2011/01/31

372暖尻便座

 腰掛型便器の尻の当るところを便座と言うらしいが、ここにヒーターを備えて暖かくした「暖房便座」なるものが普及したのは当然であろう。
 文字通り便を利する便利なものである。あのヒヤッとしたのが清潔感があるといっても、冷たさには負ける。
 で、メーカーがつけた名称が「暖房便座」というのだが、不思議なのは、いくら設置する部屋が狭いといっても、あんなちゃちなもので房つまり部屋まで温まる「暖房」になるものだろうか。
 わたしの住む家にもあるが、そのものは暖かくても、暖房になっていることはない。
 もしも便座で暖房できるほどに熱くしたら、尻をやけどするにきまっている。
 名称を暖房便座ではなくて、暖尻便座に変えるべきである。
 誇大広告であるとしか思えないのだが、消費者庁はどうして取り締まらないのだろうか。
 それとも、わたしの家のものが尻だけ温かい欠陥商品なのだろうか。
   ◆
 コタツは暖房器具かという問題もある。たしかに60センチ四方の布団の中の部屋を暖めるが、あれが暖房器具だろうかなあ。
 アンカはどうか。あれも布団の中の20センチ四方ほどの部屋を温めるから暖房器具かしら。
 どちらも正確には暖房ではないから、誇大広告に相当するといってよいだろう。

2011/01/30

371歯抜け爺

 わたしの口中の唯一の義歯であった一本の前歯が抜けたままで、もう半年である。機能的にはなんの差支えがないが、容姿がちょっと気になる。大口を開いて笑いたくない。
 歯医者が言うには義歯を入れるには、ブリッジとか言って義歯の両側の歯を切って、3本くっついた義歯を作り、両側をきった歯の根につけるのだそうだ。まだなんともない歯を2本も切るのに抵抗があって、そのままにしてきた。
 歯抜け爺にはよく出会うものだが、自分がなってみてこういうことから起きると分ったのである。
 45年くらい前に名古屋の繁華街の真ん中で転んで、立ち上がったけどどこも傷はないが、しばらく歩いていて前歯がないことに気がついた。妙な転び方をしたものであるが、差し歯をした。
 この抜けた前歯の義歯は2代目で、はじめのは10年足らずで外れて、新しく入れなおした。だからこれは35年くらいもったことになる。
 これから入れる義歯が35年もっても、そのかなり前にわたしは必ず死ぬはずだ。さて、ブリッジなる義歯を入れたものかどうか悩んでいる。

2011/01/25

370参詣道

江ノ島に久しぶりに行った。橋を渡っての門前町の賑わいは、平日なので今ひとつであった。

 ここの門前町の風景は清水のそれとよく似ている。わずかに曲りつつもだらだらとした狭い登り坂の両側に土産物屋が並び、向うに目的の神社の鳥居や門が見え隠れする。

 この賑わいと見え隠れが、歩いていて楽しいし、参詣する社寺の境内へと誘導してくれる。

 浅草観音や長野善光寺も坂ではないが、両側の土産物屋の賑わいの向うに大屋根がいつも見えている。この両方とも軸線が明快で、いつも目的が見えているのがちょっとつまらない。
四国の金毘羅神社の参道は、長くて変化のある楽しい階段坂道が続いていて、わたしは大好きである。

 しかしそれは上のほうであって、下のほうの両側に商店が並ぶ石段の坂道あたりは、日よけがいっぱいぶら下がったり天井を作っていて、先がまったく見えないので楽しくない。

 商業主義で参詣道の本質を殺してはいけない。

2011/01/23

369Eメールのお行儀

 酔っ払ってEメールを送らないこと、これは自戒である。むかし、酔っ払いメールを送って、その書き方でトラブルになったことがある。
 でも問題は、酔っ払うと自戒を忘れてしまうことである。PCに自戒を書いた紙を貼り付けていても、見るのを忘れる。どうしようもない。
 Eメールの書き方については、まだルールができていないようだ。お行儀が悪いものがおおい。
 わたしがEメールを始めたのは30年も前のワープロ通信時代からだから、経歴は長い。Eメールも手紙の一種として、その書き方をEメール流にアレンジしている。
 しかし世の中には、手紙を書く習慣を忘れたか、もともと知らないか、そういう時代だからか、手紙ならぜったにしないだろうとおもう文章が来たりする。
 句読点もない、改行もないだらだら文章や、親しくもないのにガキが使うような挨拶文句だったり、目上には使わない言葉遣いだったりするのだ。
 出すほうはそれでよいと思っているから、どうしようもない。いちいち教えるのもアホらしいから、苦笑するだけである。
    ◆
 いわゆる迷惑メールは排除システムができたから昔のようにいちいち消す必要はなくなったが、腹が立つのは、手紙でダイレクトメールに相当する、宣伝メールである。
 勝手に送ってきて、これから送ってほしくないならその手続きをしろ、と言う失礼なヤツである。即座に迷惑メールに登録して以後届かないようにしてしまう。
 それにしても、迷惑メールの多さはすごいものである。題名だけ読んでもいろいろあるから同じやつが送っているのではないらしい。
 あんなにたくさん送るのは自動でアドレスを採集し自働で送信するのだろうが、もとの文章は誰かが書いているのだろうから、なんとまあ熱心なものである。あれでひっかかる人がいるものだろうか、そこが不思議である。
 手紙の書き方、Eメールの書き方を、家庭や学校でちゃんと教えなければならない時代になっているが、やっているのだろうか。
 あ、そうか、教える世代がメールを使えないのかもなあ。

2011/01/17

368大雪の賽の神とお茶会

 今年の新潟は昨冬にも増しての大雪、その長岡の法末集落の小正月年中行事に行ってきた。
 わたしたちの震災復興支援仲間の活動拠点の「へんなかフェ」は、すっかり雪のふとんをかぶり、雪の綿の中に沈みこんでいる。玄関にたどりつくにはその雪をかき分けかき分けて、谷間のような廊下のような道をつくらねばならない。
 外の集落の道ももちろんどこもかしこも真っ白な谷間の廊下である。除雪車が毎日走って壁はどんどん高く、谷間はどんどん深くなる。
 久しぶりに大好きな囲炉裏に炭火をおこして粟餅を焼く。この餅は仲間が粟の実を畑に蒔くところからはじめてつくったものである。美味い。
 もちろんこれで暖をとるには寒すぎるか石油ストーブが燃えている。わたしは炭火をおこし、その火を見るのが好きなのである。ほかの仲間はどうも興味は無いらしい。
    ◆
 集落の小正月の行事は、賽の神という。
 会場は、集落の中ほどにある森の中のキャンプ場で、雪を均してある。朝早くから集落の家々から稲藁を持ち寄ってくる。
 集落の男達は、てっぺんに葉を残した竹竿を雪中に数本立てて、これに稲藁を添えて縄でまきつけて8mほどの上すぼまりの塔状に仕立てる。
 わたしたちも田圃の米つくりでとっておいたたくさんの藁束を、橇に載せて曳いて持って行った。10時半ごろ塔は建ちあがった。
 午後一時から行事を開始とて、集落の人たち、今日の行事に里帰りしてきた子供連れの家族、そしてわたしたち震災復興応援団17名も混じって、総勢40人余が取り囲む中を、恒例により年男二人が塔の裾の稲藁に点火した。
 配られたコップ酒の越の寒梅をそれぞれ手に持って、燃え上がる火を見つめる。
 90歳の長老が集落独自の祝い歌「天神囃子」のゆったりとうたい始めると、それに合わせてみんなで歌う。
 炎と勢いよく燃えあがり、森の中に煙が舞うと、黒い灰がみんなの上に降り、あたり白い雪も灰色になってくる。
 この灰を身にかぶり、コップに入った灰を酒と一緒に飲むと今年は健康に過ごすことができるのである。
 雪の上に立っったままでガヤガヤとしゃべりつつ、酒を飲み、火で焼いたするめや餅を食べる。
 集落にはいつもはいない少年や幼児たちが、よろこんで走り回っている。
 身内に不幸があった人たちは不参加なので、今年はなんだか参加者が減ったような感じである。
 いつも陽気な何でも知っている主婦のTさんが暮に逝った。歌の上手い長老のKさんは寝込んでいるそうだ。集落のリーダー格のSさん夫妻は、親戚の不幸で遠出だそうだ。
 でも元気な子供、幼児がやってきてよかった。
 降るったりやんだりの雪の日の賽の神のときだけ晴れ間が見えたのが不思議である。
 1時間ほどで藁の塔は焼けおちてしまって、解散。
    ◆
 さてその後は、新年大茶会である。
 これは賽の神のような伝統行事ではないが、仲間の女性建築家たちに茶道の心得のあるものたちがいて、5年前からはじめたのだ。今では集落の年中行事になっている。
 元小学校の「やまびこ荘」の食堂に集った一同は、神妙に机にむかって腰を掛け、正面で立礼式でお茶をたてている和服の女性たちのお手前を神妙に見ている。
 やがて配られたお菓子、抹茶をいただく。これを始めた頃はみんな戸惑っていたが、今は、お作法にそって堂々といただいている。
 幼児たちも神妙に、大きな抹茶茶碗に顔を突っ込むようにして飲んでいる。男の子は、ニガ~イとすぐ口を離して顔をしかめ、女の子はオイシ~イと飲んでいるのがおかしい。
 外は雪や霰の吹雪が降ったりやんだり、時には青空も見えたりと忙しく天候が変わっている。冬の中越のいつもの天気である。

参照→豪雪の山村で考えこんだ

2011/01/14

367伊達直人さん

 最近なんだか新聞やTVで、伊達直人なる名がしきりに出てくる。
 伊達公子と菅直人がくっついたのかしらと思ったら、タイガーマスクがどうのこうのという。
 インフルエンザが流行るから、なにか特に効き目のあるマスクが売り出されたかしらと思ったら、マンガの主人公の名らしい。
 じゃあ伊達直人は主人公じゃないのかしら。
 よく分らぬが、善意であっても伊達なる名を詐称する人が多くなるのは、ホンモノの伊達としては困ったものである。
 いや、イタチとかイダテとか読む人が少なくなるからよしとするか。
 ところで本名が伊達直人っていうひとがいたら、ほんとにあれこれ困るだろうなあ。

2011/01/10

366ネパールへ行こう

 大学同期の友人からネパールに行こうと誘われた。ちょっと考ええすぐに、よし、行こうと返事をした。
 いつか行けるからそのうちに、なんて思っている時間はない年頃だから、できそうなことならあまり分別もなく実行するのだ。
 この前の海外旅行は2007年にヨーロッパアルプスだった。そのときもそんな感じではあったが、大学山岳部のときのあこがれを満たす目的に適う旅であった。
 こんども同じような憧れを満たす目的に適うらしいのは、ヒマラヤがすぐそばだからトレッキングにいけるかもしれない、いけなくてもダウラギリやマナスルをこの目で拝むことはできる。
 商業ツアーではなくて、何かボランティア団体に関連するひとが個人的に企画しているらしいが、実はよくわかっていない。誘ってくれた親友が,以前にもそれで行ったというから、信用していくことにした。
   ◆
 概略旅程は次のとおり。
 関西空港→バンコク→カトマンズ→タラコット→ポカラ→ルンビニ→カトマンズ→バンコク→関西空港(3月28日~4月5日)
 カトマンズとポカラではヒマラヤにトレッキングかヒマラヤ飛行機遊覧か、ぜひやりたい。大学時代の憧れを満たしたいのである。
 カトマンズでは迷路のような町をうろうろと歩いてみたい。わたしの大学での研究指導教官であった恩師の藤岡通夫先生は、ネパール王宮の研究をなさっていたことを思い出したので、王宮を訪ねたい。
 釈迦の生誕地ルンビニ訪問は、わたしには釈迦生誕地としてはまるで興味がわかない。
     ◆
 ネパールに行こうと思うと建築同期の友人に話したら、同じく同期の親友であった建築家の後藤宣夫が、設計監理担当した博物館の建物がルンビニにあると教えてくれた。
 2000年になくなった後藤宣夫は、丹下健三事務所の在籍していた1984年に現地に滞在してこれに携わったと、彼の作品集の年譜にもある。
 釈迦が生まれた聖地を「ルンビニ園」として整備する計画を、丹下健三がマスタープランを作成したのだ。その中にルンビニ博物館がある。
 ネット検索したら見つかった。
・Lumbini Museum
http://daishinji.net/essay/lumbini.shtml
http://www.panoramio.com/photo/15251567
 ボールトの連続デザインは、なんだかルイス・カーンを連想させるが、この地域のデザインモチーフは共通するのだろうか。行って見れば分るだろう。
 隣に国際研究所なる建物もあり、ソックリのデザインだからこちらも後藤担当だろう。
・Lumbini International Research Institute
http://www.panoramio.com/photo/4755616
 釈迦の誕生地なんてまったく興味なかったが、これで楽しみになった。
   ◆
 昨日、黄金町にあるアート系の古書店にフラリと入って棚を見ていたら、おや、藤岡先生の書いた「ネパール建築逍遙」がある。見覚えのある本なので家の本棚にあるかもしれないが、偶然ながらタイミングがよすぎて、これはなにかのお導きだろうと1000円で買った。
 実はそのときまで忘れていたのだが、上に書いたように恩師はネパール建築の研究者でもあったのだった。
 美術出版社から発刊した分厚い大きな高価なネパール王宮の研究書があったような気がする。もしかしたら買ったかもしれないとわたしの書棚を探したがそれはなくて、おなじような高価な本の「京都御所」はあった。
 ネパールも実はちょっと身近になった。
 旅に出る前に事前勉強をしない主義できたのだが、こんどはちょっと勉強して行こうと思う。

2011/01/08

365横浜ご近所再開発2011正月

 伊勢佐木モールの中ほどの伊勢佐木町三丁目にあった4階建てのビルが取り壊されたのは一昨年末頃だったろうか。
 その大きな跡りはしばらく放置されていたが、去年の中ごろだったろうか工事が始まって、やっぱり4階建てくらいのビルができたらしいのだが、全面的に仮囲いをしたままなかなか正体を現さない。
 工事標識にもビル名は書いてあるが用途が書いてない。仮囲いの隙間から見ると、どうもパチンコ屋かゲームセンターのような派手な装飾がしてある。ネオンかんばんもついているのに、いつまでたっても囲いが取れないので、よほど内装に金を掛けている水商売ビルだろうと思っていた。
 今日そばを通って囲いの隙間から覗いたら、ビルの中間あたりがなくて青空が見えている。床スラブと鉄骨梁が妙に壊れた風に見えている。削岩機で壊している音が高い。
 えっ、なんだろうと思って囲いにある道路専用許可標識を念入りに見たら、なんと解体工事と書いてある。本日の工事なるお知らせにも、屋上スラブ撤去搬出と書いてある。
 できたばかりなのにもう解体しているのである。何があったのだろうか。確認建築確認済みとも書いてあるのだから、違反建築ってことはないだろうから、事業者の都合なのか??
    ◆
 さてこちらは富士見町にある共同住宅だが、2階の床までコンクリートを打ってそれから1年ほど工事が止まっていた。
 どうなるのだろうかと思っていたら、つぶれた跡を買い取ったデベロッパーがいたらしく、工事を再開した。3回床まで型枠工事が始まってうるさい音がする。
    ◆
 もうひとつ山田町のペンシルビルは、順調に工事が進んで8階までコンクリートがうち終わって大きさが分った。
 こうやって見ると左右のペンシルビルよりはかなり高い。容積率の緩和策が出る以前のビルと、緩和後の今との差だろうか。
 なんにしてもすぐ裏宅地の隣接共同住宅は、まったく日が当たらないビルになってしまった。このような住宅は今後どうなるのだろうか。低家賃にして賃貸市場に出すと借りる人がいるとしても、低収入階層にならざるを得ないだろう。寿町の延長上か。
 地域社会の形成を建築市場との関係でとらえる社会学的研究はあるのだろうか。

2011/01/07

364東京駅の移り変わりを追う


正月が終わって久しぶりに東京に出かける用事あり、ついでだから東京駅まで行ってきた。このあたりの変遷を追いかけていて、わたしのサイトに何度も写真を載せているが、また載せる。
 丸の内側は赤煉瓦駅舎の大改造中で、仮囲いと工事幕ばかりでどうにもしょうがない。工事現場風景の好きな人には、この変遷を追いかけるのも面白いだろう。
 大丸11階の便所の窓からまたも写真を撮ってきたので、1987年の旧大丸屋上から撮った写真とを見比べる。87年の写真は左右二つの違うアングルの別の写真をつないでいるので、よくみると若干変なところがあるのでご注意。
2010年1月6日

1987年10月3日

 八重洲側は旧大丸の入っていた鉄道会館がソックリ消えて、新幹線が丸見えになっている。やがてここにも何かが立つらしいから、この風景もそのうちに変わってしまう。

2010年1月6日

1987年8月26日

 赤煉瓦駅舎の復原工事が今たけなわであるが、保全から復原への論理が明確でないままに進んでいるようだ。復元(復原)は善であるという妄信的な何かが働いて、あの貴重な太平洋戦争とその戦後復興の歴史を表現する東京駅の戦後の見事な修復の姿を、すっかり消滅させて省みない建築界が奇妙である。
 東京駅に関しては、わたしは1986年から仕事で調査(建設省と国土庁からの委託)をして、1988年に赤煉瓦駅舎保全を決めたレポートをつくったので、その間の動きの内幕をある程度知っている。
 わたしも古老となったので、後世のためにそのあたりの経緯など書いておいて、保全と復原・復元の問題点を指摘するべく、当時の資料も机の上とPCにあるのだが、論としてまとめるのになかなか手がつかないでいる。
 これを書くとわたしの人生の宿題が終わるような気がしているからである。
あ、そうか、年寄りのケチと出し惜しみとは、こういうことが元にあるのか、?
 でも今年こそまとめよう、東京駅復原工事が終わる前に。

参照→
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2011/01/01

363謹賀新年

 今年という年が始まった。地球が回って365日前からちょうど一周したというだけだといえば、それだけのこと。なにもかわりはありはしない。
 若いときからずっとそう思っていたが、年とってくるとすこしは何か思わないとバカにされそうな気がしてきた。
 バカにされてもかまわぬが、バカにされる前に、なんだか年が改まるってことについて、なにかを感じるようになってきた。
 つまり、人生の残り時間が少なくなってきて、この今日という冬の日(春でも夏の日でも良いのだが)と同じような日が、次の地球1周目にもあるかどうか分らない、となるとこの年の改まる日も次はないかもしれないと、そう思い出したのだ。
 人生にまったく同じことはないが、同じようなことはあるだろう。今はこれができなくても、いつの日にかそのようなことができる機会が来るに違いないと希望を持って、また次の日から生きてきたのだが、年とると次の機会がない可能性が高いのである。
 これはどうもちょっと弱ったことである。
 これに対処するには、何でも思いついたらすぐにやる、これしかないと気がついた。無鉄砲でもなんでも、今やるしかない。これがことしのわたしの人生訓である。
 う~む、こうやって“憎まれっ爺 世に憚る”のであるか。
 さて、では今年の思いつきは最後の海外旅行だな、それもちょっとアブナイヤツをね。
 というわけで、不良老年思いつき行動煽動の年賀状とあいなりました。
 今年もまた退屈しない1年でありますように。ぜんぜん年賀じゃないな。