熊本城は、西南戦争で大小天守や御殿など本丸の建築群が焼失し、現在の天守は1960年に大小天守などをコンクリートで再建した。その時の設計者が平井さんの師匠である藤岡通夫先生だから、助手であった平井さんも設計に携わった。
以後、ずっと熊本城に関わり続け、近年では本丸御殿や南大手門などの復元の指導もされたが、更にこのたびの震災では復興に張り切っておられるニュースである。
まったくもってお元気すぎる師匠である。
年に一度の師匠を囲む弟子たちの会では、弟子のたちの方が呆けたり没したりするのに、師匠は昔と変わらずにひょうひょうと現れて、また珍妙な新カメラをとりだし、スマホで操作して自慢して見せたりなさる。いまごろはポケモンGOなんぞ、もしかして、、。
わたしはある年のその会をうっかり忘れて家に居たら、その会場から「今どこにいるの?」と師匠の声の電話、ハッと気が付き絶句したものだ。
もっとも、その前の年の会では、師匠が日を間違えたために、師匠不在の師匠を囲む会となったから、まあ、引き分けではある。
NHK大河ドラマでは、もう四半世紀も建築考証者を務めておられる。
いまの「真田丸」のタイトルクレジットにもその名が登場するが、その背景にある城郭画像の一部は、わたしの生まれ故郷にある備中松山城である。次に会ったら話題にしようと思う。
わたしが建築史の藤岡通夫先生につき、当時は助手の平井さんに指導を受けることになったのは、この備中松山城を遊び場として城下町で育ったがゆえである。
備中松山城 photo DATEY |
ついでに師匠に便乗して我田引クリック、わたしが平井先生の弟子(もちろん不肖の)である証拠↓。
・遺構による近世公家住宅の研究(大学卒業研究論文1960)
・修学院離宮中茶屋及び法然院方丈について(日本建築学会論文1961)
・京の名刹 法然院の謎ー建築と襖絵の出自を探る(2015)
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