2015/09/20

1126【新国立競技場騒ぎ】白紙見直し公募プロポーザルに応募はたったの2組しかも出戻りだらけでどこが白紙だよ

●大山鳴動応募はたったの2組かよ
熊五郎:ご隠居、大変ですよ、神宮外苑にクマが出るそうですよ。
ご隠居:なんだい熊さん、騒々しいね、クマはお前さんだろ。
:えへへ、実はね、例の新国立競技場の白紙見直しコンペね、それに隈研吾が応募するんですって。
:ほほう、あそこにもクマが出るのか。
:公募プロポーザルっていうやり直しコンペに、参加登録が始まったんですがね、ニュースによれば、応募者はたったの2組だけだそうですよ。
:なんだよ、それじゃあ公募って意味がほとんどないぞ。
:しかもですよ、大成建設組と竹中・清水・大林連合組だから、大手4社が2手に分れて応募ですよ。
:ふ~む、ちょっとニュースを見せてごらん、なになに、大成建設+梓設計+隈研吾建築都市設計事務所組(大成グループ)と、竹中+清水+大林+日本設計+伊東豊雄建築事務所組(竹中グループ)、ほほう、大勢いるようだけどこの2組だけかい。
:そう、もっともJSCは応募者を公表しないから、新聞屋の取材で、実はほかにもいるかもね。

●大成建設ツバつき工事だもんなあ
:大手ゼネコンじゃないと応募は難しいから、いるとすれば海外ぜねこんかもなあ。大手ゼネコンと言えば、最大手の鹿島が参加しないのは、おかしいね。はは~ん、これは大手5社で相談して割り振ったな。
:談合ですか。
:プロポーザルだから入札のいわゆる談合じゃないけど、まあ、調整だな。鹿島が仕切り役になって調整したから応募から外れたんだろうかなあ。
:じゃあ、鹿島はこの件ではすっかりチャンスを逃したってことですか。
:いや、そうでもないだろうな、鹿島はいま建っている秩父宮ラグビー場の工事をしたから、こんどはその移転建て替え工事をやるってことに、業界内の仁義で決まってんだろうなあ。
:あ、なーるほど。で、まだ案も出てないのに、ニュースに「大成建設が本命と見られている」って書いてありますよ。
:それはだな、大成は壊した旧国立競技場を建設したし、白紙見直し前の新国立競技場の工事の一部をすでに受注していたって、実績があるからだよ。まあ、大成のツバがついてるから、これも業界仁義としてほかのゼネコンは手を出さないんだろ。
:でも、竹中・清水・大林ってのも応募するらしいですよ。
:だから調整したんだろ、だって、大成グループだけ応募して当選なら、あんまりにも業界仁義が見え見えで、世間がゴタゴタ言うに決まってるよ、そこで、その他3社がおつきあいで竹中グループの参加ってことにしたんだろうなあ。
:で、大成グループが当選確実なんですか。
:そりゃわからないが、業界じゃあ自他ともにそう見ているだろうなあ。だって大成と梓は白紙見直し前の設計と工事にかかっていたんだから内容を熟知しているよ、これまで受注した設計図やら手当した資材だって使い回しできるだろうよ、単にツバつき以上のものがあるよ。ここがやるのが合理的とさえいえるね。安いか高いかが問題だけどね。

●看板オジサン建築家たちの役目は
:じゃあ、なんで隈さんが出て来るんですかい。
:そりゃまあ、大成と梓じゃあ地味すぎるので、だれか看板娘がいるってことだろ。
隈研吾デザイン?歌舞伎座
:プッ、娘じゃなくて看板オジサンですね。隈さんて歌舞伎座のデザインした人でしょ、でも、あれって、建て直す前のデザインをコピーしただけですよ、看板になるほど腕があるのかなあ。
:まあ、デザインは下手だけど、口は立つし、なんたってエライ国立大学の先生だからね、看板になるよ。
:でもね、竹中グループには伊東豊雄って人がいますけど、これも看板オジサンですか。
:あ、そうだね、面白いね、国立大学教授二人が、それぞれゼネコンと徒党を組んでアルバイト競争だよ。ま、伊東さんの方が隈さんより、はるかにデザインはうまいね。
:じゃあ、あのザハ・ハディド案みたいな、ものすごい姿のやつを出してくるのは、隈か伊東か、どっちでしょ。
:そりゃ伊東の方が出しそうだけど、カネメがなあ。伊東はすでに国際コンペに出して落選してるね。
:あ、そうでした、そういや、落選したからかどうか知らないけど、ザハ案にケチつけて、また別の案をつくってこっちがいいなんて言って、なんかヘンでした。
:ま、こんどは安かろう早かろう案を求めるコンペだけど、それだけじゃあいくらなんでもひどいから、ちょっとお化粧をつけるのを看板オジサンに頼むんだろね。
このまえはビフテキだったけど、こんどは素うどんですね。キザミ葱とか天カスとかを看板オジサンが作ってのせる、てなところですかね。これぞ日本流デザイン、、。

●出戻りZHA・日建組はいさぎよい覚悟の心中
:このメンバーを見て、大成、梓、竹中、日本、伊東が、白紙見直し以前に関係していたから、応募8社中の5社がいわば出戻りだよな。清水と大林は、技術協力一度手を挙げたことがあるから、半出戻りだな
:じゃ、出戻りじゃない新入りはクマ一匹だけか。ザハ・ハディド、日建、アラップが、出戻りしてこないのはどうしたんでしょね。
:うむ、アラップは構造系だから別としても、ザハと日建は組んで応募するって公言してたよな、どうしたんだろ。
:あのね、組まなきゃならないゼネコンが見つからなかったから応募できないと、ザハがネットに公表して言ってますよ。
:そうか、彼女は白紙見直し事件以来、この事件の奇妙さについてみんな黙ってる中で唯一アピール公表していたよなあ、えらいもんだ。そういう西欧建築家的な自己表現が日本ゼネコンに嫌われたんだろうね、で、組んだ日建ともども沈没。
:ほほう、出戻りカップルで引き取ってくれるゼネコンを、裏相談じゃなくて公表して求めていたけど、どこからもオファーが無くて、とうとう出戻り心中してしまったって、可哀そうにねえ。
:いや、そうじゃなくて、これは覚悟の心中だな、ゼネコン絶対優位のプロポだから、どこかのゼネコンに拾ってもらわないと建築家は応募できないだろ。
:そうですね、だから応募グループをつくるのを裏工作であれこれやるんでしょ。
:それが普通なのに、ZHAザハと日建は早くから組んで応募するのでゼネコンを探すと公表してたね。設計施工型プロポで、こうも堂々と参加側でメンバー公募した例は聞かないね。白紙見直しと設計施工型公募への抗議行動だったようにも見えるね、えらいもんだよ。
:あっ、そうですか、じゃあ、これはいさぎよい覚悟の出戻り心中なんですね、エライッ、、え、ホントかなあ。

●さて応募2組をどうさばくのか審査が楽しみ
:まあ、これで大成グループに決まっても、談合プロポーザルとかなんとか、うるさいこと言われそうだな。
:じゃあ、あっしが審査員ならこうしますよ、2グループとも当選、全員で仲良くやってくれって。
:おやおや、白紙見直しってそういうことかい、どこが白紙なんだよ、もととおなじじゃないかい、けしからん、え、おい!
:興奮しないでくださいよ、冗談ですよ、決まったわけじゃないんだから。
:あ、ごめん、いかんいかん、おまえさんのいかにもありそうな妄想に付き合っていたら、ついそうなったと思ったよ。
::なに言ってるんです、ご隠居こそ、実はなんにも知らないのに勝手に妄想ばっかり。
:うん、まあ、ありがたいことだよ、このところ翼賛選挙、原発再稼働、新国立競技場、普天間辺野古移転、憲法解釈変更、15年安保騒ぎなどなど、あれこれ政治のゴタゴタで妄想の種が尽きないからね、ボケ進行がこのところずいぶん足踏みしているんだよ。
:おお、実はこのドタバタはアベ内閣の高齢者認知症防止の福祉政策なんですね。
:そう、国会デモにも行って腰椎負傷治療リハビリにもなったしね、感謝してますよ、アベさ~ン。

参照
◆【五輪騒動】新国立競技場建設と神宮外苑再開発瓢論集

2015/09/08

1125【新国立競技場騒ぎ】ザハ・ハディド+日建設計の出戻りカップルが応募、これで大成と組めば無敵だけどその前に日建は説明責任を果たせ

●白紙コンペに日建+ZHAチームが応募だとさ

『今度は設計施工チームを募集するってんだけど、応募する立場から言うと、これまでかかわってきた設計事務所とゼネコンが、もう飛び抜けて有利でしょ、それでもコンペやるのかい、不公平でショ。
 だって、規模変えたってやるのはオリンピックだし、中身と内容はほとんど変わらないし、建てる場所も変わらないんだから、これまで作業してきた設計事務所とゼネコン企業は、コンペの前に全て内容を把握してるんだからね。御手付きだよ。

 つまり常識から言えば、ZHA(ザハ・ハディド)、日建設計、梓設計、日本設計、アラップのどこかと、竹中工務店または大成建設が組んで応募すれば、ほかの応募者は敵いっこないでしょ。もっと早く言えば、竹中または大成(あるいは竹中大成連合軍)がコンペに勝つに決まってるじゃ~ン。土建業界の仁義から言えば、もう唾をつけている竹中と大成を差し置いてコンペに応募するなんて、業界仁義破りのゼネコンはいないでしょ。
 そういうデキコンペ、談合コンペになることを承知でやるんだろうなあ

 ここまでは、以前にわたしのブログに書いたことである。


http://datey.blogspot.jp/2015/08/1120_28.html



 ところがなんと今朝の新聞によれば、ZHA(ザハ・ハディド)と日建設計の出戻りカップルが、どこかのゼネコンと組んで応募するそうだ。
 ・日建設計のプレスリリース

「敷地条件など膨大な協議を積み重ねてきた知見と経験を活用したい」と、日建設計は言う。そりゃそうだろう。イチから応募するところと大違い。

2015年9月7日の朝日新聞東京版朝刊


●出戻り組チーム応募なら無敵のデキレース

 これで大成建設と組めば無敵である。そう、クビになったチームが戻ってくる。離縁された嫁と婿の「凱旋出戻り」
 元の鞘に収まって公募に当選(その可能性は大の大)、また設計から施工までを請け負うことになれば、多分、少なくともこの前支払った設計料の8割分くらいは安くしてくれるだろう。
 もしそうなると、ますます白紙見直しとは、いったい何なんだよ?

 そして、実情を全て知っている出戻り組にとっては、超飛び切り有利な条件での公募とは、いったい何なんだよ?
 他の応募者がスタートラインに立っているときに、事情を知り尽くしている出戻り組は、既にゴール寸前にいるも同然。これでも白紙公募なのか?
 ほんとに白紙なら、出戻り参加禁止にするべきだと、わたしは前にも言っている。そうしていないのは、デキレース承知の公募である。


●白紙見直しそのものが白紙見直しになるか
 
 誤解されないようにつけ加えておくが、わたしはザハなど出戻り組が応募することにイチャモン付けているのではない。
 ぜひとも、これまでの知見(つまり税金から支払った設計料)をしっかり生かすつまり2度払いしないで済むことができる出戻り組で、これから先もやってほしい。
 どうせデキレースと分ってるんだから。

 わたしがイチャモン付けているのは、おバカな政府に対してである。

 あの体制で工事費を低減するように設計変更すればよいのに、世のアホバカネットスズメどもに踊らされて、気取って白紙撤回なんて首相宣言なんてことやって、無駄なカネと時間を消費する公募ともいえない公募をするなんて。

 そして大きな期待をしているのは、この出戻り組の手で白紙撤回前と同じ格好の新国立競技場が、超安値で出現することである。

 これで結果的には白紙撤回がまた白紙撤回のうっちゃり大逆転になってしまう。面白いよなあ、そうなったら笑えるなあ。

●日建には白紙撤回事件がなぜ起きたか説明責任がある

 なお、わたしは日建設計には不満がある。白紙撤回になってから、ザハはきちんと抗議アピールしているのに、日本側の代表である日建は、ひとことも言っていない。
 あの首相が突然に宣言した珍妙な白紙見直しの前に、設計チームではなにが起きていたのか、きちんと世間に言うべきである。なぜ、こんな馬鹿らしいことが起きたのか、建築家として何も言えないの?

 公金による設計料でショ、流行語で云うと、説明責任がありますよ。このことも、わたしは以前から言っている。

 あ、忘れてたけど、第三者検証委員会は生きてるのかなあ。こちらが言ってくれるのを待つのかなあ。

 ヤジウマとしては、どこか海外ゼネコンが超安値で殴りこみをかけてくると面白いことになりそうだと、おおいに楽しみにしている。待ってるよ、何の関係もないんだけど、暇つぶしにね。

 もう一つ付け加えるが、わたしはオリンピックそのものを白紙すればいいのにと考えるひとりである。


蛇足

国際コンペでSANAAと組んで、ザハに負けたが実利を取るとて、
JSCでザハのお相手、そろそろ仕上げというときに、
なに血迷ったか時の宰相、鶴の一声白紙撤回、

一方的な契約破棄で、いったんクビになったけど、いつのまにやら日英カップル、SANAAに肘鉄食らわして、
出戻りカップルまた応募、
出戻りカップルまた応募、出戻りカップルまた応募、あのTゼネコンと組むならば、
デキレースって言われても、
デキレースって言われても、
デキレースって言われても、今度は一等間違いなし、
こいつぁ秋から、ヨッ、おメデテエわい~
こいつぁ秋から、ヨッ、おメデテエわい~

国際コンペで出会ったお似合いカップル、出戻り応募の未来に幸いあれ
(追記 2015・09・18)
 今日の新聞やらネットニュースによると、大成建設(出戻り)が梓設計(出戻り)・隈研吾と組み、竹中(出戻り)・清水・大林が日本設計(出戻り)・伊東豊雄(半出戻り)と組んで、応募するとのこと。日建・ZHAの出戻りコンビはまだゼネコンが決まらないとかで、残る大手は鹿島だけだが、鹿島は応募に乗り気じゃないそうだ。
 隈と伊東という国立大学教授が競争して、大手ゼネコンと組んでのアルバイトかい。ま、大成と組んだやつが勝つにきまってる業界仁義でしょ、新聞情報にも大成が有力と書いてある。

参照
◆【五輪騒動】新国立競技場建設と神宮外苑再開発瓢論集


2015/09/02

1124【五輪騒動】エンブレムも新国立競技場に倣って白紙撤回とは白紙大好き日本オリンピック屋さんたち

●おお、ついにオリンピック辞退で白紙か
熊五郎:ご、ご、ご隠居~、て、てえへんだあ。
ご隠居:なんだよ、熊さん、朝っぱらから、わたしゃまだ顔も洗ってないよ。
:ほれ、これ、これ、辞退して、白紙撤回ですってよ。
:どれどれ、まだ寝ぼけていて読みにくいな、なに、「五輪2020夏開催地再公募」、「東京都辞退で白紙」だって、、、おお、とうとうオリンピック辞退か、1940年以来だな。

:何を読んでるんです、ボケちゃいけません、「五輪エンブレム再公募」「佐野氏辞退」ですよ。
:あ、そうか、ようやく目が覚めてきたよ、オリンピックやめりゃいいと思ってるもんだから、ついそう読んじゃうんだな。で、エンブレムってなんだっけ。
:ほら、オリンピックに使うマークですよ。で、そのデザインが盗用だとかって騒がれてたでしょ、あれですよ。
:おお、そうそう、ネットの岡っ引きどもが、あっちこっちから似た絵を探し出してきて、盗人め御用御用って騒いでいるな。で、デザイナーはついに盗用と認めたのかい。
:いや、オリジナルデザインだと頑張ってますよ。
:じゃあ、なぜ辞退したんだろ。
:それがねえ、それじゃない余罪が見つかって、ネット岡っ引きにしょッぴかれたうえに、家族まであれこれと締め上げられて、もう嫌になったって、そう言ってますよ。
:あらあら、別件逮捕かい。ネットの罵詈雑言ばかりか、日夜マスコミ連中に追っかけられたんだな。
:叩けば出てくるホコリとはいえ、一等賞取ったばかりにボロクソ、ちょっと気の毒なような。

●ネット社会に巣食う一般国民様たち
:でもこの記事じゃあ、オリンピック屋の方では、「一般国民の理解が得られなくなった」から取り下げるんだ、なんて、ご大層なことを言ってるよ。
:一般国民って罵声しか云わないネットに巣食うネットシラミのことですかね。一般と一般じゃない国民と、どう違うんでしょね。
:この前の新国立競技場の白紙の時もそうだったけど、例えばパブリックコメント募集とか、対応する委員会とか、正式な手続きを経ないで、あれこれネットで云われたからと、突然白紙撤回って、なんだか大人げないねえ。
:そうそう、いじめっ子があちこちで悪口言うもんだから、泣きだしちゃったってね。
:ネットでぐちゃぐちゃ云うのが「一般国民」の意見となって、ネットの外の国民は知らない間に付き合わされるって、なんだか怖い世の中だねえ。
:「蚊帳の外」じゃなくて「ネットの外」と言い換えるべき時代ですね、まあ、蚊帳もネットだけど。
:わたしもツッツイタ―とフェイスバカってSNSをやってるけど、ネットスズメがうるさいよ。
:なに言ってるんです、ご隠居がネットスズメの一羽でしょ。
:ま、そりゃそうなんだけどね、ネットシラミの罵詈雑言がすごいんだよ。ちゃんとした自分の意見を言わないで、他人の意見をシェアするだけで尻馬に乗って、ただただ悪口だよ、品がないねえ。
:ふん、ご隠居はおヒンがありますからね。でも、そういうのを見てると、「理解を得られない一般国民」ばかりいるような気がしてくるんしょうかね。
:もう少し一般社会での言葉のやり取り礼儀作法を会得して、それからネット社会に入るようにしないと、このままだとヘイトスピーチみたいに、ネット発言にも公的介入規制が起きるかもと心配だよ。

●新競技場やり直しコンペは不公平ハンディつき
:9月1日から、新国立競技場の白紙撤回出直しコンペが始まりましたよ。ゼネコンから1550億円できるデザインと技術に関する提案を公募するんですって。
:ほほう、で、いつが締切なんだい。
:11月16日ですって。
:そりゃすごいねえ、あんなでっかい建物のデザインと技術提案を、たった75日間で作れっていうのかい、ロクな提案がでないだろ。
:でもね、これまでJSCに雇われてやってきた大成建設と竹中工務店なら、もう事前に良く知ってるから大丈夫、できますよ。
:じゃあ、公平じゃないぞ、多額の税金を使う施設を、そんな不公平コンペやっていいのかい?、え、で、大成、竹中に参加資格無しとは書いてなんだな、不公平ハンディつきコンペかよ~。
:い、痛い、そこ離して、興奮しないでくださいよ。書いてないですね。
:ごめんごめん、
:ちょっと期待するのは、海外のゼネコンが殴り込みかけてくるかもしれないってことですね。
:おお、面白い、日本海と太平洋の向うのゼネコン様、チャンチャンバラバラやってくれ、期待してるよ~。
:それにしてもですよ、ここまで事態が進んだのに、ずっと前からご隠居が言ってるけど、日本の建築家は黙ったままで何してるんでしょうね。
:ハディドはちゃんと文句言ってるけど、日本の建築家も建築家協会も沈黙のまま、ドタキャンでこんなにコケにされてるのに、怒らないんだね。エライモンダ。

●やり直しエンブレムはこれだっ
でね、エンブレムのコンペを、またやるんですよ。
ということは、これまでに作ったポスターやグッズは、みんなゴミになるんだな、もったいない。
あ、そうでもないでしょ、幻のエンブレムグッズなんてマニアの評判になり、結構高く売れるかもしれませんよ。
なるほどなあ、でも、バカバカしいね。
:もしかして、はじめっからそのつもりで、わざと辞退取り下げしたとか、、。
:おまえねえ、わたしの野次馬根性が伝染したな。
:エンブレム公募コンペに応募するかなあ、ねえ、このまえ、あっしの新国立競技場新案の絵を見せましたよね。
:ああ、明治神宮そっくりの屋根が乗っかってるやつだろ。
:でね、こんど考えてる新エンブレムは、これ、どうでしょ。(右上図)
:どれどれ、なんだよ、五輪マークしかないよ、真っ白じゃしょうがないだろ、ま、盗用じゃないことは確かだけど。
:白紙撤回コンペだから白紙エンブレム
:ケッ、座布団一枚あげようかい。じゃあ、わたしの案はこれだ!(右下図)
:な、なんですこりゃ、1964年エンブレムのパクリ!
:それを言うなら、本歌取りと言ってほしいね、日本古来伝統的な立派なデザイン手法だよ。1964年東京オリンピックへのオマージュ

参照
◆【五輪騒動】新国立競技場建設と神宮外苑再開発瓢論集
http://datey.blogspot.jp/p/866-httpdatey.html


2015/09/01

1123【東京風景】いまどき大阪阿倍野ハルカスに対抗して東京駅北口で超高層ビルの高さ競争する不動産屋は遅れてるよ、社会貢献競争しなさいよ


●大阪に負けないぞと東京駅前に日本一高いビル計画

 東京駅北口の前に、日本一髙いビルを建てる計画という新聞記事(2015年9月1日朝日東京版)である。
 これは大手町の日本ビルがあるブロックらしい。あの巨大な戦艦のごとき日本ビルが消えるのか、ちょっと感慨無量になる。だって、あそこには、ながらく通勤したものだったから。

 それにしてもあの丸の内・大手町で390mもの高さのビルを、あの三菱地所が建てるとは、時代は大きく変わった。
 だって、丸の内に最初に超高層ビルが建つことになった半世紀前のこと、頑強に反対したのが三菱地所だったのだから。
 しかも、大阪のアベノハルカスより高くして、日本一にするんだそうだ。いまどきそんな競争してもしょうがないと思うが、不動産業界はそういうものか。

●むかし超高層にあれほど抵抗した三菱も変ったものよ

 1966年、東京海上ビルが超高層建築に建て替える計画を出したところ、丸の内には超高層は似合わないと反対運動が起きて、丸の内景観論争が起きた。
 皇居を見下ろすのはけしからんという保守派、いまや超高層建築による都市づくりが先進国の当りまえという建築界、政治家も絡んで揉めたのだった。当時のある建設官僚の首が飛んだ。
 その裏には、たくさんの既存ビルを持つ三菱地所の保守的な不動産業の立場があったにちがいない。近くの他に新ビルが建つとテナントが流れてしまうからと思ったのだ。
 結局は100mの高さまではよろしかろうと、あいまいな手打ちをした結果が、赤い色の東京海上ビルの登場であった。
*参照:1966年丸の内美観論争についてはこちらから

 その後、丸の内に三菱所有外のところに100mビルが次々に建ちだす。1980年代になると、三菱地所も超高層時代の到来に気が付いたらしい。
 あれほど超高層に反対して100mで妥協したのに、コロッと態度を変えて200mの超高層群への建て替え計画『丸の内マンハッタン構想』を発表して、世の総スカンを食ったこともあった。
丸の内再開発計画(マンハッタン構想)(三菱地所1988)

 それでも、ついに丸ビル、新丸ビル、パークビルなど、200m級への建て替えまでもってきたのは、さすがに政治的に強い三菱である。

 そして今、400mへの建て替えとなって、むかしむかし、天皇様を見下ろすのは恐れ多いと言っていたあの三菱さんも、なんとまあ変れば変ったものである。
 皇居見下ろし自由自在である。あ、皇居側には窓をつけないとか、、。
 
*参照:東京駅関連歴史年表 

●わたしには懐かしいあの日本ビルが消える

 さて、その建て替える「日本ビル」のことである。東京駅北口をでた真正面にドデンと立つ巨大な貸ビルである。今やむかしむかしになってしまったが、そこにあった「RIA」のオフィスに、わたしはながらく通勤したものだった。
 RIAの創立者の山口文象は、戦前から有楽町近くの旧い赤レンガ建物「三菱仲四号館」に事務所をかまえていたが、それをRIAの事務所にしていたのを、建て替えで追い出されて日本ビルに移ったのだった。
 それがいつだったか覚えていないが、1960年代の末頃だったような気がする。
 
 記憶では、初めは第3大手町ビルという名であったが、これにもうひとつのビルをくっつける様な増築をして、日本ビルと名前を変えたような気がする。
 中庭をとり囲む平面的にばかでかいビルで、エレベーターバンクが離れて2か所あり、長い長い廊下がビル内をぐるりと一周していた。
 ビルの中で、初めは4階だったが狭くなり、その次は11階、そしてまた5階へと、引っ越しをした覚えがある。
 外に出ないでも暮らせるほどに、なんでもかんでもそろっていた。よく徹夜仕事をしたが、さすがに風呂屋は無い。それでも、便所にある掃除用の大きなシンクに水を張って、夜中に入浴した男もいた。

●それだけデカく建てるなら何を社会貢献してくれるのか

 さて、そんなでかい建物を建てるのだから、どんな社会貢献するのかと見たら、なんだ、陳腐な広場だけでしょ。広場も歩行yさネットワークも、もともと現在あるでしょ、新しい貢献じゃないよ。
 下水ポンプ場の整備をもっともらしく挙げているけど、それももともとここにあるものだから、新たな貢献じゃないよ。

 これだけドデカイ物を建てるのに、なんだかチンケなんだよなあ。
 あのね、どうです、目の前の日本橋川の上にかかる、あのうっとおしい首都高速道路を、新ビルの胴中に抱え込んでくださる、ってのをやってくださいよ。
 そして歴史的橋梁の常盤橋と、日本橋川の水面を復活してくださいよ。
 
 と思って、三菱地所が公表した計画概要にある絵を見たら、おお、日本橋川の上にある首都高速道路を描いていないぞ!、すごい、水面が光って見えているよ~。 
 えらいっ、さすが三菱様、新ビルの中に取り込むんですね、パチパチ(拍手の音のつもり)。

できあがるのを楽しみにしていますよ。
 あ、いや、ちがうぞ、、もっとよくよ~く見たら、薄い細い白い線で首都高らしきものが、川の上に描いてあるなあ、、、な~んだ、騙し絵かよ~、ひどいなあ、ガックリ。
 あのねえ、不動産屋さんは、高さ競争じゃなくて、社会貢献競争をしなさいよ。
 ざっと調べたら、現況でビル床面積は32万㎡を超える。これを壊すと、どれだけのゴミが出て、どれだけ環境負荷を増大するのだろうか。


参考「常盤橋街区再開発プロジェクト」計画概要について](三菱地所発表)より 
http://www.mec.co.jp/j/news/archives/mec150831_tb_390.pdf

東京駅復元反対論集(伊達美徳「まちもり通信」内)
まちもり通信(伊達美徳アーカイブズ)


2015/08/31

1122【15年安保騒動】国会議事堂周辺で55年を隔てるふたつの安保反対デモに参加したわたし

小雨が降る国会議事堂前、歩道は満員、議事堂正面の道路は車道を埋め尽くす人々、いったいどれほどの人数だろうか。
 2015年8月30日、午後4時、わたしは小雨にけぶる議事堂のとんがり屋根を、人々の傘の波の上のはるかに向うに見ながら、歩道の草の上に立ち尽くしていた。
 安保法制案も不安だが、それよりも憲法解釈もその変更も余りにも軽々しいことが大いなる不安であり、それがここに居る理由だ。
地下鉄駅を出るともう人がいっぱい

 思いだせば、1960年6月半ばの日々、学生だったわたしは大勢の仲間とここにきて、渦巻きデモの中にいた。
 だれもかれも腕を組みあい、車道いっぱいに広がり、キシヲタオセッ、アンポハンタイッと怒鳴りながら、突然にジグザグと小走りになるのは、若い体力があったからこそできた。山岳部員だったから、登山靴でやってきたものだ。

 いま、腰痛でヨロヨロ爺いには、あんなことはできっこないが、まわりをみれば、今のこの群衆は腕を組んだりはしない。デモ行進もしない。
 一人一人がそれぞれに思いをもって参加しているのだろう、肩が擦り合うほどに歩道に立ち並びながら、雨傘の下で口を合わせてシュプレヒコールを唱える。叫ぶのではない。
集中しすぎないように警官による誘導規制が厳しい
中には「日比谷公園でも集会がありますので、
そちらへどうぞ」と言う警官もいる

 シュプレヒコールも、多様である。「これが民主義だ」というのもあったのが、フムそうかとも思いつつ、こうしないと民主主義はないのかと、ふと思ったりもした。
 1960年にはなかった女性が登場するのは当たり前で、時には少年の声も登場する。そうだ、60年の時はラウドスピーカーがなかった。段ボールのメガホンだった。

 あの1960年安保反対デモには、職場や大学の幟がたくさん立っていたものだ
 個人で参加というよりも、ある特定集団による示威行為であることが、政治へのアンチ意見を言うには効果的だとの思い込みがあった。
 だから個人によるデモ参加に躊躇があった。

 そこに「声なき声の会」という旗を掲げて、誰もが自由に参加するデモ隊を組んだ人たちがおり、これに自由参加した市民が多くいた。
「声なき声」とは、時に首相の岸信介が、大きな反対のデモ隊の声ではなくて、安保条約支持の国民の声を出さない声を聴くのだと言ったことに由来し、それへの対抗である。
 岸さんの孫の安倍さんも、声なき声を聴きつつあるのだろうか。
各々が手づくりプラカードを掲げる

 いまは、ネット社会となって、個人で参加が当たり前、わたしもface bookをみて参加したのだ。
 デモの中に団体の幟や旗は、無いことはないが、めったに見ない。それを見つけると、ちょっとダサいなあなんて思ってしまう。
 そこに大衆行動の時代的変化の違いがあるのだろう。
 だが、それだけ時代が違っていても、選挙でこの政権を圧倒的に支持した大衆がいることを、なんとも解せない。選挙する大衆と、今ここにいる大衆とは違うのだろうか。

 頭の中に渦巻く1960年のデモを思い出しながら、華やかに広がる彩り豊かな傘の海をと、まわりのいかにも小市民的な人々の姿と声に包まれて、小一時間ばかり立ち尽くしていたのであった。
色とりどりの傘の大津波が議事堂に押し寄せる
そろそろ腰が痛くなってきて、人波をかき分けつつ、地下鉄駅に向かってユルユルと退散した。

 この前ここにデモに来たのは2013年5月の原発反対、その前は2012年7月で原発再稼働反
対、そしてその前は1960年6月安保条約反対であった。
 そして安保条約は自然承認になり、原発は再稼働し、いま安保関連法案は国会可決が目の前、さてさて、わたしは何をしているのだろうか。
ベビーカーに幼児連れ参加者は雨宿り中
「60年安保」デモは、思いがけなくも、わたしの人生をちょっと方向転換させた事件になったことは事実である。それが良かったか悪かったかは、人生は二つは無いからわからない。
 55年の後の「15年安保」デモは、もう何もわたしにもたらすものはなさそうだ。
 それでもなお、こうして異議申し立ての人々の渦の中の一員であったことに、とりあえずは意義があったと思うしかない。
 
参照
・2012年7月原発反対で52年ぶりの国会議事堂デモに参加して思うこと多々
http://datey.blogspot.jp/2012/07/641.html

・2013年5月国会議事堂・首相官邸周辺での原発反対デモはまだまだ続く
http://datey.blogspot.jp/2013/05/783.html

2015/08/29

1121【新国立競技場騒ぎ】もう新整備計画を出したとは先に出すべき第三者検証委員会は有識者会議と同様にバカにされた

あまりにドジな事件で面白い、おかげでボケ進行遅延になってありがたい、
でも、イチャモンをこうも続けると、さすがに疲れるよなあ~

●バカにされたのは第三者検証委員会だよ
熊五郎:で、出ましたよ、ご隠居~。
ご隠居:な、なんだい、もう幽霊のシーズンじゃないよ、秋風が立ってるよ。
:ほれ、この新国立競技場ハックションでっかい、いや、白紙撤回出直し記事ですよ。
:あわてちゃいけないよ。ほほう、第三者検証委員会がもう報告を出したかい。
:えっ、いや、そうじゃなくて、白紙見直し整備計画ですよ。コンペもやり直すって書いてありますよ。
:え、なんだい、そりゃ、オカシイだろ。間違いだろ、まだ出るはずがないよ。
:何ボケてるんです、ここにそう書いてありますよ。

:どれどれ、ほ~、、、、やっぱりおかしい。だって、なんで白紙撤回にしたのか、その原因を調べる第三者検証委員会ってのをつくっただろ、その検証が終わって反省をしてから、次にやり直し整備計画ってのができるはずだろ、これじゃあ順序が違うだろ。なんの反省もしてないよ。
:あ、そうだ、また失敗しないように調べてからやるはずですよね、おかしいなあ。
:もう次の整備計画が出たとしたら、第三者検証委員会はまたバカにされたんだね。
:またって?
:ほら、解散したけど「有識者会議」ってのがあっただろ、あれだよ。
:あ、そうそう、承認したとたんにひっくり返されてスゴスゴのおバカ会議ですね。
:まあ、第三者検証委員会に期待はしてないけど、こうやって見事にないがしろにされると、またかよ~って言いたいね。委員の方には気の毒だけど、もう忘れられたんだねえ。早いなあ。

●これでいちばん得するヤツはだれだろう
:でね、アベサンはたしか白紙撤回見直しって言いましたよね。ところがこの記事みても、どこが白紙かわからないんですがね。
:どれどれ、ほほう、うん、うん、、、、ふ~ん、これが白紙なら烏も白鳥だな。
:へへッ、闇夜も真昼ってね。そうですか、やっぱりね。
:これなら今やってるのを、ちょいと設計変更すりゃいいことだよ、なんだまた大金掛けてコンペからやり直すのか、どうもわけが分からん。なにかがオカシイね。
:そういう時はね、ご隠居、これで一番得するやつを探すんですよ、誰でしょうかね?
:お、いいこと言うね、そうだな、多分、大手ゼネコンだな。特に竹中と大成だろ。
:なんでです?、だって今までにもう関わっていたのに突然キャンセルされた被害者ですよ。
:だからだよ、ほれ、今度は設計施工一体での業者を求めるコンペをやると書いてあるよ、ってことは、ゼネコンが設計もします工事もしますとこの仕事を取るんだよ。
:でも、設計は建築家、工事はゼネコンでしょ。
:お前、世の中を知らないね。ゼネコンなら設計も工事もできるんだよ、建築家は邪魔なだけなんだよ、だから今度のコンペはゼネコンだけの競争になるんだよ。建築家はていよく外された。
:ほう、そうなんですか。
:しかもだよ、これまで既に竹中工務店と大成建設は一部の工事発注を受けていたんだから、内容を熟知してるんだよ。
:でも、今度は違う設計するんでしょ。
:この程度の見直しなら、これまでやってたことをちょちょいと手直しすりゃいいんだ。
:あっ、てことは、その2社が応募すれば、ほかのゼネコンは敵いっこないんですね。そりゃ不公平でショ。
:そうだよ、それにだな、建設業界の仁義ってなものがあってだな、既にかかわってきたことのある業者に暗黙の優先権があって、ほかのゼネコンは原則として手を出さないもんだよ。
:あっ、それじゃあ、デキレースになっちゃいますよ。
:そう、談合コンペだな。ま、竹中と大成は無理しても、やらなきゃならないだろうけどね。ということで、いちばん得するのはゼネコンだよ。あ、そうか、ゼネコン業界の陰謀でこうなったのかもなあ。

●これでいちばん損するヤツは誰でしょうかね
:それじゃあ、いちばん損するのは誰ですかね。
:それはなんといっても建築家だよ、これに関わってきた日建設計とか日本設計とか、まあ、日本じゃ一流の設計事務所は、突然キャンセルされて、まあ設計料は取るうだろうけど、職能をバカにされてしまったね。それなのに、なんに言わないね。その設計料負担する納税者も大損だね。
:イギリスのオバサンは果敢に何か言ってますよ。
:ザハ・ハディドのことだね、そう、彼女は繰り返して白紙撤回に異議を唱えて、打開策も提案しているねえ、さすがに日本の建築家と違うね。もしかしたら訴訟にまでいくかもなあ。
:名誉棄損、損害賠償って、ふんだくられたりしたら、目も当てられないアベサン政府ですね。
:こんど事件は、妄想を働かせると、ゼネコン対建築家の闘いで、建築家が惨敗したってことだな。
:あら、そういっちゃあ、可哀そうですよ、だって、見直しになったのは建築家たちの反対運動が契機でショ。
:それをうまいこと利用してだね、ゼネコンとしては邪魔な建築家の排除を画策したってことだよ、そして見事に成功だな。建築家たちは生真面目なばかりで陰謀向きじゃないから、反対運動の結果はその意に反して利用されてこうなっちゃった、なんだかおバカに見えて来るね。
:ふ~ん、日本で起こることはなんでもアメリカの陰謀って、陰謀説の大好きな人たちがいるけど、ご隠居もそのクチですかね。
:だってね、この見直し整備計画の1550億円をはじきだすには、ゼネコンの協力なしにはできないよ、それを陰でやったのは常識から考えて、竹中か大成だろうなあ。だから今度のコンペは楽勝だよ。まあ、どれもこれもわたしの妄想の陰謀説だけどね。

●なんとまあ「日本らしさ」がテーマだってよ
:こんどは「日本らしさを取り入れる」って書いてありますよ。よほどザハ・ハディドの生ガキに懲りたんでしょうね。
:フン、なんともアベサン向けの言葉だよなあ、だから「木を使う」なんて、ヘンにアベサンに気を使ってね。
:おっ、座布団一枚。
:ほれ、木を使うなら、これがわたしの案だよ、森にするんだからね、この前7月に来た時に見せただろ。
森の中にフィールドだけをつくる案、開会式は外苑全部を使って行えばよろしい

:いやいや、日本らしさならば、ほれ、あっしがこの前に見せたこの案ですよ、どうです、屋根は木造ですよ。
屋根は明治神宮の本殿をそっくり真似する案、もちろん木造ですよ
:おお、そうだった、これこれ、お前にも座布団一枚。明治神宮本殿を真似してつくるんだよなあ、生ガキじゃなくてね。これならアベサンも白紙撤回した甲斐があったと、泣いてお喜びだろうなあ。
:ケッ、ご隠居が言うから皮肉とわかるけど、世の中には皮肉とかパロディとか冗談を分らない人がいるから、こわいよなあ。
:うん、わたしのいってることはみ~んなオチャラケだからね、わかってるな。
:ご隠居の口からそういわれると、なにが皮肉でなにがパロディでなにがオチャラケか分らなくなっちまう。
:まあ、今回の白紙撤回事件ってのが、アベサンは本気かもしれないが、本気であればあるほどオチャラケそのものの感があるよなあ、わたしも歳とってボケてきて、ちかごろ世の中はなにが本当で何がオチャラケかわからなくなったよ、憲法解釈変更事件も含めてね。

参照
首相官邸発表の新整備計画
http://www.kantei.go.jp/jp/headline/pdf/20150828/siryou1.pdf
参照
◆【五輪騒動】新国立競技場建設と神宮外苑再開発瓢論集
http://datey.blogspot.jp/p/866-httpdatey.html

2015/08/28

1120【新国立競技場騒ぎ】これのどこが白紙撤回だ?カネメだけ見直しで単なる設計変更だよ!また金かけてコンペからやる理由がないぞ

●カネメだけでなにが白紙見直しだよ
 今朝の新聞の第1面にデカデカと「新国立上限1550億円 冷房断念 収容6・8万人」の見出し記事。新国立では、新国立劇場か新国立競技場かわからないが、たぶん、後者だろう。
 詳しいことは分からないが、要するに設計内容を変更して、カネメを縮めたってことだけらしい。「白紙見直し」って、それだけのことだったのか。建てる場所を白紙とか、都市計画を白紙とか、オリンピックを白紙とか、そういうのじゃなかったね。

 まあ、実のところそういうことは無いだろう、せいぜいカネメだけだろうと思っていたら、やっぱりそうだったな。
 それならば、これでの作業を修正する「設計変更」するだけのことで、なにが「白紙見直しなんだよ。こういうのは「白紙」とは言わないぞ。これが白紙なら、烏も白いぞ。せいぜいダークグレーだろ。
 
 「来週中にも設計・施工会社の公募を始める」とかいてあるから、コンペをやりなおすすってことだろう。
 あのなあ、またコンペやればその費用も掛かるんだよ、また設計やるんだから設計費だってかかるんだよ、まったくもって2重投資でしょ。
 これまでの設計チームで設計変更をすれば一番早いし費用も少ないでしょ、なんでそうしないんだろう、不思議極まることだ。なにか政治的利権が絡んでるんだろうと思うしかない。

●今度はやる前に勝ち組が決まっているデキコンぺかい
 それに今度は設計施工チームを募集するってんだけど、応募する立場から言うと、これまでかかわってきた設計事務所とゼネコンが、もう飛び抜けて有利でしょ、それでもコンペやるのかい、不公平でショ。
 だって、規模変えたってやるのはオリンピックだし、中身と内容はほとんど変わらないし、建てる場所も変わらないんだから、これまで作業してきた設計事務所とゼネコン企業は、コンペの前に全て内容を把握してるんだからね。御手付きだよ

 つまり常識から言えば、ZHA(ザハ・ハディド)、日建設計、梓設計、日本設計、アラップのどこかと、竹中工務店または大成建設が組んで応募すれば、ほかの応募者は敵いっこないでしょ。
 もっと早く言えば、竹中または大成(あるいは竹中大成連合軍)がコンペに勝つに決まってるじゃ~ン。
 土建業界の仁義から言えば、もう唾をつけている竹中と大成を差し置いてコンペに応募するなんて、業界仁義破りのゼネコンはいないでしょ。
 そういうデキコンペ、談合コンペになることを承知でやるんだろうなあ。

 あ、そうだ、チャイナゼネコンが超安値で応募するかもなあ、面白いなあ。
 まあ、また揉めるんだろうなあ、面白いなあ、やれやれ~。
 ま、こうならないことを祈ってるよ、納税者としてはね。

●ザハ・ハディドが本格的な反撃をしてきたぞ
 「Whay take the risk?」って言ってるよ、ザハ・ハディドが。新国立競技場の白紙見直しについて、ザハの反撃が本格的に始まったぞ。
 ほら、新たな本格的反撃を、現代風にこうやってビデオで長々とやってるよ。みてごらん。
https://vimeo.com/137305168
 中身はほんとかどうかわからないけど、視聴してるとそうかもなあって、思えてくるからオカシイ。とにかく真剣さが伝わってくるよなあ、建築家という職能への真摯さもわかる。
 それにひきかえ、ザハと一緒にやってきた日本の建築家たちは、どうしてなんにも言わないのかしら。突然の首切りに沈黙って、わたしは不思議でたまらない。
 ザハに言わせとけばいいっ、てなもんじゃないでしょ。

●沈黙する日本建築家たちは怪しいぞ
 こうやってイギリスの建築家は反論を出してきた。その前にもアピールをしているが、こんどはずいぶん詳しい。この果敢さに敬服する。
 で、この仕事を一緒にしてきた日本の建築家はどうしてるんですか?
 山下設計、山下ピー・エム・コンサルタンツ、建設技術研究所、日建設計、梓設計、日本設計、アラップは、黙ってるんですか?
 黙ってると、後ろ暗いなにかがあるんだろうなあって、勘ぐりますよ。
 前にもこのことを書いたことがあるが、いまだに沈黙のままである。
http://datey.blogspot.jp/2015/07/1113.html
 そしてまた、お前らのせいで髙くなったんだぞって、ザハ・ハディドやり玉に上げられた竹中と大成は、黙ってるんですか? 
 ま、文句言わなくても、どうせコンペに勝てるんだから、いいか。

 もうひとつ、日本建築家協会JIAはどうするんですか。
 アベサンの白紙宣言に敬意を表したりして、どうやらザハ案に反対してた様子だけど、こんどはあなた方が一番イチャモンつけてきている「設計施工」になっちまいますよ。
 文句を言わないのですか。早く言わないと、手遅れになりますよ、いや、もう手遅れだな。

 ついでに言っちゃうけど、景観がどうのこうのとか、都市計画がどうのこうのとか、あれこれおっしゃっていたザハ・ハディド案反対派のみなさまは、「カネメだけ白紙」の単純頭ちゃぶ台返しポピュリズムアベ首相に抗議なさってるんでしょうね。

 これまで書いてきたことを繰り返していると、自分でもわかっていながらも、面白くてついつい繰り返してしまうよなあ、これが年寄りのはなしがクドイところだな。
 わたしのボケ進行遅延策として役だっているので、日夜ドタバタする首相及び政府当局に感謝を申し上げる。

(追記 20150828)
 夕刊に更に詳しいことが載っているが、中身は大差ない。
 首相官邸からの新整備計画の内容はこちら。
http://www.kantei.go.jp/jp/headline/pdf/20150828/siryou1.pdf

●参照:五輪騒動・新国競騒動瓢論一覧
http://datey.blogspot.jp/p/866-httpdatey.html

2015/08/19

1119【山口文象研究:ブルーノ・タウトとの出会い(後編)】タウトが山口にジードルングの論文自筆原稿を贈ったことなど

中編からの続き)

●タウトが設計助手として山口のスタッフの河裾逸美を借りたこと

 タウトは1934年8月から、高崎にすっかり腰を落ちつけて、井上工房で工芸デザインをしている。時々東京の行って講演したり、建築家たちと付き合い、展覧会などに出かけている。
 1934年10月26日のタウト日記。
「午前、美術研究所に所長の矢代幸雄教授を訪ねる。矢代教授はヨーロッパ特にドイツの芸術に精通し、ドイツの学者とも親交があり、先ごろはまたベルリンの日本展覧会を主宰された。立派な人柄の芸術学者である。それから同氏の友人で建築家の山口(蚊象)、谷口(吉郎)と、バーナード・リーチ氏のつ迎賓展覧会を見た。作品はいずれも決して悪い出来ではない。同行の建築家たちはリーチ氏のものをあまり好まない様子であった。つまり作風が日本化し過ぎているというのである。」
 有島生馬のプロジェクトで、タウトは山口に仕事を取られたが、それを互いに知っていたか知らないのか分らないが、山口とタウトの間にはなにも起きなかったらしい。

 高崎では、井上工房で数々の工芸品や家具のデザインをして試作を続けるが、製作現場とタウトの意図とのすれ違いにイライラしている様子が日記にある。それでも、井上の経営する軽井沢の店で、タウトデザイン工芸品を売り出しつつある。時には日本住宅の設計を頼まれて、設計図を書いている。彼のもとには3人の助手がいたらしい。
 1934年12月10日のタウト日記。 
「私の助手諸君のうちの一人(儘田氏)は少林山、二人(水原、河裾)の両氏)は高崎で、全試作品(実際に製作されたものばかりでなく、図面だけのものも含めて)のカタログを、私の指示に従って編集している。」
 この3人所助手の内の河裾とは、河裾逸美のことであると訳者註にある。

 河裾逸美(1904~?)は、山口文象が所属していた逓信省営繕課の同僚であった。彼も山口等が1923年関東大震災の余燼の中ではじめた「創宇社建築会」の活動に、1927年から参加している。
山口文象が1931年に帰国後、すぐにとりかかった東京歯科医科専門学校附属病院の設計にあたっての山口の仕事の最初の相棒、つまり山口文象建築事務所の最初の所員である。1937年にまで在籍していたから、山口の最盛期のスタッフであった。
 河裾が何時からタウトの助手であったのかわからないが、山口がタウトに貸したのだろうか。10月に一緒にバーナードリーチ展を観に行ったとき、タウトから建築図面を書く助手がほしいと相談されたのだろうか。

 そこで気になったので、ほかにタウト関連の本を探したら、「ブルーノタウトへの旅」(鈴木久雄 2002 新樹社)にこれに関する記述を見つけた。
 その頃、井上工房はタウトのデザインによる製品を数多くつくるようになり、軽井沢に「ミラテス」という名の販売店舗をもっていたが、更に東京の銀座の交詢社ビル向かいのビルの1階にも店を出すことになった。
「店の詳細設計は、助手の河裾逸美が実測をつくって、タウトの指示で作図をした。河裾は元逓信省経理局営繕課の雇員だった建築のよく分る人物で、タウトの信頼を得ていた。」(「ブルーノタウトへの旅」150p)
 なるほど、店舗のインテリア設計のできる建築設計助手をタウトは欲していて、それを山口文象には話したのだろう。
 そうして銀座に「ミラテスが開店したのは1935年2月12日だった。

 ところが、1935年1月19日のタウト日記に、また河裾が登場する。いろいろと井上工房での愚痴を書いた後に、このようにある。
「河裾(逸美)氏は、つい近頃井上工房を鮮めてしまった。この人は、自分だけでも貧しいのに、僅かな俸給を勉強中の弟さんの為に割いていた。河裾氏の月給は四十五円だし、水原氏のは恐らく三十円にも達しないだろう。河裾氏は文字通り飢えんばかりの生活をしていた。昼の食事でも歯が痛いからと言っては、いつも十銭の弁当で済ませるという風であった。」
 水原とは、最後までタウトの助手であった水原徳言で、日本での唯一のタウトの弟子である。

 ということで、河裾はタウトのもとを去った。安月給で雇われていたが、ミラテスの仕事も終わってクビになったのかもしれない。山口文象建築事務所にまた戻って、更に2年ばかり在籍した。山口には洋風と和風の両方の系譜の建築があるが、洋風が河裾の担当だった。
 河裾は戦後は大阪に住んで、建築設計をやっていた。わたしは何度か大阪の安孫子にある自宅を訪ねて、話を聴いたことがあるが、タウトのことを聴いたことはない。

●山口文象資料にあるタウトの自筆原稿のこと

 山口文象がドイツにいた1931~32年には、タウトはベルリンのシャルロッテンブルグ工科大学の教授だったが、山口文象の滞欧手帳にはタウトの名は登場しないから、出会ったかどうかわからない。
 山口文象とタウトの出会いに関しては、ここまでの話は日本でのタウト日記だけが資料であるが、山口側にも唯一のタウトとの接触を示す強力な資料がある。それは、タウトから贈られたという自筆原稿のカーボンコピーである。

 RIA(㈱アール・アイ・エー)に保管してある山口文象資料の中に、『Siedlungs-Memoiren』と題する、手書き原稿45頁のカーボンコピーがある。原稿末尾に「Hayama,30.8.33 B.T」とある。
 別の紙が表紙に添えてあり、そこに山口文象の筆跡で「ブルーノ・タウトから贈られる」と記してある。つまりこの自筆の葉山と日付とB.Tはブルーノ・タウトのサインである。本文と筆跡が異なるから、本文は秘書のエリカ・ヴィッティヒによるのであろう。タウトの原稿はほとんどが口述であり、エリカが筆記していたそうである。

 1933年8月30日の日付をもとに、タウト日記にそれを探したら、1933年9月2日に「論文『ジードルング覚書』(45頁)を脱稿。」とあり、訳者の註で「『ジードルング覚書 Siedlungs-Memoiren』」とあるからこれだろう。
 この原稿をいつ山口文象が贈られたのか分らないが、12月に前田青邨邸であったときだろうか。

 この「Siedlungs-Memoiren」は「ジードルング覚書」として篠田英雄訳『タウト 日本の建築』(春秋社1950年)に収録されている。ただしこれはのちの改稿原稿である。
 山口文象の持っている自筆原稿が初稿だろうが、その翻訳版は公刊されていない。だが、山口の翻訳になるタイプ原稿が山口文象資料に保管されている。その日付は1948年8月30日とあるから、山口はタウトからもらったまま持っていたが、戦後ヒマな時に翻訳したのであろう。多分、どこかの雑誌に発表するつもりだったのだろう。
 ただしこの訳文はかなりの悪文だから、雑誌に売りこんでも掲載されなかったのだろう。
https://sites.google.com/site/dateyg/1946burunotaut-siedlungs

 
●タウトとの別れの送別会で山口は青邨の色紙を贈ったこと

 タウトは日本を目的地としてやってきたのではなく、日本経由でアメリカに行くつもりだった。しかし、水原徳言によると、秘書のエリカ・ヴィティヒのビザを取ることができなくて、あきらめたそうだ。
 タウトは故国に妻子をおき、秘書のエリカとの間にでき子もおき、エリカと二人でナチスからの逃避行の先が日本だったのだ。エリカには、もうひとりの子もいたが置いてきた。火宅のカップルであった。

 しかし本職の建築設計の仕事はないし、工芸デザインも順調ではないし、日本の気候が体に合わなくて病気がちだったから、なんとして日本を出たかった。日記をドイツの親戚や知人に送るとともに、ヨーロッパ方面の知人への連絡を欠かさなかった。
 そして1936年9月30日に、朗報がトルコのイスタンブールからやってきた。ケマル・アタチュルク大統領による新生トルコ共和国の芸術アカデミー教授に招かれたのだ。タウトは大喜びですぐにも出立することになる。

 1936年10月10日のタウト日記には送別会の記事がある。
「井上氏の肝煎で、同氏のほか吉田(鉄郎)、蔵田(周忠)、斎藤(寅郎)の諸氏が幹事役となって、盛大な送別会を催してくれた。会場に当てた赤坂幸楽の二階には、五十人ばかりの知友が集まった。(中略)山口(蚊象)氏からは岳父(前田青邨氏)の色紙を頂戴した。私への餞けの言葉は、いずれも賛辞ばかりで、美しい屍に捧げる頒辞でも聞いているようだ。そこで私は、どうか私に封する非難のお言葉も頂戴したいものです、と言った。」
 山口文象はタウトとの最初の出会いも山口青邨がらみだったが、最後の別れもまたそうであった。石本喜久治を間にしてむしろ困らせたと言ってもよいが、設計作業で困っているタウトに事務所スタッフの河裾を貸したので、帳消しになったかもしれない。結局のところ建築家としての深い付き合いはなかったのだろう。
 そして、タウトが設計した可能性もあった「番町集合住宅」を、山口が設計したという因縁はある。

 ブルーノ・タウトは多くの日本の建築家たちと交流したが、結局のところ、力量を高く評価した建築家は、吉田鉄郎だけだったようだ。吉田は当時は逓信省所属の建築家で、東京駅前の東京中央郵便局(現在は改築してKITTE)の設計者として有名である。山口文象は吉田に逓信省時代に出会っている。
 また建築設計作品らしいものは、インテリアデザインの日向利兵衛別荘地下室だけと言ってよいだろう。幸いにも今は保存公開されている。
 タウトの日本の滞在の日々は、総じて気の毒なことだったが、日本の建築界としてはその謦咳に接したことでよかったと言えよう。しかし彼の建築の腕前を発揮させることができなかったのは、実に惜しいことだった。

◆ブルーノタウトと山口文象
前編http://datey.blogspot.jp/2015/08/1117.html
中編http://datey.blogspot.jp/2015/08/1118.html
後編http://datey.blogspot.jp/2015/08/1119.html

山口文象アーカイブス
https://bunzo-ria.blogspot.com/p/buzo-0.html

2015/08/15

1118【山口文象研究:ブルーノ・タウトとの出会い(中編)】タウトと山口が同じ敷地に別々の建築計画を進めて山口案が実施になったこと

前編からの続き)

●タウトが画家・有島生馬から依頼のトルコ大使館の設計受注に失敗したこと

 タウトは結局日本では建築を設計する機会には恵まれなかった。来日以来、仙台で工芸指導所や蒲田の陶磁器会社でデザイン指導、あるいはあちこちで講演をつづけてながら糊口をしのいでいた。建築の設計の仕事をしたいのだが、機会に恵まれない。
 何回か設計を設計を頼まれて図面や透視図を書いてはいるのだが、どれも実ることなく、時には日本の建築家にさらわれた。建たない設計には金を払わない日本の習慣の前では、いつもタダ働きだった。できたのは僅かに熱海の日向氏別荘の地下室のインテリアのみであった。
 そのタダ働きのひとつに、画家の有島生馬(1882~1974年)から依頼された建築計画があった。

 1934年7月11日に、タウトは画家の有島生馬と出会っている。その日の日記。
「有島氏は現在の家屋と地続きの所有地に建築をしたい、ついては私の日本における『建築の皮きり』としてその設計にあたってほしいという。有島氏は好個の紳士だ。」
有島生馬

 そして7月29日の日記。
「有島氏にトルコ大使館の建築平面図2葉を届けておいたが、今日は方角を考慮して少し変更を加えた見取り図を描き、これに設計の謝礼をも含めた費用見積もりを添えた。有島氏とトルコ大使館との交渉がどんな結果になるのかは、今のところまったく不明である。有島氏は、もしこれが不調に終わったら、例の土地へ外国人向きの宿泊所を建てたいと言っている。有島氏は私に好意を寄せているようだ(私も同氏の人柄が好きである)、まさか私を見捨てる様なことはあるまい。」
 どうやら既にプランを提出済みだが、更に変更案を追加して届けたらしい。これがだめでも「外国人向きの宿泊所」の仕事が来ると期待している。

 だが1934年10月7日のタウト日記に、有島に見捨てられたことが書いてある。
「数か月前に有島(生馬)氏の依頼で、トルコ大使館の設計をしたことがある。これについていつか同氏に手紙を出したら、今日その返事を受け取った。有島氏の言い分は、あの件はトルコ大使館が処理するべき事柄で、自分には全く係りがないというのである。井上氏はこういういざこざは、日本ではありがちなことで、しばしば不快な事態を惹き起こすものだという。だがその手紙は、なにも補償を要求したものではなくて、ただ仕事の価値をありのままに述べたに過ぎないのである。」
 井上氏とは、有島を紹介した井上房一郎で、後にタウトは高崎の井上工房に雇われる。タウト支援者の一人である。

 どうやらドイツ流の理知的な言葉と日本流の曖昧な解釈とのあいだで行き違いがあったらしく、タウトはこの設計受注には失敗した。そうなったら、「外国人向きの宿泊所」の設計受注へとフォローすればよいのに、怒ってしまったらしい。
 この年のクリスマスに、タウトは有島からクリスマスプレントを受け取って、設計料の9分の1くらいの値段のものと、また憤慨している。

 タウト側のこの件の記述は以上であるが、山口文象の側から見ると、この続きがある。
実は、このタウトが受注失敗した有島生馬のプロジェクトは、山口文象が「外国人向きの宿泊所」を完成させた。もちろん、これはわたしの推理であるが、ほぼ間違いない。

●山口文象がタウトの失敗した有島のプロジェクトを実施したこと

 有島がタウトに設計を依頼した土地は、山口文象の設計で1936年8月に建った「番町集合住宅」の場所らしい。そこは東京の麹町区六番町である。有島生馬の兄の有島武郎の住宅であったが、武郎の死後は生馬が管理していた。

 現在そこには、出版業の文芸春秋社の社屋が建っているが、1945年の空襲で焼けるまでは、「番町集合住宅」が建っていた。そしてそれはタウトに有島が語ったように、「外国人向きの宿泊所」つまり外国人向けの賃貸アパートメントである。
番町集合住宅
有島は、タウトと縁が切れた後か、あるいはそれよりも前か、それを山口に設計を依頼したのだった。タウトはまた日本建築家に“横取り”されたのだった。
 有島と山口との出会いは分からないが、山口には画家の知り合いが大勢いて、安井曽太郎や菊池一雄などいくつもアトリエ設計をしているから、その線であったのだろう。

 当時の新聞(1936年だが新聞名や日付は不明、山口文象建築事務所の資料)に、「集合住宅(ジードルング)を有島氏が計画』との見出しで、透視図つきの記事がある。
「故有島武郎氏が生前の作品中に或は書簡文中に「番町の家」としてのせられ有名だった麹町区下六番町10の邸宅はその後一時文芸春秋社と平凡社が仮社屋に借りていたことがあったが最近は七百坪の名庭は荒れるにまかせペンペン草やあざみの花が咲いていたが、今度令弟有島生馬氏が同所に純独逸風の集合住宅「ジードルング番町の家」を立てることになり思い出の邸は沢山の鳶職が入って取り壊している。「ジードルング番町の家」は先日本紙に掲載した「町田外人街」と同様に在京外人、中流以上の人々に、ホテルより手軽に在来のアパートより一層機能的に、家一軒借りるより文化的な住み家を与へる目的で、青年建築家として水道橋の東京歯科医専その他進歩的なデザインで有名な山口蚊象氏がデザインに当り、ドイツのウォールグロッピュース氏流のテイピカルなジードルングの設計を終り目下建築許可の申請中で八月末日まで竣工の予定である。」
 ウォールグロッピュースとは、山口文象がドイツで師事したWalter Gropiusのことであろう。

 そこに有島生馬の談も載っている。
「住宅地としてはこの辺は東京一等地ですし、欧州を旅行してかねがね本場のジードルングにあこがれていたので、一念発起いま山口君と大童になっていいものにしようと頭をひねっています。地代を支払ってはこの仕事は引き合いません。とにかくスーツケース一つ提げてくればすぐ住めるものに、しかも外装は飽くまで瀟洒たるものにします。」

 1936年11月号の雑誌「国際建築」に番町集合住宅の写真と山口の解説文が載っている。解説文をこう締めくくる。
「この「番町の家」が本当の意味におけるジードルングであるかどうかは別にして、この計画を実施された有島先生の英断に敬意を表し、また若輩の私に設計工事に関する一切を一任して下さったことを心から感謝を述べたいと思ふ。」

 皮肉なもので、その当時ならばジードルング(集合住宅)の設計では世界中でこの人の右に出る者はいないであろうタウトに接触していたのに、その起用にならなかったのは、日本の集合住宅のために実に惜しかった。
ブルーノタウトによる集合住宅 ベルリン・ブリッツ・ジードルング
一方では、山口文象がそのジードルングの「番町集合住宅」を設計して、更に名を挙げることができたのは、山口の弟子の端くれにいいるわたしとしては、よかったとおもう。

 山口文象が「本当の意味におけるジードルングであるかどうかは別にして」と言っているのは、金持ち外国人向けの賃貸集合住宅が、労働者層を対象とする社会政策としてのドイツのジードルングと同じとは言い難いと思ったのであろう。
 ドイツで本物のジードルングを見てきたし、グロピウスの下でジードルング設計にも携わった山口文象だから言えることだろう。

●タウトが山口文象建築作品個展を観てモダンデザインを酷評したこと

 ところで、タウトはその土地に山口文象がジードルングを設計したことを知っただろうか。時期的にはタウトが日本を出たのは1936年10月15日だったから、知ってもおかしくないが、そのようなことは日記に登場しない。
 では、タウトが同じ土地に別の計画で関わったことを、山口は知っていたのだろうか。

 「山口文象建築作品個展」と銘打って、その自信作を展示したのは1934年6月13日から17日まで、銀座資生堂ギャラリーでのことであった。
 展示したのは、日本歯科医科専門学校附属病院小泉八雲記念館、アパートメント試作、アトリエⅠ、アトリエⅡ、協同組合学校、関口邸茶席、モデルルームの8つの建築作品である。多分、図面と写真、一部は模型もあったかもしれない。
日本歯科医科専門学校附属病院

 1934年6月15日のタウト日記。
「建築家山口蚊象氏の作品展覧会を観る(同氏はドイツでグロピウスの許にいたことがある)。作品のうちでは茶室がいちばんすぐれている、――山口氏はここでまさに純粋の日本人に復ったと言ってよい。その他のものは機能を強調しているにも拘らずいかにも硬い、まるでコルセットをはめている印象だ。とにかくコルビユジエ模倣は、日本では到底永続きするものでない。」
 タウトにももちろん招待状を出したに違いないが、やってきタウトは酷評である。唯一のほめている関口邸茶席は、コテコテの和風建築であった。展示作品のうち唯一の和風デザインである。
関口邸茶席

 日本歯科医科専門学校は、山口が帰国してすぐの設計で、彼の出世作ともいうべき、時代の流行最先端を行くモダンデザイン建築である。
 小泉八雲記念館は、松江市の武家屋敷街にある旧八雲住居跡に建つ。これはモダンデザインというよりは新古典主義的な影をもつ洋館であった。ワイマールにあるゲーテ記念館を模したと言われるが、本当かどうかわからない。現在あるゲーテ「ガルテンハウス」のことならば、ずいぶん違う。
 そのほかのアパートメント試作、アトリエⅠ、アトリエⅡ、協同組合学校は、展覧会用の試作だったのだろう。

 ここで気になるのは、「アパートメント試作」なるものである。このころ山口がとりかかっていた可能性があるアパートメントならば、「番町集合住宅」と「青雲荘アパートメント」の二つがある。
 もしも展示作品が番町集合住宅ならば、有島は山口にアパートメント設計を依頼しながら、いっぽうではこの後の7月11日にタウトに会った時に、同じ土地にトルコ大使館設計依頼という、二股をかけたことになる。
 そして、トルコ大使館が不調になったら「外国人向きの宿泊所」にすると言い、それを山口文象に依頼してあると正直に言ったのかもしれない。だからタウトは有島にキャンセルされても、フォローしなかったのであろう。あるいは山口とは言われなかったが、怒ってしまってフォローしなかったのかもしれない。
 このあたりは類推して、勝手に面白がるしかない。

 山口としては作品展で、ドイツから持って帰ったモダンデザインを、タウトに褒めてもらいたかったであろうに、それらはけなされて、和風の関口邸茶席のみを髙く評価されたのだった。岳父の前田青邨の絵のようには高い評価をされなかったことは、彼にとっては皮肉なことだった。
 しかし、タウトがあちこちを見て発している、極めつけの「いかもの」(ドイツ語ではキッチュ)と言われなかったのだけは、とりあえず幸いであったか。
   (後編につづく)

◆ブルーノタウトと山口文象
前編http://datey.blogspot.jp/2015/08/1117.html
中編http://datey.blogspot.jp/2015/08/1118.html
後編http://datey.blogspot.jp/2015/08/1119.html

山口文象アーカイブス
https://bunzo-ria.blogspot.com/p/buzo-0.html

2015/08/12

1117【山口文象研究:ブルーノ・タウトとの出会い(前編)】タウトが山口の結婚式に招待されて悩んだこと

●建築家ブルーノ・タウトの日本訪問のこと

 日本が戦争に入ろうかとしていた頃、ナチスのドイツを逃れて一人の建築家がやってきた。その4年間の滞在で日本の建築文化に足跡を残した。その足跡のほんの一部だが、山口文象(1902~1978年)も関わっている。
ブルーノ・タウト
 ブルーノ・タウト(1880~1938年)は、20世紀初めのドイツ表現派の建築家として、また、戦間期のワイマール共和国時代の政策であったジードルングと言われる中産階級向けの集合住宅の秀作を設計を多くしている。今もそれらは住まわれていて、一部は世界遺産登録になっていて有名である。

 タウトは一時、ソ連で仕事をしたことからナチスに睨まれて左翼の烙印を押され、逮捕リストにのったことを、あるルートからひそかに知った。その手を逃れて1933年にシベリア鉄道、ウラジオストック経由で日本にやってきた。
 そのときちょうど招請を受けていた「日本インターナショナル建築会」を頼ったのである。
 そして日本経由でアメリカに亡命するつもりが失敗して、1936年にトルコに去って行った。2年後、トルコで客死したのであった。

 日本でのタウトは工芸デザインに携わるしかなくて、建築家としてはかなり不幸な人生だったが、日本の建築や文化について多くの著作を出して、日本の建築家や文化人に新しい刺激を与えたのであった。
 タウトの日本での動静は、その詳しい日記で知ることができる。

●ブルーノ・タウトを悩ませた山口文象の結婚式のこと
山口文象

 タウトが日本にいたころ、山口文象は新進建築家として名をあげつつあった1930年渡欧の前は建築運動の活動家として知られ、1932年にドイツから戻ってきていきなり東京医科歯科専門学校附属病院(1934完成)のモダニズム建築で建築家として世に出た。
 日本でのタウトは、山口文象と何回か出会っていることは、タウトの日本日記で分る。

 その出会いは、どこか妙な具合もある。最初はどこであったのか分らないが、1933年11月初めに、タウトは山口から画家の前田青邨邸への招待状を受け取った。
 11月4日に日記。
「建築家の山口(蚊象)氏からも、岳父の前由青邨邸へ来てほしいという招きがあった。山口(旧姓は岡村)氏はすぐれた建築家だ、某氏のひどいあくどさを知らしてくれる(この男は正眞正銘のやくざ者だ)。山口氏は以前グロピウスに就いたことがある。」
 前田はその当時に山口文象が婚約していた前田千代子の父である。12月に蒲田に前田青邨邸を山口と共に訪れて、その純日本家屋の寒さ、静謐さ、美しさに驚き感銘した記述がある。
 タウトは後に展覧会を観に行って、日本画家としての前田を高く評価している。
前田青邨

 そして1934年1月16日に、山口から結婚式への招待状を受け取って、「思いがけないことだ。日本では初めてである。」と驚く。
 そして1月21日の日記。結婚式は1月26日に迫っている。 
 「山口(蚊象)氏の結婚式のことでいろいろ思い煩う。下村氏は、京都-東京の往復切符を私達に提供しようと言ってくれる、『面白そうだから構わずに東京へ行っていらっしゃい、しかしまたここへ戻ってこなくてはいけませんよ』。私がこの結婚式に出席したくない理由は、山口氏と建築家Ⅰ氏とは互に競争相手なので、どちらにも格別に親密な関係を持ちたくないからだ。結局下村氏も私の意見に同意し、またあとから上野君もこれに賛成した。
 下村氏とは、大阪の大丸百貨店の経営者で、上野君とは日本インターナショナル建築界の上野伊三郎であり、どちらもタウトを支援した人である。
 
 そして3月21日のタウト日記。
夜、建築家山口(蚊象)夫妻を訪ねる(同氏は、私が結婚の贈り物や祝電を取りやめたことについては何も触れなかった、それでもお互に格別気まずい思いをしないで済んだ。・・・」
 というわけでタウトは悩んだ末に、山口の結婚式にはかかわらなかったのであった。
 さて、タウトの日記に具体的なことは書いてないが、どのようなことで悩んだのだろうか。

●山口文象と石本喜久治の確執

 タウト日記の「某氏」や「I氏」という仮名になっているのは、元は実名が書いてあるのを、訳者の篠田英雄がそうしたことは、篠田自身がタウト日記の解説に書いている。
 私のかなり確度の高い推理では、この「某氏」と「I氏」とは、建築家・石本喜久治(1894~1963年)のことであろう。石本と山口は犬猿の仲であったのだ。そしてタウトはインタナショナル建築会の石本の世話になっていた。間にはさまったタウトが悩んだのは無理もない。

 山口は1923年の関東大震災の余燼のなかで創宇社建築会を立ち上げて、盛んに建築運動をしていた。逓信省営繕課での図面画きで実務の経験を積むとともに、この運動で建築会には少しは知られた。
 そして1926年から石本の下で設計の仕事をしていた。朝日新聞社や白木屋デパートなどである。ここで設計の実務経験をしっかりと積んだのである。
 石本事務所には、ほかに二人の創宇社建築会メンバーもいて、共に仕事と運動をやっていた。
 しかし石本は創宇社建築会の活動を嫌って、脱退を指示したことから、山口は石本と喧嘩をして、1929年に石本事務所を去った。他の2人もやめた。

 そして翌年渡欧してベルリンのW・グロピウスのもとで働き、32年に帰国した。すぐに東京医科歯科専門学校附属病院の設計をはじめた。これが山口の建築家としての出世作となる。
 1934年4月に歯科医専はできるのだが、その過程で石本が、山口はアカだとの怪文書を関係者に配って、仕事を妨害するという事件があった。当時の建築許可機関の警視庁へも送って、許可が停滞したという。タウトが知ったこの時期は、まだホットな事件であった。
 この資料は無いが、わたしはこの件について、当時山口文象の下にいた二人(山口栄一、河裾逸美)から直接に聞いたことがあるから、このようなことがあったことはまちがいないだろうし、建築界では知られた事件だったらしい。
 タウト日記には、この二人の確執を具体的には書いてないが、それを山口や他の建築家などから聞いて知っていたらしい。
石本喜久治

 石本は、タウトを招聘した日本インタナショナル建築会の幹部だから、タウトの世話をいろいろと焼いていた。タウトは二人の確執を知って、出席するべきか否か困り果てて、支援者たちに相談して、結局は1934年1月の結婚式には出席しなかった。
 もっとも、タウトの石本への印象は、あまりよくない様子が日記にある。石本の建築作品について、例えば白木屋百貨店を見て「いかもの」との烙印を押している。

 1975年にタウト日記が公刊されたときは、石本はこの世にいなかったが、もしも読んだら、あれほど世話してやったのにと、怒ったことだろう。タウト日記には、ほかにも読んで怒った人は大勢いると思われる記述がいっぱい出てくるのが面白い。
 このタウトを悩ました山口の結婚は、3年後に破局を迎えたのであった。ゴシップはこうして終わった。                
 (中篇に続く

山口文象アーカイブス