2014/12/08

1034太平洋戦争開始記念の日に思い出す母の号泣と父の十五年戦争

 今日は12月8日、1941年に日本が太平洋戦争に突入した日、もちろん幼児のわたしのその日の記憶はない。平和な田舎町だったから戦災はなかったが、戦後の飢餓の日々が戦禍であった。
 だが、わたしにはひとつだけ、この戦争に関して強烈な記憶がある。

 1943年12月27日、わたしの父は戦いの場に召集された。家族や親戚あるいは神社関係者で、兵役に赴く父が出発する鉄道駅まで見送りに行った。わたしの記憶はその直後のことである。
 家に戻った途端、母が突然に号泣しだした。和服の羽織も脱がずに畳にうつ伏して、顔を両手で覆って声をあげて泣いている。
 幼児のわたしは、そのそばでなすべきこともわからなくて、呆然と座っているばかり。

 父は、その前の兵役、つまり1937年に始まった日中戦争(支那事変)から、1941年の5月に帰還したばかりだったのだ。
 実はその前の戦争である「満州事変」でも、父は兵役に就き中国戦線に行ったのだから、これで3度目の戦争である。この年には3人の子の父となろうとしていた。
 1931年からの15年戦争に、念入りに3度も出かけた人だった。しかもただの一兵卒として。

 その頃は戦局は危ういことは、身の回りに戦死者が多くなったことから一般人もうすうすは分かっていた。
 そんなときにまたもや兵役召集だから、父も母も覚悟が要ったことだろう。それが母の号泣となったにちがいない。
 しばらくして、表に客の声がした。母はさっと立ち上がり、涙をぬぐいつつわたしに言った。
「今、泣いてたことは、言っちゃいけないよ」
 銃後の母は、泣いた悲しんだりしては、非国民なのだ。
 幸いにして父は1945年8月末日に帰宅した。姫路で南方戦線に行きを待っていたが、輸送されるべき船がなくなって免れ、小田原に行って本土決戦に備えていたのだった。
1945年8月の敗戦を、父は足柄平野を見下す台地で
上陸してくる米軍を本土決戦とて迎え撃つ陣地作りの穴掘りをしていたらしい
毎年、戦争の記念日が来ると、このことを思い出す。
 あのことのあとは、ひもじい日々が続いたことが、わたしの記憶の中の戦争の悲惨さであるが、あんなに母を泣かせるようなことは、幸いにしてこの年までなかった平和な日々だった。
 だが、記憶が遠くなった日々、そしてあの時代を知らない人たちがリーダーとなった世の中、なんだか大丈夫かと言いたい気分ではある。
 とにかく、あの母を号泣させるようなことは、2度とゴメンである。

関連ページ  ◆「少年の日の戦争」    父の十五年戦争

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