【東京駅周辺徘徊その5】からつづく
(読者に伺い中の復興記念館の写真について、まだどなたからもご教示はありません)
●関東大震災で東京駅の東側が大きく変わった
東京駅は1914年に西側の丸の内口だけに出入り口を設けて、巨大な駅舎を作った。
その目の前は野原であり、その向うの元江戸城の皇居があった。だが京橋や日本橋の繁華街があった東側には、出入り口を設けなかった。つまり天皇のための駅であったのだ。
1923年9月1日、関東大震災が起きた。東京から横浜は大被災、丸の内の東京駅舎は無事だったが、駅東側の外堀端の鉄道省は炎上、外堀の東側の京橋や銀座や日本橋の街は燃えた。
関東大震災直後の東京駅周辺 矢印と線は震災時火災の飛び火と延焼 東京駅の東側の鉄道省施設が火災にあったことが分る |
後藤新平の大風呂敷震災復興計画は、紆余曲折の末に縮小に縮小しながらも復興事業にとりかかって、1930年頃には大方が完了した。
関東大震災復興事業後の東京駅周辺図 駅の西側は変化がほとんどない 東側では、東京駅の裏口駅が開業、八重洲橋がかかり、八重洲通りが開通した |
復興事業により、駅東の外堀には八重洲橋がかかった。その幅44m、長さ38mの、コンクリートアーチ橋の完成は1929年6月だった。
そこから東に向かって築地へと結ぶ八重洲通りが開通した。その道幅は44mで東京駅がその西端の突き当りになる。
そしてついに東京駅東口の八重洲橋口駅舎が開業したのは1929年12月16日だった。
これでようやく京橋や銀座日本橋から東京駅にまっすぐに入ることができるようになった。
●復興した東京駅と八重洲橋あたり
ではどんな駅舎が登場したのだろうか。先ず、全体像を見よう。
次のカラー写真は戦前の絵葉書だが、丸の内方面から東を俯瞰しており、右上に外堀通りがあり、そこには広い八重洲橋がかかっている。1930年頃の撮影だろう。
外堀にかかる八重洲橋の手前に、列車基地をまたぐ陸橋につながっている駅舎が見えるが、復興記念館の絵とは似ていないようだ。
これで見ると、八重洲通りと八重洲橋の立派さに対して、八重洲橋のこちらに見える駅舎やその周りのゴタゴタぶりはどういうことなのだろうか。それら多くの建物はいずれの鉄道関係の施設であり、左上の呉服橋手前にある大きな建物は鉄道省であった。
八重洲通りを通し、八重洲橋をかけ、都市側の整備がこれほど進んでも、鉄道側は小さな駅舎を建てて出入り口を設けただけ、まわりは何も整備をしていないように見える。ギャップが大きい。
東京駅裏口(八重洲橋口、今の八重洲口)の開設当時の新聞記事を載せておく。
この記事には、初日の乗降客数が約6700人で、予想していた東京駅1日乗降客数7万人余の5~6割の4~5万人よりもはるかに少なかったと報じている。それは電車しか扱わないし、駐車場もタクシーも不便な作りであるからとある。
●初代八重洲口駅舎と八重洲橋の姿
次の写真はネットにあったものだが、駅舎と周辺がよく分る。
1931年初代八重洲口と書いてあるから、これが本当だとすれば、先の復興記念館の駅舎はやっぱり幻の代物であったか。
跨線橋に接続する駅舎らしい建物は、小さな平屋のようだ。駅を出るとほとんどいきなり八重洲橋であり、自動車も見えないから橋が歩行者専用の駅前広場だったのだろうか。
木造2階建てだろうが、橋上広場の南西角にあって斜めに配置している。復興記念館にあったあの絵のような八重洲橋への正面性はみられず、丸の内に比べると実に実用的な建物のようだ。
これで東京駅裏口駅舎(八重洲口)の初代駅舎は、復興記念館にあった絵の姿とは全く異なるものであったことが分かった。
駅舎は仮設的だし、その周りの建物はバラックだったが、そこから東に踏みだして外堀にかかる八重洲橋と、そこから東に伸びる八重洲通りは、丸の内に負けない立派な都市整備であった。
新設の復興道路八重洲通りの幅員44mは、国会議事堂間通りの55mに次ぐ広さであり、ほかには昭和通があるだけだったから、かなりの力の入れようである。なお、八重洲通りも含め主要な22の復興道路の名を公募してつけた。昭和通りや新大橋通りなど今も使われているが、歌舞伎通りは今は晴海通りといっている。
そしてこの駅専用と言ってよい八重洲橋は、外堀をわたる長さ38m、幅は八重洲通りにの幅に合わせて44mであった。コンクリートアーチ橋は石張りの実に堂々たるものである。
八重洲通の西詰めにあって、それ自体が広場になるほどの大きさである。この橋と初代八重洲口駅舎の貧弱さと比べると、月とすっぽんの差であった。
関東大震災の復興橋梁のひとつであった八重洲橋は、1929年6月に完成しており、その設計図面には、建築家山口文象のサイン(岡村)があるから、彼がデザインをしたのであろう。このことは、このブログに2014年に書いたことがある。
1948年、この八重洲橋は外堀の埋立てで地中に埋もれた。その後に八重洲地下街や首都高地下道路ができたから、外堀の江戸城の石垣ともに消えてしまっただろう。
●八重洲橋口駅舎はなぜこんなにも貧弱なのか
こうしてようやく東京駅の裏口と言われる東口駅舎が新たに登場したのだが、丸の内駅舎開設から15年もの後であった。なぜ1929年まで待たねばならなかったのか。
物理的には、それまでは外堀に橋がなかったからだろうが、もともと木橋の八重洲橋があったのを、1914年の東京駅開業時に撤去したという。橋をかけ替えようという計画もなかったのか。
そして開設しても、周辺の駅施設は駅前広場整備はさしおいて、小さな駅舎だけを建てた感じである。常識的には駅前広場の整備も行うだろうに、これはどうしたことだろうか。
そしてまた、丸の内側に比べて、八重洲橋口駅舎はなぜこれほどに貧弱なのだろうか。丸の内口よりもこちらの八重洲橋口の方が、利用者が多いと言うのに、この差別は何故だろうか。
15年前につくった皇居にいる天皇のための丸の内側の駅舎・広場と、このたびの京橋・日本橋側の庶民のための駅舎・広場との、あまりに大きなギャップに驚く。
丸の内駅舎 |
もしかしたら、新開設した八重洲口駅舎は、実は仮設であって、いずれはあの復興記念館にあった絵のような駅舎を立てる予定だったのだろうか。
なんにしても、あの復興記念館の絵は幻の駅舎であったらしい。あのような計画案があったが、諸事情で実現しなかったのか、それともあの絵は復興記念館の展示のためだけに画いたものか。
やがて太平洋戦争の戦禍が東京駅周辺にも及んできて、丸の内口にも八重洲口にも再び大きな変化をもたらすのである。(つづく)
●伊達のブログ・まちもり通信内関連参照ページ
・【東京駅周辺徘徊その5】復興記念館にあった東京駅八重洲口駅舎らしい絵は幻か
・【東京駅周辺徘徊その4】八重洲側のビル群はこの30年で大変化
・【東京駅周辺徘徊その3】行幸道路やんごとなきお方が眺める景観・・・
・【東京駅周辺徘徊その2】ナントカランド東京駅丸の内駅舎の歴史・・・
・【東京駅周辺徘徊その1】丸の内と大手町は今やデブデカ超高層群・・・
0 件のコメント:
コメントを投稿