2017/06/29

1272【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド4】東京駅を近代日本戦争時代の開幕記念碑とするならばJPタワーは現代世界戦争時代の開幕記念碑かもしれない

東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド3】からのつづき

 次は東京駅から右に頭を回して、駅前広場の南側に建つビルをご覧ください。下半身は白いタイル張り、上半身は黒いガラス張りの超高層ビルです。
 この「JPタワー」は、先ほどの東京駅から容積移転した6件のビルのひとつです。だから容積移転がないなら容積率1300%が上限なのに、これは移ってきた容積を加えて容積率1520%で建っています。容積をくれた東京駅を見下していますね。

 下半身の白ビルに見覚えある方もおいででしょう。そう、1931年にできた東京中央郵便局、あの白ビルがここに建っていたのです。
 それに上半身の黒ビルをつけ加えたってわけですね。つまり、東京駅が上につけ加えるはずだったビルの一部を、ここに持ってきて乗せたってことです。
JPタワーになる前の東京中央郵便局 2007年撮影

 さて、あの上半身の黒いガラス面の折れ具合をよくご覧ください。なにかを連想するでしょ、そう、折り紙ヒコーキですよ、あれは。ね、そう見えるでしょ。
 空から飛行機が降ってきて、超高層ビルにグサッと突き刺さるって、ほれ、何か思い出すでしょ、そう、2001年ニューヨークで起きた9・11テロ事件ですよ。
折り紙ヒコーキJPタワー 左は計画時の絵、右は完成時の写真 
(どちらも日本郵便サイトから引用)

 これって9・11の暗喩なんですよね、いや、パロディデザインかな、そう見えるでしょ、つまり、建築デザインで文明批評をやってるんです、すごいですねえ。
 このデザインはアメリカの建築家ヘルムート・ヤーンだそうです。なんでアメリカでやらないで、遠い日本でやるのでしょうかねえ。
 まあ、アメリカ人は折り紙ヒコーキって何のことか分らないし、わかってもこんなパロディを絶対に受け入れないでしょうから、日本でやったのでしょうか。
天から降ってきて突き刺さる黒い紙ヒコーキ

よく見ると折り紙が張り付いているようなカーテンウォール

 でも、日本でもパロディって分らないらしいけどね、まあ、わたしが勝手にそう思ってるだけなんでしょう。
 東京駅が20世紀の敗戦記念碑としての姿を消したと思ったら、JPタワーが21世紀の戦争記念碑として姿を現すとはねえ、いやまあ、感慨を催しますねえ。
 と、まあ、独断偏見的建築文明批評妄語です。

 思い出せば、あの白い下半身を保存するか、壊して新しくするかって、いっとき論争がありましたよ。東京駅と東京中央郵便局、どちらの騒ぎも国営組織の民営化に伴う開発か保存かって、まったくおなじ構図でしたね。

 時の総務大臣の鳩山邦夫さんが保存せよって直接に口を出して乗りこんできて、世間の話題になりましたね。鳩山さんは切手マニアで、少年時にこの中央郵便局に新発売切手を買いによく来たとかって聞いたことありますが、懐かしい建築なのでしょうね。
 建築保存とは、そのような市民としての建築への愛着が大切な動機になるんですね。一般には郵便局よりも鉄道駅の東京駅の方が、市民的愛着が大きかったでしょう。

 でも東京駅の時と比べて、市民的保存運動の盛り上がりが低調だったのは、東京駅がキンキラ装飾建築であるの比べて、こちらは豆腐に眼鼻の白い箱デザインで、素人受けしなかったからでしょう。建築の専門家では大きな騒ぎでしたが。
 結局は、今見えている表側だけを残し、裏の方を切って壊して超高層を建てたのでした。でも外装タイルは新品に貼り換えたらしく、せっかく現物一部保存したのに、同じものをコピーしたレプリカに見えますねえ。
工事中のJPタワーを東京駅前から見る 2009年撮影
下半身となる中央郵便局者が表側2スパンだけ残して裏側を撤去したことが分る

 ところで、その保存問題が起きたのはなぜでしょうか。キンキラ東京駅と比べると、なんと味もそっけもないこの建築に、専門的にはどんな価値があるというのでしょうか。
 これらは日本の建築デザイン史では、有名な建築なのです。たまたま隣合せになっているのも珍しい貴重な都市景観です。
 19世紀後半から西欧的文化を取り入れて近代日本を築いていく中で、西欧クラシック様式建築のほぼ直輸入時代の最後のあたりが、1914年の東京駅のデザインでした。

 そして1931年にできた白ビルの中央郵便局は、そのクラシック輸入時代が終わって、こんどは西欧モダン様式建築輸入時代となり、その先端を行くものでした。
 東京駅のクラシック、中央郵便局のモダン、どちらも西欧文化輸入の典型だったのですね。そしてどちらの様式建築も日本に残っているのは希少になってしまっていた、そこに保存問題が起きる専門的な由縁があったのです。

 なんにしても、東京駅と東京中央郵便局がならんで、日本近代化時代の西欧文化移入の典型的な景観が、ここに存在することに意義を見出しましょう。
 それと共に、東京駅が近代日本戦争史の記念碑であり、JPタワーが現代世界の戦争史開始の記念碑(?)であり、二つの歴史的建築が作り出す特異な都市景観であることも、忘れないようにしましょう。

 では、次に参りましょう。(つづく

●中央郵便局に関しての詳しいことは下記を参照のこと
東京中央郵便局舎の改築と建築保存の諸問題(2008)」

東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版(伊達美徳制作ガイドブック)
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)


2017/06/20

1271【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド3】頭の上の空気をあちこちに販売して保全修復費用を捻出した「2012東京駅」

 【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド2】からつづく

 では、東京駅を丸の内の側から眺めて考えましょう。
 まわりが超高層ビルなのに、なぜ、ここだけが3階建てなのでしょうか。JR東日本はよほどお金があるので、超高層に建て替えて不動産で儲けようという気がないのでしょうか。それともおカネがないので、昔の姿に改修するだけにしたのでしょうか。
中央に見える東京駅赤レンガ駅舎だけが低層3階建ての建築なのは何故か

 でも、聞くところによれば、この改修するだけでも500億円もかかったとのことです。文化財保全のためとは言いながら、その衣装代というかお化粧代というか、その巨額事業費を運賃だけでまかなうことが可能なほど、JR東日本は儲けている企業なのでしょうか。それならば、貧乏人としては運賃を下げってもらいたい。

●赤レンガ東京駅は身売りして500億円稼いだ
 実は、低層3階建てにしても超高層にしたのと同じ不動産活用の方法を、ここで発明したのです。
 それは超高層のにするところを3階までにして、そこから上空の空気を周りのビルに売って金にしたのです。空気を売るって、なんともすごいですねえ、キツネもタヌキもビックリの換金術です。
 500億円かどうか知りませんが、とにかく超高層を立てたと同じになる仕組み発明して、JR東は稼いだのです。発明とは言いすぎですが、そう言う法制度が新たにこのために作られたのでした。
 まあ、考えようによっては、もとは国鉄の土地、つまり国民の財産でしたから、それを有効に活用したのはよかったと思いましょう。貧乏人のわたしとしては、運賃に還元してほしいけどなあ。
東京駅赤レンガ駅舎はその上の空気をこの6か所のビルに売ったので
周りを超高層ビルで囲まれて谷底になってしまった

 具体的に言うと、このあたりの土地の上にはその土地を敷地にして建物を建てると、敷地の13倍の床面積まで建てることができるように、都市計画で決めています。この13倍のことを専門用語で「容積率」と言います。
 つまり、敷地いっぱいの建物だと地上13階建てのビルになるのです。それをまわりを空けて広場にしたり、文化施設を作ったり、駐車場をつくると、実際には15倍以上建てられますから、20階建てや30階建ての超高層ビルになるのです。

 この東京駅は3階建てですから、13倍のところを2倍くらいしか使っていないので、残りの11倍くらいに相当する床面積を、近くの他所の敷地に売ったのです。つまり、身売りですね。これで事実上は13倍建てたと同じことになるわけです。

3階建て東京駅でも超高層なみ不動産経営できるカラクリ
 上手い仕組みですね、これを専門用語で「容積移転」と言います。どこの土地でもできるのではなくて、東京駅から丸の内や有楽町あたりだけに、特例的に許可されている制度です。
 いまのところ日本中で、このあたりにしか許可されていません。この特例制度は、東京駅の低層保全のために作られたと言ってもよいでしょう。
JR東日本は東京駅丸の内駅舎敷地の未利用容積率を分割して
赤い矢印の先の各ビル敷地に移転して売却あるいは床取得した

 その身売り先は6か所に切り売りしています。これからもっと増えるかもしれませんが、  その容積率を買った6本のビルは、自分のところの13倍の上に買った容積率を載せて建てるので、大きく高くなります。東京駅の周りが特に超高層群なのはそのせいもあるのです。
 たとえて言うと、6人のでっぷり太った大柄の旦那衆に身を売って得たカネで、衣装を買いお化粧直ししたのですね。そうしたら、それらの間に埋もれて文字通り日陰者になった東京駅姐さん、あ、こりゃ譬えがちょっとゲスかもなあ。

●後藤新平と辰野金吾、マッカーサとレーモンド、二人の伊藤滋
 さて、振り返れば、この赤レンガ駅舎の現地保全を決定した1988年の八十島委員会の報告書(東京駅周辺地区総合整備基礎調査報告には、こう書いています。

「丸の内駅舎は、長きにわたり国民に愛着のもたれる記念碑的建造物であり、また、本地区の都市景観を構成するランドマークとして評価されるため、現在地において形態保全を図る方針とし、今後、具体化に当たっては次のような点について検討するものとする.
イ 建物自体の耐力診断を踏まえ、形態保全の具体的な方法を検討するものとする.
ロ 土地の高度利用との調和については、駅舎の背後に駅舎の形態保全に十分配慮しながら新たな建物を建築する方法、駅舎の上空の容墳率を本地区内の他の敷地に移転する方法等により実施する.」

 この最後のくだりの容積率移転が、特例制度をつくることによって実現したわけです。この「本地区内」とは東京駅と隣接街区だけの範囲を意味していましたが、今の実際の範囲は丸の内、大手町、有楽町までの広い範囲で移転が可能になっています。

 この東京駅のための特例の新制度(特例容積率適用地区)を生み出す指導をしたお方が、都市計画家の伊藤滋さんです。ここにもまた伊藤滋さんの登場です。
 これって、建築家の辰野金吾さんが設計した「1914東京駅」を、マッカーサーが戦争で焼いて「1945東京駅」にしたのを、建築家の伊藤滋さんが「1947東京駅」に修復し、更にそれを都市計画家の伊藤滋さんが「2012東京駅」に作り替えた、こういうことになるのでしょうね。

 というわけで東京駅見物の最後に、独断偏見一覧表にしておきましょう。

では、そろそろ東京駅を後にして次に進みましょう。

◆当日のまち歩き資料は:東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月

◆関連記事 
空気を金に化けさせる術ー東京駅の復原について長屋談義(2007)

東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版(伊達美徳制作ガイドブック)
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2017/06/13

1270【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド2】空爆廃墟「1945東京駅」を不必要に華麗に復興した「1947東京駅」は米軍への復讐戦か



 東京駅の南口ドーム内から外に出て、正面に来ました。
 幅が300mもあるこの赤レンガ3階建ての建築は、今日おいでのみなさまはご存じでしょうが、実は4代目でなんですよ。世の中には、これが戦前からこの姿のままずっと建っていて、数年前にきれいに化粧直ししたのだろうと思ってる人たちが多くいるような気がするし、これからどんどん増えてきそうに思うのです。
でも違うんです、この建物はいったんは廃墟になったのです、しかもそれは不幸な大事件で人為的に燃やされたのでした。そう、太平洋戦争下の空襲、いまは空爆と言いますが、1945年5月25日の深夜に、燃え上がりました。皇居も燃えました、八重洲の街も燃えました。3月10日に次ぐ大空襲でした。大勢の人が死にました。
1945年5月25日深夜の空襲で銀座、東京駅、丸の内、皇居炎上

●空爆廃墟「1945東京駅」の登場
わたしがこのガイドとして伝えたいのは、この赤レンガ駅舎は日本の歴史を背負っているということです。
 20世紀初めに華麗な姿で初登場したこの建築が、20世紀半ばに戦争によって燃やされ無残な廃墟にされたのを、敗戦直後に焼け残った躯体を再利用して修復復興して20世紀を生き延び、21世紀の初めに再度の修復で今の姿になった、この建築の変転の裏にあるのは近代から現代日本の歴史そのものです。
 
 初代「1914東京駅」は3階建てでしたが、焼け焦げた2代「1945東京駅」を修復するときに被害甚大の3階を取り除いて2階建ての3代「1947東京駅」にしました。それが戦後わたしたちの世代がながく親しんだ東京駅の姿でした。
 東京駅と言えば、全国から修学旅行でやって来たものだし、旅の登りはここが終点でこの先は下りばかりです。だれもが知っている、日本人の駅でした。
 「1914東京駅」は今見る「2012東京駅」と同じ姿ですが、その間に「1945東京駅」と「1947東京駅」があります。
「1945東京駅」壁と床の躯体は燃え残ったが屋根や内装は焼失

「1945東京駅」の屋上の焼け落ちた屋根



「1945東京駅」北口ドームの被災状況

「1945東京駅」中央の天皇専用玄関の様子 台形ドームは焼失

「1945東京駅」全体像 手前の水面は工事中の新丸ビルの地下にたまった雨水
(1945年 米軍写真家G Faillaces撮影)


●廃墟を復興して「1947東京駅」の登場
 東京駅を特徴づける南、中央、北の3つのドームは、鉄骨がぐにゃぐにゃになって燃え落ちました。長い間の戦争の末に敗戦して疲弊し切った日本に鉄骨はありませんでしたから、今度は木骨トラスでドームをかけました。木造大架構は戦争中の飛行機格納庫の技術の応用でした。
鉄骨ドームの代わりに木造のドームをかける 南戯地ドームは底面八角形、頂面正方形

手前から工事中の中央ドーム、北口ドーム

「1947東京駅」の各ドーム形状(2004撮影)

 この台形ドームの中に、先ほど見たアルミ製半球天井が架かっていました。北口ドームも同じですね。中央ドームの形は、もとの形のように木骨で再現しました。
 なお、ドームの屋根葺き材は、1914東京駅では石綿スレートだったが、1947東京駅では亜鉛メッキ鉄板ペンキ塗りだったのです。それを石綿スレートにふき替えたのは1952年だそうです。つまり応急トタン葺だったのが、元の材料で再現されたわけです。

 下のドームは「2012東京駅」、つまり「1914東京駅」を再現した姿です。上の写真と比較してみてください。
「2012東京駅」は「1914東京駅」の姿を再現
ところで、「1914東京駅」の南北ドームは、八角形で立ち上がって、その上に丸いキャップをかぶせたようなデザインです。「1947東京駅」のドームをつくる時に、何故同じ形にしなかったのでしょうか。技術的には木造でも作れるはずです。

 そうしなかったのは、技術問題ではなくて、その時の担当建築家たちのデザインによる選択だったのでした。内部のあのアルミ半球天井は、鉄道省建築家たちのコンペで決めたそうです。そしてこの正八角形から正方形に絞る台形ドームは、そのインハウス建築家たちの元締めの建築課長・伊藤滋による案だったそうです。

 どちらも「1914東京駅」のそれらと比べて、明らかにモダンの味を持っているのは、辰野金吾とは違う空気を吸った建築家世代の現れでしょうね。
「1947東京駅」デザインスケッチ(鉄道省建築課制作)に見るモダンさよ

 外壁を見ましょう。こちらは今見る2012東京駅ですから、燃える前の1914東京駅と同じ姿です。3階建てです。

2012東京駅(2013撮影)

 下の写真は、1947東京駅の壁面です。ご覧のように2階建てでした。
空襲で3階が特によく燃えたので、レンガ強度が劣化しているとして取り壊し、2階建てにしました。ですから、上の写真の2階の窓の上で水平に切りとったのです。
 ピラスター(付け柱)の上部た切りとられましたが、下に見るように、また改めて左官工事で柱冠飾りをつくりました。もちろん窓枠も硝子もなくなっていたので作りました。軒のコーニスを少し深く出して、パラペットも立ち上げ、形を整えています。
 まったくもってよくやりましたね。そのほかにも、余りにもきれいに整えたので、知らぬ人はこれが1914東京駅と思っていたことでしょう。
1947東京駅(2006撮影)

 ところで、この1947年の修復工事は、占領軍の命令でもあったのでした。道路が壊されてしまった日本で、鉄道は日本統治のための重要なインフラでした。東京駅内にRTOと呼ばれる占領軍用のオフィスの設置も命令されました。
 今の東京駅の京葉線コンコースの一角に、大きな壁面レリーフが展示されていますが、これはそのRTOの内装として「1947東京駅」に設置されたものでした。建築家中村順平の下に本郷新などの当時の新進美術家たちが集まって制作した一大美術作品でした。
RTOにあったレリーフ(東京駅京葉線コンコースに移設保存)

 復興時のこれらの件は、その当時を回想する本『東京駅戦災復興工事の想い出』(松本延太郎著 1991年)によって、わたしは話しています。

●華麗な復興「1947東京駅」は空爆軍への復讐戦か
 外観や内装など、特に占領軍の命令でもないのに、頑張ってしまったのは、鉄道省建築家たちの本能的な頑張りだったのでしょうか。伝えられるところでは、3~4年間をもてばよい、直ぐに建替えるから、とのことだったそうです。
 保存建替え論争の時にも、そのような仮設だから建てなおすべきとか、あるいはまた、仮設だからこそ復元すべきとか、言われたものでした。だが、その仮設建築が1947年から60年間も使われたのですから、これはいったいどうしたことか。

 考えてみれば、本当に仮設建築ならば、屋根はドームじゃなくてトタンぶきの切妻でよいだろうし、ドーム天井だってアルミ半球でなくて平らなベニヤ板でよいだろうに、外装だって燃えて痛んだレンガ壁の修復じゃなくてモルタルを塗っておけばよかったろうに、などなど、どう見ても仮設建築ではありませんでしたね。
 
 ところが、そんな「1947東京駅」にも、どう見ても応急仮設にしか思えないデザインのところがありました。それは線路のあるホーム側に面した壁です。こちら側の壁は、ホームの木造屋根の火災によって特に損傷が大きかったのでした。
 その大きな壁は、レンガ色でしたがよく見るとレンガは見えなくて一面の塗り壁でした。窓周りも柱型も、一切の装飾はありません。色つきモルタルだったのです。 

 さすがに駅前広場から見えない側は、応急的な仕事だったのです。まさにこれこそが仮設であったのです。でも、この姿でも60年間をしっかりと務めを果たしたのです。表側をなぜにあれほども力を入れたのでしょうか。
1947東京駅のホーム側の姿(1987年中央線ホームから撮影)

 この赤レンガならぬ赤モルタル東京駅を眺めていると、いくらレンガの代わりとはいえ、あまりの悪趣味なその色に辟易してしまいます。もしかして空爆下の東京都民が流した血の色か。
 ふと、もしも赤じゃなくて白色だったらだったらどうなんだろうと思い付いて、やってみました。ヤヤッ、これって表現派というか、けっこうモダンに見えますねえ、表は擬古典様式、裏はモダニズム、スゴイスゴイ、辰野さんも伊藤さんもビックリのイタズラ。
イタズラで北口ドーム壁を白塗りにしてみた

1947東京駅のホーム側の姿(1987撮影)

 もちろん1914東京駅は、線路側も表側と同様にしっかりとデザインをしてあったことは、今に見る2012東京駅がそれを示してくれています。
2012東京駅の1914東京駅を再現するホーム側(2017中央線高架ホームから撮影)

 全部が色モルタル塗壁、トタン屋根、ベニヤ板天井でもよかったのに、この「1947東京駅」の頑張り様はどこから出て来たでしょうか。建築家の性でしょうか。
 考えていて思い付いたのは、これは大事な東京駅を空爆で焼いた占領軍への、鉄道省建築家たちの復讐戦だったのだろうということです。

 ドームやらレリーフやらの飾りで、占領軍に迎合したのではなくて、単なる修復以上の新デザインもして見せることで、彼らに復讐戦を挑んだのでしょう。わたしにはそう思えるのです。しかも表は復興した姿なのに、裏は焼けた壁にモルタル塗の被災の姿のまま、その余りの落差を表現することで、戦争の文化財破壊を目に見える形で訴えたつもりだったのかもしれません。

 敗戦直後の人も金も物もない疲弊しきった日本で、よくまあ頑張ってやったものです。鉄道省だから資材の調達ができたのでしょう。それにしても、その後の60年もこの姿が生きたのですから、復讐戦は成功したということでしょう。

 あれまあ、1945年までタイムマシンで遡上してお見せするガイドをやってましたので、ずいぶん長口上になりました。次を見ましょう。つづく

註:掲載した1945年空爆被災写真のうち、モノクロ写真は『鉄道と街・東京駅』(永田博、三島富士夫 1984大正出版社)、カラ―写真は『マッカーサーの見た焼跡 東京・横浜1945年』(ジェターノ・フェーレイス 1983年文芸春秋)から、それぞれ引用しました。

東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版(伊達美徳制作ガイドブック)
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2017/06/02

1269【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド1】今見る東京駅赤レンガ駅舎は4代目の姿

東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド(1)
まちもり散人

 みなさま、ようこそ。本日の現代まちづくり塾東京駅周辺まち歩きガイド役・まちもり散人こと伊達美徳です。ガイドすると言ったって、わたしはこの地域に何の関係もないので、独断と偏見に満ちた似非ガイドでございます。説明をあまり信用しないで各自適当にご判断下さいませ。
 若干の関係があったと言えば、30年ほど前に政府が東京駅周辺の再開発調査をしたことがありますが、そのときの作業班コンサルタントのひとりで、東京駅赤レンガ駅舎保全の調査担当だったことくらいなものです。
 ガイドするのは初めてではなくて、大学での野外講義として学生たちを引き連れて何度も来ました。今回のように大人団体にレクチャーするのは初めてで、どんな質問をいただくか楽しみです。

 まず、本日のガイド資料をご覧ください。A4版8ページです。
 簡単に今日のルートと狙いをお話します。ガイド資料1ページのこれをご覧ください。

 グーグルの画像地図はこれです。


まち歩きテーマは『近現代都心景観変転史の現場を歩く』としましょう。
 このあたりの超高層景観はこんなぐあいに出現してきましたね。
・高さ50尺時代→100尺時代→45m時代→100m時代→無限時代
・1966年丸の内美観論争が起こり超高層景観時代へ、
・1977年東京駅建替論争そして歴史景観保全試行時代へ
・1988年東京駅現地形態保全が決まり保全と開発実施時代へ
・2001年特例容積率適用区域指定により百鬼夜行超高層時代へ

 このマップのから順番に説明して歩くつもりですが、途中で気が変るとか疲れてやめるかもしれません。
 その番号の場所ごとの見どころを書いておきます。 
①東京駅丸の内駅舎(重要文化財、特例容積放出900%→200%)
・1914年創建の姿は日清日露日独戦勝の記念碑
・1945年空爆炎上→1947年修復の姿は敗戦と復興の記念碑
・建築家伊藤滋の修復デザインは焼いたアメリカへの復讐戦だったか?
・西の原爆ドームと東の東京駅は日本の双璧の戦争記念碑だった
・1988年政府調査の八十島委員会で「現在地で形態保全」と決定
・調査担当したわたしは戦後形態で保全せよ復元反対と唱えていたが
・2012年3階と屋根ドームをレプリカ再現し外装を全体的に修復
・低層低容積率で保全のために未利用容積移転で工事費500億円調達
・衣装と化粧代を稼ぐため身売りした超高層ビル6本の日陰者に

②東京中央郵便局→JPタワー(東京駅から特例容積受取1300%→1520%)
・1933年創建→2012年一部保存一部曳家保存で前面腰巻保存
・モダン建築だから保存市民運動は東京駅ほどには盛り上がらず
・ヘルムート・ヤーンのデザインはNY9・11事件のパロディか?

③三菱一号館→三菱一号館美術館(東京駅から特例容積受取1300→1520%)
・1894年創建→重文指定を嫌って1968年抜き打ち解体撤去→
・跡地等に建つビル2棟と隣接の1928年創建八重洲ビルを撤去→
・2009年レプリカ再現三菱一号館美術館と丸の内パークビル建設
・重要文化財指定狙いは失敗

④明治生命館(重要文化財)→丸の内マイプラザ
・1934年創建、共同化した隣接地に容積移転して保全

⑤第一相互館→DNタワー
・1938年創建、1945年から占領軍の最高司令部となりマッカーサーがいた
・共同化した隣接地に容積移転して保全

⑥行幸通り(参照:資料4:景観の変化を追う)
・1966年天皇タブーに触れた東京海上超高層計画の今は?
・高さ100mで手打ちしたのにまわりは200mか
・東京駅復元で何が変ったのか。
・そのうちに東京駅も超高層建て替え時代が来るかも

⑦東京銀行集会所→東京銀行協会ビル→?
・1916年創建の銀行協会を1993年にカサブタ腰巻保全して超高層ビルに
・現在またもや取り壊して超高層に改築中だが今度はどんな保全か楽しみ

⑧日本工業倶楽部会館(三菱銀行本店ビル特例容積放出1300-1235)
・1920年創建→2003年半分保存と半分レプリカ再現で復元
・なんだかかなり窮屈無理無理保全の感じ

⑨新丸ビル(東京駅特例容積受取1300%→1665%:丸の内で最高容積率)
・7階オープンテラスから眺める東京駅、JPタワー、八重洲の街

 ここから先は行けたら行くってことで。
⑩日本ビルなど(個人的に懐かしいビル)
・ただ今5棟取り壊し再開発事業日本一超高層ビルに建替とか

⑪東京駅八重洲口駅舎等(特例容積受取900%-1304%)
・1929年電車乗降口開設→1948年八重洲新駅舎開設→翌年炎失
・1947年外堀埋立、1948年八重洲駅ビルの鉄道会館・大丸開館

 さて、まずは東京駅です。ちょっと空から見ておきましょう。
左から江戸城(現皇居)、皇居前広場、丸の内地区、東京駅、八重洲地区 20020年

上から八重洲地区、東京駅、丸の内地区、皇居前広場 2020年

上から八重洲地区、東京駅、丸の内地区 2020年

東京駅丸の内駅舎(赤煉瓦造復元建築)、丸の内駅前広場 2020年

東京駅丸の内駅舎(復元前建築)と駅前広場 1997年

 では東京駅丸の内駅舎にはいります。南口ドームの真ん中に集合、ここから出発します。
 頭の真上をご覧ください。なんともハデハデ飾り丸天井ですねえ。白いカラスがとまってる、いや、ハトですかねえ、動物のようなのも何匹かて、どうも十二支らしいですよ。手の込んだ日本的な工芸的な装飾で、この洋風建築に似合ってるんでしょうか。


  このコテコテ装飾天井が現れたのは2012年ですが、その前はこれと全く違って、ローマのパンテオンドームみたいでしたね。
 四角な格子部品を立体的に組み立てた半球天井で、余計な飾りのないモダンとクラシックが調和したなかなか良いデザインでしたね。
 1947年にできたそれは、敗戦で用無しとなった戦闘機の材料と製造技術だったという、時代の背景を伝えるものでした。それを取りはずしてこれに作り替えたのです。


ついでにローマのパンテオン

 この東京駅丸の内駅舎の建物が最初にできたのは1914年でした。日本は19世紀末から10年おきに日清、日露、日独(第1次大戦)の戦争をやって連勝してきました。
日本の中央駅として建てられたこの東京駅は、その開業イベントに中国のドイツ領で対独戦争に戦勝した将軍の凱旋行事に合わせました。
 この駅は、明治日本帝国の戦勝記念碑であり、その帝国統合の中心である天皇のための駅であったのです。正面を皇居に向け、行幸道路をまっすぐに設け、天皇専用の玄関が中央にありました。エイド時代からの繁華街である京橋、日本橋、銀座のある八重洲側には、開業から15年間も出入口がありませんでした。
 太平洋戦争の末期1945年5月25日の深夜、東京駅はアメリカ軍の空爆を受けて燃えてしまいました。このときは皇居も炎上し、消防隊はそちらが忙しくて、東京駅は燃えばかりだったとか。8月15日、日本4連勝ならず大敗戦、復興日本の出発です。
1945年5月25日深夜に炎上した東京駅の北口ドーム

 9月から燃え残ったレンガ壁とコンクリ床を再利用して修復にとりかかり、1947年に一応の姿になりました。さきほどのアルミ半球天井が現れたのはその時です。
 それから60年、それを戦前の姿に戻そうとて、2007年から再修復工事をして、今のようになったのが2012年です。

 つまり、東京駅丸の内赤レンガ駅舎は、これまでに4つの姿を見せてきました。この後の話がこんがらからないように整理しておきます。初代は創建時の1914年の姿、これを「1914東京駅」といいましょう。
 2代目は1945年にアメリカ軍空爆で燃えて煤けた壁とぐにゃぐにゃ鉄骨屋根になった姿、これを「1945東京駅」と言いましょう。

3代
目はそれを2階建てにして屋根を付けて修復した「1947東京駅」(筆者撮影)、
 
4代目はそれを更に修復して初代の姿にコピー再生した「2012東京駅」で、今見ている姿です。

では、駅前広場に出て正面から見ましょう。
つづく

東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版(伊達美徳制作ガイドブック)
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)