20歳以上の市民で、これまでこの審議会委員をやったことない人が、応募できるそうです。
 わたしがその公募委員をやって、楽しんだ経験談です、おヒマならどうぞ。
https://sites.google.com/site/matimorig2x/essay-cityplanning
 この応募資格でちょっとおかしいのは、これまでやったことがない人ってあるけど、学識系委員の中には、もう十年以上も居座っている古強者がいるのに、なんで市民委員は1回2年こっきりなんだよ~。

参照

2016/06/13

1197【東京風景】昔々そこに勤め先があったあのデカい日本ビルを建て替えるとて東京駅前プチ感傷旅行

夜の東京駅前センチメンタルジャーニー
おや、真っ暗ビルだよ、ここも空き家問題かい
真正面の日本ビルに昔々通勤、今日は真っ暗ビル、
その両隣も真っ暗超高層(明かりが見えるのは他のビルの写りこみ)

●日本ビルというバカデカビルに通勤した

 東京駅前をしばし鑑賞ならぬ感傷徘徊、といっても観光ポピュラーな赤レンガ駅舎のある線路西側の丸の内ではなく、線路東側の八重洲でもない。
 東京駅から北口を出て、その駅前広場から呉服橋通りを渡ったあたりは大手町へ、こちらももちろん大きく髙いビルが建っている。

 そんなところへプチ感傷旅行したのは、昔々、わたしの勤め先がそこのビルの中にあって、ながらく通勤したことがあり、そのビルを建て替えると聞いたので、今のうちに昔の姿を眼に留めておくのである。
 そこには「日本ビル」というご大層な名の建物がある。昔々、そのビルの中にわたしの勤め先(RIA本社)があった。この日本ビルは1960年代中頃だったかにできたが、ドデンとかまえた14階建てビルで、当時は日本で最大床面積だったと聞いたことがある。
これが日本ビル、まわりを板塀に囲まれ一部に足場もできた、取り壊し開始らしい

 記憶では、初めは第三大手町ビルという名であったが、これにもうひとつのビルをくっつける様な増築をして、日本ビルと名前を変えたような気がする。
1963年、第3大手町ビルの頃

1989年、日本ビル・朝日東海ビル・新日鉄ビルが揃い踏み

2016年、東京駅北口から八重洲口にかけて超高層ビルだらけになった

中庭をとり囲む平面的にばかでかいビルで、エレベーターバンクが離れて2か所にあり、長い長い廊下がぐるりと一周していた。一周200mくらいあったような気がする。
 初めは4階の部屋に居たが、そのうちに狭くなって11階に引っ越して少し広くなり、そしてまた狭くなって5階に都市計画分室を設けて、わたしはそちらへ引っ越しをした覚えがある。

 日本一バカデカいビルと言われるだけあって、外に出ないでも24時間を暮らせるほどに、なんでもかんでもそろっていた。三越百貨店の店もあった。地下深く下水処理場もあった。
 しょっちゅう徹夜仕事をしていたが、さすがに風呂屋は無い。それでも、便所にある掃除用の大きなシンクに水を張って、真夜中に入浴した男もいた。

 今どきのオフィスビルと違って、オフィス階にもだれでも出入り自由だったから、窃盗犯罪がけっこう多かった。アルバイトとか営業マンを装って室内に入ってくるのだ。わたしもロッカーにあった上着から財布を盗まれ、大便器からでてきたことがある。
 日立のような大企業もいたが、中小企業がずいぶんいたのは、戦前から三菱煉瓦街に入っていたテナントたちがいたからだ。勤め先のRIAもそうだった。

●日本ビルに来る前は丸の内赤煉瓦街に居た

 RIAは、このビルに来る前には丸の内の「三菱仲四号館」に居た。そこは赤レンガ3階建てで、今あるなら重要文化財だろう。有楽町駅から近かった。階段ホールアクセスタイプの棟割長屋方式の建物で、その1階と2階に部屋があった。床は階段も板張りだったから、歩くと響いたものだ。
 1957年の夏、山口文象は師のグロピウスをここに案内して、近藤正一たち若いスタッフに紹介した。
かつての丸の内赤煉瓦街(平井聖氏撮影)

 RIA創立者の建築家・山口文象は、最も活躍した戦前1936年にそこに建築設計事務所をかまえた。そして戦後1952年発足したRIAの事務所にした。
 1963年頃だっただろうか、大家の三菱地所が赤レンガを高層ビルに建替えるとて、大手町にその頃に建った第3大手町ビル(日本ビルのその頃の名称)に移転させられた。
 このころから丸の内の赤レンガ街は、第1期再開発時代を迎えて、ドンドン建て替えが進んだ。今は第2期(もしかしたら第3期か)建て替え時代だろう。
 日本ビルはテナント移転用の代替えビルだったのだ。東京駅の周りは、線路の西が三菱村で、線路の東側は日本橋まで三井村でありながら、日本ビルだけは線路の東側にある。

●日本ビルは日本一のっぽビルに建て替え

 さて、東京駅北口広場から眺める夜の日本ビルは、その両隣の超高層ビルも含めて、真っ暗であった。このあたり一帯は日本のビジネスセンターであり、グローバル時代になって夜も眠らない、休日も仕事するのが当たりまえ、真っ暗とは空き家になっているのである。
 といっても、住宅の空き家問題がここにも及んでいるのではない。ビルの周りは板囲いされて一部に足場も組んであったから、テナントを全部どこかに移転させて、いよいよ建て替えのための取り壊し工事が始まったらしいのである。

 東西隣の二つの超高層ビルの朝日東海ビルと新日鐡ビル、北道路向かいの日本ビル別館も壊して(いずれもわたしが居た頃の名前で、今はどういう名か知らない)、再開発するのだそうだ。これらはもともとが再開発だったから、第2次再開発事業となる。
 それにしてもこれほども広く高いビルを壊しても、それよりも広く高く建てることができるから事業採算が成り立つので再開発をやるのだろう。

 ここの跡地には、日本一高いビルをつくって、大阪阿倍野のハルカスを越えたいのだそうだ。あの昔の超高層の曙時代のような、都市開発競争気分が戻ってきたのか。
 そこには需要がある東京都心という立地であり、経済の忠実な下僕としての都市計画が規制緩和乱発の時代背景がある。
・参照:三菱地所発表の再開発計画
http://www.mec.co.jp/j/news/archives/mec150831_tb_390.pdf
・参照:わたしのブログでの以前のコメント
http://datey.blogspot.jp/2015/09/1123.html

●東京駅あたりで唯一の仕事は赤レンガ東京駅保全計画

 東京駅前にながらく通勤したが、結局その頃にこのあたりでの仕事をしたことはなかった。
 1980年代半ばに、RIAはここから品川駅の東にオフィスを移した。それでも10年ほどは本社機能だけを日本ビルに残していたものだった。
 品川に移った後に、わたしは政府の東京駅周辺再開発計画調査に携わったことで、初めて東京駅あたりの仕事したのであった。
 1988年に公表したその調査成果は、その後の紆余曲折を経て、赤レンガ駅舎の復元となり、東京駅が巨大ビルで囲まれる形となって現れている。

 もっとも、その調査担当をしたわたしの東京駅赤レンガ駅舎への考えは、戦中の空爆で被災した駅舎を戦後修復した姿で保全活用するべきとの結論に至ったのであった。
 しかし、政府の調査報告書にはそのように書くことはできなくて、「現駅舎を現地で形態保全する」との表現となった。保存するとしても他に移すことなく現地で、しかも外形を保つのである。
 その頃から澎湃として起きた東京駅保存復原運動に対して、わたしは復元反対・現状形態保全論をネット上で展開したが、これを理解してくれる人は実に稀であったのが不思議だった。
・参照:東京駅復原反対論サイト(伊達美徳)

わたしが保全したかった1947年修復の東京駅赤レンガ駅舎
(1987年伊達美徳撮影)

 ということで、東京駅あたりは、わたしの感傷旅行拠点なのである。ついでに日本橋あたりにも足を延ばして、変わり果てた今の姿を観る。(つづく)

東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2016/06/01

1196【緑の館コレクション】街に緑の蔦に覆われる「緑の館」が増えているが実は空き家問題と連動らしい


●不自然な緑に覆われる建築

 かなり昔から興味を持っている街の風景に、蔦の葉に覆われた建物がある。街を徘徊中に「蔦屋敷」に出くわすとちょっと嬉しい。緑の季節も紅葉の時も美しい。冬枯れ時には枯れた蔓で幽霊のようになる一変した風景も面白い。
 昔々は蔦屋敷に出会うことはあまりなかった。出会うとすれば、大きなお屋敷の洋館とか、街のモダンな喫茶店とか、旧い大学の校舎とかだった。

 そういえば、「蔦の絡まるチャペル」なんて青学がモデルの歌の文句があるらしいが、わたしの記憶にある青学は、昔々の技術士試験の会場がまさに蔦の絡まる校舎だった。今もあるだろうか。
 それらはどこかスノッブな雰囲気をまとっていたものだ。どこか憧れる感じもあったが、一方で、その構えのスノッブさに反発も感じたものだ。まとわりつく蔦の緑は自然の植物なのだが、建物の装飾として飼いならされている。

 ところが10数年前ごろから、新築のビルの壁に蔦類の壁を張り付けたものが現れ出した。高層建築にもそのような技術開発があるらしい。
 これにはスノッブさは全くない。要するに焼き物のタイルの代わりに、建物の装飾部品化された緑の蔦類を張りつけたのである。
 これはどうもつまらない。蔦屋敷のようなスノッブへの反発はないのだが、こんどは工業製品化された植物への反発を感じる。飼いならされ過ぎた植物を気の毒に思う。
壁面の緑の部分をよく見ると蔦が絡まっている

近づいてみると蔦を植えたパネルを張り付けてある

 そのうちに緑に覆われた超高層建築なんてのが現れるのかもしれない。まったくもって文字通りの不自然極まることである。どうも緑を大切にとか自然を愛そうなんて、口だけの自然愛護風潮に建築家が迷わされているような気がする。
 つい最近も、新国立競技場のやり直しコンペ入選作の絵を見ると、各階の開放廊下の外まわりに緑の枝葉が見えるから、盆栽のように植えて並べるらしい。この不自然な緑はせっせと人間が管理する必要あるから、あれだけ巨大だと数もものすごいから大変だろう。
当選したA案

●自然な緑に覆われる建物

 街を歩いていると、蔦に覆われた普通の住宅ばかりか、髙いビルにも出くわすから、蔦屋敷というよりも「緑の館」という方がよさそうだ。
 その「緑の館」に最近はしょっちゅう出くわすのだが、どうも意図的にそうしているのでは無いようである。いつの間にかからんでるとか、無人になって蔦に占拠された、あるいは占拠されつつある風な、自然な感じである。
 いかにも自然が人工物を覆うというか、なかには緑に襲いかかられる感じなすさまじい風情もあり、それがなんとも面白いのである。

 それをはじめに気にするようになったのは、2002年に横浜都心に移り住んだときだった。近くに見事に蔦に覆われた数軒の木造住宅群があり、その廃墟感と自然のすさまじさの調和に、壮絶な美しさがあった。
 だがそれは数年ほど後に共同住宅ビルに建て替わったから、壊す前のメンテナンスをやめた一時的な姿だった。
 コンクリートだらけの都会の真ん中でも、日本列島の土地の自然回復の潜在的能力が、実に高いことを如実に物語っていた。
横浜・長者町にて(2002年撮影、今は無くなった)

それから街を徘徊するたびに、ちょくちょく蔦住宅や蔦ビルの「緑の館」を見かけては、これが持ち主に趣味なのか、それとも管理をやめた廃屋か、いつまでこのままだろうか、などと考えつつ見るようになった。
 せっかくだから採集して見る気にもなった。といっても積極的ではなく、徘徊時に気付いたら写真を撮るくらいなものだが、それでも最近はずいぶんコレクションが進むのである。
横浜・長者町にて(いまは建て替え中)

小千谷市にて
三島市にて


 そして世間には空き家問題が騒がしい。そうか、「緑の館」が増殖するのと「空き家問題」の騒がしさが比例しているのであったか、つまり「緑の館空き家問題」なのであったか。
住むことを放棄されて、管理されないままに蔦が野放図におい繁る風景は、なんともスノッブからほど遠い。
 だが緑濃い季節に蔦の葉が建物をモコモコと包み込む姿は、廃墟の退廃と自然の高揚とが重なり合って、一種異様な美しさを放つのである。その明るい緑のモコモコの内側には、暗い廃墟の美が凝縮されているに違いない。
 
東京港区・西新橋にて

東京大田区南久が原にて

東京大田区南久が原にて

東京大田区南久が原にて
緑の館の増殖の原因のもうひとつは、都市の再開発があるようだ。ある地区で再開発が行われようとしており、その地区内の家屋が明け渡されて、取り壊すまでの間の空き家群が生じる。
 この空き家期間が長いと蔦が絡まって、緑の館群となる。それが隣りの再開発されたキラキラ超高層と対比するとき、都市のギャップを覗き込むような気分がしてくる。
東京港区愛宕下にて
 
といっても再開発があちこちで進むのは東京都心部くらいなものだから、東京こそ「緑の館」の繁殖地である。これはなかなか面白い。
 わたしが発見したのは、東京の麻布台のあたりで、昔々には我善坊谷と呼ばれていた谷間の街である。森ビルが再開発を企図している地区であり、たくさんの空き家が緑の館になって、取り壊しを待っている風景がある。
 地区全体に頽廃感が漂うと同時に、再開発への高揚感が潜在していて、そのギャップを楽しむことがができるから、ここはわたしの徘徊定点観測地区である。
東京港区麻布台にて

東京港区麻布台にて

東京港区麻布台にて


●わたしの自邸で「緑の館」体験

 実は「緑の館問題」については、わたしが住んでいた鎌倉の自宅を蔦の葉で覆い尽くそうとして、失敗したことから始まる。
 1978年に、鎌倉の谷戸に自分の小さな家を建てたとき、道路側の外壁に蔦をからませた。鎌倉の小さな谷戸は周りがどこも緑であるから、その中に建つ白い家も緑に包みたかったのである。
 それはみごとに成功して、蔦のからまる緑の壁ができた。数年は緑の館を悦にいって眺めていたものだ。
緑いっぱいの鎌倉の谷戸

 5年も経つと蔦はドンドンと壁を登ってきて、庇やら屋根の方までひろがってきた。ときどき刈りこんでいたが、あまり高い位置になると不可能になる。
 更に問題は、木造住宅だから板の隙間から蔦の触手のようなものが入り込んでくるし、窓枠や樋にも絡んで面倒な様子になってきた。
 実のところは棲家が蔦に侵略されてくるようで、やばい感じになってきた。自然に征服される感なのである。

 このあたりで大きく刈りこんで蔦面積を小さくしようと思い、外壁から蔦をヒッペガそうと、エイヤット引っ張ったら、なんとまあ、壁が倒れてきた。
 ウワッ、蔦だけがはがれるのではなくて、蔦のからまる外壁の板ごとはがれてきた。いかん、蔦のせいで外壁板が腐って、蔦と板が一体になっていたのだ。

ウワッ、壁板が蔦と一緒にはがれた

 しょうがない、泣く泣く外壁を全部金属板に貼り換えて、それからは蔦のからまる緑の館をやめたのであった。
 最初から言えば10年間くらいの蔦体験であった。やはりコンクリートかレンガ造でないと、蔦をからませるのは無理である。 
そっけない金属板に貼り換えた

●山口文象自邸こそ本来の緑の館

 ところで、先日これこそ緑の館であると思った家に行った。建築家山口文象が自邸として設計して建て、いまはその子息の勝敏さんの家である。1940年に建ったから、その年には小説家の林芙美子の家も設計して建った。
 モダニスト山口文象には珍しくも、外も内も北国の古民家風のデザインであったが、今は改装されてその面影はほとんどなくなった。わずかにその外観のプロポーションで偲ぶのみである。

 山口邸は緑の蔦がからまるお屋敷ではなくて、その庭に美しい緑があるのだ。コブシ、アカシア、サクラの3本の大木が並んで枝葉を張り広げ、季節には花を咲かせ、その下にはナツミカンの木も花や実をつける。
 その下のタイル床には、麗子夫人が精を込めて育てる草花の鉢や籠等が、実に美しく配置されている。
 ピアニストの勝敏さんの演奏会が、春と秋にここのサロンで催されるときは、この庭に広がる葉張りや花の下は、こころよい交流パーティーの場となる。
 こここそ本来の「緑の館」である。
山口邸の緑のころ
山口邸の花のころ
山口邸のある久が原の空中写真