2023/08/26

1702 【核毒オロオロ】福一核毒汚染処理水放出って尾銅山鉱毒事件・水俣チッソ水銀中毒事件を連想させる

 2011年3月に東日本大地震で大事故をおこして廃止となった福島第1原子力発電所(「福一」という)は、それ以来12年経ってもいまだに廃炉作業中である。メルトダウンした核施設の廃炉というほぼ前代未聞の仕事だから、いつまでかかるのか誰も分からない。

  こういう仕事をしている人たちは、働くことへモチベーションをどう保つのだろうか。労働賃金がかなり良いのだろうか。あるいは誰もやったことにない先進的な仕事という動機づけがあるのだろうか。それにしても、何かを創造するのではなくて、危険な核のゴミを作り捨てる仕事だから、どう考えてもむなしくなるだろうと思う。

 核施設廃炉という超特殊な仕事は、これからどんどん需要が発生する。つまり現在のいくつかの核発電施設が次々と廃炉の時期を迎えるからだ。ここで仕事をした人々は、その専門家として次々と求められる人材になるのだろう。それは世界中の核発電施設にも言えることだ。まさにダーティワークであるが、世の中に必要なことだ。

福島第一原子力発電所と汚染処理水放出先

 さて「福一」はこの8月24日から海に小便のお漏らしを始めた。この敷地に降ったり流れてきたり湧いたり利用されたりして核毒に汚染された水を外に流すことは汚染拡大になるからできない。だから敷地内にタンクをいくつも作ってどんどん溜め込んできたが、溜まりに溜まってもうタンクの置き場がなくなってきたという。いわば膀胱に小便がたまって我慢できなくなって、お漏らしせずにいられなくなったのだ。

 ところが「福一」小便はいろいろな核の毒が含まれている「汚染水」なので、この毒を除去する処理をした「処理水」に変換し、それを更に海水でで薄めてから、敷地の外に漏らすそうだ。つまり「核毒汚染処理薄め水」であるが、みじかく「処理水」というらしい。。それもいきなり海岸に漏らすのもはしたないとて、1キロほど沖まで地中に管を通して放出するそうだ。

 その海には放出処理水を飲みながら生れ育つ魚はいないのだろうか。漁民からは処理水放出大反対の声があるのだから、とうぜん魚はいるのである。
 わたしは2014年9月に「福一」の北隣にある請戸漁港に視察に行ったことがある。地震と津波と核毒の三重苦に襲われて、集落も港も田畑も荒れ果てていた。漁船が陸上の草原に何隻も浮かんでいた。
 その漁民たちは東電からどのような補償を受けたのだろうか。いままたこの「核毒汚染処理薄め水」で直接あるいは間接の漁業被害が生じる恐れがあるらしい。

 これで思い出したことがある。30年以上前のことだが、瀬戸内海の沿岸部の広大な土地に、レクリエーションリゾート地を開発するという公的な仕事に携わったことがある。このリゾートから発生する汚水を三次処理した「処理水」を海に放出する必要があった。
 反対する漁業者と行政当局と事業団体との調整により、いくばくかの解決金を漁業組合に支払い、排水は海岸から1キロ先まで地中に排水管をのばして海に放出した。福一の処理水と同じである。

 そして開発完了オープンから1年後に訪ねて聞いた話に笑った。その処理水放出のあたりの海面に、養殖カキ筏が集まってきているとのことだった。それは3次処理しても残る有機物が養殖カキのエサになるのであった。もちろん元は糞尿だから畑の下肥を同じである。
 まさかこの福一処理水に魚の餌になる物質が含まれるなんてことはあるまいが、核毒が魚類の遺伝子に作用して、巨大な魚が捕れるようになるなんてことは、、あるまい。

 あの請戸漁港と集落は復興したのだろうか。復興して漁業をやっているのだろうか。ようやく復興したら、今度は「核毒汚染処理薄め水」がやってくる。これが東電が言うように本当に魚に影響なくて、それを食う人間に影響がないと言えるのか、それはいつになればわかるのだろうか。廃炉がいつ終るか分からないのだから、こんご毎日毎日「処理水」がやってくる。薄められた核毒は、あのチッソ水銀中毒事件のように、魚類に濃縮蓄積されて有毒になるということはあり得ないのか、誰も分からない。

 そもそも排出以外の処理方法はないのだろうか。これが最も安い方法なのだろうか。例えば水蒸気にして空中に放出方法はあるのだろうか。あるいは敷地全部を大きな湖にして水をためる方法はどうか。この前例は、足尾銅山鉱毒事件で、銅山から流れ出る鉱毒水を溜めるために作った巨大な人造湖の渡良瀬遊水地である。このことは10年前のブログに書いている。参照:https://datey.blogspot.com/2013/12/875.html

福島第1原子力発電所と渡良瀬遊水地の同スケール比較

 「福一核毒汚染処理薄め水」をボトルに詰めて、福一名物で売るのはどうか。ふるさと納税の返礼品にしてはどうか。どなただったか政府自民党の偉い方が、その処理水は飲めるとおっしゃったとのことだから、これもありうるだろうと思う。(20230826記)

参照:地震津波核毒おろおろ日録

2023/08/15

1701【78年目敗戦記念日愚痴】戦争へ準備をしろと敗戦の日に叫ぶ政治状況に閉口するばかり

●戦後生まれの喜寿

 今日2023年8月15日は日本の敗戦記念日、いつ敗戦したかといえば1945年のことだった。アレ、もう78年も前のことであったか、ということは今年に喜寿を迎えた老人さえも「戦後生まれ」なのか、う~ん。
 戦後生まれという言葉が、若いという意味を含んでいたのは、はるか昔のことであったか。自分の老いは当然と自覚を促すだけ。
 そこで本歌取り狂歌をひとつ。

喜寿なれや目にはさやかに見えねども戦後生まれとぞ驚かれぬる

 じつはわたしはほぼ毎年のこの日には、東京九段にある靖国神社と千鳥ヶ淵戦没者墓苑に出かけていたのだ。といっても戦没者を慰霊しようなんて殊勝にして敬虔な気持ちではなくて、そこでその日だけ見られる戦争の残照諸相を見物するのであった。右や左や上や下や大人や子供が登場してそれぞれ戦争観を表現するのを、野次馬として楽しむのである。

 これまでこの日の九段でどんなことが起きてきたかは、下記のこれまでのわたしの靖国神社見物記をご覧ください。今年も同じようなものかしらね。
2005年と2013年・靖国神社815定点観測風景2005、2013
2014年・終戦記念日の靖国神社の喧騒と千鳥ヶ淵戦没者墓苑の静寂
2017年金モール軍服長靴の若者がスマホをいじる靖国の夏
2018年・夏まつり森の社のにぎわいは今日も戦をたたえる見世物
2019年敗戦記念日は東京九段の靖国神社に戦争の残影を見物に
2020年・コロナ禍敗戦記念日の変わらぬ靖国神社風景が怖い
2021年・この前はアメリカに敗れこの度はコロナに破れかぶれ
2022年あの敗戦から77年の歳月に次々と戦争の日々が重なる 

 その個人的年中行事を2020年以降はとりやめたのは、ひとつはコロナ禍のゆえだが、もうひとつはわたしの歳のせいである。コロナ禍は今年から開けたようだから、行事復活してもよいだろうが、寄る年波でどうも真夏の遠出に無理の感があるのと、家族に老々介護の兆しもあってこれも長時間外出を許さなくなっているのだ。戦後生れが喜寿になるくらいの年月だから仕方ない。今年も行かないから、この年中行事は終わりだ。

●アジア太平洋戦2000万人死者の追悼こそ

 今年も政府による戦没者慰霊の式典が九段で行われたようだ。おりから台風七号による悪天でかなり規模縮小らしい。いつだったかこの日の靖国神社の一隅に腰を下ろしていた時に、ちょうど正午になり全員起立黙祷の指示がNHK放送で境内に流れた。そういう一斉に何かやらされる儀式を大嫌いのわたしは、まわりの人々がみんな立ちあがり頭を下げるのを、一人座り込んで奇異な眼で見回していたことがある。居心地が悪かった。

 今朝の新聞一面片隅に政府の広報記事があり、政府主催「全国戦没者追悼式」をやるから、正午から1分黙祷せよとある。こういうのは政府に言われてやるものかしら、わたしはこの一律右向け右を大嫌いである。

 そしてまた、追悼する戦没者とは誰のことか調べると、日本人310万人ほどが対象だそうである。それはおかしいだろうと思う。戦争だから戦った国はそれぞれ大量の戦没者が発生したはずだ。それら両方の戦没者を追悼するのではないらしい。政府は不戦を誓っての儀式ならば、殺し殺された戦没者全部をこそ追悼するべきである。

 ではアジア太平洋戦争で、どれくらいの人が死んだのかネットで調べたら、日本310万人、フィリピン100万人、ベトナム200万人、中国1000万人以上で、全体では2000万人以上とある。
 2000万人死んだのに310万人しか追悼しないのは、どのような理由があるのだろうか。これは靖国神社が政府に反逆した戊辰戦争の敵方を祀っていないことに倣っているのだろうか。


 (追記20230816)15日の戦没者追悼式で総理大臣式辞が、去年のそれとほとんど同じという批判が16日の東京新聞に載った。わたしは昔々に植木等が歌ったドンと節を思い出したので、こう書いてFBとXに載せた。
 アッそうか、解説ないと分からん時代かもなあ、アノネ、元歌はサラリーマンが”タイムレコーダがちゃんと押せば”というのだよ。
政府主催戦没者追悼式での総理大臣マンネリ式辞批判記事(東京新聞20230816)

●戦争準備への足音が

 「今年の終戦の日 各党談話」なる記事が東京新聞にある。興味ないがヒマなので読んでみて驚いた。総じて防衛力という戦争能力を整備強化せよというのである。
 これってプーチン戦争が終わらずに、似たようなことが台湾有事として東アジアでも起きるかもしれないから備えろという状況判断なのだろうか。戦争で死んだものを追悼するのに、軍備を備えよとは、そんな時代が来てしまったのか。
 これでは憲法9条のもつ理想は、もう雲散霧消らしい。「戦後民主主義すくすく派」としてはまことに悲しい。


 どうしてこういう世の中が来たのだろうかと、戦後社会で起きた体験的あれこれをを思い出しつつ、思想史として「<民主>と<愛国>戦後日本のナショナリズムと公共性」(小熊英二)を、積ン読本棚の中から20年ぶりに引っ張り出して読み返している。少年期青年期に概略的に知っていたことを,今しっかりと資料を並べて解説してくれるこの本はすごい。それにしても1000ページには疲れる。


 なんにしても、わたしはまた戦争に出くわすのはまっぴらゴメンこうむるので、この辺でこの世からおさらばしたいと、またもや思うのである。戦争がおきないうちに間に合うだろうか、それが心配である。やっぱりコロナで死ねばよかった。

 それにしてもだらしないコロナだった。最も期待したのにクレムリンを襲わなかった。バカヤロウ。
 そしてわたしのもう一つの期待であった「願わくは花の下にて春死なむその如月の望月のコロナ」という私の毎春の願いも外れたのだ。バカヤロウ。
 いや待てよ、この年の暮れに第九波が来るという説もあるとかないとか、まだあきらめないでおこうか。

●毎年思い出すあの日々

 毎年8月15日には思い出さずにいられない。森の中のラジオ、聞いた大人たちの沈黙、疎開児童たち、そして続いては教科書の黒塗り作業、教師の変節、なにより辛かった空腹の日々、、ろくなことがなかったあの頃。
 唯一の嬉しかった記憶は、父が8月末に帰郷してきたことだけだ。43年末に送り出した日に母が号泣した戦中の嫌な記憶が、帳消しになった。

 このブログに戦争記憶を何回も書いてきたが、こんなことを思い出さなくてもよくなる身になる日が、そう遠くなく来るのを待っている。(20230815記)

参照:戦争の記憶(まちもり通信:伊達美徳)




2023/08/08

1700 【横浜ご近所探検が行く】横浜中華街の向こうをはる「横浜大韓街」誕生か

 暑い日が続くが、カネのかからない年寄りの健康法でとにかく歩くのだ。横浜の都心住いだから、買い物と徘徊が一致するのがありがたい。趣味の街並み景観見物が毎日できて、この街の変化をもう20年以上にわたり続けている。

 徘徊とは目的の無い彷徨行為と定義されるが、それが日常買い物と景観見物と健康に資することになっている。これは徘徊から言えば本意ではない。目的の無い外出と、その他を厳密に分けて、それぞれあらためて出直すべきである、というご叱責もあろうが、まあ、先が短い年寄りのやることに、いちいち目くじらたてなくてもよいだろう。

 さて、今日も今日とて横浜ご近所徘徊していて発見、おや、横浜チャイナタウン「中華街」の向こうを張って、福富町はコリアタウンの「大韓街」になったのか、と。
 福富町の中央部に西通り・仲通り・東通りを串刺しにする南北の通りがある。この通りには沿道の両側に1950年代に防火建築帯として建てた共同建築群が立ち並ぶので、その変化に興味を持ってちょくちょく観察に通るのである。

 その通りの南入口ともいうべきあたりに道路をまたぐゲート状の工作物が建っていて、そこに大きな字で「KOREATOWN 福富町国際通り」と書いてあるのだ。あれ、こんなのが前からあったかなあ、こんなに大きな文字だから気がつくはすだよなあ、いつの間にできたのだろうか。この通りは国際通りというのか、初めて知った。

KOREATOWNの大文字のゲート

 福富町については、以前からコリア系とチャイナ系の店舗が多くなってきたなあ、でも風俗系の店も多いなあと思っていた。この大看板を見て通りの店の看板を見まわしていたら、たしかにコリア系店舗がさらに増えている、一方で風俗系が減った感がある。
 家に帰ってからGoogleストリートを見たら、去年11月撮影の同じ通りの風景があり、そこには同じ道路をまたぐゲート風のアーチがあるが、KOREATOWNの文字はないから、今年になってできたのだろう。

2022年11月撮影の同じゲートには文字がない google street

 チャイナタウンが中華人民共和国街つまり「中華街」ならば、コリアタウンは大韓民国街つまり「大韓街」というのだろうか。
 それにしても横浜中華街のような横浜発祥の歴史を背負うチャイナタウンはともかく、福富町が中国系も日本系もある商店街でコリアタウンを名乗るには、それ相当の何かがあるような気がする。商店街組合がこのように名付けるのだろうか。
 風俗の街にイメージがある福富町全体が、中華街のような大規模な横浜大韓街KOREATOWNに変身するのは、なかなか面白いと思う。期待している。

KOREA系店舗の看板が目立つ

福富町KOREATOWN 北から見る全景

 横浜橋商店街もコリア系の店がかなりあり、KOREATOWNのイメージがある。実は単なる遊びであるが、数年前にKOREA系と中華系の店の数をカウントして、この商店街の全店舗の中でどれくらいの割合を占めるか計算したことがある。12パーセントほどで、意外に少ないと思ったことがある。それらの日常性から離れた店舗風景に気をひかれてしまてて、イメージ先行するのだろうか。

 さて、横浜都心部の関外に特に多い戦後復興の防火建築帯は、次々と建て替えられている。商店街としては関内側の馬車道の防火建築帯はかなり建て替えが進んだ。だが関外側の伊勢佐木町や福富町あるいは吉田町のような古い商店街では、建て替えが進まずに、いまも戦後復興期の姿であり、横浜の特徴ある街の風景として生きている。

 生き残っている理由は、建築物の所有権が複雑化していることもあるだろうが、テナントの身代わりの早さがあるのかもしれない。福富町がかつては伊勢佐木町のような普通の商店街だったのが、風俗街へ、そしてエスニック街へと時代に対応して生き残り作戦で変遷しているのが興味深い。普通の商店街が地域でも有名は風俗街に変身して生き残っている例として、群馬県太田市南口商店街がある。

 伊勢佐木町でも防火建築体に入る店舗が、コロナ以後その変遷が著しい。次々とテナントは変わっても意外に空き店舗は少ない。ただしわたしの観察によれば、物販店も飲食店もどうも安売り店舗へと変化する傾向がある。あまり変わらぬ商売を続けている元町商店街との落差が著しくなっている。
 その変遷が一段落したころに、建て替えによる変化が始まるだろうと、それがいつ来るのかと、それも興味を持って待っている。(20230808記)

2023/08/06

1699 【広島原爆の日】ヒロシマ核爆弾被爆者だった親友がこの世を去った今年の夏

 今日は8月6日、1945年にUSAが広島に世界初の核爆弾殺人目的投下の日である。毎年この日が来るのは当たり前だが、今年は来てみて初めて特別な日であると気が付いた。それは、今年の春に亡くなったわたしの親友のひとり(とよぶ)が被爆者であったからだ。

 あの8月6日、Fは広島市内の自宅の庭で遊んでいて、何かを取りに家の中に入ったとたんに、閃光が走り被曝、家は半壊したが奇跡的に生きていた。爆心から約1.7kmだった。
 そこから凄惨なる被風景の中を、被した身の母子4人で苦難きわまる避難行、逃れた郊外で治療とも言えない治療の日々、それを彼は歩きながら一日中話してくれた。
 話してくれた場所は、5日で100キロ歩くという趣旨のウォーキング旅行の旅先のことだった。ほかにもあちこちに一緒に旅した。よく飲み会やった。

 そのFの死因が原爆病であるかどうか知らない。元気な遊び仲間だったFが、入退院を繰り返すようになったのは2年前だった。それは被曝による病かと聞いたが、化学者の彼の答えは「それがわからんのだよ」という。それには核被曝治療の諸問題もあるらしい。
 Fの直接の死因は血液の病だった。私は素人だから勝手に決めつけているのだが、これこそ核爆弾の故に違いない。
 Fが病床からくれたLINEメッセージの最期は4月1日のこと、「来年も花を見られるかな」であった。その月末からもうFは居ない。

Fは行ってしまった

 わたしにはこの日は普通の日だったから、広島原爆の日であるほかにとくに考えもしなかったし、とくにこの日にFと何かをしたこともない。
 そうか、Fにはこの日が特別に日であったのだ、そして今日はその日なのだ、Fがいない今年のこの日は、わたしにも特別な日としてやってきた。

 ヒロシマ核爆弾投下の故の今年までの死者数は、総数339,227人で毎年増えてゆく。この1年で5320人が新たに加わったそうだ。
 爆心から500mほどの兵営にいたFの父は、核爆弾で消滅させられたとて、確実にそのひとりである。その名簿のなかにFは加わったのだろうか。

Fの実妹によるその母の被曝物語

 あれから78年もたったが、核の恐怖は地球上から消えないままに、いや、それどころか、またもや核爆弾を投下する奴が出現の気配の中で、被爆者たちはもちろん、わたしもこの世を去ることになる。



 そして世界3番目の殺人用核爆弾投下する為政者がいつ出現するのだろうか。せめて私が死んだ後にしてほしい。エゴに聞こえるがそれでよいのだ、だって地球上の人間全部がこう考えると核兵器廃絶に進むだろう。(20230806記)

参照亡き親友Fへのオマージュ 2023