2015/08/31

1122【15年安保騒動】国会議事堂周辺で55年を隔てるふたつの安保反対デモに参加したわたし

小雨が降る国会議事堂前、歩道は満員、議事堂正面の道路は車道を埋め尽くす人々、いったいどれほどの人数だろうか。
 2015年8月30日、午後4時、わたしは小雨にけぶる議事堂のとんがり屋根を、人々の傘の波の上のはるかに向うに見ながら、歩道の草の上に立ち尽くしていた。
 安保法制案も不安だが、それよりも憲法解釈もその変更も余りにも軽々しいことが大いなる不安であり、それがここに居る理由だ。
地下鉄駅を出るともう人がいっぱい

 思いだせば、1960年6月半ばの日々、学生だったわたしは大勢の仲間とここにきて、渦巻きデモの中にいた。
 だれもかれも腕を組みあい、車道いっぱいに広がり、キシヲタオセッ、アンポハンタイッと怒鳴りながら、突然にジグザグと小走りになるのは、若い体力があったからこそできた。山岳部員だったから、登山靴でやってきたものだ。

 いま、腰痛でヨロヨロ爺いには、あんなことはできっこないが、まわりをみれば、今のこの群衆は腕を組んだりはしない。デモ行進もしない。
 一人一人がそれぞれに思いをもって参加しているのだろう、肩が擦り合うほどに歩道に立ち並びながら、雨傘の下で口を合わせてシュプレヒコールを唱える。叫ぶのではない。
集中しすぎないように警官による誘導規制が厳しい
中には「日比谷公園でも集会がありますので、
そちらへどうぞ」と言う警官もいる

 シュプレヒコールも、多様である。「これが民主義だ」というのもあったのが、フムそうかとも思いつつ、こうしないと民主主義はないのかと、ふと思ったりもした。
 1960年にはなかった女性が登場するのは当たり前で、時には少年の声も登場する。そうだ、60年の時はラウドスピーカーがなかった。段ボールのメガホンだった。

 あの1960年安保反対デモには、職場や大学の幟がたくさん立っていたものだ
 個人で参加というよりも、ある特定集団による示威行為であることが、政治へのアンチ意見を言うには効果的だとの思い込みがあった。
 だから個人によるデモ参加に躊躇があった。

 そこに「声なき声の会」という旗を掲げて、誰もが自由に参加するデモ隊を組んだ人たちがおり、これに自由参加した市民が多くいた。
「声なき声」とは、時に首相の岸信介が、大きな反対のデモ隊の声ではなくて、安保条約支持の国民の声を出さない声を聴くのだと言ったことに由来し、それへの対抗である。
 岸さんの孫の安倍さんも、声なき声を聴きつつあるのだろうか。
各々が手づくりプラカードを掲げる

 いまは、ネット社会となって、個人で参加が当たり前、わたしもface bookをみて参加したのだ。
 デモの中に団体の幟や旗は、無いことはないが、めったに見ない。それを見つけると、ちょっとダサいなあなんて思ってしまう。
 そこに大衆行動の時代的変化の違いがあるのだろう。
 だが、それだけ時代が違っていても、選挙でこの政権を圧倒的に支持した大衆がいることを、なんとも解せない。選挙する大衆と、今ここにいる大衆とは違うのだろうか。

 頭の中に渦巻く1960年のデモを思い出しながら、華やかに広がる彩り豊かな傘の海をと、まわりのいかにも小市民的な人々の姿と声に包まれて、小一時間ばかり立ち尽くしていたのであった。
色とりどりの傘の大津波が議事堂に押し寄せる
そろそろ腰が痛くなってきて、人波をかき分けつつ、地下鉄駅に向かってユルユルと退散した。

 この前ここにデモに来たのは2013年5月の原発反対、その前は2012年7月で原発再稼働反
対、そしてその前は1960年6月安保条約反対であった。
 そして安保条約は自然承認になり、原発は再稼働し、いま安保関連法案は国会可決が目の前、さてさて、わたしは何をしているのだろうか。
ベビーカーに幼児連れ参加者は雨宿り中
「60年安保」デモは、思いがけなくも、わたしの人生をちょっと方向転換させた事件になったことは事実である。それが良かったか悪かったかは、人生は二つは無いからわからない。
 55年の後の「15年安保」デモは、もう何もわたしにもたらすものはなさそうだ。
 それでもなお、こうして異議申し立ての人々の渦の中の一員であったことに、とりあえずは意義があったと思うしかない。
 
参照
・2012年7月原発反対で52年ぶりの国会議事堂デモに参加して思うこと多々
http://datey.blogspot.jp/2012/07/641.html

・2013年5月国会議事堂・首相官邸周辺での原発反対デモはまだまだ続く
http://datey.blogspot.jp/2013/05/783.html

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