このブログの1218【秋の京都文化財特別公開】で、その特別公開案内サイトに、法然院の襖絵の作者が狩野孝信と書いてあるので、光信から孝信に変更になったらしいことを書いた。
ふと思い付いて、その秋の非公開文化財特別公開事業の主催者である(財)京都文化財保存協会に、メールを出して変更になっている事情を質問してみたら、ご親切に丁寧な返事をいただいた(2016/10/05)。
わたしから質問はこうである。
2016年秋の非公開文化財特別公開事業の一覧の中で、法然院方丈の重要文化財襖絵の画家を「狩野孝信」と記してあります。しかし、これはこれまでは狩野光信とされていましたし、法然院のウェブサイトにもそのように載っています。
孝信の記述は誤記でしょうか、それとも光信から孝信に変更された事情があるのでしょうか、お尋ねいたします。(以上)
これに対して、いただいた回答の要旨を紹介する。
法然院方丈の重要文化財の襖絵の作者は、従来は狩野光信筆にとされてきていたが、近年の研究で狩野孝信の作とする学説が出てきた。
そして2015年に京都国立博物館での「桃山時代の狩野派―永徳の後継者たち―」展覧会に出展した際に、作風から孝信である可能性が高いと判断され、狩野孝信筆として展示された。
そこで京都文化財保存協会は法然院と協議した上で、従来の光信筆から孝信筆へ変更することにして、今回の特別公開においても、狩野孝信筆と表記した。
狩野孝信筆となった根拠については、当該展覧会に図録「桃山時代の狩野派―永徳の後継者たち―」の作品解説に記載がある。(以上)
京都国立博物館での展示を機会に、専門家による鑑定が光信筆から孝信筆に変ったらしく、それは法然院も承知しているようである。
面白いなあ、絵画専門家による鑑定で、作者が光信から孝信に今になってどうして変わったのか、新事実の出現に興味津々である。その上、わたしの56年前の説では時信である。
方丈襖絵桐図(1960年撮影:平井聖) 法然院方丈として移築前の後西院御所姫宮御殿では Eの位置に柱が立っており、桐図の襖はEF間の1.25間幅だった |
襖絵ができてから法然院説では421年、わたしの建築考証では341年であるが、この80年の差を、科学的な分析技術で判定できる方法があるといいなあ。
図録 |
参照・京の名刹 法然院の謎ー建築と襖絵の出自を探る(2015)
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