2020/08/22

1486 【望郷と忘却:『荘直温伝』読後感想文:2】高梁盆地を縦断した山陽山陰連絡鉄道を当時の町長は街としてどう受け止め、後世はどう生かしたか

望郷と忘却:『荘直温伝』読後感想文:1】のつづき

●荘直温町長が誘致した鉄道

 日本の小さな地方都市が一人の人物を通じて、日本史の中にどう位置付けられており、どのように国家の網目の中に組み込まれ、それをどう受容したか、興味深い本をよみました。
 わたしが少年時代を過ごした街ですから、地理的によくわかるので読んでいて身に染みるのです。ここに書くのは、わたしの故郷の高梁盆地を舞台にした一人の男とその一族の伝記・松原隆一郎著『荘直温伝』を読んで、極私的な読後感想文です。
 前回はその本の付録の幕末地図に、わたしの生家である神社が載っていないことへの疑問と探索でした。

 今回は、荘直温が高梁盆地のリーダーとして行った大事業の鉄道誘致について感想を書きます。この高梁盆地に中国地方を南北に結ぶ幹線鉄道の伯備線備中高梁駅が開通したのは1926年でした。それがその後の高梁盆地にもたらした実に大きかったたことは、著者が110ページ(本文365ページ)も使っているほどです。

 特に誘致運動についての荘直温の中央政府への陳情努力は、それに私財をつぎ込んで荘氏没落に至った原因となったとさえ書いてあります。
 20世紀の初め頃、日本各地で鉄道誘致運動が盛んであり、政党の政友会はこれを利用して勢力を伸ばしたくらいでした。岡山出身の犬養木堂がキイマンとして登場するように、高梁もその一つだったのです。鉄道誘致は政治運動であり、荘直温は表に出せない多額のカネも使ったことでしょう。


(「荘直温伝」より引用)

 山陽の岡山からに北へと山陰と結ぶ路線候補はいくつかあり、どこもそれがわが町を通るか否か、大きな政治経済問題でした。南から高梁川にそって北上する鉄道が、高梁盆地に入る直前に西方の成羽川沿いに方向を変える路線候補が、高梁にとっては大きな競争相手でした。高梁と成羽の熾烈な陳情合戦の結果は今に見る様に高梁路線になったのです。
 思えば戦国時代、高梁盆地の支配者であった荘氏の先祖の庄氏が、成羽に鶴首城を構える三村氏と幾度もの松山城を取り合う合戦をしましたが、その再現だったでしょうか。

 伯備線は1928年に山陽山陰連絡幹線として岡山‐米子間が開通します。高梁盆地から南に1時間ほどで倉敷や岡山へ、北へ3時間ほどで山陰へと結ばれました。
 線路が盆地の底を南北に縦断して、城下町を東西二つに切り裂きました。その備中高梁駅は、盆地北部の繁華な城下町から離れて、南部の水田の中にポツンと登場しました。駅や路線の位置は鉄道としては合理的だったのでしょうか。
 しかし、長い繁栄をしてきた城下町としては駅も線路も奇妙な位置です。そしてその後の高梁盆地の消長を左右してきた鉄道でした。

 この鉄道に関する極私的な記憶から書きます。わたしたち盆地の底の少年たちにとって鉄道は、ここから外に出ていく道であり、駅はその出口でした。
 そして乗るのは常に地形的には下るのに上り列車であり、反対の北行き下り方向には全く目が向かないのでした。わたしは少年時代の終わりとともに出て、そのまま戻っていません。弟たちもそうです。

 わたしの父は、この駅から3度も戦争に出てゆき、運よく3度とも生還しました。最初と次は中国戦線に、3度目は関東で本土決戦に備える兵役でした。
 3度目の1943年12月、この駅から母とともに送りだし、家に戻ったとたんに母が泣き崩れた記憶があります。その父母も55歳でこの駅から出て行き、岡山そして大阪へと移り住み戻りませんでした。

 では、わたしたちが出ていった如くに、他の人々も出て行って盆地内は空き地空き家ばかりになったかというと、そうではないようです。
 私の生家があった神社の境内や山林は変わりませんが、その周りの広い田畑や竹藪だったところは、今ではびっしりと住宅が建ち並んでいます。出て行った人を上回る人たちが周辺地域からやってきたのでしょう。

 実は高梁盆地の人口を調べていて、江戸中期から1万人前後であまり変化がないという、じつに興味深い発見をしたのです。盆地特有の閉鎖空間の自然環境と社会環境が、そのようにさせるのでしょうか。
 行政市域人口は減少するばかりですが、その中心部の盆地では出入りが均衡しているのです。誘致した鉄道が盆地から人や物を奪っていくストローとして働いたことは確かでしょうが、一方で鉄道があったことで地域中心としての地位を保持し、周辺地域から人々を吸い込んだのも事実でしょう。

●高梁盆地を縦断する鉄道

 それにしても思うのですが、どうして町長の荘直温は誘致した鉄道を、この線形で盆地の中を通したのでしょうか。
 駅は賑やかな城下街から南に外れた寂しい田んぼの中であり、線路は盆地内随一の優良邸宅地の武家屋敷町をなぎ倒して縦断しました。それは鉄道敷設する側の都合によるものか、それとも地域が欲した位置でしょうか。どうも鉄道側の都合だったような気がします。

近世形成の計画市街と近代以降形成の無計画市街との比較

 この街なかを通る鉄道の列車は、長時間の大騒音、地を揺るがす振動、真っ黒な煤煙を街に振りまきました。わたしにも直接被害経験があります。
 戦後に生まれて新築されたばかりの新制中学校に入学しましたが、その校地は鉄道線路に接していました。3年生の時の木造校舎の教室は線路際の2階でしたから、騒音煤煙振動の3重苦に襲われて、列車が走るたびに授業は中断しました。

武家屋敷町の石火矢町を切り裂く機関車
1971年公開映画「男はつらいよ 寅次郎恋歌」より引用
 
 ついでながら、この学校の北側には専売公社の煙草工場がありました。この工場から煙草に入れる香料の甘ったるくて胸が悪くなる異様な匂いが、学校全体に流れ込んでいました。この工場も荘直温伝には、彼が土地斡旋に苦労して誘致成功したとあります。どうも少年のわたしは、その称えられる荘直温の事績とは相性が悪かったようです。

 荘直温の事績について付け加えると、街の南部の川沿いに桜並木を彼が作り高梁の名所であったが、これを後の1940年に切り倒したことを著者が難じています。高梁では桜土手と言っており、幼児のわたしは親に連れられて行った記憶があります。3歳以下の幼児にサクラドテなる言葉の記憶があるとは思えないので、実は一部が後々まで残されていたのでしょうか。わたしの少年期の花見は方谷林でした。

 駅がなぜ賑やかだった城下町に接することなく、遠い田んぼの中だったのでしょうか。普通に考えるとその駅の周辺が新たな市街地として整備しやすいからと思うのです。
 ところが、わたしがいた50年代までの駅周辺は映画館(3軒もあった)や飲食店が多い歓楽街で、買い物に行くところでもなし、まして少年が行くところではないのでした。買い回り品は城下町の中心の本町や下町へ、最寄り品は新町や鍛冶町へ行ったものでした。

 駅から南部は大部分は田んぼでした。駅裏になる駅東側は、鉄道で出荷する松など木材がたくさん積んでありました。松丸太の積み出しが盛んな駅でした。
 その後70年代には栄町がショッピングの街として繁栄したと、この本にはありますが、50年代末に盆地を出たわたしは、その姿を知りません。


1946年ころの盆地南端から北を写した、右方に線路
1947年航空写真 左端に臥牛山、右方の駅前通りから南部は田んぼ

 駅ができたことで開発利益に与るのは、それまで田畑を持っていた人たちです。なぜこの位置だったのでしょうか。

 それを勘ぐれば、ここは旧松山村のエリアであり、松山村で荘氏松山分家が庄屋として、18世紀終わりごろから采配を振るっていたのです。駅を旧城下町と旧松山村とで取り合いになり、荘直温町長はその故地に駅を決めたのでしょうか。我田引水をもじって我田引鉄といいましたが、その実例かもしれません。

 一方、線路が縦断するだけの旧城下町は、直接利益がないどころか生活環境が悪化しました。武家地だった寺町、間之町、頼久寺町、石火矢町、内山下の静かな高級住宅地を縦断するのは、鉄道の線形としては最良だったのでしょうか。

鉄道線路は武家屋敷地(青色部)を縦断して驀進
(「荘直温伝」付録地図の一部を加工、
グレイ部は商人地

 町長の荘直温はどうしてそれを受け入れたのでしょうか。いや、鉄道用地土地買収で地元調整に尽力したと関係者から感状をもらっているのですから、積極的にこの武家屋敷地縦断を進めたのでしょう。誘致とバーターだったのでしょうか。

 なぜ商人地でなくてこの武家屋敷町を通ったのでしょうか。没落士族のほうが、栄える商人よりも土地を手放し易かったのでしょうか。商人地は間口が小さいので関係者が多くなるが、武家地は宅地が大きいので買収対象者が少なかったからでしょうか。
 西半分を線路にとられた石火矢町は、残る山側の半分だけが現在は武家屋敷町として歴史的雰囲気を演出しています。同様の頼久寺町ときたら、わたしが毎日のように通っていた1940~50年代は、武家屋敷どころかほとんどが竹藪でした。いまは住宅地のようです。

 元都市計画家の目で、高梁盆地の地図や空中写真を見て、奇妙なことに気が付きます。駅から遠い北のほうの街、つまり近世の城下町だったところは道も街網も整然としているのですが、駅やその南のほうの街つまり近代以降のできた街は道も街並みも乱雑です。
 どうやら、鉄道が来て駅周辺が田園地帯か市街地に変わっても、近世以前のように都市計画的整備をしないままなしくずしに街になったようです。

 つまり、荘直温町長は、鉄道の駅を受け入れる側の街としてのまちづくり計画もないままに、鉄道事業者の計画に従って土地買収に協力しただけなのでしょう。もしかして、鉄道がどのようにこの地に影響及ぼすか考えることなく、誘致そのものがが目的化してしまったのかもしれません。荘町長は鉄道が高梁盆地の一大流通産業である河川交通の高瀬舟の没落を招くと考えなかったのでしょうか。その頃の町議会の議事録を閲覧したい。


中央に備中高梁駅、その左下方の整った街並みが江戸時代の城下町

 その後の為政者たちも、南部地域を駅を中心とした街として面的に整備することなく、いくつかの道だけを作って、なし崩しに田畑を宅地し、適当に公共施設を作ったようです。総合的に街を作ることに関心がなかったようです。
 地元有志が計画した栄町商店街再開発ができなかったが、行政のリードすべきだったのにと著者の松原さんは指摘していますが、駅中心の田んぼの街づくりさえできないのに、そんな権利輻輳した市街地のまちづくりは、とても無理でしょう。駅前通りと栄町通りの道づくりで手いっぱいだったのでしょう。

●他都市と比較する鉄道の位置

 では、鉄道が高梁盆地に来た頃、岡山県内の近くの他の同じような盆地ではどうだったでしょうか。昔を調べるのは面倒なので、グーグルマップで現在の空中写真を見ましょう。
 まず新見盆地ですが、伯備線は城下町だった市街地の川の向う、高梁川の対岸に線路も駅も作っています。だから既成の城下だった市街地の破壊がなかったようです。しかし駅周辺を見ると、どうやらここも総合的に整備されないまま今日に至っているようです。


新見駅は旧城下町から高梁川の対岸にある

 津山盆地も新見と同じように、旧城下町市街を避けて吉井川の対岸に駅と線路を通しています。ここも駅周辺総合的整備はなかったようで、旧城下町市街地が栄えています。
 ということで、新見も津山もやらなかった旧城下町破壊を、高梁盆地では鉄道に許しているのでした。荘町長は誘致運動で資産と体力を使い果たし、備中高梁駅開設の2年後に他界したのでした。

津山駅は旧城下町から吉井川の対岸にある

 高梁盆地でも地形的には高梁川の右岸(西岸)に線路を通して、そこに駅を作ることができたはずです。盆地に入る直前に川を越えて右岸に移り、そのまま北上していくほうが線路線形はまっすぐにになります。そして城下町破壊をしないで済みます。
 新見や津山と同じころに鉄道ができたのに、なぜ荘直温町長の高梁では武家地を縦断し、旧藩主館の尾根小屋跡の門内にまで鉄路を入りこませたのでしょうか。

 そのわけを勝手に推測すれば、維新前の荘一族は松山藩のあちこちの村で、農民を統率して武家に過酷な年貢を納める庄屋であったので、その支配階級への維新後意趣返しだったのでしょうか。
 それとも逆に、秩禄公債を食いつぶして困窮していた元武士階級を鉄道用地買収補償金で救済したのでしょうか。
 いや単に西岸は隣村だったから、通すわけにいかなかったからでしょうか。

 他の街との比較ならば、ここでドイツの有名な古都市ハイデルベルクを挙げなければなりません。わたしが1991年に”発見”したドイツのこの街の景観は、驚くほどに高梁盆地と実によく似ています。
 旧城下町と駅中心新市街という関係は、盆地地形的にハイデルベルクにそっくりなのです(詳しくはこちらを参照)。もっとも、新市街地も計画的に開発しているところが、高梁盆地を大違いですが。

 ここも高梁盆地と同じように鉄道が新市街から旧市街の反対側に抜けているのですが、高梁との大きな違いは、それが市街地縦断ではなくて、背後の丘陵地のなかをトンネルで市街地の端に抜けていることです。
 高梁盆地に例えると、秋葉山から臥牛山の中をトンネルで内山下の上に抜けるのです。これなら線路が旧城下町に何の影響も与えません。伯備線にはハイデルベルクのような路線案はなかったのでしょうか。

ハイデルベルクの左半分が古都 鉄道が古都を避けてトンネルで抜ける


高梁盆地赤点線のように線路をトンネルにすればよかったと思うが、

 ついでに言えば、ハイデルベルクでは山側の幹線道路も半分はトンネルです。通過交通が街の中を通らないので、ネッカー川と市街の関係が密になります。
 高梁盆地では高梁川沿いに幹線国道を作り、しかも堤防を塀のように高くしたので、街と川の関係が非常に薄くなりました。わたしが少年のころはこの高梁川が大きなレジャーランドであり、同様に周囲の緑の丘陵もそうでした。そうだ、松山城の天守へは日常的に登って遊んでいました。今はどうでしょうか。

 というわけで、荘直温の努力で誘致に成功した鉄道を、著者の松原さんは社会経済学的に評価されたのですが、わたしは盆地内の都市計画的として辛い評価をしてみました。もちろん、著者のように新資料を駆使する能力はないので、極私的な感想として面白がっているだけです。
 さて、続きを書くかなあ、だんだん妄言が多くなりそうだなあ、どうしようかなあ。

(つづく、かもしれない) 

高梁盆地に関する記事はこちらにも

2020/08/17

1485【コロナ文化時代来るか】人間の顔部に新たな陰部を作り出したコロナがもたらす新文化の行方は

  コロナ時代の都市観察をするのが好きで、近所の繁華街を定点観測的にぐるぐると、日常的に徘徊している。
 それだけでは飽きてきたので、半年ぶりに東横線・半蔵門線に乗り、東京都心に観測遊びに行ってきた。1時間も電車に乗るは久しぶり、車内観察した。暑い8月15日の土曜日、東横線は座席はちらほら空いているが、2・3人が立っている。半蔵門線は座席満員、立つ人が10人くらい。半年前に比べると、ずいぶん少ないのは、コロナのせいか、夏季休暇のせいか。

 車内の人々全部が、顔面にマスクで顔下半分を覆面姿である。マスクは完全に人間の日常衣装と化した。途中で乗り降りした人の中に2人だけ素顔を見せている男がいて、なにやら世に逆らう反骨の人に見えたが、単に着けるのを忘れて出ただけかもしれない。
 スマホもほとんど衣服並みにだれもかれもが身に着けている。マスクとスマホが現代人の身だしなみだ。わたしは前者しか身に着けていないガラケー派となってしまったが、それもまた希少でよしとする。

 スマホはどんどん進化するようだが、その出現からそれなりに時間がたっている。マスクがこれほど普遍化したのは今年だから、これから進化するのだろう。今のところほとんど白い布製ばかりだが、一部に黒色とか花柄やストライプの色模様もある。形はほぼ同じで、三角や丸や星型なんてのはない。
 要するにマスクはまだファッションになっていないのだ。着ている衣服と合わせたデザインのマスクにはお目にかからない。マスクは今のところは衛生必需品として機能性を求められるばかりの段階らしい。

 これからコロナがいつまで続くのかわからないが、今はマスクを着けないと村八分、ヘイト対象で、店にも図書館にも入れてくれない。これで1年以上もマスク着けて暮らしていると、マスクの無い姿はを考えられなくなるだろう。マスクは非常時用ではなくて日常の必需衣服と化して来るだろう。
 ということは、マスクはその内側にある肉体の一部を隠すべきものとなり、パンツ、ショーツ、パンティ、ふんどしと同じになるのだ。これら下着がその機能性だけでなくて、さまざまに変化し進化してきたように、マスクも多様な進化の道を歩むだろう。

 そして重要なことは、顔面の下半分を陰部とする覆面文化の登場である。
 先日の電車の中で、対面に座る女が指でマスクを外そうとしているのをふと見て、一瞬思った、わたしは見てはいけないものを見てるのかもしれないと。そう、女が下着を脱ぐ場面が頭をよぎったらしい。女はジュースを飲んだだけで、元に戻して何事もなかった。
 これまで陰部とは、腰のあたりにあっただけだが(女性胸部も陰部なのかしら)、いまや顔面に陰部ができたらしいのだ。わたしたちは今、新たな文化誕生に立ち会っているのだ。さて、この顔面陰部文化の覆面社会は何をもたらすだろうか。

 その電車に乗った日、久しぶりに中華料理屋で蕎麦を食った。ひとりだから案内されたのは横長カウンター席だった。その座席ひとりひとりを仕切るように、カウンター上に衝立が立っている。隣席からのコロナ飛沫防止策だろう。
 これは何かを連想させると考えたら、今はなくなったが公衆便所の小便所である。そうかあの小便所の仕切り板は、隣の小便飛沫が引っかからないためだったかと、今頃になって気が付いた。ならば大便所のように、一人個室の飲食席もあるかもしれない。
 これは飲食文化の大変化である。飲食しながら話し合うのが危険だとすれば、個食しかない。話はネット経由で離れてやればよい。飲食店は公衆便所のように仕切り席と個室だけになるのだろう。
 そう、レストランは限りなく公衆便所に似てくる、公衆便所をレストランに転用するかも。まあ、出す行為と入れる行為は、似てはいるよなあ。
 
 ところが車内で一人だけ見た若い男だが、口の前に透明な板を顎から塀のように立てまわしている。額からカーテンみたいに透明板をぶら下げるフェイスシールドを見たことあるが、これはなんというのか。今ネット検索したら透明マスクというとは、なんともベタな。これがマスクの発展形の一つなのであろう。とにかく顔面の陰部を人目から隠さずに見せている。

 しかし、その男を観察すると、鼻が出ているし、上部が顔面との間で大きく空いているら、他からの飛沫はどんどん入ってくるように見える。まあ、布マスクもヴィールスは簡単に通過するそうだらか、どっちもどっちだろう。だが陰部が見える見えないの違いは大きい。

 ということは、あ、そうか、レストランも透明な仕切りや壁で人々を隔離し、話は電気的に伝え合えばよいのか、これなら陰部を隠す必要がない。隠す必要ないなら陰部ではないのか。
 そうか、見せてもよい陰部であるのは、まだ過渡期だからだろうか。そのうちに見せることも禁止になるかもしれない。だって、腰あたりの陰部も歴史的には、アダムとイブの前はみせてもよかったのだから。

 さて、新肉体文化は新陰部を隠す方向に行くのか、それとも新陰部露出はしないが見せる方向に行くのか。これからのコロナ文化の行方に興味は尽きない。
 別の見方をすれば、今、マスク産業界は布派と透明派が初期の暗闘をやっているにちがいない。いずれに軍配が上がるのか、それも興味尽きない。ヒマである。

2020/08/15

1484【コロナの街徘徊】酷暑コロナ禍敗戦記念日の東京九段靖国神社風景にいつもと変わりなしが何だか怖い

熊五郎:こんちわーご隠居、おや、どこかから戻ってきたばかりですかい。
ご隠居:おや、熊さん、うん、ちょっと東京までね、まあお上がりよ。
:超ホット日に超コロナの東京へなんて、そりゃ”基地外”沙汰ですよ。
:それは心配してくれてるのかい,バカにしてるのかい。
:で、どこに行ったので?、あ、今日は8月15日敗戦記念日、さては今年も靖国神社”産廃”ですか。
:おお、そのとおりだよ。ホット禍コロナ禍だから今年はやめるかと悩んだよ、でもねコロナ過の敗戦念日の靖国神社って組合せは、今日しかないから行った。
:しょうがない歳より野次馬だね、死にますよ、で、どうでした?

:久しぶりの東横線、子どもの遠足みたいにキョロキョロ、この前に乗った時の風景を思い出した、桜の花が咲いてたから3月末だ、大岡山に花見に行ったなあ、あれ以来だよ。今回は太陽がギラギラだな。
:ほぼ半年ぶりで、窓の外ばかりじゃなくて、車内風景も変ったでしょ。
:今日は東京の地下鉄もあわせて1時間も乗った、コロナ風景をじっくり観察したね。
大きく変わったのは、妙に空いてること、だれもかれもがマスクしてることだね、白いの黒いの花柄などの覆面だらけで、中に2人だけ素顔の奴がいたけど、なんだか信念ある偉い奴にみえたね。
:いや、単に忘れて出ただけかも、そういうご隠居だってマスクでしょ。

覆面風俗がこうも普遍的になると、素顔露出してると世間からヘイト対象、話もしてくれない、店にも図書館にも入れてくれないんだもん、しょうがないよ。
:もう流行ファッションというよりも必需衣料の上着ですね。
:でもねえ、マスクと衣服を合わせるファッションデザインしてる人はいなかったね。
:マスクとシャツを同じ柄にするとか、異形のマスクとかですか、見ないですね。
:みんながマスクしてるだろ、ふとね、前の席の女がマスクを指でつまんで引きおそろうとしてるんだよ、アッ、オレは見てはいけないもの見てるかもと、一瞬思ったね。
:下着脱ぐんじゃないでしょ、ウーム、そういう妄想が涌くかなあ。
:その女はジュース飲んで元に戻したがね。
:そりゃそうでしょ。
:でもね、考えてもごらんよ、今や顔の下半分は人間の陰部になったんだね、そこを隠すべき衣類を、公衆の面前で脱ごうとしてたんだよ、、。

:はいはい、ま、そりゃいいとして、肝心の靖国神社はコロナでだれも居ないとか、。
:それがね、去年よりも参拝者がずいぶん多い感じだったねえ、覆面人間たちで大繁盛していた、特に若い人たちが多い、不思議だね、境内にはわたしが最高齢かも。
:そりゃ、この状況の東京でわざわざ外出する年寄りのほうが不思議でしょ。それに、ご隠居のように、戦死者たちは戦争加害者でもあったと、深く考えない人たちが増えてるんでしょ、何しろ首相も天皇も戦争知らない世代ですもんね。
:数年前よりも境内でのウヨク的な示威宣伝行為は減った感じけど、まだいることは居たね。喪服の人たちもいたけど、黒マスクじゃなかったな。
:こうもホットなコロナ東京で、なんだか修行の苦行のようですね。


九段坂にはウヨクさんたちの宣伝露店

境内へ

境内にはいつものコスプレおじさんたち健在

境内のウヨクさんたちの幟
神門の外にまでつづく参拝者の行列
 
街で演説ウヨクさんもソーシャルディスタンシング

:そうそう、あまりに暑いから、千鳥ヶ淵墓苑へは行かなかったよ。
:そりゃま良い判断としましょう。でも去年ご隠居がブログに書いたけど、千鳥ヶ淵墓苑で礼拝して頭下げる先は皇居宮殿に向かい、逆にその礼拝で突き出す尻の先は靖国神社本殿に向かうという位置関係の発見は、面白いですねえ。
:あそこは海外で戦死した日本人を慰霊する場だけど、同時にその場で死んだ現地の人のほうがそれ以上に多いのに、そちらへの眼差しが欠けているのが、なんだか嫌だね。
●参照:(2019/08/20)1【戦争の八月(3)】日本人戦没者より多い被侵略国の死者を想う


靖国神社横歩道橋から九段下方向 中央に昭和館


九段会館はいまだに建設工事中

:でも昭和館へは今年も寄ったよ。それなりに見学者は居たね。
:あの戦中と戦後の暮らしの展示館ですね、コロナで休館じゃないのですね。
:そう、でもいろいろとコロナだからとて、あちこち一部展示休止でつまらない。例の敗戦放送も休止なんだけど、ラジオの前に集まるのがいけないんだろうね。
:ご隠居のように戦中から戦後を体験した人から見てどうですか。
:今年はじっくりと見たんだが、どうも収集物をあれこれ順序良く並べてあるだけで、内容に深く突っ込む展示がないんだね。これにはこういう背景があり、こういう実話もあるとか、体験的な展示方法はないもんかね、体験者からあらためてじっくりと見ると、つまらなかった。まあ、よく集めたとは思うけどね。
:最近のミュージアムは写真撮ってもよいところが増えたけど、昭和館はどうですか。
:ダメなんだよ、フラッシュしなけりゃ撮ってもよかろうにねえ、ポスターなど2枚をコッソリ撮ってきたがね。

木造の都市を焼夷弾から防御する術とは
 

1946年の銀座の屋台

●参照:(2019/08/28)【戦争の八月(4)】昭和館敗戦放送、旧軍人会館定番復元保存開発

:ま、こんな地獄みたいな日にご帰還を祝って、一杯やりましょうよ、ビール持ってきました。、
:ありがとよ、このところだれも一緒に飲んでくれない、コロナは人を薄情にするね、涙が出るほど嬉しいよ、乾杯。
:では狂歌を一つ。
  坂上へ九段をよぎる敗戦忌 真昼に会う人みな白き覆面
:お、与謝野晶子の本歌取りだ、うまいね。


●参照:2018靖国神社 
 2017靖国神社  2015靖国神社 
    2014靖国神社  2005年、2013年靖国神社

2020/08/12

1483【望郷と忘却:『荘直温伝』読後感想文:1】故郷生家の神社を探した歴史地図の忘却

  わたしの生まれ故郷は高梁盆地、そこの鎮守の神社に生まれて少年時代を過ごした。そう、まさに故郷である。
 そこは岡山県の中西部にある市域は広大な高梁市の、臍のように小さな中心部である。四方を丘陵で囲まれた小さいながらも典型的な盆地の景観を持っている。この辺りは吉備高原と言われる準高地平原で、そこを高梁川が切り込んで作ったのだ。


  今は世界中が新型コロナウィルスパンデミックで、日本列島も2月頃からそのコロナ禍の中にある。この山間部の人口1万人ほどの小さな高梁盆地には、その災いが及ばない平穏な日々がつづいていた。だが2020年7月22日、その盆地最初の感染者2名が、とうとう発生した。

 それがスリランカ人であると聞いて、そんな遠くからこの山間の小さな町に何故と意外だった。でも実は、盆地内にある吉備国際大学は、外国人留学生誘致に力を入れているから、十分にありうることだ。インド洋の島国からはるばるやってきた地で、パンデミックに追いつかれるとは気の毒なことだ。

●生まれ故郷「高梁盆地」が舞台の本

 その高梁盆地を舞台とする『荘直温伝 忘却の町高梁と松山庄家の九百年』(序・荘芳枝、松原隆一郎著 吉備人出版)という本が出版されました。それをを知ったのは、新聞書評を読んだかつての仕事仲間の旧友が教えてくれたからからでした。(ここから口調が丁寧語に変わったのは、この本に倣うことにしたからです。)

 うーむ、買うかなあ、だが老い先短いのに、家に蔵書がたまりすぎて困る、蔵書は他人に差し上げる、これからは本購入一切禁止、そう自分に言い渡して10年ほどになります。
 でもなつかしい故郷の本ならば、禁を破って購入しようかな、政府がコロナ給付金とて、税金10万円を返してくれたからなあ、それでも定価税込み3300円とはちょっと高い、そこで近所の市立中央図書館に購入を申請をしました。

 ところが嬉しいことに故郷の幼馴染の同期生から、入手したけどもう読んだからそちらに回す、近くに住む同級生たちと読み回すようにと、その本がやってきました。さっそく興味深く読んだので書評を、というにはあまりに私的なことなので、読書感想文としてここに書こうと思います。

 故郷の本を読むときは、自分にかかわることがどう記述されているか、知っている人が出てくるか、知っている場所が出てくるか、そんな極々私的なことにどうも興味が行きます。そして著者が読者よりも知らないことや、間違いがあると、もう鬼の首でも取ったような良い気分になります。

 さて、表題『荘直温伝 忘却の町高梁と松山庄家の九百年』著者「序・荘芳枝、松原隆一郎著」が気になります。
 荘直温(しょうなおはる)は、主人公の氏名でしょう。わたしはその名を知らなかったのですが、荘という姓の人に出会ったは、高校で歴史教師が荘智心先生だけですが、ご親戚かもしれません。

 忘却の町高梁とはどういう意味でしょうか、高梁の町が世間から忘却されているのでしょうか、逆に高梁はなにか大きな忘却をした町なのでしょうか、気になります。
 松山庄家とはなにか、庄家となっていますが、庄は荘の略字ですから主人公の家系なのでしょう。松山とは、今の高梁盆地あたりを近世までは松山と言っていましたから分かります。だが九百年となると、源平合戦時代にさかのぼるのですが、松山がそのころの歴史に登場するとは聞いたことがありませんから、読むのが楽しみです。

 荘芳江さんについても知りません。わたしの母校の小学校教師だったと経歴にあるのですが、在校の時期が一致しないようです。
 松原隆一郎さんのお名前だけを知っていますが、著書を読むのはわずか2冊目です。その1冊目は都市景観に関する本で、もう20年も昔の発行前でしたか、その本の編集者からメールがあり、わたしのネットページの一部を引用したいとのこと、それでその名を知ったのでした。その本を書棚に探したが見つからないのは、だれかに差し上げたのでしょう。今、ネット検索したら「失われた景観―戦後日本が築いたもの 」(PHP新書  2002)と分かりました。

 書評ならば、本の内容の紹介から書き始めるものでしょうが、そのあたりは池澤夏樹さんにお任せします。これは極私的な読書感想文ですから、本の中のわたしに関係深いことから記していきます。もちろん全部読んでからこれを書いているのですが、極私的に関係することは次の件だけだったので、それから開始することにします。

●幕末地図に百年後のわが生家を探す

 巻末に付録として、高梁盆地の幕末のころの地図「備中松山城下図」(松山とは当時の高梁の地名)があり、市街部には商家や武家の居住者名の記入があります。
 わたしは都市計画を仕事にしていたし、大学を建築史研究で出ましたから、こういう歴史地図を見るのを大好きです。

 そして歴史地図ならば、とうぜんに御前神社(おんざきじんじゃ)があるはずです。御前神社とは、この地図の時代から100年ほど後に、わたしの生家となる城下町の鎮守社です。15世紀半ばには確実に存在していたとわかる文献がありますから、幕末には当然ありました。
 この地図には御前神社があるはずと探すと、なんとそこは空き地です。なぜ?


松原図の御前神社付近拡大(御埼丁と記入の上の空地が御前神社の位置)

 この地図は既存資料二つ(国分胤之「昔夢一斑」、泉順逸「備中高梁城下絵図下絵」高梁市歴史美術館蔵)を参考にして、この本のため新たに製作したとあります。ここでは著者の名をとって「松原図」という言うことにします。

 他の八重籬と八幡の各神社や寺院の記入はあるから、寺社名を書かないルールではないようです。更に御前神社がある地名を、「御埼丁」と書いてあります。「御前丁」のはずです。もちろん神社名による名称です。
 これらは参考にした二つの資料がそうなっているか、あるいは写し間違えたか、あるいは理由あってそのように変えて編集したのか、どうなのでしょうか。

 参考資料と記してある〔国分胤之「昔夢一斑」〕と〔泉順逸「備中高梁城下絵図下絵」高梁市歴史美術館蔵〕を探しました。
 「昔夢一斑」(1928年発刊)は、国会図書館がデジタル化してネット公開しているので見ることができます。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1190202

 御崎か御前かについては、「増補版高梁市史」に次のようなことが書いてあります。1444年にこの神社の神職が書き残した「神社祭礼次第」があり、その文中には「御前神主」とあり、また1622年及び1704年の神社寄進帳には、「御崎神社」と書かれているとのことです。
 1651年に時の鐘がこの神社に作られましたが、その由緒が鐘に鋳込まれた文字の銘文があり、そこには「御前大明神」の語があります。御前も御崎も同義語のようですが、わたしの記憶の範囲では御前でした。

 幕末の1850年前後頃の各町丁ごとの武家と商家の名称のリストがあり、付属の地図「松山城下之図」(ここでは「国分図」と言いましょう))には主な町丁名と主な施設や社寺を記しており、御前神社がその鐘撞堂(かねつきどう:現存する)とともに大きく記してあります。

 ただし国分図には、松原図のような住民名記入はないので、リストから判定するしかありませんが、いずれにしても御前神社も御前丁も記入してあります。

 「松原図」が参考にしたもう一つの泉順逸備中高梁城下絵図下絵」(ここでは泉図という)は、ネットを探してもみつかりません。現物を見るしかないので、高梁盆地に住む旧友に頼み、一方で歴史美術館にメールで問合せをしました。


泉図の御前神社あたり

 その結果として分ったのは、泉図には御前神社があります。そして下絵と書いてあるごとく鉛筆によるモノクロ画ですが、驚いたことには、これをもとに色彩絵図に仕上げたもう一つの泉図があるのです。
 それは泉順逸「松山城下屋敷図 幕末頃 昭和44年6月13日作成を終る」とあります。「下図」にもこれにも御前神社の記入があり、御崎丁ではなく御前丁とあります。


泉順逸「松山城下屋敷図」の御前神社付近部分拡大

 こちらの図のほうが美しく詳しいのに、松原図の作成の参考にしなかったのどのような理由でしょうか。

 なお、泉順逸「松山城下屋敷図 幕末頃」には、次のような参考文献の記入もあります。
   弘化二年正月二十六日作成城下之図 杉木家蔵
   嘉永四年御家中席順表 杉本家蔵
   慶応四年二月坪井○○備中松山城下絵図 信野友春氏蔵
   昔夢一斑 国分胤之氏著
   延享元年差出帳之内町屋之部 芳賀氏蔵
   高梁町切図、同土地台帳 高梁市役所 

 松原図は、なぜこれらを参考にしなかったのでしょうか。御前神社は1839年に火災で炎上し、1845年に再建したそうですから、この間の地図とすれば、神社も鐘撞堂定番の家も滅失していたかもしれませんから、松原図はその表現でしょうか。しかしそれならこの火事で600軒も焼けたのですから、他にも空白地が多くあるはずです。

 この地図を持って高梁盆地をめぐって、往時の美しかった城下町を偲べと、松原さんは書いているのですが、たまたまわたしの生家だった神社に関することなので気が付いた疑問ですが、この他にも疑問とすることがあるかもしれません。

 ついでに言えば、松原図では高梁盆地はこれだけしか家がなかったように見えますが、実際はもっとあったのです。対岸には備中鍬を生産した鍛冶屋町があったし、山すそや中腹には農村集落があったのです。住人名を書かないにしても、それらがあったことを表現してほしかったと思います。泉順逸「松山城下屋敷図」にはそれがあります。

 さらに言えば、現在の鉄道の線路と駅の位置を記入し、地図づくりの基本であるスケールを記入してあれば、持ち歩くときに往時と現今の対比照合をしやすかったろうにと思うのです。
 ということで、御前神社と御前丁は参考資料に存在していますので、松原さんは何らかの理由で神社名を削除し、町名を別名にされたのでしょう。聞いてみたい。

●御前神社の鐘撞堂・時鐘撞定番高梁

 「昔夢一斑」の丁町別人名リストの中に興味深い発見をしました。「鐘撞定番」として3名が書いてあります。この「鐘撞」の鐘とは、御前神社の「鐘撞堂」にある時の鐘のことで、「定番」士分の3名は定時にその鐘を撞いて、城下に時刻を知らせる役割の武士たちです。もちろん吊り鐘と鐘撞堂の管理をしたのでしょう。
 なお、そこにある藤本又兵衛の名は、今の下町にある藤本呉服店の先祖だと、その末裔になるわたしの同級生の藤本さんが教えてくれました。
 国分図と泉図には、その鐘撞堂を描いてあります。


『昔夢一斑』にある「鐘撞定番」の氏名

 他の資料によると、鐘撞堂の南隣の敷地に長屋があり、この3名が住んで居たとあるように、泉図ではその3名の名が記入してありますが、松原図にはありません。
 
 その「時の鐘」は1651年にここの鐘撞堂に設置したと、藩主の名で鐘にその旨が鋳文字で銘記されていました。そして1940年まで290年も盆地に、大時計のようにその音が響いていたでしょう。もちろん近代になってからは鐘撞堂定番はなくなり、神社の神職が撞いています。わたしの祖父や父がそうでした。

御前神社付近 (グーグルアース)


御前神社参道坂道の登り口(グーグルストリート)


参道坂道の途中から振り返り鐘撞堂を見る(グーグルストリート)



1926年の写真 鐘撞堂の北に旧制高梁中学のテニスコートがあった

御前神社境内と付近 1950年代の記憶(2011描画)

御前神社社殿・社務所・宮司宅 1950年代の記憶(2011描画)


御前神社とその周辺の現況 (グーグルアース)

 しかしその鐘は1940年に、戦争の武器となるために軍に供出して出て行ったままで、吊り鐘のない鐘撞堂がいまもむなしく建っているばかりです。
 その鐘が出ていった年は紀元2600年の節目とて、元日にこの鐘を2600回撞き鳴らす行事がありました。その時の音と騒がしい雰囲気が、2歳半の幼児だったわたしの人生最初の記憶となっています。
 その年、日本開催予定だったオリンピック大会を、戦争で返上しました。


1940年元旦紀元2600年祝賀2600回撞鐘記念写真


290年間ここにあった鐘が戦争に出ていく日 1940年

 この出て行った吊り鐘を、戦争が終わった次の1946年に、まだあるかもしれないと瀬戸内海の島に、父に連れられて捜索に行きました。伯父と従弟も一緒です。暑い夏の日、小さな船に乗って着いたのは直島でした。今はすっかり観光の島になっているようですが、そのころは三菱の金属精錬工場だけで、戦中に武器にするべく各地から集めた金属を溶かしていました。

 島は工場の煤煙のせいでしょうが、草木一本もない禿げ上がった赤い小山でした。その丘の上の赤い土の大きな空き地に、吊り鐘の大群が待っていました。
 さまざまな吊り鐘が暑い陽に照らされて黒々と、校庭の子供のように広がり並んでいました。幼少年の記憶でも、それは実にシュールな風景でした。

 子供の背丈ほどの吊り鐘群の中を歩き回り、御前神社の鐘を探しまいたが、見つかりませんでした。もう溶かされて武器になっていたようです。この鐘が何人かを殺したかもしれません。その帰り道、瀬戸内海のどこかの美しい砂浜海岸で生まれて初めての海水浴をしました。まだ、だれもいない海水浴場でした。
 ●参照:2016/08/22【敗戦忌】兵器となった鐘は戻らない
       http://datey.blogspot.com/2016/08/1209.html

 なお、70年代だったと思いますが、奇特な人がこの鐘撞堂に吊り鐘を寄付して、街に時の鐘の音が再び響いたのでした。その吊り鐘はプラスチックでできており、鐘の音は録音機から放送していたそうです。
 戦後再び、見上げれば小さいけど黒い鐘が見え、鐘の音が聞こえた時期がどれくらい続いたのか知りませんが、今はそれもありません。
 グーグルストリートには、鐘撞堂が立っている姿が見えるので健在のようです。これは少なくとも95年前には建っています。社殿も拝殿は1877年築、本殿は1881年築だから、いずれも長寿の木造建築です。

 ついでに「昔夢一斑」の幕末の町丁ごとの人名リスト中に、わたしのご先祖の名を探しました。わたしの祖父の代から御前神社宮司(社掌)になりましたから、御前神社にはいません。
 父が編集制作した伊達家系の資料には、高梁での伊達ファミリーの先祖は、伊勢の亀山からきたそうです。転封(1744年)された板倉家の士分として、殿様についてきてそのころの姓は増田だったそうです。だから幕末には誰かいるはずです。
 そのリストの中に、東間之町に2名の増田〇〇(判読不能)と増田忠治という名前が見えるのですが、これでしょうか。

 ●参照:広報たかはし 地名をあるく 92.御前町

  https://www.city.takahashi.lg.jp/site/koho/onzakicho.html

 以上で、荘直温伝の本筋とは全く関係ない極私的なことですが、無理に関係つけるとすれば、荘直温は私の祖父が撞く御前神社の時の鐘の音を聞いたことだろうし、荘芳江さんは父が撞くそれをお聞きになっていたでしょう。
 次から本文を読んでの、いろいろな望郷と忘却の故郷への感想を書きましょう。

(追記 20200813)
 今朝の新聞を見たら、コロナが蔓延するからお盆の帰省を控えろ、という世論があるという。わたしはもともとお盆帰省の習慣がなかったし、もしあったとしても今や帰るべき家がない。
 そうか、この記事は一種のリモート帰省だなと気が付いた。リモートの先は空間と時間の両方である。そうだ、8月15日が来るのだから、この話も書いておこう。1945年のことである。これも荘直温には関係ないが、御前神社のことならこれも外せない。

 当時の憲法が定める戦争開始と終結の責任者たる天皇が、1945年8月15日の正午から、初めて肉声で放送する事件、これにわたしは遭遇した。場所は岡山県中西部の高梁盆地の、生家の神社社務所であった。
 その社務所の大広間座敷には、その1か月半前から兵庫県芦屋市の精道国民学校初等科六年生女児20人と職員1名が、集団学童疎開でやってきて住んでいた。盆地内のほかの寺社などに児童51名が疎開して来ていた。

 当時ラジオのある家は限られていたが、その疎開学級が持っていた。社務所の玄関口に近所の人々が集まって、敗戦の詔勅を聴いていた。
 放送を聴き終わると誰もみな声もなく散会して、列になって黙々とぼとぼ参道の石段を下って行くのを、わたしは社務所縁側から見ていた。緑濃い社叢林の上はあくまで晴れわたり、暑い日であった。
 もちろん8歳のわたしには内容を分らない。その場の情景の記憶のみである。
 聞いていた人たちがこれを敗戦と分かったのは、たぶん、疎開学級の教員がそれを伝えたのであろう。

 その半月後に父が兵役解除で戻ってきた。父は満州事変、支那事変、太平洋戦争と3度も繰り返して、日本の十五年戦争のうち半分の通算延べ7年半も兵役に就いた。
 最後は本土決戦に備えるとて、小田原の海岸から上陸する敵を迎え撃つ陣地構築をしていたが、「父の十五年戦争」がようやく終わった。

 だが、わたしの家では戦後戦争とでもいうべき難が始まった。戦後農地改革で小作田畑を失い、食料源がなくなったのであった。支払われた補償金は数年間の分割払いで、戦後超インフレで紙切れ同様になった。
 戦争で思い出すのは、とにかく腹が減っていたことばかり、3人の子に満足に食わせてやれないのが、父母の一番の悩みだったろう。今のコロナ禍では、食い物の苦労がないだけ良しとするか。

                (つづく

高梁盆地に関する記事はこちらにも

2020/08/11

1482【コロナ禍の日々】今日の新聞のトップ記事は少年の野球大会とてこの平和をよろこぶべきか

  今日の朝日新聞朝刊(東京版)の第1ページである。


 これはなんだよ、今どき高校野球がトップ記事とはどういうこと?
 いつもはGoTo政策を批判しているのに、なんだよこれは、まさにGoTo TravelでGoToIvenntだよ、高校生や観客がコロナに感染しない保障でもあるのか。
 ちょうどこの日の社会面には、松江でクラブ活動の高校生たちが88人も集団感染したとの記事があるぞ、おい真面目なのかい?。
 あそうか、自分ところが主催か後援してるんだな、そうなると途端に贔屓の引き倒しになるのか。情けないね。

 コロナは日本でも世界でも着々と版図を広げつつある。とうとう世界中では200万人近い感染者と、73万人の死者、日本では5万人超えの感染者、1000人を超える死者となっている。
 もっとも、これが他の病と比べて数で多いのでもないらしく、問題はその病原体のわからなさにあるらしい。歴史上のパンデミックを参考にして今後の対応をしようにも、コロナの振る舞いに似た例がないので、それが分からないところにあるらしい。

 なんにしてもパンデミック非常時に、少年たちを集めて遊ばせるのは非常識だろ
う。非常時と非常識との取り合わせがなんともすごいな。
 わたしは見るスポーツを嫌いだから、この時期に新聞を賑わわせる高校野球が無くなってホッとしていた。それよりもコロナがなければ東京オリパラで今頃は、紙屑新聞が毎日来ているはずだった。それがなくて、こればかりはコロナ様様である。

 だからこういう野球の記事なんぞいつもは見もしないのだが、わざわざ1面に載せるにはそれなりに意味があるのかと読んでみて、やっぱり馬鹿を見ただけだった。
 高校生に変なことを語らせている。「災害被災者に勇気を与える言葉」を宣誓に込めたというのだ。子供の野球ごときで勇気を「与えられる」人がいるものかね、何様か知らないが語る位置がヘンに高いよ、子供がいうことじゃない、いや、大人でも言われたくない、背中がゾワッとするね、ま、どうせ教師や新聞屋にそう言えとか指示されてるんだろうがね。

 こんな遊びの記事よりも、その左にある香港の記事のほうがはるかに重要だろうになあ。これはまさにかつて日本の暗黒時代の法律の主役だった、その検挙者10万人とされる治安維持法の始まりによく似ている。
 日本の当時の新聞記事を見ておかしかったのは、そのころ日本で検挙される側の共産党が、現在の香港では検挙する側であることだ。 
 その様な国家権力の横暴がたどったのが日本と周辺国との15年戦争という悲劇だった。対岸の火事と思っていると、戦争となって大きな飛び火がやってくるかもしれない。子供の野球なんかよりも、そのほうがトップ記事であろうに、と思う。

 コロナ余談、近頃しょっちゅう、隣の共同住宅ビル4階のバルコニーで、真夜中にテレワークを素っ裸でやる男がいて、無神経に大声でしゃべる。何語か知らないが、安眠妨害で腹が立つ。多分、自分の家の中から追い出されているんだな。
 これもコロナ禍だな、うむ、いっそのことあの野郎コロナになっちまえ、写真を撮ったのでこれもって文句言いに行こう。けんかになるかな、外国人らしい。

2020/08/03

1481【コロナ横浜徘徊】コロナどこ吹く風の繁華街とコロナ景気が来たか貧困街

 このところ、新型コロナウィルス感染が勢いをぶり返して、緊急事態の頃よりも多い感染者が出現する毎日である。
 8月になったとたんに久しぶりの青空が2日連続、ようやく夏が来たらしくて、暑い。
今日は日曜日、横浜繁華街の様子を見物に、いつものコースを自転車徘徊してきた。

●コロナどこ吹く風の賑わいの街

 中華街は、コロナってどこ吹く風とばかりの大勢の観光客の人出で、コロナ前同然に大いに賑わっている。コロナの痕跡は、土産物屋でマスクと顔面シールドを売っていること、中華料理店が店の戸をあけ放っていることくらいかしら。
 歩く人たちは手をつなぎあって密になっていて、平和にして喧騒な風景が戻ってきた。

 元町商店街も、この街らしいそれなりにしゃれた人たちが、大勢行き交う。家族連れも多い。ここもコロナってなんだっけ、である。
 
 馬車道商店街は、人通りがあまりなくて、なんだか寂しい。これはコロナのせいではなくて、この街はもうこういうものかもしれない。

 伊勢佐木モールは、すっかりコロナ前の賑わいである。例の安売り衣料店+なんでも100円屋ビルの入り口には、行列ができているありさまだ。それは入り口で検温し、アルコール消毒をさせているからだから、やはりコロナの時代らしい風景だ。
 あけ放った居酒屋の中は繁盛している。コロナんなんて知らないよ。

 横浜橋商店街は、もともとコロナに関係なく賑わっていたが、今日もその通りである。空き店舗の一軒が骨董屋になって再開したし、空き地だったところにビルの建設が始まった、景気よろしい。
 
 というわけで、だれもが覆面しているからコロナ怖い気分はあるのだが、見たところコロナ前の賑わいが戻っかてきてる。
 これは人間に景気が戻ってきた良いことなんだろうか、それともコロナに景気をつけているだけで、人間の不幸の前兆なんだろうか、分からない。
 もしかして次の緊急事態でまた閉店の街になるだろうから、今のうちに遊んでおこうって、これはもう終末思想が行き渡ったのか。

●貧困の街も景気がもどって

 繁華街じゃないが、貧困の街である寿町界隈も観察した。ここは生活街だから、コロナであろうがなかろうが、人々が日常的に生きている。
 今日のような暑くて天気の良い日は、小さな簡宿部屋よりも外が気持ちよいと、日陰の道や広場に人々が出てきてたむろしている。これも通常のこの街の風景である。

 コロナ以後で変わったというか、変わりつつあるのは、あちこち4か所でビル建設が始まりつつあることだ。もともと少しづつは古いドヤビルが建て替えされて高層ドヤビルになってきているのだが、同時に4か所とは、なんとも景気がよろしい。





 つまり貧困者のためのドヤの需要は、コロナのせいで盛んになったのかもしれない。ありうることのような気がする。川崎あたりではドヤが減っているとの話を聞いたことがあるから、ドヤ需要層が横浜寿町に集まりつつあるのだろうか。
 一泊1700円が標準らしいから、何かでうちを追い出されたときに泊まろうと思うので、日頃から観察しておくのだ。