2010/06/07

273【文化・歴史】木喰上人作の栃窪薬師堂にある仏像群は集落民の群像にちがいない

 木喰仏はやはり里の仏であり、庶民の家の仏であった。
 これまでにいくつか木喰仏のことを書いているが、このたび改めてそう思った。
 遅い春が終わったと思ったらいきなり夏の日照りの6月6日、栃木県鹿沼市の栃窪集落に、木喰仏を訪ねる機会があった。木喰上人の末裔、伊藤勇さんが企画してくださった。
 栃窪あたりは、関東平野が北にいたってそろそろ尽きようとする地域で、低い丘陵まじりののどかな田園地帯である。点在する集落ごとに今も寺や社が見える。
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 栃窪の薬師堂には、薬師如来、日光・月光両菩薩、十二神将など15体の木喰作の木彫像がある。1780年、木喰行道が弟子の白道とともにふらりと立ち寄って、50日間滞在したときの作品である。
 木喰は全国廻行の旅の途中、泊めてもらったもてなしに応えるべく仏像を彫って、世話になった人たちに、あるいは集落においていった。
 栃窪にその頃あった寺に滞在し、薬師堂を建立して15体の木彫仏像の群像を置いていったし、3軒の個人宅にも4体をおいていった。
 このたび、それらを守り伝える地元の人たちが薬師堂に集めてくださって、一度に見る機会があった。
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 1780年といえば木喰上人は63歳である。仏像を彫り始めてからまだ3年、後の微笑仏と比べればいかにも古拙とも言うべき出来である。3体の墨書には弟子の白道の名もあるそうだから、共作であろう。
 薬師堂の段に居並ぶ十二神将たちの顔が、実は栃窪集落の人たちを写したのであろう、との解説を聞いた。それが証拠には神将たちは、それぞれ鎌や鋤、火縄などを持っているのである。
 中にはバアチャンにも見える素朴にしてリアルな十二神将の表情は、なるほどそのせいであるのかと納得する。世話してくれた人たちへの似顔絵ならぬ似顔彫刻とすれば、その子孫が薬師堂で仏を拝めば、そのまま先祖の面影に再会することもできることになる。これは栃窪集落民の群像彫刻である。
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 集落内の家に伝わる木喰仏も見せていただいたが、これらは普段は仏壇に安置するのだろうが、家の人たちが抱いたり磨いたりするし、子どもの玩具にもなったという。
 薬師堂仏と家仏と比べて面白かったのは、薬師堂仏は初期木喰仏のどこか無骨さをみせているのに対して、家仏はながらく人の手に触られて黒光りし、彫りの鑿跡も丸みがついて、どこか後の微笑仏につながるやさしさが加わっていたことだ。
 そして家仏として大小二つの大黒天という福の神を遺しているところが興味深い。庶民には教義の難解な真言密教の仏よりも、日常の冨をもたらす福の神である。
 薬師堂の木喰仏たちも、多分、かつては抱かれ、遊びに使われてもいたのであろう。それがまさに木喰仏らしい信仰の仕方とも言える。
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 この薬師堂と木喰仏は、いまや24戸となったこの小さな集落民たちで維持している。薬師堂とその前にある神社、そして神社境内にある公会堂、これらは一体となった集落のコミュニティセンターであるようだ。
 薬師堂の木喰仏は県の文化財指定となって、かつてのように自由に触ることはできない。しかし文化財を守るために大谷石で囲われる耐火の御堂を、県からの補助金を入れて建てることができた。
 集落ではこの薬師堂で「天然仏」という毎年の民俗行事の祭礼をおこなっているそうだ。そのときは薬師堂も神社もひとつのイベント会場となる。祭例をつかさどるのは、近くの寺院の僧侶であるという。
 ここの木喰仏の現代における大きな意味は、集落共同体の象徴となって、コミュニティーの継続に寄与していることであろう。かつては信仰とはそういうものであったのだろう。
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 大正末期の柳宗悦による木喰仏発見によって美術となった後と、それ以前の無名の里の仏とでは、木喰仏のイコン性は社会的には大きく変わった。
 ここ栃窪集落でも、県文化財指定によって里におけるイコン性に微妙な変化があっただろう。全国各地でどのような変化があったか知りたい気がする。
 仏像や神像には、堂宇の奥深く安置されてめったに見ることもましてや触ることもできないものもあれば、全く逆に家庭の仏壇や神棚に置かれて日常的に目に触れ手にとるものもある。その間にはいくつもの段階があるだろう。
 木喰仏ははじめは後者であったのだろうが、今ではほとんどが前者になりつつあるようだ。
 栃窪の薬師堂の仏像群も、創建時は狭いお堂の中で手にとるようにしていたかもしれない。それが壇に飾られ、箱に入れられ、今では仏像群だけを隔離する鉄の扉の向うに安置される。
 江戸時代に一宿一飯のお礼に木彫をおいていく旅の勧進僧(勧進は乞食と同義語になった)を、集落や商人たちがマレビトとして歓迎したようだ。絵描きもそうやって旅をしていたし、俳諧の松尾芭蕉も似たようなものだ。
 マレビトを迎えた集落の人たちは、そのもたらしてくる見知らぬ外の世界の情報に耳をかたむけていたのだろう。その人と情報のイコンとして木彫像は後世にまで伝えられた。
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 鹿沼栃窪の薬師堂に行くときは車に乗せてもらったが、帰りは鹿沼駅まで2キロあまりを歩いた。
 日本各地を行脚した木喰上人が見た田園風景を、木喰上人と同じ視線と歩みでみてこそ、木喰仏の里の仏としての意味が分かるかもしれないと思うのである。
 現代のスピードで木喰仏に行き着き、仏像を鑑賞だけしただけまた現代のスピードで立ち去っていては、あまりに見えないことがありすぎる。
 木喰上人を接待し、木喰の仏像を大切に守ってきた集落の田園、家屋、寺院、神社など、木喰の風景をゆったりと見たかったのである。
 もっとも、歩く道には自動車が行き交って、うるさく危険であり、本当なら田圃の中の畦道を通りたかったが、道不案内では仕方なかった。
 次の3回目に丸畑に行くときは、あの静かな林の中の坂道をゆっくりと歩いて登ってみたい。

◆参照
3つの展覧会http://datey.blogspot.com/2008/07/blog-post_11.html
木喰微笑仏の微笑とはhttp://datey.blogspot.com/2009/04/115.html
木喰の風景https://sites.google.com/site/machimorig0/mokujikibutu

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