2017/05/12

1266【正岡子規の展覧会】徘徊老人が俳諧巨人の偉大な足跡に驚嘆してきた

生誕150年 正岡子規展 ――病牀六尺の宇宙」を神奈川文学館で見てきた(2017年5月11日)ので、いくつか覚え書き。http://www.kanabun.or.jp/exhibition/5643/

 膨大な資料の系統的かつ分りやすい展示、そして長谷川櫂氏の解説、先ごろ某大臣から非難された学芸員さんに敬意を表したい。
 平日の昼間、しかも子規となると、観客のほとんどが老女だったなあ、こちとらは俳諧ならぬ徘徊老爺である。
 じっと立ちっぱなしで展示資料を読んでいて、歩くよりよほど疲れてしまった。なにしろ展示品が、見るよりも読む者圧倒的に多いのだかからなあ、かといって椅子に座って読ませたら、客が閊えるだろうしなあ。

 子規についてはつまみ食い的な知識はあったが、文学研究者として、日本詩文学改革者として、教育者として、いやまあ、すごい人物だったのだなあ、若死にさせて惜しかった。啄木もモーツアルトも若死にだった、漱石だって若死にだ。
 子規は喀血して先の短いことを覚って生き急いだ。かえりみて、わたしも先が短いと今や覚ったのだが、ちっとも生き急がない馬齢そのもの、あ、馬に叱られるか。 

 政治家になるとの大望を持って松山から東京に移った子規は、結核で挫折、そして文学に生き急ぐ方向を見つけた。
 長谷川の解説に、子規が古今集を罵倒して万葉集に傾倒したのは、当時の政府の国家主義にうまく対応したものであり、その面で大望を果たしたとあった。
 そうであるならば、もしも子規が健康であったなら、日本の危ないリーダーのひとりになって大望を果たした可能性も多分にあるから、文学に行ってくれてよかった。

 子規の家系図には、母方は母方は曽祖父まで書いて詳細だが、父方は父の名だけというのは、父方は平々凡々な人々であったか。わたしは関係ないが、家系に有名な偉い人がいるって、どういう気持ちだろうか。
 子規のような人については、家系図よりも交友相関図をつくってほしい。華麗なる人物が超大勢登場するのだから。

 漱石のたくさんの句作を、子規が容赦なく批評添削している手紙を、面白くて読みふけってしまった。そうだよなあ、そこ、たしかに下手だ、おお、これを子規はうまい句とみるのかあ、など、。
 夏目漱石と子規は同い年、二人が出会ってから互いに文学的な高めあうのを羨ましいと思った。
 子規も小説家になりたかったが、先に文壇に出た同年の幸田露伴に作品を観てもらったら、悪評を受けてくじけたらしい。露伴は子規と違って、教育者ではなかったのか。

 子規が東京に移って入学した東大予備門での、同期学生の学業成績一覧表が展示してありそこに南方熊楠の名がある。
 同年生まれ、同学年で勉強した二人だが、学業の場も専門の場もその後は分かれてしまい、特に交流は無かったらしい。
 巨人二人が教室で出会った若い日は、どんなことを話したのだろうか。
 
 文学館のチケットカウンターで、65歳以上割引をお願いしたら、なにか証明できるものを見せろと言われ、「この顔」といったら、「お若く見えますので」と逆襲サービスされた。

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