2016/10/16

1222【珍しく病になり薬屋と論争】耄碌した年寄り患者には医薬分業になって負担が大きくなったと思った

 珍しく内臓の病で、排水管が錆びたらしい。医師から処方箋をもらったのが昨日、近くの調剤薬局が土日は休み、昨夜は我慢して過ごした。
 今朝早く起きて日曜日でも開いている調剤薬局をネットで探し、10時開店と同時に駆けこむ。白衣のオバサン(調剤人とでもいうのか)が、薬の説明をしてくれるのだが、これが要領を得ない。こちらは寝不足で機嫌が悪い。

「この薬をのんだら、乳製品を摂るなら2時間くらいあけてください」
「はい、でも、耄碌しているから忘れるので、紙に書いてください」
「この薬の説明の紙に書いてあります、鉄剤などにも注意、とね」
「エッ、あのね~、鉄棒をしゃぶるのと牛乳を飲むのじゃあ、天と地ほど違うでしょ」
「いや、乳製品に鉄分が入っているですよ」、
「エッ、牛乳は鉄からつくるかい?、とにかくそこに乳製品飲むな食うなと、大きく赤い字で書いておいてください、かならず忘れるからね」
「はいはい」
「今後は同じ薬を他に人にも出すなら、同じように書いた方がいいですよ。牛乳が鉄でできてるって知ってる人は、あなたくらいなもんですから」
「呑むのはお昼ごはんの後にしてください」
「あのね、わたしは11時ごろ朝昼兼用ですが、どうしましょ」
「あ、ブランチね。ではそのブランチの後でいいですよ」
「あ、もうひとつ骨の薬を呑んでますが、一緒でいいですか」
「あ、それもまずいですねえ、じゃあ、この薬は夕食の後にしましょう」
「でも、骨の薬は1週間に1回、火曜日だけですけど、」
「では火曜日だけは、この薬を夕方にしましょう」
「う~ん、火曜日に飲むのさえちょくちょく忘れるのに、さらに複雑なこととなんて、耄碌してるから、かならず間違うなあ、困ったなあ」
「じゃあ、この薬は毎日夕食後にしましょう、それなら間違わないでしょ」
「でも体調がよくないから、今すぐに呑みたい」
「ご飯食べてからにしてください」
「じゃあ、今日は例外にしてもらって、すぐにそのあたりでパンと牛乳でも買って、、、あ、いけないのか、ジュース買って公園で食べて、すぐにこれ呑みます」


 診察をうけた医院を出るときに受付で、この処方箋ではどこの薬屋でも買えるのかと聞いたら、どこでもよいと言う。
 では、うちの近くで買おうと戻って来たら、なんと4店もあるのに全部土曜休業である。そうか、近くの病院が休診だからだなと気が付いた。ということは明日の日曜日も休業か。医者と薬屋が結託して、自分の都合で営業してりうんだな。

 それなら、診察うけた医院の近くの薬局は営業していたに違いない。だが体調悪いのに引き返す気力がないし、もう5時近くだから着いたころは閉店してるだろう。
 それで、こうして次の日に、たまたま日曜も開店する店を近くで発見したから、1日遅れの服用開始になったが、これが見つからないと2日遅れになった。

 おいおい、医療業界はそれでいいだろうけど、患者業界としては断固として困るぞ。医薬分業でなければ診療日から服用できるにに分業のために遅れる、そのせいで症状悪化したら、責任をどうとってくれるのか。
 昔は医者が薬をくれたから、医院で一度に全部済んだから、こんな苦労をしなくてよかったのになあ、なんで医薬分業にしたんだよ、薬代金の外にいろいろ請求されるし(普通に営業しているのに休日割り増しもとる)、医者にもう話したのに同じことをまた聞かれてめんどくさいし、患者は負担が増えて困るだけだよ。

2016/10/12

1221【続々・法然院方丈襖絵事件】法念院方丈の建築と襖絵の成立年代の矛盾を、二つの出自が実は別々かもしれないと考え直してみたが、、

(【続・法然院襖絵事件】から続く)

●法然院方丈襖絵が狩野光信筆から孝信筆に変更

 わたしの大昔の卒業研究は、京都御所の遺構と尋ねて、その現状の実測、寺伝による出自、その検証などを行ったのであった。
 その中のひとつに、この秋に特別公開されいる法然院方丈があった。この方丈はいつもは非公開だが、春秋の京都非公開文化財特別公開のひとつとして、公開されることもある。今年の秋は公開らしい。http://www.kobunka.com/tokubetsu/

 特別公開事業の主催者・財団法人京都文化財保存協会のサイトに特別公開の一覧表があり、その法然院方丈にある重要文化財である襖絵について、「狩野孝信筆襖絵」と書いてある。http://www.kobunka.com/topics/pdf/hikoukai_h28aki.pdf

 しかし、この襖絵は、これまでは狩野光信筆とされて来ている。孝信筆も京都の権威ある団体の発表だから、まさか光信を間違って孝信と書いたなんてことはあるまい。
 法然院の公式サイトを観ると、「狩野光信筆の襖絵(重文・桃山時代)」と記載してあって、以前と変わりがない。

 そこで、京都の「財団法人京都文化財保存協会」に問合せをした。ご親切に回答をいただいて、その要旨はこのブログに下記のように記載したとおりである。
 http://datey.blogspot.jp/2016/10/1220.html
 今回の変更は、要するに孝信作の仁和寺にある松の絵と比較して、絵の一部が酷似していたので、光信よりも孝信筆が妥当性が高いとしたらしい。
 さて、そのいただいた回答の内容は、それなりに理解したが、わたしの疑問が根本的に解決するには、かなり遠いものであった。美術史の門外漢素人には、ますます興味が湧いてくるのである。

 わたしの疑問点は要するに、この建物は1675年にできた後西院御所にあった姫宮御殿を、1687年に移築してきたものであり、その襖絵の画家とする狩野光信(1608年没)も孝信(1618年没)も、その建物ができたときはこの世にいなかったので、襖絵を描くことはできない、ということである。
 では誰の筆なのかについては、わたしたち(当時の東京工大藤岡通夫研究室)の研究では、当時の御所造営の資料から狩野時信(1678年没)であったろうと推定したのである。
 ここまでの話の詳細は、こちらを参照。
http://datey.blogspot.jp/2016/10/1218.html
http://datey.blogspot.jp/2016/10/1220.html
https://sites.google.com/site/matimorig2x/hounen-in
後西上皇姫宮御殿にあった頃の襖絵(推定復元)


●方丈襖絵と方丈建築は出自が別々かもしれない

 上記の推定は、方丈の襖絵が1675年の上皇御所姫宮御殿造営時に描かれており、方丈への移築時にその襖絵も共に法然院にやってきたという前提である。つまり建築と襖絵は同じ出自であるとしたのだ。
 とすると光信も孝信もありえないのだが、これを、仮に光信あるいは孝信筆が正しいとしたら、どう考えるか思考試験をやってみる。

 そうなると上皇御所姫宮御殿にその襖絵はあったはずはないから、遅くとも孝信が没した1618年までには、別のところで、描かれていたことになる。
 別のところとは、どこであろうか。
 法然院がいうように「もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿(1595年(文禄4)建築)を移建」の意味を、「もと伏見城にあった御殿(1595年(文禄4)建築)の襖絵を移設」と解釈すればどうだろうか。

 これならば、光信も孝信も年代的には可能性はあるだろう。つまり、方丈の建物の出自は後西院姫宮御殿(1675年)であり、襖絵の出自は伏見城の御殿(1595年)とするのである。
 その1595年の伏見城とは、秀吉が作った指月伏見城のことであろう。だが、完成直後1597年に慶長地震で倒壊してしまい、木幡山伏見城に移転したのであった。
 ということは、この倒壊したときに当該襖絵は無事であって、木幡山に移して再利用され、更に木幡山城の廃城でまたどこかに移設され、1687年に方丈にやってきたのだろうか。

 あるいはまた、1597年伏見城倒壊から1687年方丈移築時まで90年もの間、その襖絵は襖からはがされてた捲り状態で、どこかで誰かに保存されてきていたのかもしれない。
 そして、移築時あるいは移築後に、法然院に寄付され、今の襖絵のように貼り付けて仕立てたのかもしれない。
 それはいつ、だれが、どのような経緯だろうか。

●更なる疑問のかずかず

 このように考えていると、更にいくつもの疑問が出てくる。
 姫宮御殿を法然院方丈に移築してきたときには、それには襖絵があったはずだ。そのオリジナル襖絵は、いったいどこに行ったのだろうか。廃棄したのか。
 御所からの拝領した方丈の襖絵を廃棄することは考えにくいから、どこかに移されたのかもしれない。それはどこなのか。

 狩野派はスクールだから、画家たちは先人たちの絵を真似て画風を伝えていくので、絵に落款とか署名がないと、本当の筆者を特定するのは難しいものらしい。
 今になって光信から孝信へと変わったようだが、それにしても、長い間(もしかして移築の1687年から420年も)の伝承による画家の変更を、法然院はよく認めたものである。いや、実は法然院はその公式サイトの記述の変更がないから、認めていなのかもれない。研究者たちの間だけの変更かもしれない。
 美術骨董品として観るなら、光信も孝信も狩野派では、ほぼ同時代の有力な位置にあるから、絵の価値に大差はないのだろうか。

●狩野派系図

しかし、これがもしも無名の筆者であると分ると、たちまち骨董価値下落になるのだろうか。わたしのいう時信説では、桃山時代の光信や孝信に比べると、時代が江戸時代に下がるから、骨董価値も下がるのだろうか。そうなれば法然院としては認めがたいことだろう。
 ところで、研究者たちは時信の代表作など多くの作品とも比較研究した人がいるのだろうか。孝信説を出すなら、時信説の合理的な否定をしてほしいものである。
 あるいはまた、法然院にあるかもしれない方丈建築の御所からの拝領移築に関する古文書類の研究が進んで、それによって孝信説になったのだろうか。
 
 わたしは研究者でもなし、まったくの門外漢の素人だから、ただただ勝手に面白がっているだけである。

参照・京の名刹 法然院の謎ー建築と襖絵の出自を探る(2015)
https://sites.google.com/site/matimorig2x/hounen-in

2016/10/07

1220【続・法然院方丈襖絵事件】法然院の襖絵画家は狩野光信からなぜ孝信に変ったか、はたまた時信か謎は深まる

 

 このブログの1218【秋の京都文化財特別公開で、その特別公開案内サイトに、法然院の襖絵の作者が狩野孝信と書いてあるので、光信から孝信に変更になったらしいことを書いた。
 ふと思い付いて、その秋の非公開文化財特別公開事業の主催者である(財)京都文化財保存協会に、メールを出して変更になっている事情を質問してみたら、ご親切に丁寧な返事をいただいた(2016/10/05)。

 わたしから質問はこうである。

 2016年秋の非公開文化財特別公開事業の一覧の中で、法然院方丈の重要文化財襖絵の画家を「狩野孝信」と記してあります。しかし、これはこれまでは狩野光信とされていましたし、法然院のウェブサイトにもそのように載っています。
 孝信の記述は誤記でしょうか、それとも光信から孝信に変更された事情があるのでしょうか、お尋ねいたします。(以上)

 これに対して、いただいた回答の要旨を紹介する。

 法然院方丈の重要文化財の襖絵の作者は、従来は狩野光信筆にとされてきていたが、近年の研究で狩野孝信の作とする学説が出てきた。
 そして2015年に京都国立博物館での「桃山時代の狩野派―永徳の後継者たち―」展覧会に出展した際に、作風から孝信である可能性が高いと判断され、狩野孝信筆として展示された。
 そこで京都文化財保存協会は法然院と協議した上で、従来の光信筆から孝信筆へ変更することにして、今回の特別公開においても、狩野孝信筆と表記した。
 狩野孝信筆となった根拠については、当該展覧会に図録「桃山時代の狩野派―永徳の後継者たち―」の作品解説に記載がある。(以上)

 京都国立博物館での展示を機会に、専門家による鑑定が光信筆から孝信筆に変ったらしく、それは法然院も承知しているようである。
 面白いなあ、絵画専門家による鑑定で、作者が光信から孝信に今になってどうして変わったのか、新事実の出現に興味津々である。その上、わたしの56年前の説では時信である。
方丈襖絵桐図(1960年撮影:平井聖)
法然院方丈として移築前の後西院御所姫宮御殿では
Eの位置に柱が立っており、桐図の襖はEF間の1.25間幅だった

 襖絵ができてから法然院説では421年、わたしの建築考証では341年であるが、この80年の差を、科学的な分析技術で判定できる方法があるといいなあ。
とりあえず、その図録を図書館で探さねばなるまい。これはまたディレッタントヒマ老人のまことに文化的なヒマつぶしになるのである。

図録
唐人物図屏風 狩野孝信筆 2曲1隻 1613 仁和寺

2016/10/06

1219【くたばれ乗用車】そこのけそこのけお車様だぞ、目が悪い奴は気をつけろ~、なんて威張る自動車屋はくたばれ~

 今朝の新聞に、電気自動車に人間に近づいたら、「おい、そこの歩いてるやつ、注意せ~よっ」って警告音を出すように、義務付けするってニュースが乗っている。
 「ドケ、ドケ~、轢かれてもしらねーぞッ」っと怒鳴るのを、義務付けるのだそうである。なんというバカなことをさせるんだよ、根本が間違ってるぞ。

 歩行者のすぐ脇を電気自動車がいきなり脇を通過するとアブナイのだそうだ。
 あのなあ、その責任は、「すぐ脇を通過する」側にある。あんな鉄の箱が「すぐ脇を通過すること」がそもそもいけないのである。
 「すぐ脇を通過される側」が注意するべき義務も責任も無いぞ。
 トラックがバックして来る時、「バックします、注意してください」って、機械女の声がするが、バカヤロ、そっちが注意するべきだろッ。
 
 それをなんだよ、乗用車がすぐそばを通過するときに、警告音を出して注意してやるんだというのである。聴覚障害者を引き合いに出して、いかにも福祉のためぶるなよ。
 おためごかし
 要する、「ドケドケッ」って言うのでしょ、思いあがっちゃいけないよ、自動車業界さんよ。

 自動車の及ぼす公害は数々あるが、その中で大気汚染問題が電気自動車で解決するってのは嘘っぱちだが、騒音が解決するのは本当だから喜んでいたが、なんとまあ、こういうことでやっぱりわざわざ騒音を出すのか。
 騒音公害は続くのか~、ガッカリ。

 やるべき義務付けは、こうでしょ。
①電気自動車に限らず自動車の走行は、歩行者から2m以上離れなければならない。
②歩行者から2m以下の範囲で走行するときの速度は、当該歩行者の速度を超えてはならない。

 それを警告音でドケドケッなんて言わせるって、どこまでバカで威張ってるんだ、自動車屋は、。
 警告音を出していたのに轢いてしまったら免責されようなんて考えるんだろうけど、そりゃ穢いぞ。
 あのなあ、障害者が近づきすぎて危ないと思ったら、運転してるひとが窓を開けて、「恐縮ですが、通して下さい」って、口でお願いするもんでしょ。

 近ごろ、乗用車のデザインが日に日に悪相になって、「オラオラぼやぼや歩くんじゃねえぞ、ドケドケ~ッ」って顔になっていると思ったら、自動車屋の本性もそうであったか、この威張り様は日本帝国軍なみで、困ったもんだ。

 思い出せば、この警告音義務化という歩行者への責任転嫁は、かつての横断歩道橋による交通対策と同じだなあ。昔、「横断歩道橋は素晴らしい」、なんてエッセイを書いたことがある。
https://sites.google.com/site/machimorig0/hodokyo

参照:http://datey.blogspot.jp/2009/08/161.html

2016/10/04

1218【法然院方丈襖絵事件】おや法然院の重文襖絵作者が狩野光信から孝信に変ったらしいがそれでもおかしいなあ

 春と秋の京都では、いつもは非公開の文化財を短期間だけ一斉に公開する行事がある。
 わたしには、観に行きたい懐かしい文化財がある。法然院の重要文化財の襖絵である。
 大学時代の卒業研究材料の一部であり、現地でしっかりと若いこの目で、建築を測り襖絵を鑑賞したのであった。

御西院御所八百姫御殿を法然院方丈へ移築したときに
柱位置を変更して襖絵を一部書き替えているので画像復元してみた

●襖絵の画家の名前が違ってるぞ

  今日の新聞にこの秋の特別公開の広告が載っている。法然院もあるかと見れば、あるにはあったが、気になる記述があるのだ。
 法然院の公開文化財を、「狩野孝信襖絵 重」と書いてあるのだ。「重」とは重要文化財のことであろうが、「狩野孝信」とあるのが引っ掛かる。
 たしかに法然院には重要文化財の襖絵があるが、それは「狩野光信」作として指定されているのだ。それがどうして孝信なのだろうか

 法然院公式サイトに、襖絵のある方丈の解説にこう書いている。
1687年(貞亨4)に、もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿[1595年(文禄4)建築]を移建したものである。狩野信筆の襖絵(重文・桃山時代)と堂本印象筆の襖絵(1971年作)が納められている[夏期は収蔵庫に保管]。」http://www.honen-in.jp/HONEN-IN-001.html#B

 法然院には重文襖絵はこれしかないから、新聞広告の「狩野孝信襖絵」とは、誤記だろうか。
 さっそくネット検索をして、今年の公開に関する新聞社の記事を見つけたら、ここには狩野孝信と書いてある。
http://www.asahi.com/and_travel/articles/SDI2016090262661.html
法然院 11/1(火)~11/7(月)の公開
 金地著色「桐に竹図」・「若松図」・「槙に海棠図」、狩野信筆襖絵
 後西天皇の皇女誠子内親王の御座所を下賜され移築した方丈の上之間、次之間に広がって描かれ、この桃山時代の絵があることから「桃山の間」とも呼ばれる。
 
 昨年秋の公開に行った人が書いたブログページがあった。なかなか興味あることが書いてあるので引用する。
http://blog.livedoor.jp/enjoy_kyotokentei/tag/%E6%B3%95%E7%84%B6%E9%99%A2
2015年11月12日00:16【オフ会報告】京都検定で非公開文化財を楽しむ会(法然院編)
 この作者は狩野光信とパンフレットには記載されていましたが、説明員の方の話では狩野信の作と説明されていました。狩野光信は狩野永徳の長男。 狩野孝信は狩野永徳の次男で、狩野探幽の父に当たります。 
 なんでも、一度光信作とされていた法然院の別絵画を国立美術館に貸し出したところ、これは孝信の作品である、と鑑定されたそうで、それであれば同じ作調のこの襖絵も狩野孝信の作であろう、という認識に変わってきた、とのことでした。 そうでしたか~。

●狩野光信も孝信もどっちも怪しいぞ
 
 さて、狩野孝信とは、いつの人だろうかとWIKIをみれば、1571年生れ、1618年没だそうである。ふむ、法然院サイトが書くように、桃山時代に活躍したのであるな。狩野永徳の次男で、光信の弟、探幽の父である。
 ところが、せっかく狩野光信に替わって登場したこの孝信も、わたしの建築歴史考証によると、かなり怪しいのである。

 ここでは要点だけを記すが、わたしの建築史調査研究からの考証では、法然院サイトの(襖絵のある方丈は)「もと伏見にあった後西天皇の皇女の御殿[1595年(文禄4)建築]を移建したものである」の記述は、かなり髙い確率で間違いであり、実は江戸時代の1675年の建築である。
 御西院上皇の御所として1675年に新築した中の皇女八百姫の御殿であったものを、後に法然院に移築して方丈に造り直したのであるから、1595年の建築ではないのである。

 「もと伏見にあった」とは秀吉が築城した伏見城のことだが、そこは地震で倒れて別のところに城を建て直し、江戸時代に入って廃城になり建物をあちこちに移転したうちのひとつがこの方丈という意味らしい。
 とすれば方丈になる建物は、震災、建て直し、廃城、移転の4度の大波を潜り抜けて、京都の上皇御所の姫御殿に移築されて生き残ったことになる。
 しかも、その上皇の御所は一度は火災で丸焼けになり、1675年に新たに建てたのである。とすれば、この火災も潜り抜けて後に法然院に移築して今に至るという、まことにもって何回もの災難を潜り抜けた稀有な奇跡の生き残り建築になるのである。ありうるだろうか。
 法然院の言う1595年建築説には、なんともはや無理がある。

 したがって、この襖絵ができたのも1675年だから、1618年に没した孝信はもうこの世にいないのである。そして狩野光信も1608年に没しているから、光信も孝信もこの襖絵を描くことは不可能だ。
 絵の考証をわたしにはできないが、建築考証からすると襖絵を光信作とするのも孝信作とするのも、なんとも無理過ぎるのである。
 まさか1675年の上皇御所の造営に、法然院のサイトがいうように80年も前の古建物と古襖絵(1595年に秀吉がつくった伏見城の遺構)をもってくるなんて、造営スポンサーの江戸幕府が常識はずれなことをしたはずもない。

 というわけで、法然院の襖絵の謎は、いまだに明快に解けないのである。だからといって、公開日に合わせて現物を観に行っても、わたしの絵を見る眼力では見破れないしなあ。
 まあ、素人の楽しみとしては、謎がず~っとと謎のまま続くといいなあ。
 詳しい考証をお読みになりたいなら、こちらをどうぞ。
https://sites.google.com/site/matimorig2x/hounen-in

◆続報を参照 1220【秋の京都文化財特別公開:続報】

◆まちもり通信の参照ページ
遺構による近世公家住宅の研究(大学卒業研究論文1960)
   東京工業大学理工学部卒業研究の生まれて初めての論文
   上記研究の一部を日本建築学会に論文発表(1961)
京の名刹 法然院の謎ー建築と襖絵の出自を探る2015)
   上記論文の一部のドキュメンタリー風エッセイ



2016/10/03

1217【豊洲新市場騒ぎ】できあがるまで当事者たちの誰もが建築現場を見なかったらしいお粗末などの疑問と不思議

 東京都の住民ではないからどうでもいいのだけど、ヒマだし面白いから勝手に口を出す。
 そういえば、新国立競技場も関係ないけど(納税者として少しは関係あるが)、勝手に口を出したなあ。

●不思議その1:関係者の誰もが現場を見なかったとは

  例の東京都豊洲新市場で、建築に地下空間があったことを知り、そこには盛土がないと新発見した新知事が騒ぎ、尻馬マスコミの尻馬に乗って、当事者たちも知らなかったと言う「だれも現場を見ていなかった新市場事件」である。
 わたしには、どうしても不思議なのである。今になって建物の地下に盛土がなかったって、だれもかれもが騒いでいるけど、これまで誰ひとり新市場の現場を誰も見てなかったのかしら。
 敷地に盛土したって、それを掘って地下室をつくれば盛土はなくなるって、小学生でもわかる常識である。だから地下空間つくるところは盛土しなかったろうね、盛り土してまた掘りだすなんて、超ばかばかしいから。

 こんなでかい地下空間(配管ピットらしいが)があることを誰も知らなかったということは、建設中にだれも現場を見に行かなかったんですな。
 昨日今日できた地下空間じゃなくて、1年以上も前から土を掘って建設作業してたんでしょ、現場を見りゃ盛土がないって小学生でもわかるでしょ。 
 新市場用地に盛土するって決めたナントカ委員会の先生たちも、そうせよと言っただけで、現場を見て盛土したことを確認してないという、無責任な人たちなんですね。

 都議会議員たちも、この東京都が行うビッグプロジェクトの視察を、一度もしなかったんですね。
 もちろん都知事も見てないだろうし、それどころか市場長さえも現場を見ていないという、摩訶不思議なことなのである。
 そしてまた、新市場に入って仕事する市場の業者たちも、自分たちの移転先の建物を一度も見なかったんでしょうね、見てれば今になって騒ぐのじゃなくてもっと前に騒いだはずだもんねえ。
 まあ、マスコミ連中が現場を見て、こんどのようなことに事前に気が付くほど利口じゃないから、そっちはどうでもよろしい。

●不思議その2:最も事情通のはずの建築家が沈黙とは

 この騒ぎでいろいろ言っている人たちがたくさんいるらしいが、こういう場合にいちばん事情を知っているのは、その計画と設計に関わった人たちである。
 このような公共ビッグプロジェクトの場合は、基本構想、基本計画、実施計画、基本設計、実施設計と、順番を追って詳しい設計内容をつくって行き、どの段階にも各種の専門家が関わる。その専門家たちは、ほとんどが行政の外部にいて、業務として彼らに委託する。

 最後は建築物になるのだから、多くの専門家のなかでも建築設計に関わる技術者、つまり建築家がもっともよく事情を理解しているはずである。
 なかには最初から最後まで関わっていて、ヌシのような専門家がいることもある。このことはわたしは体験的に知っている。
 もちろん行政側の技術者もいるが、それらは2年ほどで定期異動するから、いちばんよく事情が分るものは、担当する民間の専門家である。

 さて、ここでは誰が計画設計をしたのか。新聞によれば設計は日建設計だそうである。日建設計と言えば、例の白紙撤回される直前まで新国立競技場の設計に携わっていた、日本では規模がトップの都市計画や建築設計の組織(住友系)だ。
 計画段階がだれであるかの報道は無いが、ネットを探したら、みずほ総研がソフト的な部門、ハードの土木は日本工営、建築は佐藤総合計画とするページがあった。他にもいるかもしれない。
 
 だからここで問題になっている事情を、日建設計がもっともよく知っているはずである。でも、日建設計に関する報道はないし、日建設計からの説明もわたしは知らない。
 そこで思い出すのは、新国立競技場問題であり、あのときも設計がほぼできたところで、首相から白紙撤回されるなんて、建築家としては超屈辱的なことをされても、日建設計は黙りこくったままであった。

何も悪いことをしているのではあるまいに、黙りこくったままとは、マスコミが取材に行かないのか、取材完全拒否か、それとも発注者との契約に問題には沈黙せよと記されているのだろうか。
 建築家とは、そんな程度の社会的な位置づけにある職能なのだろうか。ここのところが、新国立競技場でもそうだったが、なんとも不思議なのである。

 それにつけても、新国立競技場で日建設計と共に屈辱を味わった梓設計が、やり直しコンペにゼネコンと組んで参加して、平然とまた違う設計で復帰していると言う、はたから見るとなんとも節操のない様子だから、まあ、建築家ってそんなもんだろう。


2016/10/02

1216【平塚初訪問:半端な歴史文化景観軸】八幡宮表参道が鳥居前で突然ブチ切れて門前払いを食らってビックリ


2016年の平塚八幡宮

 あれっ、神社直前で参道が突然に途切れた、こんなことっていいのかい?
 平塚市美術館で旧友が絵画展に出品するとて、鑑賞にでかけた。行ったことのない都市だから、事前にネットでその場所を調べたら、平塚駅から北にまっすぐに平塚八幡宮への参道を登っていくと、八幡宮の裏あたりにあるらしいと分かった。

 ふむ、なかなか歴史的な街の構造を維持しているんだな、駅から神社までの長い参道は、歴史的な門前町の賑やかな商店街なんだろうなあ、大昔は海まで参道がつづいていて神輿が海に入るなんてあったかもなあ、なんて想像しながら出かけた。
 見事に外れた。駅からわずかな区間が商店街だったが、あとは芸もないただの街だった。
突き当りに平塚八幡宮の鳥居と森が見える大門通り(表参道)
それでも昔は賑やかだったのだろうなあと、想像を逞しくしながら歩く。
 参道の突き当りには、朱塗りの鳥居とその背後に緑濃い社叢林が待ち構えていて、見事に街のランドマークを形成している。
 初めて訪ねる美術館は、あの裏あたりだなと、迷わずに進むことができる。街並み景観はともかくとしても、景観構造としてはなかなかよろしい。

 やがて鳥居が近づいてきたが、その手前の道の真ん中に、何やら黄色い看板が立っている。
 「横断 禁止」、エ~ッ、ここまで参道を真直ぐにやってきたのに、鳥居の直前で参道がブチ切れなのかい、そりゃないでしょ、右に50mほど迂回して交差点からまわれというのかい、しかもそこは横断歩道橋しかないのだから、こりゃひどいよ。
ウワッ、横断禁止とは、、、参道が途切れて門前払い
この酷い道は、国道(酷道か)1号である。できたのは戦後だけど、平塚八幡宮よりも偉いらしい。
 わたしは宗教にまったく関心がないが、ここは歴史的に先に存在していた平塚八幡宮に礼を尽くして、参道を優先してせめて横断歩道を設けるべきでしょ。
 歴史的景観とは、みた目だけじゃなくて、その景観構造の中での人間の歴史的行動の継承にもあるのだと気が付いたのであった。
 神社参拝する気はないが、ここまで平塚のランドマークを目指して歩いてきたのに、とつぜん文字通りの門前払いとはねえ。
国道を横断して境内に入り振り返って参道を見る
今、ネット検索していたら、こんなことが書いてある。どうやら元旦の初詣の時は、特別にここに警官が立って手信号で横断できるらしい。http://www.hiratsuka-daimon.net/
×のところで参道ブチ切れ

「表参道が復活します」平成28年元日も平塚警察署からご協力(警察官の手信号)頂き、国道1号線を横断できることとなり平塚八幡宮と大門通りが昔の姿を取り戻します。
 1300有余年の歴史を誇る平塚八幡宮、初詣には毎年およそ2万5000人の参拝者が訪れます。しかし国道1号線の整備により八幡宮と表参道である大門通りを分断されてから、鳥居を仰ぎながらの参拝ができませんでした。
 8年程前から、大門通りの商店会である大門会では参道型商店街としての賑わいを復活させる為に様々なイベント活動などを行っています。また大門会は活動の目的の一つである「八幡宮と参道を繋ぐ横断歩道設置」の要望活動を平塚八幡宮、自治会と協力して行っています。」(12月 23rd, 2015 by hiratsukadaimon) 

 八幡宮の社叢林を抜けて、美術館を目指す道にでた。この道は八幡宮の裏参道にあたる位置にある。平塚美術館は立派な施設だった。その手前には平塚博物館もある。
 だが、それらを結ぶ裏参道は、博物館の裏と工場の脇を抜けるなんだか裏さびれた路地の様子であった。
 駅から八幡宮をへて美術館までは、八幡宮の表と裏の参道上に位置しているので、都市軸としてそれなりの景観形成がされているのかと思ったが、これも期待が外れた。
 これだけの文化資産がありながら、もったいないまちづくりである。
裏参道から美術館への道
八幡宮の隣りにある横浜ゴム記念館の洋風建築を見てきた。20世紀初めの、イギリス人の設計で海軍火薬廠にあったものを、戦後に火薬廠が横浜ゴムの工場となり、2004年に市の施設としてここに移築したのだそうだ。
 風通しの良い日陰を作るベランダコロニアル建築は、ヨーロッパ人が日本を熱帯風土と誤解して設計したのであった。北海道でさえもベランダをつくるありさまだった。それをまねした日本の大工たちが、あちこちでベランダと塔のある擬洋風建築を作った。
横浜ゴム記念館(1912年前後) 設計:カリー及びウィルソン
最初は日本化薬(㈱)の外国人宿舎として建設、後に海軍火薬廠の将校クラブ
1952年の平塚市街

2016/09/27

1215【首相所信表明演説】国会が警察力や軍事力に頼る危ないスタンディングオベイションのなかで「カニボコ」宣伝演説かよ

 昨日(2016年9月26日)、国会で総理大臣所信表明演説があり、中途で議員たちによるスタンディングオベイションがあったそうだ。
 演説の中で首相は、海上保安庁、警察、自衛隊の働きぶりに触れた後に、こういったらしい。「今この場から、心からの敬意を表そうではありませんか」
 こう呼びかけて自分で拍手を始めたので、これを受けた自民党議員らが起立して拍手を約20秒間続けたそうだ。

 ネットではいろいろとスズメが騒いでいて、アベサンへの賛辞ならば、こりゃすごい時代が来たなとかってあるが、それもあったのだろうとも思う。
 でも私が思うには、今、このように国会が警察力や軍事力に頼ることを、議場で称賛して表現しなければならないほどに、政治家たちの「政」を「治」める能力が劣化状況の時代なんだなあと、これはまことに空恐ろしい時勢であることを物語っているのだ。
 
 もうひとつ、所信表明演説に、面白いことがあった。カニボコ宣伝演説である。
 カニボコって、昔は軽蔑と感嘆の対象だったよなあ。これが出始めた40年ほど前の頃は、料理や弁当についてくると、みんな箸でつまみあげて、これって本物の蟹を食えない貧乏人のためのニセモノなんだな、それにしてもうまく作ったなあ、日本人はコピー芸術職人だよなあ、なんて話し合っていたものだ。

 カニカマともいう。蒲鉾の製法で、蟹の身とそっくりに作るのだ。原料は蟹じゃなくてタラらしい。蟹の身の形だから、本物の蒲鉾と違って、板についていない。
 偽物と軽蔑されていても、マーガリンや人造キャビアのように、時間が経つと本物と肩を並べるものがある。このカニボコが典型だろう。

 なにしろこの度の総理大臣所信表明演説で称賛されたのだから、これはもう、れっきとした政府お墨付きのニセモノ、いや、コピー食品となった。
 それにしても、コピー食品を国会で宣伝するとはねえ、どんな基準で首相はこれをとりあげたのだろうか、「100年前に誕生した1軒の蒲鉾店」とは、七尾のスギヨのことだろうか。

 今やコピー食品は、ニセモノじゃなくて堂々たる食材らしい。人造イクラもあるらしいし、お世話になっている発泡酒もそうかな。
 安い肉を薄く切って何枚か貼り付けてビフテキにもする整形肉ってのもあるらしい。まるでべニア板である。
 あ、そうだ、べニア板も昔は本物の板の代用品だったのが、いまやこちらが主流派になってしまった。

 まあ、将棋打ちがAIなんてニセモノにとってかわられる時代だから、なにが本物で、なにがニセモノかわからないよなあ、今じゃあ。
 人間もボケちまっても生きていられる世の中だから、ボケたわたしと今のわたしのどっちが本物かわからない。どっちも本物だというのは、明らかに欺瞞だ、ボケた俺は俺のニセモノだぞ。



2016/09/26

1214懐かしい味の小豆アイスバーとチキンラーメンに出会った夏が過ぎていった

 夏がとうとう過ぎ去った。この夏はついに冷房をしないで、アイスバーを舐めてしのいだぞ。
 夏をもしのぐ強力アイスバー、それは「井村屋小豆アイスバー」であった。いろいろな氷菓を試した末に、これがわたしの消夏材に落ち着いたのだ。朝昼晩と舐めた。
 これは昔のけっこう高かった小豆味のアイスキャンデーを思い出させて、懐かしい。

 この小豆バー6本入りの箱を、いろいろな店で何回も買っているうちに気が付いたが、値段が200円台から400円台まで、さまざまでずいぶん差があるのだ。
 暑くなるほど高くて、寒くなるほど安くなるのか?

 そういえば、箸に突き刺した竹輪状のアイスキャンデーは、今はどこで売っているのだろうか。
 昔々、自転車の後ろに乗せた木箱に入れて(参考写真)、チリンチりんとなる鐘の音と共に「キャンデー、キャンデー、アイスキャンデー」の売り声を、炎天下に響かせながら、道を売り歩いていたものだ。一本5円だったかしら、そのなかで小豆アイスは7円か10円だったかな。

 いつもは食品店なんて酒を買うしか用事はないのだが、このアイスバーを買うために他の売り場に出入りして、ひょいと見つけたのが「日清チキンラーメン」の袋である。
 ふむ、ふむ、聞いたこと見たことあるような、懐かしいような気がする、買った。

 ネットで調べると、安藤百福がチキンラーメンを世に出したのは、1958年8月25日とある。横浜にはチキンラーメン博物館がある。 
 とすると、わたしがインスタントラーメンを初めて食ったのは、1959年になるはずだ。
 それは大学山岳部の食料として合宿に持って行ったのである。多分、携帯食料として山行きに可能かどうか試したのであろう。
 日本アルプスでの合宿中のある日の夕食にそれを食った。その日は部員の誰かの誕生日だったので、特別食だった。美味かった記憶があるが、それ以後にチキンラーメンを合宿で食べた覚えがないのは、コストと携帯効率が不十分なものだったのだろう。

 その後もチキンラーメンを食った記憶はあるが、もうずっと昔に縁切りになって忘れていたのを、アイスバーを買った店で出会って思い出した。
 昨日のブランチに、それを料理?して食った。ふむ、この麺のワラワラとした姿、どこかワサワサする歯ごたえ、ちょっとゲスっぽい味、そうだったなあ、うん、うん、昔もこんな味だった、今も同じなのか、すごい。
 それは、とにもかくにも、不味かった、、だめだ、こりゃ、でも食い物のない時代に育ったので残さず食ってしまった、うーむ、マズイ口直しにアイスバー

2016/09/25

1213【新聞博物館:ニュースパーク】古新聞コピーパネルばかりで興味が湧かない面白くもない展示だったなあ

 ヒマなので勉強に出かけた。最近リニューアルした「新聞博物館」(ニュースパーク)である。 
 しかし、古新聞コピーのパネル展示ばかりで、実につまらなかった。古新聞を見るなら図書館に行けばよい。
 時節柄、オリピック競技という企画による古今の競技大会の新聞だったが、わたしはオリンピックにまったく興味ないから、どうもしょうがない。

 いろいろな賞を得た記事が麗麗しくパネルにしてあるのは、それはそれでよいのだが、逆に、報道における誤報という都合の悪いことは、全く扱っていないのには、なんとなく白けた感になった。また、戦争やテロ報道のような、難しくその態度も議論のあることも、展示の中にはなにも見えない。
 ようするに新聞ジャーナリズムの持つべき主張とか批評精神とかが見えないのが、つまらない原因だな。

 新聞写真で1枚だけ、わたしにはおぞましくも懐かしい展示があった。1960年10月12日、浅沼稲次郎暗殺現場写真である。
 このときわたしは大学生で、床屋で髪を刈ってもらっていた。たまたまTVで実況撮影したその場面が、繰り返し放送されて、おぞましい思いでそれを見ていた、強烈な記憶がある。

 この瞬間を撮ったカメラ記者には、「写真撮る前にカメラを投げつけて殺害を防ぐべきだった」と、非難の新聞投書がたくさんあったものだ。
 今ならネットでボロクソだろう。

 体験型展示は、オリジナル新聞つくりと、新聞記者になって取材ゴッコだそうで、どちらにもスタッフから誘われた。
 記者ゴッコはグループでやるらしいので、キムツカシイ年寄りには面倒なので遠慮した。

 オリジナル新聞つくりは、PCを使って製作するそうだ。できあがり見本を見せてくれたが、その中の写真(それも向うが用意するもの)と十数字のコメントだけがオリジナルで、そのほかはテンプレートのまま既製品だというのである。
 わたしが今日撮った写真を入れたいし、できればわたしの誕生日の新聞をつくりたいと言ったら、それはできませんという。つまらないから遠慮した。
 参加型ミュージアムの時代だが、参加するこちらが気難しくて参加しづらい。
ニュースパークサイトhttp://newspark.jp/newspark/