2014/09/29

1004【福島東電核毒地帯徘徊6】天災と人災の浪江町沿岸部の復興は隣り町の核毒基地をどう考えるか

大草原に漁船がいくつか漂流している。
ススキとセイタカアワダチソウの草原を漁船が漂流

 転がる墓石群のむこうに草原と巨大な廃屋、その向こうの森の上に3本の煙突が見える。
墓石は請戸集落の墓地、巨大廃屋は小学校跡、三本の煙突は福島第1原発

 ここは福島県浪江町の西部沿岸部の請戸地区である。請戸川が太平洋に注ぐあたり、ここは干拓平野だろう。
 河口部には請戸漁港があり、漁村集落があり、その後背地に広い田園地帯が広がっていたが、今は一面の草原である。
浪江町請戸地区の南は福島第1原発がある双葉町

震災前の請戸地区の集落と田園の姿であるが、今は一切が草原の中

 集落も田畑も完全に消滅して一面に草原が広がるばかりである。3.11震災でゆすぶられ、津波でなにもかも洗われ流されてしまった。
草原に中の建物は集落のコミュニティ施設だった

津波前の集落にあった施設(丸の中)が上の写真の草原の中の建物

 漁港から陸に流れて来て置き去りにされた漁船群は、セイタカアワダチソウの草原のなかにいまだに浮かんでいる。
ここから第1原発までは5kmほどである。遠くの森に見える3本の煙突(実は排気塔)がそうである。ここの草原も廃屋も漁船群も、その原発から発した核毒にまみれているのだ。
左の向うの方に3本の排気塔が見えるのが福島第1原発

 3・11震災にともなう東電福島第1原発事故の核毒拡散で、甚大被害を蒙っているままの浪江町は、核毒度合いの高い西部の町域を放棄?して、核毒度が比較的低い西部の町域で復興しようと構想している。
 だが、まずは核毒除去しなければならないから、復興にすぐにとりかかれる状況ではない。
 中心街が建物がそれなりに並びながらのゴーストタウンであるのに、その西部町域の沿岸部は何もない一面の草原である。
 津波に一掃されたあとに、セイタカアワダチソウがひろがり、その中にかろうじて津波に耐えながらも破壊された家屋が点在する。その背景に福島第1原発を遠望できる。
廃屋の右に見える3本の排気塔が福島第1原発

 草原に中に入ると、あちこちに建物の基礎だけがあって、家々が建ち並んでいたことが分る。わずかにある廃屋は、津波が通り抜けたらしい様子である。
 墓地があり、墓石が勝手な方向に寝転んでいる。ここからゴーストが出るとすれば、ここもゴーストタウンである。墓まいりに来たらしい男女が困惑の様子で、花を供えるべき墓石をさがしていた。
 墓石の向こうにも、もちろん東電原発のタワーが3本見える。
墓地の向こうに廃棄されtが小学校と原発の3本の排気塔が見える

壊れた防波堤の上から請戸地区廃墟草原のパノラマ 左の端に第1原発が見える
原発が見える堤防の上は0.294マイクロシーベルト

 請戸は900人くらいの集落であったという。そしてその2割ほどが帰らない人になったそうだ。
 人の死はいちばん悲しいことだが、津波で家屋も田畑も漁船も漁港も廃墟となり消滅したことは、生きている人たちには実に悲惨である。
 そして更に悲惨なことは、その廃墟の上に東電核毒が降り注いだことだ。津波だけなら金と意欲があれば復興にすぐとりかかることができる。だが、津波で洗われた後の土地を核毒で汚染されては、意欲と金があっても手が付けられない。草原になるままにしておくばかりだ。
 いつから復興に取り掛かることができるのだろうか。宮城や岩手の沿岸部では復興の動きが目覚ましいのに、ここでは何も動いていない。

 ここは地震と津波に加えて核毒という3重被災地になった。二つの天災と一つの人災が重なったのである。天災だけの宮城や岩手沿岸部とはそこが、おおいに異なる。
 と考えていて、ふと気が付いた。おおいに異なると言えば、人災の核毒汚染にはその加害者からの損害補償金がついてきたことである。
 自力更生が原則の天災に対して、人災には補償金による他力厚生の道が開けていることだ。それは加害事件には当然のことだが、ここのところの違いが、被災者の間で非常に微妙な問題を引き起こしているらしい。

 核毒のあるなしの境界線が補償金のあるなしの境界線になるのだが、核毒がきれいに境界線を引いて降ってきたのではないから、難しいことになる。
 妙な言い方になるが、津波で生活手段を失って、たまたま核毒が降ったために補償金で生活再建できる人がいる一方で、核毒が降らなかったので生活再建できない人がいる。核毒の度合いによって補償金も違うだろう。
核毒の分布状況に対応するのだろう

 これらが微妙にモヤモヤとした状態で隣り合わせているにちがいないから、かなり社会的摩擦が起きそうだ。これまでに経験したことのない、予測がつかない事件がいろいろ起きそうだ。実情をほとんど知らないが、どうなのだろうか。
 浪江町は原発立地町としての利益は得なかったが、隣の立地町から迷惑とばっちりを受けたことになる。それは補償金というお土産付であったところまではよいとしよう。

 だが、お土産を開けて復興に使おうとしても、お預け状態であり、それがいつまで続くやら分からないありさまである。妙なことになっているようだ。
 目標時点のない復興には、人々は本気になれないだろう。あれから3年半経っても、復興の第1歩の核毒除去作業にさえ手をつけられない。復興はありうることなのだろうか
 わたしの頭ではここまでしか考えられない。請戸の草原から向うの森の原発排気塔を眺めて、ため息つくばかりである。
 
 ところで、あの向こうの森の排気塔の周りでは、どえらいことが起きようとしている。原発が降らせた核毒で汚れた各地の土やらゴミやらを、ここに集めておいておく中間貯蔵施設の計画があるのだ。
 浪江の復興計画では、請戸の草原にも、人は住まないが復興の絵が描いてある。だがその南隣には、濃縮した核毒の山ができるらしいのである。行政区域が異なるから、この二つの「復興」の絵は同時に見るようになっていない。
 中間貯蔵とはいえ、いつまでそれが続くのか、だれも分らない。いつか県外につくる最終処分場に持っていくらしいが、沖縄の基地問題に見るがごとく、日本中でNIMBYであるにきまっている。
汚染土壌等中間貯蔵施設計画区域案

浪江町東部復興計画図 このすぐ下に核毒中間貯蔵のエリアが広がる

請戸のすぐ南にはこのような核毒汚染土壌などの中間貯蔵施設計画がある

 除染という核毒除去をすれば、除去された核毒ゴミをどこかに集めなければならない。とすれば、宇宙にでも放り出すことができないなら、発生源に戻すのが妥当な処置だろう。
だが、原発の恩恵を受けなかった浪江町にとっては、核毒被災した上に、21世紀の谷中遊水池(足尾鉱毒事件の鉱毒沈澱池)ともいうべき核毒貯蔵基地が、すぐ隣りできるのはなかなかに辛いことだろう。

 ということは、もしかしたら、この中間貯蔵地は福島原発の廃炉と合わせて、日本の新たな原発利権を生み出す、政治的な仕掛けになるおそれがあるような気がしてきた。
 事柄が複雑すぎて、わたしにはこれ以上は頭が回らない。  
 (つづく、福島第2原発のあたりもみてきた

(追記)請戸地区の震災救助活動ができなかった悲惨な話はこちら

参照→地震津波核毒おろろ日録
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html

 

2014/09/27

1003【福島東電核毒地帯徘徊5】浪江町ゴーストタウン中心街は震災と核災の2重苦の風景

 福島東電核毒ベルト地帯の北西の端に飯舘村があり、その南隣は浪江町である。その浪江町の南隣は双葉町で、核毒発祥の東電福島第1原発があり、そこが核毒ベルトの原点である。
 浪江町は原発立地自治体ではないが、隣接して少しは原発ご利益のおこぼれにあずかっていたかもしれないが、2011年3月におこぼれどころか町全体に核毒降下という、巨大なトバッチリを蒙った。
 全町が避難指示区域指定になり、いまだに東電核毒に占拠されたままで、町民は町外のあちこちで避難生活中であり、町役場は二本松市内にある有様だ。

 浪江の中心街に入ると、街の姿はそれなりにあるのだが、人間も自動車も通らない。だから静かであるが、それは不気味な静寂である。
 1時間足らずの街なか徘徊中に出会った人は、訪ねたらしい自宅であろう家から出てきて車で去っていった女性一人だけであった。
 民主党政権下である大臣が「死の町」と印象の述べて、マスメディからコテンパンにたたかれて辞任した事件があったが、まさのその浪江町は人がいない死の町、ゴーストタウンであった。あの大臣がなぜ叩かれ辞めるはめになったのか、あの頃のヒステックな世の空気を思い出す。
こんな立派な街だが誰も住んでいない

 ひび割れた道路に草が生え、建物は建ち並んでいるが、地震で傾いたり、平屋かと見れば実は1階がつぶれて2階が道に面しているとか、歪んだ光景である。
 名物浪江焼きそばの看板、役に立たない自販機、縛られた郵便ポストなどなど、むなしい。
 1995年の阪神淡路震災の神戸三宮で見た風景を思い出した。だが、あの風景とこの風景の大きな違いは、目には見えないがここは核毒にまみれていることだ。復興の手を付けられない
 そう意識しながらこの風景を観ると、ため息しか出てこないのであった。







 小学校の校庭は草原である。どこの屋敷内も草ぼうぼうかと見れば、必ずしもそうではないのは、持ち主が草刈りをしているのだろうか、だが、核毒汚染地帯内だからそれも危ないことだろう。
 家の家に住めないし、修理もままならない。だからここは環境省という国家管理の地となっている。チェルノブイリもこうなのだろうか。

 あの日から動いていない常磐線は、駅ホームも線路も夏草が繁茂している。閉じられた浪江駅舎の中を覗くと、まるで始発前の朝のように乗客を待っている雰囲気のままである。
 駅前付属の駐輪場には、何台もの自転車が整然と並んでいて、乗り手が戻ってくるのを待っている。あの日、大急ぎで避難した人たちが、通勤通学で乗ってきたままにままになっているのだ。
 駅前広場の中には、2台のマイクロバスが放棄されていた。これらも核毒汚染ゴミになるのだろうか。 


駅前に地元紙の福島民報と看板に書いた新聞販売店がある。表のガラス戸から覗くと、店内はつい先ほどもまで配達の準備で忙しくしていた様子そのままである。配達前の新聞が山積みになっている。慌てて逃げ出したらしい。
 「M8.8 国内史上最大、、、 死者16人、、、」などの大見出しが見えるから、3月12日の新聞だろうか。今や死者行方不明者は2万人にもなったのに、この段階では16人であった。
 まるで地震ミュージアムの展示かと思わせるが、現実であることに震撼する。時間航行者になった自分が居るサイエンスフィクション映画を見ているようであった。
 余所者の勝手な言い方であるが、この姿を復興後も保存して、震災と核災を後の世に伝えてほしいと思う。だが、この新聞紙なども核毒まみれなのだろう。



 そのうちにこの街でも、除染という核毒除去作業が始まるのだろう。
建物を壊したり改修すると出てくる核毒ゴミの量は大変な量になるだろう。黒い袋がこの町を占領するのだろうか。
 建物を雑巾で拭うのだろうか。中高層のビルもあるから、いやはや大変な作業である。

 だが、浪江町の復興計画は、核毒が濃い西部の7割くらいの町域を残して(捨てて?)、東部の3割くらいのところに街を再建するらしい。そのとき、やはりこのあたりが元の中心街として再生する計画であるようだ。
 この事故があろうとなかろうと、地方都市の中心街の衰えは浪江町も例外ではあるまいから、もしかして10年も先になると、はたして町民は戻ってくるのだろうか。
 人間はその間にもどこかで、生まれ、育ち、生き、死なねばならない。避難先を第2の故郷とする人たちを、だれも非難できない。

 「ただいま午後3時です。街への立ち入りは、午後4時までです。退去の準備をしてください
 サイエンスフィクションの世界に迷いこみ、無人で無音の街を徘徊していると、突然、頭の上からスピーカーが鳴り響いた。 

 そうか、ここは「居住制限区域」内であり、誰もが立ち入りは午前9時から午後4時までに制限されていて、原子工学サイエンスリアルの世界であった。
 なお、「帰還困難区域」への立ち入りは、月に2回程度を上限、年間15回までに制限されている。わたしたち視察隊は、そこはバスで通過したが降りることはしなかった。
つづく、次は震災と津波と核災の3重苦の地を徘徊する

参照→地震津波核毒おろろ日録
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html

2014/09/25

1002【福島東電核毒地帯徘徊4】除染でつるつるに剥ぎ取られる村は本当に昔に戻るのだろうか


実に立派な建物だが、誰も来ない村役場

村役場前の広場にある放射線量計は0.43マイクロシーベルト

 参考のために、震災前の全国の放射線量を載せておく。


 福島県飯館村は、全村民がどこかよその町に避難して誰も居ないはずなのに、村の田畑や村落は今、かつてないほどの賑やかさである。
 どこもかしこもお祭りのように黄色の幟旗がはためき、田畑にはせっせと働く人たちが見え、土木重機やトラックが動き回り、どこもかしこも大量の黒袋や青テントが置かれている。
 降り積もった放射性物質の除染作業、つまり核毒除去工事が真っ盛りの風景である。
手前には核毒詰め黒袋、向こうには核毒土鋤取り中の重機

田畑を漉き取った土を積んでシートをかけておく

 「除染」とは妙な言葉である。今回の事件で初めて知った。それまで聞いたこともなかったが、昔からある言葉だろうか。汚染した汚物を取り除くのだから、除染じゃなくて「除汚」でしょ。
 放射性物質というのも科学用語かもしれないが、庶民には分かりにくい曖昧な言葉である。はっきり「核毒」といいなさいよ。
 昔、足尾の古河鉱山から垂れ流した有名な公害事件では、「足尾鉱毒事件」と言った。
 今、福島の東電原発から垂れ流したのは、「核毒」というべきである。そう、これは「福島核毒事件」なのである。

 さて、飯館村中での核毒除去作業だが、なにしろ農村だから田畑がひろがる。そこを草刈りして、土木重機で表土を漉き取る。地球の皮をはいでいるようなものだ。
 屋敷では、家屋の屋根や壁を雑巾で拭き、庭は草を取り、庭木は伐り倒し、畑は表土をすき取る。
 屋敷や道路の側の林は、その林縁から20m奥まで、低い枝を落し、下刈りし、落ち葉を掻く。その林内は、まるで都会の公園の中のように、足元はすっぽんぽんの中高木ばかりになっている。
 植生学者の宮脇昭さんが見たら、ソデもマントも林床草本も低木も無いなんてと、真っ赤になって怒りそうだが、そうも言っていられないのが現実だろう。
森の林縁も林床もつるつるに掃除されている

 そうやって伐ったり採ったりした枝葉、落ち葉、畑土などは、核毒まみれだから川に流したり、燃やしたりしてはいけない。集めて真っ黒なプラスチック製の袋に詰め込む。
 作業するひとたちも核毒に触れないように重装備である。暑そうだ。
 山林に降り積もった核毒は、ほったらかしにするそうだ。山林面積の方が田畑や宅地よりもはるかに広いのだが、、。

 それでも膨大な黒袋になる。濃縮核毒袋である。村中のどこもかしこも黒袋だらけである。
 さて、そうやってつくったたくさんの黒袋を、最終的には核毒処理場に運んで行くはずだが、それがまだ決まらないから、持っていけない。
 しょうがないから、最終が決まるまでは中間貯蔵場に集めることになっているが、その中間も決まっていないから、村の中に仮貯蔵場を何カ所か決めて、そこに集めている。
 濃縮核毒袋を集めて積み重ねているから、そのあたりはますます核毒が強まる。
真っ黒核毒袋に線量計を載せて見たら、なんとまあ8.220マイクロシーベルト

 ところが、黒袋はあとからあとから生まれて来て、村内仮貯蔵場も満杯になるから、仮仮貯蔵場を設ける。ところがそこも満杯になって、しょうがないから仮仮仮貯蔵場を設けて、だが、そこも満杯になって、、ああ、きりがない。
 そうやって村中に核毒濃縮黒袋が蔓延している風景は、異様である。だが、見慣れてくるとそれが普通に見えてくるから、困る。
 この黒袋蔓延現象は、これから除染という核毒除去をする地域でも、同じことが起きるのだろうか。何時になったら毒は消えるのだろうか。消えたら、人々は戻ってくるのか。
仮置き場では積み上げた黒袋に鉛入り布をかけていても線量0.654マイクロシーベルト

 この核毒除去作業を人間の顔に例えると、顔面の産毛も眉毛も睫毛も剃って、皮をはぎ取ってから、尻か腿のあたりの皮を移植するようなものだ。
 頭の毛の生え際あたり剃りを入れるが、頭髪には何もしないということだ。

 とにかく、村の田畑は皮をはがされている。田畑の表土は作物を育てるための栄養豊かな土壌だから、そこをはがされては田畑でなくなる。田んぼのあちこちにはがされた表土が積んであり、青テントで覆われて黒袋に詰められるのを待っている。
 そのはがされた表土の代わりに、どこかの山を崩して土を取り、それを覆土するのだそうである。飯館村内の鳥獣保護区と看板がある山を、大規模に崩していた。ここから赤い土を取って、田畑に持って行くのだそうだ。

 だが、この山砂で田畑に覆土しても、作物の出来る田畑にはなるまい。かといって、山から落ち葉を拾って田畑に撒くわけにもいかない。稲藁はもちろん無い。
 化学肥料の出番なのか、それともこれから何年か毎年に生えてくる雑草を刈り倒しておけば、腐って栄養になるのか。どこかから稲わらや腐葉土を買ってきて入れるのか。
 幸いにして日本列島の気候は湿潤だから、山砂の田畑にも草が生え、低木が育ち、中高木が繁って、自然の風景になるには10年ほどだろう。でも人間は10年の間に、生れ、育ち、老い、死ぬ。元には戻らない。

 まったくの余所者の慨嘆だが、いったいこの作業はどれほど金がかかり、どれほど実効あることなのか、わたしはため息ついて眺めるばかりだった。
 でも、そのようななかでも、村は未来を描いているのだ。題して「いいたて までいな復興計画」。ほんとにその健気さに頭が下がる。
「いいたて までいな復興計画2014」にある村の拠点整備計画イメージ図

上の拠点整備計画地区はただいま核毒除去作業真っ最中

飯舘村において核毒除去作業(除染という)を実施する面積は、5600ヘクタールもの広さである。しかし、村全体は23000ヘクタールもあるから、除染面積は24.3パーセントに過ぎない
 核毒まみれのままの山林地帯から、これからも雨風に乗って核毒は降り流れ下るのだろうか。


つづく、さて次は南相馬から浪江町へ

参照→地震津波核毒おろろ日録
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html


2014/09/24

1001【福島東電核毒地帯徘徊3】核毒に明け渡した飯館村を核毒除去産業が占拠している

飯館村は福島原発事故による核毒被災地の中でも、特異なというか、典型的というか、悲劇のメイン舞台であったらしい。
 核毒発射地の福島第1原発に近い地域の南相馬市や浪江町の人たちが、少しでも遠くへと逃げ出して、とりあえず30km圏のここまでくれば安心と避難の場を求めた。
 飯館の村民たちは、原発のことは何も情報がないままに、避難民たちをとにかく援けようと、せっせと働いた。

 そのころ、東電の核毒は北西風に乗ってやってきて、この村の空から雪と雨になって濃厚に降り注いでいたのだが、そんなことはだれも教えてくれない。目にも見えない臭いもしない。
 村民たちは、雪の村中を駆け回って避難民の受け入れをしていた。だから村民たちは、避難民たちよりももっと深く被曝したのであった。
 東や南からやってきた避難民たちは、よりによって核毒の降り積もる村に逃げこんで、また更に被曝を重ねたのであった。(その頃の核毒状況地図

 そして今、核毒まみれの村は避難指示区域に指定されてしまって、6000人余の村民は核毒に村を明け渡して、村外に追いやられている。
 それでも村内に住まなければならない人たちがいる。村の中心部にある老人介護施設の入居者60人ほどである。介護老人は動かせにくいという事情だろう。
誰も住まない訪れない飯館村なのに、こんなに駐車しているのは、向うに見える
立派な老人介護施設だけは入居者60人が住んでいるから、その見守りや介護人たちの車。

  それについて、わたしも老人だから思うのだが、わが身をこの地の核毒に侵されたとしても、それが命に係わる頃はこの世に身はないはずだ。だから、わたしはここに住んでもよいのだが、都会好きだから住めない。核毒被害については年齢差がありそうだ。

 夜はダメだが、昼間は居てもよいことになっているから、一部の工場等は操業しているいるらしいが、従業員の確保が困難らしい。だれだって核毒まみれの土地で働きたくないだろう。
 核毒に追い出されてしまった今、市役所も学校も図書館も、なにもかも空き家である。
立派な村役場や図書館、中学校、広場、エコハウスなどのある村のセンターは、
降り積む核毒の中の一時避難の場とはなったが、今は役場管理の一人だけの超閑散

  稔りの秋なのに田畑で核毒入り作物しかつくれないから、農業絶無である。
 でも、わたしのような高齢者は、少々の核毒入り米でも野菜でも、たいした問題はないと思うのだが、どうなんだろうか。

 では村の中は森閑としているかというと、実は人や機械やトラックの動きが実に活発である。たぶん、核毒村となる前よりも活気があるだろう。
 それは除染という核毒除去の作業が、村中でなされつつあるからだ。田畑の中にも民家の庭先にも森の縁辺にも、働く人影は多く、大きな重機が動き、トラックが走り回り、大きな真っ黒な袋がそこいらじゅうにおいてある。
 草を刈り取り、樹林を切り、落ち葉をかき集め、地表を鋤取り、村中が大掃除の真っ最中である。除染という核毒産業が村を支配している。
村のどこもかしこも黄色い幟がはためき、真っ黒な核毒袋があり、
大きな土木重機が身を振り回し、作業員が黙々と草刈りをしている
 おや、稲の穂が黄金色に輝いている、、、って、これは真っ赤な嘘風景!

 実際の風景はこうなのである↓


 村には今、核毒がもたらした活気が満ちている。いや、活気とか満ちているという言葉には、未来への明るさがあるのだが、はたして飯館村の活気にはそれがあるのだろうか。とりあえず今は、除染雇用もあるかもしれないから、村に金は落ちているかもしれない。
 降り積もった核毒をこうやって袋に詰めて、どこかに持ち出し、その跡にどこかの山を崩して取ってきたキレイな土を敷きつめると、毒のなかった昔に戻るのだろうか。

 あれからもう3年半、これから何年後に昔の村に戻るのだろうか。
 たとえ村は昔にもどっても、その間にも人間はどこかで生きなければならないし、成長するし、老いるし、死ぬから、決して核毒以前の村が戻ることはない。
 そう、日本の人口減社会のなかで各地の村落が次第に消滅していく過程を、核毒が早回しさせることになるかもしれない。

参照→地震津波核毒おろろ日録
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html

2014/09/23

1000【福島東電核毒地徘徊2】見えない核毒が創り出した見えるべきものが見えない風景に戦慄する

 東電福島原発核毒空爆地帯を行く旅の概略を、核毒地図で示しておく。わたしは実は、東北地方にほとんど土地勘がないので、自分の旅の行程がよく分っていない。
 福島駅から東に向かって、川俣、飯館、南相馬に入って一泊、2日目は南相馬市鹿島区から南に原町区、小高区、浪江、双葉、大熊、富岡、楢葉、広野を経て、いわき駅から戻ってきた。
 今、地図など見ると、まさに核毒銀座を通り抜けてきたのであった。
2011年3月の核毒による空間線量
2014年3月の核毒による空間線量



  
核毒地帯ツアーバスは、福島駅から東へ核毒の地に向かい、川俣、飯館へと入っていく。今はまさに秋の実りの真っ盛り、黄金色の稲穂の海の中を行くのが当たり前のはずなのに、窓からの風景は平地なのに雑草ばかりである。
このあたりは耕作放棄地が多いのだなあ、東北の農業はどうなっているのかなあ、と眺めていたが、はっと気が付いた。もしかしたら、これは核毒汚染で田畑の耕作ができないのかもしれない。
 しかし、それにしてはあれから3年半だから、日本の気候ではかなりの草の背丈になるし、湿性地を好む柳の木が低く生えてきてもよいはずだが、なんとなく草原の様子である。でも牧草地には見えない。

 そのうちに妙な風景が繰り返して出現してきた。広い草原の中に土木重機がいくつも働いているが、なにか建設している様子はない。あたりには真っ黒な袋が無数に置かれている。黄色い幟が建ち並んでいて、「除染作業中」と書いてある。
 あ、そうか、これがあの有名な除染であるか、う~む、こういう風景なんだ、、。田んぼから稲を刈るのではなくて、核毒を刈り取っているのである。

そうか、あの耕作放棄地に見えた草原は、除染なる核毒除去跡地であり、たぶん、毎年草刈りをしているのだろう。だから耕作放棄地ではないから、荒れ地になっていなのである。でも、それでも利用はできないから、ただただ草刈りするだけなのだろうか。
 山林は除染しないらしいから、この草地の背景の山には核毒がみなぎっているのであろう。ということは、キノコやワラビなどの採集はできない。
 立ち寄った神社境内にキノコが生えていた。もともと毒キノコかどうかわからないが、ここでは確実に毒キノコしか生えてこなくなったことになる。
飯館村の虎捕山津見神社境内で見つけた核毒キノコ

 この旅の間ではずっと、農業として最も当たり前の黄金の穂が波打つ風景を見ることはなく、旅の最後のいわき市内でようやく稲穂に出会えたのだった。
 例外的に見ることができたのは、核毒汚染田んぼで実験栽培しているところだけであった。
雑草群に囲まれて実験的に栽培している稲

  宮城、岩手の津波被災地でも潮をかぶった田畑で、耕作の再生が進められているようだが、こちらの核毒汚染地での田畑の再生はどうなるのだろうか。これからもかなり長い間、浜通りの農業は壊滅状態がつづくのだろうか。
核毒線量が高くない南相馬市内でも耕作されていない田園風景

 上の写真は南相馬市の田園の現状だが、もしも東電原発核毒空爆事件が無かったら、下のような風景であったはずだ。
もしも核毒事件無かったら、こんな稔りの秋の田園風景になっているはずだ

 とにかく、黄金色の収穫に季節の真っただ中にいながら、それがまったく見えない風景は、実に気持ちが悪いものであった。
 もしも、この状態は続くと、そのうちに草取するのがむなしい作業となり、下のようなあれから3年も放棄したままの荒れた田園風景になるかもしれない。日本の自然の回復力はスゴイものだ。
浪江町で全く放置されたままの田んぼは3年でこうなっている

 人も街も田畑も山谷も、普通なら見えているものが見えない風景の旅、見えていないものを観る旅は、なかなかに興奮させられたのであった。
 それは核毒という見えないものが創り出した風景である。これには戦慄して、疲れた。
           (つづく、次は除染つまり核毒除去作業の風景の話

参照→地震津波核毒おろろ日録
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html