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2017/01/05

1244【東京駅周辺徘徊その3】駅前の行幸道路でやんごとなきお方が眺める景観変化この90年と未来景観戯造お遊び

東京駅周辺徘徊その2】からの続き

八五郎:ご隠居、明けましておめでとうございます。
ご隠居:おや、八ツアン、いらっしゃい。はい、おめでとうさん、今年もよろしくお願いしますよ。
:正月早々から、ネット遊びですかい。日本橋の景観戯造なんて、、。
:はは、ヒマだからね、正月は、いやまあ、1年中ヒマだけどね。
:で、つぎはどんな戯造です?
:いや、偽造の前に去年やった東京駅の話の続きをしようかね。こんどは丸の内の駅前道路、通称・行幸道路の景観ね、これが今の姿だよ。
丸の内行幸道路の東京駅方向を見る風景 2016年12月

:ああ、東京駅と皇居前広場を結ぶ広い道路ですね。何で行幸道路なんだろ、天皇だけが通る道ってこともないだろうに。
:うん、もしかしたら自動車に乗って真ん中を通ることができるのは、天皇だけかもしれないね。とすればこれは、やんごとなきお方が眺める風景だ。
:こんなに左右の高いところから見下ろされると、やんごとなきお方だって鬱陶しいかもなあ。

昔の風景はどうだったんでしょうねえ。
:はいよ、これが1928年の写真だよ。関東大震災の5年後だけど、ここはあまり被害はなかったね。東京駅は1914年にできている。右の手前のは1918年にできた日本郵船ビル、そのむこうに少し見えるのは1923年にできた丸ビル、左に見えるのは1918年の東京海上ビルだよ。
:ほう、スッキリですねえ、えらく空が広いや。まんなかの東京駅は今と変わらないけど、左右のビルはずいぶん違いますねえ。総じてバランスがいいなあ。今の風景はビルがこけてくるような、。あ、そうだ、右が丸ビルなら左には新丸ビルがあるんでしょ。
:いや、海上ビルの向こうの新丸ビルは、このときはまだできていないから空き地だよ。

:このあとの大変化が、1945年の大空襲ですね。
:そうだね、東京駅は焼けて屋根が無くなったけど、丸ビルなどのコンクリビルは大丈夫だったんだね。戦後の変化は、1952年に新丸ビルができたのが第1号だな。
:新丸ビルは丸ビルと同じ高さでしたね。
:そう、1963年までは法律で高さ100尺つまり31mまでしか建てられなかったんだな。そのあとがずいぶん変わってきた。これが1987年にわたしが撮った写真だよ。
:どこもかしこも変わっちまって、変わらないところを探すほうが早いや。まず真正面の東京駅は変りませんね。
:いや、中央部分は変わらないけど、その左右の高さが3階建てが2階建てになっているよ。
:あ、そうだ戦後に戦災の傷跡を修復をしたのでしたね。それと東京駅の後に高いビルがありますよ。
:それは八重洲口の大丸百貨店だよ、1968年に12階建てにしたので、丸の内側からそれが見えるようになったんだな。

:右向うの丸ビルも替わりませんね。並木に隠れて見えないけど、左向うには新丸ビルがあるはずでね。
:そうだね、丸ビルと新丸ビルはまだ変わらない。ここでの大変化は、左の東京海上ビルが1974年に25階建てに、右の郵船ビルが1978年に15階建てに、どちらも建て替わったことだな。
:ほう、左右アンバランスですねえ、こういう時にどうせ建替えるなら、右と左をそろえた高さにすれば、門のようになって格好良かったのにねえ。

:そうだね、まあ揃えればいいというもんでもないけど、都市の景観デザインを考えて建て替えたのかという問題提起だね。
:そう、その問題提起ってヤツですよ、エヘン。
:この東京海上ビルを建てる前に、その景観について世の中に論争が起きたんだよ。あんまり髙すぎる、いや、現代都市は超高層ビルであるべきだとかって、1966年から10年くらい続いたな。
丸の内景観論争って、有名人とか不動産屋とか建築家とか政治家とか登場したんでしょ。
:そうだったね、そのころ日本でも超高層ビルを建てられるように法律が変り、技術も進歩したんだね。建築家も建設業界も、超高層ビルを建てたくてしょうがないんだな。
:そこで丸の内で超高層ビルを建てるって計画が出てきて、世間がビックリしたんですね。

:それまではビルと言えば高さが31m、例外的に45mまで建って、丸の内では街並みの高さがそろっていたんだな。それがこれを機会に崩れて凸凹の風景になるのはケシカランてね。
:それだけじゃないでしょ、皇居を見下ろすのが不敬にあたるって、そんな意識も根強かったとかでしょ。
:もしかしたら反対論の根にはそれが深かったのかもしれないねえ。まあ、なんにしても海上ビルが超高層で建ってしまったら、あとは一瀉千里、今のように超高層だらけになったな。
:じゃあ、あの景観論争って、いったいなんだったんですかねえ。
:そうだねえ、なんだったんだろうねえ。その後に景観が法律に登場するまでには四半世紀以上もかかってるんだもんなあ。
:ずいぶん長くかかってますねえ、丸の内景観論争は狭い範囲の騒ぎだったんですね。

:さて次の写真は、その景観法ができた2004年に撮ったよ。
:あっ、右の丸ビルが超高層ビルに建て替わりましたね。
:そうだよ、2002年に37階、179mに建て替えたな。景観論争であれこれあって、100mで手をうった筈なのにねえ。

:次は2007年の写真だよ。さて、どこが変ったかな。
:ほほう、左の新丸ビルが超高層に建て替わり、東京駅左上にも超高層建築が建ちましたね。
:新丸ビルが建て替わったのは2007年、高さ176m、38階だよ。左向うは八重洲側に建つグラントウキョウノースタワーってんだな、ここに大丸デパートが引っ越した。
:あそうだ、新丸ビルとグランノースは、東京駅上空の空気を買ってノッポになったのでしたね。
:そう、容積率移転と言ってね。その東京駅は、この年からしばらく増築とお化粧工事の板塀に囲われて姿を消すんだよ。

:さてその次は去年2016年の12月だよ。さあ、どこが変ったか分るかな。
:うーむ、そのグランナントカってってやつの下の方が、右に伸びてきてるなあ、ほかはあるかなあ。
:あるんだよ、東京駅だよ。
:東京駅の後ろの大丸がなくなった。あっそうだ、2007年から東京駅の増築とお化粧工事で、2011年に戦前の姿が現れたんだ、でも、これみてもあまり変わらないような。
:そうだね、中央のドームは変わらないけど、よく見ると尖塔がついてるし、3階ができてるよ。

:ここまできましたけど、まだまだ変わるんでしょ、八重洲側で大きな開発計画があるとか。
:そうだね、その開発事業者が発表してる絵をもとにして、2023年の風景はこうなるらしいと戯造してみたよ。東京駅の上も賑やかだねえ。

:でもねえ、ご隠居、その先があるでしょ、なんだか止めどもなく開発するようですよ、だからあっしがこんなの未来戯造しましたよ。
:おうおう、八重洲が超賑やかなばかりか、丸の内の東京海上ビルも日本郵船ビルも建替えて丸ビル並にノッポにするかい、スゴイすごい。
:隣が超髙くなったんだから、こちらが25階とか15階じゃあ損だ、建て替えようってどっちも思うでしょ。

:よし、それならわたしも、例の丹下案をはめ込んで未来偽造だ、どうだい。どこが変ったかわかるかい。
:うわっ、八重洲側目隠しビルですねえ、え、郵船ビルもレンガ色ですかあ、うーむ。
:これを上と比べると、なんだか妙に整いすぎて見える、ちょっとつまんない感じもあるよね。
:そうですね、模型を見てるようで、左右がそろえばいいってもんでもないか、アレッ、東京駅ビルの中間に穴を開けて風が抜けるようになってますね、ワハハ。(続く


東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版(伊達美徳制作ガイドブック)
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2017/01/02

1243謹賀新年2017年新春のお遊びは東京は日本橋の景観戯造

謹賀新年
2017年元旦

本年も「伊達の眼鏡」ブログのご愛読をお願い申し上げます。

新春のお遊びとしてお笑い戯造景観遊びでお楽しみください。

東京の日本橋は、川の上に橋が架かり、
その橋の上にまた橋が架かる2重橋です。
川の上の橋は19世紀の終わりごろ、
橋の上の橋は20世紀の半ば過ぎにできました。
今では後からの橋の上の橋がでしゃばっていて、
元祖日本橋が日陰の身になっています。

そこで橋の上の橋、つまり首都高速道路高架橋を取り除いて、
昔々のような日本橋の景観に戻そうとの構想は、
もう何十年も言われていますが、いまだに2重橋のままです。

そこで新春のお遊びとして、
わたしが橋の上の橋を取り除いてみました。
いかがですか。


でもねえ、取り除いてもたいした景観が現れるのでもないですねえ。
そこでちょっと考えました。
取り除くとしてもせっかく作った橋の上の橋だって、
それなりに歴史的な時間を経た建造物として人々の景観記憶にあるので、
その一部を記念として日本橋の横に保存した景観もつくりました。
いかが?

◆◆

ところで実は、わたしは同じことを2005年にもやっていたのです。
それが下の画像ですが、上と比べてたいして変っていませんが、
よく見ると超高層ビルが完成したり工事中だったりいくつかあり、
今後はかなり替わるようですね。
また10年後につくるかなあ、まだわたしが生きていたらね。


なお、景観戯造遊びは、ここにたくさんあります。

まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2016/12/27

1242【東京駅周辺徘徊その2】ナントカランドになっちゃった東京駅丸の内駅舎の歴史についてご隠居と八五郎の10年ぶりの長屋談義

東京駅周辺徘徊その1】からの続き

八五郎:ご隠居、元気ですかい。
隠居:おや、八ッぁんかい、ひさしぶりだね。うん、元気だよ、口だけは。
:先日ね、10年ぶりに東京駅のあたりをぶらぶらしてきましたよ。いやもう超高層ビルがびっしりで、あたまのうえあたりが鬱陶しいったらないね。あんなにビル建てる場所ありましたっけ。
:いやいや、建ち並んでた高層ビルを、もっと高く太く次から次へと建てなおしてきてるんだな。
:壊す費用だって莫大だろうに、それでも儲かるんですね。でも東京駅だけは低いままに建て直してましたよ。
:あれは建て直したのじゃなくて、戦後修復した建物に3階部分を増築して、ついでにお化粧直ししたんだよ。いわば再修復だけどね。
:そういえば、そのことで10年前にご隠居と長屋談議をやったことがありましたね。どうせならもっと高く建て直しゃよかったのに、なんでです?
:うん、まあ、昔の形に戻してみたかったんだな、その化粧代金が500億円かかったけど、もっと髙く建てられる権利、つまり頭の上の空気を売って調達したんだね。
:すごいねえ、ホントに空気を金にするんだもんねえ、人間はキツネやタヌキ以上ですね。
◆このあたりの詳しい談議はコチラ
 
:ちょっと東京駅の歴史を振り返ってみようかね。これが1914年にできたときの写真だよ。
:そうそう、10年前の姿から今はこの姿に戻ってましたよ。赤くてキンキラで派手なもんで、ナントカランドみたい。1914年にこれを見た日本人は、そのキンキラキンの西洋建築に圧倒されたでしょうねえ。
:その頃の日本は、日清、日露、日独って10年ごとの戦争に勝ち続けて、先進の西欧列強に並ぶ帝国になる背伸びを始めた発展途上国だったからね、このような成り上がり的建築にあこがれたんだよ。

:でも、次のアメリカとの戦争では負けちまって、東京駅は敵からの空爆で燃えてしまったのでしたね。
:そう、1945年5月のこと、屋根は燃え落ち、内装は全焼、でも煉瓦壁やコンクリ床は燃え残った。
:創建から31年目ですよねえ、もったいない、でもまあ、東京中が燃えたんだからしょうがないや。

1945年3月10日の東京大空襲で炎上し屋根がなくなり壁だけになった東京駅

:そこでね、燃え残った煉瓦壁や床を再利用して応急修復したんだよ。それができたのが1947年のことだった。
:その戦後修復東京駅が2007年まで見えていた姿だったのですね。
:そうだよ、それが60年間もあった。創建時の姿は31年間だから、戦後修復の姿の方が2倍くらい長くあったんだね。
:戦後応急修復建築にしては、エラク立派なものでしたねえ、今の姿からキンキラキンを取り除くとあの姿でしたねえ。
:そうだね、あの金も物資もない時に、機能的には要らないものなのに燃えた3つのあのデカいドーム屋根まで作り直したんだからねえ、よくまああそこまで立派に修復したもんだよ。
:かんがえようによっては、あのままでこそ重要文化財級でしたね、対清露独戦勝+対米敗戦記念碑だったんですものねえ。


:それが1970年代の終わりころから、国鉄は赤レンガ駅舎を高層ビルに建て直したいといいだし、歴史文化好きの市民たちは保存しろとか、建築史関係者は辰野金吾の設計だから復元しろとか、あれこれ騒がれてきたんだね。
:どこかの市長が、壊すならうち市のの公園に移築してひきとる、なんて言いましたね。
80年代半ばの世の中のバブル景気と国鉄民有化政策も絡んで、いろいろあったけど結局は「東京駅周辺地区総合整備基礎調査報告東京駅専門有識者委員会が「現地で形態保全とし、政府もそう決めたんだな。そのときに空中権の移転も示唆されているよ。
それで今のようにキンキラキンの昔の姿に戻すことに決めたんですか。今や時代は右寄り、なんだか復古調の世の中ですからね。
いや、専門家の委員会では、復元せよとは言っていないよ。わたしは戦後修復の姿で保存するべきと思っていたけど、その後に復元する方向になったらしいね。
:そう、建築の世界じゃあ、古い姿ほど価値があるって思い込みがあるでしょ。わたしたちの時代の歴史的意義が深い戦後修復よりも、1914年の姿が価値があると思うらしいですよ。
:でも、復元たって実は半分上は2012年にコピーして作った新しいものなんだな、へんだよね。やっぱりナントカランドが好きなだけなんだろ。
:じゃあ、三菱1号館美術館と大差ないですか。
まあ、これらキンキラ出現もまたひとつの歴史ではあるけどな。ただねえ、あの戦後修復の姿は、日本の愚行と不幸を今に眼に見えて伝える戦争と復興の記念碑だった、それが消えて惜しいことをしたよ、国鉄建築家の伊藤滋の修復デザインとしても秀逸だったしねえ
2012年にキンキラキン化粧の1914年の姿に戻った現代の東京駅

:ところが、そのナントカランドキンキラ新東京駅もまわりから攻められてますよ。前後左右からガラス箱大入道集団に襲われているみたいですよ。
:そのガラス張り超高層は、東京駅空気を売った先のビルなんだな、だからあんなにもデカいんだな。
:そうか、お化粧代として空気を売ったら、お返しとして日陰になった、あ、そうか、身を売って日陰者になっちゃった。
東京駅が上空の空気を売った先の6つのデカビル

:身を売った先ばかりじゃなくて、これからどんどん大入道が建ち並ぶらしいよ。これは八重洲側の開発について最近その事業者が発表した絵だよ。
:おやおや、乱杭歯のように立ち並ぶねえ。

:さてさて、この先どうなるのだろうねえ。
:ちょっとそれを描いてみましたよ。どうですかい、もちろん、いい加減な推測戯画ですよ。
:うわっ、どうせならこんな乱杭歯じゃなくて、金屏風を立てたように都市デザインすればいいのにねえ、キンキラ新東京駅がもっとキンキラキンになるようにね。

:あ、そうだ、こんなのもありますよ。ほれ、30年ほども昔々に建築家の丹下健三からの提案があったでしょ、辰野金吾デザインをそのまま高さ100mにするって、それを絵にしてみたんですよ、
:うわ、すごいねえ、あ、そうそう、わたしは丹下事務所でその模型を見たことがあるよ、ほう、これなら東京駅自体が金屏風、いや赤屏風になるんだな、わはは、う~む。

つづく


東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版(伊達美徳制作ガイドブック)
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)


2016/12/24

1241【東京駅周辺徘徊その1】東京の丸の内と大手町は今やデブデカ超高層ビル群おしくら饅頭なんとも鬱陶しい景観

派手に着飾った東京駅はいまや八重洲側の開発で背景もこんなに賑わってきた
まだ歯抜け背景だけど続く開発でこれから乱杭歯が建ちならぶので乞うご期待

 久しぶりに東京駅下車、1985年頃から毎年2回くらいは定点観測し続けてきたのだが、さすがにもう飽きた。
1960年代末から80年代半ばまで、東京駅北口にある事務所に通勤していたので、八重洲・丸の内・大手町の30年前の姿が脳裏に刻まれている。
 特に、1980年代半ばに政府の仕事で東京駅周辺再開発計画を担当したので、表面的なことばかりではなく、ある程度は深く知ることもあった。
 その後も、このあたりが中高層ビルから超高層ビルへと、都市景観が変化しつづけるのを観察するのが面白かった。

さて、久しぶりの丸の内・大手町は、建築群がここもそこもかしこも高く髙く太く太く大きく大きくと、一途に増殖し肥満し続けているのであった。すごいのだが、どこか狂気のごとくも見える。
 昔の超高層建築は細くて高くて孤立していたから、すらっとして格好が良かったのだが、今どきの超高層建築はデブデカ肥満児というか巨体に成長して、しかも群れているのである。
 それらデブデカ建築群がおしくら饅頭でひしめきつつ、道の両側からてんでにワラワラと覆いかぶさってくるのは、なんとも鬱陶しいものである。

 建築を作品として鑑賞する気にならないのは、鑑賞するような建築がないのか、それともこれほど立ち並ぶとよほど奇抜なデザインでないと見るべき建築にはならないのだろうか。例えば三菱一号館美術館のようにクラシックコピー建築にするとか。
 摩天楼の街のニューヨークやシカゴのような建築的面白さが、丸の内と大手町にはないのだ。

 1988年であったか、丸の内の大地主の三菱地所が、いわゆる「三菱丸の内マンハッタン計画」なるものを発表して、超高層の墓場のような将来像が不評を買ったことがある。
 そしてそれから30年ほどの今の丸の内・大手町は、中高層ビル群は次から次へとガラスの石塔群に建て替えられて、超高層ビルが雨後の竹の子のごとくたちならんでいる。あまつさえ超高層ビルを壊して超高層ビルに建て替えることさえやっている。
1988年丸の内三菱マンハッタン計画の丸の内俯瞰図

2015年 上の絵とほぼ同じ視覚の丸の内俯瞰画像(google earth)

 マンハッタン計画が発表されたころは、バブル景気初期の頃で、東京のオフィス需要がものすごくなる、それに対応しようとてあれこれあったものだ。
 この計画への世の批判は、その墓場の如き漫画的お絵かきもあったが、基本は丸の内・大手町の都市計画としてその大規模な集中に対応できるのか、そしてまた東京一極集中を助長して国土計画として適切か等であった。

 わたしがこの絵を見て思ったことは、1966年から1年ほど起きた景観論争のことである。超高層の東京海上ビル計画が発表されて、高いビルは皇居を見下ろすのでケシカラン、いや高いビルこそ先進国であるとか、反対賛成の論争である。
 建築家たちは賛成、知識人は反対という構図であった。その頃に誰もが思った基本的な疑問は、超高層建築群がつくりりだす都市景観は、はたして美しいものとなりうるか、という思いだった。

 このとき反対の企業側の急先鋒は三菱地所であった。三菱の反対論の底には、19世紀からえんえんと築き上げてきた丸の内の不動産価値の大きな変動への不安であったのだろう。
 世間も業界もすったもんだ、総理大臣まで介入、行政不服審査にもなり、あれこれの末に、では高さ100mまでにしましょうよと、とくに根拠もない業界手打ち、以後しばらく100m丸の内だった。
 それが三菱丸の内マンハッタン計画は高さ200m提案であるから、20年後の大変節にわたしは笑ってしまった。(美観論争についてはこちらを参照

 その後、バブルパンクとか平成大不況とかリーマンショックとかいろいろあったが、いま見る状況はマンハッタン計画はとにもかくにも実現しそうというか、既に実現してしまったという姿である。
 それはもう底が抜け落ちたというか、天井が破壊しつくされたというか、。
 では、あの頃の批判とか問題をすべて乗り越えることが、東京都心も日本もできたということなのだろうか。う~む、とてもそうとは思えないのだが、。

 そんな摩天楼景観をきょろきょろ見上げて眼も首も疲れるが、ふと、昔ながらの8階建て程度のビルを見つけると、おお健在かと懐かしく見つめるのだった。
三菱地所が「ビルヂング」と命名していた頃の、そんなビルがまだいくつかある。たぶん、建て直しを待っているのだろう。
右端は丸の内超高層第1号の東京海上ビルだが周りが高くなって埋没、
中央の銀行協会ビルは建替えた超高層ビルをまた壊して超高層建替え中

アートで暑苦しさをなんとかするか

こんな笑える自然の広場もある

巨大開発中工事場にとり囲まれてポカッと空いた将門塚は
今どきでも祟りがあるとて誰も地上げしない真空エリア

将門塚を取り囲むこの開発は祟りがあるかもなあ
建築主、設計者、施工者そして入居者のみなさまお大事に

あそこに見える8階建て「ビルヂング」は今や貴重な「低層」建築

そのひとつに「日本ビルジング」があったが、ここの中にあった事務所に通勤してたのだ。
 いま、その前を通れば工事用の囲いがビル全体を覆っていて、解体中であった。こんどは跡地に日本でいちばん高いビルを建てるとか。
日本一床面積が広かった日本ビルも解体中、跡には日本一高いビルができるとか

いまから30年ほど昔だが、東京駅周辺再開発計画の仕事がらみで、このあたりの写真をたくさん撮ったことがある。そのほかにも画像を数多く収集しており、今はそれらがPCの中にある。久しぶりにそれらを取りだして、今の姿、将来を並べてみよう。
 30年前はビルに入って外を撮影するのは難しくなかったが、いまではシャットアウトばかり、しょうがないから、俯瞰写真の一部はgoogle earthのお世話になって比較する。

1987年 東京駅八重洲口大丸屋上から丸の内方面俯瞰
東京駅は復元前、左から中央郵便局・丸ビル・新丸ビル・旧国鉄本社いずれも建て替え前

2017年 東京駅八重洲口の建替え後の大丸12階便所から丸の内方面俯瞰
東京駅は復元後、左から中央郵便局・丸ビル・新丸ビル・旧国鉄いずれも建替え後


1987年 八重洲口大丸屋上から北西方面俯瞰
駅前広場の北にある国鉄本社ビルがまだ健在

2015年 上とほぼ同じ俯瞰(google earth)
左は建替後の新丸ビル、中央に国鉄本社建替後のオアゾ

東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版(伊達美徳制作ガイドブック)
東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)






2016/06/13

1197【東京風景】昔々そこに勤め先があったあのデカい日本ビルを建て替えるとて東京駅前プチ感傷旅行

夜の東京駅前センチメンタルジャーニー
おや、真っ暗ビルだよ、ここも空き家問題かい
真正面の日本ビルに昔々通勤、今日は真っ暗ビル、
その両隣も真っ暗超高層(明かりが見えるのは他のビルの写りこみ)

●日本ビルというバカデカビルに通勤した

 東京駅前をしばし鑑賞ならぬ感傷徘徊、といっても観光ポピュラーな赤レンガ駅舎のある線路西側の丸の内ではなく、線路東側の八重洲でもない。
 東京駅から北口を出て、その駅前広場から呉服橋通りを渡ったあたりは大手町へ、こちらももちろん大きく髙いビルが建っている。

 そんなところへプチ感傷旅行したのは、昔々、わたしの勤め先がそこのビルの中にあって、ながらく通勤したことがあり、そのビルを建て替えると聞いたので、今のうちに昔の姿を眼に留めておくのである。
 そこには「日本ビル」というご大層な名の建物がある。昔々、そのビルの中にわたしの勤め先(RIA本社)があった。この日本ビルは1960年代中頃だったかにできたが、ドデンとかまえた14階建てビルで、当時は日本で最大床面積だったと聞いたことがある。
これが日本ビル、まわりを板塀に囲まれ一部に足場もできた、取り壊し開始らしい

 記憶では、初めは第三大手町ビルという名であったが、これにもうひとつのビルをくっつける様な増築をして、日本ビルと名前を変えたような気がする。
1963年、第3大手町ビルの頃

1989年、日本ビル・朝日東海ビル・新日鉄ビルが揃い踏み

2016年、東京駅北口から八重洲口にかけて超高層ビルだらけになった

中庭をとり囲む平面的にばかでかいビルで、エレベーターバンクが離れて2か所にあり、長い長い廊下がぐるりと一周していた。一周200mくらいあったような気がする。
 初めは4階の部屋に居たが、そのうちに狭くなって11階に引っ越して少し広くなり、そしてまた狭くなって5階に都市計画分室を設けて、わたしはそちらへ引っ越しをした覚えがある。

 日本一バカデカいビルと言われるだけあって、外に出ないでも24時間を暮らせるほどに、なんでもかんでもそろっていた。三越百貨店の店もあった。地下深く下水処理場もあった。
 しょっちゅう徹夜仕事をしていたが、さすがに風呂屋は無い。それでも、便所にある掃除用の大きなシンクに水を張って、真夜中に入浴した男もいた。

 今どきのオフィスビルと違って、オフィス階にもだれでも出入り自由だったから、窃盗犯罪がけっこう多かった。アルバイトとか営業マンを装って室内に入ってくるのだ。わたしもロッカーにあった上着から財布を盗まれ、大便器からでてきたことがある。
 日立のような大企業もいたが、中小企業がずいぶんいたのは、戦前から三菱煉瓦街に入っていたテナントたちがいたからだ。勤め先のRIAもそうだった。

●日本ビルに来る前は丸の内赤煉瓦街に居た

 RIAは、このビルに来る前には丸の内の「三菱仲四号館」に居た。そこは赤レンガ3階建てで、今あるなら重要文化財だろう。有楽町駅から近かった。階段ホールアクセスタイプの棟割長屋方式の建物で、その1階と2階に部屋があった。床は階段も板張りだったから、歩くと響いたものだ。
 1957年の夏、山口文象は師のグロピウスをここに案内して、近藤正一たち若いスタッフに紹介した。
かつての丸の内赤煉瓦街(平井聖氏撮影)

 RIA創立者の建築家・山口文象は、最も活躍した戦前1936年にそこに建築設計事務所をかまえた。そして戦後1952年発足したRIAの事務所にした。
 1963年頃だっただろうか、大家の三菱地所が赤レンガを高層ビルに建替えるとて、大手町にその頃に建った第3大手町ビル(日本ビルのその頃の名称)に移転させられた。
 このころから丸の内の赤レンガ街は、第1期再開発時代を迎えて、ドンドン建て替えが進んだ。今は第2期(もしかしたら第3期か)建て替え時代だろう。
 日本ビルはテナント移転用の代替えビルだったのだ。東京駅の周りは、線路の西が三菱村で、線路の東側は日本橋まで三井村でありながら、日本ビルだけは線路の東側にある。

●日本ビルは日本一のっぽビルに建て替え

 さて、東京駅北口広場から眺める夜の日本ビルは、その両隣の超高層ビルも含めて、真っ暗であった。このあたり一帯は日本のビジネスセンターであり、グローバル時代になって夜も眠らない、休日も仕事するのが当たりまえ、真っ暗とは空き家になっているのである。
 といっても、住宅の空き家問題がここにも及んでいるのではない。ビルの周りは板囲いされて一部に足場も組んであったから、テナントを全部どこかに移転させて、いよいよ建て替えのための取り壊し工事が始まったらしいのである。

 東西隣の二つの超高層ビルの朝日東海ビルと新日鐡ビル、北道路向かいの日本ビル別館も壊して(いずれもわたしが居た頃の名前で、今はどういう名か知らない)、再開発するのだそうだ。これらはもともとが再開発だったから、第2次再開発事業となる。
 それにしてもこれほども広く高いビルを壊しても、それよりも広く高く建てることができるから事業採算が成り立つので再開発をやるのだろう。

 ここの跡地には、日本一高いビルをつくって、大阪阿倍野のハルカスを越えたいのだそうだ。あの昔の超高層の曙時代のような、都市開発競争気分が戻ってきたのか。
 そこには需要がある東京都心という立地であり、経済の忠実な下僕としての都市計画が規制緩和乱発の時代背景がある。
・参照:三菱地所発表の再開発計画
http://www.mec.co.jp/j/news/archives/mec150831_tb_390.pdf
・参照:わたしのブログでの以前のコメント
http://datey.blogspot.jp/2015/09/1123.html

●東京駅あたりで唯一の仕事は赤レンガ東京駅保全計画

 東京駅前にながらく通勤したが、結局その頃にこのあたりでの仕事をしたことはなかった。
 1980年代半ばに、RIAはここから品川駅の東にオフィスを移した。それでも10年ほどは本社機能だけを日本ビルに残していたものだった。
 品川に移った後に、わたしは政府の東京駅周辺再開発計画調査に携わったことで、初めて東京駅あたりの仕事したのであった。
 1988年に公表したその調査成果は、その後の紆余曲折を経て、赤レンガ駅舎の復元となり、東京駅が巨大ビルで囲まれる形となって現れている。

 もっとも、その調査担当をしたわたしの東京駅赤レンガ駅舎への考えは、戦中の空爆で被災した駅舎を戦後修復した姿で保全活用するべきとの結論に至ったのであった。
 しかし、政府の調査報告書にはそのように書くことはできなくて、「現駅舎を現地で形態保全する」との表現となった。保存するとしても他に移すことなく現地で、しかも外形を保つのである。
 その頃から澎湃として起きた東京駅保存復原運動に対して、わたしは復元反対・現状形態保全論をネット上で展開したが、これを理解してくれる人は実に稀であったのが不思議だった。
・参照:東京駅復原反対論サイト(伊達美徳)

わたしが保全したかった1947年修復の東京駅赤レンガ駅舎
(1987年伊達美徳撮影)

 ということで、東京駅あたりは、わたしの感傷旅行拠点なのである。ついでに日本橋あたりにも足を延ばして、変わり果てた今の姿を観る。(つづく)

東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)

2015/09/01

1123【東京風景】いまどき大阪阿倍野ハルカスに対抗して東京駅北口で超高層ビルの高さ競争する不動産屋は遅れてるよ、社会貢献競争しなさいよ


●大阪に負けないぞと東京駅前に日本一高いビル計画

 東京駅北口の前に、日本一髙いビルを建てる計画という新聞記事(2015年9月1日朝日東京版)である。
 これは大手町の日本ビルがあるブロックらしい。あの巨大な戦艦のごとき日本ビルが消えるのか、ちょっと感慨無量になる。だって、あそこには、ながらく通勤したものだったから。

 それにしてもあの丸の内・大手町で390mもの高さのビルを、あの三菱地所が建てるとは、時代は大きく変わった。
 だって、丸の内に最初に超高層ビルが建つことになった半世紀前のこと、頑強に反対したのが三菱地所だったのだから。
 しかも、大阪のアベノハルカスより高くして、日本一にするんだそうだ。いまどきそんな競争してもしょうがないと思うが、不動産業界はそういうものか。

●むかし超高層にあれほど抵抗した三菱も変ったものよ

 1966年、東京海上ビルが超高層建築に建て替える計画を出したところ、丸の内には超高層は似合わないと反対運動が起きて、丸の内景観論争が起きた。
 皇居を見下ろすのはけしからんという保守派、いまや超高層建築による都市づくりが先進国の当りまえという建築界、政治家も絡んで揉めたのだった。当時のある建設官僚の首が飛んだ。
 その裏には、たくさんの既存ビルを持つ三菱地所の保守的な不動産業の立場があったにちがいない。近くの他に新ビルが建つとテナントが流れてしまうからと思ったのだ。
 結局は100mの高さまではよろしかろうと、あいまいな手打ちをした結果が、赤い色の東京海上ビルの登場であった。
*参照:1966年丸の内美観論争についてはこちらから

 その後、丸の内に三菱所有外のところに100mビルが次々に建ちだす。1980年代になると、三菱地所も超高層時代の到来に気が付いたらしい。
 あれほど超高層に反対して100mで妥協したのに、コロッと態度を変えて200mの超高層群への建て替え計画『丸の内マンハッタン構想』を発表して、世の総スカンを食ったこともあった。
丸の内再開発計画(マンハッタン構想)(三菱地所1988)

 それでも、ついに丸ビル、新丸ビル、パークビルなど、200m級への建て替えまでもってきたのは、さすがに政治的に強い三菱である。

 そして今、400mへの建て替えとなって、むかしむかし、天皇様を見下ろすのは恐れ多いと言っていたあの三菱さんも、なんとまあ変れば変ったものである。
 皇居見下ろし自由自在である。あ、皇居側には窓をつけないとか、、。
 
*参照:東京駅関連歴史年表 

●わたしには懐かしいあの日本ビルが消える

 さて、その建て替える「日本ビル」のことである。東京駅北口をでた真正面にドデンと立つ巨大な貸ビルである。今やむかしむかしになってしまったが、そこにあった「RIA」のオフィスに、わたしはながらく通勤したものだった。
 RIAの創立者の山口文象は、戦前から有楽町近くの旧い赤レンガ建物「三菱仲四号館」に事務所をかまえていたが、それをRIAの事務所にしていたのを、建て替えで追い出されて日本ビルに移ったのだった。
 それがいつだったか覚えていないが、1960年代の末頃だったような気がする。
 
 記憶では、初めは第3大手町ビルという名であったが、これにもうひとつのビルをくっつける様な増築をして、日本ビルと名前を変えたような気がする。
 中庭をとり囲む平面的にばかでかいビルで、エレベーターバンクが離れて2か所あり、長い長い廊下がビル内をぐるりと一周していた。
 ビルの中で、初めは4階だったが狭くなり、その次は11階、そしてまた5階へと、引っ越しをした覚えがある。
 外に出ないでも暮らせるほどに、なんでもかんでもそろっていた。よく徹夜仕事をしたが、さすがに風呂屋は無い。それでも、便所にある掃除用の大きなシンクに水を張って、夜中に入浴した男もいた。

●それだけデカく建てるなら何を社会貢献してくれるのか

 さて、そんなでかい建物を建てるのだから、どんな社会貢献するのかと見たら、なんだ、陳腐な広場だけでしょ。広場も歩行yさネットワークも、もともと現在あるでしょ、新しい貢献じゃないよ。
 下水ポンプ場の整備をもっともらしく挙げているけど、それももともとここにあるものだから、新たな貢献じゃないよ。

 これだけドデカイ物を建てるのに、なんだかチンケなんだよなあ。
 あのね、どうです、目の前の日本橋川の上にかかる、あのうっとおしい首都高速道路を、新ビルの胴中に抱え込んでくださる、ってのをやってくださいよ。
 そして歴史的橋梁の常盤橋と、日本橋川の水面を復活してくださいよ。
 
 と思って、三菱地所が公表した計画概要にある絵を見たら、おお、日本橋川の上にある首都高速道路を描いていないぞ!、すごい、水面が光って見えているよ~。 
 えらいっ、さすが三菱様、新ビルの中に取り込むんですね、パチパチ(拍手の音のつもり)。

できあがるのを楽しみにしていますよ。
 あ、いや、ちがうぞ、、もっとよくよ~く見たら、薄い細い白い線で首都高らしきものが、川の上に描いてあるなあ、、、な~んだ、騙し絵かよ~、ひどいなあ、ガックリ。
 あのねえ、不動産屋さんは、高さ競争じゃなくて、社会貢献競争をしなさいよ。
 ざっと調べたら、現況でビル床面積は32万㎡を超える。これを壊すと、どれだけのゴミが出て、どれだけ環境負荷を増大するのだろうか。


参考「常盤橋街区再開発プロジェクト」計画概要について](三菱地所発表)より 
http://www.mec.co.jp/j/news/archives/mec150831_tb_390.pdf

東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
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2014/01/05

884【五輪騒動】都市計画談議(その10)東京って権威的景観がご自慢なのね

その9からの続き)

 「東京都都市景観計画」(2011)なる行政計画があり、そのなかに「首都東京の象徴性を意図して造られた建築物の眺望の保全に関する景観誘導」という項がある。
 その眺望保全には、4つの場所の建物がとりあげられている。国会議事堂、迎賓館(赤坂離宮)、明治神宮聖徳絵画館、東京駅丸の内駅舎である。
 それらを真正面から眺めるにあたって、その後ろあたりに見える高い建物をつくると邪魔だから建てるな、と規制をしている。

 おいおい、どいつもこいつも権力の権化の建物だぞ、近代日本を築く途中に必要だった権力の象徴としての建築である。だから保全するのも権力の景観ってことかよ、よくまあ、こういうものだけを選ぶもんだよなあ。
 もっと庶民の象徴、そうだなあ、例えば東京タワー、あ、そうか、今はスカイツリーか、あるいは浅草観音とか、そういうのじゃ「首都東京の象徴性」にはならないのか、そうかもねえ。

 国会議事堂は、計画開始は明治政府の時までさかのぼって古いが、できたのは1936年である。
言わずもがなの権力の館であり、その姿のまあ権威主義的なことよ。国民の代表が会議をするのに、いまどきこんな姿でいいのかよ。
 その景観を保全しようってのも、なんともはや。こういうのは、本当は街の中にあるべきだろうと思う。あ、デモ隊がやってくるから、街なかじゃあまずいのか、。

 迎賓館は、元赤坂離宮だからまさに王権の館、1909年の竣工で、背伸びする日本の精一杯のコピー建築である。
 でもねえ、正門から眺めると、既に後ろに超高層建築がいくつも建ってますよ。そうか、だからこれからは建てさせないぞってことなのか。
権威景観保全の意味もあるだろうが、迎賓館の要人をビルから狙撃されないようにする対策かもなあ。

 さて、今話題の新国立競技場がらみの明治神宮聖徳記念絵画館は、1926年の竣工であるが、これもまさに王権の象徴である。

 1911年の明治天皇の死によって、明治新政府があわてて発明した明治神宮という王権装置のひとつである。
 江戸時代までは一般民衆はほとんど知らない「雲上人」だった天皇を、明治政府が京都から拉致してきて雲の上からおろして、多くの仕掛けでカリスマ性を付与し、世に見える天皇として新政府の権力集中の核にしたてあげた。
 ところが59歳で急死、その後継の大正天皇は病弱でとてもカリスマ性には欠ける。

 民権運動が盛んになる中、王権利用の統治政策が揺らぎそうだと心配した明治政府が考え出したのが、明治天皇を神様にして祀って、王権のカリスマ性の継続を図った装置が明治神宮である。
 内苑が森の中に隠れて見えない天皇の装置だとすれば、外苑はオープンな西洋式庭園のなかで民衆に見せる天皇としての装置である。

 新国立競技場計画について、明治神宮外苑の歴史的文脈をもって景観問題をとりあげる建築家が多いようだが、まあ、あのような一点透視図画法の模範のような銀杏並木から絵画館を望む景観は、建築家が透視図を習うお手本みたいで、お好きであろう。
 もちろん、その一点透視の視線の集まる先には、権力装置の求心力としての王権の象徴たる絵画館が、待ち受けている。

 あれこそ明治大帝のカリスマを継続する装置としてつくりあげた景観である。
 似たような景観づくりですぐに連想するのは、建築家になれなかったヒトラーがお抱え建築家シュペーアにやらせようとしたベルリン改造計画である。こちらの方が外苑、絵画館よりも後だが。
 大きさはかなり違うが、視線の先の絵画館のあの坊主頭は、ベルリンでヒトラーが大ホールのドームとして議事堂を真似したのかもしれない、と、冗談にしても面白い。

 それにしても絵画館の建築の造型の無骨さは、もう下手としか言いようがないのだけど、たぶん佐野利器のせいだろうなあ。明治の終末を告げる施設としての記念的意義はあるだろうが、造型的には二流である。
 あまつさえ、その建物周りは全部が駐車場になって、聖なる場所としてしつらえられた葬場殿址の楠のまわりも、かつては玉砂利の広場だったのが、今では無粋なアスファルト舗装に白線が引いてある駐車場である。

 芝生と花園であるべき前庭は草野球場となっているし、隣には神宮球場や第2球場そして国立競技場の建物が森の上に頭を出し、無粋な照明塔や金網が高くそびえる。
 管理者の明治神宮は、かつての造られた当時の景観を、それほど大切に保全する気はないらしい。これだけ広大な土地建物の維持費を稼ぐためには、あれこれスポーツ商売に手を出さないわけにはいかないだろう。

 考えてみれば、王権の時代はとっくに終わって、ここを明治天皇の故地と知らない民衆たちが、草野球やテニスやゴルフ打ちはなしに興じる風景は、まさに民主主義の世の中である風景になって、これはまことに好ましいことなのである。
 面白いのは、それらの大衆スポーツの場としての普及に大きな貢献をしたのが、ここを太平洋戦争終結直後に接収したアメリカ軍であったことだ。かれらがつくって、接収解除後も取り壊さずに使ったものが、軟式野球場とテニスコートである。絵画館前の芝生広場は変身して、戦後の大衆スポーツ普及に大いに役立った。
 ときにはデモ行進の拠点にもなって、王権発揚の場は民主主義発揚の場となった。アメリカさんは大衆スポーツと民主主義的風景(権威主義的景観の破壊)を外苑占領の置き土産にし、明治神宮はそれをそのまま戦後の外苑に継承したのであった。

 いまとなっては、絵画館のまわりになにがそびえようが、もうよいではないか。昔の王権的、権威主義的な象徴空間が良かったなんて、アナクロニズムはよしましょうよ。
 そもそも、ここは神社の境内である。境内には昔から露店が立ち並び、サーカス小屋やお化け屋敷があり、門前街には猥雑な土産物屋や旅館街があるのが、日本の伝統風景である。そう、これこそが「神宮外苑の歴史的文脈」の延長線上にあるものだ。
 
 まあ、日本近代における王権空間形成史の記念として、建築あるいは造園史のメルクマールの保全をするならば、あの小判型の道路の内側を徹底的に復元することだろう。
 そのほかは現代の都市公園として。国立競技場も含めて総合的な計画のもとに再開発すればよろしい。同じ都市公園である後楽園遊園地を、よい意味でも悪い意味でもお手本にしてはいかがかな。

 まあ、これはわたしの与太話のように聞こえるだろうが、実は外苑では昔こういうこともあった。
 アジア・太平洋戦争が終わり大きく体制が変り、国営神社だった神宮は宗教法人となり、外苑の土地の帰属が問題となった。国は外苑は宗教に関係ないから国に帰属すると主張した。
 これに対して神宮側は、いやこちらだと争い、民俗学者の折口信夫に理論武装を頼んだ。折口が主張したのは、日本の神社境内は昔から力比べ、弓術、相撲、流鏑馬、競馬、競艇などの遊びをして奉納する場であったから、運動施設のある外苑は宗教の場だ、というものであった。
 そして外苑の土地は神宮の所属になった(時価の半額で売買)。境内地とはそういうものである。もっとも、今では運動施設の経営は宗教活動とはみなされず、課税対象だそうだ。

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追記20151105 ところが今や絵画館の後ろには、なにやら高いビルが建ってしまっているのは、どうしたわけだろうか。やはり明治帝国の権威は、現代商業主義社会には及ばないらしい。
2015年11月3日撮影
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 おっと、忘れそうになったが、東京駅丸の内駅舎は、1914年の竣工である。

 明治政府が全国統治の道具とした鉄道網の「上り」の終点であり、「下り」の出発点である。王権専用の駅舎として、当時の繁華街の京橋に背を向けて建てたのだった。
 この景観計画で保全する眺望の視線の持ち主は、皇居を出てくる天皇であることにご注目を。

 東京駅の後ろに建てるなって言ったって、京橋のほうが東京駅ができるよりずっと前から江戸の中心街として繁栄していたんだぞ。京都からやってきて、江戸城にいつの間にか居ついてしまったお方から、あれこれ言われて一等地にビルを建てさせないって、そんなことはこちとらには通じませんぜ、なんて江戸っ子は言わないのかしら。 
 ついでにこちらもお読みくださいな。 ◆東京駅復原反対論から考える風景の記憶論考

(都市計画ではまだいろいろあるけど、10回も書くとさすがに飽きた、やっぱり景観論のほうがだんぜんおもしろい)

これまでのあれこれ書いてきた一覧はこちらを参照
【五輪外苑騒動】国立競技場改築騒動と神宮外苑再開発騒動瓢論集