【東京駅周辺徘徊その6】のつづき
●東京駅とその周辺の太平洋戦争による空爆被災
太平洋戦争の空爆で、1945年5月25日に東京駅も被災した。丸の内駅舎は焼夷弾を食らって炎上、煉瓦壁とコンクリ床とぐにゃぐにゃ屋根鉄骨だけが残った。
下の地図はピンク塗りつぶし部分が被災したところで、丸の内側は東京駅舎の外は比較的被災が少ないようだ。だが八重洲側の京橋、銀座、日本橋、そして大手町も、街はどこもかしこもすっかり炎上した。
東京駅周辺の戦災被災区域図 |
上の地図だと東京駅の東の八重洲口あたりの被災は無かったようだが、どうだろうか。
次の写真は、戦争直後の京橋上空から西を俯瞰している。焼け跡がある程度片付いているようだから1945年末か1946年の撮影だろう。
次は上の写真の八重洲口あたりの拡大である。
八重洲橋の正面に2階建ての駅舎らしい建物があるが、丸の内駅舎が丸焼けになったので、こちらに機能を移しているのだろうか。
その左には初代の八重洲口駅舎らしい形も見えるから、こちらは被災しなかったのかもしれない。
ついでにこの時の丸の内駅舎の様子を見よう。丸の内の赤レンガ駅舎は、1945年5月20日の空襲で焼夷弾を浴びて炎上した。
下の写真は、鉄骨造の屋根が焼け落ちてしまい、内部は全焼、煉瓦の壁とコンクリート床が焼け残っている。まだ修復工事が始まっていないから、1945年末ごろの写真だろうか。手前の池は、工事中断したままだった新丸ビルの地下にたまった水である。
次の空中写真は1947年11月撮影である。東京駅八重洲口側の中央あたりに外堀にかかる八重洲橋がある。八重洲口の駅舎は小さすぎてよく分らない。
この写真の外堀は埋め立て工事中なので水が見えない。外堀埋立は1947年11月20日に完了し、れによって生じた土地は、東京駅拡張用地や民間開発事業用地となった。
西側の丸の内駅前広場に面して南に東京中央郵便局、北に鉄道省(後に国鉄本社)があり、正面の南には丸ビルが見える。丸ビルの北側には工事中断した新丸ビルの地下部分に水が溜まっていて黒く見えている。
次は1947年の外堀通り、外堀、八重洲橋そして東京駅の写真である。
この八重洲橋の右に見えるのは、上の拡大写真に見る駅舎だろう。次の年にできる新駅舎とも形が異なるから、戦災直後の仮設建築だろうか。右上に修復中の丸の内駅舎の南ドーム(外は台形、内部は半球形)が見える。この年3月に外観はほぼ修復完了した。その左は東京中央郵便局。
まだ戦後の混乱期であり、この行列は乗車券を買うために並んでいるのだそうである。丸の内駅舎が使い物にならないので、こちらが乗車券発売の機能を持っていたのだろうか。
●戦後初の八重洲口新駅舎のさっそう登場とはかない命
外堀の中にトラックがあって埋め立て工事中だろうが、翌年に埋立は完了した。
●戦後初の八重洲口新駅舎のさっそう登場とはかない命
1948年11月16日に、次の写真のような八重洲口新駅舎が登場した。木造2階建てだが、ようやくいかにも戦後駅舎らしいモダンな姿である。
この設計は鉄道省建築課長の伊藤滋のデザインだろう。まさにモダニスト伊藤の作品であり、有名な御茶ノ水駅(1932年)を想起させる。
ついでにいえばこのころ伊藤は、戦災で炎上した丸の内駅舎の修復工事も指揮しており、辰野金吾デザインの異国趣味葱坊主型ドームを、台形角型ドームのモダンデザインに再生した。(参照⇒「空爆廃墟からよみがえった赤レンガ駅舎」伊達美徳)
この設計は鉄道省建築課長の伊藤滋のデザインだろう。まさにモダニスト伊藤の作品であり、有名な御茶ノ水駅(1932年)を想起させる。
ついでにいえばこのころ伊藤は、戦災で炎上した丸の内駅舎の修復工事も指揮しており、辰野金吾デザインの異国趣味葱坊主型ドームを、台形角型ドームのモダンデザインに再生した。(参照⇒「空爆廃墟からよみがえった赤レンガ駅舎」伊達美徳)
この写真のネットサイトでの説明に1953年とあるが1948年の間違いであろう
丸の内駅舎の南ドームが修復されており、その左は中央郵便局、右は丸ビル
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この写真で見ると、手前に路面電車が走る外堀通りと駅と地続きなっているから、外堀は埋め立てられている。その地面から八重洲橋の欄干や照明ポールが立っているのが見えるが、それらの位置から判断して八重洲橋は右の方であるらしい。つまり、八重洲通りのつきあたり正面に新駅舎が建っているのではなくて、南に寄っていることになる。
八重洲橋と地続きになった外堀埋立地は、新駅舎の駅前広場になった。
ところが、新駅舎は半年も経たないうちに姿を消した。
1949年4月19日午前、駅舎工事現場の失火から、烈風のなかを火は燃え広がって、この八重洲口モダン駅舎と周辺の6棟が燃え、更に飛び火で300m離れた家屋1棟が焼失した。新駅舎の命はたったの5か月だった。
下の写真は、それを伝える当時の新聞記事である。附図で駅舎と八重洲橋の位置関係が分る。下右の半楕円のような形は、八重洲橋であろうから、この下方に八重洲通りが続くのである。
●八重洲口駅舎とその位置について推測
わたしは鉄道については全く門外漢である、興味があるのは駅舎のデザインとか景観である。
だから八重洲口駅舎が、その位置で、そのようなデザインで、しかも丸の内側よりずいぶん遅れてなかなか整備されんかったのは、何故であったのか気になる。
その理由はいくつか考えられる。
(1)天皇の駅として作ったのだから、庶民が必要なら有楽町駅でも神田駅でも使えばよろしい。
(2)外堀から西の丸の内側は三菱村の領分、東側は三井村の領分、その確執があったから。
(3)駅東側に将来の弾丸列車(新幹線)乗入計画があったが、なかなか定まらなかったから。
(1)と(2)については、勝手な推論で面白がって書いてみたいとおもうが、それは次の機会にする。ここでは(3)の新幹線計画がらみについて、国鉄の人が書いた資料を基に、勝手に推測する。
東京駅丸の内側については、赤レンガ駅舎や初期の電車ホーム等で、その整備は固まっていたが、八重洲側については、弾丸列車計画との関係でかなり多様な計画やらその変更やらがあったようだ。
そのために八重洲口駅舎は位置も建物もながらく固まらず、仮の計画であったのだろうと、門外漢として推測する。
弾丸列車とは、今の新幹線であり、これは既に1938年頃から計画が進められていたとのことでる。それは、1931年からの中国大陸での日本軍の軍事行動が広がると、軍事輸送からと、大陸植民地経営の観点からとで、新輸送鉄道の要請が出たのだそうだ。
そして東京から下関に高規格新幹線計画が始まり、1940年度から実施に入って線路時期などの一部用地取得や工事が実施された。しかし、太平洋戦争により新幹線事業は中止された。
この下の図は1940年頃につくった東京駅に新幹線が乗り入れる計画案である。
八重洲側に新幹線のおおきな駅舎(裏本屋と記述)があり、駅前広場も外堀通りと八重洲通の交差点を東に三角形に広くして計画している。
この大きな駅前広場は、鉄道側で勝手に描いたものか、それとも都市側でこのような計画があったのか、どうなのだろうか。
この大きな駅前広場は、鉄道側で勝手に描いたものか、それとも都市側でこのような計画があったのか、どうなのだろうか。
だが、八重洲通りは、震災復興事業でいろいろと地元反対の中で、駅前広場をつくることができないままに完成したばかりであった。
新幹線は中止になってもいずれは再開するとして、ここまでみたように、八重洲口側は駅舎など作るとしても小規模木造建築で、位置的にはその場あたりで仮設的に過ごしてきたのであろうと推測するのである。
結局は本格的な八重洲駅舎が建ったのは、戦後になってからだったから、丸の内とは40年ものギャップであった。(つづく)
●伊達のブログ・まちもり通信内関連参照ページ
・【東京駅周辺徘徊その6】控えめ過ぎる初代八重洲駅舎
http://datey.blogspot.jp/2017/01/1247.html
http://datey.blogspot.jp/2017/01/1247.html
・【東京駅周辺徘徊その5】復興記念館にあった東京駅八重洲口駅舎らしい絵は幻か
・【東京駅周辺徘徊その4】八重洲側のビル群はこの30年で大変化
・【東京駅周辺徘徊その3】行幸道路やんごとなきお方が眺める景観・・・
・【東京駅周辺徘徊その2】ナントカランド東京駅丸の内駅舎の歴史・・・
・【東京駅周辺徘徊その1】丸の内と大手町は今やデブデカ超高層群・・・
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