2016/06/13

1197【東京風景】昔々そこに勤め先があったあのデカい日本ビルを建て替えるとて東京駅前プチ感傷旅行

夜の東京駅前センチメンタルジャーニー
おや、真っ暗ビルだよ、ここも空き家問題かい
真正面の日本ビルに昔々通勤、今日は真っ暗ビル、
その両隣も真っ暗超高層(明かりが見えるのは他のビルの写りこみ)
●日本ビルというバカデカビルに通勤した

 東京駅前をしばし鑑賞ならぬ感傷徘徊、といっても観光ポピュラーな赤レンガ駅舎のある線路西側の丸の内ではなく、線路東側の八重洲でもない。
 東京駅から北口を出て、その駅前広場から呉服橋通りを渡ったあたりは大手町へ、こちらももちろん大きく髙いビルが建っている。

 そんなところへプチ感傷旅行したのは、昔々、わたしの勤め先がそこのビルの中にあって、ながらく通勤したことがあり、そのビルを建て替えると聞いたので、今のうちに昔の姿を眼に留めておくのである。
 そこには「日本ビル」というご大層な名の建物がある。昔々、そのビルの中にわたしの勤め先(RIA本社)があった。この日本ビルは1960年代中頃だったかにできたが、ドデンとかまえた14階建てビルで、当時は日本で最大床面積だったと聞いたことがある。
これが日本ビル、まわりを板塀に囲まれ一部に足場もできた、取り壊し開始らしい

 記憶では、初めは第三大手町ビルという名であったが、これにもうひとつのビルをくっつける様な増築をして、日本ビルと名前を変えたような気がする。
1963年、第3大手町ビルの頃
1989年、日本ビル・朝日東海ビル・新日鉄ビルが揃い踏み
2016年、東京駅北口から八重洲口にかけて超高層ビルだらけになった

中庭をとり囲む平面的にばかでかいビルで、エレベーターバンクが離れて2か所にあり、長い長い廊下がぐるりと一周していた。一周200mくらいあったような気がする。
 初めは4階の部屋に居たが、そのうちに狭くなって11階に引っ越して少し広くなり、そしてまた狭くなって5階に都市計画分室を設けて、わたしはそちらへ引っ越しをした覚えがある。

 日本一バカデカいビルと言われるだけあって、外に出ないでも24時間を暮らせるほどに、なんでもかんでもそろっていた。三越百貨店の店もあった。地下深く下水処理場もあった。
 しょっちゅう徹夜仕事をしていたが、さすがに風呂屋は無い。それでも、便所にある掃除用の大きなシンクに水を張って、真夜中に入浴した男もいた。

 今どきのオフィスビルと違って、オフィス階にもだれでも出入り自由だったから、窃盗犯罪がけっこう多かった。アルバイトとか営業マンを装って室内に入ってくるのだ。わたしもロッカーにあった上着から財布を盗まれ、大便器からでてきたことがある。
 日立のような大企業もいたが、中小企業がずいぶんいたのは、戦前から三菱煉瓦街に入っていたテナントたちがいたからだ。勤め先のRIAもそうだった。

●日本ビルに来る前は丸の内赤煉瓦街に居た

 RIAは、このビルに来る前には丸の内の「三菱仲四号館」に居た。そこは赤レンガ3階建てで、今あるなら重要文化財だろう。有楽町駅から近かった。階段ホールアクセスタイプの棟割長屋方式の建物で、その1階と2階に部屋があった。床は階段も板張りだったから、歩くと響いたものだ。
 1957年の夏、山口文象は師のグロピウスをここに案内して、近藤正一たち若いスタッフに紹介した。
かつての丸の内赤煉瓦街(平井聖氏撮影)
RIA創立者の建築家・山口文象は、最も活躍した戦前1936年にそこに建築設計事務所をかまえた。そして戦後1952年発足したRIAの事務所にした。
 1963年頃だっただろうか、大家の三菱地所が赤レンガを高層ビルに建替えるとて、大手町にその頃に建った第3大手町ビル(日本ビルのその頃の名称)に移転させられた。
 このころから丸の内の赤レンガ街は、第1期再開発時代を迎えて、ドンドン建て替えが進んだ。今は第2期(もしかしたら第3期か)建て替え時代だろう。
 日本ビルはテナント移転用の代替えビルだったのだ。東京駅の周りは、線路の西が三菱村で、線路の東側は日本橋まで三井村でありながら、日本ビルだけは線路の東側にある。

●日本ビルは日本一のっぽビルに建て替え

 さて、東京駅北口広場から眺める夜の日本ビルは、その両隣の超高層ビルも含めて、真っ暗であった。このあたり一帯は日本のビジネスセンターであり、グローバル時代になって夜も眠らない、休日も仕事するのが当たりまえ、真っ暗とは空き家になっているのである。
 といっても、住宅の空き家問題がここにも及んでいるのではない。ビルの周りは板囲いされて一部に足場も組んであったから、テナントを全部どこかに移転させて、いよいよ建て替えのための取り壊し工事が始まったらしいのである。

 東西隣の二つの超高層ビルの朝日東海ビルと新日鐡ビル、北道路向かいの日本ビル別館も壊して(いずれもわたしが居た頃の名前で、今はどういう名か知らない)、再開発するのだそうだ。これらはもともとが再開発だったから、第2次再開発事業となる。
 それにしてもこれほども広く高いビルを壊しても、それよりも広く高く建てることができるから事業採算が成り立つので再開発をやるのだろう。

 ここの跡地には、日本一高いビルをつくって、大阪阿倍野のハルカスを越えたいのだそうだ。あの昔の超高層の曙時代のような、都市開発競争気分が戻ってきたのか。
 そこには需要がある東京都心という立地であり、経済の忠実な下僕としての都市計画が規制緩和乱発の時代背景がある。
・参照:三菱地所発表の再開発計画
http://www.mec.co.jp/j/news/archives/mec150831_tb_390.pdf
・参照:わたしのブログでの以前のコメント
http://datey.blogspot.jp/2015/09/1123.html

●東京駅あたりで唯一の仕事は赤レンガ東京駅保全計画

 東京駅前にながらく通勤したが、結局その頃にこのあたりでの仕事をしたことはなかった。
 1980年代半ばに、RIAはここから品川駅の東にオフィスを移した。それでも10年ほどは本社機能だけを日本ビルに残していたものだった。
 品川に移った後に、わたしは政府の東京駅周辺再開発計画調査に携わったことで、初めて東京駅あたりの仕事したのであった。
 1988年に公表したその調査成果は、その後の紆余曲折を経て、赤レンガ駅舎の復元となり、東京駅が巨大ビルで囲まれる形となって現れている。

 もっとも、その調査担当をしたわたしの東京駅赤レンガ駅舎への考えは、戦中の空爆で被災した駅舎を戦後修復した姿で保全活用するべきとの結論に至ったのであった。
 しかし、政府の調査報告書にはそのように書くことはできなくて、「現駅舎を現地で形態保全する」との表現となった。保存するとしても他に移すことなく現地で、しかも外形を保つのである。
 その頃から澎湃として起きた東京駅保存復原運動に対して、わたしは復元反対・現状形態保全論をネット上で展開したが、これを理解してくれる人は実に稀であったのが不思議だった。
・参照:わたしの東京駅復原反対論サイト
https://sites.google.com/site/machimorig0/#tokyoeki
わたしが保全したかった1947年修復の東京駅赤レンガ駅舎
(1987年伊達美徳撮影)

 ということで、東京駅あたりは、わたしの感傷旅行拠点なのである。ついでに日本橋あたりにも足を延ばして、変わり果てた今の姿を観る。(つづく)

2 件のコメント:

松枝廣太郎 さんのコメント...

読みました。
東京駅周辺の変貌のあまりのすごさに、今の私には縁のない別世界だと思っていました。
再開発を生業としてきた身ながら、今様の開発・再開発には、ほとんど興味を感じなくなってしまっています。
出かけてゆく気力がわいたら、行ってみようかと思います。
むしろ、毎日通った八重洲口周辺の昼食屋(夜は飲み屋)の町がどうなっているのかの方が、気になっているところ。
松枝廣太郎

伊達美徳 さんのコメント...

松枝様 コメントありがとうございます。
八重洲のあのゴチャゴチャのあたりは、今のところまだ生きているようですが、
近いうちに駅前広場側から再開発事業が攻めて来るようですから、
今のうちに感傷旅行探検しておく方がよろしいでしょうねえ。
          まちもり散人より