ラベル 横浜ご近所探検隊が行く の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 横浜ご近所探検隊が行く の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2025/03/25

1874【日吉で今浦島気分】平和な卒業式風景のキャンパスの森の奥と地下には太平洋戦争の記憶が今も

●慶應義塾日吉キャンパスは卒業式

 ようやく春がやって来てうららかな暖かい日、横浜北部の日吉には、慶應義塾大学の日吉キャンパスがある。2025年3月24日はは義塾の卒業式とて、若者たちとその家族らしき人たちで溢れていた。
 未だ桜は咲かないが、いつもは静かな木立の丘の上は、和服で袴の晴れ着や仕立て下ろしのような背広姿の若者たちが、春の気分を浮き立たせている。それは懐かしいような平和そのものの風景である。

日吉駅前からキャンパスの公孫樹並木道は若者たちでいっぱい

●平和なキャンパス風景の裏に戦争の記憶が

 さて、この晴れやかなキャンパスが、実は先の太平洋戦争の末期において日本の重要な軍事基地であったことを知る者が、いったい何人いるだろうか。このキャンパスには不幸な歴史があるのだ。

 ここは戦争末期はキャンパスのほとんどを日本海軍に占領されていたのだった。1944年9月から、ここには連合艦隊司令部があり、戦争末期に太平洋の艦隊に作戦司令を無線通信で発していた。その結果は誰もが知るとおりである。キャンパスの地下には、海軍の軍令部基地としてのトンネルが蜘蛛の巣のようにはりめぐらっていた。それは戦争遺跡として今も残っている。

 太平洋戦争が終わったら日本海軍と交代のように、日本に駐留してきた戦勝国のアメリカ軍に、キャンパス全部を接収されてしまった。日吉キャンパスの戦争時代が続く。キャンパスがようやく教育の場に戻ったのは、1949年10月であった。戦争がようやく終わった。

 そんなこの地の悲劇を、この祝うべき日に思ってしまうのは、わたしが世界大戦を知る最後の世代であり、このところ世界大戦が再来しそうな世相であるからだ。折から新聞報道に、自衛隊が統合作戦司令部を発足させるとある。陸海空の3自衛隊を統合するのだそうである。今の世界情勢を見て、あの戦争の失敗に鑑みて、次の戦争の準備に違いない。

 その孫の慶応ボーイにも会ったので、日吉キャンパスの戦争史を知っているかと訊けば、聞いたことがない、知らないという。そこで用意してきた自作の小冊子「戦争に翻弄された大学とモダン建築」を、読め読めと手渡した。これにこのキャンパスとモダン建築の寄宿舎が蒙った太平洋戦争史の一部とでもいうべき事件を書いたのである。これまでも慶応大学に関係ありそうな知人たちに渡してきた。

この森の奥に太平洋戦争時に連合艦隊司令部となった記憶のモダン建築

●30歳代の記憶の日吉を訪ねて

 そうして卒業式に向かう知人たちと別れたわたしは、キャンパス奥の森の中にあるモダン建築を健在をちらりと眺めてから、丘を下って懐かしいところを訪ねてきた。昔、私は30歳代の10年ほどを、このキャンパスの南にある住宅公団の団地に住んでいたことがあるのだ。時にはこのキャンパスに子供を連れて散歩に来たこともある。

 団地は昔は5階建て共同住宅群の街だったが、今は建て替えて中高層共同住宅ビル群がゆったりとあるのが、一般市街地と比べてなかなかよろしい。高齢者用の施設も建っているのが時代の変化を思わせる。周りの街も中高層の共同住宅ビルになっていたし、緑の丘も斜面を高く大きな擁壁にして、その上に高層共同住宅ビルになっていた。
 何しろ、昔のドブ川が広域幹線道路となり、地下鉄の駅がある街になったのだから、それは当然かもしれぬと、今浦島の感慨を持ったのである。

5階建てから8階建てに建て替わった供養度住宅ビル群の団地

1973年の団地風景

(2025/03/25記)

このブログ記事に関連する冊子(PDF)
戦争に翻弄された大学とモダン建築
―谷口吉郎設計・ 慶応大学日吉寄宿舎の変転ー

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
伊達の眼鏡 https://datey.blogspot.com/
まちもり通信 https://matchmori.blogspot.com/p/index.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


2025/01/31

1866【横浜徘徊】内外観光客で賑わう春節中華街の隣には寒空の公園での炊き出しに行列する貧困風景

  今年になって初めて久しぶ横浜都心徘徊、いつものコースの半分しか歩けなかった。それだけ足が弱ってきたということだ。街を歩くのを大好きだが歳が歳だから仕方ない、と、思うことにする。なんでも不都合なことは齢のせいにすればよいのだ。便利なものだ。

 今はチャイナ当たりでは春節という旧正月であり、横浜もチャイナタウンの中華街あたりは春節を祝う雰囲気で、内外からの観光客も多く、にぎわっている。
 その一方で、そこから100mほど離れた線路を隔てた南には、貧困者が密度高く多く住み着くドヤ街の寿町地区がある。その中央にある寿公園で炊き出しがあり、大勢の人たちが行列を作って今日の昼飯の配給を待っていた。中華街の人出とは全く対照的な風景である。

 寿町で毎年恒例の正月の炊き出しに出くわした。寿町地区の中央にある小さな寿町公園から長い行列が出てきて、街区を取り巻いていて、ざっと見たところ300人くらいいる。弁当か雑炊か知らないが、今日の炊き出しを待つ人々である。毎年のことであるが、その人数が減ることが無いのは、やはり世の中は不況なのである。

寿公園に並ぶ炊き出しを待つ人々の行列は300人くらいか

 この20年ほどの間、この街に時々徘徊に来て観察しているのだ。街は徐々に変化している。かつての港湾労働者の街で活気ががあり、汚かった。今はきれいにあったが、貧困高齢者たちが小さな安宿に身を寄せあって暮らす街になって、活気は全くなくなった。

 街の風景は大都市のビル街であるが、それらのほとんどはドヤと呼ばれる簡易宿所である。一泊1700円が相場で、多くの宿泊人が実は住宅として使っている。格好つけて言えばホテル住まいであるが、一室は5~8㎡、便所やシャワー室は共同である。1700円という金額は、生活保護費の算定による金額であり、市場価格とは異なるようだ。

 そんな部屋が5階建てや10階建てのビルに積み重なっているから、人口密度はかなり高く、たぶん1000人/haくらいだ。高齢者がほとんどだから介護を必要とする人の比率も高いに違いない。この10年ほどでそれらのビルの1階には、福祉看護関係事業者が軒を並べるようになった。

 古いドヤビルは建て替えが進む。それらは近代的な高層ドヤビルに建て替わるものが多い。4階建てドヤが12階建てドヤになったとしても、ドヤという営業形態に変わりはないから、ますます高密度になってくるのだ。

5階建てドヤビルが8階建て建て替わった

 ところが最近のドヤ建て替えは、徐々に傾向が変わりつつある気配が見えてきた。ドヤビルから建て替えると、共同住宅になる事例がちらほら出てきた。街の中央の寿公園斜め前の街区が工事に入ったと思って見ていたら、出現したのはどうやら賃貸借型共同住宅であるらしいのだ。

 寿町の最も寿町らしいあたりから典型的なビジネスモデル簡宿所が変わろうとしているのは興味深い。この立地に入居するのはどのような人であろうか。地区に無関係な生活をする若い人たちあろうか。この新ビルから寿町公園の炊き出し風景を眺め下すことができる。

寿公園の隣にドヤビルが建て替わって出現した賃貸借型共同住宅ビル

 それらしい建て替えはここだけはなく、寿町地区内とその周囲にいくつか発生しつつある。

5階建てドヤビルを10階建て賃貸借型共同住宅に建て替えた事例


寿町フリンジの長者町通りで戦後復興防火建築帯の4階建て店舗付き共同住宅を
賃貸借型共同住宅に建て替えた事例

寿町地区内でドヤビルを共同住宅に建て替えた事例

寿町地区内でかつての「下駄ばき公団住宅」を一般分譲住宅に建て替えた事例

 長らく空き地であったところが最近工事を始めた。その「建築工事のお知らせ」掲示板を見れば、「ホテル・旅館」と書いてある。実はドヤもホテルと称して営業しているところがあるがそれらは法的には簡易宿所と言わねばならない。工事の掲示は法的な定めの表示だから、ドヤすなわち「簡易宿所」ではなくて、必要な規模と設備を備えた「ホテル・旅館」であるらしい。

新しく建つホテル旅館の周りはドヤビルばかり

 それではドヤが減少しているのだろうか。既存ドヤビルが賃貸借型の高層共同住宅ビル、あるいはホテル旅館、あるいは一般分譲型共同住宅等に建て替えられるとドヤが減るが、その一方で建て替えでは高層化すれば室数が増えるはずだからドヤは増加するだろう。

 ということは、さしひきドヤは減っていはいないのかもしれない。増えてもいないのかもしれない。ということはドヤ需要は増えてはいないということだろうか。
 しかし、あの炊き出しに並ぶ大勢の人々の行列を毎年の正月に見ると、この世にドヤ需要階層が減っているとは思えないが、どうなのだろうか。じわじわと街が変わるのを定点観測するのは面白い。日本流のゼントリフィケイションというものがあるのだろうか。
空から見る寿町地区 見えるビルのほとんどが簡易宿所(ドヤビル)

 寿町地区のそんな風景を眺めてから、そこから100mほど隣と言ってよいほど近くにある横浜の観光名所「横浜中華街」に移って徘徊しようと、電車線路高架下通路を通り抜けようとしたら、ここにたくさんの財産を段ボールに抱えた自由人が独り住んでいるのに出会った。たぶん、一泊1700円を払えぬのであろう。先ほどの炊き出し行列に並んでいないとは、自由人となって間がないお方で炊き出し情報を知らないだろうか。教えてあげるべきだったかしら。

 さてチャイナタウンへ来てみれば、寿町と大違いの賑わいであり、派手な街である。外国からも日本中からも若い人も年寄りもやってきている。寿町とは大違いの街である。観光客が寿町を訪れることはあるまい。

内外の観光客たちで大賑わいの春節の横浜中華街

 またその隣には「元町商店街」という高級さを売り物する街があり、ここの賑わいは中華街とはまったく別種のものであるのが面白い。横浜の都心部は、「横浜港」あたりの観光名所、そして「伊勢佐木モール」あたりの中心商店街、あるいは「野毛飲み屋街」、あるいは「横浜橋商店街」という下町市場そのものの庶民的な賑わい、これらピンからキリまでの都市を一つの盆地状の狭い土地の中に収めて共存しているところが実に面白い。

 ここに住まうようになって23年、これらの街を歩いて一巡すると10キロくらいになる。それが日常の身近の楽しみだったが、今では足が弱ってもう半分も歩けなくなった。歩き残した町は次の日に歩いたり、バスを使うのだ。歳とっての街歩きは健康維持のためでもあるが、実は都市計画を専門としていたわたしには、脳力維持のオベンキョウであるのだ。

(20250131記)

このブログの寿町に関する瓢論記事はこちらをクリック

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
伊達の眼鏡 https://datey.blogspot.com/
まちもり通信 https://matchmori.blogspot.com/p/index.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


2024/11/27

1851【今どきの郊外開発・1】横浜市の西端の郊外駅前に新しい街ができたとて見てきた

 世の中から絶えて久しく見ることができなかった、郊外ニュータウン開発なるものを、久しぶりに見てきた感想を書く。人口減少のいまどきニュータウンかよ、と思いつつ、、。

●今どきの郊外大規模新開発の街を見に行った

 ヒマツブシに横浜の西の端っこあたりの郊外大規模開発を見物に行ってきた。用はないが単なる好奇心である。この人口減少時代にわざわざ街はずれの田畑の中に大規模新市街地開発をやるなんて、どういうことかと思う。

 もっとも、その答えは簡単、もっとずっと前に完成するはずはずが、ここまで遅れに遅れたらしい。何しろぜ円世紀末の1999年に、田畑と森ばかりの中に鉄道2本と駅も二つ作ってまで、4半世紀も開発を待ち構えていたのだから、いろいろ事情があったのだろう。初めに開発を構想したころとは大きく時代が変わっている。

 その時代遅れはどんな形なのかを見て、早い話がツマラン街をつくったものものだという感想であった。都市デザインとして実にどうもツマラン風景であった。でも、実際に住んだらつまらない生活かどうなのか、それはわからない。案外住みやすいかもしれないとも思った。それをおいおい書く。

 横浜と藤沢市の境に突き当たる西の端っこあたり、横浜地下鉄が行き着く西の果ての駅前に、新市街地ができたらしいので見に行ってきた。郊外のはずれとはいいながら、鉄道駅は横浜市営地下鉄「下飯田」駅と相鉄いずみ野線「ゆめが丘」駅の駅前である。このあたりは広大な農業地であったののを土地区画整理事業で市街化して、つい最近に巨大な駅前ショッピングセンターが開業したと聞く。

 実はわたしは10年ほど前にこの地を訪ねて、まだ田畑や草ぼうぼう空き地ばかりが広がる開発前の姿を見てきたことがあるのだ。このことはこのブログに記事を書いている(参照:2014/04/03/【横浜都計審】いまどきニュータウン開発かとおもえば郊外商業開発であるか)。今、それがどんな姿に変貌しているか、見に出かけた。

●こんな田舎に巨大な箱が建つとは 

 10年前には地下鉄ブルーラインの下飯田駅地下駅から地上に顔を出すと、周りは一面の畑であった。畑のモグラが顔を出した気分だった。もう一つの相鉄いずみ野線線は、畑の中の上空を鉄道高架が横切り、草原の中にポツンと駅があった。

 ところが先日に十年目に尋ねて地下鉄駅から地上に顔を出すと、目の前に巨大な壁が上下左右に行く手を阻むように立っている。白い箱の建物が駅前にドカーンと立ちふさがっているのだ。これはなんだ!。

 新しい街ができたからには、あの畑と草原だった駅前には美しい公園や広場が待ち構えているだろうとの期待は、もろくもくずれた。どうやらこの巨大な箱は、商業施設らししい。そうか、郊外型ショッピングセンターを建てるのがこの開発の目的であるらしいと、10年前に想定したとおりになっているのであった。

地下鉄駅から地上に出るといきなり立ちはだかる壁と箱

10年前に地下鉄を地上に出ると目前に広がっていた牧歌的風景

 新しい都市のへの期待はたちまちしぼんでしまった。ここは生活の場を作るのではなくて、商業の場を作るのであったか。広域幹線道路が通り、横浜都心とも結ぶ2本の鉄道の駅前だから、横浜市の西部と藤沢市の東部に広がる商圏を押えるのであろう。わたしは商業のことは知らないが、こんな都市の田舎の端っこに、こんな大きな商業施設を作っても成り立つのは、そういうことなのだろう。

●巨大商業ビルと巨大アパートビルの街

 全体構想を見ると分かるように、二つの駅間に大規模商業施設(一般にショッピングセンターと言う)と、これも大規模な共同住宅施設を建設して、その他に沿道商業等や住宅を従属駅に建てる。ニュータウンと言うよりも駅前再開発と言う方が近いだろう。
 なお、日本では共同住宅ビルのことを一般に「マンション」と言うが、わたしはこの不動産屋誇大広告的誤用外来語を使わないことにしている。建基準法では共同住宅と言うべきだし、あるいは格好つけても集合住宅と言うべきである。(参照:言葉の酔時期:マンション

開発構想のモンタージュ写真


開発の中心部の構想は巨大商業・巨大共同住宅・総合病院

全体土地利用構想図

 土地利用を見ると、全体に商業的利用が大きく占めていて、住宅系土地利用は従属的であることが特徴的である。この開発は郊外商業開発を主目的とすることが分かる。住宅過剰時代を反映しているのだろうかと思ったが、駅前には巨大な共同住宅会派tもやっている。
 それにしても、ゆとりある横浜郊外住宅地としての姿を、この構想に伺うことができないのはどうしてか。乱雑な郊外沿道開発を誘導しようとうする意図が見え見えである。
駅前広場の風景は自動車と壁だらけ

幹線道路はただただ道路の機能だけ

郊外ロードサイドの乱雑な看板類が立ち並びつつある

 では中心部から周りへ住宅街へと、新開発の街を見ていこう。この地域らしい特徴ある景観を生かした都市デザインに出会える期待を抱いて、とぼとぼと歩きだしたのであった。
(20241127記 つづく)

ーーこのブログ内の関連記事ーー

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



2024/10/08

1838【横浜MM21浦島太郎】ぴかぴか整然超高層新都市ビジネス街には浦島太郎気分が湧きにくい

  この5年ほどコロナと介護で出歩けなかったが、8月から独り身になったのっで独り街歩きを少しづつ再開している。ついでに言えば、同時にやめていた酒飲みも少しづつ再開練習中である。
 街歩きはコロナ前にはしょっちゅうやっていて、何時間でも歩いていたものだが、介護で逼塞している間に、老いが進むとともに脚力が衰えた。老いてもまだ歩けるうちに、せっせと都市歩きをやっておきたい、転ばぬように杖を突いて。。

 復活してから訪ね歩く街は、5年もあれば大変化に十分な時間であり、まるで浦島太郎の気分になることもできて、それはそれで楽しいものだ。品川駅東地区新宿駅周辺地区についで、新横浜駅周辺地区に行ってみたが、駅そのものと新幹線には浦島気分だったが、町はそうでもなかったので、ここに書くほどのことはない。
 昨日は、横浜「みなとみらい21」地区(MM21)に浦島太郎気分を味わいに行ってきた。まあまあ太郎気分もなくはなかったが、新宿と比べるともの足りなかった。

 みなとみらい地区に入るのはたぶん5年ぶりだろう。わざわざ紅葉丘から掃部山に登り、山を下っていく昔のルートから、久しぶりのMM21である。
 国道16号を横断し、頭上を走るJR線路の高架をくぐり、すぐまた地上を走るJR貨物線の踏切を渡るという、せせこましいMM地区入口を過ぎると、途端に超高層街が現れるのが面白い。実はこの踏切あたりは、かつて巨大造船所時代には工場の門があったそうだから、伝統的には正し入り方である。

街からMM地区に入るには国道をわたり鉄道高架をくぐりぬける
 
鉄道高架をくぐり貨物線の狭い踏切を渡ってMMへ、昔このあたりが造船所の門だった

 もちろんもっと北や南の広い道から入るのが普通のルートだが、今日は久しぶりにこのルートにしたのは、浦島太郎気分のためである。踏切を過ぎると高速道路の高架をくぐるという、まことに念入りに現代風のゲートが仕組まれている。ここは昔のままの風景である。
 はいってしまうと広い広い道路に高い高いビルが立ち並んでいて、昔はこのあたりが原っぱだったことが不思議な世界になっていた。さすがに海だったころを知らない。

 ここにあった大きな広い平屋のDIY屋は、黒くて高いホテルのビルに変わっていた。ごちゃごちゃした住宅展示場も白いオフィスの超高層になっている。巨大なイベント会場もできている。汚らしい幟りやら小旗がはためいていた野天の自動車屋はどうしたのかしら。子供でにぎわっっていたアンパンマンなんとかってのはどこに行ったのだろうか。


 浦島太郎気分であたりを見まわしつつ歩けば、広い道路に沿って一様に白っぽい壁と黒っぽいガラスの似たような超高層ビルばかりが並び立ち、歩道がにぎわうことはなさそうだ。ちょっと寄ってみようかなと思った建物は、神奈川大学が新キャンパスの白い超高層であった。ここだけは広場に学生たちがいて、3階あたりまで一般開放しているらしいから、人影があるのがよろしい。広い芝生がないキャンパスは寂しい。

 アトランダムに風景を載せる。






 モールの樹木は高くなり緑が繁って、景観がよくなっている。でもビルの姿は空き地に大きなものが建っても基本的には変わりがないというか、別に面白くもないものだ。


  PCの中を探したら上の写真と同じアングルの10年前の写真を見つけた(下図)。遠くの正面にビルが建ち、左の空き地にもビルが建ったところが変化だろうか。
10年前のモールは緑が貧弱で街に潤いがなかった
 
 ふらふらとあてどもなく歩く。用がなくて動くのだから、変化がないと疲れてくる。似たようなオフィス然としたファサード構えばかりではなくて、店舗の賑わいにも出会いたいのだが、それがなんだか難しい。任意に撮ったどの写真を見てもわかるように、全体に広告や看板類の規制が実によく働いていて、それらが一つも見えない。だから歩いていてもビルの前まで来てはじめて、あ、ここは食べ物屋か、食品量販店か(スーパーマーケットともいう)、お茶飲めるな、ここでは酒飲めるかもしれないな、なんてことをようやくわかる。
 
 これは来訪者には不親切だが、ここで暮らし働く人たちだけがが、それらの場所を分かればよいのだろう。観光客を呼びたいとは思わないのだろう。街の賑わいなんてことよく言われるが、一方で街の景観なんてことも言われるようになり、これらは対立概念ではないが、ここのような新しい街を作るときにどちらに親切になるように傾くのか、興味がある。

 でも考えると、今どきは誰もがスマートフォンを持っており、その中にある町案内に頼って歩けば、どこに何があるかわかる。ビルの上やら前やらに看板広告を掲示する必要がないのだろう。なるほどネット時代は街の景観をすっきりさせるのか。今に中華街もすっきりするのだろうか?

デッキレベルの歩行者ネットワークも充実してきた

 かつては横浜駅からアクセスすると、広い空き地だらけで、草ぼうぼうの地を眺めながら歩いたものだが、それが懐かしくなって、PCの中を探してみた。アトランダムにそれらの原風景を載せておくが、今となっては私にはどこであったかわからない。まさに浦島だ。
2011年12月13日

2011年12月13日

2014年3月25日

2009年10月1日

2014年3月25日

でも、まだ空き地はあり、こんな風景がごうごうと音を立てていた。

 総じていかにもニュータウン的ビジネス街になってきたが、どこかで見てきたような新都市風景であって、どこかに計画の鬼が潜んでいるらしい。しばらく見ぬ間に自然に変わったのではないから、浦島太郎的気分がわかなかった。新しいものばかりだと記憶がないからだろう。

 みなとみらいプロジェクトはこのあたりメインの地域だろうが、私の好みとしては新港地区の方がはるかに面白い。もう20年もたてば、MM21のピカピカ地区もいろいろと崩れたところが出てきて、味が出てきて面白くなるかもしれない。その時に私が訪ねてくることはありえないが、もし来たらそのときは浦島太郎になれることであろう。

 最後に2014年と2022年のグーグルアース写真を載せておく。
2014年3月16日MM21空撮 google earth

2024年2月12日MM21空撮 google earth

 (2024/10/08記)

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
伊達の眼鏡 https://datey.blogspot.com/
まちもり通信 https://matchmori.blogspot.com/p/index.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


2024/08/29

1833【敷居の高い警察署】洪水にも地震にも強い建物は頼りになるが平素は入りにくい警察署

 近所の警察署は敷居が高い。まあ、あまりお世話になりたくないし、幸いにこの四半世紀ほどの間に一度もお世話になっていない。
 近所徘徊でその警察署の前を通るとき、こんな看板が立っていることに気がついた。

 伊勢佐木警察署にはスロープがございません。階段が利用できずお困りの方は下記にご連絡ください。中につながります。施設が古くてご不便をおかけ致します


 これまでここに用がないから、しょっちゅう前を通っても知らなかったが、そうなのかと改めて警察庁舎を眺めたら、昔の官公庁の建物によくあったように、一階床が半階分ほど高くなって、正面からは階段を上って入るようになっている。
 こうなっていても、普通はべつのところからスロープなどで1階に入ることができるようになっているものだ。敷居が高いとはこのことを言う。 

 そういえば今は移ったが鎌倉警察署も二の鳥居そばにあったころはそうだった。東京日比谷の警視庁本部庁舎の玄関も階段を昇る必要がある。それが警察というものの権威を象徴していたことになる。

 伊勢佐木警察署の建物は、玄関も敷居が高いが、建物のデザインも拒否的な姿をしている。縦横斜めのコンクリート柱や梁で頑丈な格子に包まれていて、ちょっとやそっとの攻撃では壊れそうもないほどに頑丈らしい。

 それはまあ、洪水があっても一回が水没しないし、地震があっても他の建物が壊れてもこれだけは耐えて建っていて、救助活動の本拠になるという頼もしい姿ではある。でも、その時に押し寄せる負傷者や高齢者たちなどは、階段を登れないよなあ、その中には私もいるのだなあ、う~む。

 でもやる気があれば、スロープを付けることができそうな敷地である。道路から結構セットバックしているし、できるなら隣の公園と一体再整備にすれば、さらにより良いアプローチの方法がありそうだ。

(2024/08/29記)

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
伊達の眼鏡 https://datey.blogspot.com/
まちもり通信 https://matchmori.blogspot.com/p/index.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 

2024/08/06

1829【救急要請】空中陋屋から俯瞰する公園に人が倒れている、しかもこの暑い日向の地面に、、

 わたしの住み家は地上20mの空中陋屋である。今日、昼飯を食う前の12時10分頃、バルコニーから100mほど遠くに俯瞰する公園の片隅に、男らしい黒っぽい服の人が倒れている、いや、寝ているのかな、でもなあ、こんな暑い日のしかも真昼の日向の地面に直接に寝るかなあ、もうどれくらい寝ているのかな、と気にしつつ部屋内に引っ込んだ。

 そういえば昨日の朝はやく、散歩で通りかかったその公園近くの歩道に、酔っ払ったらしい若い男が電柱に寄りかかって寝ていたなあ、あの男はどうしたかなあ。

 昼飯を食ってまた1時ころ見下ろせば、まだ寝ている。ゆるゆると起き上がろうとしてはまた転ぶ動作を繰り返しているから、寝込んでいるのではなさそうだ。あの動作のよろよろ加減は、わたしも年寄りとして身に覚えがある。そばにつかまり立ちに役立つものがないから困っているに違いない。わたしもあんな姿になる時があるかも。

 見ているうちに公園内をばらばらと5人が通り、一人は近くにいる様子だが、だれも気にしないのは何故だろうか、う~む、救急隊に電話かけるべきかどうしようかと悩んだ末に、119番に電話して救急出動を頼んだ。


 13時20分に救急車のピーポーが聞こえたので見下ろすと、二人の隊員がやってきて、寝ている人と話す様子、やがて両手を二人で引っぱって立ち上げ、木陰の植え込みに抱えるようにして連れて行き、草むらの中にまた寝させて立ち去って行った。

 病院に行くほどではなかったらしいから、それはそれでよかったが、もしかしたら大きなお世話だったろうか。でもあのままこの暑い午後を日向の地面に寝ていれば、干物人間になり日射病だろうから、ひと助けにはなったと思うことにした。 

 大きなお世話になっても救急連絡をしたのは、わたしには深い理由がある。思いだせば3年前の夏、近所の別の公園脇の歩道で、家人が転倒して顔面強打気絶、通りがかりの人が救急隊に電話をかけて下さった事件があった。その体験があるから、わたしはここで知らんぷりできなかった。なお、その強打で起きた脳内血管疾病によって、要介護5にも至る老々介護となり、つい先日それに終止符を打ったばかりである。

 ところで、あの公園の男は、地べたから自分ではは起き上がれない様子だった。それが今度は草むらの中に寝かせられているのだが、まさか、あのまま今夜も寝ているとか、、。

(20240706記)

このブログ内の関連記事
葉月解放宣言】20240601

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
伊達の眼鏡 https://datey.blogspot.com/
まちもり通信 https://matchmori.blogspot.com/p/index.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


2024/07/28

1826【横浜不二家建て替え】伊勢佐木モールにも美術館なる文化施設がやってくるらしい

  横浜のめいっ商店街「伊勢佐木モール」で、「横浜不二家」戦前の建て替え工事が始まった。このあたりでは今や、ホテルニューグランドと並ぶ戦前モダンデザイン建築だった。
 これが建て替えとは、どのような保全策を講じるのか、それとも全く保全策を講じないのか、興味あるところだ。ホテルニューグランドは超高層に建て替えの時に保全策を講じて、その戦前からの姿を今も見ることができる。

 昨日通りすがりに横浜不二家の工事用囲いにある「建築計画のお知らせ」掲示を見ると、新不二家建築の設計者名が「レーモンド設計事務所」とある。

伊勢佐木モール現況 
左に不二家工事中 右に元百貨店いま場外馬券売場

伊勢佐木モール現況 左に不二家工事中
右向こうに
元ユニクロダイソービル取り壊し中

 当初設計者のアントニンレーモンドが起こした設計事務所だろうから、これはもちろんかの名建築家のデザイン(1938年)をないがしろにすることはありえないだろう、どんな保全策を講じて、伊勢佐木モールでのあのモダンデザインを誇らしげに再生するのか、楽しみである。
取り壊し前の伊勢佐木モールの横浜不二家がある街並み

 掲示には、新ビルの規模は6階建てで高さは28.5mでこれまでの大差はないようだ。用途に「店舗・美術館」とあるのが嬉しい。
 伊勢佐木モールは鉄道を挟んで馬車道通りにつながるのだが、馬車道には県立博物館という戦前の様式建築を保全した堂々たる文化施設があるのに対して、伊勢佐木町側は文化果つる街である。

 伊勢佐木モールで唯一の文化的施設らしいといえば「有隣堂本店」くらいなものだが、ここも近ごろ次第に書店文具店機能縮小の気配が見えてきており、心配している。
 そういえば10年ほど前までには、古書店が軒を並べていたのが、いまやブックオフなる書店、というよりも中古品何でも屋があるだけだ。いわゆる町の本屋さんが2件だけ頑張っているのが、うれしい。

 ここにいたってようやく美術館なる文化施設が、レーモンドデザインで登場するとは、このところ安売り屋と飲み屋が跋扈して来て、低落著しい伊勢佐木モールの復活の契機になるかもしれぬと、期待もするのだ。

 この不二家のすぐそばでも結構大きなビル建て替えが進もうとしている。そのビルにはユニクロとダイソーという安物屋の双璧となる店があったが、さてそこでの新ビルには、どんな文化機能が来るのか、これも楽しみである。(20240728記)

 このブログ内の関連記事
2023/10/21【横浜随一の商店街の変化
2023/03/10【東京大空襲

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
伊達美徳=まちもり散人
伊達の眼鏡 https://datey.blogspot.com/
まちもり通信 https://matchmori.blogspot.com/p/index.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━