2011/04/29

417言いにくいこと:震災犯人

 福島第1原発の地震被害による放射能拡散災害についての東電の損害賠償支払は、「原子力損害の賠償に関する法律(昭和三十六年六月十七日法律第百四十七号)」通称:原賠法)によるものらしい。
 原賠法第三条:原子炉の運転等の際、当該原子炉の運転等により原子力損害を与えたときは、当該原子炉の運転等に係る原子力事業者がその損害を賠償する責めに任ずる。
 ただし、その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によつて生じたものであるときは、この限りでない。
    *
 これは一般的な自動車事故によって、他者に被害を与えたときの賠償とどう違うのか。
「自動車損害賠償保障法(昭和三十年七月二十九日法律第九十七号)」(自賠法)という法律がある。
 自賠法第三条:自己のために自動車を運行の用に供する者は、その運行によつて他人の生命又は身体を害したときは、これによつて生じた損害を賠償する責に任ずる。
 ただし、自己及び運転者が自動車の運行に関し注意を怠らなかつたこと、被害者又は運転者以外の第三者に故意又は過失があつたこと並びに自動車に構造上の欠陥又は機能の障害がなかつたことを証明したときは、この限りでない。
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 原賠法の第3条とはなんだかニュアンスが異なる。
 原賠法が特に異常なことが起きた場合にしか責任が逃れられないのに対して、自賠法はいろいろと免責事項が書いてある。
 つまり原発に関しては、いったん事故がおきたらめったなことでは責任を逃れられないほどに大変なんだぞ、という“想定”が働いているらしい。
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 では民法の損害賠償責任はどうか。
 民法では損害賠償は2種類あって、債務不履行損害と不法行為損害である。
 債務不履行損害は、契約をしたのに果さなかったときに与える損害である。
 不法行為損害は、故意または過失による損害である。
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 さて、福島原発はこのどちらに当るのだろうか。
 この原発は事故がおきませんとくり返し広報したのに事故がおきたのだから、債務不履行だろうか。
 あるいは設計条件があまかった過失か、あるいは対策をするべきなのに怠った故意による不法行為だろうか。
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 原賠法に似ている「原子力損害賠償契約に関する法律」というものがある。
 第二条:政府は、原子力事業者を相手方として、原子力事業者の原子力損害の賠償の責任が発生した場合において、責任保険契約その他の原子力損害を賠償するための措置によつてはうめることができない原子力損害を原子力事業者が賠償することにより生ずる損失を政府が補償することを約し、原子力事業者が補償料を納付することを約する契約を締結することができる。
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 つまり、あんまりでかい被害で、東電が補償金を支払えなくなるといけないので、政府が一定額以上は、東電に替わって支払ってやる、政府と東電はそういう契約をする、こういう法律であった。
 要するに補償金に税金を投入することができるというのが法律の趣旨らしい。
 つまり、原子力に関する事故は、とてつもなく大きい可能性があることを“想定した”法律であった。
 こういうとき、想定外いや想定内という論争は、どこに位置づけされるのだろうか?
   *
 では上の条文に出てくる責任保険契約とは何だろうか。
 これは上に書いた自動車保険と基本的には同じで、原発だけでなくどこにでもある普通のことだ。
 さて、東電と契約して電気を使って使用料金を支払っているわたしたち、あるいは東電株を持っいる株主たちは、損害賠償の対象となる“他者”なのだろうか?
    *
 この地震では東電だけが“震災犯人”扱いにされているが、それは原発が壊れたからだろう。
 では、防波堤が壊れた、造成宅地が傾いた、埋立田圃が沈没した、ビルが壊れた、家が傾いた、これらによる損害には震災犯人はいないのか。
 つまり、原発賠償は政府契約があって税金の投入はありうるが、損害賠償レベルの話だけならこれらも原発も民法で同じように債務不履行損害かあ不法行為損害として扱うように思うのだが、そういうものではないのかしら?
    *
 確かにこれまで地震で何回も被害があったが、一般論としては東電のような震災犯人に仕立てて過失責任損害賠償をした例はないだろうから、これはいまさらなにをいうかの論ではある。
 であるにしても、これまでになかった原発問題で寝た子が起きた感じだが、東日本大震災は、震災犯人がいる地域といない地域が存在するのである。
 なんだか腑に落ちない。この差は原賠法できまるのか。
   *
 とまあ、こんな風に普通の庶民たるわたしは思っていて、ちょっと言いにくいことを書いたが、法律ではどう解釈するのでしょうか?
 念のため付言するが、わたしは原発廃止の立場である。
 人間が制御できないと分っていながら技術で押さえ込むという20世紀的工学の限界は、5回の大失敗(原爆2回、原発3回)で十分に身に沁みた。

2011/04/26

414ネパール400kmバスの旅

数えてみると海外旅行は16回目で訪ねた国は19だが、北アメリカとヨーロッパ諸国には何回もいった。アジアでは中国(香港、上海)、タイ(バンコク、アユタヤ)、シンガポールを訪ねている。
 仕事での視察や遊びばかりで、海外に滞在した経験はないから、どこの国も通りすがりである。事前知識のないままに訪ねて、文化の違いにびっくりして刺激的であったのはブラジルである。

 今回のネパール(カトマンヅ、ポカラ、ルンビニ)も実に刺激的であった。
 特別な目的があって行くことにしたのではなかったが、ある種の期待があったのは、日本の戦前農業社会と戦後高度成長初期とを同時に見ることができて、何かを感得するかもしれないということだった。
 これはおおよそは当っていて、わたしの1940年代の記憶と70年代の体験とが重なり合った風景に出会った。ネパールは想像を超える複雑な社会である様子で、何か新たなことを感得するにはまだ戸惑ったままである。

 このネパールの旅で海外旅行は終わりだろう。もう歳が歳だから、心はともかくとしても、体力が環境の大変化に耐えられるかどうか。いや、わたしはまだまだ大丈夫と思っているだが、周りに迷惑をかけるおそれがある。残念である。
 あ、そうじゃないな、これからはひとりで出かけよう。でかけた先でどうなろうと、そこの土にでも水にでもなればよいのである。それがいい。

 ネパール旅行を企画し導いてくださった「草の根校舎の会」のメンバー、関西からの同行者、現地のカトマンヅ日本語学院のかたがた、誘ってくれた大学同期の畏友たち、みなさまのご親切に感謝しつつ、ここにわたしの生来の辛口偏見も承知の上でのネパール雑感を記しておく。
 題して「ネパール風土探訪 400kmバス旅」である。

2011/04/22

413それでも花は咲く

 関東大震災から88年目、こんどは東日本大震災に拡大してしまった。
 あの時は9月でやっぱり人々は紅葉狩りをしたのだろうと思うのだが、今度は3月だから花見である。
 それでもやっぱり花は咲き、わたしも含めて人々は花見を楽しむのである。ただ、どこかしめやかで、大声のカラオケも聞こえない。
 花の下には屍体が埋まっていると書いたのはだれだったか、坂口安吾だと思っていたのだが、貧者の百科事典WEBネットで見たら梶井基次郎であった。
 高遠の花の下には石塔が立ち並ぶ。そうだ、東京の谷中も墓地も桜の名所である。

2011/04/12

412・地震大国ネパールのカトマンヅ盆地には揺れるとすぐ倒れそうな危険な歴史的街並み

 2011年3月11日の地震からしばらく様子を見ていて、どうやら揺れが収まったらしい27日に、かねてから行く予定だったネパールに発った。
 4月5日にネパールから横浜の自宅に戻ってきて、家人に揺れはどうだときけば、その後はないよという返事にひと安心。
 ところが、わたしの帰国を待ち受けていたように、大きな余震が続いておきている。また毎日が酔っ払いになる。
   ◆
 調べたら、ネパールは日本と肩を並べる地震大国であるらしい。
 5000万年前に、ユーラシア大陸の南の海岸にあったネパール(その頃まだネパールはないのだが)の、ずっと海の向うに離れていたインド亜大陸が押し寄せてきてぶつかってきた。
 そのプレートはちょうど太平洋プレートが日本列島の下にもぐりこむように、ユーラシア大陸の下にもぐりこんで押し上げてできたのがヒマラヤ山脈である。
その北には盛り上がったチベット高地ができ、南には高い山のシワ(マハバラート山地、シワリーク丘陵)がいくつもできて、南のはじっこに平らなところ(タライ平野)が残って、そこらが今のネパールである。
 現在も押され続けているから、日本と同じように地震が頻発する地帯なのだ。1934年にはカトマンズ盆地で大震災で、5000人近くも死んだそうだ。だが、その頃はラナ専制下の鎖国時代で、いまとは人口とは大違いであった。
ネパールの全人口は2300万人、一極集中カトマンズ首都大都市圏エリアはこの20年でも倍増の勢いでその13パーセントの300万人が住み、カトマンヅ盆地には100万人近くも住んでいる。
 ここで大地震が起きると大変なことになりそうだ。海からの津波はないが、ヒマラヤの氷河湖が決壊したら、山の上から津波がやってくる。
 一方、原子力発電所はないから、その点での危険性はない国である。水力発電所だけだそうで、乾季には需要に対応する発電ができなくて、わたしが行ったこの3、4月は夕方から夜中は計画停電が毎日であった。しかし、どこにも自家発電機がそなえてあるらしくすぐに切り替わり、誰も騒がない。
   ◆
 そのカトマンズ盆地の三大都市であるカトマンヅ、パタン、バクタブルの市街中心部を歩いてきたのだが、ここの建築は地震にまったく無防備としか思えない怖いところであった。
 あそこで地震にあったら、建物の下敷きになって死ぬことは確実である。
 まず基本がレンガ造建築なのがそもそもの問題だが、古いものはもちろんだが、新しいものでも見れば見るほどそれは地震で倒れるに違いないように見える。
 古いもので現に倒れかけているもの、傾いているもの、レンガ壁がはらんでいるものが街なかのあちこちにある。
 新しい建築も鉄筋コンクリートの細い柱と梁の間に、レンガを積上げて壁を作っているが、工事中を見てもどうもその壁には鉄筋補強がないようなのだ。
 コンクリート耐震壁らしいものはなく、壁という壁は全部レンガ積み、少ないけれどコンクリートブロック積みもあるようだ。
 古いレンガ造建物でも上に上にと増築を重ねているし、1階は店舗で開口を取るために木柱だけで、木材の梁で上の何層ものレンガ壁を支えている。偏芯荷重で柱列が明らかに傾いているものも多い。







                                                                       ◆
 古い建物はレンガ造らしいが、よく見るとレンガと木材の混合構造で、レンガ積みを木材で補強してるらしい。このことは王宮や寺院の塔を調査した、日本工業大学の報告書にも記してある。
 開口部のマグサは木材であるらしく、美しい歴史的建築の開口部の上には細かい彫り物をした木のマグサがかかっていて、そこから上にある何層ものレンガ壁を支えているように見える。
 修復した建築は壁の中の見えないところで補強してあるのかもしれないが、一般にはそんなことはないらしくて、なんだかかなり怖いのである。
 地震があるとそんな建築の中の住民はもちろんのこと、狭い道路にひしめく観光客も崩れてきたレンガでつぶされるに違いない。
 世界文化遺産の古都は、世界でも有数の危険都市である。


参照


2011/04/11

411カトマンヅ市街と旧王宮

 ネパールの首都カトマンヅは、この10年ほどで人口急増、まさに一極集中らしい。
 だが、特の都市計画の土地利用規制も道路計画もないらしく、旧王宮のある丘の上の旧市街を中心に、四方にだらだらと広がっている。
 カトマンヅ中心街の街並みは、自然発生的な曲がりくねった細い道沿いに、4~6階程度の煉瓦増を中心とした建築が立ち並ぶ景観は、まるでヨーロッパ中世の町とソックリである。ここはアジアとはとても思えない。
 ヨーロッパとの違いは、こちらが広告物、電線、汚れ、そして人、バイク、車、牛までもいて、どこもごった返していて、なんとも汚らしいことである。この活気はオリンピック頃の東京か。
 カトマンヅ盆地にある古都のパタン(ラリトプル)、バクタプル(バドガオン)にも行ったが、どこも似たようなものである。なかではバクタプルが比較的キレイであり、カトマンヅが最も汚かった。
   ◆
 旧王宮のダーバー広場に入る。入場料金をとるのだが、どうも外国人団体だけを対象にしているらしい。あちこちに街の路地がつながっていて、回りこめばタダで入ることがいくらでもできる。これはパタン、バドガオンでも同様である。
 旧王宮には、16世紀からのネパール式というかネワール族の建築様式というか、煉瓦と木材を組み合わせた建物と、20世紀はじめの洋風様式石造建築とが並んでいる。
 白い洋風様式建築はそれなりにスタイルが整っているのは、ラナ専制時代にイギリスの建築家にこれを設計させたからそうだ。
 この16世紀と20世紀との建築様式のとり合わせは、建築史家はもちろん観光客にも評判が悪い。同行した友人たちにも不評だった。
 だが、日本でも19世紀中ごろに一生懸命に洋風様式建築で近代化を目指したのと同じことのようにも見える。日本で似たような銀行建築がいまや重要文化財となっているものがあるから、ネパールのこれが100年後に世界遺産の一角に加わっていても当たり前であるといえる。わたしにはそれらの歴史の重層する風景が実に興味深く面白い。
 ほかにもラナ時代の白い洋風建築がたくさんあって、今は官庁となっている。
 しかし、日本の明治洋風建築の摂取と、ネパールのラナ専制時代(1951年までの104年間)のそれとの異なる点は、ネパールでは国家の西欧型近代化とまったく関係がないことである。ネパールの洋風建築は南隣の英国植民地インドからもたらされたものであろう。
   ◆
 王宮と道を隔てた向かい側の民間の建物群も、店舗や住宅らしいがどこか伝統的デザインコードをまとう様子であり、それは市街のメインストリートの建築にも見られる。いわばにほんでビルに格子状の窓と勾配屋根をつけるようなものである。
 それはパタンやバクラプルでも同様であった。それらの世界文化遺産のコア施設としての旧王宮建築のバッファゾーンとしての市街地の建築を、どう見れば良いのだろうか。どこからどこまでは世界遺産のコア施設か分りにくい。
 興味深いのは、あきらかに世界遺産コア施設となっている旧王宮や寺院建築に、大勢の人たちが何の規制もなく入り込み、座り込んでいる。観光客もいるが地元の老人たち、しかも男がほとんどである。ホームレスの居場所のようにも見える。
 世界遺産の重要文化財に上がりこんで大勢寝込んでいるなんてことは、ちょっと日本では考えにくい。この文化財の人間臭い生活臭にあふれている身近さは一体どう考えればよいのか。
 ここはかつて世界遺産としては危機遺産に登録されて廃止になるかもしれなかったのが、今はそれも解除されたそうなので、ガイドになにをしたのか聞いてみた。答えが正しいかどうか分らないが、かつては土産店が入りこんでいて汚かったのだが、それらを排除して、車も入れないようにし、修復もしたからだという。
 物売りや物乞いが近づいてくるのは、かつてのローマやアテネで経験したが、久しぶりだった。

2011/04/07

410ネパールに行ってきた

 3月10日にネパール旅行の航空券を買ったら、次の日が東北太平洋沖大地震。
 旅の出発日は28日、揺れはだんだんとおさまってきたが、原発事故が拡大している。
 これから横浜にも放射能が降ってくるのかしら、毎日停電かしら、そうしたら疎開しなけりゃならない、そんなときに海外で遊んでたら帰ってきてどんなこと言われるか、その後の人生が窮屈なことになりそうだなあ、う~む、さて、行って良いものかどうか、楽天的なわたしでもちょっとは悩んだ。
 役に立たない老人が日本にいて食糧やエネルギーを消費しているよりも、外国に行っているとその分だけでも被災地に回るかもしれないなんて屁理屈をひねり出して、ネパールに疎開をしたのであった。
   ◆
 大学同期の畏友から、ネパールに行こうと誘われたのは今年1月のこと。
 なんでもカトマンヅにある日本語学校を支援している大阪にあるNGOの主催だそうで、旅程の一部にはその支援活動も入っているという。
 ミニトレッキングもあるそうだから、ヒマラヤに出会う経験もできるだろう、もうこれが最後の海外旅行だろう、なんて思って、行くとすぐに返事した。
 やはり同期の畏友たち2人が加わって老人組4名の仲間が、関西の4名とで行くことになった。後で分ったが、生まれ月からわたしが最年長であった。
   ◆
 行くと決めてから調べてみたら、それなりに目的が定まった。
 そのひとつは大学山岳部以来の憧れのヒマラヤと出会うことである。2006年にもうひとつの憧れだったヨーロッパアルプスに行ってきたから、これで仕上げとなる。
 ヨーロッパルプスで感激したから、あれよりも雄大なヒマラヤ山脈に囲まれる体験をしたいという願望は、残念ながら叶わなかった。
 トレッキングと書いているから、早とちりして、ヒマラヤの麓まで行くのだろうと思ったのだが、ポカラの山の上からはるかに遠望するだけであった。
 ではヒマラヤ遊覧飛行に乗ろうと思ったら、予定したポカラ飛行場からは飛んでいないのであった。
   ◆
 第2の目的は、カトマンヅ盆地の歴史的市街地を見ることである。これは短時間ではあるが、それなりに目的を達した。
 旧王宮については、大学時代の恩師である藤岡通夫先生が、晩年にその調査に力を入れておられて、調査報告書や随想集「ネパール建築逍遙」(1992年 彰国社)をあらかじめ目を通してから行くことができた。
 カトマンズ盆地は世界文化遺産に登録してあるので、こちらの鎌倉(暫定登録中)の大先輩格である。
 鎌倉と同様に市街地と歴史的資産が交じり合っている環境にあるのだが、その混じり方は大きな違いがあって、それが実に興味深いものであった。
 この世界遺産と市街地とのことについては別に書きたい。
   ◆
 第3の目的は、釈迦の生誕地ルンビニを訪問することである。といっても、釈迦の生誕地としてのルンビニには、わたしは何の興味もないし、実際にも面白くなかった。
 実はそこにある「ルンビニ博物館」と「ルンビニ図書館」に用があるのだ。これら二つの建築の設計は丹下健三である。
 実はその設計担当がそのころ丹下事務所に所属していた同期の親友・後藤宣夫(故人)なのである。後藤は1984年にここに滞在している。
 2000年に先に逝ってしまった親友の仕事に図らずも出会うのが楽しみである。この目的は半分だけ達した。
   ◆
 今回の旅で予測しなかったことでもっとも印象的だったのは、カトマンヅからポカラを経てルンビニに至るまでの400キロメートルに及ぶ長距離バスの旅であった。
 中高地から低地へ、山地から平原へ、温帯から亜熱帯へ、多様な植生、農山村集落、街道筋の地方都市、大都市の市街、そしてそこに暮す多様な民族の姿、次々と展開するネパールの人間と自然の景観に興奮した。
 ほんの通りすがりにすぎないのだが、たくさんのことを考えた。

2011/04/06

409停電が普通の地から戻ってみれば

 ネパールは停電が当たり前である。水力発電だけだから、乾季の今は1日のうち14時間も停電している。
 レストランで食事中でも、ホテルの便所の中でも、突然に真っ暗になっても慌てることはない。そのあたりにローソクを用意してあるから火をつければ良いのだ。
 とは言うものに、わたしは煙草を吸わないからマッチもライターもなくて、風呂場で真っ暗になってもローソクが役に立たない。だからしばらくそのまま待つ。やがて自家発電機が動いて、必要最小限なる明るさが戻ってくる。
 どこの店も家も自家発電機を備えているそうだ。日本語学校のネパール人教師から、日本でもそうかと聞かれて、とまどった。そうか、日本でわたしたちは停電がないことを前提に生活しているのである。
 太平洋戦争で敗戦して数年間は、日常的に停電をしていた。自家発電機はなかったが、ローソクもマッチもいつも用意していたものだ。
 ネパールから9日ぶりに横浜に戻ってきてみれば、停電しないのが当たり前の生活に戻った。そして揺れないのが当たり前の生活にもなっていた。
 でも原発の放射能恐怖はあい変らずで、原発のないネパールでお見舞いの言葉をいただいたのを恥かしく思いだした。
    ◆
 ただし、ネパールは世界有数の地震の地である。インド大陸とユーラシア大陸がぶつかって、そのせいでヒマラヤ山脈ができたところなのだ。
 首都のカトマンズでは1934年の大地震で4296人、1988年にはウダイプール地震で721人が死んだそうだ。
 ところが、世界遺産登録になっている歴史的な市街地では、目でみてわかるくらいに古い建物、それも3階、4階建てのものがたくさんある。
 それらは伝統的な木材と煉瓦を組み合わせた構造なので、目に見えて傾いていてかなり怖いものもたくさんある。隣の新築煉瓦ビルに寄りかかっているものもある。
 新築のビルも多くは4~5階建て、20センチ角くらいの細いコンクリート柱を5m間隔くらいに建てて細い梁でつなぎ、間に鉄筋の補強もなしに煉瓦あるいはコンクリートブロックを積み上げている。開口部のマグサは厚さ10センチ程度で頼りにならない。
 1932年とは比べ物にならないくらいに人口集中が著しいカトマンズで、もしも大地震が起きたら、万を超える人が死にそうだ。停電は平気でも地震は怖い。