2017/03/24

1258【横浜ご近所探検隊】戦後復興期まちづくりの防火建築帯について若い人たちが地域に入って研究する時代が来たのは嬉しい

●横浜戦後復興都市建築の歴史化

 横浜の伝統的都心部(関内と関外)まちづくりの歴史というと、一般の人々には開港時から戦前の歴史的建築のことをイメージし、都市や建築の専門家たちはさらにそこから飛んで20世紀も終り頃の「みなとみらい」とか都市デザイン行政とかになるようだ。

 ところが、関内と関外の都心景観を現につくっている主流は、その頃ではなくて20世紀半ば1950~60年代につくられた街並みである。
 つまり、第2次大戦でいったん壊滅した横浜都心部を、そこから復興したときに新たにつくった建築群が今の横浜都心の姿なのである。それを載せる基盤となる道路や街区は、関東大震災復興でつくったものである。

 20世紀初めの都市基盤に20世紀半ばの建築が乗っているという、考えようでは歴史がないし、いや、今となってはそれも歴史になる時が来ているとも思える。
 さすがに21世紀ともなれば、それらの変化が著しくなり、さらに消滅も珍しいことではなくなってきている。その変化と消滅と再生は、まさに都市のダイナミックな歴史の動きそのものであり、研究対象として面白そうだ。
市街地再開発事業で再生した防火建築帯 日ノ出町駅前

事務所と強度住宅に建て替えした防火建築帯 長者町3丁目

●研究は大学の机の上から街の中へ

2017/03/22

1257【横浜ご近所探検隊】横浜市市街地環境設計制度による公開空地を公開しないで緩和された床面積や高さ部分を食い逃げしてるビル二つ

 陽気がよくなってきたので、今日も今日とて、横浜都心関内徘徊がはかどる。
 立派なオフィスビルや共同住宅ビルが立ち並び、道には歩道もあるけど、さらに歩道から建物を引っ込めて、歩道状や広場状の公開空地も多くて気持ちよろしい。さすが横浜市のまちづくり指導はちゃんとしているんだなあ。

 なんて思いつつ横浜球場の近くにふらふら、立派なビルが二つ並んでいて、公開空地が広くとってあって、おお、なかなかよろしいと、近づいてみる。
 ひとつは「帝蚕産関内ビル」なる事務所ビル、もうひとつは「ヴィルヌーブ横濱」なる共同住宅ビル(いわゆるマンション)。

帝蚕産関内ビル」にはハローワークがはいっている。歩道につながって敷地に広い歩道状の空地があり、植え込みもある。

近づこうとしたら、あれまあ、道路と敷地の境界にロープが張ってあり、公開空地に「立ち入り禁止」の札がぶら下がっている。工事中の様子もない。
左上の植え込みの中に公開空地表示掲示板が見える

 アレッ、ここは誰もが入ってもよいと、法で決められた公開空地ではないのか。
 変だなあと見回すと、植え込みの中に公開空地表示の掲示板があり、立ち入り禁止を侵して、ロープをまたいで近寄って見れば、チャンと書いてある。
「この公開空地は横浜市市街地環境設計に基づく建築物の許可条件として設置されたもので、どなたでも日常自由に通行又は利用できるものです。
  平成7年2月 横浜市中区北仲通5-57 帝蚕倉庫株式会社」

さてさて、「どなたでも日常自由に通行又は利用」が正しいのか、それとも「立ち入り禁止」が正しいのか、帝蚕倉庫株式会社はいかがなものでしょうか?
 「横浜市市街地環境設計に基づく云々」、と書いていあるから、ここは法による公開空地としか考えられないよなあ。
 ここままだと、横浜市市街地環境設計制度に違反しているような気がするのですが、どうですか帝蚕倉庫さんよ~。。

 この制度は、建築や都市の法律により、建築物を建てるときに誰もが利用できる公開空地を整備して街の環境を良くすることに貢献するのと引き換えに、都市計画の容積率制限や高さ制限を緩和して建築物の床面積を特別に大きくすることを許可するのである。つまりそれだけ不動産収入が増えるのだ。
 そして建物のオーナーは、この公開空地を公開するという誓約書を、市長に出している筈である。この制度にそう書いてあるから、帝蚕倉庫さんもお出しでしょうね。

 このビルは20年ほど前にできたが、そのときから立ち入り禁止にしているのかどうか分らないが、これはどうも違法行為であるとしか思えない。それとも何か特別に立ち入り禁止してもよいと許可を取っているのだろうか。
 帝蚕倉庫会社と言えば、横浜港の絹貿易と共に歩んできた伝統ある名門企業だろうに、これでよいのかしら、ハローワークという公共機関が違反建築に入っていてもよいのかしら。
 公開空地を「公開」しないのだから一方的に儲けただけ、緩和の食い逃げですよ。
 緩和を受けて基準よりも増えた床面積や基準を超えた高さの部分の建築物を削り取る必要があると思うのだが、どうなんだろうか。
 
 と、頭をかしげながら、隣の「ヴィルヌーブ横濱」なる共同住宅ビルに来た。
左上に見える黒いものは首都高速道路
この柱の向こうのピロティも公開空地のはず


 こちらのビルは、一階に歩道状空地があり、更に建物の一階の一部はピロティ広場になっていて、これらが「どなたでも日常自由に通行又は利用」との公開空地の表示看板がある。

ところが、違反行為は伝染するものらしい。ピロティに入ろうとすると、どの柱と柱の間にもプラントボックスが置いてあり、そこに「関係者以外立ち入りご遠慮ください」の表示があるのだ。
 おやおや、大きなビルが並んでそろって違反だよなあ。

こちらは歩道状空地は自由に通行しても良いらしいから、帝蚕倉庫よりも若干は違反度が少ない。
 それでもピロティの公開空地に対応する床面積と高さの緩和部分の建物を削り取る必要がありそうだなあ。それとも特別にピロティは公開しなくてもよい許可を取っているのかなあ。
 
 なお、「ヴィルヌーブ」ってなんだろうって、ネットで調べたら人名が出てきたが、それではあるまい。フランス語で気取って「Ville neuve横浜」つまり「新町横浜」かなあ、ふ~ん、。
 「帝蚕倉庫」というのも珍しいが、もとはたぶん「帝国蚕糸倉庫」といったのだろう、絹糸貿易の保税倉庫のことかしら、連想したのは「帝国人造絹糸」のテイジン。
 「ハローワーク」も珍妙なネーミングであるよなあ、むかしは公共職業安定所といっていたなあ、。
 もっと珍妙なのが「マンション」であるよなあ、なんともはや、ウサギ小屋(この揶揄も今や通じなくなったかも)共同住宅ビルを、マンションmansionとは、よく言うよ。
 
 さて、徘徊でタマタマ違反建築2件が並んでいたのを見つけたが、じつは他にもいっぱいありそうだなあ。
 こういう緩和措置の食い逃げ行為は、誰が取り締まるのかなあ、建築警察とかってあるとは聞かないなあ。食い逃げ得なのかなあ。
 今年の徘徊は、都市計画違反建築発見を目的にしようかなあ、あ、目的があるのは徘徊とは言わないんだな、。

●参照⇒横浜ご近所探検隊が行く

2017/03/18

1256【オペラ見物】モーツアルト「魔笛」を勅使河原三郎演出で観てきたがバレエ・ミュージカルだったなあ

 う~ん、川瀬賢太郎指揮のオーケストラの出来はわからないけど、勅使河原三郎の演出・装置・照明・衣装は、よいともわるいとも、なんとも言い難いなあ。
 今日、神奈川県民ホールでモーツアルトのオペラ「魔笛」を観てきた。忘れぬうちに感想を書いておこう。


勅使河原の演出については、全体にバレー・ミュージカル(というジャンルがあるのかどうか知らないが)だった。つまり舞踏と歌唱がメインで、歌手に演技というか芝居を求めないオペラだったのである。
 だから、歌手に台詞を一言もしゃべらせないで、ダンサーによる日本語ナレーション(佐東利穂子)で繋ぐのであった。
 佐東の語りの発声とダンスはよかったのだが、語り内容そのものがなんともつまらなかった。なんだか高校生に初めてオペラを見せて解説しているいるみたいな内容だった。この支離滅裂オペラには、支離滅裂ナレーションの方がよろしい。
 歌手にセリフを吐かせないから、シチュエーションごとの演技もほとんどなくて、歌うばかりなのであった。見るこちらも不満だったが、オペラ歌手のほうも不満だろう。

 分りやすくしようとてこうしたのなら、これってちょっと違うよなあ。トントンと歌とセリフが勢いよく進むのがモーツアルトオペラだろうに、このナレーションでたびたび一時停止するのが、いらいらする。
 もともとこの魔笛ってオペラは、はっきり言って支離滅裂、コミックもシリアスも、恋愛も憎悪も、宗教もニヒルも、もうなんでもありのパッチワークめちゃめちゃバラエティ番組だから、スジなんかどうでもいいのである。これは見世物つき音楽なのである。
 わたしもそのあたりをどう演出するか見たいとは思わなくて、とにかく魔笛の素晴らしい音楽を聴きたくて行ったのである。
 今回はそれにバレエダンスがついていたので、そこの見世物演出はなかなかよかった。もっともわたしはバレエダンスの上手いも下手も全然わからないので、単に視覚的な興味だけで言っている。

 勅使河原の舞台装置は、巨大な金属質のリングが、舞台の上に吊り下げられて登場する。直径が5m位のが9個、20m位のが1個、状況に応じて出たり入ったり、並んだり重なったり、垂直だったり傾いたり水平だったり、いろいろに変化して登場する。
 舞台に不思議な奥行きを与えて面白く観たが、はじめから終いまでこれだから、そのうちに飽きてきた。
 そのほかは照明によって舞台上に格子や道の形を映し出すだけで、魔笛によくあるおどろおどろしい装置は何もなかった。紗幕への映像投影もなかった。

 おどろおどろしいと言えば、最初に登場してオドロオドロ芝居だぞって見せる大蛇は、灰色のバレエダンサーたちが列になって舞う演出なので、全くオドロしくない出だしであった。まあ、いいでしょう。
 衣装でオドロオドロシかったのは、モノスタトスと神官で、珍妙な着ぐるみで苦笑してしまった。これと3童子が、モーツアルト好みのオドロだった。これらの着ぐるみはどういう意味なんだろうかと、首をかしげつつ苦笑した。
 特にモノスタトスのあの珍妙さは、魔笛芝居のユルキャラ狙いかよ~。
 だのに、タミーノとパミーナは、まったく普通の街着のような衣装、もうちょっとなんとかしたらどうだ~。

 パパゲーノの衣装が、定番のあのモジャモジャバサバサ鳥の羽じゃなくて、なにやらえらく格好のよい真っ白な毛皮のようだった。
 パパゲーナの衣装もそれに対応していたが、それよりも彼女の歌の出番が、パ、パ、パ、パの歌のたったの1回だけ、セリフがないから例の老婆から美女に変身する面白い場面がなくて、つまらん。
 狂言回し役のパパゲーナとモノスタトスからはセリフを奪わないで、しっかり芝居させてほしかった。
 まあ、ゴチャゴチャイチャモン付けているが、全体的には音楽は素晴らしくて、オペラを楽しんだひと時だった。
◆◆◆
神奈川県民ホール3階席から舞台を見る
 今回、はじめて県民ホールの天井桟敷とも言うべき3階の最上部どんつまりの席だったが、音も視野もけっこうよかった。
 舞台装置のリングの変化と人物の動きとが重なって見えるのは、なかなか楽しかった。これからも3000円の最安席に限るなあ。
この前にここに来たのはいつだったかなあ、あそうだ、2年前の「オテロ」だった。

 これまでに劇場で見たモーツアルトの歌劇は「ドンジョバンニ」だけである。魔笛について知ったかぶりして書いているが、実は劇場じゃなくて、TVとyoutubeによるものである。なにしろ西洋オペラは、見物料金が高くて貧乏人にはとても無理だ。
 わたしのオペラ見物は、もっぱら日本伝統オペラ、つまり能楽ばかりで、こちらはこれまで100回以上見ている。もっとも、近ごろは能楽も高価だなあ、いや、こっちが貧乏になって相対的に高価になったか。
  
 これまで観た西洋オペラを思い出してみる。
 ドンジョバンニ(ウィーン・フォルクス・オパー、これは2階の真ん中あたりで3000円ほどだった)、ローエングリン(新国立劇場)、マダムバタフライ(横須賀芸術劇場)、オテロ(神奈川県民ホール)、オルフェーオ(神奈川県立音楽堂、東京北とぴあ)、カーリューリバー(神奈川芸術劇場)、こうもり(2回見てるけど、どこでだったかなあ)、椿姫(神奈川県民ホール)、他にあったかなあ、、少ないなあ。
ウィーン・フォルクス・オパー ドンジョバンニ公演の夜景 1994年 
ついでにミュージカルとバレエも思い出してみるか。
 キャッツ(新橋?キャッツシアター、ニューヨークのどこか忘れた劇場)、ヘア(ニューヨークオフブロードウェイ)、レミゼラブル(帝劇)、42nd Street(帝劇)、、、白鳥の湖(よこすか)、くるみ割り人形(よこすか)、、、、他にあったかなあ、、。
 でもまあ、現代ではありがたいことに、youtubeにほとんどのオペラでもミュージカルでも登場するので、貧乏人には嬉しい時代に人生が間に合ったものである。

2017/03/09

1255【五輪騒動】新国立競技場設計騒動が鎮静したら次は絵画館前サブトラック常設でまたひと騒ぎありそうで楽しみだなあ

 おお、これも揉めるぞ、たぶん、景観保存原理主義者たちが、ケシカランと騒ぐだろうなあ、久しぶりにまたヒマツブシにもってこいだな。
神宮外苑創建時の絵画館玄関より見る広場と銀杏並木
現在の絵画館前広場と銀杏並木
●今度は絵画館前広場にサブトラック常設とか?

 2020オリンピックの陸上競技会場になる新国立競技場は、競技期間中に使うサブトラックを絵画館前広場に仮設すると聞いていた。
 昨日の新聞によると、オリンピックばかりか、大きな陸上競技会をやるにはサブトラックが必要なので、陸上業界(というのか?)が言うには、オリンピックが終わってもそのまま常設施設にしてくれと。
サブトラックに?

 そうか、競技する側としてはごもっともである。あんなにでっかい新競技場にサブトラックがない方がオカシイと、わたしも思う。
 建築で言えばオペラハウスを作ったのに、大ホールはあるがリハーサル場がないようなもんで、これじゃあ半端物だな。

 さて常設となると、これまたひと騒ぎありそうだ。陸上業界じゃなくて景観業界(っていうのか?)からイチャモンつける人たち登場するに違いない。
 明治神宮外苑は明治大帝の偉業を顕彰する場であり、聖徳記念絵画館なる聖なる施設の前庭を、騒がしい運動競技の場にするとはけしからん、戦前そうであったように美しい芝生の広場に戻せ、、、とか。

 ようやくあの生ガキデザイン新国立競技場を駆逐して、不十分ながらも日本的デザイン競技場に変えることにしたのに、今度は高層ホテルが建つとて、聖徳絵画館の背景景観が乱れようとするところに、更にまた前面景観も運動場になって乱れるとは、なにごとであるか、、、とか。

 なによりもかによりも明治大帝に申し訳ない、、造園設計者の折下吉延にも申し訳ない、、とか。
 歴史的景観を大切にして、昔の姿に復元するべきだ、あの東京駅のように、、、とか。
 
●さて、これからどんな騒ぎになるか楽しみ

 でもなあ、あの絵画館前広場は敗戦直後に占領軍に接収されて静かな芝生じゃなくなって、今やもう70年以上も経ったのだよなあ。静かな芝生期間の戦前20年よりも、戦後こっちの歴史がはるかに長いよなあ。庶民の運動広場だよなあ。
 おまえはそういうけど、あの東京駅も昔の姿は30年間、戦後の姿は60年間だったのに復元したぞ、外苑だってそうするべきだよ、なんて、おっしゃるでしょうねえ、そうなんです、トホホ、わたしはその復原反対をずっと唱えて来たけど、蟷螂の斧で無視されたんですよ。

 景観も建築もなんでもかんでも最初の姿がいちばん良かった、昔に戻せ復元せよという風潮が世間を風靡しているけれど、これって復元帝国主義といいましょうか、景観原理主義と言いましょうか、なかなか思い切りがスゴイもんですねえ。
 なにしろ、それができてからあとの時代の影響というか要請による変化の歴史を、いっさい無視しようってんですからねえ。
 あ、帝国とか原理とか言ってますが、わたしはレーニンも秋水も読んだことないし、神学にも触れたことなくて、そのお、オチョクリムードで言っておりますです、ハイ。
どうせならなにもかも、ここまで復元しましょうよ、とか
あえて言えばあそこは、キチンとしたスポーツグラウンドになれば、兵士となる青年の体育に熱心であった明治大帝もお喜びでしょう。外苑にスポーツ施設をたくさん作った由縁はそこにあったのですからね。
 さらに言えば、入ってみたい気にならない絵画館だって、これをスポーツマンたちのクラブハウスとして有効に使えばよろしい。今ある絵画はそのまま展示してあれば、歴史文化に無関心なスポーツマンたちも競技会の度に大帝のご聖徳に触れる、、、これも大帝はお喜びか、、タイテイのことはお許しが出るのか、それともタイテイにせいってお叱り受けるのか、、な~んて。
スポーツクラブハウスに?
●立体公園決定を廃止して元に戻せという提言は?

 ところで、これは若干旧聞になったが、去年5月、新国立競技場と緑の環境のあり方について日本学術会議からイチャモンが出された。これはその後どうしてるんだろ?
 参照「神宮外苑の環境と新国立競技場の 調和と向上に関する提言
  http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-23-t211-1-1.pdf
 ザハ案に合わせるために立体公園制度の趣旨に反して無理矢理公園変更したのを、白紙見直し案に沿って元に戻せ、更に渋谷川を復活せよ、と言うのである。
 ごもっともである。

 わたしはやり直しコンペに応募した2案を眺めていて、どちらも立体公園にしなくても済むような配置に気が付いて、そうか、立体公園をやめるだと思った。
 てっきり当然そうするのかと思ったら、なぜだかそうしなかった。
 白紙見直しの看板を掲げながら、新競技場のために新規や変更決定した公園計画や都市計画は一切見直さないという、実に奇妙な白紙見直しだった。白紙じゃなくて灰紙だな。

 この公園緑地系の学者たちの異議申し立ては当然であるが、さて、事業者がそれを受けてどうするのか、その後はなんにも聞かないから、言いっぱなし、言われっぱなしなんだろうか。
 設計者としてしゃしゃり出る隈研吾さんも、大学の学者建築家なんだから、何とか言うとかなんとかするべきだろうに、だんまりを決め込んでいるのは何故か。工事はどんどん進む。

 さてさて、これらばっかりじゃなくて、近いうちに青山通り沿い大企業用地に外苑容積移転で超高層開発騒ぎが起きるんだろうなあ、神宮球場と秩父宮ラグビー場の土地交換も面白そうだなあ、超高層ホテルつき神宮球場ができるかもなあ、当分まだまだ楽しみがあるなあ。
最も景観が変りそうなラグビー場とその隣の青山通り沿い
 オリンピックにゃ興味はないけど
便乗騒ぎにゃ興味津々

参照記事●五輪騒動瓢論集:新国立競技場と外苑再開発
http://datey.blogspot.jp/p/866-httpdatey.html

2017/03/01

1254【横浜水上徘徊(1)】寒の船で川巡りして見上げる関東大震災復興橋梁から想う水の都だった横浜

 天気の良い冬の日、川風も穏やかな船遊び、横浜の関内と関外をとりまく川を、船に乗って巡るまち歩きイベント(2017年2月25日、JIA建築祭)に参加した。
 狙いは関東大震災復興時に架けた橋梁群を、川面から見上げようというのである。いつもの陸上徘徊とは全く異なる視点でみる橋と街は、建築家の笠井三義さんの該博知識によるガイドで実に面白かった。

●横浜の復興橋梁

 関東大震災復興事業の時に架けた橋は「復興橋」と称しているが、東京と横浜に今もたくさん存在する。東京で有名なものは、隅田川の清洲橋や御茶ノ水の聖橋などである。
 横浜の復興橋は178か所を架け、今も横浜駅あたりや関内と関外を囲むあたりの川には、補修・改修されながら健在である。
 橋の見どころは、基本的には建築と同じで、その構造と意匠の構成である。わたしは構造的なことはよく分らないから、ここでは意匠的なことだけ観よう。その意匠の中でも、渡る時にいちばん目につく親柱に眼を付けよう。

 一般に、橋には「親柱」というものがある。橋の渡りはじめの両側に建つ柱状のもので、橋の名前や作った年月が書いてあるのが普通である。
 名前の通りに柱の形の場合が多いが、高いのや低いのや、板状とか団子状とか、彫刻だったり、その形はさまざまである。
 中には凝った形もあって、橋を渡るときに親柱のデザインがちょっと気になったりする。もっとも、親柱が全くない橋もあるから、機能的に必要なものではない。
 橋ごとにどれもこれも異なっており、しかもモダンデザイン風の姿であるのが面白い。ここに横浜復興橋の親柱の姿を載せておこう(『横浜復興史』1932年)。

これらの親柱は、いったい誰がデザインをしたのだろうか。橋梁設計の土木技師ではないだろうから、建築家あるいは画家彫刻家によるのだろう。
 横浜の復興橋は、内務省復興局によるものと、横浜市によるものがあるが、復興局のものならば建築家の山口文象が担当しているものがあるかもしれない。山口文象が戦後に主宰したRIAの山口文象アーカイブスには、横浜の復興橋梁の工事写真が何枚かある。

 山口文象は復興局橋梁課の嘱託技師であり、土木技師のための橋梁設計代替案検討資料として、全体完成予想透視図を何枚も描く作業をしていた。また親柱、高欄、照明などの附属物の設計をしていたが、これにはその頃に主宰していた創宇社建築会の仲間がアルバイトで加わっていたという。

●橋を見上げる
 船で廻ったのは、右の図の濃い水色の川である。V字型に関内と関外を囲っている。ようするに、この範囲が入江であったのを埋め立てたのである。薄い水色は今は埋立てられた水路。
 さて、船から見上げる橋は、いつもと違う視点である。解説の笠井さんが、親柱を見るときに、いつものように橋の上だけではなくて、そこから下に続けて水面までを観よと言う。
 観ればなるほど、親柱は橋の上で終わるのではなくて、実は水面まで続いているのだった。いや、親柱は水底から水面を突き破って、塔のごとくにすっくと地上を超えて立ち上がり、まるでこれで橋を支えている姿である。
 それは橋台と(ときには橋脚と)一体になって立ち上がるから、それでこそ親柱という名に値する。

わたしは橋の構造的なことは知らないが、もともと親柱とは、昔の木橋の桁や梁を支えて水底あるいは礎石の上に建つ柱のことを言ったのであろう。構造的には橋の上までなくてもよいが、いつしか地上にも突出させて欄干を支えるようになったのだろう。
 それが構造材料も形態も変っても、いまも親柱という名が形骸化しながら伝わっているのなら、水面からみる復興橋梁の親柱に、その原型の姿の継承を見たことになる。橋の上にちょこんと立つものではないのだ。
水上から見る谷戸橋は左右の親柱が橋を支える姿
谷戸橋は海と川の間にある門構えだった
地上から見る谷戸橋は左右の親柱はゲートの姿
 そうか、もともと橋というものは、陸上のものであると同時に、水上のものであったのだが、わたしはそれをすっかり忘れていた。
水上のものは水上からデザインされるべきだから、親柱が水の底から立ち上がる塔状であるのは当たり前、だから橋の設計者は水上からの視点に向けて設計をしていたのだ。
 昔の橋の写真を観ると、川から見るそのプロポーションが美しく、また橋桁側面や橋台など、川の方に向けて装飾がしてあるものが多い。それは橋を渡るものには見えない。橋は川から観てこそ生きるデザインだと、あらためて気が付いた。
この橋は横浜ではないが、親柱の基本的意味を表現する例として挙げる
東京の山手線の橋が外堀に架かっているが川に向けての姿を美しく装っている
 今はほとんどなくなったが、かつては水上からの視点が、陸上からの視点と同じように存在していたのだった。
横浜は港町であるから、関内と関外を取り囲む大岡川、中川、堀川にはもちろん、今は埋め立てられた派大岡川などの運河には、たくさんの艀が水上に浮かんでいた。
 そこには家族で住む水上生活者たちがいたし、水上ホテルという安宿もあった。水上の街があったのだった。
1940年、中川に停泊する多くの艀
●水の都だった横浜

 ここで思い出したのは、東京の日本橋の妻木頼黄によるデザインについて、建築評論家の長谷川堯がその名著『都市回廊』(1975年)のなかで書いていたことだった。
「妻木はこの橋の総合的なデザインを、人や電車が快活に通り抜ける橋の表面(道路面)から構想したのではなく、実はひそかに日本橋川の河面からイメージし、その視覚的基盤から橋を一つの巨大な空間的構築物として発想して、それに関するすべての「意匠」を決定しようとしていたのではないか、という点に思いあたるのだ。」

 それはつまり、旗本の末裔の妻木にとっては、江戸の町がいくつもの運河がめぐらされていた「水の都」であったのに、明治維新でやってきた薩長などの田舎者たちによって「陸の東京」に変えられつつあることに悲憤慷慨し、日本橋のデザインに水上からの視点を据えること抵抗者の立場を表現したと、長谷川は言うのである。
東京・日本橋 1911年竣工
 さて、横浜の関内関外という都心部も、まさに水であったことを思いだす。もともと海の入江を埋め立てたのだから、水はけのために水路が網の目にめぐらされていた。それは埋立地の排水路であり、農地の灌漑用水路であり、港とつながり運輸交通路であり、水上生活者たちも多かった。関内関外は水の都であったのだ。
 関東大震災で破壊した多くの橋を、内務省復興局と横浜市と分担して架け替え、1930年頃にはほぼ完了した。

 その頃は、まだまだ水路には船が多く動き回り、水路の岸には荷上げの場が随所に設けられていた。橋の上の陸上を往来する車や人と、水上を往来するそれ等は同じくらい重要だった。
 橋というものは、陸上では単に川という暮らしの障害物を越えるための施設であるのに対して、水上ではそこで働き暮らす人々のためのランドマークであった。
 横浜都心の最も重要な位置に、1911年に2代目吉田橋が架かった。現在の吉田橋の先代にあたる。この橋は、まさに東京日本橋と同じ年に竣功したのだが、水の都の江戸に負けない水の都横浜のこの橋も、水に向かって華やかな装飾性を誇るデザインだった。
これは復興橋梁の以前の吉田橋の1911年竣功時の姿
横浜都心の最も重要な位置の橋として川に向けての過剰なる装飾意匠
1922年 関東大震災の時の横浜の水路
(つづく)