身延から富士川をさかのぼり、その支流の早川をさかのぼり、またそのその支流の春木川をさかのぼって、ようやくに急な斜面地にへばりつくような集落が現れた。
その赤沢宿は日蓮信仰の身延山の西側斜面にある。周りにないもないこんなところにどうして宿場なのかと問えば、身延山から巡礼するもうひとつの信仰の山・七面山への登山口の宿場町である。
東の久遠寺から歩いて身延山に登ってこちらに降りてくると、七面山に登るにはどうしてもここに泊まらなければならない日程になる。
いや今では、誰も歩かないから過去のことだ。
かつては身延山から御師につれられて講中という団体が降りてきて泊まった旅館は、いまや沢山の建物だけがあるが営業はたったの1軒だけの有様である。今日わたしたちが泊まる江戸屋である。
街並みは重要伝統的建造物群保存地区に選定されて、石畳もあり家々もそれなりに景観修復されているのだが、案内看板も見えないし、何の観光的なちゃらちゃらした様子もないし、それは嬉しいような寂しいような。
車を降りてみれば大きな宿屋である。なるほど壁に江戸屋旅館と大きく書いてある。それが登ってきた谷のほうから見ええるのではなくて、山のほうに向いて書いてある。
つまりそれは、身延山から降りてくる人たちに向っての標示なのであった。
表に面する2方を大きく開け放ち、大在の団体客が一度にどっと出入りできるようになっている。今日はわたしたち4名だけの借りきり状態だが、それでも開けはなって待っていてくれた。6つに仕切れる大広間が4人の部屋である。寒いから小さい二つだけを使う。
谷のほうを見れば、七面山が大きく覆いかぶさるようにそそり立っている。そこに登るにはまた谷をさかのぼり、尾根をよじて行くのである。見れば上のほうは雪がかぶっている。信仰というものはすごいものだ、なぜそうまでしてと、信仰心のないわたしは不思議に思う。
その信仰心のある身延巡礼がそれほども多く居たからこそ、このような急斜面地の狭い地にこれほど沢山の旅館が成り立っていたのだ。各旅館にはそこを宿とした身延詣での多くの講中の名札がいまもぶら下げてある。
畑も田んぼもできない傾斜地である。身延巡礼がこなくては成り立たない山村である。重伝建地区となっても、それが観光資源となって再び人が来るのかどうか、生きる道はきびしそうである。
平らなところはないからスポーツ合宿には向かないし、工芸村のような特殊な方法しか思いつかないが、さて、成り立つものか。
集落の各家から集めて昔からの道具や家具類を展示する小さな資料館がある。誰も居ないので勝手に入ってみる。よくある民族資料館の素朴なヤツである。
座机に小さな手帳がある。あけてみれば日中戦争の満州で兵役についた人の、1938年1月1日から始まる日記である。
名前は分からないが、 実際の戦闘の記録も出てきて、一年ほど後で書き込みが終わっている。もしかして戦死者の遺品だろうか。
実はわたしの父も日中戦争にでかけて手記を書いているのを、最近発見して読み解いている最中なのだが、この山奥の集落にも戦争の刻印があることに思いを深くした。
赤沢で泊まった次の日、久遠寺に花見に行ってみたが、結構多くの人がいるのであった。あの人たちが少しでもこちらに回るかと思うが、なんだか身延遊山と伝建地区赤沢宿を尋ねる人とは人種が違うような気もする。
(20090407記)
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