浪江町は原発立地自治体ではないが、隣接して少しは原発ご利益のおこぼれにあずかっていたかもしれないが、2011年3月におこぼれどころか町全体に核毒降下という、巨大なトバッチリを蒙った。
全町が避難指示区域指定になり、いまだに東電核毒に占拠されたままで、町民は町外のあちこちで避難生活中であり、町役場は二本松市内にある有様だ。
1時間足らずの街なか徘徊中に出会った人は、訪ねたらしい自宅であろう家から出てきて車で去っていった女性一人だけであった。
民主党政権下である大臣が「死の町」と印象の述べて、マスメディからコテンパンにたたかれて辞任した事件があったが、まさのその浪江町は人がいない死の町、ゴーストタウンであった。あの大臣がなぜ叩かれ辞めるはめになったのか、あの頃のヒステックな世の空気を思い出す。
こんな立派な街だが誰も住んでいない |
名物浪江焼きそばの看板、役に立たない自販機、縛られた郵便ポストなどなど、むなしい。
1995年の阪神淡路震災の神戸三宮で見た風景を思い出した。だが、あの風景とこの風景の大きな違いは、目には見えないがここは核毒にまみれていることだ。復興の手を付けられない。
そう意識しながらこの風景を観ると、ため息しか出てこないのであった。
家の家に住めないし、修理もままならない。だからここは環境省という国家管理の地となっている。チェルノブイリもこうなのだろうか。
あの日から動いていない常磐線は、駅ホームも線路も夏草が繁茂している。閉じられた浪江駅舎の中を覗くと、まるで始発前の朝のように乗客を待っている雰囲気のままである。
駅前付属の駐輪場には、何台もの自転車が整然と並んでいて、乗り手が戻ってくるのを待っている。あの日、大急ぎで避難した人たちが、通勤通学で乗ってきたままにままになっているのだ。
駅前広場の中には、2台のマイクロバスが放棄されていた。これらも核毒汚染ゴミになるのだろうか。
「M8.8 国内史上最大、、、 死者16人、、、」などの大見出しが見えるから、3月12日の新聞だろうか。今や死者行方不明者は2万人にもなったのに、この段階では16人であった。
まるで地震ミュージアムの展示かと思わせるが、現実であることに震撼する。時間航行者になった自分が居るサイエンスフィクション映画を見ているようであった。
余所者の勝手な言い方であるが、この姿を復興後も保存して、震災と核災を後の世に伝えてほしいと思う。だが、この新聞紙なども核毒まみれなのだろう。
そのうちにこの街でも、除染という核毒除去作業が始まるのだろう。
建物を壊したり改修すると出てくる核毒ゴミの量は大変な量になるだろう。黒い袋がこの町を占領するのだろうか。建物を雑巾で拭うのだろうか。中高層のビルもあるから、いやはや大変な作業である。
だが、浪江町の復興計画は、核毒が濃い西部の7割くらいの町域を残して(捨てて?)、東部の3割くらいのところに街を再建するらしい。そのとき、やはりこのあたりが元の中心街として再生する計画であるようだ。
この事故があろうとなかろうと、地方都市の中心街の衰えは浪江町も例外ではあるまいから、もしかして10年も先になると、はたして町民は戻ってくるのだろうか。
人間はその間にもどこかで、生まれ、育ち、生き、死なねばならない。避難先を第2の故郷とする人たちを、だれも非難できない。
「ただいま午後3時です。街への立ち入りは、午後4時までです。退去の準備をしてください」
サイエンスフィクションの世界に迷いこみ、無人で無音の街を徘徊していると、突然、頭の上からスピーカーが鳴り響いた。
なお、「帰還困難区域」への立ち入りは、月に2回程度を上限、年間15回までに制限されている。わたしたち視察隊は、そこはバスで通過したが降りることはしなかった。
(つづく、次は震災と津波と核災の3重苦の地を徘徊する)参照→地震津波核毒おろろ日録
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html
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