わたしは八十八回目の夏を迎えており、それなりに元気で過ごしている。
願わくは熱に中りて夏死なむ文月葉月の真昼真中
と、西行法師をもじって、今年も夏の狂歌を詠むのだ。それにしても暑い日々だ。
●人生19番目にして最後から2番目の住まいへ
国際紛争の多発そして内外ともに極右台頭の世界情勢で、どうやら、わが人生で二度目ので戦争に出会うことになりそうな気配だ。そこでそろそろ、"究極の安全避難地"へ早期移転したいと考えているところだ。
そんなときもとき、今年(2025年)7月半ばに、わたしの住まいを移した。生まれた家から数えると、19番目の住まい(一年以上継続)である。これまで西から東へまた西へ東へと、日本列島の都市を漂流した。これが人生最後から2番目の住まいだろう。
と言っても、同じ共同住宅ビル内の2階分上に移っただけにて、これまでと変わらぬ生活環境である。もう88歳という歳も歳だから、当然のように高齢者施設に移ることも検討ししたが、結局はこうなった。
![]() |
同じ共同住宅ビルの7階から9階へ縮小移転 |
ここ横浜都心部に移転してきた時は65歳だったから、それから23年も経った。それまでは鎌倉の谷戸の中で、一戸建ての木造住宅に23年間住んでいた。そこは緑豊かだが、街までバスで15分のところだった。買い物不便が一番問題だった。
だから、高齢者の仲間入りした時に、その生活環境を考えて、ここ横浜都心部の公的借家(県住宅供給公社)の共同住宅を選択したのだった。鎌倉では静かな森の中で鳥の声ばかりだったが、こちら横浜都心住宅街は交通騒音に溢れている。それを凌駕する環境は、あらゆる都市施設が歩ける範囲にあり、生活には便利なところであることだ。
ここを選んだもう一つ重要なことは、ひとつのビル全部が公的機関による運営の「賃貸借方式の共同住宅」であることだ。鎌倉の小さな庭の小さな家でも、一戸建ての住宅の管理は面倒なことであった。自分で管理しなくてもよい公的借家を探した。
ここ横浜都心では、歩ける生活圏に医療や福祉の施設も数多くあり、図らずも遭遇した3年にわたる病妻の在宅介護も、それらを目いっぱい活用して円滑にできたのだった。ここに来た時は介護までも予測できなかったが、ここに老後の住まいを選んだことは、正しかったと再認識したのであった。
ここを選んだ時に、もう一度の引越しがあるだろうと妻は言っていた。それは高齢者施設のことを指していたのだが、彼女はこの家で3年の在宅介護ののち、昨夏に独りで最後の移転をして行った。
さて、独居老人となったわたしは、このままここにいるか、どこか他に移るかといろいろ検討した。自分の年齢と体調と懐具合そして初老の息子と相談しつつ、高齢者向け施設をいくつか見分にも行ってきた。しかし、どれも帯に短し襷に長し状態で、唯一移りたいと思い入居仮申込した近所の「サービス付き高齢者住宅」は、満員状態が続いており、1年たってもお呼びが来ない。
そこで、現住居の同じ共同住宅ビル内で、独居老人には広すぎる4LDK住戸から、相応の1LDK住戸に移ったのである。掃除も簡単だし、2階分上なので眺望も開け、家賃もそれなりに安くなった。
これまで22年間を住んだ横浜都心で、今の公的借家生活の継続が、わたしの身体がまだ動くから、ある程度の期間はこのビル内で暮らせるだろう。いずれ介護が必要になるとしても、病妻の在宅介護体験から、超高齢者にも住みよいと分かったから、ある程度は生活可能だろう、高齢者施設でなくてもよいだろう、という判断である。甘いかもしれないが、、。
たぶん、これがわたしの人生で最後から2番目の引っ越しであろう。いや、ホスピスに移るかもしれないが、そうなると最後から3番目になるのか、、。
ともかくも、今は9階からの広くなった空を眺めつつ、これまでと同様に街なか徘徊をして、日本の都市がどう変わっていくのかを弥次馬として眺め楽しむ日々である。
●わたしの住宅漂流一覧
今回の引っ越しは、わたしの人生で19件目の住まいである。ただし1年以上を継続して暮らした住居であり、単身赴任等で家族とは別の住まいもある。
実はこれまでのわたしの住宅漂流記は、このブログに既に書いている(参照:2000年2月~2008年7月 賃貸借都市の時代へ-体験的住宅論)。
それに今回の引っ越しを加えて書くと、わが人生住宅漂流は一覧は下記の通りとなる。
①持家:1937~56戸建て2階建:生家、高梁市御前町御前神社内 漂流以前
![]() |
漂流以前の高梁盆地の生家があった神社(矢印の位置)(google earth) |
②間借:1957~58大学寮木造2階建て長屋2階、川崎市高津 漂流開始
③間借:1958~60大学寮木造平屋、目黒区大岡山東京科学大構内
④間借:1960~61大学寮木造平屋、目黒区緑が丘東京科学大構内
![]() |
東京科学大学大岡山キャンパス内の学生寮があった位置(矢印) (google earth) |
⑤間借:1961~62公団賃貸借10階建て共同住宅4階、大阪市西区靱本町
⑥借家:1962~63民営木造2階建て共同住宅2階、寝屋川市平池
⑦借家:1963~65民営木造2階建て共同住宅2階、名古屋市東山区園山町
⑧借家:1965~66公団営RC造5階建て共同住宅2階、名古屋市鳴海区鳴子団地
⑨借家:1966~68民営ブロック造2階建てテラスハウス、太田市西矢島
⑩借家:1968~79公団営RC造5階建て共同住宅2階、横浜市港北区南日吉団地
⑪借家:1973~74公団営RC造14階建て共同住宅12階、堺市?、単身赴任
⑫借家:1975~76民営RC造10階建て共同住宅3階、大阪市新大阪駅近、単身赴任
⑬持家:1979~2002木造2階建て戸建住宅、鎌倉市十二所
![]() |
鎌倉の谷戸の中の自宅(矢印)(google earth) |
⑭借家:1991~94民営RC造3階建て共同住宅2階、品川区戸越銀座駅近、仕事用別宅
⑮借家:1994~96民営RC造14階建て共同住宅2階、大田区梅屋敷駅近、仕事用別宅
⑯借家:1996~98民営RC造14階建て共同住宅7階、品川区大崎駅近、仕事用別宅
⑰借家:1998~99民営RC造14階建て共同住宅8階、目黒区目黒駅近、仕事用別宅
⑱借家:2002~25 県RC造公社営10階建て共同住宅7階、横浜市中区山田町
⑲借家:2025~現 県公社営RC造10階建て共同住宅9階、横浜市中区山田町
![]() |
横濱関外の自宅がある共同住宅ビル(矢印)(google earth) |
●わたしの住宅漂流以前:故郷の生家
だが、少年のわたしには、周りを山々に囲まれた街にも、鎮守の森の中に閉じ込められた生家にも、その閉鎖的環境に辟易していた。この盆地を抜け出すのが少年時代の夢であった。実際に空に舞い上がり飛び出す夢を何度も見たものだった。その閉所恐怖症は今もある。
![]() |
左は2002年から2025年まで住んだ7階の住戸、右は2025年移転後の9階の住戸 |
こうしてわたしの人生は、緑の森の中の神社境内から出発して、ビルの森の中の空中陋屋で終わりを告げようとしている。ここにどれほどの期間を今後に暮らすだろうか。現在88歳だから長くはないはずだし、長くここに住む願望もない。だが、幸か不幸かたぶん同年配の男と比べると健康な方であろうから、やむを得ずに長くなるかもしれない。困ったことだ。
●まちもり通信サイト「くたばれマンション」