2023/06/30

1696【コロナ×プーチン二重禍】あの腹ペコ時代の嫌な記憶が脳裏に浮かぶ嫌な危ない世になりつつある

 今日は6月30日、今年も半分になってしまった。今年もコロナとウクライナで明け暮れしてきた。

 それがちょっと様子が変わってきたのは、コロナの影が薄れてきた感があることだ。このブログに毎月初めと中間にコロナにいちゃもん付けてきていたが、5月8日に書いて以来、もう50日も書いていないのは、なんだかよく分からないからだ。

●コロナウィルスはこれでいいのかい

 分からなさの一番は、コロナの法律上のレベルを2級から5級に格下げしたことだ。コロナというものは人間の階級ではなくて、ウィルスという別世界の階級だと思っていたら、やはり人間の階級でいいのか、そこがよく分からない。コロナの方がキョトンとしているような気がする。

 ついこの間までは「マスクしろ、つい立てを立てろ」だったのが、ある日を境に「もう勝手にせい」と決まるのも不可解である。その日からパタッとコロナが消えるのかしら。
 でもまあ、コロナ禍の最中もコロナにかからないで、勝手に生きてきたからよかったと思おう。もう自由に集まってよし、あちこち旅行にでかけてよし、とのことで、けっこうなことである。

 でも、わたしのような超高齢者にはけっこうでもないのである。さあ、これからは仲間と飲み会しようと張り切ったら、コロナ中に飲み仲間の同輩たちがあの世に行ったり、もう飲めなくなったとて、元に戻らないのである。

 わたしも酒飲む気がしなくなったし、遠方に出かける気力を失ったのは、この3年間の強制的な逼塞がもたらしたものである。
 若者には取り戻せても、年寄りはそうはいかない。明確にこの3年という、人生の最晩年におけるまだ多少は飲みかつ旅に出る能力を、コロナに奪われてしまったのだ。
 そのむかし、日本が戦争していたころに、若者が戦場で命を失って人生を取り戻せなかったのと同じで、今、年寄りに貴重な元気な晩年を奪われたのである。しっかりと愚痴を言っておくのだ。

 それにしてもわたしの年代は、生まれたのが日中戦争たけなわ時で、物心ついたら太平洋戦争に入ったらすぐ敗北という、最悪の世の中に少年期を送ったのだ。腹ペコほど人間をあさましくするものはないことを見てきた。

 考えようによっては、最低の社会にいたのだから、その後の人生は良くなるしかなかったのだ。何をやってもとりあえずはそれまでよりは良くなった、と言えるような社会であった。別の言い方をすれば、最低の社会ばかりを追いかけていたと言える不幸だった。

 そして今のわが人生は、コロナウィルス禍とプーチン戦争禍のダブル禍の社会に回帰してきたのだから、大いに愚痴をこう言いたいのだ。

ああ、2019年中に死んでおけばよかった

 コロナが第9波になってて戻って来つつあるらしく、年末にはベートーベンとダブル第九で大いに波が盛り上がるかもしれない。プーチン戦争は核爆弾が登場するかも知れない。
 その2重禍がおきれば、またまたどん底の時が来るだろう。またあの時代かよう、、父を取られ、空爆、腹ペコ、大人たちの豹変、ああ思い出してもいやだいやだ

ネット空間を捜索してもこんないい加減なグラフしか見つからない。これでいいのか。


●ウクプー戦争は裏切りもある佳境の先は

 さて、今年半ばのウクライナプーチン戦争はどうなっているのか。遠くの戦況はよく分からぬが、先般はドニアプルという対岸にある人口のダムが破壊されて、ダム湖から流れ出る水で大水害が起きたとのこと。この犯行元がロシアかウクライナか押し付けあっているようだ。
 これが戦況にどう反映しているのか知らないが、広大なる被害が生じているらしく、それは核発電所事故を想起させる。

ウクライナ領土争奪模様1年半 20220224~20230629

 つい先日は、例の民間戦争屋ワグネルが、プーチンに対してクーデターを起こそうとした
事件があった。「敵はクレムリン本能寺にあり」とて明智プリゴジンがワグネルを率いてモスクワに攻め上ろうとしたのである。
 もっともベラルーシのルカセンコがプリゴジン説得に成功し、2日で腰砕けになったプリ親分はベラルーシに亡命したそうだ。光秀とは異なり、幕間のピエロだったか。

 だが、プーチンの統治能力の衰えを示すことになったようで、ウクライナを奮い立たせたことだろう。これが戦況にどう影響sるのだろうか。

 日本の政治にいま影響がでてきたのは、日本産の武器輸出の制限を緩和しようとの動きが与党にあることだ。殺生能力のある武器も輸出可能にするとて、それの元はアメリカに追随してウクライナへの武器支援のためであり、実は台湾有事という中国の軍事台頭により起こるであろうアジア戦争への対応であるようだ。もちろん日本も兵器産業の大きな要望でもあるに違いない。きな臭いことになってきた。

 そして戦争に慣れてくるのが怖い。ツイッターに塹壕のロシア兵を攻撃するドローンによる動画がいくつも登場する。去年中ころまでは嫌な気分で観ないようにしていたが、今は見慣れて長く見ていてハッとして、そんな自分を嫌になる。

 ああ、いやだいやだ、またあの腹ペコ時代がやってくる、早く逃げ出すしかない、その方が幸福だろうなあ。

(20230630記)


2023/06/27

1695【超高齢人生仕舞どたばた】金融機関の口座を解約するのも人生仕舞の面倒事でボケ遅延になる

 超高齢者になって先が短いので、その前にいろいろやることがある。いつかやるときが来ると思っていたが、本当にやってきた。そのドタバタがボケ防止にもなる。
 ネットのこととカネのことが面倒そうだ。とりあえずカネのことで、金融機関との取引を絞り込む、つまり預金通帳の整理である。

 最初に勤務した小さな設計事務所から、曲りなりにも給与が入るようになって(遅延もあった)、初めて口座を持った。それからいろいろとあるたびに預金口座をつくることがあり、なんだかんだと20件くらいの金融機と関係したような気がする。

 今に手元にあるカードと通帳を見ると、Y、M、J.Sの4件だが、ほかのそれをどう始末したか解約の記憶がない。多分それぞれに僅かに預金が残っていただろうが、今はそれらの金融機関あるいは国庫に帰属したのだろう。
 その手元に残る4件のうちでも、預金があって使っているのはYの一件だけ、理由は一番近所だからである。
 実はY以外の口座については、もう3年以上も利用していない。整理してYだけにしようと他の解約手続きに取りかかった。そのドタバタと書いておく。

 まずJを解約に行った。通帳とカードと身分証明書を持って行けば済むと持ったら、印鑑を持ってこいと言われて、第1回は敗退した。
 ながらく使わないからどこに置いたか忘れた印鑑をようやく探しだして、次の日に持って行ったら、待つことなく20分ほどで解約手続きは終了した。意外に早いと思い、その足でMに向かった。

 メガバンクは面倒なようで、信金のJのようには簡単に取り掛かってくれない。あれこれロビーの係員と長々と話し込むこむことになった。よく分からないが、手帳は一つなのに口座が普通預金と貯蓄預金と二つあるらしい。どう違うのか説明を受けて知ったような気がしたが実はよく分からない。もうどうでもよい。とにかく二つの解約手続きが要るらしい。

 そしてここまで来るのにもう30分もかかっている。超久しぶりの銀行のわたしが好奇心もあり、応対に気になることもあり、いかにも年寄りらしいいちゃもん付けたりしたからである。例えば言葉遣い(人間と機械のどちらも)とか。

 そして手続きにはさらに1時間半かかるというのである。いい加減にせい、と腹が立ってきた。
 「先ほどJで解約手続きしたけど20分ほどでできたぞ」「こちらは信金より大きくて大勢に利用者がおられますので、、」「う~む、今日は用事があるから出直してくるよ、ところで解約しないならこのまま使えるのですね、それなら待たなくても済むからそうしますよ」「いえ、それができないのです」「え、なぜ?」
 何年か利用しないと口座をストップするとて、わたしのそれは今は使えないのだと言う。見れば680円の預金があるのに、、。

 ヤレヤレ、もうどうでもいいやとは思えども、このままでは癪なのでどうしようと考えていると、次に来るなら予約すれば早くできると教えてくれた。
 それならそうしよう、今日はここまで進んだのだから、次は残り時間で済むんだなと納得して、次の週に予約をして帰宅した。

 さて次の週の約束に時間に再びMを訪問、今回はすぐにできると思った期待はすぐに外れて、予約で早くなるのは受付だけで、手続きが早くなるのではないという。
 「そりゃ約束が違うでしょ」「いえ、そう申し上げました、こちらの控え手様にもそう書いております」「そりゃ書き間違いでしょ」「いえ、、、」
 大人のはしたない論争は時間の無駄なのですぐに切り上げ、さっそく仕事にかかる。普通預金はそのままで復活するが、貯蓄予期口座の解約手続きが必要とて、また1時間半待ってくれ、その辺に出て外で時間つぶししてくれもよいという。

 「おいおい、ここで待ってても面白いこともないし、家には病人がいるからいったん帰宅して出直して来るよ、何時にくれば良いのか」「1時間半くらい後で、午後3時までにおいでください」「ハイ、もしも明日になってもよいですね」「いえ、明日になるとまたやり直しになります」「エ~ッ、今日なら代理に息子でもよいか」「ハイよろしいです」

 結局15時少し前にまたMを訪問、これで先週から3回目であるが、ようやく手続きは終わった。係の人に手伝ってもらってネットバンキングができるように設定した。遠くになったが、これからはパソコンでやることにするのだ。初めは解約するつもりが結局はこうなったのである。3回も通って面倒だったが、ボケ進行遅延策になったことは確かである。

 Mの店で待つ間に見回していていたら、壁や柱や天井に見えるだけで13個ものカメラのレンズがこちらを監視している。こうやって見回しているわたしを不審な奴だと記録したに違いない。それにしても殺風景極まるインテリアである。

 さて、もう一つのSの口座解約はいまだにできていない。Y駅前にあったと記憶しているSの店を訪ねたら、なんとまあ郵便局に変身していた。
 経営に問題あると噂のS銀行は、日本郵政に吸収されたのか、それならニュースになるはずだが知らない。どこかに移転したのだろうと、駅前を徘徊して探したが見つけられない。あとから思いついてネット検索したら、最近できた駅ビルの17階に移ったとて、これでは街に見つからないはず、出直していこう。

(20230627記)

2023/06/26

1694【能楽鑑賞】三十年ぶりに能「二人静」を観てきた

 横浜能楽堂で能「二人静」(ふたりしずか)を観てきた。この能を観るのは3回目である。最初は1993年2月4日青山の銕仙会舞台での公演で、シテ野村四郎、ツレ清水寛二だった。これが実に強く印象に残っていて、かなり細部まで覚えている。
 実はその時に密かに録音したテープもあり、もう100回くらいは繰り返して聞いている。もう一回はどこで観たか記憶がない。

 今日の「二人静」は、喜多流であった。初めに歌人の馬場あき子さんと古典芸能解説者との肩書の葛西聖司さんの対談があった。というよりも、葛西さんは馬場さんの話の引き出し役だった。葛西さんはむかしNHKTVの古典芸能担当の司会アナウンサーだった記憶がある。

 馬場さんの解説は、これまで何回かこの能楽堂で聞いていて、なかなかに含蓄があり、興味深いものがある。今日も面白かったが、馬場さんの解説の解説が入る葛西さんが邪魔な感もあった。
 ひとつどうも気に入らない彼の言動があった。何かの話の途中で、「ハイ、こちら95歳で~す」と、いかにも歳にしては若いだろうと言外の動作に込めて、笑いを取るのである。
 馬場さんはちょっと見には謙遜している様子にみえたが、あれは明らかに迷惑がっていると、こちらが超高齢者だからよく分かる。年寄りの癖に若くて何がいけないんだよ、大きなお世話だよ、文句のひとつもを言いたいのだ。

 ところで、馬場さんもこれまで「二人静」を観たのは2回だけとのこと、10歳も年上の馬場さんがわたし同じ回数とは、どうでもよいことだが、なんだか近しいと感じる。ということは、あまり演じられない曲であるのか。
 それにしても馬場さんは今95歳だそうだが、その博識や論評はもちろんだが、切戸口からの舞台登場と退場の所作も舞台上の椅子で語る姿勢もキリリとしていて、口調も滑舌であることにただただ見とれる。こうありたいと思わされる数少ない超高齢者である。

 今日のシテの佐々木多門(1972~)もツレの大島輝久(1942~)も初めて観る能役者である。横浜能楽堂の企画で、馬場さんが推した「この人この一曲」であるとのこと。わたしから言えば、能役者よりもこの曲と馬場あき子と組合せを気にいって観に来たのだ。

横浜能楽堂サイトより引用

 能役者の上手下手は、よほどの下手でないとわたしには見分ける能力がない。二人静の見せどころの相舞は、それなりに合致していたのだろうが、良し悪しを言えない。
 このたびの座席の位置が、脇正面の橋掛かりから3列目後方から2列目で、これほど隅っこで観たのは初めてだった。鏡の間の気配を感じるし、登場する役者やその装束をごく近くで見ることができて、それなりに面白かった。

 この席からは舞台を真横で見ることになり、能の見巧者には能役者の所作の良しあしがよく分かるのだそうだ。観られる役者にはいやなものであるらしい。今日はその席で観たのだが、舞台正面に向かった並んで舞うシテとツレのふたりの動きを、真横から観るとほとんど重なっている。ふたりの相舞がぴったりと合致するとほぼ一人に見える。逆に一致しないと、ばらばらに見えることになるが、それをいかに面白がるか。

 多分、基本はぴったりと重なるように舞うべきなのだろうが、実際に見ていると重ならない方が面白い。二人が同じ動きをするのだが、それが微妙に時間差があって位置がずれると、舞台に奥行きが生じてくる。その時、その動きの違いを計測するが如くに観ていると、舞台に深みが生じるようだ。 

 能開演前の馬場さんの、二人静について大昔こんなことがあったとの話のひとつ。
 不仲の師弟の役者がシテとツレを演じた相舞で全く反対の舞をしたという昔人の書き残した話題を述べて、それも小書きになると面白いのに、と笑うのだった。
 やはり正面からあの華やかな装束が二つも舞台に左右に広がって、同じ様にきらめきながら二つ蝶のごとくに舞い続ける姿を観る方が良いと思った。あるいは見巧者になると、脇正面から観てその相舞のずれ具合の美しさを楽しむようになるのかもしれない。

 30年も前に見たシテ野村四郎の「二人静」では、舞台上にいるツレが、橋掛かり途中に腰掛けるシテの動きに操られているように動く、いや、動かされる印象的な場面があった記憶がある。でも今回それはなかったが、そのような演出もあることを、事前の馬場さんの話にあったから、わたしの記憶は確かなものと確認した。

 そういえば思い出した。その野村四郎シテの「二人静」を見てから10年以上たっていたころだが、その謡を習うことになり、ようやく謡本の1級に到達したのだ。
 その稽古の初めにわたしはこの曲の師の舞台を観たことを得意げに話したら、すぐにわたしの一部記憶間違いを指摘された。そうか、観た方よりも舞った方がよく覚えているのは当然だろうが、プロは自分の全部の舞台を細部まで覚えているものなのかと、ちょっと驚いたことがあった。その師もコロナ中に去ってもういない。

能「二人静」(喜多流)   主催:横浜能楽堂主催

私が選んだ訳」 馬場あき子(歌人)、聞き手:葛西聖司

シテ(静の霊)佐々木多門
ツレ(菜摘女)大島輝久
ワキ(勝手神社の神職)大日方寛
アイ(従者)野村拳之介
笛: 一噌隆之
小鼓: 飯田清一
大鼓: 佃良太郎
後見: 塩津哲生  狩野了一
地謡: 出雲康雅、長島茂、内田成信、金子敬一郎
    友枝真也、塩津圭介、佐藤寛泰、谷友矩

 横浜能楽堂は、自宅から近くて都心隠居の身には願ったり叶ったりの所だったが、改装のために1年ばかり休場するとのこと。
 コロナでながらく休場状態だったのにまた休場とて、年寄りにはまことに困る。休場が明けたころには、こちらの足腰が立たなくなっている可能性があるからだ。
 コロナで逼塞させられている間に、年寄りは再起不能になってしまい、まだ動けるし好奇心もある晩年の貴重な時間を奪われてしまう不幸に出くわした。もう取り戻せないのだ。

(20230625記)

筆者の能楽鑑賞記録一覧「趣味の能楽鑑賞瓢論集


1693【外苑再開発騒動】イチョウ並木に導かれる視線の向こうにあるもの

 ●外苑イチョウ並木は不自然だ

 ここに二つの並木道の写真がある。これら両側に並ぶ街路樹はどちらもイチョウである。同じ樹種なのに、こうも姿が異なる。

東京の神宮外苑イチョウ並木 先端が鋭く立ち上がる人工的円錐形
視線の先の記念館に向けて一つに集中する消失点の一点透視図法の配置設計

横浜の日本大通りイチョウ並木 こんもりと繁る自然な姿
これと比べると外苑イチョウ並木の人工性がよく分かる

 街路樹はもちろん植物だから、その生態的に定まっている姿で育つ。枝葉の張り方による外形が最もそれをよく表現するものであり、そのままならばそれぞれ本来の葉張りの形態に育つものである。
 ところが人間はえてして自分の好みの形の葉張りを要求する。そのためには枝葉を切りそこれを剪定して人間が望む姿にする。上のふたつの写真のイチョウの木の姿は、どちらが本来の姿でどちらが人間がつくった姿であろうか。もちろん上が人口の姿、下が自然(に近い)の姿である。

 わたしの生家は神社の森の中にあった。森の一部を切り開いた広場にイチョウの巨樹があった。大人3人が手をつないで抱えるほどの太さで、高さは30mもあったろうか、大きく広く枝葉が繁っていた。秋には金色の実と葉が境内地に舞い散り落ちていた。少年のころのある日、地面を打つ大音響とともに切り倒された(参照:大銀杏が死んだ日:伊達美徳)。
 そのイチョウの大木の姿を思い出せば、あまりの巨樹で剪定しようもなかったから、というよりも広い境内で剪定の必要がなかったろうが、枝葉は自由に左右に空に向かって広がっていた。上の写真の日本大通りのイチョウの姿に近く、外苑のそれではなかった。

 今、神宮外苑再開発事業に伴ってイチョウ並木が枯れるかもしれないと、「あの美しい緑の自然環境を傷つける再開発」のような言説が、世間(といっても東京あたりだけだが)でやかましい状況にある。
 あのイチョウ並木は自然環境であろうか。あの円錐形の姿で行儀よく並び、しかも絵画館に近いほど背が低くなるように先手して、パースペクティブを効かせた姿は、自然とは到底言えない。そうなるには4年ごとに人間が手を入れて枝葉を切り刻んであの形に仕立てる剪定を行うるからである(明治神宮のネット記事)。自然環境には直線は存在しない。

 ちょっと大げさに言えば、あの姿は不自然そのものの表現である。この街路樹群は最初から傷つけられて育つ運命にあるのだ。だからあのイチョウ並木が枯れてもよいのだと、わたしは言っているのではない。街路樹はもともと自然環境ではない。人工で作り出す疑似自然であり、むしろ文化の所産というべきものだ。つまり生態学的な自然とは峻別して、造園学的な人工自然として対応すべきというのだ。

 それに対して内苑の森は、当初の疑似自然から植生遷移を経て、本来の生態的な自然に限りなく近づいているので、外苑の緑とは当然に対応が異なるものである。(参照【神宮外苑あたり徘徊②】2015伊達美徳)

 余談になるが、自然な樹形として円錐形の並木にしたかったのならば、メタセコイヤ並木にすればよかったのである。横浜の大通公園にはその並木道がある。だが、折下吉延がこのデザインをしたころは、造園界にはメタセコイヤが未発見だったから仕方がない。

横浜大通公園のメタセコイヤ並木 自然な姿の円錐形

●外苑イチョウ並木景観を嫌い

 明治神宮外苑といえば、そのイチョウ並木が名所とされてまるで主役の様に言われることが多いようだ。だがそれは寺社で言えば参道であり、その到達目的が本堂や本殿であるように、ここでも明治天皇事績を描く絵画館が主役であり、参道はそこに至る経路に過ぎない。

 その両側並木の形態と配列に導かれる視線の先には絵画館の坊主頭、これはもっとも簡単な一点透視図法の設計であり、誰にも分かりやすい景観が登場して、人々に印象を深く与えるのであろう。この消失点に向かってわき目も振らずに人々を向かわせようとする基盤には、明治国家とその天皇制があることに留意しなければならない。

 わたしはこの一点に集中させる景観の仕掛けが、実は国家と天皇の権威付けのために作られた仕組みであることに嫌悪を持つのである。権威そのものの景観に嫌気がさしてくるのだ。正に国家の掌に乗せられている空間演出である。

 京都から拉致してきた天皇を中心に据えてカリスマ性を与えて王権国家の樹立に成功した明治政府は、明治天皇の死に次いで登場した後継者が全くカリスマ性を持ちえないことに愕然としたに違いない。
 そこであらためて王権の確認を国民にさせるために、王権から神権の樹立へと格上げをしようと明治神宮造営に政府は動き出した。そして内苑と外苑の神権景観が登場した。

 やがて明治神宮や伊勢神宮を頂点とする国家神道は、戦争駆動装置として日本列島の津々浦々まで、そして植民地にも働くことになる。頂点の明治神宮での著名な戦争駆動イベントに1943年の外苑競技場の学徒出陣壮行会があった。
 わたしは小さな町の神社で生まれ少年期までを過ごした体験からも、こういう手に載せられるのをどうにも好きになれない。だが、東京には王権景観を賛美する場所があちこちにあり、それを行政として維持する仕掛けもある(参照【東京は権威主義景観が好き】2014伊達美徳)。

  わたしは国家や戦争に結びついている外苑の景観を嫌いなことを、2013年からたびたびここに書いてきた(参照:【五輪騒動】神社の境内だから・・2013伊達美徳)。ちかごろ似たようなことを言う人をようやくネットで見つけた(参照:「戦前の勤労奉仕がSDGs」という問題発言を考える 2022古市憲寿)

 もうひとつ気になっていることは、「神宮外苑を国民の自主的な任意の献金と勤労奉仕でつくった」との賛美の言説である。国営の神社建設事業が本当にそうであったのか、調べてみたいと思っている。

(20230626記)

この件に関連する筆者のブログ記事一覧
国立競技場改築・オリンピック開催・外苑再開発騒動瓢論集


2023/06/21

1692【言葉の酔時期:紐づける】既に一般普及用語「リンク」linkがあるのにマイナーカードではなぜ「紐づけ」と言うのか?

 近ごろマイナーカード騒動で、しきりに「ひもづけ」なる言葉が、普通に世の中の人々が知っているがごとくに出現するのが不思議だ。わたしはこれほども長くこの世に生きてきていても、つい3年前までは知らなかった言葉であるだ。

 もちろん「ヒモつき補助金」とか「ヤ―サンのヒモつき娼婦」とかの「ヒモ」は知っていたが、いずれも悪い意味である。それが政府の言う重要政策として堂々とヒモが登場するとは意外である。そこからしてマイナーカードのイメージが悪いけどいいのかしら。

これだけたくさん紐をつけときゃいいね

 そのことは2020年の6月に書いている(参照:ブログ記事)から、詳しくはそちらに譲るが、あらためてネット辞書をあちこち見たら、わたしの知る意味のほかに「IT用語」と書いてある。え?、IT用語のヘンなことは重々承知しているが(参照:IT用語オチョクリ辞典)、これもそうとは初めて知った。
 でも奇妙なのは、ヘンなIT用語はたいていは原文のままにカタカナ用語にしてしまうものだ。ところがこれは「紐付ける」なんて、いかにも和語の語感溢れる日本語に翻訳とはねえ、カタカナ語ではよほど不都合なので「紐づける」なんてのを探し出したのだろう。

 そこで「紐付け」と翻訳前の原語のIT用語はなんというのかと、これもネット辞書をあちこち調べたら、なんとなあ「LINK」とあるのだ。
 え、リンクかよ、それならとっくにカタカナ語のままでで、パソコン用語として使っているポピュラー極まる言葉だよ。
 それなのにどうしてこのマイナ―カードだけは、リンクすると言わないで「紐づける」と言うのだろうか、リンクでどんな不都合があるのだろうか、不思議だ。
 まさかパソコンやスマフォ知らない年寄りに配慮したというのではあるまいな。むしろ年寄りのわたしがこんな「紐づけ」を知らないのだから、配慮の意味がない。

 マイナーカードという行政の重要な事業に関わる用語だから日本語にして、カタカナ用語にしないのだと言うのか。「紐づけ」は法律条文にはないが、こんな事例がある。
 最近できた「性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する法律」にはもの凄いカタカナ語が出現したぞ。よほどの人でないと知らない言葉だろうに、これが法律名でよいのか。
 ずいぶん前にできた「マンションの建替え等の円滑化に関する法律」では、不動産屋の誇大広告用語がそのまま登場なんて、これが法律名で良いのか。なんだかへんだなあ。
 なお、内閣法制局のサイトには、次のように書いてある。「法文における外来語の使用基準は、その言葉が日本語として定着していると言えるか否かという点にあります。」(→こちら参照) 

 だから「紐づけ」なんてイメージ良くない日本語よりも、既にパソコンで普通に使っている「リンクの方がよほど日本語として定着しているから、今からでも遅くないので政府もメディアも「リンク」と言い直しなさいよ。
 ついでに「マイナーカード」(正しくはマイナンバーカード、略してマイナカード、わたしはわざとマイナーカードという)とは、共同住宅をマンションというほどに珍妙だから、これも岸田内閣のメジャー政策に対応して「メジャーカード」に改名はいかが?

狂歌<カード騒動>

トラブルは次第にメジャーになろうともどれもこれもマイナーなこと

マイナーなゼンダーとカード取り纏めアイデンティティ理解増進法を

(20220621記)


2023/06/14

1691【父の遺品】この古そうな懐中時計はいつごろのどこの製品だろうか

 別の探し物をしていて机上の引き出しケース内から、汚れた懐中時計が出てきた。わたしの父(1910-1995)の遺品だが、忘れていた。幼児のころに弄んだような記憶がかすかに湧き出た、いや、母方の実家で玩具としてもらったような、、いまや怪しい。


 文字盤の針は動いていない。長針が無い。裏蓋を開けると透明ガラスの中に、歯車などの精密機械が美しい。竜頭を巻くと二つの歯車がかみ合ってチチチと回る。
 そうしたら動かないはずが、チチチチッチとささやきつつ秒針が回っている。このままずっと続くのだろうか、、アッ止まった、、ちょっと振り回したらまた動きだした、、。


 裏蓋の内側には、中ほどに馬が後脚をはね上げている図が線彫してある。文字は上方に「0.800」(ネットによると銀製品の銀純度8割の意味とある)、下方に「461030」とあるが、ブランド名らしき文字はどこにもない。馬の前足の下に横に細長い長方形があるが中にないもないのは、もしかしてここに何か貼り付けてあったか。


 父の遺品の一つに、蛇腹カメラ(その画像はこれ)があったが、これについてこのブログに書いたら、それを読んだある方からそのブランド名や製作時期などを教えていただいたことがあった。(そのブログはこれ)。
 そのカメラは治しようもなく壊れていたが、この時計は治せば動きそうな気配があるから、今回もどなたか教えてくださる幸運に出会いたい。なお、古物懐中時計をネット検索で探したがあまりに多くて、これと同じものにたどりつく前に疲れてやめてしまった。

(20230614記)

伊達美徳=まちもり散人dateyg@gmail.com
伊達の眼鏡https://datey.blogspot.com/
まちもり瓢論https://matchmori.blogspot.com/p/index.html


2023/06/10

1690【横浜寿町の変化・1】横浜都心部の関外にある貧困ビジネス街はどう変わりつつあるか

【横浜寿町・地域活動の社会史2】からつづく

横浜都心部の変化を楽しむ

 今日(2023年6月8日)の朝刊新聞記事に、厚労省の統計で2022年度の生活保護申請が約24万5千件で、2021年度から7%も像か、そして今年3月の生活保護受給申請は24500件、去年同月と比べて24%も増えて、今の受給全数は約165万世帯とある。

 防衛費とか少子化対策費とか巨額国費投入とか、コロナ対策費削減で余裕ある国費予算とか、あるいは好景気らしく納税が空前になりそうとか、なんだか景気がよさそうな雰囲気があるようだ。ところがどっこい、この列島には実際はこれほども多くの貧困世帯がいて、しかも増えているのだから、一体どうなってるのだろうか、どうにもわからない世の中だ。

 日本全体でこれほども生活保護世帯が増えれば、その世帯が集中して住む横浜寿町とか東京の山谷とか大阪の釜ヶ崎などの、いわゆるドヤ街はどんな様子だろうかと考えてしまう。そこでは簡易宿泊所という安宿が増えてきているだろうか。
 ということで、その生活保護受給者約6000人も住む横浜寿町地区(横浜市中区寿町・松陰町・扇町あたり約6haの地区の代表として寿町地区と称する)に徘徊に出かけて、街を見てこようと思いついた。(参照→寿町地区俯瞰概念図


 人口が5000人以上6000人以下の自治体は日本に141もあるから、これは立派すぎる規模の街だ。そしてまた人口密度が1000人/haという極端さでありながら、超高層ビルは一つもないし戸建て住宅も無くて、超狭い住戸(1戸がネット5㎡が珍しくない)が中高層ビルに押し込まれている現実である。

 わたしはこの20年ほどの間、横浜の関内と関外あたりの古くからの都心部を日常的に徘徊をして、街の変化を眺めるのを趣味としている。
 その対象とする主な街としては、商業街として伊勢佐木町・馬車道・元町など、観光街として新港地区・中華街など、住宅街は山手や野毛山あたりの斜面住宅地寿町地区がある。

 商業や観光街の世の景気、特にコロナ禍に左右される激変が面白く、特に横浜一番の繁華街「伊勢佐木モール」の質的低落がものすごい。
 住宅街の世代交代に対応して徐々に変わりゆく姿の継続的観察も面白いものだ。都心部の住宅街は一般に中高層共同住宅街で特に面白くもないのだが、斜面地や崖地住宅街と寿町地区は都心部住宅街の特殊な事例として実に興味深いものがある。
 この20年分の変化を、この辺でまとめて書いておきたいと考えている(ボケると書けなくなるから)。今日からまず寿町地区を書くことにする。

寿町地区でゼントリフィケイションは起きているか

 寿町地区へのわたしの興味の中心は、その変化の動向である。この20年ほどその動きを好奇心で観てきた。この横浜都心の開発ポテンシャルが非常の高い地区が、低所得者層が集中しながらも、その景観は大都市のありふれた姿である。

 だがその居住者層は時代とともに変化も著しい。その内部的な変化に対して、都市の開発ポテンシャルの顕在化がどう影響を及ぼすのか、興味はそこにある。いわば寿町的ゼントリフィケイションはどのようにして起きるか、いや起きないのか、そこに興味がある。

 実のところ、この街の変化は普通に見る分にはほとんど見えない。それどころか知らない人がこの街を通り過ぎても、よくある都市の共同住宅街(いわゆるマンション街)にしか見えない。
 だがこの街は戦争被災地から1950年代半ばに復活して以来、じわじわと変化し続けているのだ。それは目に見えるハードな面もあるが、その住民たちの時代による変化がこの街の中身に及ぼす変化である。特に初期の若くて働く者たちの街から、今は高齢化率が5割を大きくこえる超高齢者の街に変化している。それが街の姿にどう表れてきたか興味深いのである。


 では今日の徘徊は、寿町地区に向かうとして、その西角の長者町1丁目交差点から入る。

寿町地区の西角の長者町1丁目交差点から寿町方面
角地に建っていた1950年代に建った防火建築帯が事務所ビルに建て替わった

 この地区を取りまく幹線道路つまり寿町地区の外殻にあたる道沿いには、原則として簡易宿泊所は建っていない。ドヤ街としての外向きの顔は、地区の外殻にはオフィスビルや共同住宅ビルが建っていて、本物の顔は顔は地区の内部にある。

 ドヤ街入り口の左右にパチンコ屋が構え、上層に駐車場を載せる9階建てのビル、高い広告塔を立てている、近づいてみると1回の壁に張り紙があり、「6月18日をもちまして閉店することになりました」とある。「1998年5月から約20年の営業、、」とも書いてある。おやおや、こんな貧乏人向のギャンブル場でさえも成り立たなくなったのか。

 このビルと道を挟んで向かいにもうひとつパチンコビルがあり、同経営のようだから、これらはドヤ住人相手の商売として、四半世紀前に営業開始したのだろう。だが今やドヤ住人たちはパチンコもできないほどに貧困になったか、それとも超高齢化でドヤから出て遊ばなくなったのか。何しろ高齢化率が6割を越えようとする地区である。

 寿地区でのギャンブル場といえばこれらパチンコ2店のほかに、ボートレース場外舟券売り場があり、2軒の違法「ノミや」がある。これらが同列の商売かどうか全く知らないが、約6000人の地区内居住者がいて、しかもこのような交通便利な都心部でも成り立たないものなのか。

 この近くにあるパチンコ屋は、伊勢佐木町と横浜橋の商店街にもあるが、それらと比べるとここは繁華街でもなく郊外でもない、むしろ住宅街であるから、狙いはドヤ街住人だったのだろうが、貧困介護老人が増えては成り立たなくなったのだろう。
 さてこの跡には何が建つのか、最も考えられるのは高層共同住宅ビル(いわゆるマンション=名ばかりマンション)である。実は現在このパチンコ屋の前後左右のあたりは、共同住宅の建設ラッシュの感もあるのだ。

 このパチンコやビルの斜め向いの街区にいま建設工事中のビルがある。そこの工事看板には「賃貸住宅」と書いてある。以前ここには、1階に店舗の入る3階建て共同住宅ビルが建っていて、これは1950年代後半に戦後復興事業として建った防火建築帯であった。次いでの書けば、、この長者町通りの両側には戦後復興期に多くの防火建築帯が軒を連ねて建設されたが、いまやほとんどが建て替えられて共同住宅ビルになり、残るは数棟である。

寿町地区南西入り口左のパチンコ店は閉店お知らせ中
右手前の工事囲いは1950年代の防火建築帯を賃貸住宅に建て替え中

 この工事中の賃貸共同住宅の立地は、幹線道路を挟んで寿町地区に隣接する街区で、ここのまわりには寿町地区からはみ出したドヤビルが5棟が軒を並べて建っている。
 この敷地南東側に面して首都高速道路の高架があり騒音と排ガスを24時間振り撒いているから生活環境が良くない。一般住宅よりは簡易宿泊所の立地に適する感もある。
 立地環境から販売リスクがあると考えて、分譲ではなくて賃貸共同住宅としたのであろうか。その隣には大きな平地の駐車場があるので、次はここに何が建つか楽しみである。 

寿町地区南西入り口から振り返ってみる。右に閉店予定のパチンコ店、
その道路向かいの高層ビルは今年4月竣工の分譲共同住宅、
正面に見える5階建ては簡易宿泊所(寿町外)、左の工事中は賃貸共同住宅

現在工事中の賃貸共同住宅敷地に建っていた1950年代戦後復興期の防火建築帯

 さきほどのパチンコ屋から長者町通り沿いに南東に歩けば高層ビルが建つが、これは寿町地区の外殻に建つ例外的な簡易宿泊所で5年ほど前に建て替えた(下図中央)。

長者町通りから寿町地区に入るメインゲイト両脇にパチンコ店、その右に高層ドヤ

 この高層ドヤビルの南東隣が長らく空き地(下図中央部)であったが、いま見ると工事用の塀ができて建築工事看板がある。その用途は共同住宅79戸11階建て高層ビルである。パチンコ屋跡とここに新ビルが建つと、この寿町地区の南西側幹線道路沿い、つまり南西側の外殻には一応高層ビルが立ち並ぶことになる。それは3~4年後のことだろう。
長者町1丁目の幹線道路に面して左に高層簡易宿泊所、右は共同住宅
その間にあった空地に共同住宅建設の看板が登場

 ではこれから寿町地区の中に入っていって街の変化を探ろう。(20230610記 つづく)

参  照

1687【横浜寿町・地域活動の社会史】(2)横浜市の都市政策における寿町の位置づけは?  https://datey.blogspot.com/2023/05/1687.html

1686【横浜寿町・地域活動の社会史】都市下層集住社会の課題解決に活動する人々に敬服するばかり https://datey.blogspot.com/2023/05/1686.html