2015/04/07

1077【未来が明るかった頃(4)】ひときわ異形の山口文象+RIA設計の建売モデル住宅は売れたか

未来が明るかった頃(3)」からつづく

 奈良盆地の西の端にできた新開発住宅地に、20戸の鉄筋コンクリート造りの建売分譲モデル住宅が建ったのは、戦後住宅難がまだまだ続く1956年11月のことだった。
 小さな木造住宅さえも手に入れにくい時代に、鉄筋コンクリート造の建売住宅である。コンクリの建物なんて、公共建築とか都心のビルにしか使われない頃だった。

 しかも、それらは全国から公募した設計とその審査員による設計だったから、よくある工務店の設計施工ではなく、建築家が設計したのであった。
 建売住宅をコンクリートで、しかも建築家が設計するということ、そして、それが住宅に関しては保守的な風土の関西においてのことだから、きわめて珍しいことだったろう。

 そこには、関西の私鉄では沿線住宅地開発事業者としては、最も後発であった近鉄の戦略があったのだろう。最新式の構造である鉄筋コンクリート住宅というのが、先行している関西私鉄住宅開発との違いを生み出したかったのだろう。
 なお、このコンクリート建売住宅は、住宅博覧会の期間中(1956年3月20日~5月7日)に建設売出しが間に合わなくて、博覧会が終わった11月初めに完成して売り出された。
 
コンクリート造建売モデル住宅展示場風景 右端に山口文象設計のカマボコ屋根住宅が見える
『楽しい生活と住宅博覧会』(1956朝日新聞社)より引用
建築専門雑誌の「新建築」(1957年2月号)にも、関西の住宅雑誌「新住宅」にもその掲載をしている。ここからは主として、その「新建築」の記事をもとにしながら書く。
 そのコンクリートモデル住宅の中で、最も先鋭的であったのは、公開公募設計競技で審査員であった池辺陽と山口文象(正確にはRIAだろうが)の設計によるものであった。

 池辺の設計によるモデル住宅は、見たところはシンプルな形である。
『楽しい生活と住宅博覧会』(1956朝日新聞社)より引用
『新建築』(1957.02新建築社)より引用
 池辺自身の解説(『新建築』1957年2月号62ページ)を一部引用する。
「この住宅の設計目標は、内部をできるだけ制約しない、コンクリートの箱を造ることであった。(中略)内部間仕切りは生活のシステム、家族構成によって、どうにでも取ることができよう」
 つまり、柱を外まわりにのみ立てて、大スパンを飛ばすためにPSコンクリートの梁をかけた構造である。がらんどうの中に、間仕切り壁が自由に立つのである。
 しかしがらんどうで売り出すわけにはいかないから、池辺流のプランになっているが、それでも間仕切りはかなりフレキシブルに動くようになっているらしい。

「このような住居が現在一般に考えられている建売住宅とかけ離れた考え方であることは明らかである。しかし私は鉄筋コンクリートという永久的な材料と展示会という問題、一軒だけを造るということ、(もしも数多く作る場合はもっと違った形になっていただろう)、などの条件から、このような住居をつくってみたのである。
 この住居は恐らく生活の単純化を要求するであろう。しかし同時に私はこの住居が、今までの住居では得られなかった新しい生活の多様化を可能にする、と考えている。そしてそれは住まい手の考えにかかっているのである。ここに造られたものは、その基本要素に過ぎないであろう」

 こうしてこの住宅の買い手は、ここで新たな暮らし方を発明して暮らすことを要求されている。
 だが、そのような先進的な生活像を描いて、高い買い物(1,508,400円)をすることができる買い手が、この建売住宅にはたして現れただろうか。

 もう一人の審査員建築家の山口文象による、というよりも山口文象が主宰していたRIA建築綜合研究所によるモデル建売住宅は、池辺よりももっと過激だった。池辺が一種の逃げをうっているのにたして、こちらは真正面から突っかかっていった。

 それはなんとカマボコ屋根が二つかかっているのであった。
 他のモデル住宅がほぼフラット屋根であるなかで、これは異形である。しかも、室内の天井も、この屋根に形のままに蒲鉾状になっている。
 わたしは住宅を論評することは不得手だから、図と写真を見ていただこう。
「楽しい生活と住宅博覧会」(1957朝日新聞社)より引用
『新建築』(1957.02新建築社)より引用
『新建築』(1957.02新建築社)より引用

『耐火不燃の新建築』(1957主婦の友社)より引用

『耐火不燃の新建築』(1957主婦の友社)より引用

『耐火不燃の新建築』(1957主婦の友社)より引用
『新建築』(1957.02新建築社)より引用

どうしてこのような外観あるいは構造を選んだのだろうか。これが山口が審査員講評で書いている「鉄筋コンクリート構造と小住宅の関係についての研究と突込み」の山口流の回答であろうか。
  1954年にRIAに参加した近藤正一が、後になって「当時RIAがはまっていたシリンドリカルシェル構造のゾーンプランの家であった(「疾風のごとく駆け抜けたRIAの住宅づくり」(RIA住宅の会 彰国社2013)と書いている。RIAは同じ1956年に、「日比野医院」という歯科医院兼住宅と、東京板金という工場をカマボコ屋根の設計をしているから、「はまっていた」のだろう。
 余談だが、当時はようやく撤退していきつつあったが、占領軍の基地があちこちにあって、その兵舎等の建物がカマボコ屋根で立ち並んでいた。

 RIAの三輪正弘が、「新建築」(1956年2月号)に、この建売住宅の解説を書いているので一部引用する。この設計担当は三輪だったのだろう。
 「コンクリート構造体をどうして住宅という空間のために成形させるかというテーマである。それはコンクリートの固いラーメンの中にもうひとつの木造を建てこんでいく習慣的方法から切り離すための手段に他ならない。連続した二つのシェルの断面の中にその建築的な答えを一応見ていただけると思う。」

 どうやら、ここでは池辺とは正反対に、コンクリート構造自体に内外の空間造形に意味を持たせているのであった。それはRIAが木造小住宅で、垂木構造による内外とも一致する造型を試みていたのと同様の思考であったのだろう。
 だが、建売住宅という不特定対象のこの商品を、この造型とその値段(1,267,300円)で買う人がいたのだろうか。

 「新建築」1956年2月号には、やはり審査員だった西山卯三が、「関西とモダンリビング 鉄筋コンクリートモデル住宅を見る」と題して、東の建築家による建売住宅と関西人の住宅感を対比して論評をしているのが面白い。
                    【未来が明るかった頃(4)】につづく)

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