横浜港が幕末に開港した当時(1859年)のもっとも古い近代港の位置は、黒船でやってきたぺリーの上陸地点である。近代港湾として徐々に整備をして行くが、明治初期に作った防波堤は、その形から象の鼻とよばれる。
今の横浜港は現代的なコンテナ埠頭が他に作られていて、象の鼻の中は小船のたまりになっているが、この周辺を整備して歴史的港湾の公園とする整備工事が、横浜市によって行われている。
日本大通から直接には入れるように元税関の倉庫群を取り除いて、公園整備のための掘削を始めたら、線路が出てきた。
調べてみたら、20世紀初頭頃の荷役用の人力トロッコの線路であることがわかったというのである。左側見学に行った。
丸い転車台、つまりトロッコの向きを変えるための1台分のターンテーブルがあちこちにある。
この線路の方式は、人力で押す労力を最小にするために原則として線路はまっすぐに敷いて、方向を変えるときは、この転車台で必要な角度に方向を変えて、その方向の線路にまた載せて進める仕掛けである。
線路はたくさんの倉庫や桟橋を結ぶ多方向にあるので、そのたくさんの結節点ごとに転車台を設けていいる。煩瑣なようだが、その時代の技術をなるほどと思わせる。
まだ完成していないが、この公園から見る港の風景はいかにも港らしい。
◆横浜ご近所探検隊が行く<「伊達の眼鏡」ブログ連載中>
2008/10/22
2008/10/21
053【横浜ご近所探検)郊外スプロール風景に画像でちょっと手を入れてみた
2008/10/20
052【横浜ご近所探検】横浜一番の繁華街だった伊勢佐木町からとうとう百貨店がなくなった
横浜の伝統ある都心商業地・伊勢佐木町にある百貨店「松坂屋」が、2008年10月26日に閉店する。横浜駅前の三越が一昨年だったかに閉店したから、横浜の都心の百貨店は高島屋、そごうだけで、どちらも横浜駅前である。
横浜松坂屋はその前身は「野沢屋」といって、生糸商から始まる横浜地元資本の伝統のある百貨店だったが、30年位前だったか横井英樹が株買占めで登場してごたごたの末にいろいろあって松坂屋となっていた。
横井英樹といえば、東京日本橋の白木屋百貨店(石本喜久治設計・1926年)にも登場して、ごたごたの末に東急百貨店になってしまい、それも閉店(2000年)した後に今は外資による新ビルとなっている。
関内、関外という横浜の伝統的と商業的停滞とみるのか、それとももう百貨店の時代ではなくなったということなのか。わたしはむしろ後者だと思う。
わたしの横浜ご近所探検のコースでもあり、買い物はほとんどしないが4階にある郵便局にちょくちょくいく。
いつ行ってもガラガラで店員のほうが多い。よくやっていけるものだと思ってはいたが、本当に閉店となると残念な気もする。
戦前の様式建築なので、建物の表の顔は凝っている。建築保存運動がおきつつある。ただし、建物としてはつぎはぎつぎはぎで建てて来ているから、プランは悪いし、不等沈下しているし、耐震性もよくないとあって、多分、持ち主は建て直したいに決まっている。
今の持ち主が建て直すならば、この建物の姿に愛着があるかもしれないから、なんらかの表顔だけでも継承した伸建物にするかもしれないと期待もしたくなる。
この土地建物をそっくり他の企業、たとえばファンドとか不動産デベロッパーとかに売ってしまったら、通常はそうはいかない。保存なんて儲からない面倒なことはお断り、ってことになる可能性が高い。
建築デザインとしては二流だが、戦前の建物は珍しいし長く市民に親しまれたから保存したいのも分かる。だが、保存運動はどのような戦略があるだろうか。
わたしが思うには、最も効果的な保存運動は、毎日買い物に行くことである。
この数日間は閉店セールの安売りをやっているらしく、店内にはものすごく大勢の客があふれている。いつもと大違いである。いつもこれほどの客が来るなら、廃業はしないで続けられるだろうから、当然に建物も保全されていくだろう。
建物保存も地方の鉄道線の保存と同じようなことで、へいぜい利用しないでいて、廃止になったとたんにただただ保存をしてほしいといっても、それは無理というものだろう。
もしもなんらかの保存をされるとしても、うまくいっても今の表の壁の一部を新らしい建物の一部に取り付けてお茶を濁すくらいかもしれない。もっとうまく行けば、今の半分くらいはどこかに再現するだろう。
ファサードだけでも良いからきちんと保存するなら、なにか行政からインセンティブを与えるとしても、容積率の上乗せしかないだろうが、そうすれば超高層建築になるだろう。この街並みの中で超高層建築が果たしてどうなのか。
床の使い方としても分譲共同住宅が一番可能性が高いだろうが、それはわたしの主義としては全くいただけない。公的賃貸住宅ならまだ良いが、。
横浜松坂屋はその前身は「野沢屋」といって、生糸商から始まる横浜地元資本の伝統のある百貨店だったが、30年位前だったか横井英樹が株買占めで登場してごたごたの末にいろいろあって松坂屋となっていた。
横井英樹といえば、東京日本橋の白木屋百貨店(石本喜久治設計・1926年)にも登場して、ごたごたの末に東急百貨店になってしまい、それも閉店(2000年)した後に今は外資による新ビルとなっている。
関内、関外という横浜の伝統的と商業的停滞とみるのか、それとももう百貨店の時代ではなくなったということなのか。わたしはむしろ後者だと思う。
わたしの横浜ご近所探検のコースでもあり、買い物はほとんどしないが4階にある郵便局にちょくちょくいく。
いつ行ってもガラガラで店員のほうが多い。よくやっていけるものだと思ってはいたが、本当に閉店となると残念な気もする。
戦前の様式建築なので、建物の表の顔は凝っている。建築保存運動がおきつつある。ただし、建物としてはつぎはぎつぎはぎで建てて来ているから、プランは悪いし、不等沈下しているし、耐震性もよくないとあって、多分、持ち主は建て直したいに決まっている。
今の持ち主が建て直すならば、この建物の姿に愛着があるかもしれないから、なんらかの表顔だけでも継承した伸建物にするかもしれないと期待もしたくなる。
この土地建物をそっくり他の企業、たとえばファンドとか不動産デベロッパーとかに売ってしまったら、通常はそうはいかない。保存なんて儲からない面倒なことはお断り、ってことになる可能性が高い。
建築デザインとしては二流だが、戦前の建物は珍しいし長く市民に親しまれたから保存したいのも分かる。だが、保存運動はどのような戦略があるだろうか。
わたしが思うには、最も効果的な保存運動は、毎日買い物に行くことである。
この数日間は閉店セールの安売りをやっているらしく、店内にはものすごく大勢の客があふれている。いつもと大違いである。いつもこれほどの客が来るなら、廃業はしないで続けられるだろうから、当然に建物も保全されていくだろう。
建物保存も地方の鉄道線の保存と同じようなことで、へいぜい利用しないでいて、廃止になったとたんにただただ保存をしてほしいといっても、それは無理というものだろう。
もしもなんらかの保存をされるとしても、うまくいっても今の表の壁の一部を新らしい建物の一部に取り付けてお茶を濁すくらいかもしれない。もっとうまく行けば、今の半分くらいはどこかに再現するだろう。
ファサードだけでも良いからきちんと保存するなら、なにか行政からインセンティブを与えるとしても、容積率の上乗せしかないだろうが、そうすれば超高層建築になるだろう。この街並みの中で超高層建築が果たしてどうなのか。
床の使い方としても分譲共同住宅が一番可能性が高いだろうが、それはわたしの主義としては全くいただけない。公的賃貸住宅ならまだ良いが、。
2008/10/16
051【法末の四季】棚田でコシヒカリをつくる稲作遊びはななか難しいけど面白い
このブログの9月30日の記事に、法末集落の棚田での稲刈りのことを書いた。あれから2週間、ハサ掛けした稲穂が乾いた頃とて、仲間と一緒にハサからおろして脱穀をした。
脱穀は昔流を貫徹させるならば、稲コキで手でしごかなければならないが、さすがにそこまではやらない。田の持ちのTさんが操作してくださるコンバインを使っての機械式である。
ハサ掛けのそばにコンバインをつけて脱穀作業開始、ハサ掛けした稲束をはずしては次々に運んでコンバインに入れると、もうもうとした藁埃と稲藁束が排出され、籾は袋に入る。
脱穀しても稲藁にたくさんの穂が残る問題があり、それを再度抜き取ってコンバインにかける手間があった。
それは稲束の穂先がそろっていないからである。来年は稲刈りのときに穂を揃えるよう注意して短く刈るようにしよう。
藁ホコリまみれになりながら、機械に追われて休みなく3時間ほどの労働で、新潟コシヒカリの籾は合計17.5袋、約500kgを得て、米も稲藁束も今年は豊作だった。
ところが、さて脱穀して籾はできたが、今年の籾は乾燥不足で水分が多すぎることが分かった。乾燥がよくないと梅雨時にカビの原因となる。
これでは機械乾燥をする必要がある、Mさん所有の乾燥機で引き受けてくださることになり、その作業場に籾を持ち込んだ。
現在の籾の水分は18.3パーセント、これを理想的な15.4パーセントまでに涼風でゆっくりと乾燥することとし、それは明日までかかる。その上で、後日に精米機にかけることになった。
一昨年も昨年も除草剤は入れず、機械は脱穀コンバインだけだったが、今年は除草剤を入れ、機械は稲刈りバインダー、脱穀コンバイン、乾燥機を使い、3年目にして農遊から農業に近づく気配がしてきた。
ということで、いまだに新米の飯にありつけていない。
なにしろ一年がかりの作業だから、1~2週間ぐらいずれてもどうということもない、、と思ったのだが、考えてみるとそれは大きな問題がある。
売っているのではないから、マイペースで適当にやりたいと思うのだが、季節がこちらの都合に関係なく、雨・風・気温・水温などで農作業を待ったなし、あるいは延長、延期を要求してくるので、従わざるを得ない。
機械を使うとなると、こちらは全く所有していないから、地元の農家の方たちに頼らざるを得ない。そうなるとその機械の稼動工程に合わせなければならない。
稲作の農作業は勝手な遊びでやっているのではできないのだと、3年目にして分かってきたのである。
実際のところ、田起こし、水管理、農用機械使用、作業のタイミング指導などなど、集落の人たちの支えがあるから作っていられるのだってことを、わすれないようにしなけば、、。
参照→法末の四季物語
脱穀は昔流を貫徹させるならば、稲コキで手でしごかなければならないが、さすがにそこまではやらない。田の持ちのTさんが操作してくださるコンバインを使っての機械式である。
ハサ掛けのそばにコンバインをつけて脱穀作業開始、ハサ掛けした稲束をはずしては次々に運んでコンバインに入れると、もうもうとした藁埃と稲藁束が排出され、籾は袋に入る。
脱穀しても稲藁にたくさんの穂が残る問題があり、それを再度抜き取ってコンバインにかける手間があった。
それは稲束の穂先がそろっていないからである。来年は稲刈りのときに穂を揃えるよう注意して短く刈るようにしよう。
藁ホコリまみれになりながら、機械に追われて休みなく3時間ほどの労働で、新潟コシヒカリの籾は合計17.5袋、約500kgを得て、米も稲藁束も今年は豊作だった。
ところが、さて脱穀して籾はできたが、今年の籾は乾燥不足で水分が多すぎることが分かった。乾燥がよくないと梅雨時にカビの原因となる。
これでは機械乾燥をする必要がある、Mさん所有の乾燥機で引き受けてくださることになり、その作業場に籾を持ち込んだ。
現在の籾の水分は18.3パーセント、これを理想的な15.4パーセントまでに涼風でゆっくりと乾燥することとし、それは明日までかかる。その上で、後日に精米機にかけることになった。
一昨年も昨年も除草剤は入れず、機械は脱穀コンバインだけだったが、今年は除草剤を入れ、機械は稲刈りバインダー、脱穀コンバイン、乾燥機を使い、3年目にして農遊から農業に近づく気配がしてきた。
ということで、いまだに新米の飯にありつけていない。
なにしろ一年がかりの作業だから、1~2週間ぐらいずれてもどうということもない、、と思ったのだが、考えてみるとそれは大きな問題がある。
売っているのではないから、マイペースで適当にやりたいと思うのだが、季節がこちらの都合に関係なく、雨・風・気温・水温などで農作業を待ったなし、あるいは延長、延期を要求してくるので、従わざるを得ない。
機械を使うとなると、こちらは全く所有していないから、地元の農家の方たちに頼らざるを得ない。そうなるとその機械の稼動工程に合わせなければならない。
稲作の農作業は勝手な遊びでやっているのではできないのだと、3年目にして分かってきたのである。
実際のところ、田起こし、水管理、農用機械使用、作業のタイミング指導などなど、集落の人たちの支えがあるから作っていられるのだってことを、わすれないようにしなけば、、。
参照→法末の四季物語
2008/10/09
050【能楽鑑賞】能「摂待」をみて「安宅」と比較すると面白いと思った
この10月5日の観世会秋の別会は、「摂待」という珍しい演目があった。能の解説本にもないし、印刷物の謡曲全集にも載っていない。
「安宅」と同じように、義経が弁慶たちと12人の山伏姿に変装して、奥州平泉に落ち延びる途中の出来事であるが、史実とは異なるらしい。
「安宅」では、安宅の関所で不審尋問され、弁慶が機転を利かせて主人義経を棒で滅多打ちして主従でない証拠と見せかけることで、義経一行と見破られずにようやく関守から解放される。もっとも芝居の勧進帳では、関守が知っていて逃がしたとしているようだが、。
ところが「摂待」では簡単に見破られて、白状してしまうのである。
義経一行は、落ち延びる途中に福島あたりの民家で行きずりの山伏をもてなす接待の席を訪れる。
そこで接待役の老婆(シテ:野村四郎)とその孫(子方:小早川康充)に、弁慶(ワキ:宝生閑)も義経(山階弥右衛門)も供の者も見破られてしまうのである。
官製の安宅の関所はいい加減だが、こちらの私設関所のほうが厳しいのである。
「安宅」の弁慶は武士を相手に強いのに、「摂待」では女・子ども相手にまことに弱いのである。
この弱さの原因は、実は義経はこの老婆と孫に借りがあるからだ。
老婆の息子つまり孫の父親は義経の家来の武将であったが、八島の戦で義経の身代わりに立って矢に射られて死んだのである。
老婆は、義経たちがこのあたりを通って逃げてくると聞いて、道端に山伏接待所と掲げて誘い込む算段をして、義経たちを待ち受けていたのである。
弁慶はものの見事にこれに引っかかった。
待ち受けるのは「安宅」と同じであるが、こちらでは見事につかまえて正体を暴き、子を返せ、父を帰せと義経に詰め寄るのである。
が、いかんせん、頼朝に戦犯にされて追われ逃走中の義経は、彼らに何の補償することもできない。ただ悲しいと嘆くばかりのだらしなさである。
親子の愛、親への孝、主への忠、敵への仇、これらの間で苦悩するという古典的な仕掛けであるが、「安宅」が忠をテーマにしているのに対して、「摂待」は忠よりも愛を主題にしている。
子を殺された母親が犯人である領主に子を返せと迫る「藤戸」にも似ている。藤戸では母親は補償を受け問い、供養をして仏教的な救いにエンディングを納める。
ところがこの「摂待」のエンディングはちょっと意表をつく。
子が突然に、親の敵(かたき)を探すために義経たち山伏一行について行く、と言い出すのである。
親の敵はすでに屋島で討ったと教えられているのに、そう言い出すのは幼少だから聞き分けないのだといえば、そのままだが、これはもしかして本当の敵は義経だと知ったからかも知れない。
いい所に旅に出て、義経を討とうと決心したのだろう。忠より孝である。
一同あわててなだめすかして、逃げるように出て行くのであった。
「安宅」では、大勢の山伏たちがすわや戦いかとばかりに緊張感を盛り上げる集団演技があるが、「摂待」では全員がほとんど座ったままで、舞台に壁をつくっているばかりある。
シテは悲しみの口説きばかりだが、ワキは戦の場面を朗々かつ切々と語って、シテよりも演技どころがある。
また子方もかなりのせりふと演技があり、この「摂待」はシテよりもワキと子方に負うところの多い演目であり、その点でも珍しい。
舞もなくて名優野村四郎でも、老母の悲哀だけの演技では、こちらがついつい期待するその華麗さがないが、どこか立ち居に足弱な感じがしたのは老いの演技だろうか。
この別会では、ほかに「栗焼」(野村万作、野村万之介)、「江口」(木月孚行)、「道成寺」(岡久広)があった。
「道成寺」の間(アイ)に野村萬斎がいて、「摂待」の山伏に野村昌司がいたから、野村家3兄弟とその息子たち合わせて5人の出演であった。
万之介は野村4兄弟の末っ子なのに、久しぶりに見た顔は一番の老けだった。大病が癒えないのか。
萬斎も顔色が悪いが、もしかして忙しすぎるのか。売れっ子になっても能楽堂に本職できちんと出演するのがエライ。
参照→能楽師野村四郎師
→わたしの能楽入門
「安宅」と同じように、義経が弁慶たちと12人の山伏姿に変装して、奥州平泉に落ち延びる途中の出来事であるが、史実とは異なるらしい。
「安宅」では、安宅の関所で不審尋問され、弁慶が機転を利かせて主人義経を棒で滅多打ちして主従でない証拠と見せかけることで、義経一行と見破られずにようやく関守から解放される。もっとも芝居の勧進帳では、関守が知っていて逃がしたとしているようだが、。
ところが「摂待」では簡単に見破られて、白状してしまうのである。
義経一行は、落ち延びる途中に福島あたりの民家で行きずりの山伏をもてなす接待の席を訪れる。
そこで接待役の老婆(シテ:野村四郎)とその孫(子方:小早川康充)に、弁慶(ワキ:宝生閑)も義経(山階弥右衛門)も供の者も見破られてしまうのである。
官製の安宅の関所はいい加減だが、こちらの私設関所のほうが厳しいのである。
「安宅」の弁慶は武士を相手に強いのに、「摂待」では女・子ども相手にまことに弱いのである。
この弱さの原因は、実は義経はこの老婆と孫に借りがあるからだ。
老婆の息子つまり孫の父親は義経の家来の武将であったが、八島の戦で義経の身代わりに立って矢に射られて死んだのである。
老婆は、義経たちがこのあたりを通って逃げてくると聞いて、道端に山伏接待所と掲げて誘い込む算段をして、義経たちを待ち受けていたのである。
弁慶はものの見事にこれに引っかかった。
待ち受けるのは「安宅」と同じであるが、こちらでは見事につかまえて正体を暴き、子を返せ、父を帰せと義経に詰め寄るのである。
が、いかんせん、頼朝に戦犯にされて追われ逃走中の義経は、彼らに何の補償することもできない。ただ悲しいと嘆くばかりのだらしなさである。
親子の愛、親への孝、主への忠、敵への仇、これらの間で苦悩するという古典的な仕掛けであるが、「安宅」が忠をテーマにしているのに対して、「摂待」は忠よりも愛を主題にしている。
子を殺された母親が犯人である領主に子を返せと迫る「藤戸」にも似ている。藤戸では母親は補償を受け問い、供養をして仏教的な救いにエンディングを納める。
ところがこの「摂待」のエンディングはちょっと意表をつく。
子が突然に、親の敵(かたき)を探すために義経たち山伏一行について行く、と言い出すのである。
親の敵はすでに屋島で討ったと教えられているのに、そう言い出すのは幼少だから聞き分けないのだといえば、そのままだが、これはもしかして本当の敵は義経だと知ったからかも知れない。
いい所に旅に出て、義経を討とうと決心したのだろう。忠より孝である。
一同あわててなだめすかして、逃げるように出て行くのであった。
「安宅」では、大勢の山伏たちがすわや戦いかとばかりに緊張感を盛り上げる集団演技があるが、「摂待」では全員がほとんど座ったままで、舞台に壁をつくっているばかりある。
シテは悲しみの口説きばかりだが、ワキは戦の場面を朗々かつ切々と語って、シテよりも演技どころがある。
また子方もかなりのせりふと演技があり、この「摂待」はシテよりもワキと子方に負うところの多い演目であり、その点でも珍しい。
舞もなくて名優野村四郎でも、老母の悲哀だけの演技では、こちらがついつい期待するその華麗さがないが、どこか立ち居に足弱な感じがしたのは老いの演技だろうか。
この別会では、ほかに「栗焼」(野村万作、野村万之介)、「江口」(木月孚行)、「道成寺」(岡久広)があった。
「道成寺」の間(アイ)に野村萬斎がいて、「摂待」の山伏に野村昌司がいたから、野村家3兄弟とその息子たち合わせて5人の出演であった。
万之介は野村4兄弟の末っ子なのに、久しぶりに見た顔は一番の老けだった。大病が癒えないのか。
萬斎も顔色が悪いが、もしかして忙しすぎるのか。売れっ子になっても能楽堂に本職できちんと出演するのがエライ。
参照→能楽師野村四郎師
→わたしの能楽入門
2008/10/03
049【モノづくりとまちづくり】めがねとアメリカ大統領選挙
自分が今の世界の話題の人のかけるめがねと同じデザイナーによるめがねを着けていると、今日はじめて知った。
アメリカ大統領選挙でペイリンアラスカ州知事が共和党副大統領候補で登場して、何かと話題になっているが、日本でも話題になっていて、それが全く政治的話題ではなくて、彼女のかけているめがねが日本製だから、という新聞記事を今朝読んだ。
日本のめがねといえば福井県産(特に鯖江)に決まっているが、彼女の眼鏡はその増永眼鏡製の川﨑和男デザインだそうだ。
1991年の湾岸戦争を指揮していたアメリカのパウエル国務長官が、増永眼鏡製・川﨑和男デザインの縁なしめがねをかけていた。実はそれが、私のかけている今のめがねと同じデザインだった。
私が遠近乱視めがねをかけだしたのは40台の半ばからだが、壊したり合わなくなったりしていくつかけ替えただろうか。この8年くらいは、今の川﨑和男デザインのふちなし眼鏡をかけて、度の合わなくなったレンズを1回換えただけで使いとおしている。
その前にもふちなし眼鏡を使っていたが、弦と玉の付け根で壊れる連続だった。
ペイリンやパウエルのほかにも、アメリカ政界の人が川﨑デザインめがねをかけていると、今朝の新聞に書いてあったから、あちらで流行なのだろうか。
それとも、品質がよくて高価な眼鏡を選ぶと、福井の産地の物になるという自然の成り行きなのか。それならめでたいことである。
増永といえば、増永五左衛門という人が20世紀初めに、福井県の鯖江と福井の間にある麻生津村(現在は福井市内)に、めがね弦を作る産業を起こしたのだ。それがいまや鯖江といえば、めがね弦生産は日本の9割を越す産地となったのである
。
と、宣伝するのは、これまで15年くらいの間、私は鯖江市に通って産業政策と都市政策を融合するまちづくりを手伝っていた経緯があるからだ。めがね、越前漆器、繊維が鯖江の3大産業である。
鯖江の眼鏡が生産日本1と威張ってても、実は鯖江に行ったら良い眼鏡を安く求めることができるか、私だけのデザインの眼鏡をすばやく作ってくれるか、と期待しても、そうはいかないのである。長い間に組み立ててきた生産と流通の仕組みが、そうなっていないのである。
それをそうはいくようにしたい、生産する力は十分にあるので、デザイン力と販売力をつけて、産地の地域で売るように、眼鏡を買いに来てくれる観光の力もつけよう、まちづくり全体として取り組もう、というのが狙いであったが、諸般の事情であまりうまくいっていない。
でも、こうやって“外圧”が宣伝してくれると、外圧に弱い日本では、もしかしたらなにかが起きるかもしれないと期待している。
中国製の安物眼鏡ばかりがもてはやされる今の時代に、海外からの逆宣伝で日本人が日本製品を見直すのは情けなくもあるが、この機会を生かすのもよいだろう。
日本でも選挙騒ぎのようなことがあったけど、あ、これからもあるか、でも、ファッショナブルなお話は出てきませんな。 そのかわり、日教組をぶっつぶすなんて大臣が言うファッショな話題ならあるよなあ。
→参考ページ・鯖江ファッションタウンへの提言(2002)
・もの・まちづくり運動と都市の再生(2005)
アメリカ大統領選挙でペイリンアラスカ州知事が共和党副大統領候補で登場して、何かと話題になっているが、日本でも話題になっていて、それが全く政治的話題ではなくて、彼女のかけているめがねが日本製だから、という新聞記事を今朝読んだ。
日本のめがねといえば福井県産(特に鯖江)に決まっているが、彼女の眼鏡はその増永眼鏡製の川﨑和男デザインだそうだ。
1991年の湾岸戦争を指揮していたアメリカのパウエル国務長官が、増永眼鏡製・川﨑和男デザインの縁なしめがねをかけていた。実はそれが、私のかけている今のめがねと同じデザインだった。
私が遠近乱視めがねをかけだしたのは40台の半ばからだが、壊したり合わなくなったりしていくつかけ替えただろうか。この8年くらいは、今の川﨑和男デザインのふちなし眼鏡をかけて、度の合わなくなったレンズを1回換えただけで使いとおしている。
その前にもふちなし眼鏡を使っていたが、弦と玉の付け根で壊れる連続だった。
ペイリンやパウエルのほかにも、アメリカ政界の人が川﨑デザインめがねをかけていると、今朝の新聞に書いてあったから、あちらで流行なのだろうか。
それとも、品質がよくて高価な眼鏡を選ぶと、福井の産地の物になるという自然の成り行きなのか。それならめでたいことである。
増永といえば、増永五左衛門という人が20世紀初めに、福井県の鯖江と福井の間にある麻生津村(現在は福井市内)に、めがね弦を作る産業を起こしたのだ。それがいまや鯖江といえば、めがね弦生産は日本の9割を越す産地となったのである
。
と、宣伝するのは、これまで15年くらいの間、私は鯖江市に通って産業政策と都市政策を融合するまちづくりを手伝っていた経緯があるからだ。めがね、越前漆器、繊維が鯖江の3大産業である。
鯖江の眼鏡が生産日本1と威張ってても、実は鯖江に行ったら良い眼鏡を安く求めることができるか、私だけのデザインの眼鏡をすばやく作ってくれるか、と期待しても、そうはいかないのである。長い間に組み立ててきた生産と流通の仕組みが、そうなっていないのである。
それをそうはいくようにしたい、生産する力は十分にあるので、デザイン力と販売力をつけて、産地の地域で売るように、眼鏡を買いに来てくれる観光の力もつけよう、まちづくり全体として取り組もう、というのが狙いであったが、諸般の事情であまりうまくいっていない。
でも、こうやって“外圧”が宣伝してくれると、外圧に弱い日本では、もしかしたらなにかが起きるかもしれないと期待している。
中国製の安物眼鏡ばかりがもてはやされる今の時代に、海外からの逆宣伝で日本人が日本製品を見直すのは情けなくもあるが、この機会を生かすのもよいだろう。
日本でも選挙騒ぎのようなことがあったけど、あ、これからもあるか、でも、ファッショナブルなお話は出てきませんな。 そのかわり、日教組をぶっつぶすなんて大臣が言うファッショな話題ならあるよなあ。
→参考ページ・鯖江ファッションタウンへの提言(2002)
・もの・まちづくり運動と都市の再生(2005)
048【世相戯評】外国人労働者
ハンブルグでタクシーに乗って、中央駅まで行きたいと運転手に英語で言って通じない。同乗者がドイツ語で言ってもフランス語でも通じない。しょうがないから機関車シュシュシュッと、ボディランゲージでなんとか通じた。
これは1974年だったか、植生調査団でヨーロッパを訪れたときのことであったが、言葉も知らないものがタクシー運転手をやってよいのかと、びっくりしたものである。そのうちに日本でもそうなるのだろうか。 おかしなことに、あれこれと話しかけていてなんとなく分かったのは、トルコからの出稼ぎで、朝鮮戦争のとき日本に行ったことがあるとも言った。
昨日、鍋料理屋の外国人のことを書いたが、この10年くらいのうちに飲食店、特に居酒屋の店員に外国人が多くなった。イラッシャヤセー、アリアトゴサイターなんて、調子が良い。
顔つきからして主に中国系や韓国系であろうから初めはわからないが、マニュアルにないことを聞くと言葉の調子が乱れるので分かる。
その外国料理を食わせる店なら、明らかにそれらしい顔の外国人がむしろ良いのだが、日本料理を主に食わせる店で明らかに外国人顔の店員だと、なんとなく違和感がある。
日本の寿司屋で外国人が握るのはちょっと想像しがたいが、アメリカのショッピングモールの中の寿司屋では当然に日本人顔でない人が握っていて、それは場所柄そうであるだろうと納得した。
これから日本の人口が減ると、労働人口としてさらに外国人が入ってくるのだろう。いまは技能技術を要しない単純労働の分野が多いようだが、次第に専門分野にも及ぶだろう。
西ヨーロッパ北部中部諸国が、南部や東部諸国からの労働者を入れて、いろいろと問題が起きているようなことを、今度は日本が経験することになりそうだ。
今と同じくらいの労働力を保つためには、ものすごい数の外国人を急いで入れる必要があるから、そうなるとあちこちで文化摩擦がものすごいことになるだろうなあ、。
これは1974年だったか、植生調査団でヨーロッパを訪れたときのことであったが、言葉も知らないものがタクシー運転手をやってよいのかと、びっくりしたものである。そのうちに日本でもそうなるのだろうか。 おかしなことに、あれこれと話しかけていてなんとなく分かったのは、トルコからの出稼ぎで、朝鮮戦争のとき日本に行ったことがあるとも言った。
昨日、鍋料理屋の外国人のことを書いたが、この10年くらいのうちに飲食店、特に居酒屋の店員に外国人が多くなった。イラッシャヤセー、アリアトゴサイターなんて、調子が良い。
顔つきからして主に中国系や韓国系であろうから初めはわからないが、マニュアルにないことを聞くと言葉の調子が乱れるので分かる。
その外国料理を食わせる店なら、明らかにそれらしい顔の外国人がむしろ良いのだが、日本料理を主に食わせる店で明らかに外国人顔の店員だと、なんとなく違和感がある。
日本の寿司屋で外国人が握るのはちょっと想像しがたいが、アメリカのショッピングモールの中の寿司屋では当然に日本人顔でない人が握っていて、それは場所柄そうであるだろうと納得した。
これから日本の人口が減ると、労働人口としてさらに外国人が入ってくるのだろう。いまは技能技術を要しない単純労働の分野が多いようだが、次第に専門分野にも及ぶだろう。
西ヨーロッパ北部中部諸国が、南部や東部諸国からの労働者を入れて、いろいろと問題が起きているようなことを、今度は日本が経験することになりそうだ。
今と同じくらいの労働力を保つためには、ものすごい数の外国人を急いで入れる必要があるから、そうなるとあちこちで文化摩擦がものすごいことになるだろうなあ、。
2008/10/01
047【横浜ご近所探検】「肉屋の正直な食堂」は実は外国人鍋料理屋だった
横浜で徘徊老人をやっていて、伊勢佐木町商店街に「肉屋の正直な食堂」なる看板を掲げた店があることを書いた。→横浜ご近所探検・伊勢佐木町
書いただけでは申し訳ないので、今日、夕食をそこで食ってきた。カウンター席だけしかなくて、そのカウンターに電磁誘導加熱装置(induction Heating)がずらりと並んではめ込まれていて、客はそこに置かれた鍋物を煮ながら食うのであった。
牛、豚、鳥の肉のいろいろな鍋料理がある。しかし、鍋だからとて大勢で囲むのではなく、小さな鍋にご飯と味噌汁がついていてひとりで喰う。要するに肉鍋定食屋である。
蓋をした鍋物が出てきて、砂時計が落ちるまで待つと煮えるから、それから食い始めろという。
さてそうして食っていたが、鍋の中が焦げ付くのである。鍋料理ってのは普通はワリシタとかの汁や水で煮るのだが、ここでは鍋蒸し焼きなのかと思いつつポン酢で食っていた。
するとカウンターの中の女性がやってきて、鍋を指し示して「ミズイレマスカ、アリマスカ、、」みたいなことを言っている。「エッ、なに?」と問い返してもさっぱり要領を得ない。
別の男性がやってきて、「水入れるのを忘れてました、ごめんなさい」という。どうやら、厨房から出すときに、あらかじめ入れておく水を入れ忘れたってことらしい。 だから焦げている。
このあたりで私は気がついたのだが、顔は日本人と同じだが言葉から判断してこの二人とも外国人らしい。
厨房にいる間違えた張本人を見ると、これは立派なインドアーリアン系の外国人顔である。
その厨房の黒い顔も出てきて、「すみません。鍋と料理をとり換えて持ってきます」と流暢にいうのだが、もう半分も食っている。
そんなに食えないから、いいよいいよ、と言うと、「すみません、ではコーラを飲みますか」といって、気を使ってくれる。「年寄りはそんなに飲み食いできないから、いいよ」とやさしく断る。
「ねえ、君たち、どこなの、コーリア?」と聞けば、初めの男女は中国、厨房の男はバングラデシュだという。
この外国人3名で日本鍋料理屋をやっているのかしら、そんなわけはなかろうと、インタネットで調べるとやっぱりチェーン店であった。
マニュアルどおりにやれば外国人でも日本式肉鍋料理屋ができるってことである。 ただ、食べつけない料理には、料理人もちょっとマニュアルを間違えるってことか。
「肉屋の正直な食堂」は、こうしてそれなりに“正直”ではあった。だが、 「正直な食堂」であって、「正直な肉屋」ではない看板は、いまどきはどうも気になる。
参照→横浜ご近所探検隊が行く
書いただけでは申し訳ないので、今日、夕食をそこで食ってきた。カウンター席だけしかなくて、そのカウンターに電磁誘導加熱装置(induction Heating)がずらりと並んではめ込まれていて、客はそこに置かれた鍋物を煮ながら食うのであった。
牛、豚、鳥の肉のいろいろな鍋料理がある。しかし、鍋だからとて大勢で囲むのではなく、小さな鍋にご飯と味噌汁がついていてひとりで喰う。要するに肉鍋定食屋である。
蓋をした鍋物が出てきて、砂時計が落ちるまで待つと煮えるから、それから食い始めろという。
さてそうして食っていたが、鍋の中が焦げ付くのである。鍋料理ってのは普通はワリシタとかの汁や水で煮るのだが、ここでは鍋蒸し焼きなのかと思いつつポン酢で食っていた。
するとカウンターの中の女性がやってきて、鍋を指し示して「ミズイレマスカ、アリマスカ、、」みたいなことを言っている。「エッ、なに?」と問い返してもさっぱり要領を得ない。
別の男性がやってきて、「水入れるのを忘れてました、ごめんなさい」という。どうやら、厨房から出すときに、あらかじめ入れておく水を入れ忘れたってことらしい。 だから焦げている。
このあたりで私は気がついたのだが、顔は日本人と同じだが言葉から判断してこの二人とも外国人らしい。
厨房にいる間違えた張本人を見ると、これは立派なインドアーリアン系の外国人顔である。
その厨房の黒い顔も出てきて、「すみません。鍋と料理をとり換えて持ってきます」と流暢にいうのだが、もう半分も食っている。
そんなに食えないから、いいよいいよ、と言うと、「すみません、ではコーラを飲みますか」といって、気を使ってくれる。「年寄りはそんなに飲み食いできないから、いいよ」とやさしく断る。
「ねえ、君たち、どこなの、コーリア?」と聞けば、初めの男女は中国、厨房の男はバングラデシュだという。
この外国人3名で日本鍋料理屋をやっているのかしら、そんなわけはなかろうと、インタネットで調べるとやっぱりチェーン店であった。
マニュアルどおりにやれば外国人でも日本式肉鍋料理屋ができるってことである。 ただ、食べつけない料理には、料理人もちょっとマニュアルを間違えるってことか。
「肉屋の正直な食堂」は、こうしてそれなりに“正直”ではあった。だが、 「正直な食堂」であって、「正直な肉屋」ではない看板は、いまどきはどうも気になる。
参照→横浜ご近所探検隊が行く
2008/09/30
046【法末の四季】ううっ肩が凝る腕がしびれる腰が痛い、稲刈りをしたのだ
今年も法末の棚田の米が稔った。出来具合は地元の人がほめてくれるくらいの良さである。
稲刈りを先日の土日で無事に終えた。いや、無事じゃないか、肩や腰や腕が痛い、痛い。
1日目が10人、2日目が5人、これで棚田3枚、計約700㎡を手で刈り取ってハサにかけるまでやったのだが、やっぱり苦しい。
機械は使わない主義を放棄して、2日目の昼にはバインダーを、ついに隣から借りてきた。エンジンで動いて稲を刈り結束するのだが、手でハンドルを持って方向を決めて行く。
本格的なコンバイン稲刈り機ではないが、さすがに人間よりは早い早い、でも荒っぽい。
稲は不規則に植えてあるし傾いたり倒れたりしているのに、機械のヤツはきれいに一列づつに立ち並んでいることを前提に動く設計らしいから、あちこちに刈り残しやら踏み倒しやらの稲が残る。まあ、それでも早いからしょうがない。
もうひとつ今年の主義違反は、除草剤を入れたので、田の草取りをしなかったことだ。もっとも、これは田の持ち主が、私たちの知らぬうちに入れたのである。去年の私たちの苦労を見かねての好意であるらしいから、仕方がない。
そろそろ暗くなろうとする6時頃に、ようやく最後の稲束のハサ掛けを終えた。
その帰りの新幹線は事故の影響で満員立ちんぼ、ああ、でも稲刈り重労働に比べりゃ、これしきなんてこともない。横浜に帰りついたのが11時半。
さて次は2週間後の脱穀精米である。ようやく食べられるのだ。
→関連サイト「法末四季物語」
稲刈りを先日の土日で無事に終えた。いや、無事じゃないか、肩や腰や腕が痛い、痛い。
1日目が10人、2日目が5人、これで棚田3枚、計約700㎡を手で刈り取ってハサにかけるまでやったのだが、やっぱり苦しい。
機械は使わない主義を放棄して、2日目の昼にはバインダーを、ついに隣から借りてきた。エンジンで動いて稲を刈り結束するのだが、手でハンドルを持って方向を決めて行く。
本格的なコンバイン稲刈り機ではないが、さすがに人間よりは早い早い、でも荒っぽい。
稲は不規則に植えてあるし傾いたり倒れたりしているのに、機械のヤツはきれいに一列づつに立ち並んでいることを前提に動く設計らしいから、あちこちに刈り残しやら踏み倒しやらの稲が残る。まあ、それでも早いからしょうがない。
もうひとつ今年の主義違反は、除草剤を入れたので、田の草取りをしなかったことだ。もっとも、これは田の持ち主が、私たちの知らぬうちに入れたのである。去年の私たちの苦労を見かねての好意であるらしいから、仕方がない。
そろそろ暗くなろうとする6時頃に、ようやく最後の稲束のハサ掛けを終えた。
その帰りの新幹線は事故の影響で満員立ちんぼ、ああ、でも稲刈り重労働に比べりゃ、これしきなんてこともない。横浜に帰りついたのが11時半。
さて次は2週間後の脱穀精米である。ようやく食べられるのだ。
→関連サイト「法末四季物語」
2008/09/29
045【世相戯評】地震に強いかも原子力発電船
横須賀米軍基地にアメリカ軍の原子力航空母艦が配備された。乗っている兵員が6000人もいるという。ちょっとした街であるが、超過密居住である。
その人間の暮らしとともに、あのドデカイ図体を自力で動かし、戦争という効率のことは考えない超浪費もするのだから、そのためのエネルギーを作り出す原子力装置は、いったいどれくらいの能力なのだろうか。
バックアップ用も要るだろうから、多分2基以上はあるだろう。
日本にある原子力発電所は、それ比べると大きいのか小さいのか?
それで思いついたのだが、いくらあんなにでかくても海の上にいるのだから、四六時中揺れているだろう。
ということは、地震の巣の真上にある日本の原子力発電所よりも、もっともっと危険な状態が日常的に起きていることになる。それで、いいのかしら、。
日本じゃあちょっと揺れても大騒ぎなのに、四六時中ゆれている原子炉は、いったいどうなっているのか。
日本の原子力発電所とは違って、ゆれても大丈夫な技術なのかしら。だったら、日本の原子力発電所もその技術で作れば、大丈夫のはず。
アッ、そうだっ、原子力発電船を作ればよいのだっ、いい考えだぞこれは、。
海に浮かんでいても、アメリカ政府や日本政府の言うように絶対に事故がおきないのなら、電力需要の多い地域の港に停泊して発送電すれば、エネルギー効率が断然良くなる。大規模工場はたいてい海べりにあるから、原子力自家発電船を作ればよい。
万が一、事故がおきたらすぐにはるか沖に出て行ってしまえば、害を及ぼす範囲は格段に小さくなる。
どうです、これは、良い考えだなあ、。
ところで、原子力空母が出す特有のウンコ、つまり核燃料廃棄物はどこにどうしているのだろうか。ものがものだからず~っと船のなかに抱えっぱなしではあるまいし、まさか海に捨てているとも思えない。
もしかしてこれからは、横須賀基地の洞穴(あそこは旧日本海軍の掘った壕がいっぱいある)にいれておくのかも、。
これは怖い。
その人間の暮らしとともに、あのドデカイ図体を自力で動かし、戦争という効率のことは考えない超浪費もするのだから、そのためのエネルギーを作り出す原子力装置は、いったいどれくらいの能力なのだろうか。
バックアップ用も要るだろうから、多分2基以上はあるだろう。
日本にある原子力発電所は、それ比べると大きいのか小さいのか?
それで思いついたのだが、いくらあんなにでかくても海の上にいるのだから、四六時中揺れているだろう。
ということは、地震の巣の真上にある日本の原子力発電所よりも、もっともっと危険な状態が日常的に起きていることになる。それで、いいのかしら、。
日本じゃあちょっと揺れても大騒ぎなのに、四六時中ゆれている原子炉は、いったいどうなっているのか。
日本の原子力発電所とは違って、ゆれても大丈夫な技術なのかしら。だったら、日本の原子力発電所もその技術で作れば、大丈夫のはず。
アッ、そうだっ、原子力発電船を作ればよいのだっ、いい考えだぞこれは、。
海に浮かんでいても、アメリカ政府や日本政府の言うように絶対に事故がおきないのなら、電力需要の多い地域の港に停泊して発送電すれば、エネルギー効率が断然良くなる。大規模工場はたいてい海べりにあるから、原子力自家発電船を作ればよい。
万が一、事故がおきたらすぐにはるか沖に出て行ってしまえば、害を及ぼす範囲は格段に小さくなる。
どうです、これは、良い考えだなあ、。
ところで、原子力空母が出す特有のウンコ、つまり核燃料廃棄物はどこにどうしているのだろうか。ものがものだからず~っと船のなかに抱えっぱなしではあるまいし、まさか海に捨てているとも思えない。
もしかしてこれからは、横須賀基地の洞穴(あそこは旧日本海軍の掘った壕がいっぱいある)にいれておくのかも、。
これは怖い。
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