2014/01/23

888年賀状の季節が終って寒中見舞いの葉書をようやく出した

 あ、そうだ、と思いついて、今年のお年玉付き年賀状の抽選がもう終わっているはずだなと、ネット検索をしたら、あった。
 毎年あたるのは最下等の切手であるが、今年も例外ではなくて、それもたったの2枚。でもどちらも故郷の同級生からだったのが嬉しい。

 で、参考までに1等賞は何が当たるのかを見て、エッとおもった。たったの1万円である。
 まさか、そんなことないでしょ、昔は海外旅行とかあったよ。もしかして、今見ているこの当選番号のページは、いたずらかもしれないと、他のページを見ても同じだった。
 へ~、そうなんだ、まあ、お年玉はそれくらいがちょうどよろしいともいえるよなあ、でも、いつの間にそうなったのだろうか?

 ウィキペディアには、2010年の1等賞は、液晶テレビ、国内旅行、パソコンセット、ビデオカメラ、オフィスグッズセットから1点選択とある。
 どうせ当たらないからどうでもいいのだけど、1等賞がたったの1万円になって、当り数が多くなったのだろうか。それでもあたらなかったぞ。
 まあ、年賀はがきをもらうばかりで、自分で買って送らないものには、当らないのでしょうよ。

 年賀はがきなるものを、こちらから出すことをやめて、6年目になる。こちらからは1月末頃に出す寒中見舞いにしている。
 それにはわけがある。自分が年寄りになると、年賀はがき交際範囲の方々も年寄りになって、年の暮近くなると喪中のお知らせの数が増えてきた。人によって年賀状を出す出さないの判別がめんどくさくなってしまったのである。
 1月に出す寒中見舞いなら、全部に出すことができる。

 それをやって変ったことは、いただく賀状の数が減少したことである。ある時期は250枚くらいだった年賀状が、いまでは120枚ほどである。
 それはそれでよいのである。まったく実際の付き合いがないのに、年に1回の賀状だけのやり取りを続ける意味がどれほどあのだろうか。
 親戚とは血縁つながりは消えないし、故郷の人たちとは場所つながりが消えないからつづける意味はあるが、もう戻ることはない仕事つきあいの縁きれは許されると思う。

 その一方で、おかしいのは何十年も全く会っていないし、専門分野としても接点がないし、こちらも寒中見舞いを出さないのに、年賀状だけは毎年いただく人たちもいる。
 ありがたいようにも思うが、それらは勤め先から来ることがほとんどなので、どうやら事務的機械的に出しているらしい。宛名を間違っても、そのまま毎年やってくる。
こういう方には、お断りの賀状を書くべきだろうか?

 インタネットの普及で、例えばフェイスブックやメーリングリストで、数年も全くあっていない知人とでも、日常的に挨拶や情報やり取りできる。だから年の初めだからと、あらたまって賀状交換の意味が無くなる。そうなった知人もずいぶん多い。
 お年玉葉書の賞金が大きければ、それでも年賀状だす意味もなくはないような気がするが、1万円ではなあ。




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