【東京駅周辺徘徊その4】からつづく
東京駅というと、わたしたちすぐに西側の丸の内駅舎のことを頭に浮かべるが、東側の八重洲駅舎ついて、ちょっと知りたいことがあるので書いておこう。どなたか教えていただきたいのです。
なお、戦後の町名変更までは、八重洲という地名は今のように外堀通りの東の京橋側ではなくて、東京駅の西側の丸の内にあった。
しかしここでは戦前の話でも、今のように八重洲口駅舎に統一して書く。
●関東大震災復興計画の八重洲駅舎か?
ここに東京駅の八重洲口駅舎と思われる絵の写真がある。
わたしが1988年に、墨田区横網町公園にある復興記念館を訪ねたときに展示してあるのを見つけて撮った。その10年ほど後に訪ねたときにもあったが、今もあるのかどうか知らない。
この絵のいちばん背景には、左右に長く連なる屋根に3つのドームがあるから、これは東京駅の丸の内側にある赤レンガ駅舎である。
ところがその手前に、もうひとつ別の屋根のある建物が見える。この建物の両脇から左右に水平な屋根が見えるのは、駅プラットホームの屋根のようだ。
とするとこの建物は八重洲口の側にあることになる。その手前には橋がかかっていて、これは外堀通りの突き当りにあった八重洲橋であろう。
八重洲通りの突き当りにある建物だから、東京駅の八重洲口の駅舎に違いない。
ちょっと加工して、背後の丸の内口駅舎を薄くして、八重洲口駅舎を浮き出してみよう。
こうして見るよく分るが、この八重洲口駅舎は、左右対象の2階建て、左右両端に尖塔をもち、その間にスレート葺き屋根がかかり、中央部は丸の内駅舎の中央ドームに呼応するように、若干高くなった屋根に3つのドーマー窓をもっている。
この中央部が駅の主出入口で、中はたぶん吹き抜けになっているのだろう。
その意匠は全体的に丸の内駅舎をアレンジしているが、派手に装飾はしていないようである。スケールが小さいので、どこか丸の内駅舎の子か孫のようなイメージである。
復興記念館の展示には、この駅舎についての説明がなかったが、復興記念館にあるのだからこれも復興駅舎計画だろうか。それとも、復興展示は復興橋梁の八重洲橋が主眼で、その時に描いたのだろうか。
東京駅の八重洲口の開設は1929年、震災後の復興事業が完了に近づくころである。この絵の駅舎が八重洲側の出入口の新規開設と同時に建てられたのならば、初代八重洲駅舎である。
駅舎の手前の八重洲橋も、1929年に復興橋梁として架けられた。この東京駅専用のような橋の堂々たる規模と意匠からして、駅舎と橋が一対の復興事業となったのだろうか。
わたしがこの絵の写真を撮った1985年から90年くらいまで、東京駅とその周辺の再開発の検討調査を国土庁や建設省や運輸省等の政府機関が行っており、わたしは都市・建築コンサルタントとして、主に東京駅赤レンガ駅舎の検討を担当していた。
その調査のために、昔からの色々な東京駅のかなり多くの資料を見たが、この絵に相当する建物の写真にも図面にも出会わないままである。もしも実現したならば、何か写真でお目にかかるはずである。
ところが実は、初代八重洲口の駅舎はこれとは全く違った姿で登場していたのだった(次回にそれを書く)。では、これは計画はあったが幻の駅舎なのか。いったいなんだろうか。
これをお読みになったどなたかぜひとも教えていただきたい。
●伊達のブログ・まちもり通信内関連参照ページ
・【東京駅周辺徘徊その4】八重洲側のビル群はこの30年で大変化
・【東京駅周辺徘徊その3】行幸道路やんごとなきお方が眺める景観・・・
・【東京駅周辺徘徊その2】ナントカランド東京駅丸の内駅舎の歴史・・・
・【東京駅周辺徘徊その1】丸の内と大手町は今やデブデカ超高層群・・・
◆東京駅周辺まち歩きガイド資料2017年5月版(伊達美徳制作ガイドブック)
0 件のコメント:
コメントを投稿