2017/09/12

1284【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド.12】超高層建築の東京海上ビルがタブーに触れて起きた美観論争のなれのはてのこの現実はいったいなんだろ


 さて、次はこの広場を北に歩いて、先ほど遠くから眺めた赤い超高層「東京海上火災ビル」に行きましょう。
これまでのガイドコースと今回の位置(赤丸)

●東京海上火災ビルはいまやチビ
 はい、やってきましたこの前に見える道路、左に東京海上ビルと新丸ビル、右に日本郵船ビルと丸ビル、突き当りには東京駅が見えます。
東京駅前道路の行幸通りを東に見る
 
 この道路の名前は「東京都道404号皇居前東京停車場線」といいます。え、名前が長すぎるって、そう、通称「行幸通り」ですね。
行幸の意味は、天皇がどこか特定のひとつの目的地に向けて外出することだそうですから、そのときに通る道なんでしょうね。散歩とかあちこち行く用事、巡幸というそうですが、では通らないんでしょうかね。あ、天皇専用道路ではないですよ。

 左に見える赤いレンガタイルのを貼った「東京海上ビル」は髙さが99.7mだそうです。
 その向こうに見える「新丸ビル」は高さ197mですから、隣同士なのになんでこんなに高さが違うのでしょうか。こんな地価の高いところでは、東京海上だって目いっぱいの高さまで建てたいでしょうに、どうして半分の高さなんでしょうか。
 それには、わけのわからないいわく因縁があるのです。その話をします。
 1963年に建築基準法が変って、建築物の高さ限度31m規制が廃止になりました。超高層ビル建設が可能になり、その第1号は霞が関ビルで高さ147mでした。
この東京海上ビルができたのは1974年でした。1966年に高さ127mで計画して建築確認申請を出したのでした。だから完成までに10年ほどかかったことになります。
 工事が遅れたのではなくて、申請段階でもめにもめて時間がかかったのです。

●日本の民俗的タブーに触れた東京海上ビル
 その揉めた理由は、法律、政治、経済、社会(というより民俗か)など多様な問題がありました。はじめに言っておきますが、この法律的にも技術にも揉めましたが、これらは結果的にはなにも問題ありませんでした。それなのに確認申請段階で揉めたのですから、これはもう政治、経済、民俗問題ですね。
 いちばん興味深いの民俗問題とでもいうべき、「日本のタブーに触れた」からでした。

 そのタブーってなんだと思いますか、それは、この後に見える江戸城の森の中に住む人を、あんな高いビルの上から見下ろすのは「不敬にあたる」からです。
江戸城の森

 いやいやどうも、だれも正面からそう言わないし、だれがそう言うのかだれも分らないのですが、ひたひたとそういう灰色の霧のようなものが、東京海上ビル計画の足元に押し寄せたのです。いまならうるさいネトウヨなんてまだいない時代ですよ。

 それにいちばん近いことを言った人は時の首相の佐藤栄作ですね。佐藤が超高層に反対らしいと聞いた東京海上の山本源左衛門社長が、首相を直接訪ねてなぜいけないのか聞いたそうです。
その返答は「わしゃ、好かん、高いのは嫌いじゃッ」、ホントは「タブーじゃッ」と言いたかったんでしょうが、そうもいかない。これで政治的問題になるんですね。

 1966年から東京海上ビルが建つまで、後に「丸の内美観論争」言われる事件が新聞を賑わわせました。超高層規制派と超高層推進派の論争です。
 でもねえ、タブーのことは思っていても一言も言わずに、「美観を損ねる、損ねない」の論争でした。

 規制派には、世に言う文人、有識者たち、そして専門家としては土木系の都市計画家たちがいました。そして世には隠れタブー派が多くいたでしょう。
 そして表には何も言わなかったようですが、地元の大不動産業者の三菱地所が隠然たる規制派の親分だったようです。その理由は明らかで、これまで31mのビル群を営々とつくってきたのに、そこに超高層ビルをどんどん作られては、商品価値が相対的に下落すると思ったのでしょう。三菱地所の貸ビルはどれも質実剛健であり、お世辞にも建築デザインのないものばかりですからね。これが経済的問題です。

●東京都は規制推進派、建設省は規制反対派
 じつは東京都都市行政の官僚も、慎重派でした。どういうわけだか、東京海上が確認申請出す前から、高さ規制の条例づくりの検討をしていました。規制派とあらかじめ内通してたんでしょうか。だから建築確認申請が出てきても、確認引き伸ばし作戦をあれやこれやとやったのでした。行政不服審査もありましたね。
 東京都が規制派だったのは、当時の山田天皇と言われた首都圏整備局長の山田正男がタブー派(?)で、たぶん、失効していた旧法による美観地区の高さ規制を、新条例にして引き継ごうとしたのでしょう。
規制派の東京都がつくった将来想像図(1966/11/12読売新聞)
なんともヘタクソな姿をわざわざ描いたらしい

 推進派は、建築家、建設業界、そして建築基準法の元締めの建設省の建築行政官僚たちでした。建築家と建設業界は新しい仕事をやりたいし、儲かるし、当然です。
超高層推進派の日本建築家協会作成の将来予想模型(1967/09/20朝日新聞)

 このダイナミックな姿が現代都市像だ、なんて景観論を振り回していた政府の建築官僚たちは、もちろん新たな法による建築で欧米のような都市づくりをすすめたかったことでしょう。東京都の条例づくりにストップかけています。

 でも、いちばん困ったのはこの官僚たちでしょうね、だって政府のトップである首相が反対だと言うのですから、首相の下にいる建設大臣も政治家として進めるわけにはいかない、官僚はそれに従わざるを得ない。人事にも影響あったとか聞いたことがあります。

●高さ100mでタブー派と手打ちしたらしいが、、
 あれやこれやすったもんだの結果は、東京都の条例はできなかったのです。どうしてかよく分りませんが、美濃部革新は知事の登場とかで、政治的な力学が働いたらしいです。
 そしてまた、なんだかさっぱり分りませんが、タブー派(?)の親分と東京海上との裏での手打ち式であったらしく、「高さ100m以下ならいいよ」ってことになったらしいのです。

 だから東京海上ビルは当初の高さ128mを、99.7mに設計変更した案で、確認申請を1968年に出し直して、これによりGOとなり、1974年に竣工したのです。
 表向きは、東京海上が勝手に自主的に高さを変更して100m以下にしたので、なにも圧力何度なかったことになっています。
 以後、しばらくは100mなら建ててよいのだとて、AIUやDNタワーなどいくつかのビルがそれで建ちましたね。

 じゃあ、どうして今の目の前に見るように、150mも200mもあるようなビルが林立してるんでしょうかねえ。
 いつのまにやらタブーは消え、100m手打ちも消えたのですかねえ、あの森の中の住人も景観論争の頃とは代替わりしたからですかねえ、え、本当ですか。
 もう佐藤栄作もいないし、規制派の親分だった三菱地所が今やすっかり心変わりして裏切り者となって超高層推進派ですから、あのタブーは経済の前にはあっけなく蒸発したのですかねえ、いやいや、そんなはずは、、、でも、、。
タブーを脱ぎ捨てて発表した三菱地所の「丸の内マンッハタン計画」1986

そして今は、、、
100mでそろう筈だったスカイラインは今や、、

 では、ちょっと悪戯を、、
今じゃあだれでもPCの中でこんなこともできますよ
東京海上の東隣の丸ビルと新丸ビルの間からタブーを覗いてみました。

 考えてみると奇妙な論争であり、奇妙な終結でした。タブーの霧のなかに、100mの真っ赤な大入道がウヤムヤと立ち上がったのでした。
その大入道も次なるガラスモンスターに、大きさとしてはすっかり影を失いましたが、その容姿は新参者どもとははっきりと違う風格を見せているのは、さすがに建築家前川国を作品だからと言いましょうか。

 東京海上が前川に設計を頼んだ動機が面白い。はじめは三菱地所に超高層ビルにしてくれと設計を依頼したけど、どうしても超高層にしてくれない。そこでしょうがないから前川に頼んだのだそうです。
 ただ、今から見ると、公開空地広場の扱いがどうも古臭いし、ビルの公開性がないですねえ、ここらあたりはリニューアルしてほしいと思います。
東京海上ビルの公開空地はなんともそっけない

 この論争の頃に、先ほど訪ねた丸ノ内の三菱1号館と、日比谷の帝国ホテルが姿を消しました。どちらも近代建築の歴史的証人でした。
京都では1964年に京都タワー美観論争があり、1972年に「京都市市街地景観条例」ができました。
 横浜では、1972年に「横浜市山手地区景観風致保全要綱」を作り、73年には都市美審議会を発足させて、飛鳥田市長と企画調整局長田村明による都市デザイン行政が始まりました。
 ということで、この赤い超高層ビルは、その都市景観をつくる大きな契機になったと言ってよいでしょう。

 もっとも、近ごろのこのあたりでは、超高層ビルを建て替えが流行していますから、この東京海上ビルもいつまでこのまま立っているか分りませんよ。
 あの東京駅だって、いつまでも3階建じゃない、超高層になる日が来るでしょうね。
超高層ビルは超超高層に、東京駅も超高層ビルに建て替え?


 では、次に参りましょう。

◆景観論争の経緯はこちらを参照されたい
 【資料】東京駅周辺整備調査1988:赤レンガ駅舎をめぐる調査研究(1987)

東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版(伊達美徳制作ガイドブック)
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

0 件のコメント: