●タウトが画家・有島生馬から依頼のトルコ大使館の設計受注に失敗したこと
タウトは結局日本では建築を設計する機会には恵まれなかった。来日以来、仙台で工芸指導所や蒲田の陶磁器会社でデザイン指導、あるいはあちこちで講演をつづけてながら糊口をしのいでいた。建築の設計の仕事をしたいのだが、機会に恵まれない。
何回か設計を設計を頼まれて図面や透視図を書いてはいるのだが、どれも実ることなく、時には日本の建築家にさらわれた。建たない設計には金を払わない日本の習慣の前では、いつもタダ働きだった。できたのは僅かに熱海の日向氏別荘の地下室のインテリアのみであった。
そのタダ働きのひとつに、画家の有島生馬(1882~1974年)から依頼された建築計画があった。
1934年7月11日に、タウトは画家の有島生馬と出会っている。その日の日記。
「有島氏は現在の家屋と地続きの所有地に建築をしたい、ついては私の日本における『建築の皮きり』としてその設計にあたってほしいという。有島氏は好個の紳士だ。」
有島生馬 |
そして7月29日の日記。
「有島氏にトルコ大使館の建築平面図2葉を届けておいたが、今日は方角を考慮して少し変更を加えた見取り図を描き、これに設計の謝礼をも含めた費用見積もりを添えた。有島氏とトルコ大使館との交渉がどんな結果になるのかは、今のところまったく不明である。有島氏は、もしこれが不調に終わったら、例の土地へ外国人向きの宿泊所を建てたいと言っている。有島氏は私に好意を寄せているようだ(私も同氏の人柄が好きである)、まさか私を見捨てる様なことはあるまい。」
どうやら既にプランを提出済みだが、更に変更案を追加して届けたらしい。これがだめでも「外国人向きの宿泊所」の仕事が来ると期待している。
だが1934年10月7日のタウト日記に、有島に見捨てられたことが書いてある。
「数か月前に有島(生馬)氏の依頼で、トルコ大使館の設計をしたことがある。これについていつか同氏に手紙を出したら、今日その返事を受け取った。有島氏の言い分は、あの件はトルコ大使館が処理するべき事柄で、自分には全く係りがないというのである。井上氏はこういういざこざは、日本ではありがちなことで、しばしば不快な事態を惹き起こすものだという。だがその手紙は、なにも補償を要求したものではなくて、ただ仕事の価値をありのままに述べたに過ぎないのである。」
井上氏とは、有島を紹介した井上房一郎で、後にタウトは高崎の井上工房に雇われる。タウト支援者の一人である。
どうやらドイツ流の理知的な言葉と日本流の曖昧な解釈とのあいだで行き違いがあったらしく、タウトはこの設計受注には失敗した。そうなったら、「外国人向きの宿泊所」の設計受注へとフォローすればよいのに、怒ってしまったらしい。
この年のクリスマスに、タウトは有島からクリスマスプレントを受け取って、設計料の9分の1くらいの値段のものと、また憤慨している。
タウト側のこの件の記述は以上であるが、山口文象の側から見ると、この続きがある。
実は、このタウトが受注失敗した有島生馬のプロジェクトは、山口文象が「外国人向きの宿泊所」を完成させた。もちろん、これはわたしの推理であるが、ほぼ間違いない。
●山口文象がタウトの失敗した有島のプロジェクトを実施したこと
有島がタウトに設計を依頼した土地は、山口文象の設計で1936年8月に建った「番町集合住宅」の場所らしい。そこは東京の麹町区六番町である。有島生馬の兄の有島武郎の住宅であったが、武郎の死後は生馬が管理していた。
現在そこには、出版業の文芸春秋社の社屋が建っているが、1945年の空襲で焼けるまでは、「番町集合住宅」が建っていた。そしてそれはタウトに有島が語ったように、「外国人向きの宿泊所」つまり外国人向けの賃貸アパートメントである。
番町集合住宅 |
有島と山口との出会いは分からないが、山口には画家の知り合いが大勢いて、安井曽太郎や菊池一雄などいくつもアトリエ設計をしているから、その線であったのだろう。
当時の新聞(1936年だが新聞名や日付は不明、山口文象建築事務所の資料)に、「集合住宅(ジードルング)を有島氏が計画』との見出しで、透視図つきの記事がある。
「故有島武郎氏が生前の作品中に或は書簡文中に「番町の家」としてのせられ有名だった麹町区下六番町10の邸宅はその後一時文芸春秋社と平凡社が仮社屋に借りていたことがあったが最近は七百坪の名庭は荒れるにまかせペンペン草やあざみの花が咲いていたが、今度令弟有島生馬氏が同所に純独逸風の集合住宅「ジードルング番町の家」を立てることになり思い出の邸は沢山の鳶職が入って取り壊している。「ジードルング番町の家」は先日本紙に掲載した「町田外人街」と同様に在京外人、中流以上の人々に、ホテルより手軽に在来のアパートより一層機能的に、家一軒借りるより文化的な住み家を与へる目的で、青年建築家として水道橋の東京歯科医専その他進歩的なデザインで有名な山口蚊象氏がデザインに当り、ドイツのウォールグロッピュース氏流のテイピカルなジードルングの設計を終り目下建築許可の申請中で八月末日まで竣工の予定である。」
ウォールグロッピュースとは、山口文象がドイツで師事したWalter Gropiusのことであろう。
そこに有島生馬の談も載っている。
「住宅地としてはこの辺は東京一等地ですし、欧州を旅行してかねがね本場のジードルングにあこがれていたので、一念発起いま山口君と大童になっていいものにしようと頭をひねっています。地代を支払ってはこの仕事は引き合いません。とにかくスーツケース一つ提げてくればすぐ住めるものに、しかも外装は飽くまで瀟洒たるものにします。」
1936年11月号の雑誌「国際建築」に番町集合住宅の写真と山口の解説文が載っている。解説文をこう締めくくる。
「この「番町の家」が本当の意味におけるジードルングであるかどうかは別にして、この計画を実施された有島先生の英断に敬意を表し、また若輩の私に設計工事に関する一切を一任して下さったことを心から感謝を述べたいと思ふ。」
皮肉なもので、その当時ならばジードルング(集合住宅)の設計では世界中でこの人の右に出る者はいないであろうタウトに接触していたのに、その起用にならなかったのは、日本の集合住宅のために実に惜しかった。
ブルーノタウトによる集合住宅 ベルリン・ブリッツ・ジードルング |
山口文象が「本当の意味におけるジードルングであるかどうかは別にして」と言っているのは、金持ち外国人向けの賃貸集合住宅が、労働者層を対象とする社会政策としてのドイツのジードルングと同じとは言い難いと思ったのであろう。
ドイツで本物のジードルングを見てきたし、グロピウスの下でジードルング設計にも携わった山口文象だから言えることだろう。
●タウトが山口文象建築作品個展を観てモダンデザインを酷評したこと
ところで、タウトはその土地に山口文象がジードルングを設計したことを知っただろうか。時期的にはタウトが日本を出たのは1936年10月15日だったから、知ってもおかしくないが、そのようなことは日記に登場しない。
では、タウトが同じ土地に別の計画で関わったことを、山口は知っていたのだろうか。
「山口文象建築作品個展」と銘打って、その自信作を展示したのは1934年6月13日から17日まで、銀座資生堂ギャラリーでのことであった。
展示したのは、日本歯科医科専門学校附属病院、小泉八雲記念館、アパートメント試作、アトリエⅠ、アトリエⅡ、協同組合学校、関口邸茶席、モデルルームの8つの建築作品である。多分、図面と写真、一部は模型もあったかもしれない。
日本歯科医科専門学校附属病院 |
1934年6月15日のタウト日記。
「建築家山口蚊象氏の作品展覧会を観る(同氏はドイツでグロピウスの許にいたことがある)。作品のうちでは茶室がいちばんすぐれている、――山口氏はここでまさに純粋の日本人に復ったと言ってよい。その他のものは機能を強調しているにも拘らずいかにも硬い、まるでコルセットをはめている印象だ。とにかくコルビユジエ模倣は、日本では到底永続きするものでない。」
タウトにももちろん招待状を出したに違いないが、やってきタウトは酷評である。唯一のほめている関口邸茶席は、コテコテの和風建築であった。展示作品のうち唯一の和風デザインである。
関口邸茶席 |
日本歯科医科専門学校は、山口が帰国してすぐの設計で、彼の出世作ともいうべき、時代の流行最先端を行くモダンデザイン建築である。
小泉八雲記念館は、松江市の武家屋敷街にある旧八雲住居跡に建つ。これはモダンデザインというよりは新古典主義的な影をもつ洋館であった。ワイマールにあるゲーテ記念館を模したと言われるが、本当かどうかわからない。現在あるゲーテ「ガルテンハウス」のことならば、ずいぶん違う。
そのほかのアパートメント試作、アトリエⅠ、アトリエⅡ、協同組合学校は、展覧会用の試作だったのだろう。
ここで気になるのは、「アパートメント試作」なるものである。このころ山口がとりかかっていた可能性があるアパートメントならば、「番町集合住宅」と「青雲荘アパートメント」の二つがある。
もしも展示作品が番町集合住宅ならば、有島は山口にアパートメント設計を依頼しながら、いっぽうではこの後の7月11日にタウトに会った時に、同じ土地にトルコ大使館設計依頼という、二股をかけたことになる。
そして、トルコ大使館が不調になったら「外国人向きの宿泊所」にすると言い、それを山口文象に依頼してあると正直に言ったのかもしれない。だからタウトは有島にキャンセルされても、フォローしなかったのであろう。あるいは山口とは言われなかったが、怒ってしまってフォローしなかったのかもしれない。
このあたりは類推して、勝手に面白がるしかない。
山口としては作品展で、ドイツから持って帰ったモダンデザインを、タウトに褒めてもらいたかったであろうに、それらはけなされて、和風の関口邸茶席のみを髙く評価されたのだった。岳父の前田青邨の絵のようには高い評価をされなかったことは、彼にとっては皮肉なことだった。
しかし、タウトがあちこちを見て発している、極めつけの「いかもの」(ドイツ語ではキッチュ)と言われなかったのだけは、とりあえず幸いであったか。
(後編につづく)
◆ブルーノタウトと山口文象
前編http://datey.blogspot.jp/2015/08/1117.html
中編http://datey.blogspot.jp/2015/08/1118.html
後編http://datey.blogspot.jp/2015/08/1119.html
◆山口文象アーカイブス
https://bunzo-ria.blogspot.com/p/buzo-0.html
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