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2025/07/07

1897【故郷への最後の旅】高梁盆地浦島太郎徘徊は伯備線備中高梁駅ー順正女学校ー御前神社ー頼久寺

 ●最後の故郷訪問で浦島太郎の観光気分

 今年5月半ばに、わたしの生まれ故郷の高梁盆地を訪れました。この前に来たのは13年前でしたし、自分の歳市から考えるとこれを最後の故郷訪問にしたいと思い、浦島太郎気分で観光してきました。

 小堀遠州作庭の借景庭園の今昔の風景を比べて、時の流れを目で切実に感じたのでした。その一方で遊び場だった臥牛山の松山城へ徒歩で登る能力がないと知り、脚で今昔を悟ったのでした。



高梁盆地(左が北)

●JR伯備線備中高梁駅の変化

 まずは出だしとして、JR伯備線の備中高梁駅の今昔です。盆地全体はわたしがいた幼少年期とはあまり変わらない風景でした。しかし、この盆地の街の玄関口のJR伯備線備中高梁駅が大変化でした。

2025年の備中高梁駅西口 左に駅舎と市立図書館



1992年の備中高梁駅西口 正面に駅舎

 昔は西側だけだった駅前広場が東側にもできていました。わたしがいた頃は駅の西も東にも、太い杉や檜の丸太がたくさん積んでありました。このあたりの山は木材産地であり、そこからの丸太はこの駅から貨物列車に載せられて都市へ行ったのでしょう。鉄道がまだ来てない頃は、高梁川を流していたのでしょうね。

 高梁駅には、線路をまたいで駅東西をむすぶ歩行者自由通路の橋ができており、駅改札口はその橋の上から出入りするのです。しかも駅ビルさえも建っており、すっかり都市的な交通拠点の姿に変貌していました。

●駅ビルに市立図書館

 その駅ビルは商業施設ではなく、市立図書館ですから、その文化的な街づくりに感服です。列車通学の高校生たちは待ち時間をここで過ごすのでしょう。これは羨ましいと思いました。

 わたしの記憶にある市立図書館は伊賀町にありました。自宅近くですから高校生のわたしはよく利用しましたが、ほかに人がいた記憶がないほどに静かな図書館でした。その和風木造の大きな建物は、ネットで調べたら「順正記念館」として今もあって、順正女学校の当時の歴史的建築のようです。

順正記念館
●小説「孤城春たり」の御前丁

 順正と言えば、最近に読んだ時代小説[『孤城春たり』(澤田瞳子)のひとつの章に福西繁が登場します。この人が後の順正女学校創立者の福西志計子のことと、小説中にはないのですが、高梁出身のわたしにはそれとわかったのでした。山田方谷を主軸にした幕末が時代の舞台であり、福西はの方谷門下で唯一の女性だそうです。

 わたしは時代小説を読むことはほとんどないのですが、久しぶりに故郷を訪問したので読んでみました。小説としての出来はよく分りませんが、出てくる町名の場所を知っているので、昔のことなのに人物の動きを具体的に思い浮かべて読みました。特に山田方谷の住まいがあった御前丁(おんざきちょう)がたびたび出てきました。わたしの生家があった御前神社に由来する町名です。御前丁、石火矢丁、片原丁、内山下などが武家町で、本町、新町、下町などは町人町でした。武家町を丁(ちょう)と、町人町を町(まち)と読みました。今はどちらも町に統一していますが、読み方は昔のままです。

●わたしの生家があった御前神社

御前神社の社叢林と社殿等の配置(左が北)

 その御前神社を訪ねました。わたしはここで生まれて幼少年期を過ごしたもっとも懐かしい場所です。昔は石段だった参道は、車が登るように舗装された急な坂道になっています。その登り口に石の鳥居、参道脇には鐘撞堂があり、境内広場に昇って二の鳥居、更に石段を登って上の広場に出ると拝殿、本殿、神輿蔵などがあり、これら百年以上も前の社殿建築はほぼ昔の姿のままでした。変わったのは社務所が建て替わり、わたしの生家の宮司住宅が消えたことです。

御前神社境内 左は社務所、右の鳥居の奥の石段上に拝殿 かつて社務所の左に生家

御前神社拝殿

御前神社 左に神輿蔵、右に本殿

 境内を見回せば、かつてあったイチョウ、モミ、スギ、メタセコイヤ等の巨木が消えていますが、他の樹木が大きく育って社叢林を構成しています。周りの山は昔は燃料として定期的に伐るので雑木林でしたが、いまではヒノキを植え育てて深い森林となっています。
御前神社秋景色 2014年11月 川上正男氏撮影

 わたしは拝殿前の木の階段に腰を下ろして、しばし少年の頃の暮らしを思い出したのです。この広い境内全体に春も秋も落ちてくる木の葉を、箒や熊手で掃き集めるのは家族の重要な日常作業でした。小学生の頃は冬の毎朝、拝殿前に掃き集めた落葉の焚火で温まってから登校したものです。夏はセミの声が降りしきる森の中での昼寝は心地よいものでした。森に育てられました。

●17世紀初から「時の鐘」があった鐘撞堂

 ちょっと特異な建物は木造の鐘撞堂です。高さは12mほどの細身の塔状で参道脇に建っています。ここに鐘楼ができたのは十七世紀の初めころと、その釣り鐘に記されていました。

御前神社鐘撞堂 向うに見える城下町に時の鐘の音が響いたであろう

 一定の時刻にこの鐘を撞いて、城下町に時刻を知らせる「時の鐘」として藩が設けた、いわば公設の時計台でした。藩政期には鐘撞堂のそばに鐘守役の住む長屋住宅があったそうです。近代になって神社の時の鐘となり、わたしの祖父や父が撞き、父が兵役で留守中は母が撞きました。

1940年12月 時の鐘が戦争のために国家へ供出された日の送別行事

 その鐘は1940年末に戦争のために金属供出されて鐘不在の鐘撞堂となりました。鐘は溶かされて兵器にされたらしく、それ以来いまだに鐘がありません。老朽化して倒壊の危険がありそうです。その発祥の歴史的な由縁と共に、また鐘の不在が戦争によることを考え合わせると、歴史的な意義を持っていると思うのです。

 この木造建築は、もちろん江戸時代の建造ではないのですが、大正15年(1926年)に写したする写真(→参照)があるので、少なくとも100年近くの古建築です。そしてそのその塔状ランドマーク的な姿は、文化財とし保全する価値があり、早急に保全策が必要と思いますがいかがでしょうか。少なくとも登録文化財にはなるように思うのです。

 高梁盆地の文化財と言えば、なんといっても備中松山城頼久寺庭園でしょう。松山城のあるお城山(臥牛山)は少年期の遊び場でした。今回も鞴峠まで車で登りましたが、そこから先の登山はわたしの足では無理で、残念、引き返しました。

街のどこからでも臥牛山の頂に備中松山城の天守の屋根が見える

●小堀遠州作の頼久寺庭園へ

頼久寺 サツキ大刈込

 頼久寺庭園では、サツキの大刈込にちょうど花が咲いており、美しく鑑賞しました。1960年に訪問した時の写真があるので、今回と比べて見ましょう。遠くにある愛宕山とその手前の庭園外の風景も取り込む雄大な借景庭園です。

 1960年にここへの訪問時に写した写真があります。それには庭園外の建物が写りこんでいて庭園から愛宕山まで続くはずの借景が破綻していました。この雄大な借景こそがこの庭園の神髄であるのに、残念なことでした。

 ところが、今年2025年の写真には、外の建物を目隠しする高い植え込み垣が庭を囲んでいます。緑の庭園が愛宕山までも続いているかのようです。ただ、その目隠しが高すぎてしかも直線的な天端は、愛宕山へと自然につながる風景というには、ちょっと不自然です。

 これで小堀遠州の作庭に戻ったとは言えないでしょうが、愛宕山もそれなりに借景として収まっていました。なお、この借景となる眺めの範囲の地区には、都市計画による地区計画(→参照)によって、高層建築が建てられないように規制がされています。これを変更しない限りは、これ以上に建築物が建つことはなさそうです。

(2025/07/07記)

ーこのブログ内の【西方への旅】関連ページー

2011/10/22【ふるさと高梁盆地】小堀遠州作名園の借景を守る都市計画 
https://datey.blogspot.com/2011/10/511.html

2017/12/03【余談:安藤忠雄展雑感談議】直島消えた大量の釣鐘を思い出す https://datey.blogspot.com/2017/12/1305.html

2025/04/26【西方への旅に】久しぶりにホテル宿泊を電話予約すれば・・ https://datey.blogspot.com/2025/04/1883.html

2025/05/18【わが設計の父母旧宅】築60年木造モダン小住宅が古民家民泊とは! https://datey.blogspot.com/2025/05/1886.html

2025/05/20【故郷の浦島気分】故郷に通じない高梁盆地≒アルトハイデルベルク説 https://datey.blogspot.com/2025/05/1887.html

2025/05/26【大阪駅で浦島気分】大阪駅上空大屋根の巨大架構が凄かったhttps://datey.blogspot.com/2025/05/1887_26.html

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2025/05/20

1887【故郷の浦島気分】もう30年も唱える「高梁盆地≒アルトハイデルベルク説」は故郷に通じなかった

●故郷高梁盆地訪問

 久し振りに泊りがけで故郷訪問してきた。岡山県の高梁盆地である。高梁市であるが、わたしが過ごした幼少年時代とは、市域は膨大に拡張しており、単に高梁が故郷であると言ってもどこであるのかわからない。そこで近年は故郷は高梁盆地であるということにしている。

 巾着袋というか餃子というか、サツマイモというか、まあ、空から見るとそんな形をした盆地である。四方を小高い山並みに囲まれているから、季節によっては盆地は湖の底のように雲海に深く沈む。雲海からようやく頭を出す備中松山城の天守がほぼ唯一の歴史的観光資源である。わたしは雲海の城を見たことはない。

 少年の頃はこの袋の中から雲を突き抜けて、何とかして逃れ出たいと思っていたものだ。夢ではも空を飛んで逃げだそうと何度もしたものだ。
 大学に入る口実で遂に東京に逃れてから、後年に都市計画を専門とする大人になって初めて、高梁盆地の価値が分かったものだ。なかなかに捨てたものではない良い街だと気づいても、もう戻れなくなっていた。

 その後に何度か引越しをしたが、どちらも20年以上を居住した旧鎌倉横浜関外の地は、規模と地形が高梁盆地にどことなく似ているのであった。意識せずとも故郷の環境と景観が脳内にインプットされたままでいるらしい。

●高梁≒ハイデルベルク説

 それを特に意識させられた”事件”が起きたことがある。ドイツのハイデルベルクのオールドタウン(アルトハイデルベルク Alt-Heidelberg )を訪ねたのは1996年の5月だった。
 そこは高梁盆地とほぼ同じような山に囲まれた盆地地形であり、ネッカー川が高梁川のように流れている。街を歩くと街路や路地(小路)から向こうに必ず山並みの緑を見通すことができる。

 例えば上の写真(左ハイデルベルク、右高梁)のような風景が到るところで出現してくる。わたしは初めて来たのに再来の気分になってきた。覚えのないデジャビュ(既視感)に襲われて、変な気持ちになった。

 街からネッカー川を渡って右岸に行った。岸辺近くから山がたち上り、その中腹を川に沿う道があり、哲学の道と名付けられている。そこから街を見下ろして、おお、ここは高梁盆地だよ~、と、わたしはいっしょに行った4人の友人たちに叫んだ。街で起きた変な気分の理由が分かり、頭ががすっきりとしたのだった。

 ではどれほど似ているか、わたしが撮影した俯瞰写真を比べよう、そっくりだ。

写真(上)はアルトハイデルベルク、ネッカー川右岸の哲学の道から望む1996
写真(下)は高梁盆地の旧城下町、高梁川右岸の蓮華寺への山道から望む1997

 そのアルトハイデルベルク景観は、高梁盆地の天守がある臥牛山、城主館(御根小屋)、旧城下町、方谷橋と川そして背後を囲む山並みが作る景観とそっくりなのだ。色彩は異なる。
 わたしはこれ以後、チャンスあるごとに「高梁盆地≒アルトハイデルベルグ説」を唱えている。(参照「異国で発見した故郷2010.07」)

 このブログに何回もそのことを書いており、高梁市で大勢の市民対象の講演(2012年)の機会にも話したし、高梁高校の同窓会誌にもこの話を寄稿したりして、自分としてはけっこう宣伝したつもりだったが、だれからもこれに乗ってくる話は一向にないのである。

●再び故郷にハイデルベルク景観を求めて

 今回、久しぶりの故郷訪問(たぶん最後)だから、この景観の確認をしておきたかった。以前に写真を撮った高梁川の右岸の山の中腹にある蓮華寺に期待して登りついた。おお、なんとまあ、展望台を設けてあるだ、感激した。もしかして、「ここからハイデルベルグと同じ景観眺められます」、なんて掲示板があるかもと思ったくらいだ。

 その展望台で撮った写真がこれ↓、ガックリ~、なんだよ、はるばる来たのに~。

蓮華寺から高梁盆地を望むも肝心のお城山、旧城下町、方谷橋など左方は全く見えない

  がっかりしてとぼとぼと蓮華寺からの山道を下っていたら藪の切れ目があった。
藪の切れ目から下に方谷橋、正面にわたしの生家があった御前神社の森が見える


上の写真の中央部ズーム、わたしの生家があった御前神社参道の脇に立つ鐘楼がみえる

 蓮華寺や方谷林あたりの山腹を探せば、どこかに旧城下町全部を俯瞰できるところがあるかもしれないが、老体で山道を登り降りや藪をかき分けるのは無理だからあきらめた。
 蓮華寺から北へだらだらと下ったあたりで、ようやく藪が切れて旧城下町が見える。位置が低すぎるけれども、ここから眺めてがまんしよう。
 これ↓が今の日本のアルトハイデルベルクである。
左は松山城天守がある臥牛城山、正面が旧城下町、秋葉山、右に方谷橋、愛宕山

もう一度、高梁盆地≒アルトハイデルベルグを空中から見よう、そっくりである。


 というわけで、わかったのは、わたしの唱える「高梁盆地≒アルテハイデルベルク」説の宣伝は何の効果もなかったということだ。
 ハイデルベルクと言えばドイツでも日本でも有名な古都だから、高梁盆地観光の種になるかもと思わないでもなかった。でも今や学生王子の小説や映画やミュージカルさえも誰も知らないよな。

 高梁盆地≒アルトハイデルベルク説をひっこめる気はないが、歳と共に薄くなった故郷の街への思いいれらしきものが、これでさらさらと溶け去った。
 そこで思うのだが、都市や地形を景観的な視点で認識するのは、わたしのような建築や都市計画を専門としたものでなければ、眼で見ても気が付かないかもしれない。誰もが気が付くだろうとの思いは、専門家の一方的思い込みで誤謬のようだ。
 それが証拠には、高梁生まれのわたしの弟でさえも、ハイデルベルクに行ったけど高梁と似ていると気が付かなかったというのだから。
 そうだ、どこか別の日本のハイデルベルク説が有効な城下町を探そうか、さてどこだろうか。

●高梁盆地の観光目玉は今

街にもホテルにも山田方谷幟旗ヒラヒラ
 ところで、目下の高梁盆地観光の大きな売り出し目玉は、山田方谷らしい。方谷は幕末に備中松山藩を立て直した陽明学者であるようだ。街に中のあちこちに山田方谷と大書するヒラヒラ幟旗が立ち並ぶ、売り出し軽薄風景であった。

 街のあちこちに方谷に由来する”遺跡を発掘”している様子だった。地元銘菓にも「方谷柚餅子」があり、友人への土産に買ってきた。猿煎餅があったから方谷煎餅とか方谷饅頭もあるだろう。

 山田方谷を主人公にしたNHK大河ドラマ実現運動をやっているらしい。方谷さんが司馬遼太郎の小説の一部に登場することは知っているが、ミーハーにも受けるほどの全国的有名人であるとは知らなかった。

 わたし個人としては、幕末ドラマにしてみたいと思う主人公は、方谷が仕えた藩主板倉勝静である。幕末の幕府老中首座として開国騒動から戊辰戦争の渦中で右往左往、東北列藩同盟の参謀にされて榎本武揚と北海道へ逃避行なんて、この人のほうが方谷よりよほど面白そうだけどなあ。もっとも、わたしはTV嫌いで受像機ないけどね。
                       (2025/05/20記)

ーーーーこのブログの高梁・ハイデルベルク関連記事ーーーー


◎高梁:日本のハイデルベルクは今(1997.11)https://matchmori.blogspot.com/2021/08/takahasi1997.html

◎異国で発見した故郷ー高梁盆地そっくりのハイデルベルク(2010.07)
https://matchmori.blogspot.com/2021/09/taka-heide2010.html

◎ふたつのアルテシュタット(2012/01/17)
https://datey.blogspot.com/2012/01/572.html

◎高梁盆地とハイデルベルク(1)コンパクトタウン(2012.0120)
https://matchmori.blogspot.com/2021/07/takahasi1.html

◎高梁盆地とハイデルベルク(2)街と道(2012.0120)https://matchmori.blogspot.com/2021/07/takahasi2.html

*高梁:盆地の山並み風景(2012.01.13) https://x.gd/PS0ho

◎【望郷と忘却:『荘直温伝』読後感想2】高梁盆地を縦断した山陽山陰連絡鉄道(2020/08/22)https://datey.blogspot.com/2020/08/1486.html

●【ふるさと高梁論集あれこれ】
https://matchmori.blogspot.com/p/west-nippon.html

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2023/11/30

1753【紅葉の季節】故郷生家の森の紅葉から思いを巡らす街の紅葉そして人工の紅葉

 今年の紅葉は平年と比べてどうなのだろうか。夏から秋へと暑かったから、紅葉は遅いのか逆に早いのか、どちらなのだろうか。

 ここに載せた紅葉黄葉風景の写真は、2014年11月10日撮影である、場所は岡山県中西部にある高梁盆地の神社境内で、ここはわたしが生まれ育って少年期までを暮らした生家である。故郷の盆地で暮らす同年友人が撮って送ってくれた。
 少年の頃には紅葉なんてものには全く興味なかったから、このような紅葉風景を送ってくれて、改めて美しいと感動したのであった。

 その生家の神社は、盆地を取り巻く丘陵の中腹斜面の街から見上げる位置に、裏に山を背負った森の中であった。生まれた時から自然の四季の移り変わりの中におぼれるほどにどっぷりと浸かって生きていた少年にとっては、あまりに日常的すぎて身のまわりの自然の変化には全く気を止めるようなことはなかった。周りの森もの樹々も裏山の森も全て自分の領分だから、それはまるで身体の延長である。自然を客観的に見る目はなかった。

 ところが、ある日のこと、突然に自然を感得した得難い体験の記憶がある。中学生になったばかりの頃だったような春のある日だが、真昼の森の中から森の外の雑木林のあたりをぼんやりと見ているとき、それは急にやってきた。
 樹々の萌える若葉のひろがる枝葉、その色彩のグラデーション変化、風による木の葉や草のさやぎ、鳥の鳴き声、森の樹々の合間からさす日の光、それまで気に留めることなかった自然の姿が一気に押し寄せてきた。

 それはいったい何だったのだろうか、しばらく立ち尽くしていた。自然がわが身の外にある客体としての自然が見えてきた”事件”があった。それはどこか外から来たのではなく、身の内から湧き出てきた感情であった。何か特別なきっかけはなにもありはしなかった。

 たぶん、それはその日から大人になるステップを登り始めるという少年にとっての、心と体の儀式だったのであろう、と勝手に思っている。遠い少年の日のその不思議な体験を、不思議なほどにありありと覚えている。もっとも、自然が美しいと悟るにはまだ時間が必要であった。

 それから20年ほども後のことだが、これに似た体験をしたという知人にひとりだけ出会ったことがある。また何か外国の小説であったとかすかな記憶だが、これと似たような体験する少年の話を読んだことがあり、ときに思いついて探すのだが見つからない。

 故郷の盆地にはもう20年も行かないし、もう行くことはなさそうだが、上の写真のような紅葉は今もあるらしく、先日のこと、故郷の盆地に住む知人が、街から見上げた神社の森の中に、今年もイチョウの大木の黄葉が目立っていたが、もう落葉したと便りをくれた。

 さて、今わたしが住む横浜の近所に紅葉黄葉の名所がある。街路樹のイチョウ並木がかなり多い。有名なところは日本大通りであろう。紅葉狩りの名所ならば三渓園である。これまで何度も出かけたものだ。

横浜三渓園紅葉風景 2021年

横浜大通公園 銀杏黄葉 2015年

 銀杏並木と言えば、今話題の明治神宮外苑である。上の日本大通りの銀杏本来の姿のそれと比べると分るように、外苑では強い剪定をして、槍の切っ先のようにとがった姿にしている。それはここが明治王権のシンボル空間だからである。その先にある絵画館に視線を集中する人工の仕掛けであり、その視線を強要する人工景観をわたしは好まない。
明治神宮外苑の銀杏並木 2013秋

 近ごろは紅葉や黄葉の樹木に、夜間にライトを当てて見せるということがしきりに行われているらしい。わたしは実は見たことが一度もないのだが、見たい気がおこらない。ライトの当て方が人工的でわざとらしい風景になるに決まっているからだ。いっそのこと紫色でもあてて紫葉狩りでもしたらどうですか。

 ネット検索で紅葉ライトアップを探すと腐るほど出てくる。これではご免を蒙りたい。雪景色でも花見でも瀧でも何でもかんでもライトアップして、しらじらしい風景に変えてしまうのが気に食わない。これも視線を強要して不自然極まる。

ネット検索サイトに登場する紅葉ライトアップ風景

 自然の風景を光で改変するライトアップも風景破壊であるし、こうも夜まで明るくされては植物の方も寝不足であろうから枯れてきて自然破壊になっているに違いない。
 これからクリスマスがやって来て、個人の家をキンラキラキラさせるのはそれぞれ勝手ながら、景観についての美的感覚に頭をかしげさせるのである。
 ここに並べた写真を見て気が付いたが、計らずも自然のままの紅葉から、人工の極致の紅葉へと並んでいるのが面白い。

(20231130記)

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2023/02/20

1672【頼久寺庭園】江戸初期小堀遠州作の名園は借景に時の変化をどう表現するか

 本棚からもう忘れていた昔の写真のプリントとかフィルムが出てきた。もうずいぶん前に、古いアルバムからはがして、PCスキャンしてデータ化したから、もう捨ててもよいものだが、ついつい瀬k実の写真プリントを見てしまった。

 それらの中の一つに、わたしの生まれ故郷である高梁盆地で、1960年に撮った頼久寺庭園があった。もちろんモノクロだが、今の庭園の姿とは異なる。作庭当時とは景観が違うのである。名勝指定になったのは、この写真より後の1974年とある。

 この庭園は江戸幕府の作事奉行であった小堀遠州の作庭であり、江戸初期にこの備中松山藩の代官をしていた若い彼は、この頼久寺を住まいとしていたのだった。

 小さな庭だが、庭園外の遠くにある愛宕山の山容そのものを借景にとりこんでいる。庭園内のサツキの丁寧な大刈込みと対比的に、外の森や山の借景はラフな自然景である。
 この1960年に私が写した写真の特徴は、庭園のサツキ大刈込みの向こうに瓦葺き屋根の大きな建物があることだ。つまり庭園の緑の連なりが遠くの山まで視線が途切れることなく通るのではなく、いったんは庭の外で視線が断絶する。当時のわたしの記憶ではこの建物を養老院と言っていたような気がする。今は大学のキャンパスの一部となって校舎が建つ。

 もちろんこのような建物が遠州の作庭時の17世紀初めにあったのではなく、森が続いていたか、あるいは農村の田畑の風景であったろう。それが庭園は変わらぬように維持されてきたが、その外の景観は時代と共に変化する。
 1960年当時は外の建物がそのまま見えているのだが、現在はどうなっているだろうか。

 そこでネットで最近のこの庭園の写真を探して、わたしの撮った1960年庭園写真と同じアングルで同じにトリミングして比べてみた。
 現在では瓦屋根建物は見えず、その手前の庭園内の境界線上に沿って背の高い高い樹木が並べて植えられており、建物を見切る高さで水平に頭を刈られている。

 さてこれをどう見ようか。見ようによってはもう一つ大刈込みが高い位置にできた感もある。だが、この植込みの厚さがないので、もうひとつ迫力がない。
 向こうの森と調子を合わせて大借景との調整役になっているかと言えば、そのスケスケぶりと形が幾何学的で、いかにも目隠し感がありすぎる。見ようによっては、この目隠し植樹帯を区切りにして、向こうの森や山とこちらの庭園とは違いますよと、借景を否定してるような感があるのだ。

 いや、もしかしたら、わざとそうしているのだろうか。これは遠州の作庭にはなかった植栽だから、明らかにそれと分かるような姿につくったのだろうか。なるほど、それは歴史的庭園保全のひとつの考えであるともいえよう。実情はどうなのだろうか。

 上の二つの写真をしばらく見ていたら、1960年写真の方が借景が生きているとも見えてきた。もちろんあの瓦屋根のスケールには困るのだが、あの屋根がいくつかに分節して、高さに変化があるとよいかもしれない。もちろん今の建物が1960年のそれではないだろうが、航空写真を見ると今も同じような建物があるようだ。
 庭園の外に建物などが見えても、庭園に対応したそれなりのスケールや色彩ならば、それも借景にした方がむしろ適切かもしれないと思う。時代の表現である。

 2011年の写真にみる境界目隠し植栽体を、分節するとか目隠しラインを自然に刈るとか、一部に屋根が見えてもよいからそれなりのデザインをして、総合的に内外を合わせた景観を考える現代の作庭があってよいようにも思うのだ。
 もちろん、文化財としての名勝指定による保全の在り方が決まっているのだろう。それは遠州作庭の姿を守ることが基本だろうが、時代による景観変化を生かすという考えがあってもよいだろう。

 なお、これは以前に調べて知っているのだが、この借景の範囲に高層建築が見えないのは、庭園からこれ以上は建物が見えないように建築物の高さ制限を、高梁市の都市計画行政として定めているからである。これについては既にこのブログにこのように書いている。


 借景で有名な庭園は、頼久寺より少し遅れるが同じ江戸初期作庭の京都岩倉の圓通寺である。ただしそこも借景のお手本というには、かなり難がある景観になっている。後水尾天皇が作った時はもっとおおらかだったはずだが、比叡山の手前の市街地化で雑多な風景となり、ここも垣根や植樹がおおらかさを失わせてしまっている。


(20230220記)

●参照*高梁盆地:小堀遠州作の名園の借景を守る(2011/10/22)
 ◎京都岩倉:怨念の景観帝国ー円通寺と後水尾上皇(2009) 


2021/04/17

1561【コロナの春行く】願わくは緑の木陰に夏死なむその皐月の望月のコロナ


故郷の街(高梁盆地)に住む高校同期生からメールが来た。その便りの中になかに、同期のある女性の息子が母校の高校の校長になったという、おめでたい知らせがある。
 一瞬脳裡に浮んだのは、自分が生徒の頃の年取った校長の顔であり、そんな年寄りの息子がいるのか、すぐに思い返して、そんな年寄りの子がいてあたりまえの歳になったと気が付いた。よくまあここまで生きたものだ。

 そしてまた、同期生男女5人で野外宴会をやって楽しかったと写真もついている。懐かしい顔ぶれであり、もちろん息子に校長がいておかしくない容貌だ。
 今どき宴会なんて、羨ましいことだ。それなりにコロナに注意してやったとあり、そうか、あの小さな静かな盆地も興中の災禍にあるのだと気が付いた。

 そこで故郷にはいったいどれほどのコロナ感染者がいるのだろうかと、高梁市のウェブサイトで調べてみた。
 盆地での状況はわからないが、高梁市域内の数字はあった。これまでのコロナ感染者数の累計は、15人である。桁が違うと見直したが、去年7月以来ぽつりぽつりと発生の様子。


高梁市内の新型コロナウィルス感染者数
(市のウエブサイトより、元号記述を西暦に修正)
 こちら横浜市では毎日何十人も発生する。現在は累計約22000人で、高梁市の1470倍の感染者数とはすごい。
 人口の差かと思ったが、それは横浜(372万5千人)が高梁(3万2千人)の116倍だから、人口は言い訳にならない。なんとも申し訳ない気分である。

 故郷便りの添付ファイルに、高梁盆地の俯瞰写真がある。緑の丘陵に包まれた街は、盆というよりも深皿で、グラタン皿のごとくに楕円形だ。この盆地の中に1万人ほどが住んでいる。市域は合併を重ねてこの盆地の100倍もあろうかという広大さである。


高梁盆地を南西から俯瞰(撮影kawakami)

 この盆地の中に行政人口の3分の1近くの1万人ほどが住んでいる。興味深いことに、この1万人ほどという盆地内人口は、近世末期からあまり変わらないということである。

 比較のためにわたしが住む横浜都心の俯瞰写真を観よう。この建物群の混雑度を見て、コロナ3密を思い出さざるを得ない。これでは故郷の1500倍もコロナ感染者が多いのも無理はない。


山手から横浜都心俯瞰

 つまり故郷のコロナ感染度合いは、横浜よりも1500分の1も薄いのである。それならコロナなんて恐れる必要がなさそうに思ってしまう。が、どうなんだろうか。それでも何かの機会で誰か住民がコロナに狙われて、いわゆるクラスターが起きると、とたんに大変になるのだろうなア。

 今日から横浜市はマンボウ、いや「まん坊」、いや「まん防」がやってきた。そう、特措法による「まん延防止重点措置を行うべき区域」、略して「まん防」に指定されて、いろいろと規制が始まるらしい。わたし個人はその規制になんの関係もないから平気である。マンボウでもクジラでもやってこいである。

 そう、「まん防」の上にはクジラならぬ「きん宣」が待っている。例の「緊急事態措置宣言区域」略して「緊宣」、「まん防」指定やっても効果がなくて感染増加なら、つぎはさらに規制厳しい「緊宣」指定である。

 その「まん防」になってしまった横浜の都心部に住んでいるのだが、今日たまたま用事があって近所の横浜球場の横を通り過ぎたら、野球の試合でもあるらしく超大勢の人々が押しかけている。「まん防」なんて知ったことかの3密ぶり、内部はもっとすごいのだろう、これじゃあ早急に「緊宣」格上げは近いな。


野球競技があるらしい「まん防」の横浜球場

 どうやらコロナ大戦は当分やむことなさそうだ。もうコロナ軍に本土上陸されてしまったし、全国主要都市はコロナ襲中である。
 これに対抗するには、防空頭巾に代わるマスクをつけて、竹槍に代わる消毒液を手に塗って、防空壕に代わる空中コンクリ陋屋に逃げ込むしかない。

 唯一の反撃兵器はワクチンらしいが、科学先進国日本はいつの間にか後進国になっていてそれを作る能力がないらしい。輸入しかないけどその争奪戦にも負けてしまった。それでもオリパラ返上といわないで準備するその世界の人々って、なんとも凄いもんである。

 わたしにワクチン接種順番が来るのは、横浜市のウエブサイトを探したら、2~3か月以上も先らしい。5歳刻みで高齢者から順番で、その最初の80歳以上というひとくくりにされてしまったわたしの年齢、なんだか悲しいような、もったいないような、申し訳ないような複雑な気持ちである。

 ま、なるようにしかならないし、先が短い年寄りがオロオロしてもしょうがない、ここは未来がある若い人たちを優先してワクチン接種し、しっかり生き延びてください。
 年寄りはあとからゆっくりでいいですよ。どうせ短い命ですから、ワクチン前に死んでも後悔はしませんからね。

 ところが、コロナ大戦が終わると戦後処理の時代がやってくる。コロナ対策やオリパラで抱えこんだ未来からの大借金が待ち受ける未来である。
 その返済のためには、少なくとも今の震災復興税にコロナ復興税が重なるのでしょうね。ほかにも増税ああるだろうな。
 アジア太平洋戦争の戦後処理時代に空腹を抱えたわたしたちの世代、あの悲惨な戦争直後の体験をまたもやしたくないなあ、うん、そうだ、ピンピンコロナ待望するかなア、、。

 なんてオロオロ考える日々を送っておるところに、こんどはマンボウが来てますます知人も息子も遊んでくれないなあ、
 まあ、脚だけは丈夫な私は孤独徘徊花見シーズンが終わり、今や緑陰シーズン到来、木陰で缶ビールを孤独に飲みましょう。いまや「花の下にて春死なむ」がおわり、「願わくは緑の木陰に夏死なむその皐月の望月のコロナ」になってしまう。

 故郷とのコロナ落差の大きさに、戸惑うばかりである。(20210417記)

2020/08/22

1486 【望郷と忘却:『荘直温伝』読後感想文:2】高梁盆地を縦断した山陽山陰連絡鉄道を当時の町長は街としてどう受け止め、後世はどう生かしたか

望郷と忘却:『荘直温伝』読後感想文:1】のつづき

●荘直温町長が誘致した鉄道

 日本の小さな地方都市が一人の人物を通じて、日本史の中にどう位置付けられており、どのように国家の網目の中に組み込まれ、それをどう受容したか、興味深い本をよみました。
 わたしが少年時代を過ごした街ですから、地理的によくわかるので読んでいて身に染みるのです。ここに書くのは、わたしの故郷の高梁盆地を舞台にした一人の男とその一族の伝記・松原隆一郎著『荘直温伝』を読んで、極私的な読後感想文です。
 前回はその本の付録の幕末地図に、わたしの生家である神社が載っていないことへの疑問と探索でした。

 今回は、荘直温が高梁盆地のリーダーとして行った大事業の鉄道誘致について感想を書きます。この高梁盆地に中国地方を南北に結ぶ幹線鉄道の伯備線備中高梁駅が開通したのは1926年でした。それがその後の高梁盆地にもたらした実に大きかったたことは、著者が110ページ(本文365ページ)も使っているほどです。

 特に誘致運動についての荘直温の中央政府への陳情努力は、それに私財をつぎ込んで荘氏没落に至った原因となったとさえ書いてあります。
 20世紀の初め頃、日本各地で鉄道誘致運動が盛んであり、政党の政友会はこれを利用して勢力を伸ばしたくらいでした。岡山出身の犬養木堂がキイマンとして登場するように、高梁もその一つだったのです。鉄道誘致は政治運動であり、荘直温は表に出せない多額のカネも使ったことでしょう。


(「荘直温伝」より引用)

 山陽の岡山からに北へと山陰と結ぶ路線候補はいくつかあり、どこもそれがわが町を通るか否か、大きな政治経済問題でした。南から高梁川にそって北上する鉄道が、高梁盆地に入る直前に西方の成羽川沿いに方向を変える路線候補が、高梁にとっては大きな競争相手でした。高梁と成羽の熾烈な陳情合戦の結果は今に見る様に高梁路線になったのです。
 思えば戦国時代、高梁盆地の支配者であった荘氏の先祖の庄氏が、成羽に鶴首城を構える三村氏と幾度もの松山城を取り合う合戦をしましたが、その再現だったでしょうか。

 伯備線は1928年に山陽山陰連絡幹線として岡山‐米子間が開通します。高梁盆地から南に1時間ほどで倉敷や岡山へ、北へ3時間ほどで山陰へと結ばれました。
 線路が盆地の底を南北に縦断して、城下町を東西二つに切り裂きました。その備中高梁駅は、盆地北部の繁華な城下町から離れて、南部の水田の中にポツンと登場しました。駅や路線の位置は鉄道としては合理的だったのでしょうか。
 しかし、長い繁栄をしてきた城下町としては駅も線路も奇妙な位置です。そしてその後の高梁盆地の消長を左右してきた鉄道でした。

 この鉄道に関する極私的な記憶から書きます。わたしたち盆地の底の少年たちにとって鉄道は、ここから外に出ていく道であり、駅はその出口でした。
 そして乗るのは常に地形的には下るのに上り列車であり、反対の北行き下り方向には全く目が向かないのでした。わたしは少年時代の終わりとともに出て、そのまま戻っていません。弟たちもそうです。

 わたしの父は、この駅から3度も戦争に出てゆき、運よく3度とも生還しました。最初と次は中国戦線に、3度目は関東で本土決戦に備える兵役でした。
 3度目の1943年12月、この駅から母とともに送りだし、家に戻ったとたんに母が泣き崩れた記憶があります。その父母も55歳でこの駅から出て行き、岡山そして大阪へと移り住み戻りませんでした。

 では、わたしたちが出ていった如くに、他の人々も出て行って盆地内は空き地空き家ばかりになったかというと、そうではないようです。
 私の生家があった神社の境内や山林は変わりませんが、その周りの広い田畑や竹藪だったところは、今ではびっしりと住宅が建ち並んでいます。出て行った人を上回る人たちが周辺地域からやってきたのでしょう。

 実は高梁盆地の人口を調べていて、江戸中期から1万人前後であまり変化がないという、じつに興味深い発見をしたのです。盆地特有の閉鎖空間の自然環境と社会環境が、そのようにさせるのでしょうか。
 行政市域人口は減少するばかりですが、その中心部の盆地では出入りが均衡しているのです。誘致した鉄道が盆地から人や物を奪っていくストローとして働いたことは確かでしょうが、一方で鉄道があったことで地域中心としての地位を保持し、周辺地域から人々を吸い込んだのも事実でしょう。

●高梁盆地を縦断する鉄道

 それにしても思うのですが、どうして町長の荘直温は誘致した鉄道を、この線形で盆地の中を通したのでしょうか。
 駅は賑やかな城下街から南に外れた寂しい田んぼの中であり、線路は盆地内随一の優良邸宅地の武家屋敷町をなぎ倒して縦断しました。それは鉄道敷設する側の都合によるものか、それとも地域が欲した位置でしょうか。どうも鉄道側の都合だったような気がします。

近世形成の計画市街と近代以降形成の無計画市街との比較

 この街なかを通る鉄道の列車は、長時間の大騒音、地を揺るがす振動、真っ黒な煤煙を街に振りまきました。わたしにも直接被害経験があります。
 戦後に生まれて新築されたばかりの新制中学校に入学しましたが、その校地は鉄道線路に接していました。3年生の時の木造校舎の教室は線路際の2階でしたから、騒音煤煙振動の3重苦に襲われて、列車が走るたびに授業は中断しました。

武家屋敷町の石火矢町を切り裂く機関車
1971年公開映画「男はつらいよ 寅次郎恋歌」より引用
 
 ついでながら、この学校の北側には専売公社の煙草工場がありました。この工場から煙草に入れる香料の甘ったるくて胸が悪くなる異様な匂いが、学校全体に流れ込んでいました。この工場も荘直温伝には、彼が土地斡旋に苦労して誘致成功したとあります。どうも少年のわたしは、その称えられる荘直温の事績とは相性が悪かったようです。

 荘直温の事績について付け加えると、街の南部の川沿いに桜並木を彼が作り高梁の名所であったが、これを後の1940年に切り倒したことを著者が難じています。高梁では桜土手と言っており、幼児のわたしは親に連れられて行った記憶があります。3歳以下の幼児にサクラドテなる言葉の記憶があるとは思えないので、実は一部が後々まで残されていたのでしょうか。わたしの少年期の花見は方谷林でした。

 駅がなぜ賑やかだった城下町に接することなく、遠い田んぼの中だったのでしょうか。普通に考えるとその駅の周辺が新たな市街地として整備しやすいからと思うのです。
 ところが、わたしがいた50年代までの駅周辺は映画館(3軒もあった)や飲食店が多い歓楽街で、買い物に行くところでもなし、まして少年が行くところではないのでした。買い回り品は城下町の中心の本町や下町へ、最寄り品は新町や鍛冶町へ行ったものでした。

 駅から南部は大部分は田んぼでした。駅裏になる駅東側は、鉄道で出荷する松など木材がたくさん積んでありました。松丸太の積み出しが盛んな駅でした。
 その後70年代には栄町がショッピングの街として繁栄したと、この本にはありますが、50年代末に盆地を出たわたしは、その姿を知りません。


1946年ころの盆地南端から北を写した、右方に線路
1947年航空写真 左端に臥牛山、右方の駅前通りから南部は田んぼ

 駅ができたことで開発利益に与るのは、それまで田畑を持っていた人たちです。なぜこの位置だったのでしょうか。

 それを勘ぐれば、ここは旧松山村のエリアであり、松山村で荘氏松山分家が庄屋として、18世紀終わりごろから采配を振るっていたのです。駅を旧城下町と旧松山村とで取り合いになり、荘直温町長はその故地に駅を決めたのでしょうか。我田引水をもじって我田引鉄といいましたが、その実例かもしれません。

 一方、線路が縦断するだけの旧城下町は、直接利益がないどころか生活環境が悪化しました。武家地だった寺町、間之町、頼久寺町、石火矢町、内山下の静かな高級住宅地を縦断するのは、鉄道の線形としては最良だったのでしょうか。

鉄道線路は武家屋敷地(青色部)を縦断して驀進
(「荘直温伝」付録地図の一部を加工、
グレイ部は商人地

 町長の荘直温はどうしてそれを受け入れたのでしょうか。いや、鉄道用地土地買収で地元調整に尽力したと関係者から感状をもらっているのですから、積極的にこの武家屋敷地縦断を進めたのでしょう。誘致とバーターだったのでしょうか。

 なぜ商人地でなくてこの武家屋敷町を通ったのでしょうか。没落士族のほうが、栄える商人よりも土地を手放し易かったのでしょうか。商人地は間口が小さいので関係者が多くなるが、武家地は宅地が大きいので買収対象者が少なかったからでしょうか。
 西半分を線路にとられた石火矢町は、残る山側の半分だけが現在は武家屋敷町として歴史的雰囲気を演出しています。同様の頼久寺町ときたら、わたしが毎日のように通っていた1940~50年代は、武家屋敷どころかほとんどが竹藪でした。いまは住宅地のようです。

 元都市計画家の目で、高梁盆地の地図や空中写真を見て、奇妙なことに気が付きます。駅から遠い北のほうの街、つまり近世の城下町だったところは道も街網も整然としているのですが、駅やその南のほうの街つまり近代以降のできた街は道も街並みも乱雑です。
 どうやら、鉄道が来て駅周辺が田園地帯か市街地に変わっても、近世以前のように都市計画的整備をしないままなしくずしに街になったようです。

 つまり、荘直温町長は、鉄道の駅を受け入れる側の街としてのまちづくり計画もないままに、鉄道事業者の計画に従って土地買収に協力しただけなのでしょう。もしかして、鉄道がどのようにこの地に影響及ぼすか考えることなく、誘致そのものがが目的化してしまったのかもしれません。荘町長は鉄道が高梁盆地の一大流通産業である河川交通の高瀬舟の没落を招くと考えなかったのでしょうか。その頃の町議会の議事録を閲覧したい。


中央に備中高梁駅、その左下方の整った街並みが江戸時代の城下町

 その後の為政者たちも、南部地域を駅を中心とした街として面的に整備することなく、いくつかの道だけを作って、なし崩しに田畑を宅地し、適当に公共施設を作ったようです。総合的に街を作ることに関心がなかったようです。
 地元有志が計画した栄町商店街再開発ができなかったが、行政のリードすべきだったのにと著者の松原さんは指摘していますが、駅中心の田んぼの街づくりさえできないのに、そんな権利輻輳した市街地のまちづくりは、とても無理でしょう。駅前通りと栄町通りの道づくりで手いっぱいだったのでしょう。

●他都市と比較する鉄道の位置

 では、鉄道が高梁盆地に来た頃、岡山県内の近くの他の同じような盆地ではどうだったでしょうか。昔を調べるのは面倒なので、グーグルマップで現在の空中写真を見ましょう。
 まず新見盆地ですが、伯備線は城下町だった市街地の川の向う、高梁川の対岸に線路も駅も作っています。だから既成の城下だった市街地の破壊がなかったようです。しかし駅周辺を見ると、どうやらここも総合的に整備されないまま今日に至っているようです。


新見駅は旧城下町から高梁川の対岸にある

 津山盆地も新見と同じように、旧城下町市街を避けて吉井川の対岸に駅と線路を通しています。ここも駅周辺総合的整備はなかったようで、旧城下町市街地が栄えています。
 ということで、新見も津山もやらなかった旧城下町破壊を、高梁盆地では鉄道に許しているのでした。荘町長は誘致運動で資産と体力を使い果たし、備中高梁駅開設の2年後に他界したのでした。

津山駅は旧城下町から吉井川の対岸にある

 高梁盆地でも地形的には高梁川の右岸(西岸)に線路を通して、そこに駅を作ることができたはずです。盆地に入る直前に川を越えて右岸に移り、そのまま北上していくほうが線路線形はまっすぐにになります。そして城下町破壊をしないで済みます。
 新見や津山と同じころに鉄道ができたのに、なぜ荘直温町長の高梁では武家地を縦断し、旧藩主館の尾根小屋跡の門内にまで鉄路を入りこませたのでしょうか。

 そのわけを勝手に推測すれば、維新前の荘一族は松山藩のあちこちの村で、農民を統率して武家に過酷な年貢を納める庄屋であったので、その支配階級への維新後意趣返しだったのでしょうか。
 それとも逆に、秩禄公債を食いつぶして困窮していた元武士階級を鉄道用地買収補償金で救済したのでしょうか。
 いや単に西岸は隣村だったから、通すわけにいかなかったからでしょうか。

 他の街との比較ならば、ここでドイツの有名な古都市ハイデルベルクを挙げなければなりません。わたしが1991年に”発見”したドイツのこの街の景観は、驚くほどに高梁盆地と実によく似ています。
 旧城下町と駅中心新市街という関係は、盆地地形的にハイデルベルクにそっくりなのです(詳しくはこちらを参照)。もっとも、新市街地も計画的に開発しているところが、高梁盆地を大違いですが。

 ここも高梁盆地と同じように鉄道が新市街から旧市街の反対側に抜けているのですが、高梁との大きな違いは、それが市街地縦断ではなくて、背後の丘陵地のなかをトンネルで市街地の端に抜けていることです。
 高梁盆地に例えると、秋葉山から臥牛山の中をトンネルで内山下の上に抜けるのです。これなら線路が旧城下町に何の影響も与えません。伯備線にはハイデルベルクのような路線案はなかったのでしょうか。

ハイデルベルクの左半分が古都 鉄道が古都を避けてトンネルで抜ける


高梁盆地赤点線のように線路をトンネルにすればよかったと思うが、

 ついでに言えば、ハイデルベルクでは山側の幹線道路も半分はトンネルです。通過交通が街の中を通らないので、ネッカー川と市街の関係が密になります。
 高梁盆地では高梁川沿いに幹線国道を作り、しかも堤防を塀のように高くしたので、街と川の関係が非常に薄くなりました。わたしが少年のころはこの高梁川が大きなレジャーランドであり、同様に周囲の緑の丘陵もそうでした。そうだ、松山城の天守へは日常的に登って遊んでいました。今はどうでしょうか。

 というわけで、荘直温の努力で誘致に成功した鉄道を、著者の松原さんは社会経済学的に評価されたのですが、わたしは盆地内の都市計画的として辛い評価をしてみました。もちろん、著者のように新資料を駆使する能力はないので、極私的な感想として面白がっているだけです。
 さて、続きを書くかなあ、だんだん妄言が多くなりそうだなあ、どうしようかなあ。

(つづく、かもしれない) 

高梁盆地に関する記事はこちらにも