2016/05/20

1195【世相戯評】蓮實重彦や三谷幸喜ばかりじゃない面倒ジジイたちがはびこる21世紀日本のわたし

●三谷幸喜という面倒ジジイ候補者

 ちょっと前の朝日新聞(5月12日夕刊)に、劇作家の三谷幸喜が、自分が理屈っぽい性格なので、年寄りになると面倒な奴と思われるだろうと、書いている。
 例えば、日ごろの買い物で店員とのちょっとしたやり取りで、ひっかかることが多いという。うん、ワカル、ワカル、お気持ちはよ~く分かります。

 わたしも、例えばこういうことはしょっちゅうである。
 酒を買おうとしたら「年齢確認パネルを押してください」と言われ、「わたしは自分の年齢をよ~く知ってますから確認不要です。確認するのは売る方の義務だから、君が押すべきでしょ」って言おうかなあ、どうしようかなあと、ぐずぐずする。
 店員は反応の遅いわたしを見つめて、このボケジジイ、面倒だな、なんて思っているだろう。
 わたしは既に面倒ジジイになっちまってる。自分が自分を面倒になる。

●蓮實重彦という面倒ジジイ

 そんなところに、見事な面倒ジジイが登場した。今回の三島由紀夫賞を受けた蓮實重彦もそのひとり。
 受賞の記者会見で、よくある受賞の喜びを語らせようと思ったら、憮然としてにこりともせず、回答拒否したり、質問者を叱ったり、じろりと睨みつける可愛げのなさ。記者たちが戸惑っているのが、妙におかしい。 
http://www.huffingtonpost.jp/2016/05/16/hasumi-mishima_n_9998942.html



 80歳にもなった年寄りには受賞ははた迷惑だ、なんて言っている。わたしもノーベル文学賞を受賞して、そういってみたいなあ。それなら受賞拒否すりゃいいだろうって、ネットスズメはウルサイ。
 可愛げのない年寄りが増えている。というよりも、総体的に年寄りが増えているから、とうぜん可愛げのない、偏屈ジジイも増える。

 同じ可愛げのない年寄り仲間として、よくやった蓮實さん、もっとやれ~、なんて声をかけたくなる。と書いたが、実はこの人の名前くらいは知っていたが、その小説も映画評論も読んだことはない。
 でも今、新潮社サイトで、受賞作『伯爵夫人』の立読みをしてみた。長い文節で古風な文体を装い、三島の風情があるような気もする。
http://www.shinchosha.co.jp/shincho/tachiyomi/20160307_1.html

 わたしもなにかでバカな質問されると、憮然として皮肉るか、逆に懇切丁寧に教えてやりたくなる。わたしはどちらかと言えば後者だが、蓮實重彦は前者らしい。
 蓮實と同じくらいの年寄り文筆業者としては、筒井康隆がいるが、こちらはサービス満点のお方らしいから、年寄りもいろいろではある。

●面倒ジジイ作戦に乗せられた世間

 だがしかし、ちょっと考えてみると、これは実はよく練られた商業作戦だろうと気が付くのだ。
 この文学賞は出版社の新潮社が主催しているから、もちろん新潮から出る本が売れることを期待している。文学賞はまさにその重要なる宣伝作戦のひとつである。
 文芸春秋社の芥川賞、直木賞ばかりが有名で、三島賞も谷崎賞(中央公論社)も後塵を拝している。

 この不機嫌を装う蓮實重彦の受賞作品『伯爵夫人』は、雑誌「新潮」に掲載したものだ。このあと単行本にして売るのだろうが、それにはこの受賞が世間の話題になる必要がある。
 そして、みごとに話題になった。不機嫌記者会見という宣伝作戦は大成功、この本は売れて新潮社はおおいに儲かるに違いない。この文学の内容ではなくて、受賞と言う事件が評判である。

 ではどこが評判の話題かと並べてみよう。
 まずは、もちろん不機嫌記者会見が一番の話題である。受賞記者会見というイベントがこれくらい生きたことないほどに、マスメディアがその記事を載せた、いや乗せられた。
 2番目は、80歳の新鋭作家」というところだろう。しかもその受賞者は、フランス文学者としても映画評論家としても既に名を成している人であって、無名の新人ではないのだから、そこにもけっこう話題性がある。
 選考委員を見ると、一番の年寄りは1945年生れの辻原登、一番の若者は1975年生れの平野啓一郎である。

 3番目は、80歳の老人が書いたこの小説は、けっこうエロい内容らしい。ようやく小説の内容に評判が及んだ。エロものなら世間は飛びつくだろう。マスメディアはそこまで宣伝してくれた。
 老人が書く艶物であるとすれば、もしかしたら谷崎潤一郎賞もとるかもしれない。
 不機嫌記者会見で新聞記者たちは手玉に取られたが、どうやらネットスズメたちも見事に手玉に取られたようだ。

 蓮實重彦は、しっかりと新潮社の宣伝を引き受けて、じつはサービス満点の受賞者であったのだ。普通に受賞の喜びを語る記者会見では、話題にはならないので、その逆を狙った。新聞記者たちは見事にひっかかった。
 そんなこと言うなら受賞を辞退せよ、なんて言ってると、新潮社と蓮實の宣伝作戦にひっかかってしまうのだ。いや、もう見事に引っかけられている。
 これはエロ小説であるとの宣伝までしてくれたから、しっかりと売れるに違いない。

●わたしという面倒ジジイ

 その可愛げのない年寄りになっているわたしが、可愛げのある志をちょっと抱いて見たら、見事に失敗した話である。三島賞と並べるほどのニュースじゃないとは分かっているが、書いておく。
 わたしの住まいの近くにある「新聞博物館」が、1年任期の運営ボランティア(無償)を募集していた。参加日程とかPC使えるとかの応募資格条件は合う。
 このところ無聊を持て余しているし、面白そうなので、履歴と応募理由を書いた応募書類を送った。1ヶ月ほど前のことである。

 その返事が来た。「誠に遺憾ながら貴意に添いかねる結果」とあり、入場招待券が一枚、それに添えられている。

う~む、面接までもなく、書類選考で落選とはねえ、どんな理由で「添いかねる結果」を招いたのか知りたいが、なにも書いてない。まあ、無償ボランティアさえもお断りされるほどの、面倒ジジイであると見破られたのだろうねえ。
 博物館の人たちが応募書類を眺めつつ、う~ん、どうしようか、面倒そうなジジイだよなあ、こりゃ断ろう、なんて話し合っているのが聞こえるようだ。

2016/05/19

1194【尻餅老人起臥戯録12】また担当医師が替わってまた違うことを言うから戸惑うけど患者のこちらの歳が歳だからもうなんでもいいや

 本日は「第4腰椎圧迫骨折」診療日である。尻餅ついてから1年目、おお、一周忌であるか、そして第10回診療の節目である。
 おや、今日も医者が違う人だよ、はじめから8回目までは若い女医、9回目の先回は若い男医だったが、今回はまた別の若い男医だった。どうやら人事異動らしい。
 医者が替わってもいいのだけど、替わると前の医者とは別の意見を言うから戸惑う。

医師:担当医が替わりました。よろしく。
わたし:はい、こちらこそよろしくお願いします。
医者:え~、腰痛と骨粗鬆症の治療ですね?
わたし:エッ、そうかなあ、いや、第4腰椎圧迫骨折の治療ですよ。だって骨密度検査では普通との診断だから骨粗鬆症じゃないでしょ。確かに骨粗鬆症の薬を飲まされてるけど、そうならないためって聞いてますよ。

 てな会話から始まったのだが、医者ってのは患者の容体を知らないままに引き継ぐものなのか。
 しょうがないから、ひとわたりこれまでのことを話し、一応こう言っておいた。
わたし:先回の医者がその前までの医者の代診でしたが、それまでの女医さんとは異なる内容をおっしゃったので混乱しています。それが真実ならそれでよいのですが、こちらの肉体は同じなのに、診察する医者が替わる度に異なることを言われると戸惑います。
医者:医者によって異なる診断はありますが、不信をもたれたようでお詫びします。

 ということで、もう圧迫骨折した第4腰椎部分は復元することはありえない、骨粗鬆症の薬を飲むのは今よりも骨が脆くならないためである、なんてことをあらためて確認したのであった。
 昨年5月2日の尻餅事件当時の瀕死のトド状態から比べると、日常生活に支障がないまでに復帰した今は、それで良しとするべきだろう。
 時に腰あたりに違和感があったり、動作がじじむさいとか、椅子に長時間座るのがつらいとかあるけど、それらは加齢のせいかもしれない、こうなりゃもう仕方ないと観念せざるを得ない。
 薬もらうだけなら病院に行くのやめようかなあ、どうしようかなあ。

 病院前のいつもの薬局でいつもの薬をうけとるとき、若い女薬剤師が妙なことを言った。
薬剤師:お父様の代理ですか?
わたし:はあ?、、、
薬剤師:あ、、、ご本人ですか?
わたし:はあ、本人ですけど、なにか?
薬剤師:いや、ごめんなさい、お年に見えなかったので、、。

 あのなあ、親父は20年前も前に85歳で死んだよ、わたしはそれより若いけど、いくらなんでも息子には見えないよ、君は目が悪いんでしょ、そんな目で薬を調合して間違えないでね、って言いたいのをぐっと我慢したけど、。
 あ、いつも酒屋で年齢確認されるのも、これとおなじかな。
 もちろん嬉しがったりはしない、憮然としている、三島賞の蓮實重彦みたいにね。

参照

2016/05/18

1193【東京徘徊】おやおやあの赤プリがボテ太りビルになってしまい今や東京は超高層建築さえも次々建て替える時代

東京の赤坂見附あたり、緑濃い弁慶掘りから眺める風景が、以前より大きく変わっている。
 あの屏風の切れ端のような超高層ビルだった赤坂プリンスホテルが、別のビルになっている。
 赤プリ建築は丹下健三の設計で1983年に建ったから、今や超高層ビルだって30年ほどで壊されて別のビルになる、そんな時代が来ているのか。
 そういえば日本超高層ビル草分けのひとつ、浜松町の貿易センタービルも建て替えが始まるとか。

 赤プリ跡の新しい施設の案内看板によれば、名前は「東京ガーデンテラス紀尾井町」といい、ホテル、オフィス、商店、共同住宅棟の複合開発のようだ。
 ここは崖地である。徘徊ヤジウマはさっそくこの崖地建築に入りこんで、昔のように崖の下から上の永田町まで通りに抜けでてみよう。
 でも建物の中をエスカレーターで登っても面白くもないので、弁慶掘り沿いに坂道階段が作ってあるので、そこを登って行くことにする。

弁慶掘を眺めると右手前に赤プリを建てなおした超高層オフィスホテル棟、
右向う隣りはホテルニューオータニの超高層、
左向うにはやはり超高層を超高層に建てなおした鹿島の本社ビル
面白いのは弁慶掘側の斜面緑地と江戸初期の石垣である。それらを修復して、新たにウッドデッキの緑道を設けてある。緑と石垣と弁慶掘りとその向こうの東京の街を眺めながら登るのは、なかなかよろしい。
 江戸城外堀の弁慶掘から立ち上がる石垣は、江戸城の赤坂門の一部である。1636年に福岡黒田藩が築造を担当したから黒田の家紋である裏銭紋を、石に刻印しているのが見える。
 そのような17世紀の江戸城の固い守りの城門の石垣に、20世紀の高速道路がズボッと突っ込んで攻め込むさまがが面白い。
江戸城の城門のひとつだった17世紀の石垣に
20世紀の高速道路がトンネルで攻め込む
石面に見える丸い刻印は石垣築造担当の黒田藩の紋

江戸時代の話になったので、ちょっとこの地の歴史をおさらい。江戸時代は徳川御三家のひとつである紀伊和歌山藩徳川家の中屋敷だった。もちろん今の西武鉄道関係の土地だけではなくて、麹町まで広かった。
 19世紀半ば過ぎて明治維新後は、皇族の北白川宮家の土地になり、20世紀の初め1910年日韓併合で朝鮮の李王家が日本皇族に取り込まれて、この地に邸宅を持った。その一部が、赤坂プリンスホテルの一部になっていた。

 そして20世紀半ば過ぎ、1959年に西武鉄道の堤康次郎がこの地を手に入れて、プリンスホテルを開業する。堤は各地の宮家の土地を獲得して、その宮家のメタファとしてプリンスをブランド名とするホテルを作っていった。これについては、都知事でミソつけた猪瀬直樹『ミカドの肖像』に詳しい。
 更に21世紀の初め2011年、巨大地震と津波の東日本大震災事件、そのときここが被災者たちの避難先の一時住まいとなったという歴史も忘れてはならないだろう。
江戸切絵図に現在の主な土地利用状況を書き込んだ
 さて崖上に登って、気になっていた旧李王家の邸宅(1930年築)の無事を確認した。これがなくなったら、この場所の歴史的意味を目で確認しにくくなるから、とりあえずよかった。
ただし、どうも昔とは位置が違うような気がする、前庭がもっと広々していたのが、いかにもせせこましい。これは曳家して移転したのだろう。
 この崖地の再開発は、プラン上ではいろいろと工夫があるのだろうが、新しい2棟の超高層建築もその外回りのデザインも、特に面白くもなんともない。写真を撮る気にもならない。
曳家して修復活用する旧李王家邸
2年振りくらいだろうか、坂上からこのあたりの街を眺めると、あちこちに高層ビルが建っていて、景観がずいぶん変わった。
 遠望しても覚えていた高層ビルの姿が見当たらないから、どこがどこやらわからない。だが、変わらないのは弁慶掘に沿う常緑樹林と、その項影を落とす堀の水である。
 旧李王家邸も、変わらないもののひとつと言ってよいだろう。

 もうひとつ変わらない面白い景観がある。
 旧李王家邸の真向かいに、このあたりで稀有と言ってよい木造住宅が建っているのだ。
 オフィスビル街のこの戸建て住宅を以前から気になっていて、今日もまだあるだろうかとやってきたら、おお、健在である。
 狭い敷地に小さい平屋の古家ながらも、立派な樹林を従えていて、道の上に枝葉を伸ばしている。
 人が住んでいるのかどうかわからないが、何かの事情でここに建ち続けているらしい。これからも建ち続けてほしい。

左に旧李王家邸、右に謎の小さな森の木造住宅
この上下の空中写真を比較すると旧李王家邸がかなり移動したことが分る





2016/05/13

1192【時事戯評イチャモン】身潰し自動車と日惨自動車の喜悲劇、オバマ大統領のお伊勢参りと広島原爆観光

【身潰し自動車と日惨自動車の喜悲劇】

 なんだかオカシイよなあ、乗用車の燃費詐欺なんて、その数は数台なんてなもんじゃないし、売ってきた年数だって去年からなんてなもんじゃないよ。
 その車を買って乗ってりゃ、燃費が違うなあって、だれでも分りそうなもんだろうに、身潰し乗用車に乗ってる人は、みんなみんなおバカさんなのかい?

 身潰し自動車がいちばんオカシイのだけど、もっとオカシイのは日惨自動車だな、OEMかなんかで身潰し自動車が作った車を売るんだから、当然に検査してから売ってるのかと思ったら、無責任にもそのまま売ってたんだなあ、ここもおバカさん。
 ということで、これはもう作る方も、売る方も、買う方も、み~んなおバカ同志で、これまでず~っとハッピーだったんでしょ、愚者の幸福という。

 それがここへきて突然の不幸のどん底とか、フン、いい気味だよ、わたしは乗用車に乗らないからね。
 でもねえ、もしかしたら、この事件は、日惨自動車が仕組んだ、企業買収劇のような気もする。
 だってさ、身潰し自動車の詐欺を暴露したのが、ほかでもない提携している日惨自動車だよ、仲間を売ったんでしょ、国際競争社会は仁義なき戦い。
ウヒヒヒ、ウマクイッタナア~、♪ゴ~ン♪


【オバマ大統領のお伊勢参りと広島原爆観光】

 今は5月のさわやかな日本、オバマUSA大統領がお伊勢参りにやってくるとか。今年で任期がおわるので、お礼参りだろう。
 志摩でお土産に真珠を買い、ついでに世界あちこちの首脳政治家たちと会談して、つづいて広島に行って牡蠣ともみじ饅頭を食い、ついでに平和記念公園の観光をするらしい。
 日本ではトップ大ニュース扱いである。

 ところがその本家のUSAでは、オバマの後釜の大統領を決める選挙戦の最中で、栗きんとん3ダースがどうとか、トランプ占いがどうとか、USAメディアはそちらのニュースで連日もちきりらしい。 
 だから、もう死に体の今の大統領がヒロシマに行くなんてどうでもよいって、マスメディアの扱いはごく小さいのだそうだ。そんなことをニューヨーク在住の人が電話でしゃべっているのを、ラジオで聞いた。
 
 オバマが戦中の核爆弾投下を謝るだろうか、なんてのが日本では話題だが、オバマとしてはUSAでそんなことが話題になりそうにない、今の時機を狙って広島行きなんだろう。
 上梓切手に考えると政治家のオバマは謝りっこないよなあ、広島に行ったことで核廃絶へのポーズを取ればいいんだからね。

 むしろ、JAPAN政府としては謝られたら困るでしょうね、だってそうでしょ、そうなりゃお返しにパールハーバーに謝りに来い、なんて言われるでしょ。
 更に話は広がって、南京とかマニラとかから謝りに来いってなると、こりゃもうアベサンがいちばん嫌がることでしょ。

 ジーセブン首脳会議とか言うから、ジーさんばかりかと思ったら、メルケルなんて婆さんもいるよ、オ婆マもいるよ、ジジババセブンって言いなさいよ。
 オバマ氏は、ご先祖が出た地(?)の小浜市を訪れるのだろうか。あ、それとも横浜(オーハマ)かな。良い気候なのに、伊勢志摩寒いッと、さ。


2016/05/09

1191【横浜ご近所探検隊が行く】死者のための空間と生者のための空間のせめぎあいが面白い墓地の景観

●日本の表現主義デザインの墓標

 五月晴れのすがすがしい日、今日の徘徊は、ヒョイと思い出して、こんなものを観に行った。
おお、これは目いっぱい表現主義ですねえ、よくまあこんなものがこんなところに。
 実はこれは墓標である。こういう表現主義の造型は、1920年代あたりに流行したから、その頃に建てたのだろう。
 そこは横浜のけっこう中心部にある広大な市営「久保山墓地」(1874年開設)の中、その名はそばに建つ碑に「無縁供養塔」と書いてある。縁者のない死者たちを葬った共同墓だろう。

 ネットで調べると、当時の雑誌「建築新潮」に載っていて、設計者は山本外三郎(聞いたことがない)、1925年にできたとある。その頃に横浜で無縁の死者が多く出たとすれば、1923年の関東大震災であろう。
 石本喜久治の卒業設計「涙凝れり(ある一族の納骨堂)」(1920年)を連想、更に山口文象の「丘上の記念塔」へと飛んだ。そういえば丘上の記念塔も、関東大震災の記念塔提案だった。
 外国では、有名なメンデルゾーンによる「アインシュタイン塔」(1921年 ポツダム)である。

 広大な墓地の石の森の中にある、この無縁の死者のための墓標に偶然に出くわしたのは、2008年のことだった。今回、また見ようとやって来たが、広大な墓地のどこにあったやら分らない。
 あれから8年、高低の激しい石の森を彷徨する脚力が、今のわたしになくなった。もう探すのをあきらめて、わたしも墓地の世界に近づいた。だから写真は8年前のものである。

 わたしは墓とか墓場に興味があるのではないが、もうひとつ面白い墓碑を見つけた。軍服姿の石彫刻人物である。おお、リアルだよなあ、戦死者への哀惜の情がこれを作ったのだろう。
 そばにある読みにくい碑銘に明治37年という文字を読み取った。1914年の戦争と言えば、第1次世界大戦である。欧州大陸が戦いの場だったが、極東の中国大陸の青島(チンタオ)で日本軍は漁夫の利を得る戦いをした。そこで戦死者だろうか。もう100年もこうやって、丘の上から遠くを眺めて立っているらしい。
もう100年余もこうやって立ち尽くす戦死者の石彫象のうしろに
みなとみらい21地区にある超高層建築が墓石となって寄り添う
●あの世とこの世が出会う景観の面白さ

 なにしろ久保山墓地は、12.6ヘクタールもある広大さ、14000もの区画があり、丘陵の稜線から派生する大きな二つの尾根から谷底にかけて、傾斜地形なりにびっしりと墓石群が覆う様は、石づくりの網がかかっているようだ。
 その墓地の周りの傾斜地には、これまたびっしりと小住宅群が尾根と谷を埋め尽くす。その向こうに「みなとみらい21」の超高層建築群が、これまた墓標群のように立ち並ぶ。
尾根と谷を埋め尽くす墓標は、はるか向こうの「みらい21地区」まで続く
昔々は、墓地は生活空間と混然としていたような記憶がある。大きな屋敷内には墓地もあったし、田畑の一角にいくつかの墓石が建っているのも当たり前だった。あの世の人のための場所も、この世の人の世界と交わっていた。
 今や都市の墓地では、もう存在しない人間のための墓地の空間と、それを取り囲んでいる存在する人間の生活空間とが、互いにせめぎ合いながら接して、なんとか折り合いを見つけようとしている様子である。東京都心でもそんな景観に、ひょいと出会うのが面白い。
急傾斜墓地の周りは新旧の急傾斜住宅地
 墓地の過密超低層石造柱列群の森林の中から石塔を透かして見ると、その外にはこれまた超過密低層木造住宅群の森があり、その森の上から更に向こうにこれまた過密超高層ガラス建築群の林が樹幹を並べているのが見える。
 林立する超高層建築群はモダンな墓標となって、あの世とこの世は時間も空間も地続きになるのがオカシイ。「みなとみらい21」は、墓標の街となる。
石塔墓標群と超高層建築群の区別がつかない
石と鉄とガラスの新旧墓標が建ち並ぶ
いかにももっともらしくなるのがオカシイ(これは戯造画像)
それを空中写真で見ると、墓石群と住宅群とは、じつは要素の大小の違いあれども、実は相似形のようであるから、人間はあの世でもこの世でも大差ない棲家にいるのである。
 この世の空間が自然発生的に地形にすがりついているのに比べて、あの世の空間の方が都市計画的に構成されているのが、実に面白い。
 ふむ、生者よりも死者の方が管理されているのであるか。
久保山墓地とそれを取り囲む急傾斜の住宅地
久保山墓地から東にみなとみらい21地区の超高層群が見える

●ここは大災害のときに大丈夫なのか 

 生きているときは坂道だらけの住宅地で、日当たりは悪いし、買い物に行くのも大変だった。横浜にはそのような住宅地がいっぱいある。この久保山墓地周りもそうだ。
 だが、死んだ後は、狭いながらも道は整い、小さいながらもまとまった石造共同住宅に住んでいて、日当たりも見晴らしもよいようだ。
 そうだ、身よりもない死者は、あのカッコいい表現主義デザイン共同住宅に住むことだってできるのだ。

 ところで、最近は天変地異の災害が多い。いまも、熊本で大地が揺れ続けている。
 この墓地は、急傾斜地を骨壺とコンクリと石塔が覆い尽くしているのだが、大地震が来たらどうなるのだろうか。
 この密集する石の林が倒れると、足の踏み場もないありさまになるだろうし、重いから片づけるのも容易ではない。死者はもう死なないにしても、まわりの被災した生者たちが、ここに避難することもできない。
 豪雨が襲ったら、一挙に谷底めがけて洪水が集まってくるだろう。下流の住宅地はどうなるのだろうか。調整池を作ってあるのだろうか。死者が死者を生み出す恐れはないのだろうか。
 墓地が被災するときは、まわりの急傾斜住宅地は大被災だろう。

 わたしは死後の世界を全く信じないから、生者の心にしか存在しない死者のために、これほどに広大な空間を維持しなければならないのが、なんとももったいないと思う。
 墓地内の一角に超高層共同墓を建てて骨をそこに集めてしまって、生じる土地を公園と住宅地にすればよさそうなものだ。そうすれば、墓参りだって広い墓苑の狭い高低差のある道を行き来しなくてもよくなるし、そのビルに火葬場も組み込んでおけば余熱を地域冷暖房に利用できる。
 死者のための空間が、生者が生きるための空間になることに、死者は文句を言うまい。死者よりも生者を大切にしたい。(あ、念のために書いておくけど、マジメナ冗談ですよ)
中央に見えるのは横浜市内にある根岸共同墓地
そのまわりのアメリカ軍用住宅地と日本民間住宅地を比較すると、、

2016/05/02

1190【横浜ご近所探検隊が行く】みなとみらい地区に結婚式場が4つもできてそんなに結婚する人がいるのかしら

 久しぶりに横浜MM21新港地区散歩、桜木町から汽車道をゆけば、左手運河向うに派手な景観が広がる。
 半月形のホテル、西洋館風結婚式場建築、巨大な遊園地観覧車、中華風ドラゴン船、なんだかここらあたり全部が遊園地になってしまったようだ。

 反対側の汽車道の右手運河向うは、ただ今開発中の北仲通り地区。おや、ちょっと見ぬ間に、なにやらずんぐりとしたビルが建ちあがっている。
 なんだろう?、囲いになにか書いてある。
 「遊びゴコロある大人の為のコンセプチュアルウェディング」
 

え、なんだい、またもや結婚式場かい、汽車道を挟んで左右対決ってか、へえ、「大人の為の」ねえ、でも「子どもの為のウェディング」ってあるのかなあ、。
 あちらは派手派手なのに、こちらはなんだか地味な格好であるなあ、それでも帝蚕倉庫イメージの延長かなあ、ま、そうやって違いを強調か。
 そういえば、残った2棟の帝蚕倉庫のうちの1棟を、ただいま取り壊し作業中だったなあ。
汽車道を挟んで両岸に向かい合って結婚式場対決
最近できた商業施設があるらしいので、ぶらぶらと新港埠頭近くに歩く。
 ワールドポーターズと赤レンガ倉庫の間をつなぐ位置、新港埠頭の横の水際に、なんだか倉庫街を模したようなデザインのである。エイジングも施してあるようだ。
「MARINE  & WALK YOKOHAMA」と名付けてある。
 オープンの中庭を囲むように、2層の建物に各種の特色ある個店が顔を出している。今日は休日とて、けっこうな人出である。これはちょっと懐かしい感じがある。
MARINE & WALK  YOKOHAMA


80年代に海外のウォーターフロント開発を調査する旅に、なんどか行ったことがある。あのころ有名なラウス社の開発もたくさん見た。ちょっと思い出してみようか。
 バンクーバーのグランビルアイランド、ニューヨークのサウスストリートシーポート、サンフランシスコのピア39、ボストンのファニエル・ホール・マーケットプレイス、ボルチモアのインナーハーバー、サンディエゴのシーポートビレッジ、シドニーのダーリンハーバーなどなど、どこも楽しいところだった。今はどうなってるんだろうか。
 もっとも、わたしは見ただけで、日本じゃバブルパンクでひとつも実現できなかった。

 それらをふと思い出しだしたのだが、それは中庭の雰囲気だけのことで、なにかが物足りない。一番大きなそれは、海辺なのに海との接触が薄いことだろう。
 前の港はプレジャーボートが浮かぶような誰もが近づく海ではなく、立ち入り禁止の鉄柵の向こうにあるのだ。ここにヨットが浮かび、漁船が出入りして、市場があるとずいぶん面白くなるのになあ。もったいないなあ。
マリンウォーク前の港の海、左向うが新港埠頭
  もうひとつの問題は、この施設まわりが空き地で、これにいちばん近い商業施設の赤レンガ倉庫までも、公園を挟んでけっこう離れていることだ。ワールドポーターズとも半端な近さだ。それらとの動線をもうすこし楽しく演出があるとよいのだが、。
これからこのあたりの空き地に、何か新たな商業開発が出るのだろうか。
 わたしが上にあげたいくつかの外国の例の内、ここでやってほしいのはサンディエゴで見たシーポートビレッジ型の開発である。昔、そのような開発を横須賀の造船所跡地でやろうとしたが、結局は大きなショピングセンターになってしまった残念な想い出がある。
横浜みなとみらい21新港地区あたりの空中写真
 アレッ、ここにも結婚式場ができているぞ。
おや、おや、北仲地区にもできると驚いていたら、ここにもまたひとつ既にできてしまっている。新港地区ではこれで4つめってことになるのか。多過ぎるような。
 ちょっと調べてみてわかったけど、このあたりは結婚式場だらけになってきた。人口は減るし、若者は結婚しなくなってるし、そんなに需要があるもんだろうか。
 まさか海外アジア人観光客の結婚式対象じゃあるまいなあ、いや、あるかもなあ、日本人が外国で結婚式やってるんだから、中国人が日本でウェディングの時代かも、うん、面白い。
 
赤丸印が結婚式場施設
  でもなあ、これからは結婚式よりも、葬式の方がはるかに需要がありそうな気がするのに、あまり見かけないのはどうしてかなあ。
 海辺で葬式ってよさそうだけどなあ、そうだ、冠婚葬祭どれでもOKってのはいかがですか。今日は結婚式、明日は葬式、こちらの会場は告別式やらお通夜、その隣の会場では結婚披露宴、、ついでにその隣には離婚披露宴、、これなら人口減少時代にも経営安定か、、。