2014/03/30

913【横浜都計審】北仲通北再開発の地区計画変更の基本的問題はなぜ審議されないのか

◆北仲通り地区の開発事業をようやく始めるらしい

 横浜市庁舎が移転するあたりの、北仲通地区の開発事業が動き出したらしい。横浜市都市計画審議会(2014年3月28日)で、その地区計画変更議案が出てきた。
 審議会は、変更案を原案通りに可決した。審議会の委員さんたちは、事前によく勉強をなさったので、内容に関する審議らしい審議もなく簡単に可決なさったにちがいない。
 しかし、傍聴席ではじめて聞いた私には、その変更内容がどうも釈然としないので、ここに書いておくことにした。

 北仲通再開発地区の場所は、わたしの日常徘徊エリアだからよく知っている。もともとは横浜港の一部であり、輸出する生糸の検査所や倉庫あるいは船舶関係の施設があったところである。
 その一部は既にUR都市機構の共同住宅と政府の合同庁舎になっているが、残る広大な空き地を含めて約7.8ヘクタールの区域を、計画的に開発をするのである。




その空地部分には10年ほど前までは、日本の近代化時代を支えた生糸貿易関係の倉庫と事務所建築(1926年)が6棟建っており、横浜の歴史的風景があった。
 そこを12年くらい前だったか、東京のデベロッパーの森ビルが買った。開発をするとて2004年に地区計画、更に2008年には事業内容にに合わせて再開発等促進区を決めて容積率や高さ制限を緩和した。
 わたしは徘徊のたびに、どんなものが出現するのか見ていてが、一向に動き出さない。どうやらリーマンショックに出くわして、ずっと足踏みしていたらしい。

◆巨大開発都市計画変更は要するに住宅容積増加

 今、アホのミックス景気でまた動き出したらしいが、これまでの事業の内容を変更したい、それには現決定の地区計画に抵触するとなったようだ。
 そこで事業者の森ビルと丸紅が都市計画提案制度を使って、地区計画の変更案を横浜市に提案して、それがこの度の都市計画審議会で通ったのである。
 事業者の提案発表はここに書いてある。
http://www.mori.co.jp/img/article/131021.pdf

 場所は横浜の新都心地区の「みなとみらい21」の超高層街と、おなじく伝統的都心地区である関内との間にある運河沿いの広大な空き地である。
 ここに都心にふさわしい内容の超高層街を森ビルにつくらせ、道を隔てた隣の空き地に市庁舎を移転して、業務中心を形成して、横浜駅-みなとみらい21-北仲通-関内へと新旧都心を結びつけようというのが、横浜市の魂胆である。
 そこで約7.8ヘクタールのところに地区計画を定めて、容積率が400%のところを600パンセントに、高さも200mまで緩和したのであった。
 業務、商業、文化、観光、共同住宅などの入った、31mから200mまで9棟の建物を取りそろえ立ち並ぶことになっていた。

 それを変更するのが今回の都計審の議題で、変更の記述はあれこれ書いてあるのだが、しげしげと見たところ、要するに当初計画にあったホテルをやめて共同住宅に置き換えたいというのである。
 ホテルを住宅に置き換えると、現地区計画で決めてある住宅部分の容積率の上限400%をオーバーして450%になる。これでは地区計画違反になるので、住宅上限を400%から450%に変更したいというのである。
 そしてそのとおりにすんなりと変更案が通った。委員の誰もその肝心のところについて質問も意見もなかったのが不思議だった。分っているからか、分らないからか。

◆北中通り地区開発による横浜都心強化の方針は

 わたしがこの変更議題の内容で、引っかかったことを書いておく。
 横浜都心エリア(横浜駅周辺地区と関内地区)には、横浜市が都市計画の特別用途地区指定をしている。そこでは都市計画の用途地域の商業地域のままではなく、「都心機能誘導地区」として積極的に業務や観光や文化の機能を整備するとして、住宅(いわゆるマンション)の建設にタガをはめている。
 住宅の容積率を、横浜駅と関内の駅前ではゼロ(住宅禁止)、そのほかでは例えば指定容積率600%の地区では住宅を300%までとし、文化・商業・業務系の施設(誘導用途)を入れるなら、それと同等容積まで住宅をプラスできるが、上限は450パーセントとしている。
 
 北仲通りのこの地区は特別用途地区外であるが、地区計画によって「都心機能誘導地区」なみの指定をしている。
 住宅の容積率の上限を400%に厳しく定めて、全体の容積率は600%が上限としているから、残り200%は誘導用途であることになる。横浜駅周辺や関内地区と比べて、都心機能誘導を積極的に行おうとしている。

 ここの指定容積率は400%だから、これに200%のボーナスをつけた根拠には、オープンスペース確保や歴史的建造物保存のほかに、住宅の上限を400%として、特別用途地区に定める規模以上の誘導機能の整備があったに違いない。
 ここを横浜の業務系都心として、減少しつつある就業人口の回復に向けて、再開発をするのだというのが、「都心機能誘導地区」の基本的な方針であるはずだ。

◆誘導機能減少して住宅増加しても容積ボーナスは既得権か

 それなのに、誘導機能のホテルをやめて住宅に置き換えるだけでは、地区計画変更は難しいかもしれないと、事業者は考えたらしい。
 そこで、ホテルに替わって作る住宅は、「高規格の居住機能」の「十分な階高(3.5m以上)」をもった「国際的な高度人材の多様なニーズや業務形態に応えられる住宅」の整備をすると、変更地区計画に書いている。
 
 同じ住宅では気がひけるとて、住宅に色を付けたらしい。これって、要するに金持ちを住ませますってのを別の言い方をしているだけのようだ。
 一般に近ごろ、こういう時は子育てとか高齢者対応とかの色をつけるのに、ここでは全くそれを言わないところが、なんだかいさぎよいような気がしてくる。
 3.5mというハードウエァは分かるとしても、そのほかのソフトウェアについては、地区計画でどのようにして担保できるのだろうか。誰が入居して、どんな仕事をしているのか、行政当局が毎年調べるのだろうか。

 横浜駅周辺や関内地区も都心機能誘導地区であるが、横浜駅周辺は住宅は禁止となる厳しい規制、関内地区は北仲通り地区よりは緩い住宅制限でである。
 つまり、北仲通地区は新旧都心の中間にあって、関内地区よりも積極的に商業業務文化等を誘導する位置づけであったのだ。それなりの都心形成の理念の表れだろう。だから容積率も5割アップのボーナスを出したのだろう。
 それが、今回の地区計画の住宅用途450パンセント上限に変更で、関内地区や横浜駅周辺と同じになってしまった。誘導機能施設が減少しても、なぜ元のままの容積ボーナスなのか。既得権の擁護か。

◆5割増し容積ボーナスと過密住宅地

 ついでに言えば、生糸倉庫と事務所の2棟を歴史的建造物として修復保存することになっていたのが、今回の審議会で分かったことは、1棟は現物保存するが、もう一棟はこわしてしまって現存部材を一部使って復元保存だそうである。現物保存でなくてコピー再現に変更しても、容積率ボーナスは減少しないのか。

 となると、たぶん、これら二つの地域貢献は、容積ボーナス算定に入っていなかったのだろう。
 つまり、地区施設等のオープンスペース整備だけで、指定容積率に5割増しの200%もの大盤振る舞い容積ボーナスが出たに違いない。
 でもなあ、もともと運河という大きなオープンスペースに沿っているのだから、そこに更にオープンスペースを造ってボーナスよこせと言われてもなあ。元が過密居住地だったのならともかくとしても、オープンスペースばかりの空き地だったしなあ。
 オープンスペースが要るのは新たな過密空間をつくるから、内部的に必要なんだろう。それに容積ボーナスをあげるって、なにかが違うような気がする。

 ところで、ここでこんなにでかい共同住宅ビルを何棟も建てて、その合計戸数が何戸なのか資料を見てもわからない。
 URと森ビルを合わせて2000戸以上になるとすれば、約4000人が住むことになるのか。合同庁舎のところを除くと約6ヘクタールだから、670人/ha!、これはなかなかものすごい高密度である。住宅だけじゃないから実態は香港並みの過密状態かもしれない。
 この過密さは、運河の開放空間によってある程度は救われるだろうが、内部不経済を外部経済に頼って緩和するようなものである。

 それにしても、人口減少時代にそんなに住宅を建てて、どうするんだろう。さらにここは海辺の埋め立て地だから、地盤は悪いし、津波はやって来るし、どうするんだろう。
 実は、わたしもご近所で同じ運命にあるので、他人事ではないのである。
 とにかく、あとあと困る各戸分譲の区分所有共同住宅ビル(これを名ばかりマンションという)にはしないで、できれば全部URか公社の賃貸借住宅にしてほしいものだ。

ちょっとパロディいたずらしてみた


◆都計審委員はわたしの疑問点を審議してくれない

 ここまではわたしの疑問点を述べてきたが、横浜都計審の委員の方たちは、これを審議してくれたかというと、実はまったくなにも触れていいただくとこはなかった。
 ひとうだけ、帝蚕倉庫の遺構建物の保存について質問があり、以前は2棟とも現物保存の計画だったのを、一棟は現物保存だが、もう1棟は取り壊しコピー再現に変更することが分かった。でも、だからどうするという追求はなかった。
 ほかには、巨大開発なので周辺への周知、交通混雑対策、防災対策へのコメントがあり、発言者は20人中の4人だけだった。

 ということで、肝心の変更のポイントである住宅容積の増加と誘導機能の減少という基本的な問題については、どなたもご発言がなかった。
 あれだけ多くの識者のだれ一人も、この基本的な問題点が分らなかった、ということはあるまい。
 多分、事前にご勉強されていてご承知で、これで良しとのことだったのだろう。こう、善意に解釈することにした。
 (もしかして、わたしがボケていて、これを疑問とすること自体がおかしいのかもしれない)

 でも、審議会は役所の機関ではなくて、識者と議員と市民からなる第3者機関として(法的には別としても)、ここに諮問している都市計画決定権者(市長)には、市民の疑問に答えさせるように審議をするべきであると思う。
 どうぞこれからは、委員の方々はよく御存じのことでも、質問し意見を言ってくださるように、ひとりの市民としてお願いする。

 さて、別の議題の審議についても、明日の続編でいちゃもんつけるかなあ、、。

<参照>    


2014/03/26

912なんだか1940年のオリンピックを迎えるみたいな時代風潮が

八五郎:ご隠居、ようやく春になりましたね。
ご隠居:おや、八っあん、元気かい、うん、温かくなったね。
:でね、ふらふらと横浜港に散歩にいってたら、見つけましたよ、例のヤツを、出てきましたよ、とうとう。
:なんだね、港に冬眠してる熊がいるはずもなし。
:いえね、ほら、一昨年にご隠居と話した新港埠頭の結婚式場の建物ですよ。

:ああ、あれね、去年わたしも工事中だけどほぼ形ができてたのを見たよ。うん、そうそう、横浜市の都市美審議会があれはデザインが悪いって却下したのに、見たところほぼそのまんまにできちゃったね。
:そうですよ。一昨年、あんなに建築家たちがこれはいかん、なんてシンポジウムまでして騒いだけど、こうやってできてしまったら、なんにも言わないんですかね。
:そうだな、ほれみろ、やっぱり不細工だろとか、ありゃ、意外にいいじゃんとか、なんにも聞かないねえ。わたしが見たところでは、やっぱりあれは隣の遊園地にぴったりだね、ゴタゴタ~ッとしてて、。
:新聞屋もなんだかんだと言ってましたよね。もう姿が見えてから半年は経つのに、みんなどうしたんでしょうねえ。できちまったら、しょうがないやって、思ってるんでしょうか。
:でもねえ、それじゃあ、あの時の騒ぎは何だったんだってことになるよなあ。こうなりゃ、現物を目の前に見つつ、また討論再開するべきだと思うがねえ。
:一昨年の結婚式場騒ぎはやっぱり横浜だけの、建築家たちだけの、コップの中の嵐だったんですかねえ。
  ◆
:そういや、今、東京でも景観問題でコップの中の嵐が起きてるよ。
:あ、そうそう、横浜のこの騒ぎと入れ替わりみたいに、新国立競技場の景観やら事業費やらでなんだか言ってる人たちがいますねえ。でも、なにしろ国民みなさん大好きなオリンピック用の施設だし税金をたくさん使うんだから、横浜のようなコップの中の嵐ってわけにはいかないでしょうよ。
:いや、意外にそうかもしれないよ。オリンピックなんて東京のあたりの人しか知らないような気がするがどうなんだい。
:何を言ってるんですか、ご隠居はオリンピック嫌いだから関心ないでしょうが、まあ、あっしたち普通の庶民はオリンピック大歓迎、外国人に恥かかないようにしたい、日本勝ってくれってんで、かっこいい新国立競技場ができるといいな、東京に観に行きたいなって思ってますよ。
:そこが度し難いんだけど、まあ、そんなもんだろうなあ。あの横浜港の結婚式場だって、そんなもんだろうなあ。建築家たちが新国立競技場計画についてあれこれ言っても、まあ、横浜の結婚式場みたいになるのかもなあ。
:その上、この前の1964年のオリピックのように、オリンピックとなると、もう、しゃにむにやっちまう国民ですからね。
  ◆
:そういえば、横浜にもその時のオリンピックのために、超法規的にやった事業の姿が今もあるんだけど、知ってるかい。
:横浜でオリンピックやったんですか。
:そうじゃなくてね、オリンピックになると横浜にも外国人が大勢やってくるだろう。そうなると汚い街は恥ずかしい、野毛には闇市時代からいまだに道路上でゴミゴミしたたくさんの屋台が露店商売をやっている、こいつをどけようってことになったんだな。
:で、横浜市の道路屋さんがその屋台を焼き払ったんですね。
:まさか、そんな乱暴はしないよ、移転する先をつくって野毛の道からなくしたんだよ。
:どこに移転させたんですかい。
:それが今ある都橋商店街だよ。
:あっ、あの堤防の上に乗ってって大岡川の上に張りだしている、あれですか。
:そう、堤防の上だけじゃあ奥行きが足りなくて店にならないので、道路と堤防の両方に乗っかって、更に水の上にも張りだしているよ。
:えっ、道や川の上に家を建ててもいいんですかい。
:交番、公衆便所、駐車場、地下街ならいいけど、こんな風に飲み屋街を造るのは、まあ、超法規なみだよなあ。

    ◆
:外国人に恥ずかしいので超法規って、やっぱりオリンピックはすごいもんですね。ものども頭が高い、これが見えぬかって、五輪御紋の印籠を見せれば、都市計画審議会も建築審査会もウヘ~ってひきさがるんでしょうね。
:もしかして新国立競技場問題も、外国人にこんな古い競技場でオリンピックやらせるのは恥ずかしいって、根にはそういう日本流の恥の文化があるのかもしれないよ。
:でもねえ、日本は震災復興中ですからねえ、武士は食わねど高楊枝、ぼろは着てても心は錦ってあるでしょ、日本には。
:お前さんは、案外古いんだね。そうなりゃ日本選手は精神力で勝ってもらいましょうってことだな。試合の前には選手一同は明治神宮のお祓いを受けるとかね、こういうのはモリさんてオリピックの親分が大好きだね、日本は神の国って言ってるひとだから。
:なんだか1940年のオリンピックを迎えるみたい。時代は逆行ですね。
:そう言えば、1933年3月に三陸沖大地震で大津波がやってきて、大災害があったんだな、今と似てるよなあ。
:またもや戦争を始めて開催返上なんてことになったら、それこそ大恥ですね。
:オリンピックが終わるまでは、なにがなんでも我慢して集団的自衛権戦争もしないんだって、アベさんが頑張るってことなら、まあ、それも平和戦略としてよしとするか。その後が怖いけど。


◆参照
・横浜ご近所探検隊が行く
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_19.html
・660横浜港景観事件(12)どこが変更になったか結婚式場
http://datey.blogspot.jp/2012/08/660.html
・835横浜港景観事件(14)あの結婚式場が姿を現した
http://datey.blogspot.jp/2013/09/835.html
・640横浜港景観事件(番外2)景観シンポジウム
http://datey.blogspot.jp/2012/07/640.html
・新国立競技場と神宮外苑そして2020五輪運動会についての瓢論・弧乱夢
http://datey.blogspot.jp/p/866-httpdatey.html
・津波、戦争そして原発 
https://sites.google.com/site/dandysworldg/tunami-senso-genpatu



2014/03/24

911人口減少に加えて南海トラフ巨大地震津波で日本列島人口大移動時代

 先年、世界遺産登録に失敗した鎌倉市で、あたらしい大規模小売店舗の建設計画が出てきて、いろいろと騒ぎになっているそうである。もし登録成功していたら、バッファゾーンになるはずの歴史的中心街である。
 わたしは鎌倉市民をやめて横浜市民になって11年余、その計画について具体的に何かを言う情報もないし、立場にもない。

 だが、その開発計画地の位置を見ると、おお、これは問題だよなあ、それは鎌倉だけじゃなくてほぼ日本列島の半分は関係する問題を含むなあと、気が付いたのである。
 そこは鎌倉の由比ヶ浜海岸近くである。由比ヶ浜とは、相模湾の一番奥にある海岸でああるから、次の南海トラフ巨大地震が起きると、真っ直ぐに巨大津波が襲来するのである。

 鎌倉には大津波被災の歴史的証人がいる。この開発計画地よりも内陸側にある高徳院というお寺に、雨ざらしで座る巨体の鎌倉大仏(13世紀半ば建立)である。
 実は、かつては大仏殿の中にあったのが、15世紀末の大津波で流された結果が、今の露座の姿であるという。
 計画地はそれより海側だから、必ず被災するだろう。もちろん、現に周りにいま建っている多くの住宅なども、もろに被災する。まさに津波被災予定地である。

 ところで今、東日本大震災の津波被災地の太平洋沿岸部の街ではどこもかしこも、津波被災した地区を居住禁止にして(津波災害危険区域指定)、住民を海岸から遠い津波が来ない高さに移動させる事業を進めている。
 一方で、鎌倉のような津波被災予定地では、そんなことはしていない(のであろう)。鎌倉だけではなく、藤沢でも静岡でも和歌山でも高知でも宮崎でも、たぶん、やっていないだろう。たぶん、津波が来て大勢死んだら、やりはじめるのであろう。

 津波被災地から外に移転させている東北や北関東の太平洋沿岸部の街でも、その跡地に住宅を禁止にしても、大規模商業施設のような集客施設の禁止はしていない。
 だから、こんどまた津波が来た時には、ここで買い物している人たち、働いている人たちは、またも被災するのである。
 このことは、まだ津波が来ていない鎌倉でも、今計画中の商業施設は同じことである。
 それでよいのかなあ、と、思ってしまう。

 考えすぎるかもしれないが、いま現在の太平洋海岸に近い津波予定地ににある施設は、住宅や病院、学校、福祉施設はもとより、工場も事務所も商店も、本来なら津波が届かないところに移転させる政策が必要なのだろう。
 もちろん、それには莫大な費用が必要だし、そのまえに生活基盤の大転換による社会的動揺が起きるだろう。
 しかし、今わたしたちは東日本大震災地、原発事故大被災地に、その動揺をまざまざと見つめみている最中である。あすはわが身と分かっているのである。

 まだその意識が熱いうちに、未被災地において次の津波被災への政策をとるべきであろうと思う。
 とすれば、当面できることは、津波被災予定地を定めること、そしてそのエリアでは新規開発を禁止すること、そのエリアからの移転に助成策を行うことだろう。

 もっと積極的に進めるならば、この津波防災移転にかこつけて、これから問題が顕在化する人口減少による地域問題の解決のために、国土全体の生活圏再編成を政策的に行うことである。
 あ、こんなわたしが思いつくようなことは、もう、とっくにやってるんだろうなあ、、。
 鎌倉のひとつの商業開発から、ここまで考えすぎたのであるが、さて、どうなるのだろうか、日本列島は、、、。

 積極的にその政策を、自治体内で完結させようと進めている三陸などの津波被災自治体では、いまや自治体の枠を超えて人口移動が起き、沿岸部で人口減少が進んでいる。
ということは、何の政策もなくて放っておいても、人々は自主的に海岸部から内陸部へと移転していくことだろう。太平洋沿岸の街の人口は、これから加速して減少するだろう。
 それとも、またすぐに忘れて、「湘南海辺の素敵な暮らし」なんて言い出すのだろうか。

 津波防災のための政策を何も知らないままもどうかと思うので、「津波防災地域づくり法」なるものを読んでみた。20111年12月にできているから泥縄であるが、わたしが考えるようなことが書いてある。
 まずは「津波災害警戒区域」の指定で、これは要するに津波被災予定区域のイエローゾーンであるらしい。あれこれ対策計画をする。
 つぎはレッドゾーンの「津波災害特別警戒区域」の指定である。なにしろ生命が危ない地域なので、ここに新たに住むことを禁止するのである。ここも住まいだけ禁止となっているが、それだけでいいのかと疑問になる。

 ということで、泥縄法だったが津波対応政策はあることが分かった。
 で、全国のどこに津波レッドゾーン指定をしているかウエブサイトで調べたら、なんとまあ、一か所もないのである。イエローゾーンさえも、徳島県が決めただけらしい。
 もう、津波がやってくる区域のシミュレーションはとっくに終わっているのに、なぜだろうか。もしかして、指定されると不動産価値が下落するだろうから、いろいろな方面から困ると言われて、指定足踏み状態なのだろうか。

 でもなあ、住民の勘で分るよなあ、お上に指定してもらわなくたって、このあたりは危ないって、。命が惜しいから逃げ出すし、今さらわざわざ住みに行かないよなあ。動物的勘というから、まずはネズミやタヌキが逃げ出すだろう。
 いまや日本列島は、人も狸も大移動時代を迎えているのである(ような気がする)。


●参照「復興計画の向こうにある次の災害への対策は」(伊達美徳)
https://sites.google.com/site/dandysworldg/sinsai-3nenme
●参照「津波防災地域づくり法」
http://www.mlit.go.jp/page/kanbo01_hy_002325.html
●参照「鎌倉市津波災害対策計画」
http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/sougoubousai/documents/10_tsunami.pdf

2014/03/19

910百円時計の針がときどき飛ぶのは故障か、それとも時間に異変が起きたか

◆安物時計はまた遅れている
 あ、またサボったな、うちの時計のヤツは、、。これはわたしの書斎の時計である。
 時計の文字盤の針は8時8分、写真の右下のカメラ時計の表示は8時37分、そして卓上にある置時計の針も8時37分、居間の時計もそのあたり、PCの時計表示も8時37分。
 では多数決でもって、ただいま8時37分と決定するぞ。
 この時計が、わたしの書斎にやってきたのは、3年ほど前だったろうか。どれでもなんでも105円の店をぶらぶらしていたら、これと眼があったので、つい買ってしまった。
 百円時計なんて、おもちゃかと思ったら、これがチャンと動くのである。なにしろクォーツである、ハイテクである。
 う~む、百円やるから、いや千円やるから時計をつくれと言われても不可能である。よくまあできるもんだ。原価はいくらか知らないけれど、低賃金で大量生産すれば可能なのかしら。

◆ゴミ供給源としての安物屋
 百円屋にはときどき散歩の途上で寄る。めったに買う物はないが、見物すると面白いのである。
 まったく貧乏人にはたまらないよなあ、あんなにたくさん、時計のようなとても百円と思えない代物から、誰が買うのかゴミのような装飾品まで、よくまあ百円以下で作れるもんだ。
 どこかで賃金搾取があるのだろうか、どんな手抜き部品だろうか、なんて、さもしい考えが浮かぶのだが、目先の安さで手を出してしまうよなあ。
 世の中が貧乏になってきて、こんな雑貨ばかりか衣料でも食い物でも、あちこちに安物屋がはびこっている。安物屋は店のデザインまで安っぽい。
 まあ、どうせ安物だからなあ、すぐ故障しても、すぐ破れても、捨てりゃいいよ。安物レストランで不味くても、まあ安いのだからしょうがないって、喰い残す。
 こうやって安物屋がゴミの供給源となっているに違いない。

◆不思議な百円時計
 で、この百円時計である。うちにやってきた初めの1年半くらいは、普通に働いていたので、百円ですごいもんだと感心していた。
 ところが2年目くらいから、5分ほど、10分ほどと、たびたび遅れるようになった。電池を入れ替えてやって普通になるかと思ったら、また、しばしば10分、30分、1時間と遅れる。
 それが不思議なのは、じわじわと遅れるのではなくて、ぽ~んと飛ぶのである。どうも針の運行を一時休止してはまた再開することを繰り返しているらしい。ただ単に遅れ気味とか進みすぎとかじゃなくて、間歇的に止まったり動いたりしているらしい。
 でも、わたしは一度として針が止まっている状態を見たことがないのだ。いつみてもチクタク動いているのに、ある時ぽ~んと遅れている。

◆ボケたか百円時計
 まさか、瞬間的にパッと針を後退させているのではあるまいな。どうも、御主人様のわたしの目を盗んでサボり、ちょくちょく居眠りしているらしい。
 百円時計のやつボケたな、いや、今どきの言葉では認知症だな。
 made in chinaとあるから、大陸奥地のホコリの舞う町工場で組立てられ、はるばる日本にやってきて、この安物屋の店先にどれほどいたのか知らないが、縁あってここ空中陋屋におちついて2年余、もう認知症になったのか、おお、可哀そうになあ。
 考えてみると、この時計はわたしかもしれない。気が付かないうちにときどき居眠りして、その間は心臓だって止まっているんだろう。それがだんだん頻繁、顕著になって、他人でもわかるようになる時に、ボケたってことになるのだろう。
 しょうがないから、オレが老々介護してやるよ、ゴミにもせず時計にもせず、室内装飾としてね。

◆この時計のほうが正しいのかも
 ところで、時間というものは、地球の回転がもとになっているらしいから、もしも地球がボケてときどき居眠りするようになったら、時の流れもこの時計のように、時々休止するに違いない。
 地球が回転をときどき休止すると、いったい何が起きるのだろうか。近ごろ暑すぎる日が続いたり、突然に大雪が降ったり、大地震大津波があちこちで起きているのは、これは地球がボケてきているせいかも、、。
 そうか、わたしの書斎の時計は、その地球のボケ回転に合わせて、時を刻んでいるんだな。こいつを眺めていると、大災害を予知できるかもしれない。うん、これを捨ててはいけないな、大切にしようっと。


2014/03/18

909【地震津波火事原発】行政境界にある街は大災害にどう対応しどう復興するのか


 岩沼市の井口市長の講演を聞いた(2014年3月16日、横浜国大にて)。
 地震津波大被災からの復興へ、最先端を走り続ける姿勢に敬服する。聞いていて、ふと疑問が頭をよぎった。

◆二つの市の境界上にある被災集落
 実は岩沼市を訪ねたことはないのだが、その北隣の名取市北釜集落、正確には集落があったが津波で消えた跡地を訪ねたことがある。
https://sites.google.com/site/dandysworldg/natori-kitakama

 そこは名取市の南端部であり、南隣は岩沼市相野釜集落である。空中写真を見ると北釜とまるで双子のようによく似た地区、というよりも一つに集落に見えるが、どちらの集落も消滅した。
 北釜は119世帯という記録を見つけたが、相野釜の世帯数は分からない。いずれにしても大差はないだろう。地名のどちらにもつく「釜」とは、昔は製塩集落だったことを現す。
 たまたまこの2集落の間に行政境界が入っているが、多分、歴史的にも民俗的にも産業についても似たようなものだろうし、両集落にそれぞれ親戚関係者もおおいだろう。つまりひとつのコミュニティーであったにちがいない。

 普通に考えると、これら二つはともに同じところに集団移転しそうなものである。ところが、津波で被災した今、ふたつの集落は全く異なった方向に移転してしまうのである。
 北釜は北の方の空港の北地区に、相野釜は南の方の玉浦西地区へと、集団移転するのである。どちらも他の集落と統合する新たな住宅地を形成するのである。
 
◆同じコミュニティでも行政が異なると異なる移転先
なぜそうなるか、多分、二つの集落が別の自治体に属するので、それぞれ別の復興計画に従うからであろう。
 余所者の余計な心配だが、このように密接に隣り合っていたふたつの集落が、その間にたまたま行政境界が入っていることによって、復興のために離れ離れになることは、普通のことなのだろうか。いや、今回初めての事件だから普通のことではない。
 防災集団移転は、制度上は市町村を越えて可能であるようだが、この2集落は同じところに集団移転したい、あるいは世帯によっては隣の集落の移転先に行きたいとか、そのような要望がどちらの集落側からも出なかったのだろうか。もちろん出なかったのなら、わたしの杞憂である。

 井口市長が強調しておっしゃっていた、避難所も仮設住宅も元のコミュニティを維持できるように配置し、集団移転もそのように計画しているとて、それは誠に良いことである。
 だが、市町村を超えると県の役割となって、難しいことになるのだろうか。
 他の被災地では、このような例はあるのかないのか、どうなのだろうか。

 東北被災地では、市街地が行政境界を越えて連担する地域はなかったのかも知れないが、関東や東海道地域となると、そうはいかない。
 行政境界をまたぐコミュニティは珍しいことではないから、自治体を超える難しい問題があちこちで起きる可能性がある。

◆津波は行政境界に無関係にやってくるのに
 市境を挟んで南の岩沼側は、防潮堤、千年希望の丘、貞山堀土手嵩上げ、市道嵩上げという何重もの構えで守りを固めるのに対して、北側の名取市側では、千年希望の丘のような事業はないらしい。

 もちろん岩沼側でも防潮堤や防潮林を整備しているのを、わたしは見てきたのだが、千年希望の丘のような特徴ある計画はないらしい。
 両市の復興計画図を見ると、名取市北釜では交通結節点としてなにか開発的事業をやるらしい赤丸が画いてある。一方、岩沼市相野釜の方では千年希望の丘をつくるらしい。双方につながりはないようだ。

 ここに限らないが、沿岸部自治体の震災復興計画をみていると、行政境界で図がつながらないことがあちこちである。
 しかし、津波は市境とは関係なくやってくる。
 千年の丘や緑の防潮堤の有無で、その被害がどう違うのか、その時になってみなければわからないし、どのような方策が最上であるか誰もわからないだろうが、線の1本で隣り合う行政が異なる対策をとることが、わたしには釈然としないのである。


 こうなるとしょうがないから、こんどおいでになる津波さんには、市の境で別々に襲ってもらうように、お願いするしかない。

●全文は
宮脇昭提唱の森の長城づくりと行政の現場【岩沼市相野釜】
https://sites.google.com/site/dandysworldg/iwanuma-ainokama

参照
・地震津波核毒原発おろおろ日録
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html

2014/03/17

908宮脇昭提唱の森の長城づくりの原点の森は横浜国大

 宮脇昭さんは、今86歳、東日本大震災の津波被災海岸部に、森の防潮堤を延々と築くことを提唱して、その実行にいまは老いの一徹のごとくに精力をかたむけている植物生態学者である。
 昨日(2014年3月16日)、横浜国大で「命を守る森の防潮堤ーこれからの展望」と題する講演会があった。ここは宮脇さんの古巣であり、彼のいう「本物の森」の最初の実践の地である。





 まだ落葉樹は葉がなくて寒々としているが、横浜国大キャンパスの常緑広葉樹の森は緑をたたえている。知らない人はこの森が人工林とは思わず、森を切り開いて大学キャンパスにしたと思うだろう。
実はここはもとはゴルフ場だったから、森ではなくて草原だった。そこに今では宮脇方式と言われる手法で、苗木を植えた常緑の森を作り上げたのだ。

 「まだたったの86歳です。120歳まで生きます」と、あいかわらぬ意気軒昂ぶりで、生態としての人間と自然のあり方をとうとうと説き続ける。
 わたしは最近は疎遠になったが、40年ほど前に知り合ってから、自宅にも研究室にもしょっちゅう訪れ、わたしがやっていた仕事で依頼した植生調査に一緒に行ったことも何回かあったし、ヨーロッパに植生調査団にも入れてもらって、彼の師のチュクセン氏を訪ねたこともある。

 その最初に会った頃と今とでは、彼の主張は「本物の緑を」と一貫しているのは、さすがであると思う。
 だが、最近はなんだか哲学の世界に入り込みつつあるようだ。いや、わたしはいつも現場からしかものを考えないのだ、机の上の哲学ではないぞ、と、怒られそうだが、現場の哲学である。
 少し耳が遠くなったのか、講演会の会場からの質問にすれ違ったお答えがあったりして、さすがに現場の鉄人も歳には勝てないらしい。

 この続きの宮脇さんと岩沼市長の井口さんの講演内容については、下記を参照のこと
宮脇昭提唱の森の長城づくりと行政の現場【岩沼市相野釜】
https://sites.google.com/site/dandysworldg/iwanuma-ainokama

2014/03/14

907【世相戯評】サッカー業界の摩訶不思議な無観客競技試合興業って真面目なの?

 スポーツ関係のニュースには全く興味がない。オリンピックが終わって、新聞の社会面にしゃしゃりでるスポーツ記事がなくなって、やれやれとおもっていたら、サッカーの記事がデカデカと出てきた。
 なんでも、サポーターとかって、サッカー競技場内に「japanese only」って書いた幕をたらしたとかで、ゴタゴタ。

 サポーターってなに? わたしが知っているサポーターってのは、スポーツ用猿股のことである。え、知らないの? あのね、男はぶらぶらすると邪魔だからキリッとまとめるんですよ。
サッカーするにも、そりゃサポーターを付けるんでしょうよ。それがどうした?
 てなことではないらしく、チーム応援団のことをサポーターというらしい。応援団は猿股なのか?

 「japanese only」って「日本人以外立ち入り禁止」って意味であることは、わたしでもわかるけど、サッカーでそれがどうしたのか? 
 観客席の入り口にそう書いた幕をたらしてあったらしいから、どうやらこのチームの応援団は、国粋主義者であるということらしい。ふ~ん、、。

 たかがサッカーごときで、そんな大げさな思想表明が必要なのかって、いや、もちろんヘイト垂れ幕はいけないけど、なんでそんなものがサッカー競技場に出現するのか、サッカーなるものを見たこともない私には、不思議きわまる現象である。
 その猿股が応援するチームには、外国人プレイヤーはいないのかしら。

 それにしても、その行為がケシカランってことで、それに対する業界(と言うのだろうか)トップから命じられた制裁措置が、「無観客試合」を行えというのが、なんだかすごいような、わけがわからんような、不思議な世界の出来事である。わたしの常識を超える。
 プロスポーツだから見せてナンボの興業に、客をひとりも入れないで興業しろって、たしかにアホらしさの極みの制裁であると思う。
 でも、そういうのって競技試合になるのだろうか?

 更にどうも分らないのは、競技試合ってのは独り相撲じゃないんだから、相手チームが必要なんだろう。
 その相手にされたほうは、もっとアホらししいだろう。なにか特別報酬をもらわないと、無観客競技試合なんてやってられないだろうと思うのだが、どうなんだろう?
 そうやって両方でアホアホの競技にならない手抜き試合をやらせて、何の制裁の意味があるのだろうか?   

 さらによく分らないのは、その幕を掲げたアホ猿股じゃなくてサポーターはともかくとしても、普通のサッカーファンにも見せないって、どういうこと?
 これって普通のファンも制裁されるに値する行為なのかしら?

 どこか一部始終が子供じみている。いい大人がやることかしら? 真面目なの?
 わけが分からんけど、ま、どうぞご勝手におやんなさい。


2014/03/11

906【地震津波火事原発】400年前に津波防災集団高台移転した東海道宿場町は今その教訓を生かしているか

 東海道五十三次の宿場町のひとつに、蒲原宿がある。駿河湾の一番奥に位置する街である。今は静岡市清水区蒲原となっている。
 先日そこの昔の宿場町で、まちづくり活動団体の集まり「しずおか街並みゼミ」が開催されるとて、なんの予備知識もなくて訪ねた。
 集まりが「防災」をテーマとするということなので、3・11大地震で日本列島本州東沿岸部の被災以来、かまびすしい地震津波対策を本州南沿岸部の街ではどうしているか、それを知りたかったのである。

 かつての蒲原宿の街は、本陣や旅籠跡のある街並みに、今も江戸時代の面影をわずかながら伝える風景である。
この蒲原宿あたりのかつての東海道筋は、海岸線に平行して400mほど山側を東西に走る。
 その道は南の海岸部の平地よりはかなり高い位置にあり、北側はすぐに山である。つまり、街は海岸から離れているのである。しかもこの宿場町あたりだけが、不自然に山側に回り込んでいるのである。
 ということは、昔の人は津波がやってくる海岸を避けて、宿場街をわざわざ地形的に高い位置に設けたのであったか、偉いもんだと思ったのだが、地元の方のお話を聞いて、そこには悲劇のドラマがあった。

 蒲原宿あたりの東海道筋は、江戸初期までは海岸低地を通っており、当然に宿場町も低地にあった。それが、1699年に台風高波による大津波が来襲し、街は壊滅して多くの死者をだした。
 そこで徳川幕府は、街道と宿場町をそっく、り今の高い位置に「所替え」させたそうである。つまり、今、本州東沿岸部でやっている「防災集団高台移転事業」を、400年前にやっていたのであった。なお、1707年には富士山が噴火した宝永大地震が来て、大きな被害があった。

 今の街の標高を見ると、宿場町あたりで海抜15~25m、所替え前の宿場町あたりは海抜10~12mである。高台というほどではないが、山裾の高い土地に移ったのであった。

 今では海岸には防潮堤が高く海から街を遮り、その際までびっしりと家々が立ち並んでいる。所替え前の17世紀までの旧旧東海道宿場町あたりも、今では住宅地である。
 江戸時代に所替えしたばかりのころは、海に近い平地部には街はなかったのかもしれない。いつごろまで街はなかったのだろうか。
 防潮堤がいつできたのか知らないが、これができてから、人々は安心してかつての津波被災の土地に住むようになったのだろう。

 東北でも三陸海岸部は、歴史的に何度も大津波に襲われており、そのたびに高台に集落を移転、まさに所替えをする。
 だが、高い防潮堤ができて、もう大丈夫と思って、時間がたつとまた低地に暮らすようになる。
 そして想定外の次の津波で、やっぱりまた被災している所が多いそうである。

 駿河湾自体がトラフであり、蒲原はそのトラフの真ん前だから、東海地震が起きると津波は0分でやってくるらしい。トラフが動くと地形が盛り上がって、津波を跳ね返すのだろうか。
 さて、蒲原宿では、その本州東沿岸部での3・11教訓、というよりも、かつて自分のご先祖たちが所替えになった400年前の教訓は、今、どう生かされているのだろうか。
 駿河湾の奥で、東海大地震による津波高さ予想値はいくらかわからないが、駿河湾に面する今の防潮堤が、江戸時代の所替えの教訓を生かした高さなのだろうか。3・11で見直しがあったのだろうか。

 蒲原の海岸沿いの街には高層ビルが見当たらない。防潮堤の上空に高架で通る国道バイパスは、防潮堤よりも高いから、津波の時にはこの高架の上に逃げるしかなさそうだ。そのためには非常用階段をたくさんつける必要がありそうだが、ついているのだろうか。
 わたしは昨年、南三陸町の被災後の海辺の街で、海沿いの高架道路が完全に壊された風景を見てきた。やって来る津波は橋の下を通り抜けたが、戻り津波がたくさんの家々などを引き連れて来たために高架橋にひっかかり、これに押されて壊れたそうだ。高架道路が安心とは言えないから、悩むほかない。

 東海道の宿場町では、蒲原宿のほかにも7つの宿場町が津波で所替えしたそうである。それらの街でも、今、どう考えているのだろうか。
 江戸時代と今とでは土木技術力が大違いだが、それでも三陸大津波のように、世界一の防潮堤さえももろかった。
 どこまで技術力で自然に対抗し、どこから自然に逆らわずに逃げるのか、そのあたりのことを江戸時代の所替えがあった街でこそ、生かす知恵がありそうだ、と思った。
 でも、そこのところは、じつのところよく分らなかった。

 実はわたしも横浜の港に近いところに暮らすので、他人事ではないのである。
 ここに来る前に住んでいた鎌倉では、相模湾から押し寄せる津波が届かない位置と高さに住んでいたが、引っ越してきたここは津波被害がほぼ確実にあるところだ。
 3・11以後に引っ越すなら、ここには来なかっただろう。とりあえずはビルの7階なので、ここまでは水は登って来ないにしても、足元の街の機能が失われるだろう。
 やっぱり気になる太平洋岸の街である。

 蒲原では、多くの方々にお世話になり、たくさんのことを教えていただいたことに、厚くお礼申し上げます。

参照⇒588『津波と村』海辺の民の宿命か
http://datey.blogspot.jp/2012/02/588.html

地震津波核毒原発おろおろ日録
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html

2014/03/07

905【怪しいハイテク】携帯電話機に電話がかかってきてもウンともスンとも言わなくなった

 ドコノモンという携帯電話機販売店のお兄ちゃんとわたしの会話。
ド「いらっしゃませ、どのようなご用でしょうか」
私「あのね、この電話機がアホになり、かかってくる電話にウンともスンとも音を鳴らしません。どうしたんでしょう?」
ド「はいはい、ではちょっと開けてみますが、よろしいでしょうか?」
私「え~と、聞いてるのはわたしなんで、そういう修理の技術上のことを聞かれても、わたしはよろしゅうございますとも、よろしくないともお答えする能力がございません」
ド「あ、はいはい、ではここを開けて、やってみます」
私「よろしくお願いいたします」
ド「お客様、ドライブモードになっておりますよ」
私「それがどうしました?」
ド「ここに出ている自動車の小さいマークを消すとかかってくるようになります。消してよろしいでしょうか?」
私「わたしは技術上のことは分かりませんので、聞かれてもよろしいともダメとも返答できません」
ド「あ、はいはい、では消します。これでかかってくるようになりました」
私「はい、ありがとう。では次の件、どうも電池が弱ってるようなのですが、どうなんでしょう?」
ド「では電池をとり出してみますが、よろしいでしょうか?」
私「私に技術的なこと聞かれても、良いとも悪いとも、、」
ド「あ、はいはい、では電池を取り替えましょう。ご本人確認ですが、昭和から生年月日を言っていただいて、よろしいですか?」
私「そういう技術的なことを聞かれても、、あ、じゃあないか、、はいはい、あ、でもどうして昭和からなの、わたしは大正かもしれないよ、もしかしたら平成かも、、ま、いいや、19●●年●月●日」
ド「はい、電池を取り替えましたので、もう大丈夫です」
私「どうもありがとう、さて、では次の問題です。SMS返信はできるのに発信できません」
ド「では、わたしが発信をしてみますので、よろしいでしょうか?」
私「だから、そういうことを聞かれても、、、」

 お読みなる方もそろそろ嫌になっただろうから、老人と若者の会話はこの辺で打ち切りとする。
 若者は親切に対応してくれたなあ、マニュアル通りにしゃべってね。
 それにしても、この「文字画像音声送受信用携帯型無線機」(通称ケータイ)の画面に登場しているこの小さいアイコン群は、いったい何の意味だろうか?


2014/03/06

904【くたばれ乗用車】アホディの小型車の宣伝広告はおかしいぞ

 この写真の説明はこうである。
 「入り組んだ道の多い日本に、車幅1.795mm、常識を超えたプレミアムコンパクト」
 今朝の新聞広告である。
 アホディなる車屋さんが出したらしい。

 たしかに、「入り組んだ道の多い日本に、常識を超えた」広告である。
 これでもう言いたいことが分るだろうから、書くのを終えようかとおもったが、まてよ、こんな写真を平然と出す企業や広告屋や写真家たちだから、ぜんぜん分らないだろう。
 しょうがない、蛇足ながらつづきを書く。

 こんな写真の状態なら、歩いている人はどうするんだよ、車に轢かれろってのか、え? 家からも出られないだろっ。
 自動車ってのは、歩いている人間とぶつかると、絶対に勝つ、そしてよく人を殺すものである。だからこそ、自動車のほうが積極的に遠慮するべきなのである。どこでも行けばよいってもんじゃないんだよ。

 それをなんだよ、こんな細道でも入れるよって、お前は感覚がおかしいよ。
 そもそもこんなところに自動車が入るもんじゃないんだよ。緊急用の救急車か警察車なら別だけどね。
 以前にも、車屋の無神経な「人を撥ね飛ばす車BMW広告」に腹が立った。http://datey.blogspot.jp/2011/11/537.html

 どうせなら「車幅600mm、常識の乗り物」ってのを作りなさいよ。アホディさんよ。
 多分、アホディさんちの車は、人とすれ違う時は、幅60センチに縮んじゃうんだな。
 読んでもわからないかもしれないから、パロディパラパラ動画にしてみた。
 われながらヒマにまかせてアホなことをやっている。


2014/03/05

903【東京風景】東京の銀座の風景がこうなるとつまらない感じもする

 東京の銀座通りを歩くと、なんだかビルのスカイラインの調子が、デッコンヒッコンと激しくなりつつあるようだ。
 東京一番の土地がの値段が高いところだから、戦後は31mの制限いっぱいいに建てていたのを、今ではその5割増しくらいの高さに次第に建て替えているらしい。
 よくあるように、前を引っ込めて広場をつくって、ドドーンと超高層ビルを建てるってやり方じゃなくて、もとのビルをそのまま縦に引き延ばすやり方らしいのだ。
 どうも頭打ち高さ制限があるらしく、そこまで目いっぱいに高くしている。
 だからこれまでは四角だったビルが、幅がそのままに縦に細長くなるのである。
 いたずらパラパラ動画をつくってみた。みんなが目いっぱいに建て替えて、スカイラインの凸凹がそろうと、こんな風になるのかしら。
 よく言えば削っていない色鉛筆がびっしりと並んだようだ。悪く言えばぼろきれパッチワーク簾。
 なんだかつまらない風景のような気がする。

関連参照ページ
景観戯造

2014/03/01

902【山口文象】J・コンドルの和風建築と山口文象のモダン建築の出会い

J・コンドルの和風建築と山口文象のモダン建築の出会い 伊達美徳

◆コンドル、山口文象、キリスト教、労働運動

 ジョサイア・コンドルと山口文象の設計した建築についての展覧会が、2014年3月10日から東京の芝にある「友愛労働歴史館」で開かれる。
 日本の近代建築史をちょっとでも知っている人は、このあまりにも縁がなさそうな二人の建築家たちの間に、そして日本の労働運動の歴史との間に、どのような関係があるのか不思議に思うだろう。

 J.コンドル(Josiah Conder、1852 - 1920年)は、20世紀への変わり目を挟んで40年ほどを日本で活躍したイギリス人建築家、山口文象(1902-1978年)は、1930年代から戦争をはさんで40年ほど活躍した建築家である。
 年代的にもその出自からしても、あるいは極端に違う作風からしても、普通に考えると出会うはずもない。

 ところが、このふたりの設計した建築が、東京都港区の芝にある同じ敷地の中に立ち並び、太平洋戦争の空襲で焼けるまでの9年間ほど、今考えるとなんとも特異な風景をつくっていた。
 並んでいたのは「日本労働会館」と「青雲荘アパート・友愛病院」という。日本労働会館がコンドルの設計であり、青雲荘が山口文象の設計であった。
 どちらも財団法人日本労働会館の所有で労働者運動の拠点であり労働者のための福祉厚生施設であった。この財団のバックには、労働運動のナショナルセンターである日本労働組合総連合会(連合)がある。

 今はどちらの建築も消滅して、跡地には同じ財団によるオフィスとホテルの入る超高層建築が建っている。
 そのビルの一角に、財団が運営する「友愛労働歴史館」があり、その展示室で戦前の活動拠点であった消え失せた二つの建物について、その歴史を再発見しようと企画した展覧会を開くのである。 

 いろいろ聞いて、調べてみると、日本の労働運動とキリスト教活動は元は深い関係にあったのだった。
 コンドルが設計した日本労働会館は、前身はキリスト教会の「惟一館」であり、その教会が日本の労働運動を起こす源流となり、活動拠点となった場であり、山口文象が設計した青雲荘は、労働者のための本格的な厚生福利活動の源流となった場であった。

 コンドル、キリスト教会、労働運動そして山口文象という、一見したところ関係があるとは思えない人物と事柄が、実は深く結びついていることを知って大いに興味がわいた。そこで、ここに素人論考を展覧会の案内のつもりで、素人向きに書くことにした。

 わたしは山口文象についてはそれなりに研究してきたが、コンドルについては建築史ディレタントの域を出ないし、キリスト教と労働運動についてはまったくの門外漢も甚だしい。
 労働運動側の事情については、その歴史館事務局長の間宮さんにうかがった話、友愛労働歴史館サイトにある各種の資料、『財団法人日本労働会館六十年史』(1991、渡辺悦次著、日本労働会館)などを主な資料として記述する。

以下全文は「J・コンドルの和風建築と山口文象のモダン建築の出会い
https://sites.google.com/site/dateyg/seiunso