おや、ちょっと見ぬ間にこんな箱が建ってしまったか。
2016年3月新規建築移転してきた南区総合庁舎 |
かつては戦後復興期にできた横浜市立大学医学部キャンパスだったし その前は関東大震災復興で建てた三吉小学校だった |
ここは横浜市南区総合庁舎(設計:石本建築事務所)、つい先ごろできたばかりである。う~む、あの緑の木々で囲まれていたキャンパス跡は、さっぱりとした箱になっている。
ここにはかつては戦後復興期に造られた横浜市立大学の医学部のキャンパスがあったし、その前には関東大震災復興期に造られた小学校があったという、都市の歴史をもつ土地である。
そのような土地の歴史を、この箱のような新庁舎はどう継承したのだろうか。
敷地の周りを取り囲んで木々が繁っていたし、木々の間からちょっと格式ばった医学部本館が顔を見せていて、都心の景観を引き立てていた。
それにしても、これはさっぱりあまりにすぎる。あの木々を伐り倒してしまったのか。近づいてみると、玄関前に2本だけを残しているようだ。イチョウの木らしい。あの豪快な緑の壁がなくなったのが惜しい。ここにはかつては戦後復興期に造られた横浜市立大学の医学部のキャンパスがあったし、その前には関東大震災復興期に造られた小学校があったという、都市の歴史をもつ土地である。
そのような土地の歴史を、この箱のような新庁舎はどう継承したのだろうか。
敷地の周りを取り囲んで木々が繁っていたし、木々の間からちょっと格式ばった医学部本館が顔を見せていて、都心の景観を引き立てていた。
北側玄関前に2本だけ残ったイチョウの木 |
西側道路わきの植樹帯 |
2007年3月31日撮影、市大歯学部の建物がまだあった |
2012年8月16日撮影 駐車場になったがまわりの樹木はまだあった |
2015年11月29日撮影 敷地目いっぱい南区役所などが建った |
●環境デザインが足りないよなあ
なにしろ都市デザイン行政の実績を誇る横浜市のつくる行政庁舎だから、それなりの都市デザインを観ることができるだろうと、期待しつつ外回りをぐるりと見てまわった。
建築デザインとしては、かなり平凡なものである。奇抜が良いとは言わないが、それしても大手建築事務所の無難なデザインというものだろうか、なにかを訴えるようなところもないし、ランドマーク的な様子もない。
まあ、建築としてはそれはそれでも仕方ないが、環境デザインとしてはどうだろうか。
上に書いたようにあの樹木をバサッと気前よく切り倒したのは、なんともいただけない。都市景観の継承をしていないのだなあ。やっぱり、あの敷地まわりの大きな樹木の列を残してほしかったなあ。再現するにはセットバックが足りないから無理だろう。
緑の景観ばかりか、ちょうど角地に顔を見せていた市大医学部本館をイメージさせるランドマーク性の再現も見えない。どこかにあのイメージを継承してほしかった。
最も気になった環境デザインは、中村川への対応である。なにしろ中村川は、上に高架高速道路がかぶさっていて水面は暗いし、騒音と排ガスをふりまいていて、横浜都心最悪都市環境デザインのひとつである。この高架道路は、もともとは大通公園上空に造る計画を変更してここに持ってきたのだが、田村明の横浜都市づくり遺産である。
最悪であればこそ、そこに接して横浜市が作る庁舎だから、積極的に川との関係をもって環境を改善するデザインがあるだろうと期待した。特にここには浦舟水道橋という第一級の歴史的建造物もあるのだ。橋、堤防、植樹帯、道路、庁舎を一体にした環境デザインがあれば、この最悪環境も何とかなるだろう。
最近、日ノ出町の再開発事業では、大岡川と一体にした都市環境デザインをやったから、こちらも何かやっているだろうと期待した。
だが実は、そちらにまわってみても、特になにもなくて、いかにも裏口然としているのだった。こちら側が車のアクセス玄関なのだが、いかにも裏口から入る感がある。
かつてはこの川沿いの敷地側には緑の木々が茂っていたから、むしろ悪くなったと言える。建物西側に造った植栽帯をこちらまで廻して、道と川沿い植樹帯と合わせると、豊かな緑を生み出すことができるだろうに。
とにかく無骨極まる高架道路に対抗するには、地上面で中村川を越えて川の南側の街とこちらをつなぐ仕掛けが必要であろう。ちょうどそこに浦舟水道橋があるのだから。
中村川側のクルマアプローチまわりがいかにも裏口、右が中村川 |
中村川の南側から見る浦舟水道橋と高速道路高架と南区総合庁舎 |
南区民じゃないけどヤジウマで中に入って見た。ふむ、ロビーが広くてよろしいが、吹き抜けがないのか。
おや、その一隅になにか背の高いショーケースがあって、中に骨董品らしきものが展示してある。だが、照明がヘタクソで、ガラスにロビーが写りこんで中の展示品を見ることが難しい。
ホールにある歴史資料展示ケース
しょうがないので説明書きを見れば、これを建てる前にあった建物の、階段手すりと玄関にあった照明器具を置いてあるのだそうだ。
この手すりは小学校の思い出、照明器具は市大医学部の思い出のつもりらしいが、う~む、まあ、保存の努力を認めるけど、なんだかいい加減なやり方だよなあ、こういうのは。建築ってのは部品じゃないんだよなあ。
展示してある医学部本館玄関についていた2つの照明器具(左)と
三吉小学校の階段手すりの一部(右)
|
ホールの片隅に、二つの墓石のようなものがごろんと寝転がしておいてある。説明書きを見れば、学校中庭にあった記念樹の石碑だそうだ。奇妙な展示方法である。しょうがないかから、ここにおいたか。
床にごろんとおいてある中庭にあった記念植樹の石碑
展示してある手すりも玄関の照明器具も、その時にわたしは写真に撮っていた。
(旧)三吉小学校校舎の階段 |
市大医学部本館の玄関入口と照明器具(展示してあるものはこれだろう)
(元)市大医学部本館玄関 |
見学したときは既に廃墟だったが、そうなる前の用途は横浜市立大学の医学部キャンパスであったのだ。
その元は復興小学校(1926年新築)であり、小学校が廃校(1944年)の後にはその校舎も活用しつつ、運動場跡に新たに校舎を増築)もして(1950年、市大医学部に使っていたのだ。
戦前と戦後の小学校と大学の教育の場として生きてきた、多くの人材をここから巣立たせたことであろう、長い歴史を刻むこの建築における人間と空間のありかたに、わたしは感銘を受けたものだった。市大医学部校舎中庭側 |
市大医学部校舎として使っていた三吉小学校校舎 |
市大医学部校舎の解剖室として使っていた三吉小学校教室 |
そのことに関しては「歴史の証言としての建築記録保存ー横浜市震災復興小学校の建物を見て」と題して、わたしの「まちもり通信サイト」に書いている。
https://sites.google.com/site/matimorig2x/matimori-hukei/miyosi-syogakko
そして、この建築群の歴史的意義については、わたしはそこでこう書いている。
「その歴史的意義を認めるならば、単に旧三吉小学校の建築形態のハードウェアとしての記録のみではなく、市大医学部となったときどのように改変して使ってきたのか記録しておいてほしい。
それは当然のことに1950年新築の大学医学部校舎についても同じであり、この小学校敷地全体の歴史を、時代に応じて重層的に記録するものであるべきと考える。
そこには、震災復興と戦災復興の記念碑的な歴史の証言者としての二つの建築ということもある。」
ところが説明パネルには、三吉小学校のことは詳しいが、市大医学部のことはほとんど触れていない。どうしてであろうか。
どうも建築保存となると、どこでも古いほど価値があると思い込むらしいのだ。戦前復興建築の三吉小学校は価値があるが、戦後復興建築の市大医学部には価値を認めないらしい。
建築家は、ここで何が行われてきた歴史があるか、ではなくて、ここにいかに古いものがあったかだけに注目する傾向がある。
それの典型が東京駅赤レンガ駅舎の復元である。戦前の形態ばかりに目が行って、戦後復興の意匠に意義に注目しないで、戦争記念碑としての価値を滅してしまった。この南区庁舎新築にあたっても、その土地のもつ歴史価値についても同じことらしい。
でも横浜の都市デザイン行政は、そろそろ1950年代建築に価値を見出して、その景観保全に手を出してもよさそうな気がするけどなあ、まだらしいなあ。
部品展示ケースにある三吉小学校の説明パネル、 でも市大医学部については説明がない |
最後にちょっといたずらを。
外観のどこかに、市大医学部本館をイメージさせるデザインを
再現してほしかったなあ
(例えば↓)。
これはわたしのいたずらによる景観戯造、どこを戯造したか分るかな? |
●これが設計方針だそうである
http://www.city.yokohama.lg.jp/minami/upimg/chousyaiten/120906kurenkaishiryou.pdf
●参照
「歴史の証言としての建築記録保存ー横浜市震災復興小学校の建物を見てー」(伊達美徳)
https://sites.google.com/site/matimorig2x/matimori-hukei/miyosi-syogakko
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