2011/05/16

422東日本大震災Before-Now

 グーグルアースが、東日本大震災地域の3月13日から4月初めまでの衛星写真を公開している。まさに今の情景である。
 場所によっては、カメラマンが入って撮った現場パノラマ写真も、グーグルアース写真からアクセスできるようになっている。
 震災以前の同じ位置の衛星写真もアクセスできる。比較してそのあまりの変わりように、息を呑む場面の連続である。
 その現地にいた人たち、今も居る人たちに思いをいたしながら沿岸地域をたどると、たまらない気持ちだが、土地利用計画はどうなっていたのだろうかと次々に疑問が湧いてきて、目を離せなくて寝不足になってしまう。
 ここに、その一部をコピーして、美しかったBefore風景と、惨禍のNow風景を並べてみる。説明は不要であろう。
●参照→東日本大震災Before-Now
http://sites.google.com/site/dandysworldg/beforenow2011

2011/05/10

421大震災被災地の画像

 google earthの衛星画像が、東日本大震災地域については、震災後の画像に入れ替わっている。
 福島原発の周辺地域はこのようなところであるのかと、しげしげと眺めると、すぐそばには津波で破壊された集落があちこちにあり、ああ、ここの人たちは地震津波放射能の三重苦に襲われて、復旧にも復興にも戻れないのだなと、ただ見つめるばかり。
 気仙沼の被災市街は、これは消滅市街と言ったほうがよいかと、これも呆然と見つめる。街であったろう跡に横たわる大きな長いもの、拡大すると船であった。鉄の船は壊れもせずに、木造家屋の成れの果てのガラクタの上に寝ているのであった。
 三陸海岸を順に見ていくと、消滅市街・集落が次々と現れる。そんな街にもカメラマンが入っていて、被災地の姿を見せてくれる。写真マークをクリックすると、なんと360度カメラ画像が登場する。空中写真とは違う迫力であり、これも呆然と見つめるばかり。
 高度情報時代だとつくづく思う。

2011/05/09

420原発から20kmの集落は今

 おお、柏崎原発から20kmだよ~、わたしが仲間と棚田米つくりをしている中越の法末集落のことである。2004年に中越地震で被災した山村だ。

 もう6年も前から行ってるのに、今頃になって気がついた、というか、気がつかされた。2004年中越地震、2007年中越沖地震とたて続けに大震災があって、柏崎原発も問題となったが、もうすっかり忘れていた。
 でもあの時、もしかして福島第一原発のようなことがおきていたら、どうなっただろうか。ことしも法末集落の田植えのシーズンがやってきた。福島ではどうしているのだろうかと思うと、中越だって現実のこととして考えざるを得ない。

2011/05/07

419万治石仏と木喰仏

 2011年4月、岡谷と上諏訪に木喰仏を訪ねた。ついでに諏訪神社春宮近くにある万治の石仏も訪ねた。
 木喰行道上人の3体の木彫(不動明王、文殊菩薩、阿弥陀如来)を拝見できたが、これらは最晩年1806~7年の作である。
 昨年6月には鹿沼市栃窪集落に木喰仏を訪ねたが、これは今回とは逆に木喰が仏像を彫り始めた1780年63歳の最初期の作品であった。昨年と今年で木喰の造仏師としての生涯の両端にある作品を見たことになる。
●参照→273木喰の風景:集落民の群像http://datey.blogspot.com/2010/06/273.html




 その四半世紀ほどの間に、木喰行道の作風がどう変わったのか。
 二つの時期の作仏を比較しての感じは、去年見た初期の仏像群は無骨にして生硬な鑿跡と表情であったのに対して、今年見た最晩年の仏像はすべてがやわらかくなっているのであった。
 わたしに仏像としての意義は分らないが、憤怒の不動明王でさえも、どこか柔和なるお顔で柔らかな炎に包まれているように見えた。鑿跡がやわらかいのである。

 その間の歳月で腕の上達もあるだろうし、作風も変化しただろうし、制作時の心情あるいは環境もあろう。あるいはさすがに最晩年ともなれば、気力体力の衰えのゆえかもしれないとも思ったりする。
 木喰行道は、上諏訪の旧中山道沿いの民家に滞在して、現存する最後の作である慈雲寺の阿弥陀如来像を彫ったあと、2年半ほど後の1810年に93歳で没している。
 
 木喰の作った仏像をあちこちで見てきて、それらは庶民のための野の仏であり家の仏であるとわたしは知った。野の仏の典型は石仏である。
 万治の石仏は、慈雲寺から近い諏訪神社春宮の奥の谷間の畑にあって、まさにこれこそ野の仏である。寝起きのモアイのように、草むらの中にむっくりとふとんの中から顔を上げている。



 この石仏ができたのは17世紀の中ごろだから、19世紀はじめに来た木喰行道はこの石仏を見ただろうか。

 畑の中にごろりと横たわる大石の前面に、仏の身体を浮き彫りにしただけで、そのほかは手をつけずにそのままにして、頭を別の石で作って載せている。
 手をつけなかった石の部分がまるでマントか布団のように、小さな頭の後ろから裾野を広げるところが、この石仏を特異な形にしている。

 いや、実は頭は小さくはないのである。正面から身体の浮き彫りを見ると、それにちょうど良い大きさなのである。それが横から後から見ると、大石全体が身体となって見えるので、相対的に小さな頭となるのである。
 もともとの制作者は、磨崖仏と同じつくり方のつもりだったのであろう。できたときから村の人々も、普通の磨崖仏として正面から拝んでいたのであろう。信州にはあちこちにある石仏のひとつに過ぎないのであった。
 それを俄かに有名にしたのは岡本太郎であったという。かれは後姿を見て異形の造型としてこれを「発見」したと声高に言ったのである。そのときから観光名所となった。
 
 たしかに近代美術の眼からすると、自然石の加工部分と自然のままの部分のとりあいの面白さを、作者の意図としてみるとき、それは美術品として登場することがよく分る。
 これは柳宗悦が、木喰仏を「発見」したことを思い出させる。そのときから木喰の木彫像は、信仰と鑑賞とが拮抗するようになったのである。
 
 この石仏が木喰仏をもうひとつ思い出させるのは、立ち木観音である。木喰行道には、立ち木をそのままに彫り込む仏像がいくつかある。
 それが畑の中の大石をそのままにして、そこに仏を彫り込み、背中のほうは野の石のままであるのは、立ち木観音と同じである。
 立ち木観音が庭先に立っていたように、元治の石仏も田畑に立ち尽くしている。 

2011/05/05

418不思議な文章

繧ら嚀縺ァ霈ェ縺ォ縺ェ繧後・諢牙ソォ縺ォ縺ェ繧後k縲・縺昴s縺ェ繝悶Ν繝シ繧ー繝ゥ繧ケ繝サ繝溘Η繝シ繧ク繝・け繧剃サ翫%縺晉屁繧贋ク翫£縺溘>縲√◎繧薙↑諤昴>縺ァ蟋九∪縺」縺溘ヵ繧ァ繧ケ縺ァ縺吶€・閠∬凶逕キ螂ウ縲√◎縺ョ霈ェ繧堤ケ九£縺ヲ縺・%縺・→縺吶k莠コ縺溘■縺碁寔縺セ縺」縺ヲ縲・縲惨HOKU-YABO~鬟滄㍽譛帙€上→縺・≧螻ア縺ョ荳ュ縺ョ繝代Λ繝€繧、繧ケ縺ァ諤昴>縺阪j繝悶Ν繝シ繧ー繝ゥ繧ケ繧呈・ス縺励∩縺溘>縺ィ諤昴>縺セ縺吶€・

 これは誰もが経験あるだろうが、いわゆる「文字化けメール」の一部である。
 昨日ある人から貰ったが、どうしてこんなことになるのか不思議なので、思いついてここにコピーしておくことにした。
 ただそれだけのこと……、今日はヒマな誕生日なので、。
 今日、故郷に住む幼馴染の同級生が逝った。

2011/04/29

417言いにくいこと:震災犯人

 福島第1原発の地震被害による放射能拡散災害についての東電の損害賠償支払は、「原子力損害の賠償に関する法律(昭和三十六年六月十七日法律第百四十七号)」通称:原賠法)によるものらしい。
 原賠法第三条:原子炉の運転等の際、当該原子炉の運転等により原子力損害を与えたときは、当該原子炉の運転等に係る原子力事業者がその損害を賠償する責めに任ずる。
 ただし、その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によつて生じたものであるときは、この限りでない。
    *
 これは一般的な自動車事故によって、他者に被害を与えたときの賠償とどう違うのか。
「自動車損害賠償保障法(昭和三十年七月二十九日法律第九十七号)」(自賠法)という法律がある。
 自賠法第三条:自己のために自動車を運行の用に供する者は、その運行によつて他人の生命又は身体を害したときは、これによつて生じた損害を賠償する責に任ずる。
 ただし、自己及び運転者が自動車の運行に関し注意を怠らなかつたこと、被害者又は運転者以外の第三者に故意又は過失があつたこと並びに自動車に構造上の欠陥又は機能の障害がなかつたことを証明したときは、この限りでない。
    *
 原賠法の第3条とはなんだかニュアンスが異なる。
 原賠法が特に異常なことが起きた場合にしか責任が逃れられないのに対して、自賠法はいろいろと免責事項が書いてある。
 つまり原発に関しては、いったん事故がおきたらめったなことでは責任を逃れられないほどに大変なんだぞ、という“想定”が働いているらしい。
    *
 では民法の損害賠償責任はどうか。
 民法では損害賠償は2種類あって、債務不履行損害と不法行為損害である。
 債務不履行損害は、契約をしたのに果さなかったときに与える損害である。
 不法行為損害は、故意または過失による損害である。
    *
 さて、福島原発はこのどちらに当るのだろうか。
 この原発は事故がおきませんとくり返し広報したのに事故がおきたのだから、債務不履行だろうか。
 あるいは設計条件があまかった過失か、あるいは対策をするべきなのに怠った故意による不法行為だろうか。
    *
 原賠法に似ている「原子力損害賠償契約に関する法律」というものがある。
 第二条:政府は、原子力事業者を相手方として、原子力事業者の原子力損害の賠償の責任が発生した場合において、責任保険契約その他の原子力損害を賠償するための措置によつてはうめることができない原子力損害を原子力事業者が賠償することにより生ずる損失を政府が補償することを約し、原子力事業者が補償料を納付することを約する契約を締結することができる。
    *
 つまり、あんまりでかい被害で、東電が補償金を支払えなくなるといけないので、政府が一定額以上は、東電に替わって支払ってやる、政府と東電はそういう契約をする、こういう法律であった。
 要するに補償金に税金を投入することができるというのが法律の趣旨らしい。
 つまり、原子力に関する事故は、とてつもなく大きい可能性があることを“想定した”法律であった。
 こういうとき、想定外いや想定内という論争は、どこに位置づけされるのだろうか?
   *
 では上の条文に出てくる責任保険契約とは何だろうか。
 これは上に書いた自動車保険と基本的には同じで、原発だけでなくどこにでもある普通のことだ。
 さて、東電と契約して電気を使って使用料金を支払っているわたしたち、あるいは東電株を持っいる株主たちは、損害賠償の対象となる“他者”なのだろうか?
    *
 この地震では東電だけが“震災犯人”扱いにされているが、それは原発が壊れたからだろう。
 では、防波堤が壊れた、造成宅地が傾いた、埋立田圃が沈没した、ビルが壊れた、家が傾いた、これらによる損害には震災犯人はいないのか。
 つまり、原発賠償は政府契約があって税金の投入はありうるが、損害賠償レベルの話だけならこれらも原発も民法で同じように債務不履行損害かあ不法行為損害として扱うように思うのだが、そういうものではないのかしら?
    *
 確かにこれまで地震で何回も被害があったが、一般論としては東電のような震災犯人に仕立てて過失責任損害賠償をした例はないだろうから、これはいまさらなにをいうかの論ではある。
 であるにしても、これまでになかった原発問題で寝た子が起きた感じだが、東日本大震災は、震災犯人がいる地域といない地域が存在するのである。
 なんだか腑に落ちない。この差は原賠法できまるのか。
   *
 とまあ、こんな風に普通の庶民たるわたしは思っていて、ちょっと言いにくいことを書いたが、法律ではどう解釈するのでしょうか?
 念のため付言するが、わたしは原発廃止の立場である。
 人間が制御できないと分っていながら技術で押さえ込むという20世紀的工学の限界は、5回の大失敗(原爆2回、原発3回)で十分に身に沁みた。

2011/04/26

414ネパール400kmバスの旅

数えてみると海外旅行は16回目で訪ねた国は19だが、北アメリカとヨーロッパ諸国には何回もいった。アジアでは中国(香港、上海)、タイ(バンコク、アユタヤ)、シンガポールを訪ねている。
 仕事での視察や遊びばかりで、海外に滞在した経験はないから、どこの国も通りすがりである。事前知識のないままに訪ねて、文化の違いにびっくりして刺激的であったのはブラジルである。

 今回のネパール(カトマンヅ、ポカラ、ルンビニ)も実に刺激的であった。
 特別な目的があって行くことにしたのではなかったが、ある種の期待があったのは、日本の戦前農業社会と戦後高度成長初期とを同時に見ることができて、何かを感得するかもしれないということだった。
 これはおおよそは当っていて、わたしの1940年代の記憶と70年代の体験とが重なり合った風景に出会った。ネパールは想像を超える複雑な社会である様子で、何か新たなことを感得するにはまだ戸惑ったままである。

 このネパールの旅で海外旅行は終わりだろう。もう歳が歳だから、心はともかくとしても、体力が環境の大変化に耐えられるかどうか。いや、わたしはまだまだ大丈夫と思っているだが、周りに迷惑をかけるおそれがある。残念である。
 あ、そうじゃないな、これからはひとりで出かけよう。でかけた先でどうなろうと、そこの土にでも水にでもなればよいのである。それがいい。

 ネパール旅行を企画し導いてくださった「草の根校舎の会」のメンバー、関西からの同行者、現地のカトマンヅ日本語学院のかたがた、誘ってくれた大学同期の畏友たち、みなさまのご親切に感謝しつつ、ここにわたしの生来の辛口偏見も承知の上でのネパール雑感を記しておく。
 題して「ネパール風土探訪 400kmバス旅」である。

2011/04/22

413それでも花は咲く

 関東大震災から88年目、こんどは東日本大震災に拡大してしまった。
 あの時は9月でやっぱり人々は紅葉狩りをしたのだろうと思うのだが、今度は3月だから花見である。
 それでもやっぱり花は咲き、わたしも含めて人々は花見を楽しむのである。ただ、どこかしめやかで、大声のカラオケも聞こえない。
 花の下には屍体が埋まっていると書いたのはだれだったか、坂口安吾だと思っていたのだが、貧者の百科事典WEBネットで見たら梶井基次郎であった。
 高遠の花の下には石塔が立ち並ぶ。そうだ、東京の谷中も墓地も桜の名所である。

2011/04/12

412・地震大国ネパールのカトマンヅ盆地には揺れるとすぐ倒れそうな危険な歴史的街並み

 2011年3月11日の地震からしばらく様子を見ていて、どうやら揺れが収まったらしい27日に、かねてから行く予定だったネパールに発った。
 4月5日にネパールから横浜の自宅に戻ってきて、家人に揺れはどうだときけば、その後はないよという返事にひと安心。
 ところが、わたしの帰国を待ち受けていたように、大きな余震が続いておきている。また毎日が酔っ払いになる。
   ◆
 調べたら、ネパールは日本と肩を並べる地震大国であるらしい。
 5000万年前に、ユーラシア大陸の南の海岸にあったネパール(その頃まだネパールはないのだが)の、ずっと海の向うに離れていたインド亜大陸が押し寄せてきてぶつかってきた。
 そのプレートはちょうど太平洋プレートが日本列島の下にもぐりこむように、ユーラシア大陸の下にもぐりこんで押し上げてできたのがヒマラヤ山脈である。
その北には盛り上がったチベット高地ができ、南には高い山のシワ(マハバラート山地、シワリーク丘陵)がいくつもできて、南のはじっこに平らなところ(タライ平野)が残って、そこらが今のネパールである。
 現在も押され続けているから、日本と同じように地震が頻発する地帯なのだ。1934年にはカトマンズ盆地で大震災で、5000人近くも死んだそうだ。だが、その頃はラナ専制下の鎖国時代で、いまとは人口とは大違いであった。
ネパールの全人口は2300万人、一極集中カトマンズ首都大都市圏エリアはこの20年でも倍増の勢いでその13パーセントの300万人が住み、カトマンヅ盆地には100万人近くも住んでいる。
 ここで大地震が起きると大変なことになりそうだ。海からの津波はないが、ヒマラヤの氷河湖が決壊したら、山の上から津波がやってくる。
 一方、原子力発電所はないから、その点での危険性はない国である。水力発電所だけだそうで、乾季には需要に対応する発電ができなくて、わたしが行ったこの3、4月は夕方から夜中は計画停電が毎日であった。しかし、どこにも自家発電機がそなえてあるらしくすぐに切り替わり、誰も騒がない。
   ◆
 そのカトマンズ盆地の三大都市であるカトマンヅ、パタン、バクタブルの市街中心部を歩いてきたのだが、ここの建築は地震にまったく無防備としか思えない怖いところであった。
 あそこで地震にあったら、建物の下敷きになって死ぬことは確実である。
 まず基本がレンガ造建築なのがそもそもの問題だが、古いものはもちろんだが、新しいものでも見れば見るほどそれは地震で倒れるに違いないように見える。
 古いもので現に倒れかけているもの、傾いているもの、レンガ壁がはらんでいるものが街なかのあちこちにある。
 新しい建築も鉄筋コンクリートの細い柱と梁の間に、レンガを積上げて壁を作っているが、工事中を見てもどうもその壁には鉄筋補強がないようなのだ。
 コンクリート耐震壁らしいものはなく、壁という壁は全部レンガ積み、少ないけれどコンクリートブロック積みもあるようだ。
 古いレンガ造建物でも上に上にと増築を重ねているし、1階は店舗で開口を取るために木柱だけで、木材の梁で上の何層ものレンガ壁を支えている。偏芯荷重で柱列が明らかに傾いているものも多い。







                                                                       ◆
 古い建物はレンガ造らしいが、よく見るとレンガと木材の混合構造で、レンガ積みを木材で補強してるらしい。このことは王宮や寺院の塔を調査した、日本工業大学の報告書にも記してある。
 開口部のマグサは木材であるらしく、美しい歴史的建築の開口部の上には細かい彫り物をした木のマグサがかかっていて、そこから上にある何層ものレンガ壁を支えているように見える。
 修復した建築は壁の中の見えないところで補強してあるのかもしれないが、一般にはそんなことはないらしくて、なんだかかなり怖いのである。
 地震があるとそんな建築の中の住民はもちろんのこと、狭い道路にひしめく観光客も崩れてきたレンガでつぶされるに違いない。
 世界文化遺産の古都は、世界でも有数の危険都市である。


参照