「都橋の当初の図面が横浜市の橋梁課で見つかりました。そのなかに設計者 岡村龍造 名がはいっており、製図 古川末雄とあり、創宇社の同人の中に古川さんも入っておりました」
おお、山口文象作品新発見だ、うれしい。笠井さんは、横浜の復興橋梁や防火建築帯について研究をされていて、これまでいろいろと教えていただいている。
山口文象は関東大震災後の内務省復興局橋梁課で、橋梁の設計に携わっていた。もちろん構造本体の設計ではなくて、高欄、親柱、照明器具などのデザインであるが、橋全体の透視図を描いているから、景観的検討に加わっていたかもしれない。
隅田川の橋梁と御茶ノ水の聖橋は、山口の手になるスケッチパースがある。山口のサインがある橋梁図面は、「八重洲橋」だけを確認しているが、他には見つかっていなかった。
横浜の「都橋」(1927年竣功)と「平岡橋」(帷子川、1926年竣功)の、当時の写真が山口の所蔵していた資料の中にあるから、何らかの関係しているだろうとは思っていた。
ずっとまえに横浜市の都市発展資料館で、復興橋梁の資料はあるかと聞いたことがあるが、戦災で資料はなくなってしまったとて、確かめる方法がなかった。
山口文象が所蔵していた竣功当時の都橋の写真 |
A2版コピー図で、「都橋竣功圖」とタイトルがある図面である。その中の5枚が高欄、燈柱、ランプ(照明器具)の図であり、「設計岡村」とある。
例えばその一枚には、右下に「復興局橋梁課」「技師 成瀬」「照査 成瀬」「設計 岡村」「製図 古川末雄」「大正十五年九月十四日完了」と記入がある。
都橋竣工図のサイン欄 |
横浜市内にある橋であるが、都橋は内務省復興局で施工した。「成瀬」とは復興局土木部橋梁課課長の成瀬勝武のこと。
「岡村」とは当時の山口文象の姓である。図面によって岡村、岡村滝造あるいは岡村瀧造となっているが、本名が「岡村瀧蔵」であったから、このように記していたのだろうか?。それにしても自分のサインを同じときに滝と瀧の使い分けをするものだろうか。
これまでにみた八重洲橋の設計図面のサインは「岡村」であるし、その頃に書いた建築図面が多くあるが、滝造あるいは瀧造なんて見たことがない。岡村ばかりである。
このサインは、その下にある古川末雄が書いたものかもしれない。古川は山口文象たちと一緒に活動した「創宇社建築会」の創設メンバーのひとりである。
でも古川が書いたとしても、なぜ戸籍名の瀧蔵じゃなくて滝造、瀧造なのか、ちょっといいかげんすぎるよなあ。
八重洲橋設計図の山口のサイン |
当時山口文象が住んでいた大井町の家は、創宇社建築会会員たちのたまり場であり、山口の橋梁設計を手伝って欄干や親柱、照明器具の図面書きをしていたと、創宇社建築会メンバーの竹村新太郎から聞いたことがある。
竣工図の製図を古川がやり、もとの設計は山口文象だから岡村のサインであることはおかしくはないにしても、このサインの筆跡が古川と同じだから、古川が自分のサインついでに書いたのだろう。図面の筆跡も、もちろん山口のそれではない。
いずれにしても、都橋が山口文象の設計であることが判明して嬉しい。
山口が描いた原設計図が見つかるともっと嬉しいが、たぶんそれは戦争で焼けてしまったのだろう。
橋梁管理のためには設計図がなくても、竣工図があれば十分だろう。この図面が見つかったのも、都橋を戦後に大修理した時の関連図面として出てきたのだそうである。
今の都橋は戦前の姿ではないから、山口文象デザインは消えている。そのあたりの詳しいことは、笠井さんがよくご存じなので、いずれ発表されるのを期待している。
現在の都橋の親柱、高欄、照明は山口文象デザインではない |
わたしは長年やってきた山口文象追っかけをもうやめたとして、三年前に蒐集資料一切をRIAに寄贈してしまった。
ところが昨年末に、「関口邸茶席」(1934年)の図面発見、そしてその茶席が今年4月から公開されるという連続する偶然が起きて、なにやらまた山口文象虫が騒ぎだしたのが、やっと治まったと思ったら、都橋の図面発見とてまた虫が起きてきた。面白い。
●関連
・山口文象+初期RIAアーカイブス
https://bunzo-ria.blogspot.com/p/buzo-0.html
・山口文象と橋梁
https://bunzo-ria.blogspot.com/p/bridge.html
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