2016/08/15

1208【熊本城と師匠】地震で壊れた熊本城の復興に平井聖先生が登場で相変わらず元気な八十路の師匠

 熊本地震で壊れた熊本城のニュースに、わたしの師匠の平井聖さんの名を見つけた。八十路半ばをとっくに越えても超元気な師匠である。
熊本城は、西南戦争で大小天守や御殿など本丸の建築群が焼失し、現在の天守は1960年に大小天守などをコンクリートで再建した。その時の設計者が平井さんの師匠である藤岡通夫先生だから、助手であった平井さんも設計に携わった。
 以後、ずっと熊本城に関わり続け、近年では本丸御殿や南大手門などの復元の指導もされたが、更にこのたびの震災では復興に張り切っておられるニュースである。

 まったくもってお元気すぎる師匠である。
 年に一度の師匠を囲む弟子たちの会では、弟子のたちの方が呆けたり没したりするのに、師匠は昔と変わらずにひょうひょうと現れて、また珍妙な新カメラをとりだし、スマホで操作して自慢して見せたりなさる。いまごろはポケモンGOなんぞ、もしかして、、。
 わたしはある年のその会をうっかり忘れて家に居たら、その会場から「今どこにいるの?」と師匠の声の電話、ハッと気が付き絶句したものだ。
 もっとも、その前の年の会では、師匠が日を間違えたために、師匠不在の師匠を囲む会となったから、まあ、引き分けではある。

 NHK大河ドラマでは、もう四半世紀も建築考証者を務めておられる。
 いまの「真田丸」のタイトルクレジットにもその名が登場するが、その背景にある城郭画像の一部は、わたしの生まれ故郷にある備中松山城である。次に会ったら話題にしようと思う。
 わたしが建築史の藤岡通夫先生につき、当時は助手の平井さんに指導を受けることになったのは、この備中松山城を遊び場として城下町で育ったがゆえである。
備中松山城 photo DATEY

 ついでに師匠に便乗して我田引クリック、わたしが平井先生の弟子(もちろん不肖の)である証拠
遺構による近世公家住宅の研究(大学卒業研究論文1960)
修学院離宮中茶屋及び法然院方丈について(日本建築学会論文1961)
京の名刹 法然院の謎ー建築と襖絵の出自を探る(2015)
   

0 件のコメント: