2016/11/13

1232【あやしいハイテク】プリンターを買ったら値段が7000円で故障したら修理代の方が高いよなあ

 狭い書斎に複合機能プリンタが2台にもなってしまった。
 5年前に買ったキャノンMP990が、ほぼ危篤状態になったが、もう修理は受け付けないと言うので、ホントにオシャカになる前に後継機としてMG3630を買ってきたのだ。ナント値段が3分の1になった。

 両機の機能を比較すると、足りないのはフィルムスキャナだけで、そのほかは一応そろっている。
 だから印刷は危篤だがスキャナは生きているので、フィルムスキャンだけのために、古いMP990を生かしているのだ。

 性能的には、インクの色数が減ったから写真印刷の仕上がりが悪いだろうと思ったら、やっぱりよくない。
 印刷インクがMP990は6色(青、赤、黄、灰、黒、黒)の別々の6つのカートリッジだが、買ったMG3630は4色(青、赤、黄、黒)で2つのカートリッジである。
 でも、わたしは普通紙にプリントする本づくりがメインだから、それでもいいことにする。

 もうひとつの違いは、こんどのMG3630は印刷時の音がうるさいことである。静音設定もできるがそれでもうるさい。
 印刷速度も遅いようである。まあ、安いのだから仕方ないか。

 わたしは自家製本の印刷をするから、普通の個人ユーザーに比べるとハードユーザーだろう。さて、これがいつまた故障を起して修理に1万円以上っも取られるのか。
 故障したら修理じゃなくて買い替えをさせようってのが、キャノンの戦略なのだろう。やり方がキタナイなあ。もったいないなあ、。
 これまでに何台のプリンタを買っては使い潰してきたか数えてみたら、これが5台目である。

 プリンタ屋のもう一つの儲け口は、インクである。インクカートリッジが1個8~900円もして、高いよなあと思っていた。印刷をケチケチするのである。
 ところが昨年ある日、なんとナンデモ100円屋に詰め替えインクを売っているのを発見した。インクが無くなったらカートリッジに穴をあけて、スポイドで注入する。これは安いので愛用している。

 もっとも、プリンタ屋としては癪なことだろうから、これを使って故障しても補償しないよと、マニュアルにしっかり書いてある。麻薬みたいだが、安いからやめられない。
 今回買ったMG3630新品プリンタには新品インクが付いてきたが、110ページの本を3冊つくったら、もうインク切れだよって表示が出てきた。早いなあ、さっそく100円インクを注入した。

 A5版100ページ程度を本を1冊つくるとどれくらいかかるのだろうか。
 100ページの本だと、本文用紙が25枚で1枚2円で50円、表紙や見返し用紙が1枚5円で1冊に3枚として15円、インク代がA4にして3円として表紙共で26面で78円、以上合計して143円である。
 ただしインク代がA4の1面で3円は、実は計算が怪しい。新品キャノン製か100円屋製かで違うし、歌集と論文集ではインク使用量が大きく違うし、写真の有無でも異なってくる。
 このほかに電気代や糊代、道具の損料、そしてわたしの人件費も入れると、はて、いくらになるのだろうか。商業出版と違って流通経費は、郵送料くらいなものである。

●参照 本づくり趣味の出版 ブックレット「まちもり叢書」シリーズ

2016/11/10

1231【北陸に蟹を食いに】金沢近江町市場の再開発事業の成熟ぶりに驚きつつ漁解禁初物の香箱蟹を買い込んで賞味してきた

 北陸に行ってきた。福井県池田町で友人の所有する国指定名勝の「梅田氏庭園」を鑑賞し、金沢で駅前、武蔵、香林坊あたりの都市軸街づくりを眺め、富山で総曲輪あたりの再開発の様子を眺めて来た。
 金沢と富山では、昔に来てみた街と今の街の変りようを観るという、半分はセンチメンタルジャーニーである。もう旅に出ると言うと、いつも感傷旅行になる。これが人生最後から2番目の長旅かもしれない。

 今月7日からカニ漁解禁、さっそく蟹食い旅行でもあった。蟹を買うならなんといっても、金沢の近江町市場である。
 この市場は、先年に再開発事業で建て直しされたと聞いたので、あの市場の雑踏・雑多・猥雑・多様さが消えたのだろうかか、そばに建つ村野藤吾設計(1932年)の北國銀行は道路拡幅で壊されたか、金沢の街にまたひとつ超高層ビルが建ったか、などと気になっていた。
2003年2月撮影の北國銀行 村野藤吾設計 1932年
だが、見事にその心配は裏切られて、ホントに再開発したのかと疑わしいほどの、昔のままの雑多な賑わいのある市場風景に、ほう、こういう再開発もできるのかと吃驚したのだった。
 再開発となると決まって建つ高層ビルはなくて、地味な形と色の4~5階程度の建築だし、北國銀行はそっくりそのまま曳家して営業しているし、市場の中はあい変わらぬ賑わいと猥雑さで、市場を歩いていてどこを再開発したのか、どこはまだ再開発していなのか、その区別が全く分らない有様である。

  おお、この再開発はスゴイ、再開発事業やったのに、まるでやってないかのごとき変わらなさである。低層低容積の建築だし、記念的建築保全もやってるし、市場の猥雑さの再現までもやってる。
 こんな再開発事業もやれるんだ、そのような時代が来たか、あるいは再開発手法がここまで成熟したのか。
北國銀行は道路拡幅分を曳家移築して保全
近江町市場 左は再開発ビルの市場、右は既存の市場
再開発ビルの中の近江町市場
1998年、再開発前の近江町市場

再開発事業というと、その都市でもっとも高くて格好良い建築を作りたいたいと、どこの市長も言ったものだ。だが、これまで長年にわたっていくつもの都心部再開発をやってきた金沢市では、そのような規模や形の時代を抜け出して、内容と質を追及する時代に至ったらしい。
 近江町市場では、あの市場を元の市場のままとするべく再開発したらしいが、それを見事に事業採算にのせたとは、大いに興味がわいた。

そこには事業関係者たちの大変な努力と工夫があったはずだ。計画、事業、設計まで通してやったコンサルタントのRIA金沢支社の人に、その内容をちょっと聞いてきた。
 制度的には、都市再開発法に基づく第1種市街地再開発事業(都市局採択組合施行)であって特別なことはないのだが、権利者全員が参加し、各種の公的助成制度をとりいれ、事業運営組織を確立して、このような再開発らしくない形にできたらしい。
 詳しくはRIAの「武蔵ヶ辻第四地区第一種市街地再開発事業」ページ参照。http://www.ria.co.jp/town-planning-story/kanazawa/

金沢市武蔵が辻地区 2015年 
金沢駅からのメインストリートの正面に村野建築がアイストップ
 もちろん忘れずに蟹も食った。再開発でできた市場の2階の海鮮料理屋で、解禁とれたて香箱蟹を賞味した。美味かったので次の朝には市場で蟹を買い込んだが、結局は金沢名所にはどこも行かなかった。
 次は、富山の街見物へ、総曲輪あたりの都心部の変化を見たのだが、金沢のような成熟した街づくりの面白さが富山には無いのだった。はっきり言ってつまらなかった。

 そして次は上市町へ、そこには昔の山岳部仲間が住んでおり、東京方面から同じ山仲間2人もやってきた。もう山に登れない4人で、能登の地物香箱蟹と菜園の野菜とワインで、夜更けるまでしゃべり続ける宴会であった。
 剣岳の麓の町にやってきたからには、センチメンタルジャーニーの仕上げとして、せめて剣岳の姿を麓からでも拝んでから帰りたかったが、あいにくの雨ふりで全く見えなかった、残念。

昨年春の第4腰椎圧迫骨折事故後に初の遠距離旅だったが、その後遺症はカニで治っただろうか。こうして人生最後から2番目の旅を終えた。

2016/11/04

1230【豊洲新市場騒ぎ】盛土の有無騒ぎを眺めていて大規模公共事業の構想計画段階と設計建設段階との間の不連続と総合マネージメント欠落の経験を思い出した

 東京の豊洲新市場騒ぎを岡目八目で見ていると、このような公共事業の大規模建築プロジェクトにおける基本的な問題が、わたしの経験からよく分る。
 要するに全体を調整して始まりから終りまでを一貫するマネージメントがないのである。計画は計画、設計は設計とはそれぞれが別のものととらえて進めるのが常なのだ。最後には設計という工学技術と、経営というお金がものをいうのである。
 だから大局的に計画段階前に定めた基本的な理念を、設計段階では忘れさってしまうか、あるいは知っていても顧慮もしないことなるのだ。

 このような大きな事業は、大きく分けて最初の発案から計画づくりまでの段階と、その後に来る設計段階から工事の段階、そして運営段階へと進んでいく。
 この間での連続的なマネージメントがないままに、各段階で完結させようとする力が働いで、事業の齟齬が起きる。
 この問題は、わたしがプランナーとして仕事をしてきて、いつも悩まされたことである。主にわたしが担当してきた計画段階までに決めたことが、あとから来る設計段階でいつのまにか勝手に変更されて、実施に至ることが多いことである。
 この間をつないて総合的に調整をするマネージメントの役割をする人材が不在で、先に決めたことを後から変更する場合にフィードバックがあることは稀である。

 公共事業では、計画段階までは専門家たちによる委員会制によって進めることが多い。そこに専門分野のコンサルタントが加わって、委員会の承認を取りつつ実務作業をおこなって進める。わたしは時には委員になり、場合によりコンサルタントになったりして、基本構想や基本計画の仕事をしてきた経験がある。
 そうして、基本構想書とか基本計画書とかの名称の報告書ができあがって、発注者の公共団体が受け取って、これを所定の手続きで公的計画に定める。そして次に設計段階へと歩を進める。

 ここで問題になるのは、計画段階までは大局的見地から、その事業に意義や思想、そして具体的に何をつくるのか検討するので、ルーチン化した技術ではなくソフトウェアの性格が強いから、その専門家の選定はかなり難しく、委員会等の識者が定めることがほとんどである。
 その計画の後に設計段階となる。時にはプランナーのわたしも、設計段階までかかわることもあったが、ほとんどの場合は、設計段階から別の専門家が登場する。
 それは、設計段階となるとかなりの範囲をルーチン化した技術が主になるので、そのコンサルタント選定は入札方式となるのが通例である。つまり、金額で勝負して決まるからである。
 この間で役所側の担当者や担当部局が変ることが多い上に、実務仕事をする専門家も替わるのだから、計画と設計は一貫しないものとなるおそれが十分にあるのだ。

 そして設計担当者は、ときには計画とは異なる方針を立てて設計をするが、それが計画段階にフィードバックされることはきわめてまれである。多くの場合は、計画は「報告書」として倉庫に入ったまま忘れ去られる。
 その計画段階とは異なるものとなる理由は、計画段階から状況が変化したので、設計段階でそれに対応するために計画を変更することもある。あるいはまた、設計段階の担当者たち独自の判断で計画よりもこの方がよいとして設計に至ることも多い。
 そしてその新たな更新や設計が、計画段階とは異なるものとなっても、計画にさかのぼって検証されることは、わたしのプランナーとしての多くの仕事経験で、そのようなことは一度だけだった。
 それは、わたし自身が企画構想計画から設計工事まで一貫してプロジェクトマネージャーとして関わったという、稀な経験の場合のみである。
 
 さて、これを豊洲新市場騒ぎにあてはめると、まさにピッタリである。計画段階で決めた全敷地盛土は、設計段階で地下空間部には盛土不要と変更となった。
 そしてその変更が、計画段階にフィードバックされることなく、全敷地盛土方針は忘れ去られたのだった。たぶん、ここに悪意は無く、この設計のほうが計画よりもよいと信じた人々によって、その変更方針が支えられたのであろう。
 いや、変更したとさえ気が付かなかったのが真相だろう。つまり計画なんてものは忘れ去られるのが運命なのである。忘れないとしても、計画は計画であり、設計は設計であると、それぞれ別のものとさえ思っているかもしれない。
  
 もしも計画段階に携わった専門家や行政担当者が、設計段階にもかかわっていたら、計画の変更の持つ重大さに気が付いていたただろう。
 だが、豊洲の場合、東京都の担当者たちも定期異動で変わっていただろうし、計画段階の専門家と設計段階のそれとは、異なるコンサルタントに発注されている。
 そして盛土という行為の必要性は、法的に定めたものではないのだから、変更手続きに法的な制約があったのでもない。仕事をしている現場の判断でよいのだ。
 だから、計画段階の盛土方針が、設計段階において軽々に変更されてしまった。そこには盛土よりの地下空間の方が良いのだという、技術的な優位性のみが前提となり、公共事業が持つ社会的な説明責任を忘れたのである。

 では、なぜそれが今になって問題になっているのか。そこに悪意が働いてだれかの利益誘導になっているとか、法的違反行為であるとかならば、問題になると分るのだが、そうではないらしい。
 どうも都の組織の内部的な手続きの遺漏らしい。たとえば議会答弁と実情が食い違っていたとかである。

 技術的には、敷地の盛土しても建築の地下部分は盛土が物理的に盛土が無くなるのが当然であり、そこに「地下空間」が盛土の代わりにできあがるのである。現場の技術者たちがこれを手続き違反ととられて処罰対処になるとは、とうてい考えもしないことだろう。今でもそう思って、なぜ処罰対象になるか不思議だろう。
 
 つまり、偉い人たちに一部で盛土が無くなりますと言わないでいたのがケシカランということらしい。現場を見れば誰でもわかるのに、偉い人たちは気が付かなかったというドジな話を、こんなにジャーナリズムに上げ足とられて、担当者たちは、特に技術者たちは一体何のことやらと仰天しているだろう。
 大山鳴動させたのは、新知事であり、尻馬に乗ったマスコミである。これは大山鳴動鼠一匹となるのだろうか。
 どうも今回の件は、はんにんさがしをしなけりゃならない空気になったものだから、後付けの手続き違反指摘の感が強い。わたしにはそうとししか思えない。 

 ヒマな年寄りに、こうやってダラダラと駄文を書いてヒマツブシする種をつくってくださった、新知事とマスコミに感謝いたします。

関連参照1129【東京豊洲新市場騒ぎ】ムリヤリ犯人つくって新知事オテガラ幕引きにして次はオリピック騒ぎか
 

 

2016/11/02

1229【東京豊洲新市場騒ぎ】ムリヤリ犯人つくって新知事オテガラ幕引きにして次はオリピック騒ぎに移るらしい東京馬鹿ヤロウィーン

●ムリヤリ犯人さがしで新知事のオテガラ?

熊五郎:寒くなってきましたねえ、ご隠居。
ご隠居:おや熊さん、いらっしゃい、気候も寒いけど、人の心も寒くなってきたね。
:おや、なにかありましたか。
:ほれ、このニュース、東京の豊洲新市場騒ぎで、犯人をムリヤリつくったみたいだよ、こころが寒くなるなあ。
:ああ、マスコミが騒ぐ犯人探しゴッコに乗っかって、新知事の大手柄にしようってんですかね。
:要するに、いったん決めた盛土を地下空間に変更したときに、お役所流の手続きを経ていなかったのがけしからん、その手続き違反をしたやつが犯人だ、ってことらしいね。
:市場整備部という担当部で盛土を地下空間に変更して、それより上のエライ人や議会に変更承認をえていなかったって、いかにもお役所らしい犯人探しですねえ。
:ってことは、その変更した結果が、盛土よりも悪いからなのだろうねえ。だからマスコミやら識者やら移転反対派の人たちが怒ってるんだろうね。

●盛土が地下空間になるって悪いことかしら?

:ところが、それが分らないですね、ニュースを読んできてなんとなくわかるのは、盛土よりも地下空間の方がコストもかからず、盛土と同じ効果があるらしいですよ。
:そうそう、地下空間は配管スペースになり、しかもそこで汚染土壌のその後の影響の環境モニタリングもできるってことらしいから、むしろ良いことのようだね。
:とすると、たぶん、犯人とされた連中は、心の中じゃあ大いに不満でしょうね。
:むしろ良いことしたのに、なんで叩かれるんだよ、新知事の人気取りの犠牲にされたよ、なんてね。
:まあ、地下には盛土してないのに、盛土してるって議会答弁したらしいですから、そこはドジだった罪はありますがね。
:答弁するほうもする方だけど、都議会の方もそれを聞いて、はいそうですかって、何の疑いも持たなかったのが不思議だね。だって、工事現場を見れば小学生でもわかるウソだよ。

●サボった専門家委員と都議も犯人でしょ?

:そうですよね、現場になる前に設計図で一目瞭然で盛土がないってわかりますよ。答弁するほうもされた都議会議員の方も、全然見なかったのですかねえ。無責任都議会だ。
:もうひとつ分らないのは、盛土をせよと決めた専門家の委員会があるよね。その委員連中も設計図もみなけりゃ、現場も見なかったのかねえ。
:そのとおりなら、言いっぱなしの無責任委員会だ。
:だったら、担当当局の役人だけを犯人としないで、手続き違反に気が付かなかった、無作為の都議会議員も専門家会議の委員も、犯人として処罰するべきだな。

●いちばんよく事情を知る設計者の責任は?

:こういうときに設計した建築設計事務所やその担当者はどうなるのでしょうかねえ。たぶん、前後事情をいちばんよく知っていたはずですよ。
:あ、この盛土省略地下空間案を東京都に提案して、設計を受注したのは日建設計だね。でも、その提案採用の決定権は東京都側にあるから、一義的な責任は無いだろうね。
:でもね、前提敷地全部盛土と決まっているのに、建築地下には盛土しないって提案は、そもそも違反提案のような気もしますが、どうですか?
:う~む、違反でもそれを採用した東京都側に責任があるけど、分っていながら違反提案した技術者の倫理は問われるかもしれないね。
:でも、違反提案でも、そのほうが技術的にも社会的にも正しいと信じての提案であり、それが真実ならば、むしろ技術者倫理としては望ましい方向のような気がします。
:う~む、そもそも盛土するってことが正しい技術的解決であったかどうかが問われるってことだな、こりゃたいへんだ。

●結局はできてしまった現実がものをいう?

:こういう時には結局は、現実に即して解決するしかないんでしょうね。
:つまり、できちまった建物が安全であることを検証して、改善するべきところは改善して、早期に供用開始するってことだな。
:そうですよ、とりあえず犯人に仕立てた役人を型式的に罰して、マスコミと新知事の顔を立てて幕を引くんでしょうね。
:あとは技術問題に絞り込めば、マスコミや世間はもう興味が薄れて、次のオリンピック問題のほうが面白いや、ってことでだな。
:この間に、だれか悪意を持ってやったものがいるんですかねえ。
:なんだかもう、心が寒い時代になったね。

2016/10/31

1228【怪しいハイテク】6年間使ったプリンタ・スキャナが危篤だが代替機種がない、スライドマウントのデジタル化を急ごう

 ありゃ、プリンターがエラー表示だ。なになに、「廃インク吸収材が満杯に近づきました云々」って言っているぞ。
 あ、これって、経験があるぞ。まだちょっとは動くらしいが、満杯になると全く動かなくなる危篤状態なのだ。大変だあ~、どうしよう~。

 このプリンターは2010年6月に26800円で買ったので、それなりに高い代物である。本づくり趣味のためによく働いてくれた。
 この機種を買った一番の理由は、フィルムスキャナー機能があることだったのだ。この機能のある機種はこれしかないのだった。
 1960年代から撮りためた約15000枚ある35mmスライドマウントフィルムを、デジタルデータ化するのが、わたしの本づくり趣味の印刷と並ぶ大きな目的だったのだ。

 そして4年目の2014年6月に「廃インク吸収材」を交換せよとのエラー表示が出て、動かなくなった。これに対する修理代が11500円だった。
 それだけだすと立派な新品を買うことができるのだが、癪なので修理に出したのだ。
 その修理がまたオカシくて、1週間でまた故障、それを修理したら20日目にまた故障、まったくもって新品が買えるほどの修理代を取りながら、真面目に修理したのか、CANONは、、。

 それからまた今日まで2年余、また故障で、廃インク吸収体がドートカコートカである。この前は4年目に故障だったのに、こんどは2年かよ、オカシイなあ、印刷枚数でそうなるらしいのになあ。
 また修理するかなあと思いながら、ネット検索でキャノン修理サイトを見て分かったのは、このプリンター機種(MP990)は、「本製品は2015年9月末日をもちまして修理対応期間が終了しており、修理を承ることができません」とあるのだ。
 え~っ、もうおシャカにするしかないのかい、だって危篤というけれど、今も元気に動いてるんだよ、なんでだよ~。もったいない。
 じゃあ、なんとか自分で治そうかと、いろいろネットで調べたけど、どうも無理らしい。

 しょうがないから新品を買うかなあ。
 でも、大問題があるのだ。それはフィルムスキャン機能付き複合機は、いまや絶滅なのだそうである。
 マウントフィルムスキャン専用機をもってはいるのだが、なんとも性能が悪いので、ほこりにまみれたまま。
 外注すればやってくれるところがあるが、一枚が50~60円かかるから、とてもそんなオカネが無い。

 本づくりの印刷には大いに活躍したプリンターだが、もうひとつのフィルムスキャンのほうはめんどくさくて、少しづつ気が向いた時にやっていたので、ちっともはかどっていないのである。
 しょうがないから、廃棄する前にせっせとスキャンやっちまうことにするしかないなあ。
 印刷を続けてその機能がストップするまでは、スキャン機能は大丈夫らしい。では印刷をやめて延命しつつつ、スキャンに専念するしかない。


 この15000枚の文字通りのマウントの山を征服するには、いったいどれくらい時間がかかるものかなあ、まあ、想い出の写真を眺めつつ、手抜きしながらやるしかないか。
 ヒマに任せて自分でやるしかないが、完了したころにはわたしがボケるか死ぬかして、なんのためにデジタル化したか分らないことになりそうだなあ、トホホ、、。
 あ、いやいや、その前にスキャナーがくたばりそうだな、そうなったらキッパリあきらめがついて、かえってよろしいような、。 
 でも、まあ、ヒマツブシにやろうっと。

2016/10/29

1227めったに観ないTVで珍しく映画を観てブチブチコマギレ放映に呆れ果てやっぱりTV観るのをやめた

 めったにTV番組を見ないのに珍しくも、今日はフジTVで映画「ダ・ヴィンチ・コード」を見た。
この小説発売の時にペーパーバックで読んだのだが、どうもキリスト教のことが分らないし、特に最後のあたりはなんだか分らなかったのであった。
 だから映画だと分るだろうと期待して、TVを久しぶりに見た

 ところが、残り少ない人生をなんとまあ2時間50分も無駄にしたぞ、バカヤロー
 だってさ、一生懸命見ていると、突然に広告が挟まってくる、まったく失礼だぞ、しょうがないから他の番組をチョロッと見てまた戻ってくるのを繰り返していたが、こうもたびたびコマギレズタズタに飛ばされると、しまいにゃなにがなんだかわからなくなるんだな。

 あのおわりかたはなんだよ~、尻切れトンボってこのことだぞ。
 ペーパーバックの方がまだわかりやすかったぞ。
 こんなひどい放送のしかたでは、映画を作った人たちが大いに怒るだろうなあ、
 製作意図となんの関係ないものが間にどんどん挟まったら、製作者はたまったもんじゃないでしょ。まさか、こういう放送でいいのだってことじゃあるまいな。
 そして、わたしのようにTVを見てる人たちも、大いに怒るに違いない。いいところがくるとちょん切られて、興がそがれること著しいものがある。え、どうなんですか、みなさん、そう思うでしょ?

 何回も邪魔してきた広告なんて、わたしは全く観もしない聴きもしなかったし、たとえ見たとしてもその宣伝した製品とか企業とかを大嫌いになるだけである。
 TV広告屋って、なんだかバカのような気がする。え、あなたは、TV広告なんて観ますか?

 例えばですよ、コンサートホールでですよ、ピアノ協奏曲を演奏しているときにですよ、突然に演奏ストップ、この演奏会のスポンサーの宣伝広告が挟まる、なんてことをたびたび繰り返すなんて、あるんですかねえ。
 あるいは、長編小説の間に広告ページがどんどん挟まってるようなもんだよ、いいのかい、そんな本だったらだれも買わないでしょ。

 TVって こういうことが普通なんですか、え?、そんなことをやって平気なんですか、やる人もオカシイけれども、それを観る人もなんともヘンな人たちですねえ。
 TVってこれが普通なら、どこかちょっとアタマがオカシイような気がしますね。

 あ、いやいや、TVで宣伝広告入りの映画放送を見るには、どんなにブチブチコマ切れになっても、頭の中で連続させる再編集能力が要るんだな。わたしのようなボケ頭ではTV観る資格が無いのだな。
 やっぱりTV見るのをやめたっと。

2016/10/26

1226【法末集落の四季】大震災から12年目の山里、棚田で採れた美味い新米、美しい紅葉やがて降り積む豪雪、わたしは今や飯を味わいつつ想い出のみ


今年も美味いコシヒカリ新米が、中越の法末集落からやってきた。その日は10月22日、その次の10月23日は、12年前の2004年にその集落が大被災した中越地震だった。
 そしてまた、その前の今年の21日は、鳥取の倉吉あたりで大地震、つい先般の4月には熊本大地震、あれから5年経ってもまだまだ大変な東日本大地震、さて、この日本地震列島はどうなるのか。

 新米のが育った新潟県長岡市の法末集落の復興はおわって、いまやこの小さな集落のこれからの課題はその存続であろう。
 わたしはこの集落に2005年秋から2014年まで、延べ100日くらいは訪ねたことになるだろうか。その豪雪に驚き、その緑の景観を愛で、その人々の情に癒され、わたしが知らなかった風土に親しんだ歳月だった。
 その縁で、ずっとその集落の棚田で採れる美味いコシヒカリを、営農組合から毎年買って隔月に送ってもらっている。米をつくる村人も、それを食べるこちらも老いてきた。わたしはこれをいつまで食べ続けられるだろうか。

そこは都市から遠く離れた谷川を上り詰めた峠のあたりに、ヒョイと出現する別天地の桃源郷のような山村集落である。
 そこに行くルートはいろいろあるが、わたしのお気に入りは、小千谷駅からバスで30分ほどの小さな集落に降りて、そこから更に標高差300mほどを山道を1時間ほどかけて登って、ようやくたどり着くルートである。
 もう消える寸前の集落を通り抜け、棚田のなかの道を曲がりくねって登り、峠の陰の法末集落にようやくたどり着けば、そのたしかな立地を風土の中で明確につかむことができるのだ。好きな道だった。
 そして人間は、こんなにも奥深くにあって、まさに独立した地域でも、集まって生きることができるのだと知った。

 かつて四国の奥祖谷の有名な平家落人集落を、川に沿ってさかのぼり2日がかりで歩いて訪ねたときにそう思ったことがある。あそこも奥深い山村であった。
 この法末集落での四季を通じての長期にわたる体験で、人間が自然を飼い慣らす力量のほどを知って、なるほどそうなのかと身をもって知ったのだった。
 それにしても、雪のないところで育ったわたしには、毎年2mは当たり前、ときには4mも積もる豪雪をも、強引に飼いならそうとするしたたかな生活には、ほとほと感服するばかりである。温暖な奥祖谷とは、そこが大きく違うところだ。

わたしたちの中越復興支援グループは、ハードウェアの復旧には何の力もないから、小さなイベントのようなことを起して、集落の人たちを励ますくらいのソフトウェアでしかできない。
 いったいどれほどこの集落に役立ったのか、実はわたしには分っていない。1年ほど全戸避難していた集落の人々が戻ってきて立ち直る時に、わたしたちのような余所者がほぼ棲みついて、ウロウロすることでなにかの励ましになったのであろうか。
 
 あれから12年、法末集落は見たところは何事もななかったように、大昔からの山里の四季を繰り返しつつ、人々の暮らしが続いている。
 だが、12年という歳月は確実に人を老いさせ、住民は減ってきている。老いは集落の人々とともに、訪れつづけたわたしたちも同じである。
 わたしは熱心な支援者ではなかったが、この11年間に訪れた日数は100日くらいにはなったいるだろう。初めのころは月に3回は訪れていたが、次第に足が遠くなり、2014年に2回訪れてから、ついに昨年は1回も行かなかった。わたしも老いた。
 おもえば、わたしがこの地に眼に見えるものとして残したものは、たったひとつ、それは仲間とともにつくりあげた小さな茅葺の小屋である。これからも豪雪に耐えていつまで棚田のなかに佇んでいるだろうか。

わたしたちが法末を訪れるのを、震災復興が終わっても毎年時機に応じて続けてきたのは、集落復興から集落の継続へと視点が移ってきたからだだろう。
 典型的な限界集落の継続は、大局的には大きな社会的課題だが、暮らしの現場は日々の積み重ねである。なにができるのだろうか。
 そのひとつに支援仲間の女性たちがはじめた新しい年中行事の「お茶会」がある。キチンとお茶をたてて集落の人たちに振る舞うイベントである。
 初めた頃は正月、春、秋にやったが、そのうちに小正月の地元伝統行事「賽の神」にあわせて開くようになり、継続している。絶えようとしていた賽の神行事が復活した。

もうひとつは、仲間のひとりが集落住民となって住みついたことだ。
 復興支援仲間と集落住民の有志が出資して、彼を中心とする地元会社を設立し、高齢等で営農できなくなった住民たちの農地を引き受け、都市に米の販路を開拓し、古民家での民泊営業を目指している。これが集落継続のきめてになるかもしれない。
 他から移住してきた人、住民の次世代で戻ってきた人、古民家を改修して別荘として住む人などの、少ないながらも震災後に新たな住民もある。
 
そろそろ紅葉が美しい時を迎え、やがて雪が来る。今年は地震が多かったから、豪雪だろう。あの204年中越地震の年もそうだった。
 わたしも老いた。あの山道を1時間も登って、法末集落にたどりつく脚力はもうない。豪雪の雪の中を歩いて転ぶのが怖い。現に2014年の小正月の日、雪道で転んで捻挫して仲間に迷惑をかけた。
 わたしがもう訪ねることはないであろう法末集落、あの地震の後もしなやかに生きつづける村人たち、この間の歳月の中に静かに逝った村人たち、いっしょに訪ねた仲間たち(その中には逝った人もいる)、そして美しい四季の風景、いまはそれらの想い出にオマージュをささげよう。
 わたしと法末とのつながりは今や、地元営農組合から毎月来る米と、仲間が興した会社への出資だけとなってしまった。
 
 これまで書き連ねてきた「法末の四季物語」を、このあたりで締めくくることにする。その中の一部を、わたしが法末集落で学んだ成果として、自家製出版DTP「まちもり叢書」のなかの一巻にまとめてオマージュとした。
(まちもり叢書第17号『法末四季賦』
   ‐中越震災復興から次なる課題へ‐
 

・わたしのサイト関連ページ
●伊達の眼鏡ブログ「中越山村・法末集落の四季」
http://datey.blogspot.jp/p/2004-2005-2014623966-httpdatey.html
●まちもり通信サイト「中山間地の今とこれから」
https://matchmori.blogspot.com/p/chusankanchi.html

・外部ウェブサイト
●法末集落へようこそー法末集落の案内、歴史、名物など
https://sites.google.com/site/hossuey/
●法末天神囃子ー復興支援仲間が法末に住みついて続ける活動
http://www.hossue.jp/clubhossue.html
●越後の棚田集落/新潟県長岡市小国町法末(ほうすえ)集落
http://localnippon.muji.com/news/1391/

2016/10/22

1225【鳥取・倉吉地震】高梁盆地で少年時唯一の地震体感の恐怖記憶がよみがえってきた

 熊本のつぎは鳥取県の倉吉あたりで大地震だそうだ。昨日の新聞夕刊に何も出ていなかったのは、発生が14時過ぎだったので記事にするのが間に合わなかったのあろう。
 今朝の新聞のトップ記事だろうと思っていたら、一面にはあるけどトップではないのだった。ここが震源から遠い関東であるせいだろうか、それとも熊本と比べて被災程度が軽いからか。

 鳥取地震と言えば、2000年に大きな被害があったが、また起きた。あの辺りは地殻のひずみがたまりやすいところだそうだ。
 わたしの少年時の地震を怖いと体感した経験は、記憶にあるのはたったの1回である。
 調べてみるとそれが鳥取地震であり、1943年9月の夕刻、震度6、1083人死亡だった。

 そこから南西に100kmあまり、高梁盆地にあるわたしの生家の御前神社では、境内の森はゆさゆさと揺れ騒ぎ、社殿はみしみしと揺れ響いた。
 森の中の社務所の縁側から、恐怖をもって眺めていた大きく揺れるモミの大木の記憶は、もしかしたら社務所の揺れの視覚的な相対現象だったかもしれない。
 この地域に被害はなにもなかった(とおもう)が、少年時の唯一の地震恐怖体験を忘れない。

 他にも地震があったはずだが、高梁盆地あたりは地震が少ない地域であるらしく、地震の記憶はこれしかない。
 たしかに調べてみると、全国的にも有数の地震が少ない地域であることに気が付いて、わたしの故郷は安全なところなんだと思い込んでいた。
 しかし、どうもこのところのあちこちで地震が多く発生するのに加えて、今回は100キロほどの近くに迫ってくると、自信が無くなってきた。

 とりあえず、故郷の友人に見舞いメールを出したのだが、返事には、震度3、揺れにびっくりしたが、被災はなさそうだとの返事にホッとした。

●参照 ブログ内関連記事
大揺れ天災人災列島だけどすこしでも安心して暮らす場所を探してもう逃げだそうと思う

2016/10/20

1224【2年後にまた元号が変る】国も自治体も元号表記に固執するのをやめてくれ、また2年先に変ると混乱ばかり

 天皇が2年後には退位するらしい。となると、また2年後に新しい元号になるのかい、もう、やめてくれよ~。
天皇制には大いに疑問を持っているが、最も身近なそのひとつに役所が元号表記を押し付けることがある。
 書類の生年月日記入欄に、明治・大正・昭和・平成から選んで丸を付けるなんて、バカバカしいことをやる。わたしは無視して西暦を書く。

 役所の資料は、統計さえも元号表記だから、19世紀半ば以降は4つの元号がならぶと、このデータはいったい何年前のことか、頭がこんがらかる。
 そのくせ、19世紀前半以前の表記は西暦になるのはどういうわけか、統一性がないぞ。
 元号で書くなら、西暦併用を一切やめて、大化いらいの各元号で通したらどうかね、ますます混乱するだろうなあ。そんなに天皇制がお好きなら、いっそのこと神武紀元歴にするか。

 元号表記を見ると、しょうがないから西暦換算方法で暗算する。
 明治なら1856を、大正なら1911を、昭和なら1925を、平成なら1988をそれぞれ足すのだ。それではじめて何年前のことかわかる。
 でもなあ、歳とるとその暗算能力の減退が著しいのだが、まあ、暗算はボケ進行遅延効果があるかもしれないから、元号表記も捨てたものではない、というかなあ。

 小中高での教科書の表記はどうなんているのだろうか。日本で育つと国際感覚の乏しくなるのかもなあ、この元号のせいのような気がする。
 東京は、紀元2600年(西暦1940年)の記念行事としてオリンピックを誘致そして返上したが、外国人には記念の意味が通じないことだったろう。
 次の紀元2700年は、西暦では2040年だが、もしかしてまた記念万博とか記念オリピックとかやるって言いだすだろうか。

 ネパールで買ったルンビニシャカ遺跡解説の英語の本を読んでいて、どうも年代表記がオカシイと思ったら、あの国固有のビクラム歴(西暦+57)を使っているのだ。いわば日本の神武紀元歴である。
 わたしは西暦が優れているとはおもわないが、国際的スタンダードデファクトにほぼなっちまったから、これが良いとおもう。コンピュータが非合理的言語の英語に頼っているようなもんだ。

 それにしても、自分の身の進退を自分で決めることを、法的に禁止されている人間の一族が、この今の世の日本にいるとはねえ、そのこと自体が根本的に人倫に悖っているいるぞ。天皇制最大の疑問だな。

(追記2017年1月11日)
 最近の新聞によると、「国民生活に影響を最小限にする」とて、こんな姑息なことをやるらしい。元号使うのをやめればいいのに、まったくもって困った人たちだ。
 元号なんてものは、天皇家だけで勝手に使えばいいので、こちらに押し付けるのをやめてもらいたい。まったくもって癌号である。

2016/10/17

1223【新潟県知事選挙:核発電所慎重派当選】わたしが毎日食べている飯は柏崎核発電所から20km圏内の棚田の米で命がかかってるから新知事さんよろしくね

熊五郎 こんちわあ、ご隠居、なんだか涼しくなってきましたね。
ご隠居 おや、熊さん、いらっしゃい。あ、ちょうど昼のご飯が炊きあがったところだよ、一緒に食べよう。
 ハハ、昼飯時を狙ってきて大成功、ご隠居んちの米の飯はとても美味いんだもの。
 おお、ありがとよ、うちの米は新潟県の山奥の棚田で採れる、特別にうまいコシヒカリだからね。
 そうそう、ご隠居がいっとき米つくりに通っていた長岡の法末って集落ですよね。
 米つくりが目的で10年も通ったんじゃなくて、中越震災復興支援の手伝いに行ってたんだな。その縁でその村から直接に米を買って食べ続けているんだよ、もちろん美味いからだよ。
 新潟県と言えば、県知事選挙で原子力発電所について慎重派の人が当選しましたね。
 そうそう、核発電積極推進派の人になったら、この美味い飯を食い続けるのが難しくなると心配してたんだよ。
 え、だってあそこの発電所は海のそば、この米の村は遠くの山奥でしょ。
 それがねえ、なんと20km圏内にあるんだよ。ほら、東日本大地震で福島核毒ばらまき事件の時に、それに気がついて驚いたね。
参照
http://datey.blogspot.jp/2012/10/680.html
 エ~ッ、それじゃあ福島のようになると、避難しなきゃならないんですね。
 豪雪と共に核毒が降り積もったら、もうどうしようもないね。だからわたしは慎重派の人が当選して良かったって思ったよ。
 へえ~、こちとら関係ないと思ってたけど、この米の飯で大いに関係あるんですね。
 そう、この米に命がかかってるんだな。
 ちょっと前に鹿児島県知事選挙でも、似たようなことがありましたね。
 そうそう、慎重派新人が推進派現職を抑えて当選したね。熊本地震が県民に影響したのだろうかねえ。
 これからの核発電所設置県の知事は、どんどん慎重派になるんでしょうかねえ。
 いや、そうかなあ、今は核発電所設置自治体だけにお土産があるけど、これからは設置県県内自治体全部にお土産を出すようにしたら、コロッと推進派へ変るかもしれないよ。
 まさかねえ、やれやれ、明日の命よりも今日のカネって、やっぱり日本は貧乏なんですね。
隠 ♪米山さんから雲が出た いまに夕立が来るやら
   ピッカラ シャンカラ ドンカラリンと 音がする♪
 なんです、突然歌いだして、ビックリした。
 おや、知らないのかい、新潟民謡の三階節だよ、新知事が米山さんと言うらしいからね。いや、歌の米山は新潟県の名山なんだけどね、事態にピッタリでしょ。