2014/04/15

917建築家山口文象の自邸がTV番組に登場「古くて新しい家」

 本に書評があるように、TV番組にも「映評」ってのがあるのかもしれないから、いちおう書いておく。もっともTVをめったに見ないので、他の番組をみて比較する批評にはならない。
 2014年4月13日夕方、建築家山口文象の自邸を写した番組が、フジテレビで放送された。わたしも取材に協力をしたので、めったに見ないTVをその時間だけ見た。
 しかし、たった2分ほどの番組で、その前後途中に見たくもないたくさんの商業広告がでてきて、これだからわたしはTVを嫌いなのだ。

 番組名は「ロマン建築の旅」といい、有名建築家の住宅作品を順次放送するそうだ。
 その1回目は坂倉順三による「岡本太郎邸」であり、2回目が「山口文象自邸」(1940年竣工)をとりあげた。
 自邸の外観、中庭、サロンを中心の映像に、自邸と同じころにできた山口の作品である「黒部第2発電所」と「林芙美子邸」の写真を挟み、山口文象の子息の音楽家山口勝敏さんが語り、プロのナレーションによって概括する。

 ナレーションが、「古くて新しい家」、「74年前に建てられたが、いまだ未完成」という通り、できてから実に多様なる変遷があって、いつも新しいことがあったこの家、それが最も面白いところなのである。
 山口の頭の中の常に変更中の設計図によって、金ができると始めてしまう毎度の改変工事が続いて、金がなくなると工事が止まり、とりあえずの完成、入れたコインの額だけ動く器具(そのときはベルリンで住んだアパートの暖房器具を例にとりあげた)みたいなもんだと、山口当人から聞いたことがある。毎度動かされる家族は大変な目にあっていたらしい。
 いつも新しいこの家は未完成こそが本来の姿であるのだが、山口文象がいなくなったいまでは、これが完成した姿だと言わざるを得ない。

 2分やそこらの超短時間番組では、その変遷を詰め込むのはとうてい無理だろうが、当初のコテコテの民家風のインテリアと、いまの姿を重ね合わせるbefore-after映像を見たかった。
 家族や生活様式の変化によって、また山口文象の気分によって、間取りが何度もドラスティックに移り変わったてきたが、実に面白いのだが、。

 勝敏さんがそれについて、「いつまでも和と洋のデザインの間で、悩みつつ矛盾に揺れていた自作の実験場」と語るだけで、映像に出なかったのが残念だった。
 和と洋の両方の名手だった山口文象の世界を、ひとつの建物で長期間にわたって見せた建築作品であるが、建築は今の姿しか見えないので、この作品の真髄は見えないのである。

 ナレーションで気になったところ。
東京大田区、閑静な住宅街にひときわ目を惹く、一軒の家がある
 ふむ、一般の眼から見ると、あの家は「ひときわ目を惹く」のであるか。わたしは何回も訪ねて見慣れたせいもあるかもしれないが、そうでなくても、あの家は目を惹く代物だろうか。
 あのような道から平入りの瓦屋根の和風の家は、できたとき1940年の昔からの普通の住宅地の風景であった。モダンデザインで売り出した山口文象だが、実はこのような和風はお得意だった。
 それが今や、ナニヤラハウスとかナントカホームという大衆好みの今風住宅が建ち並ぶのが、この久が原でも当たり前の風景であり、山口邸は居ながらにして特異な姿になった、ということだろう。

浅草の大工の棟梁の息子として生まれ、独学で建築家になった
 ふむ、独学でねえ、わたしは山口文象自身の口から、独学だと言っているのを聞いたことも読んだこともない。わたしもこれまで山口についてはいろいろ書いてきたが、独学と思ったことは全くなかったので、ちょっと意表を突かれた。
 建築の専門家である大工を育てる中学校(職工徒弟学校大工分科)では「学」になならず、大学の建築学科を出ていないから、これを「独学」というのかしら。
 山口文象に建築を教えた師匠はいなかったのかと言えば、当人の口から出る彼が師匠とした建築家の名前は、山田守、岩元禄、石本喜久治(後に大喧嘩するが)、グロピウスである。
 特に、18歳で就職した逓信省営繕課で、多くの大学出のエリート建築家たちの下で修業をしたのだから、これを独学と言ってよいのだろうか。

 独学と自分でも言っているらしい有名な建築家に、安藤忠雄がいる。その彼とても、水谷頴介の下で働いたこともあるし、大阪工業大学に籍を置いたこともあるようだ。
 実は山口は学歴コンプレックスを持っていたようで、東京帝大の偽学生として伊東忠太の講義を聴いた(ほんとうならば時期的には東京美術学校であろう)とか、ドイツでグロピウスアトリエにいた頃にベルリン工科大学大学院で学んだとか、しゃべっている記録がある。それは後に東京工業大学の講師になったことで解消したようだ。
 大学で専門的に勉強しないで一流になることを独学というなら、学歴社会の象徴のような言い方の感がある。

 それで思い出したが、ある建築史家は、山口文象が大工から転身して建築家になったと思い込んでいたそうだ。
 山口は大工の子だが、当人は大工を仕事にしたことはなくて、その兄の山口順造が父を継いで大工となり、この山口自邸も彼の仕事であった。
 学歴ついでに、山口文象がバウハウスで学んだと書いてある建築史の本があるが、それは間違いである。山口が弟子入りしたしたグロピウスは、既にバウハウス校長を退任し、ベルリンでアトリエを持っていた。
  
離れには、下町情緒あふれる長屋
 ふ~ん、下町情緒ねえ、何だか雰囲気が違うよなあ。
 ここは当初は書生部屋だったのであり、その後は親戚や弟子たちが住んだこともあり、自邸改造中の家族の避難場所であったりした。まあ、形は長いから長屋だろうが、下町情緒はどこにもない。裏に路地があるくらいか。
 このナレーションの作者は、山口が下町の長屋で生まれ育った出自を、ここに文学的に託したのだろうか。

ヨーロッパ建築をとりいれた黒部川ダム
 あれ、これはダムじゃないよ、発電所だよ、正確には「黒部川第2発電所」、ついでに言えば、これにつながる山口がデザインしたダムは「小屋平ダム」。
http://www.suiryoku.com/gallery/toyama/kuro2/kuro2.html

「明治から昭和へ駆け抜けた建築家は、古い殻を破りたいとあがき続けていたのかもしれない」
 おお、これはうまくナレーションを納めてくれましたねえ、そのとおり。
 江戸の残る旧弊な下町から抜け出て山手のこの地に家を構えこと、和風の名手でありながら西欧モダンデザインで世に出たこと、個人作家と集団オルガナイザーの間で悩み続けたこと、そう、あがき続けた建築家であった。

「山口文象+初期RIA」アーカイブズ
https://bunzo-ria.blogspot.com/p/buzo-0.html


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