2019/06/07

1404【50年代モダニズム建築再生】(1)神奈川県立近代美術館が鎌倉鶴岡八幡宮ミュージアムに転生した

●身近な二つの有名建築公営文化施設の再生

 今年(2019年)の春、身近にあって親しんできた文化施設二つのリニューアルオープンに出会う機会があった。どちらも戦後早期にできたモダニズム有名建築である。
 ひとつは鎌倉の鶴岡八幡宮境内にある「神奈川県立近代美術館」であり、もうひとつは横浜中区の紅葉が丘にある「神奈川県立音楽堂」である。この音楽堂は県立図書館と同時にできた連携する施設であるが、図書館リニューアルは後回しで音楽堂が先行してオープンした。

 実はどちらの施設もわたしが親しんできた施設で若干の思いいれがあり、その建築、環境、景観そしてそれが生れた頃の社会的背景について考えさせられたので、感想を書いておくことにした。
リニューアルオープンした鎌倉文華館(旧県立美術館鎌倉館)
リニューアルオープンした県立音楽堂
 近代美術館は、40年ほど前から四半世紀を旧鎌倉の東寄りに住んでいたので、美術館のある鶴岡八幡宮境内はしょっちゅう通りぬけており、参道に出ている美術館の展覧会ポスターを見て、ちょくちょくふらりと入ったものだった。

 音楽堂については、2002年に横浜の関外に移り住んだので、近くの紅葉が丘にある横浜能楽堂には趣味の能楽見物によく行くし、県立図書館にも調べものでちょくちょく行くから、それらの隣にある音楽堂や青少年センターホールでの出し物に触れるようになった。
 もっとも、鎌倉に住む前は横浜の日吉に10年ほど住んでいたので、そのころも何度か音楽堂に来た記憶がある。

 美術館(設計:坂倉順三)が1951年、音楽堂(設計:前川國男)が1954年の創設だから、まだまだ日本全体が貧困きわまっていて、文化施設よりも住宅を食物を求める時代であった。1950年頃から復興への歩みが起きようとして来て、そのような殺伐とした時代だからこそ文化が求められる空気も出てきたのであろう。

 当時の神奈川県知事は内山岩太郎であり、内山のリードで文化施設として美術館、音楽堂、図書館を造ったのだった。それにしても、どちらもモダニズムデザインの旗手たる建築家をコンペで選出したのだから、よくもやったものである。そのころはわたしは中学生だったが、あの頃の新たな時代への社会の意気込みが分るような気がする。

●近代美術テーマの美術館

 内山が鎌倉に県立近代美術館を作ったのは、美術展覧会のできる会場が欲しいと言う市民の要請があったからのようだが、まだまだ苦しい時代でありながら、文化復興への息吹がようやく出てきたということだろう。政治家としてそれをとらえて美術館に結実させたところがさすがである。

 しかし、建てたのが県都の横浜市内ではなかったのは、横浜が戦中の大空襲による戦災ダメージに加えて戦後は都心部が占領軍基地になっていたからであろうし、古都の鎌倉にしたのは、鎌倉は戦災に遭わず各界文化人たちも多かったことにあるだろう。
 しかも八幡宮境内という絶好の立地を得たのだった。つづく県立音楽堂の横浜の立地と比べると、その後の現在までの立地環境や景観の変化のあまりの差異に驚くのである。

 美術界のことは知らないが、このとき「近代美術」というテーマを掲げたのは、この美術館企画に深く携わり館長になった土方定一によるものだろう。近代という言葉の持つ前衛性に戦後の文化復興の進路を見出そうとしたのだろうか。あるいは鎌倉の八幡宮境内には「鎌倉国宝館」が既にあったことが、ジャンル分けを明確にさせたのだろうか。

 日本の近代美術館としては倉敷の「大原美術館」(1930年設立)が戦前から有名である。企業家大原孫三郎によるいわゆる泰西名画のコレクションによる私設美術館である。
大原美術館遠望 2011
近代美術に限ってはいないが、その充実がすごい。
 わたしは少年時代を過ごした街が倉敷に近いのでなんどか行ったことがあり、その展示されている名画の数多くを記憶にある。近年に六本木の国立ギャラリーにそれらの多く名画がやってきて「大原美術館コレクション展」があり、懐かしく思い出しつつルノアールやセザンヌを見たのだった。

 考えてみれば、わたしが倉敷でそれを見た頃は、鎌倉の近代美術館が生れた頃のまさに戦後貧困期であった。そしてそれら美術が中学生の心に深く刻みこまれて、なにほどかは後に建築デザインの世界へと向かわせたかもしれないから、この県立近代美術館も都会の少年たちを文化へと目覚めさせたことだろう。

 ところで、いまでこそ近代美術館を名乗るものは多いが、そのころは日本では皆無だっただろう。そして鎌倉の県立近代美術館は、近代美術を掲げた公立美術館としては日本あるいは戦後で最初であったと書いている資料を散見する。例えば「神奈川県立近代美術館」サイト「日経アーキテクチュア1978年8月7日号」、「鎌倉文華館」サイトであるが、わたしの知見では実はこれは正しくないはずである。

 高松市の栗林公園内にあった「高松近代美術館(山口文象設計、後に高松市立美術館)は、1949年に高松市立の近代美術館として開館している。わたしは1978年に訪ねたことがあるが、鎌倉の近代美術館に負けないモダンデザインだったが、大名庭園の中で異彩をはなっていた。
高松近代美術館 1978
これを近代美術館としたのは、この美術館の企画者だった猪熊弦一郎によるものだろうし、山口文象に設計させたのも猪熊の推薦であったとは、わたしが猪熊から直接に聞いたことがある。
 1988年に閉館して市内の別のところに移転した。建築は今は無いが、設計図面はRIAが保管している。山口は次の年の久が原教会を発表して戦後復帰を果たしたのに、この戦後最初の作品とも言うべき高松近代美術館を発表しないままだったのは、なぜだろうか。

近代美術館は八幡宮ミュージアムに

 ところで、この美術館と音楽堂という二つの文化施設の今回のリニューアルオープンで興味深いのは、施設にも運営にも大きな差異が起きたことだ。音楽堂は県立のままだが、美術館は民営になり中身も変わった。
 鎌倉の美術館は「鎌倉文華館・鶴岡ミュージアム」と名を変えて、鶴岡八幡宮が所有して運営、神奈川県は撤退して県立近代美術館の看板を下ろしてしまった。
県が八幡宮から境内地の一部の土地を賃借していたのだが、その賃貸借契約期限が切れて延長ができなかったのがその理由であるという。八幡宮が跡地利用を考えて土地の返却を求めたらしい。

 もっとも、県立美術館は分館が近くにあって継続するし、葉山にもあるから消滅はしないのだが、今の八幡宮境内立地よりも交通不便であり、わたしは鎌倉別館には数回、葉山館には1回訪れたのみである。
 さて八幡宮はどのようなミュージアムにするであろうか。宗教活動の場なのか、それとも純粋に美術館経営をするのだろうか。先般の見学に行ったときに、施設管理者たちの衣装が白衣と水色袴であったのが、いかにも八幡宮施設となったことを認識させた。
鎌倉文華館の鶴岡八幡宮参道からのメインアプローチ

●建築の復元保全について

 当初は八幡宮としては新しい施設を建てなおすつもりがあったようだが、長年親しまれた池に臨む美しい内外の風景とともに戦後名建築の消滅を惜しんだ市民たちの要望があったようだ。
 八幡宮は市民の要望に対応して、美術館建築の本館部分を残して復元的リニューアル、新館は取り壊し、付属棟は建て直して、新ミュージアムとして再登場させたのである。

 これをどう評価するか。景観保全としては成功だろうが、建築保全としてはどうだろうか。わたしはなんでもかんでも当初に復元保全という保存原理主義には同調できないが、ここではどこまで原理主義的であるのだろうか。
 モダニズムデザインとして印象的な本館は、できるだけ復元設計されたとのことであり、池からの景観は美しく、ピロティからの池の眺めも楽しい。


元の設計のもっとも目立つ真っ白い立面の外壁面は、スレートボードを目地押さえ金物でつなぐといういかにもチープなものであった。これをリニューアルでをどうするのか気になっていて、今どきの設計ならば新館に使ってあったホーロー鉄板を使って目地押さえ金物など使わないだろうと思っていたが、原設計のままにチープさと共にリニューアル復元されていて、それなりに美しくなっていた。
 なおリニューアル設計は丹青社であるが、なぜ坂倉建築事務所ではないのだろうか。

 建築復元としてはともかくだが、最も大きな改変はメインアクセスを八幡宮参道側にしたことだろう。あの大階段が招き入れる機能がほぼ死んでしまったのがもったいない。この大階段を上手に使う展示やイベントがなされることを期待する。
 だが、考えてみると、実質的には入館者のほとんどが参道側から入るだろうから、これが正しくて元の設計が間違っていたといってよいだろうが、なんだか引っ掛かる。
元の正面玄関が裏玄関になった鎌倉文華館
近代美術館だった頃の正面入り口風景 2009年
 県立時代には中庭や外構のあちこちに彫刻作品がおかれていたのが、いまは何もない芝生やペーブになっているのが、何だかさびしい。もとのままに置いておくことはできなかったのか。そのうちに何かがおかれるのだろうか。
かつて県立美術館であった記憶の風景は、建築だけがあればそれでよいのだろうか。わたしの頭には建築と彫刻とが一体になった風景が記憶に刻まれている。
 
●完全消滅した新館

 新館がすっかり取り壊されて、メインアクセスルートの芝生の下に消えた。これは池との関係で悪くない景観ではあるが、新館が影も形もないのが気になる。
左に本館、右に新館があった旧県立近代美術館 2009年
本館と新館の間に池が入り込んでいた 2009年
 新館はいつのころからだったか、建築構造上の問題が起きたとて使用禁止になっていた。それを聞いてわたしが訪ねたのは2009年夏だったが、なるほどあちこちの鉄骨の柱の根元がボロボロに錆びていて、フランジに穴さえ開いていた。
 この鉄骨は耐候性鋼と言われ、錆が被覆となってメンテナンス不要が売り物の新材料だったはずである。わたしも1970年頃にこの鉄骨を使うオフィスビルに関わったが、それは今も健在であるから、ここの鋼材は不良品だったのか。
旧近代美術館時代の新館 右が本館 2009年
コルテン鋼柱の根元の穴空き腐食 2009年
 この増築は最初から予定されていて、開館は1966年だから晩年の坂倉順三(1901-1969)の設計になるそうだ。わたしはこの新館の吹き抜け展示空間を大好きだった。大きな絵を見ることができるし、大ガラス越しの外の池の景色もよかった。
できればこちらも復元してほしかったが、消えたのはどうしてだろうか。そういえば鎌倉文華館の開館記念展示には、本館のことは詳しかったが、新館については全く何もなかったのは、どういうわけだろうか。

 附属棟の跡地の三角屋根展示場も悪くないけれど、復元新館をそれに充てることできなかったのだろうか。せめて、芝生アプローチの中にあのボロボロ鉄骨柱数本を元の位置に建てると野外アートにもなるし、この美術館の変転史を伝えることができるとも思うのだが、記憶に残る建築であっただけに、惜しいことだ。

変わらなかった環境

 さて全体的に見て、これも建築保全としての一つの回答だろうが、建築復元にこだわり過ぎて、どこかつまらないのである。要するに創造的なところがどこにもないのである。
 もちろん元の設計が、小さな建築なのに大きな階段、広い中庭、気持ちよいピロティ、そして何よりも八幡宮境内の環境が素晴らしく、結果は実に良いのだ。森の泉のほとりの宝石箱である

 ただ、これはずっと前から気にくわなかったのだが、あの水と緑の立地環境のなかで、内外相互貫入する建築空間を、一連の連続する空間として体験ができないことである。
 建築に入る段階で入場料を支払う人為的なバリアーがあることで、連続すべき動線が切れてしまうのであるのが、実にもったいない。
 池を巡る道がピロティに連続するようにしてほしい。ピロティや中庭は外扱いにして入場料をとらない、あるいは参道からの敷地入り口で入場料をとればよいのに、と思う。

 創造的なところがあるとすれが、付属棟跡の新展示施設であろうか、あるいは逆説的だが新館の消滅による空間デザインが創造的と言えば言えるだろうが、建築空間としては復元にとらわれているところが、どうも、いじましいのである。
 昔のもとの姿に復元せよと言う、建築保存原理主義者の言い分にに負けたのだろうが、それを一歩踏み出すと新たな創造的空間が生まれるだろうに、惜しいことである。
 最初にコンペで坂倉を起用したように、再生設計コンペにすればよかったかもしれない。これはないものねだりだろうか。いや、坂倉を越えるのは無理か。

 建築的なことはともかくとして、ここでもっともすごいと思うのは、この立地環境がこれが建った1951年からほとんど変化していないということである。後述するが県立音楽堂の立地する横浜紅葉が丘が、都市開発圧力による結果として景観が大変化したことと比べると、こちら鎌倉のほとんど変化しないことに驚く。

 もちろん鎌倉にも開発圧力は高いのだが、都市計画としては八幡宮境内は市街化調整区域であるし、まわりも含めて古都法や景観法などで環境と景観の保全施策があるし、それよりもなにりも市民に環境保全思想が行き渡っていて、開発となるともめごとになるからだろう。
1956年の鶴岡八幡宮あたりの空中写真
2018年の鶴岡八幡宮あたりの鎌倉空中写真
1990年の近代美術館と鎌倉八幡宮周辺景観
 そういえば、1964年に起きたいわゆる「御谷(おやつ)騒動」といわれる鎌倉八幡宮裏山宅地開発反対運動のときに、この美術館を作った内山知事は、開発行政をつかさどる長の立場にありながら、政治家として開発反対に動いたことで開発は止り、1966年に古都法を生み歴史的環境保全へと歩むようになったのであった。
 
今回の美術館のリニューアルで、建築・環境・景観は1951年時点に復元したことになるのかもしれない。ただしハードウェアはそうだが、公立から離れて宗教法人活動の場となって、ソフトウェアとしては原点復元ではない。
 いや、そうではない、もともとが宗教法人の敷地内だから、宗教活動のできない異物だった公立施設の排除で、むしろこうなってこそが原点復元と言うべきだろう。なかなかに稀有な興味深い事例である。

(次の県立音楽堂の記事につづく

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