今朝の朝日新聞にお経の現代語訳を唱えているという坊さんの投稿が載っている。
わけの分からぬ言葉ではなく、しっかりと意味の通った現代日本語に翻訳して、仏前で唱えるのだそうである。
当然のことのように、年寄りにはありがたみがないと評判悪く、若者には評判が良いとのことである。
葬儀や法事などの訪問先の仏事で、坊さんのお経と唱和するようにと、葬式屋が経文パンフレットを渡してくれることが往々にしてある。
やむをえず周りに合わせて口だけ動かすまねをしつつ、この字をどうしてこう読むのかしら、解説を読んでどうしてこういう意味になるのかしら等とマジメに見ても、ほとんど意味を成さないのである。
どうも中国語でもなさそうなので、インド語のなまったのじゃあるまいかと思いつつ、それ以上の興味も湧かないでいる。
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では神事ではどうか。
こちらは祝詞(のりと)であるが、共通祝詞とイベントごとに作る祝詞とがある。
前者は「大祓詞」(おおはらえことば)とよばれて、万葉仮名による古文の日本語ではあるが、経文ほどではないがわからぬことには変わりはない。
後者は、読み下し漢文もどきの擬古文であるから、聞いていてほぼ何とかわかる。
経文も祝詞も特徴ある抑揚をつけて唱えるのは、なにか宗教的ヒーリング効果を狙っているのだろう。歌みたいなもので、うたっていると安らいできて、それがありがたみにつながるのだろう。これはキリスト教の賛美歌の類と全く同じだろう。
だから聞いていて意味がいちいちわかると、そのたびに頭が覚醒してしまうので困る、なんてことで、年寄りが抵抗するのは、年寄りとしてわかるような気がする。
わたしは経や祝詞などを唱えるような殊勝な心がけは全く無い。門内の小僧と違って、鳥居内の子は習わぬ祝詞は読めないのである。
しかしながら何事にも例外はある。昨年の母の葬儀では、父がこの日のために書き遺していた母への誄詞(れいし、死者へは祝詞ではなくこういうらしい)を、わたしが奏上した。糟糠の妻をたたえる言葉が連ねてあった。
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