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2025/08/17

1905【少年の日の戦争】80年前の少年の記憶の戦争は小さな城下町盆地の鎮守の森に

中国侵略日本軍の父(1939年保定にて)
  今年2025年の夏は、1945年8月15日に当時の裕仁天皇が、太平洋戦争に負けたことを、ラジオ放送を使って、国民に直接知らせた日から、ちょうど80年ということらしい。それをなんだか特別に雰囲気が世の中,特にジャーナリズムにある。80年だろうが79年だろうが変わりはないだろうが、なぜか。たぶんそうやって戦争を忘れないようにする仕掛けであろう。それは故人をしのぶ法事のようなものだろうか。

 でもまあ、わたしも88歳という覚えやすい年齢だから、せっかくの敗戦80年に協賛して、幼年時少年時に出くわした戦争の、いかにもそれらしい出来事を、記憶から引っ張り出すことにした。実はこれまでもばらばらにこのブロブに書いている(参照:まちもり通信「戦争の記憶」)のだが、 まだボケないうちに、ここでまとめて書いておくことにする。

 たまたま、今年いっぱいかけて月間として私的発行している歌集に挟み込む栞に、少年時を過ごした生まれ故郷故郷高梁盆地での戦争の記憶を書いたので、それに少し手を加えたものをここに載せる。

故郷高梁盆地の戦争の記憶   伊達 美徳

 この文を藤本孝子第五歌集「碧空へぽかりぽかりとんでゆけ」の8月版栞原稿として書いている日は2025年8月14日です。80年前の明日15日は、日本が太平洋戦争に負けたことを、当時の天皇がラジオ放送で国民に伝えた日です。この日を日本では敗戦記念日としています。夏八月は今でも戦争を思い出します。

 わたしは日本の十五年戦争(1931~45)の真っただ中の1937年に生れ、敗戦の時は国民学校初等科3年生でした。高梁盆地は空襲という直接的な被害はありませんでした、住民の生活には深い被害がありました。わたしには戦後の貧窮で空腹の日々こそが最大の戦争被害でした。8歳の夏に敗戦の日を迎えたわたしの戦争の記憶を書きます。

●80年前の8月15日のこと

 1945年8月15日は、いかにも夏らしい晴天でした。わたしの生家は御前神社です。その社務所の大広間座敷には、その1か月半前から芦屋市の精道国民学校初等科六年生女児20人と職員1名が、集団学童疎開でやってきて滞在していました。盆地内のほかの寺社などに児童51名が戦争避難しており、その子どもには戦場でした。

 そのころはラジオのある家は限られていましたが、その疎開学級にはありました。その社務所の玄関口に近所の人々十数人が集まってラジオを囲んでいます。その横でわたしは大人たちを見ていました。ラジオからヒロヒトさんの分かりにくい言葉と雑音がながれていました。それが敗戦の詔勅放送でした。もちろん8歳のわたしには内容を分りません。その場の情景の記憶のみです。

 放送を聴き終わると誰もみな声もなく散会して、誰もみな黙りこくって一列になって、参道の長い石段をトボトボと下って行くのを、わたしは社務所縁側から見送っていました。緑濃い社叢林の上空あくまで晴れわたり、森の中はいつものように蝉の声に満ちていました。

沈黙の湖になりたる盆の地よ昭和二十年八月真昼 

           (2014年藤本孝子第二歌集あとがき掲載の拙詠) 

 それから数日の後に疎開児童たちは芦屋に戻ってゆきました。ところが芦屋はその数日前に空襲を受けており、中には親を亡くした子もいたのでした。あの女の子たちはその後どのような人生だったのでしょうか。
 その半月後、父が参道の石段を登ってきて、3度目の戦争からの帰還をしました。

●父を戦場に送り出して号泣する母

 わたしの父は、日本の十五年戦争中に三度も招集され、最初と2回目は中国へ赴き、3回目は国内に居ました。延べ7年半も兵員として過ごしたのでした。その三度目の太平洋戦争への招集礼状は1943年12月に来ました。これについて強烈な記憶があります。

 戦争に出かける父の出発を、備中高梁駅で母と共に見送りました。家に帰りついて玄関を上がり、畳の間に入ったとたん、母は前に倒れ、両手で顔を覆って畳に押し付け、号泣し始めました。その慟哭の大声はやむことなくつづきます。目の前で大人に泣かれる5歳の幼児のわたしは、そばに座りこんでおろおろ、号泣に合せて母の背にある帯の結び目が大きく上下するのを、ただただ見つめているばかりでした。

 やがて誰かがやってきたらしく勝手口の方から案内を乞う声が聞こえました。母は急に泣き止み、今泣いていたことを誰にも言ってはいけないと、わたしに厳しく言いつけて立ちあがりました。その時に母の胎内には半年後に生まれる第三子がいましたから、その慟哭は当然でしたが、世間で表向きには、戦場への出征を嘆くのは非国民でした。

 父は南方戦線に送られるのを姫路城内にあった兵営で、しばらく待機していました。何回か母と共にそこに面会に行った記憶があり、幼児には楽しい遠足でした。だが、負け続ける日本軍は制海権を失い、輸送船もなくなり南方行きは取りやめになりました。母とわたしたちには幸運でした。

 1945年春に父の隊は小田原に移駐しました。湘南海岸に上陸するであろう連合軍を迎え撃つべく、本土決戦準備をしていました。小田原はその敗戦記念日となった日に、アメリカ軍の空襲を受けたのですが、父は仰撃陣地づくりの山中に居て無事でした。敗戦の月末に帰宅したときは、家族が一人増えていました。

 こうして幸いにも母の嘆きはむなしいものとなり、戦争が終わると同時に夫を無事に取り戻すことができました。しかし母の実弟は、その年の5月にフィリピン・ルソン島山中のジャングルで戦死し、その若妻と乳児が母の実家に残されたのでした。思えば敗戦時に、父母はともに35歳でしたが、3度の戦争兵役を経て夫婦ともに健在は、奇跡的だったかもしれません。

●国民学校初等科の戦中戦後 

 戦争教育については、国民学校初等科の低学年ですから、あまりそれらしい記憶はありません。修身の時間に校長先生が教室にやってきて、神話の話をしたような気がします。広くもない校庭でグライダーを見た記憶があります。

 本館に天皇の写真があるという奉安殿があり、前を通るときに「奉安殿に礼!」の号令で一礼しました。ある時、悪ガキ上級生が「オオアンゴウに礼!」と怒鳴って逃げて行きました。岡山方言で大馬鹿者の意味です。

 校庭で毎日の朝礼の時に、壇の上に立った先生か上級生かが、モールス信号の機械でなにか文を打ち、分かった生徒は手をあげて答えます。今のクイズのようで面白く「イトー」「ロジョーホコー」と信号を覚えたものです。こうして「銃後の少国民」が育っていました。

 戦争が終わると、月に1回ぐらいの割合で、学級に編入生がやってきました。ほとんどが引き揚げ者、つまり中国や朝鮮半島からの帰国者のこどもです。はじめは転校生に違和感をもっていても、子どもはすぐに仲良くなりました。田舎の子には刺激になりました。隣町の小学校に、満州の奉天(現在は審陽)からの引き揚げ少女が編入しました。ずっと後にわたしの連れ合いとなる人です。

 敗戦の年は教科書が問題でした。教育方針が180度転換して内容を変える必要があるけれど、紙がないし印刷も間に合わない。学校からの指示にしたがって、それまで使っていた教科書のあちこちの文章を、母と一緒に筆で墨塗りしました。教科書は大切にして汚さないようにといわれ、使い終われば知り合いに譲っていたものでした。それをこんなことしてもよいのか、と思ったものです。

  でもそれは、なんだか面白い作業でもあり、あちこち消すために終わりのペー ジまで読むことになり、ちょっと勉強した気になりました。消すところは国語に多くて、どういうわけか理科にもあったような気がします。なぜここを消すのか不思議に思ったところもありましたが、母がそういったのかもしれません。

 次の年、印刷した新しい教科書がきましたが、それは製本してありませんでした。8ページ分が1枚になったままの数枚でしたので、それらを切りはなしてページ順にそろえて、自分流の表紙をつけて1冊の書物に作り上げました。自分が教科書を作ったような気になりましたが、それは今のわたしの「本づくり趣味」のルーツかもしれません。

 大人たちは価値観の大転換に直面してとまどい右往左往でした。小学校の教育のやりかたも変わり、教室の席の並び方が何度も変わった記憶があります。黒板に向いて先生の話を聞く授業から、みんなで話し合って考える方式になったらしいのです。でも、教師もよく分かっていないらしく、グループに分けたり、丸くならべたり、四角にしたりと、あれは実験していたのでしょうか。

 時には、教師が授業中に黒板に書きながら、「こんなやりかたをしてはいけないんだけど、」と、弁解していた記憶があります。それは戦時中の教育方法で、これからはやってはいけないと教育委員会あたりからでも言われていたのでしょう。どこがいけないのか子どもには分かりませんが、教師が学童に弁解するのもおかしなものだと思いました。大人たちは狼狽していました。

●新制中学校へ

 そんな中から、戦後民主主義教育は着々と進んできました。戦後の教育改革でわたしが出会って当惑したのは、1947年に新制度になって新しい中学校が誕生したことです。盆地内には旧制の中学校がありましたが、これを新制の高等学校としたので、新制中学校は盆地内の別の場所に建てられました。

 ところがその新制中学校の急造校舎は狭くて、生徒が入り切らないのでした。そこで二年生からそこに入ることにして、進入の一年生は盆地内の南端にあった南小学校の空き教室に仮住まいしました。わたしたち小学校を卒業してまた別の小学校へ通うのでした。

 わたしの家は盆地の北の方でしたから、通学路は盆地を北から南まで縦断する遠距離でした。2年生から急造校舎の本校へ通うようになりましたが、校庭は狭く、校舎は粗末、鉄道騒音や工場悪臭など、酷い環境でした。だからでしょうが卒業数年後に他に移転しました。

 でも、ここでよかったと思うことは、新制中学校には戦後の新しい高等教育を受けた教師が赴任してきて、素晴らしい教育に出会ったことでした。わたしは戦後民主主義教育の最前線を歩んで来て、「民主主義スクスク世代」と自負しています。教育は敗戦がもたらした良いことでした。

●空腹の日々 

 敗戦は飢餓をもたらしました。幼い少年にとってはここから戦禍が始まりました。盆地内の別のところに、神社経営を支えていた広い小作の水田がありましたが、農地改革でなくなりました。長期割賦支払いの補償金は、戦後の超インフレにより紙屑同然になりました。

 神社の小作米収入が消えて、父母は食糧の調達に苦労をしていたようです。5人家族が食べていくのは大変なことだったでしょう。神社の広い境内広場は、戦中は武道鍛錬の野外弓道場でしたが、戦後は芋畑に転じました。子どもにはただただ空腹の記憶ばかりです。

 なによりも、戦争推進の末端組織の一つでもあった神社への信仰が、敗戦で地に落ちてしまいました。父の神社神主という職業自体がなりたたなくなり収入の道が絶えたようです。 教科書も給食も有料でしたから、学校への支払いについての親の態度で、わが家の経済状態が児童のわたしにもよく分かりました。数年後に父が高等学校に事務職を得るまでは、家計は大変だったようです。

 大人たちは、どこでもいつでも食糧調達の話ばかりしていました。それが大人の通常の会話なのだとわたしは思っていたのですが、あるとき伯父が誰かとの会話で、こんな食い物の話ばかりして世の中困ったものだ、というのを聞いて、これは大人にも異常な状況なのだと気がついたことがあります。

 小学校で給食が始まりました。脱脂粉乳を湯に溶いたミルクと、マイロ粉という輸入トウモロコシ粉の黄色コッペパンがメインで、たまに干した果物がついたりしました。当時でも美味だったとは言えませんが、空腹のこどもには嬉しかったものです。多分、一番嬉しかったのは、一食分を食べさせなくてもよくなった親たちでしょう。

 まともな主食はなくて、朝早く行列して買った水ぶくれこんにゃく、麦のほうがはるかに多いお粥、野菜たくさんの雑炊、薄いうどん粉団子のすいとん(団子汁といいました)、蒸したさつま芋(これはご馳走)などが主役でした。もちろん、これらが同時に食卓に並ぶことはなく、一人あたりの量もすくなく空腹でした。あの頃の親たちは、自分の分を減らし、時には食べないで、こどもに食べさせていたはずです。思い出したくない食い物の恨みです。

●神社に今ものこる戦争の傷

戦争に行った釣り鐘の帰還を待ち続ける御前神社鐘撞堂
 生家のあった御前神社は、今も境内の山林も広場も変わりなく存在しています。戦前からの社殿建築の本殿、拝殿、御輿蔵、鐘撞堂もそのままに建っています。変わったのは老朽化した社務所が建て替えられたことと、宮司の社宅(わたしの生家)が消滅したことです。

 実は神社建築にはいまだに癒えない戦争の傷跡があります。それは17世紀から鐘撞堂に釣られていた時の鐘(1651年設置)が、鋳潰されて兵器となるために1940年に金属供出され、いまだに不在のままであることです。鐘のない鐘撞堂は鐘の帰還を待ちくたびれて、今や立ち腐れしようとしています。

 この鐘は城下に時刻を知らせる「時の鐘」の役目で、当時の藩主により設置されました。藩政期には鐘守役の人たちの住む長屋が近くにあり、毎朝夕の定時につきました。維新以後は神社に帰属して宮司が守役となり、父も撞いていました。父が不在の時は母が撞いていました。高い楼閣に上る急な階段は、結構怖いものでした。

●またもや戦争の気配

 今、世界各地で国家間や国家内部で紛争や戦争が起きて、止みそうもありません。欧米諸国でも日本でも、あの戦争を忘れた言説を唱える極右政党が台頭しつつあります。理解できない奇妙な言動をする大国リーダーたちもいて、力を振り回しています。
 なんだか世界戦争の再来の気配です。戦後90年、戦後100年には、第三次世界大戦になっているに違いない雰囲気です。しかしそうなるにしても、その時にはわたしは存在していないので、安心です。その前に「絶対究極安全圏」へ、早急の避難しておきたましょう。もう88年も生きたので人間生活は十分に体験しました。

(2025年8月14日記、補綴2025/0817)

このブログの関連ページ
戦争の記憶
父の十五年戦争

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2025/08/11

1903【都市漂流人生】人生19番目、最後から2番目の住み家へ、わが都市流浪はついに漂着するか

 わたしは八十八回目の夏を迎えており、それなりに元気で過ごしている。

    願わくは熱に中りて夏死なむ文月葉月の真昼真中

と、西行法師をもじって、今年も夏の狂歌を詠むのだ。それにしても暑い日々だ。

●人生19番目にして最後から2番目の住まいへ

 国際紛争の多発そして内外ともに極右台頭の世界情勢で、どうやら、わが人生で二度目ので戦争に出会うことになりそうな気配だ。そこでそろそろ、"究極の安全避難地"へ早期移転したいと考えているところだ。

 そんなときもとき、今年(2025年)7月半ばに、わたしの住まいを移した。生まれた家から数えると、19番目の住まい(一年以上継続)である。これまで西から東へまた西へ東へと、日本列島の都市を漂流した。これが人生最後から2番目の住まいだろう。

 と言っても、同じ共同住宅ビル内の2階分上に移っただけにて、これまでと変わらぬ生活環境である。もう88歳という歳も歳だから、当然のように高齢者施設に移ることも検討ししたが、結局はこうなった。

同じ共同住宅ビルの7階から9階へ縮小移転

 ここ横浜都心部に移転してきた時は65歳だったから、それから23年も経った。それまでは鎌倉の谷戸の中で、一戸建ての木造住宅に23年間住んでいた。そこは緑豊かだが、街までバスで15分のところだった。買い物不便が一番問題だった。

 だから、高齢者の仲間入りした時に、その生活環境を考えて、ここ横浜都心部の公的借家(県住宅供給公社)の共同住宅を選択したのだった。鎌倉では静かな森の中で鳥の声ばかりだったが、こちら横浜都心住宅街は交通騒音に溢れている。それを凌駕する環境は、あらゆる都市施設が歩ける範囲にあり、生活には便利なところであることだ。

 ここを選んだもう一つ重要なことは、ひとつのビル全部が公的機関による運営の「賃貸借方式の共同住宅」であることだ。鎌倉の小さな庭の小さな家でも、一戸建ての住宅の管理は面倒なことであった。自分で管理しなくてもよい公的借家を探した。

 ここ横浜都心では、歩ける生活圏に医療や福祉の施設も数多くあり、図らずも遭遇した3年にわたる病妻の在宅介護も、それらを目いっぱい活用して円滑にできたのだった。ここに来た時は介護までも予測できなかったが、ここに老後の住まいを選んだことは、正しかったと再認識したのであった。

 ここを選んだ時に、もう一度の引越しがあるだろうと妻は言っていた。それは高齢者施設のことを指していたのだが、彼女はこの家で3年の在宅介護ののち、昨夏に独りで最後の移転をして行った。

 さて、独居老人となったわたしは、このままここにいるか、どこか他に移るかといろいろ検討した。自分の年齢と体調と懐具合そして初老の息子と相談しつつ、高齢者向け施設をいくつか見分にも行ってきた。しかし、どれも帯に短し襷に長し状態で、唯一移りたいと思い入居仮申込した近所の「サービス付き高齢者住宅」は、満員状態が続いており、1年たってもお呼びが来ない。

 そこで、現住居の同じ共同住宅ビル内で、独居老人には広すぎる4LDK住戸から、相応の1LDK住戸に移ったのである。掃除も簡単だし、2階分上なので眺望も開け、家賃もそれなりに安くなった。

 これまで22年間を住んだ横浜都心で、今の公的借家生活の継続が、わたしの身体がまだ動くから、ある程度の期間はこのビル内で暮らせるだろう。いずれ介護が必要になるとしても、病妻の在宅介護体験から、超高齢者にも住みよいと分かったから、ある程度は生活可能だろう、高齢者施設でなくてもよいだろう、という判断である。甘いかもしれないが、、。

 たぶん、これがわたしの人生で最後から2番目の引っ越しであろう。いや、ホスピスに移るかもしれないが、そうなると最後から3番目になるのか、、。
 ともかくも、今は9階からの広くなった空を眺めつつ、これまでと同様に街なか徘徊をして、日本の都市がどう変わっていくのかを弥次馬として眺め楽しむ日々である。

●わたしの住宅漂流一覧

 今回の引っ越しは、わたしの人生で19件目の住まいである。ただし1年以上を継続して暮らした住居であり、単身赴任等で家族とは別の住まいもある。
 実はこれまでのわたしの住宅漂流記は、このブログに既に書いている(参照:2000年2月~2008年7月 賃貸借都市の時代へ-体験的住宅論)。
 それに今回の引っ越しを加えて書くと、わが人生住宅漂流は一覧は下記の通りとなる。

持家:1937~56戸建て2階建:生家、高梁市御前町御前神社内 漂流以前      

漂流以前の高梁盆地の生家があった神社(矢印の位置)(google earth)

間借:1957~58大学寮木造2階建て長屋2階、川崎市高津 漂流開始

間借:1958~60大学寮木造平屋、目黒区大岡山東京科学大構内 

間借:1960~61大学寮木造平屋、目黒区緑が丘東京科学大構内 向岳寮

東京科学大学大岡山キャンパス内の学生寮があった位置(矢印) (google earth)

間借:1961~62公団賃貸借10階建て共同住宅4階、大阪市西区靱本町

借家:1962~63民営木造2階建て共同住宅2階、寝屋川市平池

借家:1963~65民営木造2階建て共同住宅2階、名古屋市東山区園山町

借家:1965~66公団営RC造5階建て共同住宅2階、名古屋市鳴海区鳴子団地

借家:1966~68民営ブロック造2階建てテラスハウス、太田市西矢島

借家:1968~79公団営RC造5階建て共同住宅2階、横浜市港北区南日吉団地

借家:1973~74公団営RC造14階建て共同住宅12階、堺市?、単身赴任

借家:1975~76民営RC造10階建て共同住宅3階、大阪市新大阪駅近、単身赴任

⑬持家:1979~2002木造2階建て戸建住宅鎌倉市十二所 

鎌倉の谷戸の中の自宅(矢印)(google earth)

借家:1991~94民営RC造3階建て共同住宅2階、品川区戸越銀座駅近、仕事用別宅

借家:1994~96民営RC造14階建て共同住宅2階、大田区梅屋敷駅近、仕事用別宅

借家:1996~98民営RC造14階建て共同住宅7階、品川区大崎駅近、仕事用別宅

借家:1998~99民営RC造14階建て共同住宅8階、目黒区目黒駅近、仕事用別宅

⑱借家:2002~25 県RC造公社営10階建て共同住宅7階、横浜市中区山田町

⑲借家:2025~現 県公社営RC造10階建て共同住宅9階、横浜市中区山田町

横濱関外の自宅がある共同住宅ビル(矢印)(google earth)

●わたしの住宅漂流以前:故郷の生家

 わたしのこのような都市漂流の旅も、そろそろ終わりの時が来そうである。だから、ちょっと振り返ってみよう。
 わたしの都市漂流が始まる前の19年間の出発地は、88年前の初夏、小さな盆地の街にある神社の森の中であった(上記①)。これは普通の家庭のそれと比べると、かなり異なる環境であったと言えよう。
 
 その神社の境内地は、盆地の中の街と山林の境界あたりにあったが、背後の神社山林も含めて広さは5ヘクタールくらいはあった。少年時代は、一般的にみると、かなり広い土地に暮らしていたことになる。

 そこには山林と森と広場と社殿群があり、戦前と戦中は盆地内の別のところにも、広い小作田を神社は所有しており、ここからの小作代金が神社運営の基礎を支えていたらしい。だが戦後に農地改革政策で小作田は小作人に譲渡(その割賦債権金額は戦後インフレで紙屑同様となった)させられてて消滅した。父は宮司と高校事務職の二股で家族を支えていた。後になって気がついたのは、普通ではない環境に育ったということだった。
石段を登った広場の森の中に社殿と生家があった

 街の山際の道路から参道の石段を昇った。参道脇には高楼の鐘撞堂(かつては時鐘があった)が建っている。高さにして20mほど登ると最初の広場があり、そこにわたしの生家社務所があった。そこから直角に方向を変えてまた石段を高さにして10mほど登ると上段の広場に至り、拝殿、本殿,御輿蔵等の社殿が建っている。

 広場の周りは高木群竹林で囲まれた森である。今もその景観構成はほとんど変わらないままである。変わったと言えば、参道の石段が坂道となってアスファルト舗装され、自動車で登れるようになったことと、神社境内の南にあった人い畑地が住宅地になったことだ。 (参照:→境内図、→社殿・生家

 この生家のあった高梁盆地は、気候は温暖だし、歴史のある城下町の小さな街だったが、生活の場としても教育の場としてもほぼ何でもそろっている暮らしよいところであった。そのような街を都市計画で「コンパクトタウン」というが、まさにそれであった。

 だが、少年のわたしには、周りを山々に囲まれた街にも、鎮守の森の中に閉じ込められた生家にも、その閉鎖的環境に辟易していた。この盆地を抜け出すのが少年時代の夢であった。実際に空に舞い上がり飛び出す夢を何度も見たものだった。その閉所恐怖症は今もある。

●わたしの都市漂流住まい
 
 19歳の終わりころ東京の大学に入ることで、盆地脱出という少年の願望をようやく叶えることができた。その後は、日本列島本州南部を東西の都市へ、そして都市の中でもまたあちこちの街へと、まさに漂流してきたのであった。

 敗戦後の日本がようやく高度成長に足をかけようとする頃に社会に出たが、そのころは住宅難の時代にも突入していた。仕事の都合で東京、大阪、名古屋、横浜など、日本の大都市で、多種多様な住宅に暮らしてきた。住宅難の荒波をかぶった。

 それはポットでの田舎少年が、身一つで日本の高度成長期の荒波を泳ぐ漂流の旅であった。あらゆる生活環境を巡った感がある。それは、まさに日本の成長期の居住環境政策の欠如そのものの荒海であった。都市計画家として自身の身を都市住宅政策のモルモットとして生きてきた感がある。実際に実験的に3年ごとに仕事場別宅を移転して、多様な都市居住を体験していた期間もあった(上記一覧表の⑭~⑰)。

 そんな中でも生活拠点として家族と共に住んだのは、鎌倉郊外)に23年、そして今も継続中の横浜都心⑱、⑲)に今年で23年である。生家に住んだのが19年だったから、今や東男になってしまった。ふりかえるとこれら3つの拠点的な暮らしの場は、どれも共通していることは盆地であることだ。(参照:3つの盆地

 一覧に見るように、わたしはこれまでに一寧以上住んだ住まいは計18件を数えるが、そのうちで家族と住んだのは計8件、単独で住んだのが10件である。この単独住まいの10件は企業所属時代の転勤での大阪単身赴任と、フリーランス時代の東京での仕事別宅である。

 フリーランスの都市計画家となってからは、仕事時間が不規則であるし、仕事先は日本全国各地に出かけた。そのために東京品川区内に小さなオフィスとその近くに寝泊まり別宅として小さな共同住宅を借りた。その別宅は実験的にいろいろな場所とタイプを選んで住んで、都市住宅を身をもって研究した。鎌倉の家から息子たちが巣立ってからは、拠点自宅に戻ったが、更に漂流は続く。

●老いを見据えた横浜都心借家

 これらの数多い居住体験により、わたしは都市住宅について、ひとつの信条を持つようになて来た。それは、都市住宅は土地を個々に所有し個々に建設するのではなく、計画的に共同して作り暮らすべきものとすることである。総有という考えかたがあるが、たぶんそれである。

 それは具体的には、区分所有方式の共同住宅(世間では<名ばかり>マンションという)をさけるばかりか、それに反対するのである。必然的にわたしの住むのは賃貸借型の共同住宅で、しかも公的な所有と運営管理下にある住宅選択となった。
 その理由は数多くあり、このブログに別に「くたばれマンション」)として多くの論を載せて来ているので、そちらに譲る。

 だからいよいよ老いを見据えた時が来た2002年、鎌倉の自己所有の小さな戸建て住宅を出て、おそらく最後になるであろう住み家として選んだのは、共同住宅の借家であった。神奈川県住宅供給公社が所有し賃貸運営している、横浜都心部にある共同住宅ビルの中の住戸を賃借したのであった。

 県公社運営住宅は郊外部も都心部も数多いが、わたしが選んだのは横浜都心部の伊勢佐木町に近くて、都市施設が歩ける範囲に充実している立地にある。病院も診療所も数多く、商業施設も文化施設も多様で数多く、大小の公園も多い。興味ないが野球スタジアムもある。もし生活保護世帯になれば一泊1700円の寿町ドヤ街もある。さすがに横浜都心部である。

 特に病院が多さが予想通りに、大いに役立った。介護施設も数多くあり、それは思いがけなく直面した病妻の長期在宅介護に、この立地が大いに役立った。近隣の専門家たちの訪問による看護、診療、リハビリテーション、入浴などと共に、近隣に立地するデイサービス施設などを、効率的に利用できたのであった。

 その共同住宅規模は3ブロックに3棟が建ち計381戸という大規模であるので、それなりの管理体制が整っている。住戸の規模も1DKから4LDKまで各種ある。2002年から住んできたが昨夏に独り者になったので、それまでの4DK住戸から1LDKに移り、面積も家賃も6割になった。同じ生活環境内での移転は、高齢者には迷いが少ない。
左は2002年から2025年まで住んだ7階の住戸、右は2025年移転後の9階の住戸

 こうしてわたしの人生は、緑の森の中の神社境内から出発して、ビルの森の中の空中陋屋で終わりを告げようとしている。ここにどれほどの期間を今後に暮らすだろうか。現在88歳だから長くはないはずだし、長くここに住む願望もない。だが、幸か不幸かたぶん同年配の男と比べると健康な方であろうから、やむを得ずに長くなるかもしれない。困ったことだ。
 
 世界の情勢はきな臭い。わたしが生まれた88年前は、日本は十五年戦争の真っただ中であった。ところが今、またもや世界戦争になる気配だから、不幸にも人生で2度もの世界戦争経験者になるかもしれない。その前にあの世という「究極の避難地」に移転したいものである。そこは最後の引っ越し先として20番目の住み家になるはずだ。
                (2025/08/11記)

ーーこのブログ内の関連する記事ーー
●まちもり通信サイト「くたばれマンション
●「体験的住宅論」賃貸借都市の時代へ-2000年2月~
 ●【片想いの賃貸住宅政策】住宅供給公社よがんばってくれ 2010/02/28
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伊達美徳=まちもり散人
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