今日(2020年10月23日)ツイッターに、「SAWADA Masahiro:澤田雅浩:新潟県中越地震から16年が経ちました。」なる書き込み発見、そうであった、あの豪雪山村の日々を思い出した。
わたしはその地震の日に現地にいたのではないが、まちづくりNPOの一員として、被災山村集落「法末」に、復興支援の手伝いにはいったのは、その1年後の2005年秋からだった。集落は全戸避難していた。
毎週末の訪問と宿泊からはじまり、年ごとに次第に間隔があき、訪ねるNPOメンバーも当初の20人ほどから次第に減ってゆき、10年目ころに支援活動は自然消滅した。もちろん集落は被災から立ち直った。なお、この間、2007年に中越沖地震に見舞われて、2度目の被災という事件もあった。
この間、わたしたちが地域のためにできることは、物質的にも体力的にも資金的にも能力としては限られていたが、とにかく村の人々と密に交流することで、地域を持続するなにほどかの力になりたいの一心で通ったものだ。
建築家たちは被災家屋調査して復興アドバイスした。都市プランナーたちはまちづくりならぬ山村づくりを、集落の人たちに学んだものだ。わたしは集落最長老から戦争体験の悲惨な話を個人的に聞いて記録した。
震災前の村には100世帯ほどいたが、震災で全戸避難後に戻ってきたのは60世帯ほど、それを持続するのはかなりむつかしいことであったが、世帯減少しながらもいまも集落は存続している。
支援仲間の一人が、集落に住み着いて農業者になったのが、わたしたちの置き土産かもしれない。彼のつくった農業会社に仲間たちで出資した。
北国の農山村の四季景観の美しさと、その内包する人間の生活環境の厳しさ、その定常的な四季の移り変わりが、大地の大震動で破壊する大変化、実に貴重な体験をしたのだった。風土と人間について多くのことを考えた。
わたしはアクティブな活動をしなかったのだが、思い出深い活動は、コシヒカリ米作りと茅葺小屋作り、そして集落人との交流だった。その集落を「法末集落へようこそ」に紹介している。https://sites.google.com/site/hossuey/
そのころわたしが現地でやったことや考えたことを記している。
●<ブログ連載中>◆中越山村の暮らし
◆中越震災から10年、復興した山里のこれから2015/0623
◆法末集落ののどかな初秋風景も人の営みには大きな変化が(2012.10)
◆自然環境に還る人文空間(2011.05)
◆豪雪の山村の風景を見て考えこんだ(2011.02)
◆山村の四季を愉しむ(2010.11)
◆中越山村の四季に驚き愉しむ
◆中越山村で茅葺屋根の小屋をつくる2008
(田んぼの中の足湯休憩所は集落最後の茅葺屋根)
◆中越震災復興の地で棚田米を作る2006-2007
◆中越山村・法末集落の四季(ブログ書込進行中)
◆法末の四季の動画(gifアニメ)
◆中越震災の山古志を訪ねた(2007)
(法末集落の野信濃川対岸の山古志村の被災と不幸のこと)
◆小国と祖谷-自然と生活を二つの山村に見る(2005)
◆集落最長老が悲惨な戦場を語ったオーラルヒストリ-(2011)
(集落最長老に聞いたインパール作戦の悲惨な戦場のこと)
この後も東日本地震とかいろいろと震災は起きている。さらにすごい災害は新型コロナパンデミックである。長く生きているとろくなことに出会わないが、貴重な体験をしていろいろと考える種は尽きない。 (20201223記)
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